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市川海老蔵と風俗取締政策 : 天保改革期を中心と して

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(1)

して

著者 木村 涼

出版者 法政大学史学会

雑誌名 法政史学

巻 63

ページ 1‑19

発行年 2005‑03‑24

URL http://doi.org/10.15002/00011507

(2)

天保改革期、幕府は、風俗取締政策の一環として芝居を弾圧する政策をとった。その芝居弾圧の象徴的な事例として、江戸歌舞伎役者五代目市川海老蔵の処断があった。天保一一一一年(一八四一一)六月一三日、海老蔵(五一一歳)は、南町奉行鳥居耀蔵から著侈の罪により江戸十里四方追放を申し渡される。もちろん、天保改革期、処罰を受けた役者は海老蔵の他にもいるが、その罰は手鎖や科料を科せられたというもので、江戸十里四方追放という重罰を科せられたのは、江戸歌舞伎界において海老蔵ただ一人であった。この五代目市川海老蔵の研究は、中山幹雄氏が、ほとん(1)ど手つかずの状態できていると指摘しているとおり、海老

市川海老蔵と風俗取締政策(木村)

市川海老蔵と風俗取締政策

はじめに l天保改革期を中心としてI

蔵中心の視点から天保改革期の風俗取締政策を取りあげた研究は無いに等しい。本稿では、海老蔵の視点に立って、海老蔵が江戸十里四方追放に至った過程を検討していきたい。第一節では、海老蔵の江戸歌舞伎界における位置を確認していく。第二節では、海老蔵の検挙は、海老蔵が出演した演Ⅱ.役柄と囚果関係が存在したのかどうか検討していく。さらに天保改革に対し、江戸歌舞伎界がどのような認識を持っていたのかを明確にしていきたい。第三節では、海老蔵の著侈の実態を明らかにし、江戸十里四方追放の要因を箸侈禁止令と照合しながら考察してい

く。

木 村

一脈

(3)

l海老蔵の事績本節では、海老蔵の江戸歌舞伎界における位置を確認していく。天保三年(一八一一三)一一一月、七代目団十郎は、五代目海老蔵と改名するとともに自分の息子に八代目団十郎を襲名させた。海老蔵改名時から天保一三年六月、追放されるまでの海老蔵の給金や役柄などを分析して、役者としての位置を確認していく。また、海老蔵を歌舞伎界や観客がどのように評価していたのかを役者評判記から考察していきたい。まず五代目海老蔵の略歴を簡単に述べていきたい。五代目海老蔵は寛政三年(一七九二四月、五代目市川団十郎の孫(六代目団十郎の甥)として誕生した。寛政六年二七九四)八月、市村座において初舞台、「神霊矢口渡」で新田徳寿丸を演じ、市川新之助と名乗った。寛政一おひしげるなみのうねく一一年(一八○○)一一月、市村座「生茂浪溶渦」の般若五郎役で、七代目市川団十郎を一○歳で襲名した。天保三年(一八一一三)一一一月、四一一歳で長男に八代目団十郎を譲り五代目市川海老蔵と改名した。この時、海老蔵は「勧進帳」を創案するとともに「歌舞伎十八番」を制定し、市川 法政史学第六十三号

海老蔵と江戸歌舞伎界

2給金と役柄はじめに、海老蔵の江戸歌舞伎界における位置を給金の面から検討していく。寛政六年(一七九四)一○月、三座座元・役者・’一一座掛り名主の合議により「狂言座取締方議定証文之事」が作成され、役者の一年分の給金の最高額を(3)五百両と制限した。しかし、役者の給金は高騰箸しく、文化一二年(一八一五)には、五代目海老蔵(当時七代目団十郎)の給金は千両にまでなっていた。他にも千両を得ていた役者として、一一一代目中村歌右衛門、五代目松本幸四郎、一一一代目坂東三津五郎、五代目岩井半四郎、二代目助高屋高助、二代目嵐吉三郎等があげられる。よって、寛政六年一○月の規定は有名無実なものとなっていたといえる。そこで文政一一年(一八二八)一○月、再び一一一座座元・役者・三座掛り名主が合議をし、「一一一座申合規定証文之事」 の家芸の伝承に力を尽くした。海老蔵は、文化・文政・天保と四○余年の長期にわたって、江戸歌舞伎を代表する役(2)者であった。この五代目海老蔵の江戸歌舞伎界においての位置や評判を明確にしていきたい。 一一

(4)

かんじんちよ;なるかみすけろくや「歌舞伎十八番」とは、「勧進帳」「鳴神」「助六」「矢のねけぬきしばらくうわなりかげきよかん、うういろううりふど』7根」「毛抜」「暫」「蝋」「景清」「関羽」「外郎一元」「不動」かまひげぞうひきななめんげだつじゃやなぎおしもどし「鎌髭」「象引」「七つ面」「解脱」「蛇柳」「押一民」ふわ「不破」の十八の演目をいう。「歌舞伎十八番」はみな、 制定している。 (4)を作成し、役者の給金の上限を再度五百両とした。1しかし、五代目海老蔵(当時七代目団十郎)は給金として五百両、他に外余(衣装代等の名目)として二百両、あわせて七百両を得ていた。給金の上限が五百両というのは、名目上の制限であり、他にも、中村芝翫、岩井紫若、一一一代目坂東三津五郎が実質七百両の給金であった。雇っている座元の逼迫状態は天保改革まで持続した。海老蔵は、給金の他、晶眉の祝儀・贈答品等を加えると(5)実質は千両以上の収入を得ておmリ、江戸歌舞伎界において最高給金を得ている歌舞伎役者の一人であったことが確認できた。次に、最高給金を得ていた海老蔵が、改名以後、出演演目において担った役柄について次頁の「市川海老蔵の演劇活動略年表」からみていく。これによれば、海老蔵は、天保一一一年(一八一一一一一)三月、四二歳で海老蔵改名をすると同時に、「歌舞伎十八番」を

市川海老蔵と風俗取締政策(木村) 3役者評判記にみる海老蔵役者評判記とは、立役・敵役・女形を中心に、歌舞伎役者の芸評を記した書である。同書は、貞享四年(一六八七)正月刊の「野良立役舞台大鏡』に始まり、元禄一二年 荒事の芸、祝祭の芸、悪霊鎮めの芸であり、神霊事が中心の芸であった。天保一一一一年(一八四一一)六月一三日に五一一歳で江戸追放されるまで、海老蔵は歌舞伎十八番の内、「暫」以外の「助六」「矢の根」「鳴神」「勧進帳」「景清」では主役を勤めている。海老蔵の「歌舞伎十八番」の上演は、観客に荒事の芸をはじめ、市川家の芸を浸透させていったものである。海老蔵は、「歌舞伎十八番」以外の演目においてもほとんど主役を演じており、歌舞伎界・民衆双方から主役を任せられる実力と人気を認められていたといえる。天保一二年(一八四二五月に天保改革が始まったとき、海老蔵は五一歳で人気・実力を兼ね備えた円熟期にあり、江戸の歌舞伎界においては、給金・役柄からみても役者としての位置は最高峰であった。そういった海老蔵を、当時の江戸歌舞伎界や民衆がどのように評価していたのか、役者評判記から検討していく。

