• 検索結果がありません。

禅研究所紀要 第32号 005大谷哲夫「【講演会】永平の風-道元の生涯とその仏法-」

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "禅研究所紀要 第32号 005大谷哲夫「【講演会】永平の風-道元の生涯とその仏法-」"

Copied!
25
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

永 平の 風( 大 谷) ─ ─ 皆さん こん にちは 。 た だ 今ご 紹 介を 賜りました 大 谷でご ざいます。 本 日は、 雨 模 様で、 大 変 蒸し 暑い 中にもかかわ らず、よくお 出かけ 下さいました。ここにご 参 加 下され た 皆 様は 一 般の 方々も 多いと 伺っており ますの で 、なる べ く 分かり やす い よ う な 形でお 話しを 申し 上げよ う と 思いま す。 二 年ほど 前になりますでしょうか。 私は、 道 元 禅 師のご 生 涯を 『 永 平の 風』 と 題して 小 説 風にまとめ て 出 版させて いただきましたが、なぜそのような 形でそ れを 書いたのか ということをよく 聞か れ ます。そこ で まず、そ れを 書くに 至った 動 機からお 話しを 申し 上げてみ よ うと 思います。 この 愛 知 学 院 大 学もその 傘 下になりますが、わが 国の 仏 教には 、 曹 洞 宗という 禅 宗の 宗 派があ り ま す 。 そ の 初 祖が 道 元 禅 師である こ と は 、 皆さんよ く ご 存 知のことで あろう と 思います。 道 元 禅 師がお 生まれ になっ て 八 百 年の 慶 讃 事 業を 行い、それを、 昨 年 大々 的に 行われ た 七 五〇 回という 大 遠 忌に 繋げていこ う、とい うこ と が 三 年 程 前に 曹 洞 宗で 企 画され ま し た。 そ の 時、ちょうど 私が 座 長に 任 命され た ので すが 、 そ の 最 後の 仕 上げに 道 元 禅 師のシンポジウムを どこかでやってみ ようという 議 論になってきたのです。 宗 門の 有 識 者や 両 本 山の 国 際 班の 皆さん と、 欧 米でやったら どうか、 アメリカでどうだというようなことになりまして、 結 局は 米 国のスタン フォード 大 学で 開 催するこ と になり ま した。 皆さん ご 存 知だと 思いますが、スタン フォード 大 学はカ 【 講 演 会】

──

とその

──

(2)

─ ─ 永 平の 風( 大 谷) リ フ ォルニアのシリコンバ レ ーの 近くにある 大 変 有 名な 大 学です 。ゴ ルフ の タ イ ガ ー ウ ッ ズ が 中 途 退 学した 大 学で、 アメリカ の 大 統 領が 多 数 出ており、 当 時は、クリントン 大 統 領や 国 防 長 官の 娘さん た ち が 在 学しているといわれてお りまして、いずれ にしてもキ リ スト 教の 伝 統 校です が、 敷 地はこの 愛 知 学 院より かなり 広く、 構 内には 米 国の 有 名デ パー トま である と い う 、 地 平 線まで ずっと 大 学という 極め て 広 大な 大 学です。 そこで 道 元 禅 師のシンポジウムが 行われ ました。 七 百 人 ぐら い 入ると 思われ る ク レ ッ ギ ー ホ ー ルが、 二 日 間にわ たっ て 超 満 員でした 。「 アメリカ の 禅というものも 、 も うそろそ ろ 日 本から 独 立してもいい、 日 本から 乳 離れをしなけ れ ば いけない 」 というある 教 授の 言 葉で 締めくくら れたシ ン ポ ジウ ム で し た 。 我々 主 催 者 側もスタン フォード 側も、 「 これ は 大 成 功である 。 道 元 禅 師がこ れ 程 知られ てい るとは 思わ なかった。 禅と い う も のが これ 程アメリカ の 社 会で 認 知さ れている と は 思わなかった 」 などといって 意 気 揚々と 引き 上げて きました 。 ところ で 、 私はそ れ 以 前、 おりおりの 法 話』 という 本を 出していました。 こ れは 道 元 禅 師の 語 録である 『 永 平 広 録』 を 訓 読し 現 代 語 訳し 解 説を 付したものです。 そ れ に ついて、 産 経 新 聞の 読 書 欄に、 まず、 沢 木 耕 太 郎さん の 『 深 夜 特 急』 という 本の 中で、 米 国の 男 性が 日 本の 青 年に 「 禅って 何で すか 」 と 問いかける 話が 紹 介され て い ます 。 そ の 青 年は、 多 少は 禅を 勉 強していたもの ですから、 禅の 歴 史をとうと うとしゃべり 出しました。するとその 米 国の 男 性がまた 言 うの です。 「 そう いう 禅の 歴 史は 本を 見れば わかり ま す よ 。 だけど、 禅って 何ですか 」 と。その 青 年もこれ に は 窮して しまった、 と いうようことを 前 言として、 「 日 本で 発 達した 禅は 今や 世 界に 広がり 、 昨 年は 米 国スタ ン フ ォ ー ド 大 学で 「 道 元 禅 師シンポ 」 が 開 催され るまで に なっ た。 だが 、 真 意 のよ く 分からないやりとりを 禅 問 答という。 今 年は 曹 洞 宗 の 開 祖 道 元 禅 師が 生まれ てちょうど 八 百 年になる。 本 書は その 道 元 禅 師の 上 堂での 発 言をまとめた 『 永 平 広 録』 を 中 心として 原 文・ 訓 読・ 語 義・ 訳 文と 読みや す い 編 集をして いる 。この 『 永 平 広 録』 の 上 堂は、 悟りに ついての 真っ 向 からの 問いかけで、これを 謎かけで あ るなどとして 頭だけ で 理 解しようとす る と 甚だしい 曲 解を 生む。そもそも 「 不

(3)

永 平の 風( 大 谷) ─ ─ 立 文 字」 とさ れる 禅の 本 質を、この 本を 一 回 読んだだ け で 「 完 全に 理 解できた 」 などといったら 「 只 管 打 坐」 によ っ て さと りの 境 涯に 達しようとしてい る 人に 対して 失 礼 極まり ない。 同 書の 正しい 読み 方といえば、やはり 完 全に 理 解し たいという 仏 法への 想いを 喚 起させることで あろう 」 とい う 書 評が 載っており ました。 そして、さらに 私 自 身にもこういうことが あ りました。 大 学 院 時 代に 私は 『 正 法 眼 蔵』 を 学んでいたわ け ですが、 恩 師に、 「『 正 法 眼 蔵』 って 難しいですね 」 と 言ったこと が あります。 私は、 恩 師が 「 難しい 」 と 言ってく れ るこ とを 期 待して 言ったので す。と こ ろが 恩 師は、 「 えっ ? 何で す、 それは ? 『 正 法 眼 蔵』 のどこが 難しいの で すか。 あ ん なに 懇 切 丁 寧に 書いてあ る の に 何が 分から ない のです か 」 とお っし ゃったの です。そ れで 私は、 不 遜にも 世の 中には この 難 解な 『 正 法 眼 蔵』 を 分かっ ている 人がいる の だ と 気 づか され、 『 眼 蔵』 を 徹 底 的に 読みこなそうと 決 意したとい う 記 憶があ り ま す 。 とに かく 、 私 自 身にも その ような こ と が 背 景にあ って、 道 元 禅 師のシンポジウムの 報 告 会をしたの です。その 懇 親 会の 席である 人が、 小 説 家や、 放 送 作 家、 映 画 監 督や、 脚 本 家の 人たちもいたの ですが、 「 そん なふう に 道 元 禅 師シン ポジ ウムが 行われ て、 意 気 揚々と 帰って 来ている よ うだけ ども 、 私たち は 道 元 禅 師を 詳しく 知りま せんよ。 日 蓮さん や、 親 鸞さんは 知ってい ま す。 法 然さん もなん と か 知って います。だけども 道 元さんは 只 管 打 坐ばかりで どん な 人か 分かり ませ ん。 第 一 小 説にも 映 画にもなっ ていない じゃ な いで すか 」 というようなことを 言われ ました。だから、 私 は、 「 道 元 禅 師が 生まれ た 一 二〇〇 年 代と 今の 時 代というの は、 閉 塞 感が 漂い、 同じよ う な 雰 囲 気を 持っている 時 代で す。そこで 自 己を 確 立した 人が 道 元 禅 師なのです 」 と 申し 上げました。する と 、「 それ なら それ を 何かに 書いてくれ、 私たち は 学 問の 世 界の 道 元を 求めているの で はない 。 難し い 話などは 聞いてもそんなものはすぐ 忘れて し ま うけ れど も、 もっ と 易しく 我々 向きに 書いたものを 見れば 何とかな るのだ 」 とお っし ゃいました。 私はそ の 時ちょうど 副 学 長 であ ったも の です から 、「 いや、 い や、 それは 忙しくて 駄 目 だよ 」 と 言いましたら、 講 義ぐらい は できる で しょ う、と いう ことで 、 それ から 土 曜 日の 午 後 一 時から、 場 合によ っ

(4)

