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九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

A Study on the Local Shêng-yüan 生員 Group and Tang-cheng 党争 in the Late Ming Period. : On the Chu-shêng-chang-sha 諸生杖殺 by Ti-hsüeh- yü-shih 提学御史 Hsiung T‘ing-pi 熊廷弼.弼一.

城井, 隆志

九州大学大学院文学研究科

https://doi.org/10.15017/24545

出版情報:九州大学東洋史論集. 10, pp.76-96, 1982-03-25. The Association of Oriental History, Kyushu University

バージョン:

権利関係:

(2)

明末︑地方生員層の活動と党争に関する一試論

明末︑地方生員層の活動と党争に関する一試論

   li提学御史熊廷弼の諸生杖殺をめぐって一1

       城  井隆

士VOx

一 序二 事件の概略

三 提学御史熊珍重の対生員強圧策

 ω 熊廷弼と江南生語聾

 ② 諸生の活動と東林

 ㈲ 政府の生活対策

四 熊粛呈の行勘

五 小結

 万暦四十年末︑巡按青天御史荊養喬は寧国府宣城県で起

きた南直隷提学御史熊廷弼による諸生量器事件を﹁殺人町

人﹂と弾劾した︒その内容は︑三十九年の警察に敗れて家

居していた潟東林派の宣党の領袖湯賓サの不法を告発した

諸生を︑熊廷弼が善言の名目で杖刑に処して殺害し︑湯賓 ヂに媚びたというものである︒これを受けて翌四十一年初︑東林派︵秦党︶の都察院左都御史孫璋は熊廷弼に対する行勘容疑取調べを決定し裁可を得たが︑孫璋のとったこの処置をめぐって︑熊廷弼を擁護する勢力と逆に彼を攻撃する東林系の勢力との間で論争が展開された︒これは﹁荊三分祖﹂等と称される︑三十年代以来の党争の一こまである

︵以下︑これを本件という︶が︑このため愚計は辞職を余

儀なくされ︑吏部尚書孫 揚︑吏部侍郎王図に続く彼の退

陣によって秦党勢力は大きく後退し︑一方熊廷弼を擁護す

る側は孫璋攻撃を通じて︑いわゆる斉︑楚︑漸の三党連携       を形成した︒三十九年の辛亥京察に続くこの一件は︑四十

年代の反東林派優勢の構図を決定する契機となった点で︑

明末党争史上重要な位置を占める︒

 ところで万暦期の党争を概観する時︑そのほとんどが入

閣や考察など中央での人事︑官僚の進退問題をめぐる論争

として表現され︑その熾烈さにも拘らず︑根本的な争点や

一 76 一

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各勢力の性格はつかみにくく︑あるいは不毛な派閥抗争の       域を出ないかとの観を免がれ難い︒しかしそうした同時期

の党争の諸論点の中で︑本件は地域社会における紛争︑提

学御史による諸生殺害という地方の学政に関わる問題に端       ヨ を発している点でやや特異であり︑中央での党争と地方の

政治状況との関連を示すものと思われる︒

 この時期の地方の政治状況について︑従来の研究は︑金

蔓︑特に万暦以降の江南を中心とする地域の雷同層︑館員

層の政治的力量の昂まり  地域の世論形成や官に対する       地方行政への参加要求等の諸活動の具体像を示している︒

つまり万寒期後半にはこうした地方での政治の活性化と中

央での党争の激化との同時進行が確認されるのであるが︑

両者の有⁝機的な関連の説明はまだ十分になされていない︒

 本稿は本件を手掛りに︑その有機的関連の一班をうかが

おうとするものであるが︑特に本件の発端に注目して︑江

南における諸生杖殺に至る経過及び中央での事件の処理を

中心に︑東林派︑巽東林派双方の対応を検討することとす

る︒なお本件の結果生じた中央での党争の勢力関係の変化

については本稿では触れず︑別の機会に考察することとし

たい︒

二 事件の概略

 荊養喬が熊廷弼の諸生杖殺を﹁殺人媚人﹂と弾劾したの       こは万暦四十年十一月のことである︒本節では︑これに至る        経過を諸史料を総合して述べていく︒

 本件は十数年前に湯氏一族と宣城県の舌耕層との間に生      フ じた対立関係が遠因となっている︒二十年代後半︑湯賓サ

の族叔の﹁里豪﹂湯一泰が生垣施大徳の子の許婚者徐氏を

強奪するという事件が起きた︒下直に横恋慕した湯一泰は

賓サの勢を警んで施大徳に徐氏を渡すよう強いたが果せ

ず︑遂に有司を脅して遠離を奪い︑施大徳父子らを殴打し

たが︑徐氏は従わず池に身を投じて自殺した︒これを聞い

た諸生らは激して﹁脇毛﹂を起こし︑生員凋応祥らは徐氏

の殉節を公序して覇府に祠を建てさせた︵史料︹1︺︑︹W︺︶︒

この件は自国罪自身が惹き起こしたものではないが︑全く

無関係だったわけではない︒湯量サの撰した彼の祖父母の

     墓誌銘によれば︑彼の祖父は溢泌にもめったに近づかない

程のごく零細な商人であり︑父が生湿であったというだけ

で︑他の同族︑先祖について科第︑官歴などを記していない︒

つまり湯氏は賓サ以前には生員より上位の有資格者はな

く︑二十三年に第一甲二位の成績で進士に合格し︑一躍名

士となった賓サによって新興の郷紳の家として浮上したの

一 77 一

明末︑地方生員層の活動と党争に関する一試論

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明末︑地方生員層の活動と党争に関する一試論

である︒湯一泰の横暴も賓サの威勢を忍んでのことであっ

た︒この時の互変の攻撃は賓ヂにも及び︑彼は難を避けて      こ杭州に遁走したという︒

 のち賓サは﹁当事﹂に嘱して徐氏の祠を殿たせた︵史料

︹1︺︶というが︑熊廷弼が伝えるところではその事情は次      りのようになる︵史料︹皿︺︶︒まず雲南道御史史記事が徐氏

の指導を劾冒し︑﹁淫祠﹂を殿つべしと主張した︒そこで       提学御史史学遷︵三十七年四月一三+八年閏三月頃在任︶

が⁝徽怠癖に調査させたところ︑﹁根魚の公呈﹂・﹁地方の正

論﹂によれば徐氏の死は大義ではなく︑呈詞︵生員らの公

挙の詞か︶は賄買によるものであったとの結論を得︑祠を

廃し施大徳を霜退の処分とした︒史記事︑史学遷はとも

に秦党系の人物であり︑前大学心惑一貫一派の追放︑東林      けり系の王元本の擁護などの活動をしている︒史学遷が祠を廃

した三十八年の初め頃までは︑湯賓舞は党争の表面に宣党

の首として表われていないが︑彼と﹁顧・笛音﹂として東      ド ね 林派から攻められた顧天竣︑李騰芳らとの深い交際から見

れば︑首題系の史記事らが湯賓サの意を受けて動いたとは

考えにくい︒とすれば︑祠の蚕室に関して湯賓サの史︐学遷

らに対する直接の働きかけはなかったのであろう︒ただし

史学遷が祠の廃殿を決断した際︑その根拠となった﹁根里

の公皇﹂から徽晶出までの報告の諸段階のどこかに湯賓サ の意が加えられていたことが考えられる︒すなわち︑生員層の﹁公挙﹂に対して︑糧︑里長層の﹁落雪﹂や地方の﹁正論﹂を掌握しうる湯賓歩の地域社会での権勢の強さが想像されるが︑確証はない︒ともかく三十七年頃語学御史史学遷の判断によって正式に祠は廃され︑したがって建祠を要求した生員層の直壁は否定された︒ 三十九年の辛亥京察で嘉賓ヂは敗れて家居したが︑自身︑郷紳徐元泰︵出任南京刑部尚書︶の一族の生員徐某の妻を妾とした︒彼は出世する前に徐元泰に辱められたことを恨み︑その一族の婦を妾とすることで雪辱しようとしたという︒徐某と妻の兄弟は異言を唱えなかったが︑徐某の兄徐日隆はこれを不満として各方面に訴えてまわった︒湯賓サは徐日隆を捕えて殺そうとしたので︑日賦は逃れて燕・斉の地へ走った︒ここに至って寧国府中が沸然たる状態となり︑諸生がこのことを上台︵巡撫︑巡按?︶に訴え︑さらに再び高草の殉節を公臆し︑旧位を復さんことを請うた︒諸生らは寧国府に出算してきた文学御史熊蜂弼にも磁位を以て謁したが︑彼は今回の愚挙も前回と同様愛妾によるものであり︵彼は賄買の主を明言しないが︑生員らの行動の背後に徐元泰の力があると考えている︶︑かつての﹁施・湯の︵心血の︶故智﹂にならって﹁郷紳を南画﹂するものと駁してこれを拒否し︑かつ諸生らの中心の海員漏応祥︑