一一一

(5)

市川海老蔵の演劇活動略年表

法政史学第六十三号

切園掴A印/凸。『 肋Ⅲ『易墜因r』登

関門今呼ば‐四目 叩附何冒 且当[

天保7(1836)2月 森田座、「菅原流国字曽我」源蔵是を由良之助、鬼王新左衛門、下男三助、狸 角兵衛、船頭伊豆の次郎実ハ久上ぜんじ、松王丸、力[1古)||本蔵、近江藤太、

覚寿、おいし、曽我満江、判官代、石堂、秩父重忠、天拝山丞相、大鷲文吾、

悪七兵衛景清、丞相木像、桃井若狭之助、不動の霊像、「兜軍記」岩永左衛門 天保3(1832)3月

4月

11月

七代目市)||団十郎、五代目市)||海老蔵と改名。市)||海老蔵、八代目市川団十 郎を10歳で襲名。市)||海老蔵、歌舞伎十八番を制定

市村座、「隅田)||花御所染」猿鴫惣太、岩藤、松若 市jll流寿十八番の内「助六由縁江戸桜」花川戸助六 市村座、「ひらかな盛衰記」平次、松右衛門 寿狂百十八番の内「矢の根五郎」曽我五郎

「矢口渡」由良兵庫、頓兵衛、「鎌倉三代記」藤三郎

河原崎座、「頼有御攝網」大葦原親王、写平公、蝦さこの十実ハ渡辺網、足柄 山の山姥、回国修行者幡龍実ハ将軍太郎、成田山講頭本町丸綱五郎、丹波国 真壁太郎

大切、浄瑠璃「色升哉時雨大和」山姥今年顔見世、三座一の大出来大当たり 天保4(1833)正月

3月

5月 7月

8月 9月 11月

河原崎座、「富士扇三升曽我」蒲冠者、八幡三郎実ハ赤澤十内、悪七兵衛景清

「其往呰恋江戸染」士左衛門伝吉

大切、浄瑠璃「新媛雛の世話事」士左衛門伝吉

河原崎座、「仮名手本忠臣蔵」桃井若狭之助、中間直助、権兵衛、植木屋杢右 衛門実ハ竹森喜太八、寺岡平右衛門、天)||屋利兵衛、早野勘平、大星由良之 助、四段目の裏、浄瑠璃「旅路の花聟」早野勘平

河原崎座、「玉藻前御園公服」木幡左衛門、田熊左衛門、沙門達花坊実ハ鳥羽 帝、「新兵衛菖蒲帷子」出村新兵衛幼名鵜飼九十郎

15日より、市村座、「夏祭」団七九郎兵衛 16日より、河原崎座、「妹背山婦女庭訓」鷲尾三郎

27日より、中村座、「一ノ谷徽軍記」、「布引瀧」中村芝翫と1日替わりで、

七兵衛景清、源義経、斉藤実盛、百姓九郎助、冠十郎 市村座、「仮名手本忠臣蔵」天)'1屋利兵衛

河原崎座、「竹春吉原雀」仁木弾正、足利頼兼、土手の道哲、絹)||谷蔵、百姓 与右衛門、弾正妹八汐、細)'1勝元

市村座、「恋入封弓取」悪源太、遠藤武者、瀬尾十郎 天保5(1834)正月

3月 5月

市村座、「三幅対書始曽我」曽我箱王丸、箱根の閉坊、出村町の出村新兵衛、

京の次郎景清、浄瑠璃、清元延寿太夫連中「初霞浅間嶽」京次郎 大切「姫小松子日遊」岩実有王丸

151] 大坂、中村鶴之助座(角座)、「五山桐」久吉、高景

「二代鑑」秋津鴫、「追善浅澤紫」小寺十内

17日 大坂、角座、中村鶴之助座、「鳴神桜」鳴神上人

「鎌倉三代記」三浦義村、「夏祭浪花鑑」一寸徳兵衛 海老蔵、これより下関に下る。12月は長崎興行 天保6(1835)8月

11月

市村座、「仮名手本忠臣蔵」桃井若狭之助、勝間宅兵衛実ハ寺岡平右衛門、天 )||屋義平、加古)||本蔵、木場受負人材木屋七兵衛、斧定九郎、早野勘平、大 星由良之助

13日より、中村座、「菅原伝授手習鑑」梅王メL、覚寿、武部源蔵

「積恋雪関扉」関守閲兵衛

23日より、市村座、「雪桜詠千本」吉野の強力横)||覚範実ハ教経、野ふせり椎 の木善太、弁慶実ハ不動の化身回国修行巍山実ハ悪七兵衛景清、隈取安宅松、

常磐津小文字太夫等「磯衛浪渦巻」野ふせり善太、安宅の弁慶

(6)

1J灘i溌陥姫Ⅲ

市川海老蔵と風俗取締政策(木村

天保8(1837)正月 市村座、「劇場花根元曽我」非人地獄情右衛門実ハ閉坊、回国修行者蟠龍実ハ 悪七兵衛景清、所作事、長唄離子連中「廓春情恋の種薪」六部、悪七兵衛景清

「博多小女郎」毛剃九右衛門、船頭鴫の小平次

市村座、「裏表桜彩幕」狩野源左衛門宗茂、局岩藤、隅田川渡し守大助、浄瑠 璃「花雲鐘入月」大介

市村座、「扉源平郷燭」熊谷直実 市村座、「ひらかな盛衰記」梶原平次景高

「大内裏大友真鳥」輪抜の五郎太実ハわしま親十郎

「小いな半兵衛嫁きり」近藤沼五郎

20日より、市村座、「仮名手本忠臣蔵」桃井若狭之助、寺岡平右衛門、斧定九 郎、中間直助権兵衛、勝間宅兵衛、天川屋義兵、大星由良之助

市村座、「鬼切九三舛角鐸」回国修行者怪山実ハ将軍太郎良門、鹿島入道髭永、

足柄山百鬼山姥、肴うり海老ざこの十、瀧屋内舎人渡辺源次綱 大切浄瑠璃、常磐津文字太夫等「大和譲の怪童」山姥、「暫」鯰坊主 13日より、河原崎座、「世界平氏梅顔競」鎮西八郎為朝