─ ─ 永 平の 風( 大 谷) ては 夜の 十 時ぐらい ま で 雑 談まじりに 講 義したことが あ る のです。そうしましたら、そ れ を 聞いていた 人たち が 道 元 禅 師は 面 白い、 何とか、また 講 義をまとめて 書いてくれな いか と 言うのです 。 私は、 当 然、 駄 目だと 言いまし た が、 その 話を 録 音していた 人がい まして 、 そ れ を 基に 書けばい いでは な いかと、 さん ざん に 頼まれましたの で、こ れ はや むを 得ないなと 思いました。そして、 時 期 的には 、 ち ょう ど 道 元 禅 師のご 生 誕の 慶 讃の 事 業もほぼ 終わり 、 七 五〇 回 大 遠 忌も 間 近に 迫っている 。その 時に、 道 元 禅 師の 末 孫の 坊さん のは しくれ と し て 一 体 何ができるのだろうか、 駒 澤 大 学という 狭い 学 問 領 域の 中では 何とかやっている、しか し、この 時 期に、 真 剣に 禅を 求めている 、 知りたいと 願っ ている 人たちに、 何かで き な いだろうか、 仏 教 用 語を 駆 使 してではなく、 一 般の 人々にわかる 用 語で、 現 代の 言 葉で、 道 元 禅 師の 存 在とその 仏 法を 知っても ら う 必 要がある 、 と は 常々 思ってはお り ま した。 で すから 、 大 変 失 礼なが ら 、 ここにご 参 集して 下さっ てい る 大 学 院の 学 生の 方々、それ から 禅を 学んで いる 方々は 、 道 元 禅 師の 存 在とその 仏 法に ついて は ある 程 度は 分かっ ておられ る。けれ ども、 一 般の 大 多 数の 方々は 道 元 禅 師を 知らないと 思う。どうでしょう か。そうしたことが 『 永 平の 風』 という 本の 根 底にあるわ けで す。 今、 皆さん の お 手もとにお 配りしてあります 「 永 平の 風── 道 元の 生 涯とその 仏 法── 」 という 二 枚 綴じのもの が、 私の 創 作ノートのメモといったもの です。 実 際はそ の ノート だ けで も 大 学ノー ト で 二 十 冊ほどに な っ て い ま すが、 そちらに は 道 元 禅 師の 一 生の 中のエポックメイキン グ な 部 分を 抜き 書きしてある と いうことなの で、 参 考のため に ご 覧いただけれ ば と 思います。 大 学の 講 義ですと 恐らく 三 十 五 回から 四 十 回ぐらいの 分 量になります。ところ で 、もの を 書く 時には 、 私は 道 元 禅 師という 称 号を 使いますが、 今 日は 禅 師を 省かせていただきますの でよろしくご 了 承いた だきたいと 思います。 今 日は 時 間も 限られ て お ります の で 、 道 元のご 生 涯とそ の 仏 法のすべてをお 話しする わ けに はまいり ませ んけ れど も、 まず、 最 初に、 『 永 平の 風』 をどの よ うに 書いていった かと 申し 上げますと、 一 昨 年( 二〇〇 一) の 四 月、ちょう どイチロー が メジャー でヒットを 打ち 始めた 時 期です。 私

(5)

永 平の 風( 大 谷) ─ ─ は 野 球が 大 好きで ありまして、 今も 駒 澤 大 学の 野 球 部 長と 東 都 野 球 連 盟 理 事 長を 兼ねており ます が、イチ ローのこ と が 非 常に 気になって、アメリカへ 行って 打てるか 打てない かということは 私の 大 関 心 事であ り ま し た 。 三 割・ 十 五 本 とい う こ とを 野 球 部のメン バ ーと 話した こ と もあ り ま し た 。 そこで、 試 合の 録 画をしてお きまして、 彼が 一 本 打つ 度に 三 十 行から 五 十 行は 書くというような 馬 鹿なことを 心にき めて 書いていました。 そ して、 ち ょうど 一 昨 年の 今 頃には 、 ほぼ 書き 上げて 『 永 平の 風』 と 題し、その 筋 立てを、 皆さ んよくご 存じの、 「 春は 花 夏ほととぎす 秋は 月 冬 雪さ えて 涼しかりけり 」 という 道 元の 歌にちなんで、 第 一 章 花・ 第 二 章ほととぎす ・ 第 三 章 月・ 第 四 章 雪として 仕 上げ ました。そ れ が、 今 皆 様のお 手もと に 大きな 題 目として 掲 げてある わけ です。こ れを 時 系 列 的に 考 証し、 諸々の 資 料 や 文 献と 照 合し、また、 出 版 社の 方から 「 こん なに 多くて は 出 版しても 二 冊 本になって 今ではとても 売れませ ん 。 一 冊に 削ってくださ い 」 と 言われ 、 余 分なところは か なり 削 ぎ 落としてしまいました。 よく、 道 元の 生 涯には 劇 的な 場 面が 少なく、 只 管 打 坐ば かり で、 映 画にも 小 説にもならないと 嘆かれ ます。が 、 そ れは 同 時 代を 生きた 法 然、 親 鸞、 一 遍、 日 蓮とい った 人た ちとの 仏 者としてのあり 方の 違いで あ る と 私は 思います。 求める 道の 違いといっ てもよいか と 思いま す 。 ま し て や 、 映 画や 小 説になるものが 一 概に 劇 的というわけでもありま せん 。 こ の 道 元のは てし なき 求 道の 旅 路、この 只 管 打 坐の ぐ どう 世 界では、その 生まれや 俗 世 間などの 生 臭い 事 象というの は 関 心の 外になり、 後 代の 私たちから 見ると、 そ の 生 涯が 同 時 代の 諸 師 方に 比べて 絵になる 場 面が 少ないというのは 当 然であ ろ う と 私は 思っております。しかしな がら、この 道 元の 著 作である 膨 大な 『 正 法 眼 蔵』 、 ま た 、 中 国 留 学 記で あり ます 『 宝 慶 記』 、そ れ か ら 、 道 元に 生 涯にわ た っ て ほうき ょ う き 随 身をした 懐 弉の 『 正 法 眼 蔵 随 聞 記』 、また 、 私が 専 門と ずい し ん え じょ う する 、 懐 弉、 詮 慧、 義 演ら 道 元の 弟 子たちの 編 集した 道 元 せん ね ぎ えん の 語 録である 『 永 平 広 録』 、そして、 道 元の 数々の 伝 記 類、 えい へ い こ う ろ く 更に 道 元の 同 時 代の 文 献、 の 周 辺を 詳 細に 追っていくと、 その 時 代に 生きた 道 元の 姿が 浮かび 上がってきます。 私は、ことさらに 人 間ということを 強 調する 人 間 道 元で あるとか 人 間 親 鸞である と かい った 言 葉はあ まり 好きでは

(6)

─ ─ 永 平の 風( 大 谷) ありませんが、 先 程 言いました 通り、 鎌 倉 時 代という 現 代 に 通じる ような 閉 塞 感と 混 迷 感の 漂う 時 代に、 正 伝の 仏 法 というものを 己の 中に 確 立し、 日 本に 根 付かせてい ったそ の 道 元の 姿がドラ マ でな い は ず が な い と 思ってい ま す。こ とに 、 道 元の 真 実の 師 匠となる 正 師 天 童 如 浄に 出 会うまで の、 先 輩 僧たちを 徹 底 的に 否 定し 続けていく 旅 路での 心の 葛 藤とその 精 神の 軌 跡というの は、 極めて 鮮 明なもの が あ ります。と も あれ 、 道 元のは てし なき 求 道の 旅 路というの は、あり とあらゆるものを 投げ 出して 仏 道を 極める とい う もので、それは 狂おしいまで の 憧れに 自 分 自 身を 明け 渡し ていくところから 始まり ます。そして、そ れを 具 現 化する ため に、 道 元は 必 死に 尋 師 訪 道、 師を 尋ね 道を 訪ね、 自 己 じん し ほう どう という 存 在を 確かに 認 識し 確 認する 方 向に 向けた 終わりの ない 旅を 続けていきます。 その 生 涯はまさに 風のごとく 痕 跡を 残しません。 禅の 世 界では 没 縦 跡とい い ま す 。 ま た 、 禅の 悟りの 世 界では もっし ょ うせ き 鳥 道という 言 葉も 使います。 例えば、 A 地 点から カァ カァ ちょ うど う カァと 鳥が 鳴いてB 地 点へ 行く。 行ったとい うこと は わか ります。ところが 、 空には 痕 跡が 残ってい ま せ ん 。こ れを 鳥 道とい うの です が、そ れ が 悟りの 世 界である と い う こ と を 象 徴 的にいうわけで、そのような 事 象が 展 開され て い っ たということになります。しかしなが ら 、 今やその 道 元の 仏 法というの は、 時 空を 超えた 風とな って 洋の 東 西を 問わ ず、 現 代に 生きる 人々を 魅 了しているといっても 過 言では ありません。ですが、その 生 涯をドラ マ として 描き 出そう とすると、 道 元に は どうで も いいようなことにも 光をあて ていく、ということに 視 点を 定めていかな け ればならない わけです。ところ が、その 文 献 上に 現れている 事 象や 伝 説 や 異 説を 取 捨して 道 元の 真 実に 近づけ ていくと いうこと は 、 まさに 没 蹤 跡の 世 界です か ら 誠に 困 難な 作 業であ り ま し た 。 私 自 身、 自 信のあるところもあ れ ばないところもあるわ けで すが 、 道 元の 周 辺に 点 在している 伝 説や 風 聞などを 活 用しな がら 歴 史の 事 実に 近づけ 物 語を 進めていこ うとする 時、 決まって 夢の 中で、 「 おい っ! それ は 違うぞ! 」 と いう 声がどこ か ら と も な く 聞こえてきたことが 幾 度となく ありました。 出 版 社の 人に、 『 永 平の 風』 の 中に 登 場する 人 物は 二 百 数 十 人いますと 言われ 、 私 自 身もびっ く りしまし たが 、「 おい っ! それ は 違うぞ ! 」 と 言ったの は 、 特に