一 78 一

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茜永緒︑蘇七海︑李茂先を﹁行劣﹂として曾爾に処し︑遂

に茜永緒を死に至らしめた︵史料︹1︺︑︹皿︺︶︒荊養喬は

そこで熊廷弼を弾劾するが︑彼は諸生杖殺に︑つぎに述べ

るようなもうひとつの原因を挙げている︒

 史料︹H︺㈹によると︑殺された茜永糟および茜首元らは

以前宣城県の生員梅振詐︑梅石亀らを﹁宙嬉﹂徐氏を姦し

たとして告発し︑前任巡按御史王国禎が梅氏らを劾奏︑捕

治した︒しかし梅単側は賄賂を贈って結審を延ばしていた︒

滋養喬と扇使弼は以前より意見の対立があったが︑この件

の判断でも軽重の差があり︑輪飾喬は熊廷弼が梅氏らを斥

せずに逆に茜永糟を杖殺したと帯した︒平氏に関する荊︑

熊の対立はどうもはっきりしない︒史料︹1︺は︑荊養殖

が梅氏ら︵同史料では﹁某々等﹂・﹁某生﹂とのみいう︶

を徒刑に擬したのに対し︑熊廷弼は湯賓サの嘱託を受けて

藩論を駁し︑また梅氏らの穂状を駁したといっている︒し

かし史料︹H︺㈹の徐応登の行勘の報告には︑熊廷弼の請文に﹁梅振柞ら兄弟の聚磨一婦を共にする行為1は自

分の手で殺してやりたいくらいであり︑梅宣詐らの甑破ー

ー無軌道ぶり?iは弁解の余地がない﹂としており︑少

なくとも公式文書の上では特に梅氏らに有利にはかった形

跡はないようである︒ここでは熊廷弼は梅氏の不法は不法

として処する一方︑これを喋喋したり︑公器したりする生 員らの政治的な活動もまた行劣として断罪したものと解しておく︒ 梅氏は嘉靖頃より挙人︑進士を多く輩出し︑また方志に       ね も多くの伝が立てられているように︑この当時宣城鋤きっての有力な郷紳一族であったと考えられる︒したがって生員梅書画らに対する茜永緒らの告発も生員層という同列の身分階層内のことではなく︑郷紳の一族の不法に対する生員層の糾弾ととらえることができる︒つまり︑この一連の事件は郷紳の不法1この場合いずれも女性をめぐる倫理的頽廃一への生員層の批判活動として表現されている︒この背後に湯賓サ︑徐元泰の郷紳同士の反目︑湯氏︑梅氏の結託などが想像され︑また熊各各が生直の言挙を売買とみなすように︑一郷紳の影響下にある生息層の活動がその郷紳の利害を代弁するといった政治構造も考えられるが︑筆者が現在までに見た限りの史料ではこれらに関して一切不明であり︑その具体像の追求はここではなしえない︒ さて以上のような宣城県での経過をみれば︑いわゆる﹁郷紳の横﹂を追求する生磁石を悪徳郷紳と官僚が結託して抑圧にかかるという明末に一般的にみられる構図が浮かびあがるが︑再拝では︑その構図から離れて︑本件を︷貫して展開させてきた生得層の活動と︑これを直接監督すべき画学御史としての熊廷弼の対応という点を中心に検討する︒

一 79 一

明末︑地方生員層の活動と党争に関する一試論

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明末︑地方生員層の活動と党争に関する一試論

三 工学御史熊廷弼の対生員強圧策

  ω 熊廷弼と江南生酒層

 熊廷弼は湖広軌昌府江夏県の人で︑二十六年進士に合格し︑保定推官を経て三十六年には御史に擢されて遼東巡按

となり︑三十九年六月に提督南直隷学政に任命されてい麺︒

本件のため四+一年に家居したが︑のち四十七年に遼東経

略に起用されている︒任官以来︑南直提学を除いては一貫

して遼東の軍事的第一線に立ち︑その才能を高く評価され

ている︒さて南直での治績を﹃明史﹄の本伝では﹁前明有聲﹂

とのみ記しているが︑この﹁厳明﹂な様子を史料︹1︺に

続く文でつぎのように記している︒

  先是︑熊考試江南︑縄束諸生︑過當︒常州某公子︑年

  綾十六︑戦犯規小姫︑熊執而撞之︒某書止此一子︑不

  生見急︑挺身闘入院署︑拉妻子以出︒衆郷紳調停其問︑

  事錐不問︑而笈山町有騎虎之勢︒及是熊霧島︑按臨常州︒

  其先聲転属︒露里威不自邸︑財力餐荊出疏地無︒

すなわち︑熊廷弼が諸生を縄束し首鼠な違反を犯しても

鞭ったため︑常州府の某公︵おそらく郷紳であろう︶と衝

突を起こした︒この時は多くの郷紳の調停で事無きを得た が︑熊廷弼の方針に耐えられない常州府の﹁諸老﹂︵やはり郷紳層か︶は荊養喬に熊を弾劾するよう要請したという︒荊養喬の劾奏には宣城県の事件だけではなく︑その背後に熊廷弼の厳治主義に対する二郎層及び常州府の﹁諸老﹂の反発が大きくはたらいていたことがしられよう︒ もうひとつ熊廷弼の生員層に対する﹁厳明﹂な態度を示す史料を挙げる︒蘇州府毘山県の天塚悩天竣は熊廷弼につ       あ ぎのような書簡を送っている︒  壷下上泣徹邑︑考試爾郡生童︑構公構明応唱衆︒然悼  怖威愚書霜議者亦不少︒満州與士爲讐︒唱言不識不以  上聞︒壷下業使令 ︒宣能遽寛︒誠信法嚴而意寛︑使  輿情曉然揮脳性而服選書︒⁝⁝①西端熟・呉江・嘉定  四等生舌鼓諌者︑聞垣下密訪︑就中爲首四人︑具疏請  旨定奪℃不知果否︒若果有望︑疏中明言庭分︑則已 ︒  術挨旨下︑更加台墨︑萬望姑蒸溜至誠諜論罪︒書生宣  能堪此︒若無届︑而外間妄生猜度︑須乱獲案験︑稽示  懲創︒似難癖置六等︑即暫置六等︑亦必預開以生路︒  想壷下簿之熟 ︒②其不得科學︑願援例心太學者︑望  即批允︒理趣不調︑彼必以爲絶其進取之途︑井遺才不  敢就試︑一時憧骸︑安有已極︒③又聞︑各課開送行劣  生員︑往往有未唖者︒壷下更加鞠審︑情恒定罪︑錐死

  何僻︒若直筆縣中開具悪跡︑年魚鞭篁︑設有冤誤︑將

一 80 一

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  桑名何︒幸留神焉︒

顧天竣はまず熊廷弼の厳訓主義に対して︑その威厳を怖れ

てこれを議論するものが少なからずあり︑﹁士と讐を為す﹂

と受けとられていることを指摘して︑法の厳守は当然とし

ても寛容の意を示してほしいといい︑以下三点にわたって

具体的な生員層擁護の要請をする︒

 ①常熟・呉江・嘉定の生員の鼓諜について満廷弼が既に

上疏して処分を請うているのならいたしかたないが︑それ

でも旨の下った後に再び審理して鼓諜の罪だけは減じてほ

しい︒もし上疏がなく噂に過ぎないのなら︑すみやかに調

査処罰すべきであるが︑それも︵四等から︶六等への降級

処分として後の進級の途を開いておくべきである︒

②科挙に受からず︑援例によって太学入学を希望する者

にはただちに允可を下してほしい︒

 ③各県から行劣の署員として報告される中には往往妥当

でない者が含まれているから︑処罰にあたっては慎重に審

理を尽してほしい︒

 蘇州府下三県の生員の鼓諜の原因は示されてはいない

が︑文脈から推してあるいは熊廷弼への反発から生じたも

のかもしれない︒もしそうであるならば彼は蘇州府におい

ても紛争を惹き起こし︑先の常州府と同様郷紳が仲裁にあ

たったが︑その郷紳として真意竣がでてきたものど解され る︒顧天竣の右の書簡における要請は︑熊廷弼の学政下では三野の生員に対して極めて厳しい処分が予想され︑太学入学は容易に許されず︑各県の﹁野焼生員﹂は真偽を問わず容赦なく鞭たれている︑という徹底した締め付けのあったのをうかがわせる︒熊廷弼の生命層への締めつけぶりは﹁士と讐を為す﹂ものと受けとられ︑彼と常州︑蘇州等︵おそらくは南直隷全域︶の生員層とは極めて険悪な関係にあったことがわかる︒