木場鴫田町家主七左衛門、「積恋雪関扉」関守関兵衛 3月

月月

45

9月 11月

天保9(1838)正月 河原崎座、「筆始交張曽我」朝比奈、「源平布引瀧」斉藤実盛、瀬尾

「-谷轍軍記」熊谷直実、久喜萬字藤吉実ハ悪七兵衛景清 (海老蔵、五代目市川団蔵一日替り)

浄瑠璃、常磐津文字太夫連中「戻駕寵色相肩」次郎作 河原崎座、「菅原伝授手習鑑」小鳥売次郎作、覚寿、松王丸

14日より、河原崎座、「木場綺娘好」髪結寿海老の才三実ハ尾花の甚三

「壇浦兜軍記」秩父の庄司重忠

河原崎座、「恵閏雨鉢木」ゑびすやの船頭鷲の長吉、千葉家中玉章長五郎、狩 野源左衛門経世

河原崎座、「晴皷雲井曲」信濃之助実ハ浅間左衛門

15日より、河原崎座、「日高川入相花王」四ツ塚大作実ハ伊予橡純友、剛寂僧

河原崎座、「絵本大当記」松永大膳久秀、山口九郎次郎、武智十兵衛光秀

「九月雛古今彦惣」手跡指南山田重兵衛

5日より、河原崎座、「当平家世盛」長田忠宗、股の国五郎、雑兵木場、寒念 仏、修行者快了実ハ熊坂太郎長範、弥平兵衛宗清、ごろつき雷の源太 浄瑠璃「御存四十八手」

9日より、中村座、「一世一代功力妙法字」山王の霊猿寿三郎、貫名八郎重政、

木場成田屋七左衛門、升谷太郎左衛門

三代目尾上菊五郎一世一代名残芝居にて、口上を述べる 3月

閏4月 5月

7月 8月 9月 11月

天保ⅢW灘鱗纏HiWiiW僧鮒仁木弾Ⅱ

(7)

杣滕胚 達藤三

〔歌祭。

挟之肛 大星庄 [戸染一 中「新1 権太、

、岩手 祭りの 郎、雲 次綱 2軍記一

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』』‐可[閂『‐。「「『1.「日刈 ’7同

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挫旧詰若鋲鵬皿 法政史学第六十三号

鰯のⅡ間、仁瑠軒し、錺り、浄、 僖竃伝氾酬,巫‐閨

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(註l)「役者評判記」(早稲田大学演劇博物館)、石塚豊芥子箸「歌舞伎年代記続編」、伊原敏郎箸「歌 舞伎年表」第6巻より作成した。しかし、まだ不明の個所があることをご了承願いたい。

(註2)この年表は、江戸歌舞伎界における海老蔵の演劇活動を中心にまとめたものである。期間に ついては、五代目市川海老蔵改名から江戸十里四方追放を申し渡されるまでとした。

(註3)太字は、「歌舞伎十八番」の演目を示したものである。

[■

「国姓爺合戦」ふんりんし、雷助、和藤内、大切所作事「四季詠い歳」

5日 河原崎座、「勝関和合兵」安達藤三実ハ佐々木高綱、佐々木母微妙

「夏祭浪花鑑」団七九郎兵衝、「新板歌祭文」石津縫之助、松本屋佐四郎、四つ 竹三すしの三吉、鬼門の喜兵衛

市村座、「仮名手本忠臣蔵」桃井若狭之助、寺岡平右衛門、斧定九郎、直助権 兵衛、錺間宅兵衛、天111屋義平、大星由良之助

25日より 河原崎座、「其往古恋江戸染」岩藤弾正左衛門、曽我太郎祐信、赤 澤十郎、仁田四郎、士左衛門伝吉

大切、浄瑠璃、常磐津文字太夫連中「新媛雛の世話事」士左衛門伝吉 河原崎座、「義経千本桜」いがみの権太、弁慶、佐藤忠信実ハ源九郎狐

「奥州安達原」南兵衛、鎌倉権五郎、岩手

大切、清元延寿太夫「〆能色相図」祭りのてこまい、上総之助広常、三筋綱五

河原崎座、「御攝曳綱坂」伊賀寿太郎、雲切丸、船頭灘六、小原賎の女お京、

丹波ひ掴猿実ハ坂田公平、渡辺源次綱

5日より、河原崎座、大切狂言「兜軍記」秩父の重忠 17日より、河原崎座、「勢洲阿漕浦」平瓦の次郎蔵 天保11(1840)正月

3月 5月

6月 8月 9月

河原崎座、「梅咲若木場曽我」曽我五郎、八幡三郎行氏実ハ赤澤十内、本庄網 五郎後二福島屋漬兵衛

河原崎座、「桜門五三桐」石111五右衛門、此村大炊之助実ハ太明栄蘇卿、

元祖市)|l団十郎才牛百九十年寡歌舞伎十八番の内「勧進帳」武蔵坊弁慶 河原崎座、「騎錺忠臣蔵」高師直、勝間源五兵衛実ハ不破数右衛門、家主くり 廻しの直助、大星由良之助

甲府、亀屋座へ行く

中村座、「祇園祭礼信仰記」松永大膳、九郎四郎次郎、武智十兵衛光秀

「恋湊博多弧」毛剃九右衛門

中村座、「菅原伝授手習鑑」松王丸、覚寿

切狂言、清元延寿太夫連中「花)||戸身替りお俊」白藤源太 天保12(1841)正月

4月

5月

9月 11月

河原崎座、「恋相撲和合曽我」曽我五郎、極楽寺門番五郎吉、三太夫若徒藤兵 衛男達朝比奈藤兵衛、紙屑拾の五郎

1日より、中村座、大切続狂言「堺開帳三升花衣」蓮生法師

2日より、河原崎座、「-谷轍軍記」石屋弥陀六実ハ宗清、兎原田五平

「八幡鐘如念短夜」香具屋弥兵衛

5ロ 河原崎座、「神霊矢口渡」代官犬伏官蔵、団八と坊主願西、箱猿、新田 徳寿丸、源平、由良兵庫、矢口船守頓兵衛

「初冠曽根皐月富士根」曽我五郎

12日より、中村座、「裏表千本桜」由利八郎、「重扇寿松若」男達鮫の義兵衛 中村座、「九月花操章」芦屋道満、濡髪長五郎、石)||悪右衛門

5日より、河原崎座、「菅原伝授手習鑑」覚寿、梅王丸、武部源蔵、野伏り願 鉄実ハ百済川成、「男達楓錦書」男達毘沙門庄九郎

大切、浄瑠璃、常磐津文字太夫連中「色の楽屋写姿見」淨弁伊介 天保13(1842)正月

3月 4月 6月

河原崎座、「錺海老曽我門松」曽我五郎、近江小藤太

「双蝶々曲輪日記」濡髪長五郎

河原崎座、歌舞伎十八番の内「景泊」悪七兵衛景渭 6日

22日

鳥居耀蔵より海老蔵検挙、手鎖を申し渡される 鳥居耀蔵より海老蔵江戸十里四方追放を申し渡される

(8)