(7)

永 平の 風( 大 谷) ─ ─ 自 分を 投げ 捨てて 道 元に 師 事し、 只 管 打 坐の 世 界に 没 入し た 名もない 人たちの 叫びで あっ たのでは ないかと 思うの で す。 私が、その 時 代のことを 現 代の 視 点だけで 考え、 誤り を 書いてしまったのではないか、その 警 告ではなかったの かと 今でも 思って はい ます。 が 、 道 元が 語らなくてもその 門 下に 透けていた 事 実というの がある は ず で す。こ れ を 道 元 禅 師 七 五〇 回 忌という 大 遠 忌を 機 会に、 その 遠 孫として 何とか 道 元を 蘇らせ、 道 元を 知らないという 人たちに、 道 元の 生きざまが、そしてその 仏 法が 少しで も 分かる ように できたら、という 強い 思いに 突き 動かさ れて 書き 上げたと いう ことで あ ります。 さて、 道 元の 求 道ということになりますと、 皆 様 方 一 人 ひとり 感じていると 思いますが、 人の 一 生というの は 好む と 好まざるとにかかわらずその 時 代 背 景や 環 境がついて 回 ります。 特に 道 元の 場 合はそ れ が 強く 作 用しています。 皆 さんは 、 清々しい 道 元、 孤 高なる 禅 者、 政 治に 関 与しない 道 元というよう な ことをよ く 耳にす ると 思います。このこ とは 、 両 極なのですが、 私は 道 元の 五 十 四 年という 生 涯の 中で、その 生まれ の 影 響というもの が かなり 大きな 位 置を 占めたから である と 思ってい ま す。とい うの は、 道 元のお 父 様は、 異 説もありますが、 源 通 親という 方で、お 母 様 みな もと の み ち ち か は、 藤 原 基 房の 娘 伊 子という 方です。 源 通 親は 京 都の 宮 廷 ふじわ ら のもと ふ さ い し 政 治を 牛 耳ってい ま した。 村 上 源 氏の 系 統です。 で すから、 「 平 氏に 非らざれ ば 人に 非らず 」 といわれた 時 代が 終って 源 氏の 世になり、その 時、 京の 天 下の 中 枢を 担っていたの が 源 通 親なので す 。 鎌 倉には 、 一 一 九 二 年に 幕 府を 開いた 源 頼 朝がいる の です。 京と 鎌 倉、 こ の 公と 武が 覇を 争っ みな もと のよ りと も ているのです。 東の 頼 朝にとっ て みれ ばこん な 目 障りな 男 はい ませ ん。 天 下を 取ろうとしてい る 男の 邪 魔をしている のが 西の 源 通 親という 人です。この 人は、 権 謀 術 数に 極め て 優れた 才 能を 発 揮した 人です。また、 藤 原 基 房は、 過 去 三 百 年 続いた 藤 原 関 白 家の 家 系です。 伊 子は 絶 世の 美 女と いわれ、ゆくゆくは 天 皇の 后といわれた 人です が、 運 命の いたずらで、 平 家を 打ち 落とした 木 曾 義 仲が 入って 来た 時 に 基 房に 押しつ け ら れ 正 室になりました。その 後、その 木 曾 義 仲が 亡くなり、また 藤 原 基 房の 下にいましたが、 基 房 の 計らいで 今 度は 通 親と 結 婚させられました。 昔は 結 婚と いっ ても、 生 活を 共にし、 一 緒に 住んだ わけ でも 何でも な

(8)

─ ─ 永 平の 風( 大 谷) いの ですが、 伊 子は 二 度にわたっ て 政 略 結 婚させられ て い るわけで 、 そ のよう な 状 態の 中で 生まれ たのが 道 元という ことで す 。 この 藤 原 家と 源 通 親 家つまり 久 我 家とい うの は、その 当 時の 貴 族の 中でも 大 変に 優れた 家 系で、した がって 当 時の 教 養 人のトップ レベルで あったのです。 例えば、 通 親とい う 人も 宮 廷 政 治の 上での 権 謀 術 数のみ の 人では ありませ ん。 和 歌は 六 条 季 経に 師 事し 『 千 載 集』 や 『 新 古 今 和 歌 集』 に のりつね 和 歌が 載せられ て いる 歌 人でも あ る の で す 。 駒 澤 大 学 図 書 館 長の 林 達 也 教 授が 和 歌の 専 門でも あ り ま す の で 調べても らっ たので す が 、 通 親の 次 男で、 道 元の 腹 違いのお 兄さん にあたる、 後に 道 元の 育ての 親つまり 育 父になる 通 具とい いく ふ みちと も う 方がい ます が、この 通 具という 人は 藤 原 定 家と 並び 称せ られ た 和 歌の 名 手で、 『 新 古 今 和 歌 集』 の 選 者の 一 人であ り、 当 時の 最 高の 文 人、 政 治 家でも あ り ま す 。 道 元は、そ うい う 環 境の 中で 育つの です 。そ うい った 環 境がそ の 人の 人 生に 深い 影 響を 与えないことは ありません。 そう いう 時 代に 頼 朝が 橋 供 養に 行き、 落 馬して 亡くなり ます。そして 道 元が 三 歳の 時、 今 度は 父 親の 通 親が 亡くな ります。 五 十 三 才の 突 然 死でした 。 さ ら に 八 才の 時、 母 親 の 伊 子も 亡くなります。という こ とは 、 道 元はいわゆる 確 たる 家としての 血 筋としての 後ろ 立てを 失うこ とにな っ た わけです。このようなとき、 当 時の 貴 族の 子たちに は 二 者 択 一の 道が 残され て い ま し た。 今でい う 養 子である 猶 子と ゆう し して 家を 継いで いくか、 出 家をするかです。そんな 中、こ れは 伝 説 的にもいわれておりますが、 恐らく は、その 通り で、 母 伊 子の 懇 願で、 遺 言とい っても 良いかも 知れませ ん 、 母 伊 子の 弟に 当たる 天 台 宗の 良 観をたより 出 家をするとい うこ とになり ます。 『 永 平の 風』 に 詳しく 書きましたが、 道 元が 出 家した 当 時 は、 最 澄が 開いた 天 台 宗の 本 山である 比 叡 山は 日 本 仏 教 界 に 君 臨し、 仏 教 全 体を 学ぶことができる 、 現 代 風に 言えば 仏 教の 総 合 大 学という 大 変な 学 問 所で も ありました。しか しな がら、 道 元が 学んで いた 一 二 一 五、 六 年から 二〇 年 代 まで 、 比 叡 山は 天 台 集 団の 内 部 紛 争がそ の 極に 達していた 時 代でもあ り 、 横 暴な 僧 兵という の もいて、 その 当 時は、 いわゆる 山 門( 延 暦 寺) と 寺 門( 園 城 寺) の 両 派に 別れて 焼き 討ち 騒ぎを 繰り 返し、 山 内も 著しく 世 俗 化していたよ

(9)

永 平の 風( 大 谷) ─ ─ うで す。そのよう な 状 況の 中で、 道 元は 天 台 教 学を 学んで いくわけですが、 当 時は 末 法 思 想が 流 行り、 物の 怪という ものが 支 配をしていた 時 代です。その 物の 怪を 追い 払える のは 仏 教 以 外にない。 密 教 的 加 持 祈 祷のみ が 唯 一の 救いと いう 状 況でもありました。ですから、その よ うな 空 気に 飽 きたらずに、 時 代の 波に 押され るよ う に 比 叡 山を 出て 行っ た 人たち がいたということは 皆さん ご 存じのとおりで、 道 元に 先 行する 人には 栄 西や 法 然がお り ま す 。 そ し て 同 時 代 でやや 先 行する 人には 親 鸞もいます。 例えば 親 鸞は、 九 才 で 比 叡 山に 登って 堂 僧という 下 積みの 生 活をし、 二 十 年 間 比 叡 山で 暮らした 後、 二 十 九 才で 山を 降りて 法 然の 弟 子に なっ た 人です。また、 道 元の 後に 活 躍する 日 蓮は 二 十 一 才 で 比 叡 山に 登り、 十 一 年 後の 建 長 五 年( 一 二 五 三) 、 す な わ ち 道 元が 示 寂した 年に 比 叡 山を 降りました。 道 元が 修 学を 始めた 比 叡 山には 、 先ほど 申しましたよう に 武 力で 全てを 解 決しよう と す る 僧 兵たち や、 修 行など そっ ちのけで 外 界に 降りて 乱 暴 狼 藉を 働いていた 衆 徒たち が 多 くいました。そこまでしない 僧たちの 中にも 名 利 栄 達を 求 める 雰 囲 気が 充 満していたの で す。そのような 状 態の 中で 道 元が 抱いた 疑 問というの は、 日 本 仏 教の 原 点ともいえる もので、 それは 「 草 木 国 土 悉 皆 成 仏」 とか 「 一 切 衆 生 悉 有 そう も く こ く ど しっ か い じ ょ う ぶ つ いっさいし ゅ じ ょ う し つ う 仏 性」 という 言 葉で 表 現され て お りま す 。 これ は 、 叡 山 天 ぶっ しょ う 台の 基 本 的な 考え 方とさ れます が 、 人 間というの は 生まれ なが ら に し て 完 成され た 人 格を 持っている とい う、い わ ゆ る 本 覚 思 想です。 道 元は、そ れに 対して、 道 元の 伝 記をま とめた 『 建 撕 記』 の 伝えるところ で は 「 顕 密 二 教ともに 談 けんぜい き ず、 本 来 本 法 性 天 然 自 性 身、と。 も しかくの ご と くなら ほんらい ほん ぽっしょ う て ん ね ん じ しょ う し ん ば、 三 世の 諸 仏なにに よ りてかさらに 発 心して 菩 提を 求む るや 」 と 極めて 単 純 明 解に 疑 問を 抱いたことを 記していま す。 もと もと 悟っているもの がな ぜ 修 行をするのか。 生ま れな がらに 完 成され た 人 格を 持っているなら 、な ぜ 諸 仏は なぜ 苦しんで ま で 修 行をす るのか、 もと もと 悟っている の になぜさと り を 求めて 発 心 修 行しな け れ ば な ら な い の か 、 その 修 行とは いっ たい 何かという、そ れは、 当 時の 日 本 仏 教に 対する 極めて 基 本 的な 疑 問といっ て もいい と 思いま す。 しかし、 道 元のこの 疑 問は、 周 辺の 学 僧たちにとって は 出 家 以 前の 極めて 幼 稚な 質 問にしか 映らなかったようです。 彼らにとって は 、 迷いの 凡 夫まで も 肯 定して、 人 間は 最 初