② 諸生の活動と東林

 さて常州府といえば無錫県を中心とした東林派の斗組で

ある︒東林派攻撃の言としてよく知られている﹃明実録﹄

万暦三十九年五月壬寅条の御史徐兆魁の上言に︑

  其︵東林の︶徒日衆︑挾制有司︑慧凌郷曲︑詳言如市 ︒

  ⁝⁝駿東林講學所至︑主導百鯨︒該砂湯造設厨傳︑戒

  執事︒館穀程席之需︑非二百金上下不能辮︒會講中︑

  必裸以時事︑講畢立刊︑傳布遠近︒各邑行事有與之左記︑

  必速改圖︑其立浮得安︒今已及斯中諸郡︒

とあるように︑東林の講会は地方行政に介入し︑知県の進

退を左右する程の力を持っており︑その傾向は漸中諸郡に

も及んでいる︒徐兆魁のいう東林の﹁挾制有司︑愚凌郷曲﹂

は生妥結を特指したものではないが︑東林書院に集まる周

一 81 一

明末︑地方生員層の活動と党争に関する一試論

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明末︑地方生員層の活動と党争に関する一試論

辺各県の生基層の活動を示すものと解して間違いなかろ

う︒明鏡に無調近辺に顕著にみられるように︑地方政治を

活発に議論し官に対して地方の世論の実現を求める傾向が

あったことは既に指摘されているところである︒

 この傾向は徐兆魁の言のように富江に及んでいる︒いま

その例を挙げる︒東林派の中心的人物長元薦の﹃西山日記﹄

巻上︑日課に︑

  三際塘公︵幼學︶呉呉興︑試士不通請謁︒予︵丁元仁︶

  雷公知己︑論及輯流涕︒巡回問故︒公硬玉日︑﹁記田

  少年就試悪筆︑楓糖寒見遺︑一家悲憤︑至不能寝食︒

  此一段光景尚在目前︒是以悲爾︒﹂榜其平日︑﹁以文爲葱︑

  黒幕而止︒﹂一切竿腰不一封︒時耳遠浮梁月遅馬乗至公︒

  諸儒生遊津当惑長老宿︑相丁掛被日︑﹁吾輩二十年無

  由見學使者︒故沈抑至此︒今遇梁漢公︵陣幼學︶天也︒﹂

  梁漢去後︑且学年至壬子︵萬暦四十年︶︑一切竿積暴政︒

  諸士子憤極︑敷百人子生祠中腰梁渓公像︑鼓諜至郡堂︑

  羅葬写実︑聲震天︒太守避匿衙舎︑不供出︑無所捨子

  公論︒

とある︒陳幼学は無錫県の人で三十二年の東林書院復興の      あり事業にも参加している︒彼は湖州府知府となって幅員たち

を試験したが︑その際請謁を受けなかった︒彼は自身が府︑

県の試験で貧函のため不当に排されたことを思い︑試験の 成績は答文のみを拠りどころとし︑竿憤11書簡等による情実を排した︒一見地域との繋がりを断つ行為であるかのようだが︑これは一部の者の請謁によって不公平に歪められていた学政を正すことで多くの生面層の不満を解消したものである︒また諸生の﹁我々は二十年来阻碍とまみえた者はなく︑そのために埋もれたままになっていた︒今梁漢公と会うことができたのは天のおかげである︒﹂との言から︑この時提学が学生と面対し︑そこに意志が疎通し学生の意向が汲み上げられたが︑その実現に陳幼学の力がはたらいていたことがしられよう︒因みに陳鼎﹃東林列伝﹄巻十六の陳幼学伝によれば︑  外史翌日︑先生守呉潜時︑政暇即與士大夫講性命之學︒  執経書道者以千慮︑至於政治之良︒至愚筆蹟猫能道之  不衰︒非徒侍匿嘔語言文字之流也︒と評し︑陳幼学は湖州府で多数の士大夫とともに盛んに講学活動を行ってそれを政治に採り入れ︑ただ語句を弄ぶ輩とは違うとしている︒郷紳︑生員層と協調し︑その世論を重視するという無錫で培われた気風をここにみることができる︒ところが︑陳幼学が転任して数年後の四十年になって竿憤による政治が復活した︒政治の場から締めだされて憤激した諸士子数百人は陳幼学の像をかつぎ鼓諜して府衙

門に押しかけ抗議した︒丁桜島は地域の影響層︑生裳層と

一 82 一

(9)

の融和的な政策を排した知府に対して批判的であり︑諸士       子の側に﹁公論﹂を認めている︒こうした地域世論を重視す

る行政を要求する東電極の主張︑活動は周辺地域の生野層

の活動に大きな影響を与え︑心肝魁が東出汐の活動を真向

うから批判した三十年代末には︑諸生たちの要求する学政

の実現や彼らの政治参加︑これから外れた地方官への批判

活動など︑無痛県と同様の現象が周辺地域に拡がりつつ

あったものと思われる︒

 熊廷弼は南直提学御史としていわば東林の総本山に乗り

込んだわけである︒彼は東林派の南京御史段然らから﹁顧・

李党﹂・﹁下溝﹂と称されて三十七年に官界を逐われた前

述の左諭徳顧天盛と親交があり︑彼を大学士に推そうとし    ハレ たといわれ︑また辛亥京察の火種のひとつとなった秦党の

吏部侍郎王図の子知県王淑沐への弾劾は熊廷弼の指金とも   ハあ いわれる︒したがって諸生杖殺が問題にされた時︑ただち

に熊廷弼を﹁毘山︵回天竣︶之首功︑宣城︵湯賓サ︶之殿後﹂

とみなし︑その退陣を求めるような︑東林派側からの派閥      意識を露わにした論も出されている︒

 このように三十年代後半︑熊廷弼は政治的に明らかに反

東林派の立場にあったが︑それだけに彼の生芥層強圧策は

東林派の活動規制を意図したものと充分考えられよう︒そ

のことを明確に示す証言は目下見出していないが︑ただつ ぎのようなことが注目される︒﹃顧端文公年譜﹄万片忌+年三月条には︑  時學計器廷弼方騨毒於東林︒歳試野釣淳︵顧憲成の長  男︶末等︒公︵憲成︶不介意︑命鼓簾遊動雍︒とあって︑東林側は三面弼を東林に危害を加えるものとみており︑彼が処罰した生員の中に東林関係者が多かったことを示している︒この年五月二十三日東林派の指導者顧言成が死去し︑七月には府︑県の郷賢祠に祀られたが︑その事情を同年譜では︑  提學御史熊爲學政事︒野曝︑郷賢倶経該道・府・縣詳  請︑批行︒今本官人望久孚︑無規査核︒宜径行秘記崇祀︑  以光点豆︒随送主縣學郷賢祠詑︒又撫・按・學三訂會  同︑批送府祠︒廷弼此畢迫於公議︒尋因互許聴勘︑益  攻東林︒と述べ︑熊廷臣の上奏による顧憲成の通常の手続きを経ない戦野祠への入祠は彼の本意ではなく︑公議に迫られたためやむを得ず実行したものといい︑あくまで彼を東林の敵対者とみなしている︒ さてこのように江南生員層及び東林派から強い反発を招いた熊廷弼の施策は彼個人の個性あるいは江東林派という党派的立場からのみ遣せられたものであろうか︒つぎにこの点について政府首脳部の意向をさぐってみる︒