(一六九九)三月刊の江島其磧作・八文字屋八左衛門板「役者口三味線」によって、黒表紙小型横本、一部三巻という定型が確立された。京・大坂・江戸三都の役者をそれぞれ役柄に分類、芸の巧拙に人気度を加味した位付けを付し、数人今頭取」「ヒイキ」「芝居好」「見物衆」「見巧者」等)の評者が登場して合評したものである。作者不明のものがほとんどだが、世間の評判・風聞を聞いて書き記したものである。役者の位付は、主に「白大極上上吉」、「大極上上吉」、「極上上吉」、「上上吉」、「上上」、「上」、「吉」と(6)評価されるのが通例であった。次の(表1)は、海老蔵の改名以後から追放までの位付を役者評判記から抜粋したものである。(表1)によれば、天保四年(一八三一一一)正月出版のやくしやしきのながめ『役者四季詠」の地位欄には、「惣巻頭後見」とあるが、(7)この「惣巻頭」とは、八代目団十郎の地位を指す。この時、八代目団十郎はまだ二歳であった。「後見」とされている海老蔵は、年若の八代目を補佐する位置にあったことが知れた。八代目が一八歳になる天保二年まで「後見」と示されている。また(表1)には、天保六年(一八三五)正月出版のやくしやげんぎんみせやくしや「役者現銀店」と天保八年(一八一二七)正月出版の『役者

市川海老蔵と風俗取締政策(木村)

者評判記にみる海老蔵の評価(江戸歌舞伎界)

(表 11111111111Ⅱ8888888888

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保保保保保呆呆呆采大人大天天一

(早稲田大学演劇博物館所蔵より作成)

年代 西暦 地位 位付 出典

天保4.正 1833 惣巻頭後見 極上上吉 『役者四季詠」

天保5.正 1834 後見 極上上古 「役者三世相」

天保6.正 1835 惣巻軸三幅対 白大極上上吉 「役者現銀店」

天保7.正 1836 後見 白大極上上吉 「役者手柄競」

天保8.正 1837 当時俳優三|幅対 大極上上吉 「役者早速庖丁』

天保9.正 1838 後見 極上上吉 「役者ひめ飾』

天保10.正 1839 後見 極上上吉 『役者外題撰」

天保11.正 1840 後見 大極上上吉 「役者金剛力』

天保12.正 1841 惣巻軸 大極上上吉 『役者舞台扇」

天保13.正 1842 惣巻軸 大極上上吉 『役者投扇曲」

(9)

法政史学第六十三号

さっそくほ』7ちょう早速庖丁」に「一二幅対」という文一一一一口がある。これは、海老蔵と同格とみなされている役者が他に二人いることを示している。天保六年(一八三五)に、海老蔵と同格の役者としてみなされていたのは、五代目市川団蔵、三代目尾上菊五郎であった。しかし、役者評判記の位付けは、海老蔵の「日大(8)極上上吉」に対して、’一人は、「極上々吉」であった。「一二幅対」と評されていても、実際は海老蔵が二人より上位にいたということである。天保八年(一八一一一七)にある「当時俳優三幅対」も、海老蔵と前述の五代目市川団蔵、三代目尾上菊五郎の一一一人のことを示したものである。海老蔵の「大極上上吉」に対(9)し、’一人は、「極上上士口」であった。この年も、海老蔵が二人よりも上位に位置していたことが示されている。これによって役者評判記にみる海老蔵は、「日大極上上吉」「大極上上吉」「極上上吉」と位付けされ、江戸歌舞伎役者として確固たる位置にいたことが判明した。次は海老蔵の評判について、歌舞伎界の頭取、観客、それぞれの視点で描写されたものを検討していく。やくしやしきのながめ(Ⅲ)天保四年(一八一二一二)正月出版の「役者四季詠」において、「頭取」は、海老蔵のことを、「三津升や、几変らぬ 江戸の筋隈普子の吟もむくなるかな、凡百八十年子孫(連綿)(成)(天保三年)れんめんとして七代相続なし、当辰ノ一二月忰海老蔵に(八代目)(説)(海老蔵)団十郎の名跡をゆつり遣た木場の親玉白猿丈でムリます」みますと評している。「一一一津升」とは市川家の「一二升」の紋のことで、「白猿」とは海老蔵の俳名である。市川家は顔に筋隈を描く役者の家として広く世に知られている。約一八○年間、市川家は、子孫連綿と七代に渡って家を相続している。天保三年三月、息子の海老蔵に八代目団十郎を譲った五代目海老蔵は、「木場の親玉」であると「頭取」は評している。市川家の芸である荒事の特色を表現し、市川家の歴史が子孫連綿と続いていることを強調し、海老蔵Ⅱ木場の親玉と表現していることから、木場に住居している海老蔵を江戸歌舞伎役者のまとめ役と認めている。やくしやげんぎんみせ(u)続いて、天保六年(一八一二五)正月出版の「役者現銀店」(海老蔵)において、ある「見巧者」は海老蔵のことを「白猿丈は江戸の宝」と評し、海老蔵を江戸生まれの、江戸歌舞伎の、江戸民衆の宝であると最大級の賛辞を述べている。また別(栫)(衣菱付)の「見巧者」は、「いつもながらこしらへ衣せうつき万端申分なく大出来」と、海老蔵は、どんな役を演じるときも、衣装にも創意工夫をこらし、観客を満足させていると

(10)

評している。やくしやかざり(辺)天保九年(一八一二八)正月出版の「役者ひめ飾」において、「頭取」は、海老蔵を「当時三ヶの津俳優の親玉、市(海老蔵)川のみなかみ木場の白猿丈」と評している。「ヒイキ」は、「木場の親玉が居ませぬと江戸の歌舞伎のやうに労れ升ぬ、おちついて居らる画やうに頼升、イョ大江戸の飾海老代々つずく年の市川」と海老蔵を絶賛している。「頭取」の文言にあった「一一一ヶの津」とは、江戸・京・大坂のことであり、「頭取」は海老蔵を、三都随一の役者であると認識している。「ヒイキ」は、海老蔵が江戸にいなくては、江戸の歌舞伎とはいえないので、江戸以外で歌舞伎興行をしないようにと、海老蔵に懇願している。江戸の民衆にとって、江戸歌舞伎Ⅱ海老蔵という認識が大部分であっただろうと推察される。やくしやぶたいおうぎ(⑬)天保一一一年(一八四一)正月出版の「役者舞台扇」にお(根生)〈品展)いて、「頭取」は、海老蔵を、「お江戸根おひ御ひゐき市川代々のその中に七代にあたる古今の稀者、荒事の根元、和実、敵役、時代事、世話事すべて歌舞伎一道にうけて」と評し、「見巧者」は、「歌舞伎一堂のたばねをする身」と評している。「頭取」は、市川家が江戸出身の役者の家であることを強調し、海老蔵は、荒事・和実・敵役・時代事.