(10)

─ ─ 永 平の 風( 大 谷) から 悟った 存 在である と い う の が 当 然の 考え 方であ り 、 そ れに 疑 問を 差し 挟むなどとは も っての 外のことだったの で しょう。 人 間には もと もと 仏 性がある と い う 考え 方を 突き 詰めますと、その 最 終 的 結 論は 個 人の 修 行 体 験 以 外には な くなります。つまり、 修 行 僧は 自 己の 修 行 体 験のみに 安 住 するこ と にな っていくわけ です。そこ で 、 悟ってい よ う が いまいが、 修 行など 一 切しなくても、 自 分は 悟っている か らいいのだという 風 潮がそ の 当 時あっ たよ うで す。 つ ま り、 「 わし は 悟っている から 、わしの やるこ と は 全て 許され る 」 というようなことを 言うわけです。この ような 「 私の 所 行 は 全て 仏の 所 行である 」 という 考え 方を 本 覚 崩れとか 天 台 崩れとい っ た よ うであり ます が。また、こ れに 対し 疑 問を 呈しても、 答えてくれ る 人がいな か った とい うの が 現 実で あっ た の で し ょう 。 しかし、その 疑 問に 対して 幾 分かの 示 唆を 与えてくれ た のが 、 色々な 議 論があ り ま す が 、 栄 西であ った と 私は 思っ ています。 栄 西は、 元は 天 台 宗の 人で 密 教を 深く 学んだ 人 です が、あの 当 時に 二 度も 中 国に 渡った 人です。 一 度 目は 一 一 六 八 年の 四 月から 九 月まで 、 二 度 目は 二 十 年 後の 一 一 八 七 年、 の 時は 中 国からど う し て もインド ま で 行きたかっ たようで すが 、 中 国の 事 情でそ の 願いは 却 下され 、 日 本に 帰 国の 途 次、 暴 風に 遭い、 中 国に 漂 着し、やむを 得ず、 前 回の 縁で 天 台 山に 登り、 そこで 臨 済 禅を 伝える 虚 庵 懐 敞に 出 会い 禅を 学び、 一 一 九 一 年に 帰 国し、 密 教との 兼 修 禅を 広めた 人です。 当 時、 禅の 本 場は 中 国で、 一 二〇〇 年 代の 宋の 時 代でした 。 その 栄 西が、 真に 禅を 極めたいとするな らば 何よりも 本 場に 師を 求めな け れ ばならない と い う こ と を 教えてくれ たのだろうと 思います。それと 同 時に 栄 西が 紹 介してく れ た 日 本での 師とな る 明 全という 方と 二 人で、 公 武が 激 突し、 日 本が 大きく 変わっていくきっかけとなっ た 承 久の 乱( 一 二 二 一) が 治まっ た 貞 応 二 年( 一 二 二 三) ともに 手を 携えて 中 国に 渡って まいり ま す。 さて、 遣 唐 使の 時 代は、 中 国に 渡る 船というの は、どこ へ 着くか 分からないために、 四 艘の 船を 丸 太で 繋いで 風の ままに 流され て 行った ような と ころ があり 、 四 艘 船ともい われ ていました。と こ ろが 、 道 元の 時 代になると、 船が 潮 に 流され な い よ う な 形になり、 同 時に 羅 針 盤の 初 歩 的なも のも でき、この 時 代には 命が 危 険にさらさ れない 程 度で 中

(11)

永 平の 風( 大 谷) ─ ─ 国に 渡ることができたといわれ て います。 何 月 何 日に 出 発 して 何 日に 着くという 絶 対の 保 障はな いの です が、とも か く 行って 帰ることはできたようです。だからこの 頃、 鎌 倉 幕 府は 日 宋 貿 易が 非 常に 盛んにな っ ており ま す。 道 元が 着 いた 寧 波という 港で 十 日の 間に 銭がすべて 無くな ったとい にん ぽう う 逸 話があ り ま す 。 鎌 倉 幕 府が、 銭を 鋳 造する より は 買い 取って 来た 方が 早いということで、 寧 波の 港 町で、 恐らく ありとあらゆる 手 段で 銭をかき 集めたらしいの です。 非 常 に 不 評をかったという 話が 今でも 伝えられ て います。 寧 波に 着いた 時に、 禅 林で 食 事の 係である 典 座という 職 てん ぞ にある 老 僧が 船までやっ て 来ます。 「 明 日はわ が 育 王 山で 修 いく おうざん 行 僧たちに 麺 汁 供 養するの で 椎 茸を 買いに 来た 」 というい わゆる 『 椎 茸 典 座』 の 話として 知られ て お りますが 、 道 元 がこ の 典 座に 文 字とは 何ですか ? 弁 道とは 何です か ? 」 と 質 問します。 道 元はこの 時、よくわからないまま 禅 的な 雰 囲 気というものを 感じと ります。 道 元にとっ て その 頃 修 行とは 、 坐 禅して、 経 典を 読んで、 祖 録を 精 読して、そ れ を 観 念 的に 頭でとらえ 構 築していくことしか 頭になかった はず です。 と ころ が、 その 典 座によ っ て 、 自 分に 任され た、 炊 事に 専 念する とい うこ とさえも が、 禅の 修 行の 根 本であ ると いう ことを 何となく 教えられ た ので す。そういう 老 僧 の 態 度と 道 元が 頭の 中で 考えていたことが ぶ つかり 合った のが この 船 上での 出 来 事で、 つまり 道 元にとっ て の 最 初の カルチャーシ ョック で あ っ たろ うと 思います。ただ 頭の 中 で 考えていることと 行うこ ととの 齟 齬です。 では、 道 元の 目 指した、その 当 時の 天 童 山とは 一 体どう いう 所だっ たので し ょうか。 天 童 山は、 南 宋の 禅 宗の 五 山 のう ち 第 二 位に 位 置し、 僧 数は 千 名を 超え、 山を 背にした 斜 面に 立 地する 条 件を 見 事に 生かした 大 伽 藍 群を 有し、 境 内は 階 段 状に 展 開してい た 。 伽 藍 群は 山 門・ 仏 殿・ 法 堂・ 方 丈を 中 軸にして、 山 門と 仏 殿を 横 軸とし、その 線 上に 僧 堂と 庫 院を 置き、その 後 方に 後 架や 衆 寮が 配 置され た お 寺 であ った とい うこ と で す 。 単に 自 然の 地 形に 順 応している だけでは な く 、 建 物は 中 軸を 中 心に 左 右 対 象の 配 置をし 、 周 囲の 自 然 環 境に 見 事に 解け 合う 風 情であ ったそ う です 。 そこで、 道 元は 数々のカルチャーショックを 受けます。 船が 着いた 時に 船 上で 会 話をし た 老 典 座が、 「 私は 修 行を 終って 帰る 」 と 言って 尋ねてく れ ます が、 その 時に、 「 この

(12)