一 83 一

明末︑地方生員層の活動と党争に関する一試論

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明末︑地方生員層の活動と党争に関する一試論

㈹ 政府の生員対策

 前述の徐王手が東林派の地方行政への干渉を攻撃したの

は﹃明実録﹄の日付では三十九年五月壬寅︵三日置で幸亥

京察の可否をめぐって議論が沸騰していた時であり︑翌六

年辛卯︵二十三日︶に熊廷弼が提督南直隷学政に差されて

いる︒また熊廷弼が南直隷の生煎層を厳しく取り締ってい

た四十年に湖州府では竿憤政治が再開され︑政治関与から

締め出された諸生の鼓課を招いている︒あるいは偶然の時

間的継起なのかもしれぬが︑四十年前後のこの一連の動き

は反東林派︑また中央政府の南直︑官界の生員層の活動に

対する意図を示すものではなかろうか︒

 時の内閣大学士声部高は釜湯弼の遼東巡按時代の政策を

全面的に支持し︑しばしば連絡を取り合っており︑彼の﹃蒼

霞績草﹄中の尺贋には熊廷弼への書簡が最も多く収録され    ている︒熊廷弼が国防の最前線にあったという事情もあり︑

また葉向高の親友郭正域の婚家であったことも関係しよう

が︑葉向高は熊廷弼にかなり深い信頼を寄せていたと思わ

れる︒遼東巡按としての熊石弼は﹁筆写を杜ぎ︑軍実を核べ︑      ぬ 将吏を按劾し︑姑息を事とせず︑風紀大いに振う﹂と評さ

れるように︑軍紀粛正に最も力を注いでいた︒彼が提学と

して南直に派遣されれば︑監督下の生葉に対して厳しく対 処することは充分予想できたであろう︒葉向高は三十九年︑       お 熊廷弼の提学就任直前と思われる書簡で︑  門下在遼三年︑爲地方型無窮之幅︒⁝⁝南直學政久曖︑  秋場在爾︑甚爲不便︒占得力餅之︒如其得請︑使可不  誌代履行︑第六於旨中説明耳︒と︑長期の欠員による実務上の必要からではあるが︑彼の就任の実現に努めている︒この書簡からは特に提訴としての施策の指示や期待はうかがえないが︑荊養喬の上疏直後       に熊廷弼にあてた書簡には  門下督六三呉︑以嚴即成犯寛︒士早大攣︒向有後言者︑  岩蟹軍服︒可見︑矯世革俗之事︑非有大澹當力量者不  能爲︑而要語無不可辺地︒荊直指以杯蛇弓懸之疑輕去  其官︑一楽草率︒然其意十九在干桐城︒興復有疏來︑  專言桐忌事︒要之︑無甚干渉︒此君命多此學耳︒惜之︑  惜之︒門下自信其心︑人盗聴不信之︒何用以此求去也︒とあって︑書簡特有の外交辞礼が含まれるにせよ︑葉向高は全面的に熊三野の業績を肯定し︑荊養喬の劾疏は疑心暗       ム 鬼によるものだし︑その意図は九割方桐城県の問題にあるのだから気にすることはないと︑学行弼の慰留に努めている︒ また葉心高は東盤渉に関して︑辛亥粗卑における南京吏       ハゐ 部の決定に東林派が反発した顛末を述べた文章の末尾で︑

一 84 一

(11)

  然東林已育休︑朝事自習宜與︑而曉曉不已︑音響衆怨︒

  春秋準備賢者︑吾亦不能爲解︒

とし︑東林はすでに官を退いた者であるから︑政治に容隊

すべきではないとはっきり述べている︒これは朝事11中央

の政治について述べているものであるが︑在官者と在野者

とを区別して在野者の政治への介入を否定する論理は︑地

方行政への東林派の介入を﹁挾制有司﹂として弾劾する徐

兆魁の論理と同一のものといえる︒東林派に象徴されるよ

うな︑地方の郷紳︑生員層の政治的発言力の増大︑地方政

治への介入という中央集権的専制支配体制を揺り動かしか

ねない動きに関する限り︑徐重質に代表される反東林派と

葉向高との見解は一致している︒内閣大学士として専制支

配体制の中枢に位置していた葉向高にとって︑事あるごと

に鼓適する﹁行暮﹂の生員を厳罰に処す熊廷弼の方針は十

分支持しうるものであった︒

 四十年の初め︑問題の宣城県で童生が集団で鼓諜する事

件が起きた︒この事件の処理にあたり︑中央政府は明確に

生員層の取締りの方針を示している︒﹃明実録﹄万暦四十

年三月己未条につぎのようにある︒

  南直寧楽府至宝童生張載通等︑以還夕入宇宙顔文選宅

  内観劇︑稻被顔宙垂死︒時府警早上︒次日宣・南・浬・      ぷ ハ    寧・施五縣童生園続文選宅︑及市中無籍破屋入室︑壷   劫其賀去︒提學御史及撫按至言︒部覆︑將首悪從重定罪︑  且停勒五縣童生概不進學︒若人命槍財等情︑皇継華中  細管︑母致漏網株連︒至於各威童生撞碑早耳︑生員侮  辱有司︑皆前行萌︒均當前浜︑鷹聴學臣究問鋸結︒因言︑  有司能一意奉公不狗権勢囑託︑以些些童生︑不博長厚  虚聲︑以縦容行簡︑則孤寒快心︑枯悪践志︑必無有望  黛要脚者 ︒上是之︑且諭︑近來士風薄悪︑屡次生事︒  提贈官群行約束︑有司官也︑乗公正己︑以下人心︒ 寧国府宣城県で元夕︵一月十五日目夜︶郷紳宅に観劇にいった浬県の童生がいかなる事情からか殴殺されたと称して︑翌日府試のため宣城県に集まっていた五器の童生たちが郷紳宅に押しかけ︑騒ぎに乗じた市中の無頼が邸に侵入して略奪を行なった︒提学・撫・按の報告を受けた礼部の覆疏は︑首謀者の処罰︑五県の童生の受験資格剥奪︑及び殺人略奪等の事情調査という事件の直接の処理を述べたあ      と︑各処の童生による傲った鼓諜︑生員の有司侮辱はみな

    乱萌であるからすべて処罰し学殖に深く調査させるべしと

する︑生員層の活動の規制を全国的な方針として打ち出し

ている︒また有司が権勢の嘱託を受けて濫りに童生を採っ

たり︑温厚だとの無意味な評判を得ようとしてルーズな行

政をしたりしなければ︑官に依って悪だくみをする者も望

みを失い︑党を組んで要聾する者もなくなるであろうと︑

一 85 一

明末︑地方生員層の活動と党争に関する一試論

(12)

明末︑地方生員層の活動と党争に関する﹂試論

       地方の要請による生員層の増加傾向への歯止めと︑地方官

の任地と妥協しない職務遂行との必要性を主張している︒

この覆疏はそのまま裁可され︑上諭では特に近来の士風が

退廃し屡々事件を起こすといった事態に対して提学官が厳

重に取締ることが命ぜられた︒礼部の覆疏は熊廷弼の報告      に基づいて作られており︑したがってこの上諭で彼の施策

は承認され︑中央政府の統一的政策としてこれに法的根拠

を与えている︒すなわち︑それは官僚主導の政治11専制的

支配秩序の貫徹のため︑これを蚕食する江南を中心とする

生員層の活動への規制を強化するという国家意志を明確に

示したのである︒

 熊廷弼の諸生杖殺はこうした事情を考慮してはじめて充

分に理解されよう︒宣城県あるいは寧国府では二十年代よ

り生面層の強力な世論形成︑集団示威がみられた︒四十年

一月の郷帳顔文選に対する童生の鼓諌でも僅か一日で五二

全体の︵たまたま宣城県に集合していたという偶然はある

が︶集団行動を起こしている︒熊廷弼にとっては要注意の

地域だったであろう︒この事件で五県の童生の資格剥奪︑

株連者の干網を許さない徹底的追求という厳しい処罰が下

された︑それから一年もたたないうちに︑郷紳湯賓サに対

する諸生の﹁合郡沸然﹂たる事態が発生し︑かつ前提学御

史の決定を否定して再度の徐氏の節が公挙されたのであ る︒公挙の諸生は熊向槌にとっては処罰の対象以外何者でもなかった︒熊廷弼は国家の方針を厳格に遂行したのである︒ しかし︑宣党の最善賓サの醜聞に端を発し︑諸生船張にまでいたった本件は︑熊廷弼の施策に反発する江南生員層︑東林派にとって︑彼を追放する恰好の材料となった︒諸生の死に仕りて熊廷弼に対する﹁輩謡造諦﹂︵史料︹H︺㈹︶があらわれる中で︑耳茸喬は常州府の﹁諸老﹂︵東林派である公算が強い︶の要請を受けて熊廷弼を弾劾したが︑彼の主張する﹁殺人古人﹂とは︑熊廷弼の諸生弾圧が実は一部郷紳を擁護して世論を圧殺する︑極めて私的な利害に基づくもの︑それも宣党の領袖の不祥事を隠蔽する党利党略であったとして︑熊廷弼の施策を行私︑党争の産物に解消するものであった︒したがってそれは同時に熊廷弼をバックアップした中央政府の常員層強圧策の破綻を物語るものであった︒