市川海老蔵と風俗取締政策(木村) 1「景清」上演と海老蔵の検挙本節では、天保一一一一年(’八四二)四月六日の海老蔵検挙は、海老蔵が出演した演目・役柄と因果関係が存在したのかどうか検討していく。また江戸歌舞伎界は、天保改革に対し、どのような認識を持っていたのかを三代目中村仲蔵の『手前味噌」から明確にしていきたい。海老蔵は、天保期、江戸歌舞伎界の頂点に位置する役者 世話事、どんな役を演じても共演者・観客を満足させることができると絶賛している。「見巧者」は観客も海老蔵を、江戸歌舞伎界を束ねる存在であると認識していることを示している。以上から海老蔵は、役柄・衣装などについても、常に工夫を凝らし、観客を満足させ、高い評判を得ている役者であることが判明した。また、市川家が子孫連綿と家の歴史を築いていることを、頭取・観客共に認めている。さらに頭取・観客が、海老蔵のことを江戸歌舞伎界を束ねている存在であり、三都随一の役者であると認識していたことなどから、海老蔵は歌舞伎界最高の位置にいたことは明白である。

二海老蔵検挙と改革への認識

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として活躍していたが、天保一二年(一八四一)五月に天保改革が始まった。この天保改革における風俗取締政策の一環である芝居弾圧政策により、海老蔵は天保二一年(一八四二)四月六日、南町奉行鳥居耀蔵に検挙される。この時、海老蔵は、河原崎座で歌舞伎十八番の内「景清」を演(皿)じていた。海老蔵は追放申し渡し日より約二ヶ月前の天保一一一一年四月六日に検挙された。その理由は、天保一二年一○月一六日発令の著侈禁止令に背いたというものであった。この時、海老蔵は、南町奉行鳥居耀蔵直々の調べを受けている。その結果、罪人として扱われた海老蔵は手鎖をうけ、身柄は家主熊蔵に預けられ、追って沙汰があるまで謹慎を命ぜられた。四月六日、検挙されたとき、海老蔵は、河原崎座において、歌舞伎十八番の内「景清」で主役の悪七兵衛景清を演じていた。この芝居の上演は、同年一一一月からで二ヶ月目に入っても好評を博していた。海老蔵検挙後、「景清」の芝(応)居は、代役を立てての続行は許されず上演中止となった。海老蔵は、著侈禁止令が天保一二年一○月一六日に発令されてすぐ、検挙されたわけではなかった。法令に背く者として検挙されるのであれば、箸侈禁止令が出た直後に、 法政史学第六十三号

海老蔵は検挙されてもおかしくはない。海老蔵は、自分の住居や身なり、小間物類にまで華美を装い豪華な暮らしをしていたのである。しかし、海老蔵検挙までには、著侈禁止令発令から約半年の期間があった。そこで、なぜ海老蔵が検挙されるまでに約半年の期間が置かれたのか、何が検挙の引き金になったのか、海老蔵が検挙されるまでの約半年間の海老蔵の出演演目並びに役柄に注目し検討してい

く。天保一二年一一月、河原崎座において、海老蔵は、「菅原伝授手習鑑」に出演し、覚寿、梅壬丸、武部源蔵、野伏(略)り願鉄実ハ百済川成の四役を勤めている。ほかに、「男達楓錦書」にも出演し、男達毘沙門庄九郎を勤め、大切では、浄瑠璃、常磐津文字太夫連中「色の楽(Ⅳ)屋写姿見」の淨弁伊介を勤めている。続いて、天保一三年正月、河原崎座において、海老蔵は、「錺海老曽我門松」の曽我五郎、近江小藤太を勤め、(岨)「双蝶々曲輪日記」では濡髪長五郎を勤めていた。そして同年三月、河原崎座において、海老蔵は、歌舞伎十八番の内「景清」の悪七兵衛景清を勤めており、その矢先の四月(四)六日に検挙された。箸侈柱不止令が発令されてから、「景清」出演中に検挙されるまで、海老蔵は、どの演目においても

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主役級の役柄を演じていた。それなのになぜ、「景清」出演中に検挙されたのかを考察していく。悪七兵衛景清は、平家滅亡後、源氏への反抗を続けていた。源頼朝を狙うが失敗し、捕らえられ、岩屋に閉じ込められる。平家には三つの家宝があった。そのうち源頼朝が手に入れたのは、平重衡の朝霧の琴だけであった。残りの二つの家宝である、平経政の青山の琵琶、平敦盛の青葉の笛の行方を白状しない景清に、妻阿古屋と娘の人丸を連れてきて、過酷な責めを行う。怒った景清は牢を破って大暴(卯)れするという筋である。豪勇無双の英雄であり、「牢破りの景清」として、観客の評判を得ていた。では、景清の牢破りの場面は具体的にどういったものであったのかを、この時の「景清」の台本から検証して(皿〉いく。景清の牢破りの一連の動作は、「牢の格子に右手をかけ、(m)力を篭むればゆさゆさゆき、又もか画るを打ち払い」とな(鋼)り、「牢仕掛にて動き、バーフバーフとこわれる」となる。その後の景清の動きは、「角柱を持って、皆々を散らし、(型)ミンャンと見得」となり、「ふんぱたがったる有様は、目覚(躯)ましくもまた凄まじし」とある。さらに皇昆清は、「軍丘〈(妬)か、るを、牢の格子の柱を持って打ち散らす」という動作

市川海老蔵と風俗取締政策(木村) になる。悪七兵衛景清の顔には、一般の荒事の場合よりも凄みを感じさせる景清隈がとられている。この芝居は、悪七兵衛景清が牢の柱を持って振り回す立ち回りがみどころで、いかにも荒武者事の様相を表している。この「景清」の牢破りの場面は、幕府の風俗取締政策に日常生活を制限され、不満を抱いて暮らしている観客に共感を与えたものであったと考えられる。海老蔵は、民衆の現実には不可能な牢破りという行為を舞台上で示し、民衆の気持ちを代弁し、体現したということになった。次は、「景清」の芝居で使用された箸侈な芝居道具について検討していく。海老蔵は、悪七兵衛景清役では、一一一升の亀甲の中に、金銀摺箔の牡丹の縫い取りをしたどてらを着用した。「篭手・脛当」は手の込んだ本物の革を使用し、舞台上で使用して(”)いる膳は、「結構なる蒔絵」が施されている。海老蔵が「景清」の芝居で使用している豪華な金銀摺箔や手の込んだ本物の革、高価な蒔絵などは、天保一二年二八四一)一○月一六日発令の著侈禁止令に抵触するものであった。海老蔵が「景清」上演中に検挙された時、「景清か牢破