─ ─ 永 平の 風( 大 谷) 前もおっ し ゃ っ て い た 文 字とは 何ですか ? 」 と 尋ねると、 「 文 字というの は 本 質をわきまえて、 そ れをきちんと 理 解す ることが 肝 心である 」 と 教えてくれます。 「 弁 道もそうで あ る。 その 根 本もわきま えよ 。」 というの です。 し かし、 そ ん なことを 言われ ても 道 元は 納 得できませ ん。そ れ で、も う 一 度「 よくわかり ま せ ん 。 老 僧の 言われ た 文 字の 真 意とは 何ですか。 」 と 問うと、 「 一、 二、 三、 四、 五」 という 数 字 を 示され た。 そこで、 皆さん 、 道 元は 日 本 人です。この 典 座は 中 国 人 です。この 会 話は 何 語でなさ れ たの でし ょ う か 。 道 元は 寧 波に 着いて 三ヵ 月 遅れて 天 童 山へ 入って 行きますが、 私は その 三ヵ 月が 問 題だと 思ってい ま す。 とい うの は、 『 正 法 眼 蔵 随 聞 記』 によ り ま すと 明 全と 中 国へ 行くため に 方 語も 習っ たと 見えます。 方 語というの は 地 方の 言 葉、つ ま り 中 国 語 です。ど うしてそ れが 習えたかといいますと、その 当 時ま だ 中 国にいた 栄 西のお 弟 子さん た ち が 、 建 仁 寺に 帰って 来 て 教えてくれ たのです。しかし、 恐らく 日 本 人である か ら 人にも よ る の で しょうけれども 発 音はど うだ ったの で しょ う。 先 程 言いましたよう に、 道 元は 小さい 時から、 当 時の 最 高な 教 養 環 境の 中に 育つわけ で すから、 当 時の 教 養 書で ある 『 李 釛 百 詠』 はも と よ り 『 四 書 五 経』 とく に 『 詩 経』 り き ょ うひゃ くえい さらに 『 文 選』 あるい は 『 十 三 経 注 疏』 まで 習っていたと 思われ、いわゆるの 漢 文を 読み 書きする 力は 抜 群にあった はず です。しかしな がら、 発 音が 正 確には で き なかっ た の ではないか。 私はそ れを 、 船 上で 三ヵ 月かけて 習ったと 思っ ております。そうでなければ、 天 童 山へ 行って す ぐ に 、 僧 の 序 列の 問 題で 天 童 山の 役 寮たちと 一 悶 着を 起こすことが できる は ず が ないの で す。 さて、 「 一、 二、 三、 四、 五」 といわれた 時に、 道 元は 恐 らく 本 当のカルチ ャーシ ョ ッ ク を 受けた と 思いま す 。 一、 二、 三、 四、 五という 数 字ほど 文 字として 確かなもの はあ りま せん。 自 分は 文 字にあまりにも 執 着しているの で はな いか、ということをここで 気づかれ た のでは な いか。しか し、ますます 分かわからないので 仕 方なく 「 それ で は 弁 道 とは 何ですか 」 と 聞くと、 老 僧は 「 界 嘗て 蔵さず 」 とい へん が い かつ かく うこ とを 言うのです。こ れは、 真 実はあ り の ま ま に あ ら ゆ ると ころに 現れている とい うこ と で す。 文 字には 限 界があ ります。 我々の 頭の 中で 考えていることも 限 界があ り ま す 。

(13)

永 平の 風( 大 谷) ─ ─ 文 字に 執 着をして 知 識ばかりを 追い 求め、 文 字で 培われ た 知 識だけで 全てを 解 決しようとしてい る と こ ろの 誤りを 突 かれ たわけで す。 「 そん なことでは 、 仏の 本 当の 姿は 見えて きませ ん よ 」 ということをこの 典 座は 教えてくれ た。 老 典 座は、 文 字で 表わさ れた 教 義や 経 典だけを 理 解しても 仏の 真 実は 伝わら な い という 事 実をこ こ で 教えて く れ た の で す 。 ですから、 道 元は 後にこの 老 典 座との 出 会いを 感 謝をこ め て、 「 聊か 文 字を 知り 弁 道を 了ずる は 即ちかの 典 座の 大 恩な り 」 と 『 典 座 教 訓』 の 中で 讃 仰してやまないということに て ん ぞ き ょ う く ん なるわけです。 また 別の 時、この 天 童 山で 暑い 中で 茸を 干している 老 僧 に 会います。 道 元が、 「 こん な 暑い 中、 ご 老 体で 無 理なさら ずに、そ んなことお 止めにな っ て 若い 人にや ら せ たらどう ですか 」 と 言うと、 「 何を 言うのだ。 他 人は 私ではないじゃ ないか、 人がやったことは 自 分のことに はならない。こ れ は 私の 仕 事なのだ 」 と 言って 一 蹴され て し ま い ま す 。 道 元 がまた 「 そ れ はよくわかります。しかしな がら、どうして こん な 炎 天 下で 苦しい 思いをしているのですか 」 と 聞くと、 その 老 典 座は 怪 訝そう に 道 元を 見て、 「 何をお っし ゃってい るのだ。 今この 時を 逃がして 一 体いつ この 仕 事ができるの だ 」 と 言われ ました。 またある 時、こ れは 日 本ではちょっと 考えられ な いこと です が、 布が 手に 入らないから 紙でできた 衣を 着ている 僧 がい ました 。 故 郷には お 金がある 人でしたから、 ある 人が、 「 故 郷に 行ってお 金をも ら い 、 衣を 買って 来たら ど う です か 」 と 聞いたら、 「 いや、 故 郷に 帰るその 時 間がお し い 」 と 言ったとい う 清 貧の 求 道 一 筋の 僧の 話もあります。 また ある 時は、 道 元が 一 生 懸 命「 語 録」 を 見てい たら 、 「 何のため に 見ているのですか 」 と 質 問され 、 道 元が 「 日 本 に 帰って 人々を 教 化す るためで す 」 と 答えたら 、「 何のため に 人を 教 化するのだ 」 と 言われ ます。 道 元が 「 衆 生を 救う ためで す 」 と 言うと、すかさず 「 つまる と ころそ ん なこ と が 一 体 何になるのか 」 ということまで 言われ ました。 この ような 経 験を 積んで いくうち、 道 元は 自 分 自 身のやっ て い ることが 間 違って はいないにしても 何かが どこかが 違って いるの で はないかと 何となく 気づか され ていきます。 また、カルチャーシ ョ ックと 言えば、ここにおられ る 僧 侶の 方々は 分かるの で す が 、 頭の 上にお 袈 裟を 戴いて 、

(14)

─ ─ 永 平の 風( 大 谷) 「 大 哉 解 脱 服、 無 相 福 田 衣、 披 奉 如 来 教、 広 度 諸 衆 生」 と 唱 だ い さ い げ だ っ ぷ く む そ う ふ く で ん え ひぶ にょ ら い き ょ う こう ど し ょしゅ じ ょ う えお 袈 裟をかけるという 所 作が、 現 実に 目の 前で 行われ て いる 現 実を 目のあたりにして 驚 嘆し 感 涙 袖を 潤すというこ ともあり ました。 こ れ は、 道 元は、 『 阿 含 経』 を 読み、 儀 則 に 順い 自 分も 袈 裟を 着けて はいた が 、 天 童 山において 厳 粛 な 威 儀の 実 践を 目のあたりにすることに よって、 袈 裟には 煩 悩を 砕き 障 碍を 除き 解 脱に 導く 功 徳のあることを 体 認し たわけです。 それから も う 一つ 大 変 重 要なことは、 「 嗣 書」 のこ と で し し ょ す。これは 禅 宗で 一 番 大 事なもの で す。 師 匠から 弟 子に 伝 わった 悟りの 証 明とい っても 良いで しょう 。 これが 現 実に 存 在するこ と を 知るのです。 今まで 聞いたことしかなかっ た 嗣 書をみ んな 持っている とい うこ とを 知り、 それ を 見せ てもらった 時に、 それは 五 度に 及ぶの ですが、こういうも のが あ る のだと 感 動し 感 涙するの で す ね 。 要するに 、 仏 法 の 悟りの 姿がこ の 嗣 書という 形になって 目の 前に 現 実 的に 示され て い る と い う 事 実にもの す ご く 刺 激を 受けるの で す 。 曖 昧 模 糊としたさとりの 実 体が、 嗣 書という 実 物の 形にま で 具 現 化され て い ること へ の 感 動です。 そのような さ ま ざ ま な カルチ ャ ーショック を 受けなが ら 、 いろいろな 体 験を 重ねていく 内に、 道 元の 心 境が 段々と 深 まり 、そして、 日 常 生 活そのままが 修 行である 、 仏 法の 現 れで あるとする、 現 実に 即した 生 活こそも 修 行である と い う 認 識へと 導かれ ていきます。 一 方で 道 元は、 嗣 書を 拝 覧する とい うこ と で 、 自 分 自 身 も 仏 祖から 仏 祖へと 正 伝した 仏 法を 受け、そこに 自 分の 名 前を 記すこと、 嗣 書の 中に 古 今を 通じて 一 貫して 流れてい る 仏 祖の 命 脈を 自 分 自 身が 仏 祖とな って 相 承し、それを 弟 子に 嗣 続するこ と が 悟 道の 姿であ り 使 命である と い う ふ う に 考えてきています。しかし、 中 国の 禅 宗の 師である 無 際 む さ い 了 派、 即ち 天 童 山の 住 職は、その 真 面 目な 姿に 感 動し 自 分 りょ うは の 法を 嗣がせ ても よい と ま で 言い 出すの ですが、 道 元はそ れを 辞 退します。 自 分の 意にそぐわなかったわけです。つ まり 、その 中に 正 師を 見い 出すことができなかったという ことで す 。 そ うして 道 元は、 当 然のこととして、 時 期を 待っ て 天 童 山を 下り 尋 師 訪 道の 旅に 出ます。その 時、 恐らく 明 全も 行 動をともにしたかったのでしょう。が、 明 全は 体を 悪くしていて 行けなくなり、 道 元ひとり で 出かけることに

(15)