四 熊廷弼の行動

 荊養喬の上辺のあった四十年十一月から十二月差かけ

て︑中央ではこの問題に関して熊廷弼には触れず︑荊奇警

が上疏のあと檀自離任11無断退職したことへの処罰の軽重

のみが論ぜられた︒しかし四十一年一月頃孫璋が都議営門

一 86 一

(13)

      都御史に就任すると︑彼は早速熊廷弼への行事を決定した︒

熊廷弼を容疑者と認定したわけで︑これだけでも提学とし

ての権威の失墜は大きい︒葉共通は︑酢煮を決定すればま

た党争の種となり政局の混乱を大きくするとして︑孫璋に       行勘を止めるよう説得したが果せなかった︒孫璋が頑なに

行勘に固執したのは︑熊廷弼の江南における対生員層強圧

策を排除する目的の他に︑ζの時期中央でふくらみつつ

あった党争の状況が大きくからんでいるように思われる︒

荊養喬の上疏のひと月面四十年十月に︑東林派の御史孫居

相は三十八年の会試における湯賓サの不正工作︑いわゆる      ね﹁庚戌科場﹂問題を告発している︒三十八年当時政府首脳

部で政治結着がつけられたこの事件を改めて表面化したの

は︑三十九年の辛亥京察以後の東林︑反東林の対立の顕化︑       お 四十年十月の憶想林派を多く含む黒道官の大量補充による

東林派の劣勢という状況の中で︑東林派が巻きかえしをは

かったもので︑これと連動するかのような荊養喬の﹁殺人

媚人﹂告発は︑湯賓ヂの在官時︑在野時の不祥事を暴露し

て彼の政治生命を断つキャンペーンの一環であったと考え

られるのである︒荊養喬の熊廷弼弾劾は不発に終わりかけ

たが︑孫璋は行為によってこれをあくまで推し進めようと

したのである︒したがって反東林派側も江南における東林

山の活動規制の問題とあわせて自派の擁護に必死にならざ るを得ず︑これ以後の孫璋に対する攻撃も熾烈を極めたのである︒ 内閣の葉書高は前述のように熊廷弼を弁護する側にあっ       た︒彼は﹁謝工部﹂なる人物への書簡でつぎのように述べている︒  荊︑熊二直指之孚︑平心而論︑則字号既官︑熊野解任︒  二黒之上︑的中力組総憲h而不風聴也︒梅氏之事︑學  使若湯成心 ︒然批駁心移︑當就事論事耳︒何爲而梶  梶干他事乎︒彼當日之所構烈婦者︑灯芯溢美︑然果可  與今日之淫婦而前論乎︒置忘密使之稻思子検影写︒但  以爲殺人常人半平耳︒年差士大夫分孚︑無全身︑芸無  全階︒所以難威︒即断無酔人野人之権︑財欲分別是非︑  亦何所用其分別︒ これは︑書振詐らの処罰に関して乱騰弼は特定の意図があるわけではない︑ただ批駁文に往日の烈婦︵湯一泰に拐されて自殺した徐氏︶と今日の淫婦︵梅氏と姦した徐氏か︶とを同列に論じたのは熊のやや過失であるが︑殺人野人というのは誤りであるとして︑熊廷弼弁護の立場を表明するものである︒ただし葉向高は﹁進人姦人の権なし﹂といって︑内閣としては本件をめぐる党争に介入しない慎重な態度をとった︒ さて葉影高の反対を押し切って行勘が決定され︑荊養喬

一 87 一

明末︑地方生員層の活動と党争に関する一試論

(14)

明末︑地方生員層の活動と党争に関する一試論

の後任の応天巡按御史二曲登がその任にあたり報告を行

なった︒彼の報告︵史料︹H︺㈲︶の要点はつぎのようで

ある︒第一点は︑第二節で述べたように梅氏の処分に関し

て熊廷弼は手心を加えていないとするものである︒第二点

は︑処罰された生員凋応祥らは隠江︑巡撫︑巡按︑巡倉︑

屯田などの衙門に出入りしては金をかすめとり私を行なう

といった︑まさに﹁把持官府﹂の劣生であり︑公論に入れ

られない存在であったとして︑熊廷弼のとった処置を認め

ているものである︒第三点は︑死んだ茜砲身よりも蘇望海

らの方が多く鞭たれており︑かつ茜永糟が死んだのは杖刑

後二十日を経ていることから︑熊廷弼に茜永緒を殺害する

意図はなく︑杖刑が直接の死因ではないとするものである︒

第四点は︑湯賓ヂと茜永緒との間に敵対関係はなく︑熊廷

弼が茜永緒を殺さねばならぬ動機はないと︑﹁殺人媚人﹂

を否定するものである︒徐選管は以上の各論で荊留年の挙

げた訴因を尽く否定し︑続けて﹁熊曾弼は谷風を挽回する

ことを自身の任務として法の厳守にいささかも仮借せず一

軒百傲を期したため︵これを逆恨みする者が︶輩謡再読を

騨にし︑荊養喬はその説を耳にはさんだに過ぎない﹂と述

べ︑熊廷弼を全面的に支持してその施策の正当性を再確認

し︑熊廷弼に反発する江南生員層︑郷紳層の声を﹁輩二黒諦﹂

として退けた︒このようにもともと熊廷弼の罪状究明を意 図した東林派が発動した行勘ではあったが︑結果としては政府︑反東林派の意向に沿う方向で結着がつけられている︒熊警世と湯賓サとは交遊関係や政治的立場からみてかなり      の親交があった筈で︑諸生杖殺の一要因として﹁殺人媚人﹂も一概には否定できないと考えられる︒しかし問題は既に熊廷弼個人の進退にとどまらず︑対江南生員層統治に関わるものであった︒したがって事実の如何に拘らず︑政府及び反東林野官僚は熊蜂弼への疑惑をあくまで否定することで︑彼の︑ひいては国家の対生三層強圧策の正当性を主張し︑この点に関しては一歩も引かない態度を示さざるを得なかったのであろう︒ では︑熊廷弼の潔白を主張する行通の報告は︑荊養喬に

ついてはどのような判断を示したのであろうか︒﹁養喬︑

実に其の説︵上述の輩謡造諦︶を耳聞す︒又︑別に職事相

左するに因り︑偶々去位に乗じて感激し︑諸を卑して論列

す︒亦︑或ひは居常廷弼の五情気醜︑咄咄と人に逼るを見︑

⁝⁝心に其の己れに易うるを疑ひて然るか︒﹂と︑本件に

おける荊養喬の行動を批判するが︑また﹁按臣養喬︑温雅      ただ宇高︑官事精管にして萄めにせず︒独︑言に風聞に激する

有り︒故に之に居りて疑無き能はず︒⁝⁝之を総ずるに︑

此の一役や︑事は当に明白直載を以て断と為すべく︑而し

て牽纒曖昧なる者は論ずる勿かるべし︒人は当に生平本末

一 88 一

(15)