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2「手前味噌」にみる改革の評判「手前味噌」とは、歌舞伎役者三代目中村仲蔵の自叙伝である。仲蔵(当時、鶴蔵)は、安政二年(一八五五)五いきぢのたていれ月、市村座で「五人男舗胆潔侠」と「伊勢音頭恋寝刃」に出演していた。しかし、仲蔵は出番が少なく、閑暇があったので、一○歳時より三七、八年間を思い出して調べ上げた。同書は、まず家系を叙して、初代・二代を説き、それから二代の自叙伝に移るという形式で、自叙伝とはいいな(”)がら家の歴史でもある。 法政史学第六十三号

(羽)って手鎖くい」という川柳が出た。牢破りという非現実的な行為に対し民衆は喜ぶが、結果は手鎖という、芝居と現実が混同した川柳になっている。幕府の風俗取締りが一層厳しい天保改革期だからこそ、観客に共感を与える「景清」は、内容的に幕府を刺激するには充分であり、その上、芝居道具は、箸侈禁止令に触れるものであった。したがって、海老蔵は、「景清」上演中に検挙されたのではないかと考えられる。こうして海老蔵が検挙される一方で、江戸歌舞伎界は天保改革をどのように認識していたか、歌舞伎役者三代目中村仲蔵の「手前味噌」から検証していく。 なお、「手前味噌」は現在、原本が消失してしまったとされている。原本の写しとして最古のものが、明治一九年二八八六)八月の「歌舞伎新報」(第六九一号)に記載されている。「手前味噌」には、天保改革期の実態の一部が見受けられる描写がある。そこから天保改革の風俗取締りを江戸歌舞伎役者はどのように受け止めていたのか検討する。(狐)仲蔵は天保改革に対して、「何から何までやかましく」(弧)と述べており、老中水野忠邦に対しては、「劇しき御方」と意識しており、南町奉行鳥居耀蔵に対しては、「少しも(犯)お慈悲のないお人」と認識している。また鳥居耀蔵は少々の違反でも捕縛し、違反の軽い者は手錠で町内預けの沙汰を下していたので、番所に手錠が不足という事態になって(鋼)いると仲蔵は述べている。中村仲蔵が水野忠邦と鳥居耀蔵の名前をあげ、その人物像について具体的に示していることから、両名は歌舞伎界にとって畏怖される存在であったと考えられる。また、番所に手錠が不足するなどという事態が本当かどうかは疑わしいのであるが、こういう描写は、仲蔵が、水野・鳥居の天保改革の取締りの厳しさを皮肉的に捉えていたものであ

ろう。 一一一

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しかし前述のように、番所に手錠が不足するほど簡単に多くの人が検挙され、民衆が制約の多い生活を強いられている状況であることを歌舞伎役者も認識していたことは明らかである。歌舞伎界は、民衆が何を求めているかを理解しているからこそ、三都随一の役者と称される海老蔵の「景清」を上演して、民衆の欲求にこたえようとした。歌舞伎界にも民衆にも最高の役者と認められている海老蔵が演じているからこそ、「牢破りの景清」の場面は、民衆の共感を得たものであった。歌舞伎界は、水野忠邦を中心とした天保改革の取締りに対し、大きな関心を示し、その厳しさを認識していた。それにも関わらず、海老蔵は、自分の住居や身なり、小間物類にまで華美を装い豪華な暮らしを続けていた。その上、歌舞伎十八番の内「景清」という、幕府の反感をかうような内容の演目に出演した。これが、幕府の格好の標的となり、海老蔵は、著侈の罪により、天保一三年(一八四一一)四月六日、南町奉行鳥居耀蔵に検挙され、同年六月二二日、江戸十里四方追放を申し渡された。

市川海老蔵と風俗取締政策(木村) 1海老蔵の江戸十里四方追放本節では、海老蔵の署侈の実態を明確にし、江戸十里四方追放の要因を著侈禁止令と照合しながら考察していく。そして海老蔵と民衆との関係を検討し、それに対する幕府の風俗取締政策を考察していきたい。天保一三年(一八四一一)四月六日検挙され、手鎖の上、家主御預けとなっていた海老蔵は、同年六月一三日、南町(型)奉行鳥居耀蔵から江戸十里四方追放を申し渡された。(忠邦)水野越前守殿御差図(天保一一一一年)寅六月廿二日申渡深川鴫田町熊蔵地倍十兵衛方同居同人父歌舞伎役者(七代目団十郎)海老蔵其者義、家作之儀者長押塗かまち等不相成、雛井道具儀も結構二致間敷旨、前々方町鯛有之候処、其方家業(之力)体之義ハ、時々風俗二随ひ、専ラ表向を飾不申候而 一一一江戸十里四方追放と箸侈禁止令

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法政史学第六十三号

偶二付、不相済儀与後悔致し、居宅向造作等崩候場処

先年占買置候共、高サ壱丈七尺之石灯籠壱対、深川永代寺境内おゐて開帳有之候、不動江奉納可致与高価之 も有之候得共、右 置、金子借受候後、 者、晶眉も薄く、道具類も右二准し、重高之品二無之候而者、融通も不宜候辿、右町触を背、居宅長押造、床塗かまちニ致し、赤銅七々子釘隠打附、庭向江も御影石燈龍、其外大石数多差置、又者同所士蔵内江不動

藻蛎飾荘厳向惣金箔彫、又須弥檀朱塗彫物、惣金泥

合天井ニ致し、或者小箪笥江赤銅七々子二金丸桐之紋付、小柄等鉄物致し、其外手を込候鉄物相用、唐櫃井額奈良細工、木彫彩色之雛等追々買取、右雛道具も鴫桐二而金砂子を置、胡粉紺青二而、瓢箪を菊桐五一一一之相紋形二置、名前不存町人方貰受候汕、右檀江猩々緋を敷、座敷内二相飾、其上狂言二相用ひ候品々之儀も、一ト通二而ハ見物人気二入間敷与存、革装具足壱領井鉄二而甲無之具足壱領何れも武用之品を所持致し、狂言二相用、且又先代方持伝候共珊瑚樹之根付緒〆附候高蒔絵之印籠等、狂言之節相用ひ、又者銀無垢ちろり等所持致し、其余品者質入或者可売払与預ヶ