永 平の 風( 大 谷) ─ ─ なります。ところ で、 道 元が 中 国で 巡った 場 所は、そのほ とんどが 栄 西の 歩いた 所でした 。 そ れ は 恐らく、 明 全との 約 束で、 師 匠である 栄 西の 供 養を 兼ねて とい うこ と が あ っ たと 思います。しかし、 道 元をその よ うな 行 動に 駆り 立て た 本 当の 原 因は、 嗣 書を 拝 覧することに よ って 到 達した、 仏の 悟りは 同じ 仏の 境 地を 体 得した 人によ っ て 連 綿と 受け 継がれてきた 事 実、 釈 尊の 真 実の 仏 法を 確 実に 嗣 続してい る 正 師に 出 会うという 確 信であ った と 思います。 振り 返ってみ ま すと、 栄 西によ っ て 初めて 日 本に 紹 介さ れたと 言っても 良い 中 国 禅は、 初めは 確 実に、 全てを 超 越 して 存 在する 心の 探 求を 目 指す 仏 法で あ りました。ただひ たすら 坐 禅をして、そこに 生ずる 心 境を 仏としてその 心を 掴むこ とこそ 真の 悟りを 得ると いっ た 従 来の 仏 教には ない 新しい 宗 教 観を 持っていたと 思います。 恐らく、 日 本の 平 安 末 期から 鎌 倉の 初 期にかけての、 あの 世への 往 生 成 仏や この 世での 加 持 祈 祷などおよ そ 無 縁のもの で あるという 新 鮮さが あっ た こ とで し ょ う 。 禅のそういった 主 張に 道 元が 惹かれ たのは 当 然の 成りゆきで あったのでは ないで し ょう か。 さて、そうして 正 師に 出 会うこ とを 目 指して 旅を 続けて いくわけですが、その 時 代は、 日 本では 元 仁 元 年( 一 二 二 四) 、 北 条 義 時が 死に 泰 時が 執 権とな った 時 代です 。 皆 様 方 の 頭の 中にち ょ っ と 思い 浮かべ て い た だ き た い の です が 、 昨 年か 一 昨 年でしたか 北 条 時 宗というNHKのドラ マ が あ りました。 あ のドラマ の 五 十 年 前ほど 前と 考えていただけ れば わかる か と 思います。この 年の 八 月には 再び 専 修 念 仏 の 禁 止 令が 出され た り 、 五 十 二 才にな ってい た 親 鸞が 『 教 行 信 証』 を 著した 時 代でも あ り ま す 。 きょ う ぎ ょ う し ん し ょ う 結 局、 道 元は 何とかして 正 師にお 会いしたいと 思いな が らで き な かっ た の で す が 、 道 元の 本 当に 求めていた 師とい うの は、 どうも 大 梅 法 常( 七 五 二~ 八 三 九) という 方に 代 だい ばい ほ う じょ う 表され るよ うで す 。こ の 人は 馬 祖という 人のお 弟 子さんで 、 ば そ 法 常が 「 仏とは 何です か 」 と 聞くと、 馬 祖は 「 即 心 即 仏」 そく し ん そく ぶ つ つまり 、 心こそ が 仏にほ かな ら な い と 答えま す。 そ こ で 、 法 常は 大 梅 山に 入って 、 蓮で 編んだ 衣を 着て 日 夜 坐 禅をし、 三 十 年 間 過ごします。その 間、 王 臣に 知られ ず、 檀 那たち の 接 待に 決して 行かなかったといいます。 そ うしたある 時、 馬 祖 門 下の 塩 官 斉 安( ? - 八 四 二) の 弟 子のある 僧が 道に えん か ん さい あ ん

(16)

─ ─ 永 平の 風( 大 谷) 迷い、 偶 然、 大 梅に 出 会い 尋ねます。 「 和 尚は、 馬 祖 大 師の お 弟 子さん と お 見 受けいたしますが、 馬 祖 大 師からどんな ことを 学んで この 山に 籠もっ てい るので す か 」 。 う 尋ねら れた 方 常は 「 即 心 即 仏と 教えられ た 」 と 答えます。す る と その 人は、 「 いや、 こ の 頃の 馬 祖さん の 仏 法は 違いますよ。 近 頃は 非 心 非 仏と 言ってい ま す 」 つまり 、 心や 仏にとらわ れる な と 言っている と 言うの です。 す る と 、 大 梅 法 常は 「 あ の 和 尚め、まだ 人を 騙くらかしているのか。 非 心 非 仏、 大 いに 結 構、で も 私は、あくま で 即 心 即 仏である 」 と 言った というの です。その 人が 帰って 馬 祖 大 師にそのことを 伝え ると 、 馬 祖は 呵 呵 大 笑して 、「 おう、 梅の 実が 熟して い る な 」 と 言ったそ う です。 道 元はこの 大 梅 法 常の 住んで いたという 所に 行き、 大 梅 が 頭の 上に 乗せて 坐 禅をし たと いう 鉄の 塔がある の で す が 、 それ が 残っていたとい うこ と が あ っ て 、 道 元が 感 激に 浸り、 大 梅に 想いを 馳せ、 もは や こ う い う 人は 中 国にはい な い、 もは や 中 国には 正 師はいないの か とい う 無 念のう ちに 坐 睡 しました。 坐 睡というの は 坐 禅しな がら 眠り 込んで しまう ことで す 。が 、その 夢に 現れたの が この 大 梅で、 大 梅は 開 花した 梅の 一 枝を 道 元に 授けたのだそうです。 これ に 感 激して、 道 元は 何とか 気をもちなお し 、 正 師を 求めな け れ ばならぬ と 思いなおします。 正 師を 得なけれ ば 何のための 参 学か。 嗣 書の 中に 古 今を 通じて 一 貫して 流れ ている 仏 祖の 命 脈というものを 自 分 自 身が 仏 祖とな ってそ れを 弟 子に 継がせる と い う こ と が 一 番 大 事なのだから、そ れをしなけ れ ば 何のため に 自 分は 正 師を 求め、こ ん な 中 国 までやっ て 来たか 意 味がな いじ ゃな い か と 思い 返えすので す。そして、 天 童 山へ 戻って 来た 時に、 天 童 如 浄に 出 会う ことになります。 天 童 山に 夏の 風が 渡っていた 頃です。 宝 慶 元 年( 一 二 二 五) 五 月 一 日のことでした。 道 元が 焼 香 礼 拝して 方 丈に 入 ると、 黒い 衣に 濃い 茶のお 袈 裟を 付けた 老 僧が 端 正に 曲 録 に 座ってい ま した。 道 元にとっ て は 強 烈な 印 象だっ たは ず です。なぜなら、 今まで 巡って 来た 住 職たち はみ んな 金 襴 のお 袈 裟をかけていたからです。この 天 童 如 浄は 黒い 衣に 濃い 茶の 袈 裟という 姿です っと 座ってい ま した。 方 丈の 深 閑とした 中で 古 仏が 道 元を 見、 道 元は 如 浄をしっかりと 見 上げて 、 道 元は 古 仏に 見られ てい ると いう 実 感を 持ったの

(17)

永 平の 風( 大 谷) ─ ─ です。 道 元は 瞬 時に 如 浄に 正 師を 見い 出しました。 如 浄の 方も 瞬 時に 道 元の 器 量を 見 抜き 仏々 祖々の 面 授の 法が 成っ たな 」 と 言いました。 面 授というの は、 面と 面を 突き 合わ せて 人と 人が 目の 辺りに 相 見するこ と に よ って 法が 伝えら れる こ と を 言います。 如 浄も、 恐らくその 師である 明 全か ら 道 元の 評 判を 聞いていたのでしょう、 「 希 代、 不 思 議の 奇 縁…… 」 という 言 葉を 使って 大いに 満 足します。 仏々 祖々 の 面 授の 法が 成ったとい う 言 葉の 中に 如 浄の 期 待の 大きさ が、 道 元にひ しひ しと 伝わっ て 来た 瞬 間でした 。 私は、こ の 場 面を 「 宝 慶 元 年の 巡り 会い 」 と 名 付けておりま す が、 この 巡り 会いが なけれ ば 今 日の 道 元の 〝 永 平の 風 〟 という のは 吹いていないは ずで す。 この 道 元の、 正 師への 巡り 会 いが 、 道 元にとっ て 一 番 重 大なところで し ょう。 この 如 浄と 道 元の 間の 面 授とい う の は 、 お 釈 迦 様が 霊 鷲 山で 説 法を な さ れ た 時、 優 曇 華を 一 本 捧げ る と りょ うじ ゅ せ ん う ど ん げ 摩 訶 迦 葉ひとり が ニッコリ 笑ったとい う 話、 拈 華 微 笑の 世 ま か か し ょ う ね ん げ み し ょ う 界などにも 通じる 世 界がそ こに 現 出され ま し た。 「 正 師を 得 ざれ ば 学ばざるにしかず 」 といいますが、 思えば 長い 長い 旅 路であ り ま し た 。 先 程も 言いましたが、 道 元の 正 師を 求 める 旅 路というの は、 自 分の 目の 前に 現れて くる 先 輩 僧た ちを 全て 消し 去っていく 旅 路でした 。 法を 嗣いで もいいと 言ってく れ た 人さえも 焼 香 礼 拝して 過ぎてきました。しか しな がら、 今、 全てを 託すことができる 正 師が 目の 前に 厳 然として 現れたわけ です。この 如 浄との 相 見こそ が、 道 元 に 決 定 的な 示 唆を 与えるわけです。ですから、 長かった 尋 師 訪 道の 旅 路、 長き 心の 遍 歴、 長き 心の 懊 悩、 長き 心の 葛 藤、そ れら 全てが 道 元から 消え、 正 師に 巡り 会えたという 喜びで 満ち 溢れてい き ました 。 そ れ では、 天 童 如 浄という 人はど うい う 人であ ったの で しょうか。 如 浄は、その 当 時にあっては 数 少ない 古 風な 禅 風を 残す 中 国 曹 洞 宗の 法を 嗣いだ 禅 僧で、 自ら 一 家を 成し ていました。 皇 帝から 紫 衣を 賜ってもそ れを 断 固として 拒 絶した 人で、その 当 時 朝 廷に 支 配され た お 寺の 中で 一 途に 求 道に 徹した 人といわれています。ただ、 中 国 禅 宗 史 上の 中では そ れ 程 目 立つ 存 在では ありません。 当 時、 確か 六 十 三 歳であ った 如 浄は、 自ら 率 先して 夜は 午 後 十 一 時 頃まで 坐 禅を 続け、 朝はまだ 暗い 午 前 二 時 半 頃には 既に 坐 禅して いたそうです。