を以て断と為すべく︑而して意気註誤なる者は論ずる勿か

るべし︒則ち廷弼の心跡自明︑而して養喬の生平も亦︵本      みな件の︶外に在り︒此れ都苛求急需すること無く︑後︑以て

加養平日の品を成すを浮すべし︒しと︑事件そのものの評

価とは別に︑人物はその平生の行動によって判断すべきで

あるとして︑荊養喬をその日頃の実績によって擁護した︒

この判断は︑荊養喬の厳重処分によって予想される彼を支

持する江南生扇島︑毒煙層及び中央政界の東林派勢力の反

発︑事態の更なる紛糾を考慮してなされたものではなかろ

うか︒つまり弓偏弼の施策を国家的方針として是認する一

方︑荊養喬の処分でやや譲歩を示すことで事態の収拾をは

かったと考えられ︑この点で妥協的な面を持つ本報告は︑

政府が江南生癒層︑郷粛清の地方政治への喰い込み11﹁把

持官府﹂に対しては断固たる処置をとる姿勢を示しながら

も︑現実には彼ら及び彼らを支持する東林系官僚の政治的

力量を無視しえず︑その対策に苦慮していたことを物語っ

ていよう︒

 行悩の報告がなされ︑また熊廷弼が引責辞任の形で退職

して本件は一応のけりがつけられたが︑学政に関する東林︑

反東林の確執は熊廷弼の後任人事の問題にも表われてい

る︒後任提学御史に二言遠江巡按御史呂図南の改差が決定

されたが︑寒気林派の選科心事中周永春はこれを不適格と する上疏を出し︑呂図南を推す東岸派の御史湯翻京らと争った︒この問題は他の科道官人事をめぐる争いとともに吏部の権限の問題へと展開し︑新たな党争の火種となって  あ いる︒本稿ではこの問題には立ち入らないが︑立直提学御史の掌握がこの時期の両派からともに重視されていたことがうかがえるのである︒また﹃明史﹄巻六十九選學志一によれば︑この四十一年に直直隷の学政は江の上下に︑湖広は南北に分割され︑各提学官一員を増置されている︒詳し       い事情は現在不明であるが︑ここにも上述の推移と関連する政治的背景があったのではないかと推測される︒

五 小 結

 以上述べた如く︑本稿では熊鼠弼の諸生杖殺を﹁殺人敵

人﹂のレベルから離れて︑地方生面層の集団的な政治活動

とこれに対する規制という構図の中で耐えなおす作業を行

なった︒そして万暦四十年頃の時点でこの対立は︑生垂直

の活動の拠点のひとつであり︑彼らの内に根を張りつつあ

る東林派と︑中央︑地方で政治的発言力を強める東動派に

危惧を抱く反東林派官僚︑及び中央集権的支配秩序を維持

せんとする中央政府との対立として具現されたと考えた︒

熊廷弼は後者の意を体して厳酷な生三層の活動の取締りを

行ない︑諸生杖殺はそのひとつの結果であった︒彼らと東

一 89 一

明末︑地方生員層の活動と党争に関する一試論

(16)

明末︑地方生員層の活動と党争に関する一試論

林派との地方政治に対する視点の相違は︑宣城県の童生鼓

諜の際に出された︑諸生らの鼓諜︑有司侮辱を乱萌と見︑

生員層の政治勢力化を一律に否定して︑地方との非妥協的

な行政遂行を主張する中央政府の方針と︑地方世論との融

和的な行政を歓迎し︑鼓課する生員層の主張に﹁公論﹂を

見出す丁元薦の論との相違に見ることができる︒

 ただし東林派が地方行政における世論の重視を主張し︑

生員層の活動を支持したという際︑東林派が生魚層の諸活

動を一律に支持したわけではない点は留意しておかねばな      ガ らない︒押元薦にはまた次のような発言がある︒

  丁元遅日︑青墨者朝廷儲爲異日続用者也︒士之自愛與

  上之愛士︑若虞子︑而今蕩然 ︒方其成華而呼︑有司

  畏之如虎︒一遇孤弱有司︑置之若棄︒方其奴張手幻︑

  則藩泉之長吉塔︑構公構兄︒甚至柄文帯出諸生購而和

   ︒丁元薦はここでは生員層が徒党を組んで有司を軽んじ︑地

方長官や学官までが生翠霞にへつらう風潮を批判し︑この

後文で﹁上は国脈に関わり︑下は士風に係る﹂彼らへの教

化の必要性を述べている︒丁元薦の一見相反する二つの発

言は︑彼の見解の矛盾というよりは︑生員層の活動の性格︑

程度の多様性を示すものであろう︒東林派が支持したのは

生員層の多様な集団活動のうち政治的社会的にどのような 方向性を持ったものだったのか︑また批判したのはどのようなものだったのか︑本稿ではこの点にまったく触れられなかったのだが︑なお検討を要する重要な問題であり︑今後の課題としたい︒

ω たとえば︑本件の顛末を簡単に記した葉向斜の﹃遽編﹄

 思置︑万暦四十一年六月条には︑

   楚人交章爲廷弼頒冤︑力行孫公︵璋︶︒漸人素與秦

   人爲怨︑欲収野人以樹窯︒太宰趙公︵換︶又素疑孫

   公欲得其塵︒齊誤認太宰故與野人合力星影公︒朝端

   大薮︒

 とある︒

② 宮崎市定﹁張博の時代一明末における一発紳の生涯

 一﹂︵﹃東洋史研究﹄3313︑一九七四︶の東林派に関

 する総括︑参照︒

㈹ ただし本件の中央政界における論争も厳密には熊廷弼

 に対する行嚢を決定した孫璋の評価︑その進退を問う形

 で展開し︑宣城県あるいは江南全体の生員層の活動の問

 題が直接議論されたわけではない︒

の畠中正俊﹁民変・抗租忍言﹂︵﹃世界の歴史﹄12︑筑摩

 書房︑一九六こ︑小野和子﹁明主・清初における知識

一 90 一

(17)

 人の政治行動L︵同︶︑川勝守﹁毒手土車府の嵌田問題1

 一明末郷紳支配の成立に関する一考察一﹂︵﹃史学雑誌﹄

 8214︑一九七三︶︑夫馬継﹁毫末反地方官士変﹂︵﹃東方

 学報﹄52︑一九八○︶等参照︒本稿は特に夫馬氏の論考

 に触発された部分が大きい︒

㈲ 文乗﹃定陵註略﹄巻九︑荊熊分祖による︒

㈹ 本件に関する主な史料は次のとおりである︒本文中の

 註は︹1︺〜︹W︺の当日写で示す︒

 ︹1︺文乗﹃定陵註略﹄童画︑官憲分祖︒この記事は文

 乗自身による総論的な部分と︑関連する諸臣の藩命の要

 約を編集した部分とからなるが︑奏疏は同書の党争に関

 する他の項と同様に︑主として﹃萬暦邸紗﹄からの抜葦

 と思われる︒ここでは総論の部分のみを挙げる︒

   宣城湯賓サ先年畢生員施大徳之妻叢雨爲妾︒徐々不

   從自鑑︒合縣不平︑致激有民選︒生員凋鷹鮮等持摯

   重氏殉節︑建祠春祭︒後事定︑賓サ力嘱早事殿其祠︒

   万棒︑嬉戯生員徐某脚質氏爲妾︒徐漁者尚書徐元泰

   之姪︑塵生二日隆之弟也︒湯器時曽受辱於元泰︒故

   必欲垂垂姪婦爲妾︑電量此恥︒徐某與質氏兄弟倶無

   異言︑而日隆心抱不平︑上控下垂︒湯四布蔵回︑直

   翌日隆而廿心焉︒日照乃亡命走燕︑齊︒於潮合郡沸

   然︒   諸生列其事干上前︑復壷折氏殉節事︑請復薔祠︒巡  按荊養喬甚癖直賓サ︒將某々等問徒︒適齢使熊廷弼  出塁︒諸生亦堅巻學謁熊︒熊受湯嘱托︑三年下生之  擬徒︑又駁置生之妊状︑問雲外汐止員四望二等︑又  杖殺生員茜永緒︒事々與荊相左︒荊遂誕熊殺人以媚  湯︒この記事は東立派の立場からのもので︑冒頭の亡骸の略奪を湯賓サ自身のこととしている点などから誤謬も多いかと思われるが︑湯氏と徐元泰一族との関係などは目下この史料しか見あたらない︒