身分をも不顧、著侈憎上之至

品、右境内江差置候段、妾不届二付、触二背候所井居宅取崩、木品共取上、江戸拾里四方追放申付之右の江戸追放申し渡しの条文の中で、著侈の内容が、海老蔵の日常生活と芝居空間において混同している部分がある。本稿では、その部分を明瞭にすべく、まず海老蔵の日常生活から、主に住居、調度品・小間物類に関しての著侈の実態を検証していく。海老蔵は、居宅に長押を造り、床を塗りがまちにしていた。赤銅七々子で釘隠を打ち付けており、天井は全て金泥の格天井にしていた。庭には、御影石の燈寵やその他に大石を数多く置き、また庭の土蔵内へ不動明王像を安置して、その像を金箔にして、須弥檀は朱塗りの彫物という華麗なものであった。雛道具についても華美にしてはいけないと前々から町触があったのに対し、海老蔵は雛道具を華美な説えにしていた。木彫りの彩色あざやかな雛道具を次々と買い求め、造りは、縞桐で、そこに金の砂子をかけたという豪華なものであった。瓢箪には分不相応に、菊桐五三紋の形を付けていた。さらに、名前も身上も不明な町人からのもらいものといって、雛壇へ猩々緋を敷き、それらを座敷内に飾ってい

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るという実態であった。海老蔵は、日常使用する道具類も高価な品でなければ、晶眉が薄くなると考え、小箪笥は、赤銅七々子という技法で金丸桐の紋を付けていた。小柄等は鉄製で、その他のものも手の込んだ鉄製を使用しており、唐櫃や額には楢細工が施されていた。これらのことから、日常生活時において海老蔵は、分不相応で著侈な生活を送っていたことが明白となった。続いて、芝居空間においての著侈の実態をみていく。海老蔵は、芝居に使用する道具もありふれたもの(著侈禁止令の許容範囲のもの)では、見物人の気に入らないと考えた。そこで芝居においても革製や鉄製の甲冑など、作り物ではない本物を使用した。さらに、先祖代々に伝わる珊瑚樹の根付けや高蒔絵の印籠など高価なものを芝居に使用していた。追放申し渡しにこのように明文化されていることから、著侈禁止令の法的効力は、海老蔵の芝居空間にまで及んでいることが判明した。(弱)海老蔵江戸追放申し渡し文の傍線部①の「町触」と傍線(天保一一一年)部②の「去丑十月、質素倹約之儀被仰出候」は箸侈禁止令を指すものと思われる。その理由は、著侈禁止令が出された日から海老蔵の江戸十里四方追放の日までの間に、町

市川海老蔵と風俗取締政策(木村) 2追放の要因と著侈禁止令天保改革において幕府は、風俗取締りに対し厳しい態度で臨み、天保一一一年(一八四二一○月一六日、箸侈禁止令を発令した。幕府は、町奉行を通し、町年寄が、町名主・家主・裏店層に至るまでの江戸の全住民にこの度の箸侈禁止令を繰り返し申し聞かせるように指示した。箸侈禁止令は、全国法(妬)令であり、生活統制令ともい麗えるものであった。当触書によれば、享保・寛政時にも同様の触書を出したが、年月がたっているので再度申し渡すとある。内容は一○条から成り、様々な規制がある。禁制の対象になったのは、贄沢な菓子・料理から、華美な能装束・金箔をつけた 方に対して他に箸侈禁止・質素倹約に関する取締り法令が出されていないからである。海老蔵は、著侈禁止令が出されたので、居宅の目立つところを破壊したが、それまでの生活は、身分を顧みない所業であるとみなされた。よって居宅は破却され、海老蔵は江戸十里四方追放の処罰を申し渡された。次は、海老蔵追放申し渡しの根拠となる著侈禁止令の条項をみていく。

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破魔弓・菖蒲刀・羽子板・八寸以上の雛人形、高価な金物など、さらに金銀使用の彫物・象嵌・蒔絵・轡・履物などにまで及んだものであった。海老蔵は、この箸侈禁止令に抵触したとして処罰された。次に掲げる史料は、海老蔵の抵触にあたる条を著侈禁〈”)止令から抜粋したものである。(5)一雛道具梨子地者勿論蒔絵二候共、紋所之外無用之事(7)’きせる其外もてあそひ同前之口叩二金銀遣ひ候儀者勿論、彫物・象眼之類井蒔絵等、結構二致問敷事(9)一町人共一統二花美之儀無之様致し、白く7町人男女共二分限不相応結構之品着用致し、又者髪のかさり等迄茂、大造成品相用侯もの候ハ、、組之もの見掛次第、右居所・名前等相糺、町役人差添させ、直二奉行所江召連吟味致し候間、左様ニ可相心得候事まず、五条目は、雛道具については梨子地は言うまでなく使用禁止であり、蒔絵であろうとも、紋所以外は無用であるとしている。これに対し、海老蔵の日常生活においては、前述の追放申し渡し文にある通り、華美な雛道具を次々と買い求めた 法政史学第六十三号

り、名前も身上も不明な町人からのもらいものといって、雛壇へ猩々緋を敷き、それらを座敷内に飾っているという著侈の実態であった。明らかに第五条に抵触していた。次に、七条目は、煙管、その外玩び同然の品に金銀を使用することは勿論禁止であり、彫刻・象眼の類・蒔絵等を華美にすることは禁止としている。ところが、海老蔵の芝居空間における著侈の実態は、高価な珊瑚樹の根付けや高蒔絵の印籠などを使用していたというものであり、これは七条目に抵触しているものであった。検挙時、上演中の「景清」の主人公悪七兵衛景清は、金銀摺箔の牡丹の縫い取りをしたどてらを着用し、華美な蒔絵が施されている膳を用いた。これらも七条目に抵触していた。最後に九条目は、町人全体が華美にならないようにと、町人男女に、分限不相応なものを着用したり、髪飾り等も華美なものは使用禁止としている。これに対し、海老蔵は芝居空間において、「景清」では手の込んだ本物の革の篭手や脛当を使用し、他の武士役の時でも、芝居用の作り物ではなく、本物の革製・鉄製の甲冑などを使用した。海老蔵の芝居空間における著侈は、九 ’一ハ

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本稿では、海老蔵中心の視点から、海老蔵が江戸十里四方追放に至る過程を考察してきた。第一節において、江戸の歌舞伎界において、給金・役柄・役者評判記からみる海老蔵の役者としての位置は最高峰であったことが確認できた。役柄・衣装などについて 条目にも抵触している実態であった。海老蔵の箸侈の実態は第五条・第七条、それに江戸追放(犯)申し渡し文の③にあるように、「身分をも不顧、箸侈僧上之至」と、第九条にも抵触していたことは歴然としていた。以上のことから、海老蔵追放の要因となった箸侈禁止令は、海老蔵の日常生活・芝居空間、両方の空間に細かく厳しい規制が及んでいた法令であったといえる。海老蔵はどういう芝居・演技をすれば民衆に共感・満足感を与えられるかということを常に意識していた。結果的に海老蔵の行為は、民衆からは絶大な支持を得たが、幕府からは、民衆に悪影響を及ぼし、風俗悪化の元凶であるとみなされ、江戸十里四方追放を申し渡されることとなった。