(18)

─ ─ 永 平の 風( 大 谷) 道 元は、 自 分の 全てを 投げ 捨ててこの 人に 追 随していき ます。 老いたりといえども 如 浄の 弁 道は 尋 常 一 様のもの で はあ り ま せ ん 。 誰も、 如 浄が 横になって 寝たところを 見た ことが な いそうで す。 如 浄は、 大 衆を 前にして 言うの です。 「 私は、 十 九 才の 時から 一 日 一 夜も 坐 禅をしない 日はな か っ た。 住 職となる 前から 故 郷の 人と 話などしたこともない。 それ は 坐 禅のための 時 間がお し い から であ る 。 修 行 中は 自 分の 足を 止めた 僧 堂から 出たこともない。 老 僧や 役 寮たち の 所へ 行ったことなど 決してない。ましてや 物 見 遊 山など とんで も ない。そん な 修 行の 邪 魔になることなどしたこと もない。 禅 堂、あるい は 坐 禅ので き る 静かな 高い 建 物の 上 や 物 陰を 求めて 坐 禅した。いつ も 坐 禅をす るため の 坐 蒲を 持ち 歩いて、 時には 岩の 上でも 坐 禅をした。 私は、 釈 尊の 極めら れた 金 剛 座を 坐りぬくのだという 気 概を 持って 坐 禅 した。 時には 尻の 肉が 爛れ 破けるこ と もあ った が、そ う い う 時には な お さら 坐 禅に 励んだ 」 。 如 浄の 声は、 あくま で も 静かで あっ たが 、 こ の 坐 禅をその 当 時の 天 童 山の 修 行 僧に 課したのです。 坐 禅 中に 居 眠りで もす るよ う な ことが あ れ ば、 如 浄は 自 分の 拳 骨や 履いていた 木 靴ですさ ま じい 勢い でな ぐり つけ 、 蝋 燭を 煌々とつけて 眠 気をさ まさせたとい います。しかし、この 如 浄のあまりにも 厳しい 参 禅の 仕 方 に、 修 行 者、 特に 役 寮から 不 平が 続 出し、 侍 者が 「 坐 禅の 時 間を 短くしてください 」 と 伝えると、 如 浄は 「 無 道 心の ものが 僧 堂で 坐 禅をすれば 坐 禅の 時 間などいくら 短くても 眠る。 本 当に 道 心のあるもの はいくら 長くても 喜んで 坐 禅 するものだ 」 と 言って 一 蹴したといいます。 しかし、ある 時、 如 浄は 「 私は、 年 老いた。そろそろ 草 庵を 結んで 老 後の 生 活に 入っても い い 。 しかしこの 寺の 住 職という 責 任ある 地 位にある 以 上、 修 行 者 諸 君の 迷いをさ まさ ねばならない 。 諸 君の 仏 道 修 行を 助け るため に、 私は 叱りつ け た り、 怒 鳴ったり 、 拳をふる っ たり 、 竹 箆で 君た ちを 打ちの めすことも 敢えてする。だが、こうしたことを するの は 仏の 子である 修 行 者 諸 君に 対して 大 変に 申し 訳な く、 誠に 恐れ 多い。このようなことは したくは な い。しか し、これは 私が 仏に 成り 代わっ てす ることで ある。それ ゆ えに、 修 行 者 諸 君、どうか 慈 悲をも って 、 慈 悲をも って 許 したまえ 」 と 言ったといいます。その 後、この 僧 堂の 修 行 者たち は、 如 浄の 慈 悲あふ れ る 誠 実さに 感 動し、 如 浄に 打

(19)

永 平の 風( 大 谷) ─ ─ たれ ることを 喜びとしたと 言います。それまで の 天 童 山の 宗 風が 一 変していきます。こ れは、 私が 書いたわけではな く、 『 正 法 眼 蔵』 に 書かれ てあることを 私が 訳 出しただけの 話です。 で すから、 道 元はそ うい う 人の 下で 本 当の 修 行の すごさ、 人 間のすごさという も のを 肌で 感じ、 「 たとえ 厳し い 修 行で 病 気になって 死ぬことが あろうともこの 師の 下で ひたすら 坐 禅に 励もう 」 と 決 意するの で す。 そん な 時、 道 元が、 師 匠と 仰ぎ 日 本からともに や って 来 た 明 全が 四 十 二 歳で 亡くなります。 明 全の 無 念さは いか ば かりのもの で あ っ たの でしょう。 道 元は、 明 全の 無 念さを かみし め な が ら 荼 毘に 付し、 三 百 六 十 余りの 骨を 拾いあ つ めます。 道 元は、 後 日、そ れを 日 本に 持ち 帰り、 建 仁 寺の 開 山 堂の 横に 埋めま した 。 今でも お 墓がありま す。さて、 明 全が 亡くなる と 、 中 国へやってきた 責 任の 重さという も のが 急 激に 道 元にのしかかってきたと 言って 良いのではな いで しょう か 。 道 元は、 如 浄の 下で 参 禅に 励めば 励むほど、 さまざま な 想いや 疑 問が 去 来し、それ らの 一つ 一つを 解 決 す るため には どうしても 正 師 如 浄に 直に 教 示して 貰うほ か なく、その 想いが 日 増しに 強くなり、 遂に 書 状をも って 破 格の 個 人 指 導とい ったものを 願い 出ます。そ れ に 対する 如 浄の 返 答は 「 道 元よ、 君は 今から 後、 昼 夜を 問わずい つ で もよ い。 お 袈 裟を 着けようが 着けまいが、 方 丈に 来て 仏 道 につ い て 質 問してよい。 私は 父が 子を 許すよう に して 君を 迎えよ う 」 という 慈 慮あふ れ る ものでした。そ れ からとい うも の 、 道 元は 寸 暇を 惜しんで 如 浄の 方 丈を 訪れ、 疑 問と する と こ ろ を 尋ねるこ とに な り ま す 。そ れ は 「 教 外 別 伝」 きょ う げ べ つ で ん のことから、 日 常の 過ごし 方、 坐 禅 仕 方にいたる、 非 常に 事 細かなことにまで 及びます。 道 元は、 後にそのやりとり を 『 宝 慶 記』 としてまとめております。 が、 これは、 道 元 ほうきよう き の 唯 一の 入 宋 記 録とも 言えるものですが、これは 純 然たる 求 道の 記 録ですから 極めて 実 際 的な 修 行に 関する 問 題に 限 ら れ、そ れは 実に 四 十 項 目に 及びます。 そして、 明 全が 亡くな って 一ヵ 月 半 後の 宝 慶 元 年( 一 二 二 五) の 夏 安 居も 終わりに 近づいたある 日の 明け 方の 坐 禅 の 時です。 道 元の 隣で 居 眠りをしていた 僧に 向かっ て、 如 浄が、 「 坐 禅は 一 切の 執 着を 捨ててしなけれ ばならないとい うのに 、 居 眠りをす る とは 何 事か 」 と 大 喝をし、 履いてい た 木 靴を 脱いで 殴りつ け ま し た 。 そ の 傍らで 坐 禅に 没 頭し

(20)

─ ─ 永 平の 風( 大 谷) ていた 道 元は、この 如 浄の 一 喝を 聞いて 豁 然と 大 悟に 至る ので す。 如 浄のこの 一 喝が、 道 元の 身 体を 突き 抜けました。 道 元は 時 空を 超 越し、その 瞬 間、まさに 自 分が 諸 仏とな っ て 無 限の 境 地を 飛 翔したのです。そ れ まで 自 分の 心をがん じが らめ にし て い た 肉 体と 心が 諸 仏とともに 軽やかに 乱 舞 し、 今まで 、 自 分の 眼の 前に 厳 然と 立ちは だかっ て いた 全 てのもの が 道 元に 語り 出したのです。 道 元は、 本 当の 仏の とな ったの で す。 道 元は 確 信したはずです。これが 如 浄の 言う 「 身 心 脱 落」 である 、 と 。 そ し て 、 道 元は、 夜が 明け しん じんだつ らく るのを 待って 如 浄の 方 丈を 訪れます。 如 浄は 既に 分かっ て いました。が、 何のための 焼 香かと 聞くと、 道 元は 「 身 心 脱 落いたしました 」 と 答えました。 私の 尊 崇する 鶴 見 大 学 の 高 崎 先 生は、 か つ て 心は 塵だと 言うの で、 私は 「 先 生、 塵じゃ ないと 思います 」 と 食って かか ったこ と があり ま す が、 「 身 心 脱 落」 です。 自 分を 束 縛していたあらゆる 我 執、 束 縛、 煩 悩などから 抜け 出て 捕らわれ の ない 世 界、 無 碍の 世 界に 至ったそのときの 心 境を 報 告したわけです。 これ を 聞いた 如 浄は 頷きな がら、 「 身 心 脱 落、 脱 落 身 心」 と 言います。 坐 禅の 究 極においては 我々の 身 心は 既に 身 心 を 離れ、 身 心は 脱 落 以 外には ないと い う こ とで す 。 そし て、 道 元のこの 境 地を 認めたわけ です。 道 元が 「 自 分の 悟りの 境 地は 本 物で あ るかどうかをどうか 点 検してください 」 と 頼むと、 如 浄は、 「 印 可はお ろ そ かに 与えるものでは ない 」 と 厳 粛に 答えます。 道 元がなお 「 おろそかに 印 可しないと いう の は ど う いうこと で す か 」 と 聞くと 、 如 浄は 「 脱 落、 脱 落」 というの ですね。こ れ は 身 心が 脱 落したということ すら 忘れて し ま いなさ い とい う 意 味で、 道 元の 大 悟を 認 証 したということになるわけです。 そ して、 大 悟の 日から 二ヵ 月 程たっ た 宝 慶 元 年( 一 二 二 五) の 九 月 十 八 日に 至って 、 方 丈において 道 元に 「 仏 祖 正 伝 菩 薩 戒 脈」 が 如 浄から 正 式 に 授けら れることになるわけです。 十 四 才にして 大 乗 仏 教の 中 心 思 想が 内 包していた 矛 盾に 目 覚め、 比 叡 山を 離れて 新たな 求 法の 道を 進んで 来た 道 元 の 目 的がようやくここにおいて 達 成する とい うこ とになり ます。 道 元は、 後にそ れを 「 一 大 事の 因 縁、 こ こ に 了 畢す 」 と 書き 記します。 しかしな がら、 さ とりを 開いたからと 言っ て、そこで す べてが 終わり とい うわけ で は 決してありませ ん。 道 元が、 出 家し 比 叡 山 時 代から 抱いていた 疑 問は、 先