︹H︺﹃明実録﹄万暦四十一年二月己丑朔条︒この記事は︑

㈲荊養喬の上磯と熊廷弼への行勘が決定されるまでの経

過︑圖巡按御史昏乱登による離陸の報告︑◎荊の上疏の

もうひとつの要因である︑彼と桐城県の問題との関わり︑

の三つの部分からなる︒

  爾 宣城縣生零梅振詐・梅宣詐等︑以姦宙嬉徐氏爲

  生員茜苦慮・嘉永繕等所書護︒前取留御史王國禎劾

  奏艶治︒島蔭等賄匿︑獄久不結︒主音御史荊養喬與

  提學御史音感弼素敵意見相抵悟︑不能相下︑及治是

  獄︑互有輕重︒養喬劾廷弼不斥振詐等︑而反言緒干杖︑

  爲殺人媚人︑謂︑永緒先以事訳原賢能徳湯島サ有郡︑

  賓サ中之故云︒舞疏投劾去︒廷弼悉甚︑再舷門謂︑

一 91 一

明末︑地方生員層の活動と党争に関する一試論

(18)

明末︑地方生員層の活動と党争に関する一試論

永糟之杖︑本造至聖︑黒黒獲姦故︒章倶下所司議︒

左都御史孫璋請卑吝喬任︑而勘廷弼︒上是之︒時南

北科道議論平話︑漫事中李成名⁝⁝等持勘議甚力︒

給事兼官慮震⁝⁝等駁之︒魚鱗数十上︑理不自安︑

一構去︒而︵呉︶亮嗣︑︵官︶鷹震攻璋尤急︒上倶

置不問︒個 己而巡按慮天御史徐慮登艶状以聞︒謂︑振詐姦

淫︑按臣訪肇︑會百司府問明澄杖︑招詳︒廷弼批行︑

﹁兄弟聚磨︑恨不凶刃︑其向早梅宣詐等︑甑破至此︑

勿留辮實︒﹂及養畜會審︑大都亦批︑﹁振中等一徒︑

未蓋豚事︑宣詐等名教難容︒﹂其後先事詞詳在別本︑

情儒難欺︒此二臣批駁之大築也︒乃凋鷹群・蘇海望

等︑當時遍告操・撫・屯・倉・按・江諸院︑櫻金行

私︒公論見唾︒未幾︑県南有劣生週報︒蘇海望・李

鞘先・学則鮮二内雷撃四人置遂以渠魁見落 ︒鷹詳

先回︑而蘇海車蝦音名心耳擬製︑仕舞︒此廷弼罪革

諸士之大築也︒比入院杖治︑惟蘇海望平首︑杖敷濁多︒

永緒・蒸留皆次之︒而永暦物故︑檬報︑死期距解審

己二十日久 ︒此永糟獲三吉自死之大築也︒至干行

媚湯賓サ一節︑指亦多端︒査︑賓サ原白革案無干︒

其干永繕生平又絶無繊芥之隙也︒然則二十殺永緒︑

賓ヂ其任受怨乎︒其一時盗難若蘇海楯鱗︑又將誰媚   嵩置︒然廷弼則有所嫁取之 ︒去皿其居恒︑以力挽頽  風上己任︒故明言三尺不霊假借︑期干一懲百傲︑而  不虞其籍死標題︑輩再造誘︑大騨其反瞳之毒也︒養  喬實耳聞其説︒識別因職事応護︑偶乗去位︑感激形  聖運列︒⁝⁝按臣養喬温雅潔清︑凡主精詳︑不筍︒  猫言有激工﹂風聞︑故居之不能無疑︒非濁殺人媚人疑  也︑即庇姦亦疑也︒総之︑此一役也︑事當以明白直  戴爲断︑而牽纒曖昧者可勿論︒人語以生平本末爲断︑  物争氣詮懸者可勿論︒則重層之瞬断自明︑而養喬之  生平亦在外︒此可都無百重奇骨︑後敦以成二臣平日  之品量感︒  ◎ 先是︑桐城縣斜壁徐從治以編審事豊郷紳不協︑  郷紳辻三啓達養喬︒後養喬劾從治︑即以郷紳公啓實  之︒時桐中人御史方大鎮奉命巡按河南︒思事中李成  名等謂︑郷紳既以公啓累竪瓦︑則大匠宜静聴魔分︑  不當赴任︑疏論之︒干是給毒中呉亮嗣・姜性等謂︑  養喬本鞘地方不能相容︑高覧︑而半端工﹂廷弼云︒

︹皿︶﹃萬暦邸紗﹄万暦二十九年条に帯す熊廷弼の弁疏︒

この部分は小野和子﹁﹃萬暦邸紗﹄と﹃萬十二抄﹄﹂︵﹃東洋

史研究﹄39−4︑一九八一︶に指摘があるように万暦四

十年十二月の記事の混入である

  直轟轟學御史熊廷弼︒按心土謳異常︑語録︑荊養喬

一 92 一

(19)

 摘臣批語﹁施・湯故智﹂之句︑肥溜驚喜宣窯湯賓弄︒

 臣向不識賓サ︑芸当正孔︑亦不知當日孚嬰始末︒但

 巻査︑先年生員施大得與賓サ族叔湯一太︑孚嬰徐氏︑

 因而致死︒徐尚書鼓唱生員凋慮祥等︑以摯節爲名︑

 建祠有年︒後該雲南道史御史劾論宣城縣節婦徐氏冒

 濫名節︑鷹鍛淫祠︒而前回連年遍歴檬此牌輪唱寧道

 査明津氏致死根因︑乃批詳云︑洋弓宿継公呈︑地方

 之正論︑則徐氏死非大義︑冒節多年︑好人之爲計毒 ︑

 険 ︒當日賄費呈詞︑姑不深究︒廟宇亟壷折殿︑基

 地場官︒施大徳二男舞曲︒此緻︒戸越至尊七道︑將

 施大徳瓢退︒此前事也︒今南中士夫言及寧國士風者︑

 莫不以爲壊直前心心節︒而週番又學零雨節︒前野公

 學出子賄買︑而今週公學遊出賄買︒雄臣批云︑﹁施

 湯故智﹂︒而乃撹此謂︑臣用蓋一片殺人心腸︑欲効

 首功︑二曲サ地︒三遷言言︒史御史之参論︑魚子臣

 之折祠︑己無印サ草葺功︑而早言不免落爲從華墨 ︒

 庇好者濁臣也乎哉︒

︹W︺﹃明史﹄巻三〇三︑周回三︑徐貞女伝︒

 徐貞女︑宣城人︒黒字施広益︒年十五︑里豪湯一泰

 鑑之︑椅從子祭酒塩サ︑強委禽焉︒女父子仁不受︑

 夜趣施鼻女蹄︒一泰悉甚︑脅有司撮施婦︑欲庭奪以婦︑

 先使人捧之濟父子及媒始敷人︑殿之三門︑有司莫能    制︒徐氏被撮︑性理︑次城東旅舎︑思不詳︒夜伺人静︑   投池中死︑衣上下縫靱不見寸髄︒観者皆泣下︑丑ハ鼻   古廟︑盛夏馨蒸︑蝿不敢近︒郡守張徳明直視︑立祠   城東祀之︒の 直販史料︹W︺にみえる事件当時の寧国府知府張徳明 は万暦十四年の進士で︑朧﹃寧國府志﹄巻三︑職官表に よれば︑彼は二十三年に着任し︑後任知府の霜起欽は三 十一年の着任になっている︒㈹ 湯賓サ﹃睡庵文稿﹄二刻︑巻四︑﹁先大病大巌壁⁝葬墓 誌銘﹂︒また麟﹃寧恥曝志﹄巻首︑選挙表にも同族の名 は見えない︒㈲ 熊廷弼は﹁雲南道史御史﹂とのみ記す︒筆者が﹃明実録﹄ を検索した限り︑三十年代の史姓の御史は︑史記事︑史弼︑ 史学遷の三人であり︑史弼は﹁陳西道﹂︵万暦三十年八月 蚕齢条︶︑のち﹁広西道﹂︵万暦三十三年十二月乙丑条︶︑ 史記事は﹁雲南道﹂︵万暦三十六年八月癸未条︶となって いる︒㈲﹃明実録﹄万暦三十七年四月戊三条に﹁以雲南道御史史 三遷懇書直隷玉壷御史︒﹂とあり︑万暦三十八年閏三月 丙辰条に︑﹁命江西道御史王基洪爲南京提學御史︒﹂とあ るのによる︒