市川海老蔵と風俗取締政策(木村) おわりに も、常に工夫を凝らし、江戸歌舞伎界を束ねる存在として、頭取・観客共に海老蔵を認めていたことが判明した。天保期、海老蔵は、江戸歌舞伎界を代表する位置にあり、最も評判の高い役者であったと考察した。第二節において、「牢破りの景清」の芝居は、天保改革期であるからこそ、民衆に評判を博した。海老蔵は常に民衆が何を求めているのかを意識している。海老蔵や江戸歌舞伎界の民衆の欲求に対する理解が「景清」上演につながったと考察した。民衆は芝居小屋の外に出れば風俗取締政策に縛られ、行動に制約がかかる。その制約に反する内容の芝居を上演することによって、海老蔵と水野忠邦が対時する空間が創出された。さらに海老蔵は、改革期の権力者に立ち向かうといった民衆の求めている姿を具現化した空間をも創出した。したがって、この歌舞伎十八番「景清」を演じている最中に、海老蔵は検挙されたのではないかと考察した。江戸歌舞伎界でも、水野忠邦を中心とした天保改革の取締りに対し、大きな関心を示し、その厳しさを認識していたが、その取締りを皮肉的にみている面もあったことが、三代目中村仲蔵の『手前味噌』からうかがえた。第三節において、海老蔵追放の要因となった著侈禁止令

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は、海老蔵の日常生活・芝居空間、両方の空間に厳しい規制が及んでいた法令であったことが判明した。天保改革期、民衆に共感を持たれ、人気を博している海老蔵であるから、民衆への影響力は非常に大きい。海老蔵を民衆の心から引き離すためにも、幕府は追放という手段を用いた。幕府は、全国に名を轟かせている海老蔵を処断することにより、民衆に対する風俗取締りの絶大な効果を狙ったと考察した。最後に、海老蔵が抜けた江戸歌舞伎界の様相や追放後の海老蔵の演劇活動の実態等を検討・解明していく余地は多く残されているが、これらは今後の課題とする。

(1)「市川団十郎研究文献集成」(高文堂、二○○二年)で中山幹雄氏は五代目市川海老蔵の研究はほとんど手つかずの状態できていると指摘している。わずかに歌舞伎学会発行の「歌舞伎」二七号(歌舞伎学会、二○○一年)の「特集七代目市川団十郎」があるのみとしている。(2)服部幸雄箸「市川団十郎代々」(講談社、二○○二年)七七~八五頁。津田類著『江戸の役者たち」(ぺりかん社、一九八七年)二○五~二○八頁。 法政史学第六十三号

(3)関根只誠纂録・関根正直校訂「東都劇場沿革誌料上』(国立劇場芸能調査室編、一九八四年)二六五~二七七頁。(4)関根只誠纂録・関根正直校訂「東都劇場沿革誌料下」(国立劇場芸能調査室編、一九八四年)四○五~四二一頁。(5)守屋毅箸『近世芸能興行史の研究」(弘文堂、一九八五年)三七一頁。(6)松平進「6役者評判記と番付・役者絵」(諏訪春雄・菅井幸雄編『講座日本の演劇4近世の演劇」(勉誠社、一九九五年)一四五~一四六頁。早稲田大学坪内博士記念演劇博物館編「演劇百科大事典」第五巻(平凡社、一九九○年)四二八~四一一二頁。やくしやしきのながめ(7)天保四年(一八一一一一二)正月「役者四季詠」(早稲田大学演劇博物館所蔵)。やくしやげんぎんみせ(8)天保六年(一八一二五)正月「役者現銀店」(早稲田大学演劇博物館所蔵)。やくしやさっそくはうちよう(9)天保八年(一八一二七)正月『役者早速庖丁」(早稲田大学演劇博物館所蔵)。(皿)註7前掲史料。(、)註8前掲史料。やくしやかざり(、)天保九年(一八一二八)正月「役者ひめ飾」(早稲田大学演劇博物館所蔵)。やくしやぶたいおうぎ(田)天保一一一年(一八四一)正月『役者舞台扇」(早稲田大学演劇博物館所蔵)。(Ⅲ)石塚豊芥子箸「歌舞伎年代記続編」(鳳出版、一九七六

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年)四○六頁。(旧)註u前掲書四○六頁。(船)註u前掲書三九七頁。(Ⅳ)註u前掲書三九八頁。(型註u前掲書四○四頁。(四)註皿前掲書四○六頁。(別)河竹繁俊著「評釈江戸文学叢書歌舞伎名作集下」(大日本雄弁会講談社、一九三六年、二一一頁)を参照した。(、)なお、この台本は、河竹繁俊著「評釈江戸文学叢書歌舞伎名作集下」大日本雄弁会講談社一九三六年)に収められているが、校訂に関しては、渥美清太郎氏所蔵の台本(天保一三年一一一月上演本であり、狂言作者の一一一升屋二三治筆の原本より謄写したもの)を基礎とし、従来の活字本をも参照したと河竹繁俊氏は述べている(河竹繁俊著「評釈江戸文学叢書歌舞伎名作集下」大日本雄弁会講談社、’九一一一六年、二三頁)。(皿)註別前掲書二六頁。(路)註別前掲書二六頁。(別)註別前掲書二六頁。(妬)註別前掲書二六頁。(肥)註別前掲書二六頁。(〃)註別前掲書八五~二八頁。(肥)註u前掲書四○七頁。(別)三代目中村仲蔵著・郡司正勝校訂「手前味噌」(青蛙房、

市川海老蔵と風俗取締政策(木村) [付記]本稿は、二○○四年一月に法政大学大学院に提出した修士論文の一部を加筆・修正したものである。成稿にあたって、本学文学部教授澤登寛聡先生よりご教示を賜りました。感謝申し上げます。 一九六九年)四六八~四六九頁。(帥)久保田彦作編「歌舞伎新報」第六九一号(歌舞伎新報社、’八八六年)四頁。(型註別前掲書四頁。(望註別前掲書四頁。(翌註別前掲書四頁。(弧)「天保撰要類集」二九三YD五四’六六(国立国会図書館所蔵)。(妬)註弘前掲史料。(鉛)北島正元著「水野忠邦」(吉川弘文館、一九六九年)や藤田覚箸『天保の改革」(吉川弘分館、’九八九年)を参考にした。(師)「天保撰要類集」一六YD五四’三七(国立国会図書館所蔵)。(胡)註型前掲史料。

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