(21)

永 平の 風( 大 谷) ─ ─ 程 言いましたよう に 「 本 来 本 法 性 天 然 自 性 心…… 」 という ほんらい ほん ぽっしょ うてん ね んじしょ う し ん ことから、そこから 問いつ め て 「 人は 生まれ なが らにして 仏である と しな がら 、な ぜ 修 行しなければならないか 」 と いう 疑 問になったわけですが、この 「 身 心 脱 落」 というこ とで 、 確かに 人 間には 生まれ なが らにして 豊かな 仏 性が 具 わっ て い るが 、そ の 仏 性は 修 行しな いこ とに は 実 現せず、 さらに、 例えその 仏 性が 実 現したとしても、そ れを 実 証し なけれ ば 確かにそのとおり で ある ということ が 体 認、つ ま り 体で 認 証され て い か な いわ けで 、 道 元は、 修 行そのもの が、 そのままさ と りの 証なので あ るとして、 「 只 管 打 坐」 を 標 榜します。 それ は 何 故かと 言うと、 普 通、 一 般 的な 考え 方では、 修 行とさ とり は 全く 別 物としますが、 道 元は、 正 伝の 仏 法に おいては、 修 行と さ と りとは 全く 一つで ある、とするとこ ろに 基づきます。 修 行とは 「 証 上の 修」 つまりさ とりの 上 の 修 行である か ら 、 初 心の 弁 道 修 行そのものが 本 来のさと りの 完 全な 姿である 。 そ れ ゆえ ただ 修 行すべきで、 修 行の ほかにさとりが あ ることを 期 待して はならない。そ れ は 坐 禅そのものが、さとりの 姿を 直 接あき らか にす る 本 来のさ とりの 証 拠そのま ま を 示して いるからである。さと りは、 もと もと 修 行とともにあるのだから、 修 行に 限りが な い よ うに 、さ とりにも 終わり がない。そ れ なのに 、 修 行とさ と りは 別 物である と して 、 修 行はさ とり を 得る 手 段である と か、また、さとりを 目 的とした 修 行は 誤りで あ る 。 修 行そ のもの が 、 そ のままさとりの 証なので あ るとし て 、 道 元は、 「 仏 法には 修 証これ 一 等なり、いまも 証 上の 修なるゆえに、 初 心の 辧 道すなわち 本 証の 全 体なり 」( 『 辧 道 話』) と 主 張し ます。が、しかし、そ れのみ で は 修 行のみしていればさと りなどどうで もよく、 修 行さえしていればそ れだけでよい とも 誤 解され かね な い 。 そ こで 道 元は、 修 行とさ とりに つ いて、 如 浄 膝 下で 得た 真 髄をさらに 「 不 染 汚の 修 証」「 不 染 汚の 行 持」 と 表 現するこ と になり ま す。 こ れ は、 帰 国 後に、 立 宗 宣 言とも 言える 『 普 勧 坐 禅 儀』 によ っ て 坐 禅の 根 本 義 を、さらに 『 辧 道 話』 によ っ て 坐 禅の 本 質を 詳 述するこ と によ っ て 明らかにされ て いきます。 さて、 大 分 時 間も 迫って まいり ま したの で 、 皆 様 方のお 手もと の 最 終ペー ジの 最 後に 「 空 手 還 郷」 ということが 書 くう しゅ げ ん き ょ う いてありますが、こ れ に つ いて 説 明しましょう。

(22)

─ ─ 永 平の 風( 大 谷) 嘉 禎 二 年( 一 二 三 六) のことです。 中 国より 帰って 来た 道 元は 三 十 七 歳。 大 悟され てか ら 十 年 後ということになり ます。 こ の 年の 十 月 十 五 日、 道 元は、 日 本で 最 初の 「 上 堂」 をさ れます。 上 堂というの は 禅 林で、その 住 職が 修 行 僧に 対してする 正 式の 説 法を 言います。 中 国 禅 宗の 正 式な 説 法 はこの 上 堂で 行われ るので す 。 そ れでは 『 正 法 眼 蔵』 は 説 法では ないのかといいますと、これは 勿 論、 説 法の 一 種で はあ り ま す が 、 私はさ とり の 教 科 書である と 思っており ま す。というのは、 道 元が 帰って きた 時、 禅のさとりの 実 態 と 申しますか、そう 言う 概 念が、と 言うより は、そ れを 日 本 語で 説 明したものは 当 時 日 本に 全くありませ ん でした。 そこで、それを 説 明す るため に、 道 元は 当 時の 和 語を 用い てさとりを 説いていった、そ れ が 『 正 法 眼 蔵』 です。そ れ とは 別に、 道 元には 、 弟 子たち が 編 纂した 道 元の 語 録であ る 『 永 平 広 録』 があ り 、 そ の 大 部 分を 占める の が 上 堂 語な ので す。 私は、 道 元の 仏 法を 理 解す るため には 、 勿 論、 正 法 眼 蔵』 は 最も 大 事なもの で すが、 『 永 平 広 録』 を 無 視して は 正 鵠を 欠くと 常に 主 張しているの で すが、その 件につ い ては 、ま た の 機 会に 譲らせていただきます。 さて、 「 空 手 還 郷」 に つ いての 上 堂を 『 卍 山 本』 で 訓 読し てみます。 師、 嘉 禎 二 年 丙 申 十 月 十 五 日において、 始めて 当 山 に 就いて、 開 堂 拈 香、 聖を 祝し 罷って 、 上 堂。 山 僧 叢 林を 歴ること 多からず。 只、 是、 等 閑、 天 童 先 師に 見 えて、 当 下に 眼 横 鼻 直なることを 認 得して、 人に 瞞ぜ られ ず、 便 乃、 空 手にして 郷に 還る。 所 以に 一 毫も 仏 法 無し。 任 運に、 且らく 時を 延ぶ。 朝 朝 日は 東より 出 で、 夜 夜 月は 西に 沈む。 雲 収って 山 骨 露われ 、 雨 過ぎ て 四 山 低る。 畢 竟、 如 何。 良 久して 曰く、 三 年、 一 閏 に 逢い、 鶏は 五 更に 向かっ て 啼く。 久 立 下 座。 これ を 現 代 語にしてみますと、 次のよ う に なります。 道 元 禅 師は、 嘉 禎 二 年( 一 二 三 六 年・ 丙 申の 歳) の 十 月 十 五 日に、 始めてこの 興 聖 寺において、 祝 国 開 堂 され 、 香を 拈じ 祝 聖され て、 上 堂され て 次のよ う に 言 われ た。 山 僧は、あちこちと 叢 林を 遍 歴し、その 生 活を 多く わ た し 経 験したわけではない。ただ、はからずも、 先 師 天 童 如 浄 禅 師に 相 見させていただいたのみで あ る。しかし

参照

関連したドキュメント

2-1 船長(とん税法(昭和 32 年法律第 37 号)第4条第2項及び特別とん 税法(昭和 32 年法律第

(1) 会社更生法(平成 14 年法律第 154 号)に基づき更生手続開始の申立がなされている者又は 民事再生法(平成 11 年法律第

・ 改正後薬機法第9条の2第1項各号、第 18 条の2第1項各号及び第3項 各号、第 23 条の2の 15 の2第1項各号及び第3項各号、第 23 条の

水道施設(水道法(昭和 32 年法律第 177 号)第 3 条第 8 項に規定するものをい う。)、工業用水道施設(工業用水道事業法(昭和 33 年法律第 84 号)第

○玄委員 そこで、累積頻度 55%と 95%のほうで、それが平均風速で 55%と 95%か、最大 風速での

(4) 鉄道財団等の財団とは、鉄道抵当法(明治 38 年法律第 53 号)、工場抵 当法(明治 38 年法律第 54 号)、鉱業抵当法(明治 38 年法律第 55 号)、軌道

第1条 この要綱は、法令その他別に定があるもののほか、温泉法施行細則(昭和 42 年石川県規 則第 50

第1条 この要領は、森林法(昭和26年法律第