⑳ ﹃明史﹄巻二二六︑王元翰伝︑﹃嘉暦邸紗﹄万暦三十六

一 93 一

明末︑地方生員層の活動と党争に関する一試論

(20)

/   /

  明末︑地方生員層の活動と党争に関する一試論

 年八月〜三+七年三月の二人の上奏活動︑参照︒なお史

 記事は﹃東林党人戸﹄に﹁史紀事﹂と誤記されている︒

 朱佼﹁東林黛人榜考証﹂︵﹃燕京學報﹄第十九期 一九三六︶

 参照︒働 顧天竣﹃当直史文集﹄巻七﹁自暴霊林﹂︑李騰芳﹃李

 文荘公全集﹄巻六﹁包儀甫辮眞整序﹂参照︒三人は三十

 五年の会試でともに考試官をつとめた時に意気投合して

 いる︒顧︑李二人が東林派から攻撃されて官を去ったの

 は三十七年二月であり︑同年四月に南直提学となった史

 学遷はすでに三人の関係をよく承知していたと考えられ

 る︒㈲ 朧﹃寧國府志﹄の選挙表︑人物志等参照︒また同書巻

 十四︑営建志寺観に

   監視寺︑在城南七十里柏槻山︑節名殿︒宋嘉面明酉︑

   建山口︒梅当直螢附近上帯︑其後世世欝欝︒明嘉靖

   中火︒梅守徳鳩族人︑重建︒寺外有飛橋︒静振詐墾石︑

   宝引虹︒

   漱石苓︑在城南四十里團山麓︒梅振詐建苓︑

   鋸石上下有釣縣潭︑龍潜其中︑土人疇雨輯慮︒

 とあり︑梅振詐が大族梅氏の一員であり︑かつ富裕であっ

 たことがしられる︒

㈲ 熊廷弼については﹃明史﹄鶏旦五九に伝があり︑彼の  文集として﹃熊嚢患公集﹄がある︒本文中の日付けは﹃明 実録﹄万暦三十六年八月二酉︑三十九年六月辛卯の各条 による︒⑯ 顧天竣﹃顧太史文集﹄巻七﹁與熊芝商學皇﹂︒㈹ ﹃顧端文公年譜﹄万暦三十二年四月条︒㈲ 葉向高﹃蓬編﹄巻二︑万暦三十六年五月条︑参照︒⑯ 註㈲史料︹1︺の後文に   前歳庚戌︵三十八年︶累計︒耀州︵王圖︶子王淑沐   以遠酷被察︒耀解語省三王紹徽日︑﹁小児軍︑聞是   平筆六所志︑出自上領山岡手︒﹂三六者胡鷹台︑芝山岡   即廷弼也︒紹徽出︑語人日﹁此番省中年例︑必胡泰   六 ︒﹂已而果然︒ とある︒この記事は﹃萬暦邸紗﹄万暦四十一年六月条の 周永春︵反影盛時︶の上桂から採ったものと思われる︒

09@﹃萬暦指標﹄万暦四十一年二月条の河南道御史徐良彦

 の上疏︒

⑳ 巻十七〜二十一に全部で十一通である︒ちなみに二番

 目に多いのは︑この当時左副都御史であった許弘綱︵字

 少徽︶への十通である︒

⑳ ﹃明史﹄巻二五九︑熊廷弼伝︒

㈱ ﹃蒼霞績草﹄巻十九︑﹁答熊芝岡﹂

㈲ 同前書︑巻二十﹁答熊芝岡﹂

一 94 一

(21)

㈱ 荊懸章は熊廷弼を弾劾すると同時に︑安曇府桐城県知

 県臣従治とその﹁妊党﹂を弾劾して任を去っている︒註

 ㈲史料︹H︺個によれば︑桐城県では知県と郷紳との間

 に編審に関する対立があり︑荊養喬は郷紳の下着によっ

 て知県を弾劾した︒地域の転轍の側に立った行為と思わ

 れるが︑呉亮嗣ら反東林派は︑荊養喬は地方に容れられ

 なかったがために任を去り︑熊廷弼のことはその洋弓の

 口実に過ぎないとしている︒この一件は︑熊廷弼の任地

 との非妥協的な態度とは対称的な︑荊管沼の地域世論と

 の関わり方を示しているように思われる︒また本件にお

 ける荊養喬の行動を考える上でも重要と思われるが︑事

 実関係に不明な点が多く︑また宣城県における紛争とは

 直接の関係はないと考えられるので︑本稿ではこの件の

 考察は省略する︒

㈲ ﹃遽編﹄巻四︑万暦三十九年四月掛︒

㈲ ﹃明神宗實録校勘記﹄︵中央研究院歴史語言研究所︶に

 よる別版の記述︒

吻 ﹃蒼霞績草﹄巻二十﹁答熊芝山岡﹂︵註㈱とは別︑四十年

 六月頃のものか︶に︑

   南福地廣才多︑増額爲宜︒但今海内無言不請︒説者

   以爲増則倶増︑寝則倶疲︒追尋増有否︑勢門大毒︑

   而忽然偏増天下解額︑人海以爲不可︑甚難題也︒頃    商之宗伯︑亦不敢任︒不知寛何如耳︒江南北分巻之説︑   則勢必不行︒蓋此端一開︑凡各省中少之庭︑皆引以   臨海︒其弊將安善哉︒高明當自自然不正爲斬︒ とあり︑ここでは郷試合格者挙人についてであるが︑ 葉向自や礼部尚書ら首脳部は科挙合格定員の枠の拡大に 消極的であった︒㈱ この件に関する﹃明実録﹄記事の礼部題覆の部分が﹃萬 暦邸紗﹄万暦三十年三月条︵四十年三月条の混入︑註㈲ 小野論文参照︶に抄録されているが︑そこでは︑   影青題覆童生聚衆團携郷紳等事︑覆提學御史熊廷丁   本︒⁝⁝ とある︒㈲ ﹃明実録﹄によると︑孫璋の左都御史就任について︑ 万暦四十年十二月癸丑︵二十四日︶条に命が下り︑同門 辰︵二十七日︶条に再び﹁出任供職﹂の命が出されている︒㈹  ﹃論証﹄巻六︑万暦四十一年六月条︑﹃蒼霞績草﹄巻 二十﹁答熊芝岡﹂︵註㈱・㈲とは別︶︒⑳ ﹃明実録﹄万暦四十年十月庚即下︒事件の概要︑論孚 の推移は﹃定陵註略﹄巻九︑庚戊科場︑参照︒働 ﹃明実録﹄万暦四十年十月辛霜露条︒また葉向高﹃蓬編﹄ 巻五︑万暦四十年九月条参照︒⑯﹃蒼霞績草﹄巻二+﹁答謝工部﹂︒

一 95 一

明末︑地方生員層の活動と党争に関する一試論

(22)

明末︑地方生員層の活動と党争に関する一試論

㈱ 註㈲史料︹皿︺で熊廷弼は湯賓ヂと面識はないと述べ

 ているが︑葉向高も註㈹﹃遽編﹄記事で﹁湯君賓サ失意

 家居︑大與廷弼交歓︑恨相知晩︒﹂と述べているように︑

 二人の間に親交があったとみた方が自然である︒

岡 ﹃定陵註略﹄巻十︑門戸分孚︒

岡 註㈲の史料にみえる﹁南北分巻之説﹂がこれにあたる

 と思われるが︑まだ調査していない︒

㈱ 張萱﹃西園聞見録﹄巻四十五︑学校︒

補ω  ﹃遽編﹄巻五︑万暦四十年十一月条︒

   始韓︵敬︶爲諸生︒適湯︵賓サ︶以徐氏婦死︑爲諸

   生所攻︑猫身跳至漸︒韓慕其科名︑投舞爲師︑自後

   往來問候不絶︒

補ω ただし︑丁元薦が生員側の鼓諜という行動に対して︑

   これを容認したかどうかは︑この記事では判断でき

   ない︒

一 96 一

参照

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