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豳詩考: 附束薪考

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九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

豳詩考: 附束薪考

目加田, 誠

https://doi.org/10.15017/2556630

出版情報:文學研究. 25, pp.1-36, 1939-06-30. The Kyushu Literary Society バージョン:

権利関係:

(2)

■■■■岫

周繩補章に噺詩師雅緬砿といふ名榊が出るが︑古来之に附しては解樺さまん︑である︒

周澱箭章とその鄭注に曰く︑

びんふ

むか中存︑誰︑土鼓を盤ち︑醐詩を獄いて以て暑を逆ふ︒

やく鄭注關詩は剛風七月の詩のこと︒之を吹くとは術︵術の一砿︶を以て訓ぺること︒七月の詩は寒暑のことを歌っ

たもの︑從って︑雑氣塞氣を迎へるに際して此の詩を歌ふのは︑その事が机通するからである︒この詩は﹁國

風﹂であるけれども︑と上に附詩と云ってゐるのは総じての猫を川ひたものである︒

中秋︑夜︑塞を迎ふるにも亦之の如し︒

剛詩老︵二八九五︶

詩考 第二十五輯︵昭和十四年六凡

束薪考

發行︶

(3)

二二二一一

鄭注州雅といふのも亦同じく七月の詩のこと︒七卿の詩の中には︑子紹︑畢趾︑億彼南畝︵後に諜川︶などいふ

ととがある︒從って蝋年を斬るに際して此の詩を歌ふのは叉その知を歌ふことになる︒之を踊雅と云ふのはそ

の中に男女の正しさを言ってゐるからである︒

つか秘たもの岡の蛸の祭り︵年の紗りの祭︶には伽弧を獄き︑土鼓を唯ち︑一年の老物を息はせる︒

のぱ一つののさかづきあ鄭注との醐蚊も矢張り同じく七月の詩である︒その詩の中に又稻を極り︑酒を作り︑公堂に踏って兇胱を稲

げ︑寓詳無彊を呪するなどのことがあるので︑年の終りの祭に之を歌ふのは︑之亦その類のことを歌ふわけに

なる︒之を蝋と洲ふのは︑歳が絶って︑人功の成就するを歌ふからである︒

之によると︑鄭玄は川腿の剛詩附雅醐独を︑在はすべて同じく七月の詩を歌ふものとしたので︑何故同一の詩であり

乍ら︑戎は雅と哨なり︑或は蚊ともなるかと云へぱ︑七月の詩一端の中に︑風︑雅︑狐に夫糞遡はしき意味の文句が

あるからと老へたものらしい︒

鄭玄が職の注を施した樹時は︑その巾の詩に開しては三家詩に蝶つたので︑まだ毛詩を見てゐないので︑後に詩經に

韮を作るに際して始めて毛詩を採り︑その解樺には往糞三家読を泥へてはゐるもの典︑大冊に於て云ふ迄もなく毛詩

の序に從って韮を作ったので︑その韮は以前慨の注に於逗不した謡の解緤とは雀だ異ってゐる︒乃で鄭玄が毛詩の菱

に於て七月の詩を如何に扱ってゐるかと云ふと︑一般に︑鄭玄は七月の詩を三分して︑一章二章を噸風と爲し︑三章

I型リ文

解研究

たのかみ

4を剛肌に所るには︑

節二十五帆二︵二八九六︶

心却伽雅を撒き︑土鼓を準って川峻︵古始めて農を教へたもの︒後に諭す︶を樂しまし

諺『季

2 1

q■

│¥

11

(4)

Ⅲ章五章及六章の牛︵以介燗詳︶までを醐雅と爲し︑以下最後の寓毒無紐までを剛狐と見倣したものと云はれてゐる︒

︵幟賜修の詩本義を姑め︑米子その他凡て鄭釜をかく解して論じてゐるので︑︶詩の錨ハ章の半ばで職って風と雅を分

つといふととは誠に無理な話と攻繋される次弟であるが︑一柵鄭斐のなは果してさう見る可きであらうか︒繰り返し

鄭斐を読んで見るのに鋪二軍の経︑春n通く釆繋祁ぞ女心傷悲︑殆及公子同師の下に鍵して

作は女が陽氣に感じて男性を慕ふ︒秋は男が陰鋪に感じて女性を忠ふ︒所訓物化の悲しましむる所以である︒群に

感じてうら悲しく忠へぱ︑乃で始めて公子と共に蹄らうとする願をもつ︒嫁に行き度いル恩ふ︒女が仕事の苦に感

じ︑℃bbももじて︑此の志を生ずる︒地を幽風と洲ふ︒

鋪六章の半ば︑爲此赤酒︑以介眉詳の下に︑

︑︑℃︑︑︑︑叉稻を極って酒を醸し︑以て養老のたすけとする︒廷を耐雅といふ︒・

又末章の幽諦無鉦の下に

︑℃℃b︑︑︑大蒜無並ならんことを願ふ︒処を醐蚊と詔ふ︒

と説明してゐるのであって︑無論その指し示してゐる簡所に於て︑上に掲げた周旭の注とは些か異ってゐる︒然し乍

らこの菱に於て別に之を三分して︑鮒二章以上を瓜︑弟六章の半以上を雅といふ風に老へたとも断じ得ないであらう︒

毛仰にも︑序にも︑何ら此の詩を風雅蚊に三分する迩味は云ってゐないので︑鄭玄が三家詩をすて1毛詩を探るに 至ったからとて︑その關風關雅砿蚊に就いて彼の考を特に改む可きであった根擁は見えない︒むしろこの菱の意は

女心傷悲殆及公子同肺といふ句︑かういふ所が風たる所以︑六章の半ばにある以介眉壽︑かういふ所が雅たる所以︑

剛詩考三︵二八九七︶

(5)

文壊研究節二十五刺四︵二八九八︶

末末の醐詳無紐︑かういふ所がともなる所以と注したものと見る方が正しいのではあるまいか︒胡承批の毛詩後菱

を見るに及んで胡氏も矢張りこの班を云って︑七川三分の説は皆疏家の談︑鄭氏は嘗ってそんなことは云って居らぬ

とのべてゐるのを知り誠に我意を得たものと胆つた︒︵但し胡氏の一詩三川の論は取らぬ︶即ち鄭注では未だ七月三分

の説とは断じ得ないのであるが︑孔疏に至って︑

.⁝:川公がこの瀞で關公の教を陳べるに就いて亦その風化の姑から成功に至る迄に及んでゐる︒即ちその政教の始

めを述べては剛風となし︑その政教の巾甑を述べ七は剛雅となし︑その政教の成就を述べては剛と爲す︒從って

今一耐の内︑怖さに風雅蚊をそなへてゐろ︒

と王化の姑︑中︑成の三段を以て説明してゐるので︑︵七月の詩は周公がその先祁が耐にゐて王業を興したことを陳

尋へるものL〃|する醤説︒之に就いては後述︶之より鄭韮七川を三分すといふ老が行はれ︑その筋鄭錯に對して攻蝦が起

るに至る︒もとより一端の詩の︑而も或る末の半ばから雅と砿を分ける等云ふことは誰が老へても不合珈である︒鄭

玄の老へはさうではなかったと恩ふ︒それでは鄭玄がやはり一締にして三船・を兼ねると老へたものとして︑それも果

して認め得可き純であらうか︒

七月の詩風雅砿2−穂を縦ぬとの識︒上述の如く︑鯛風七月の詩は風雅の三柵を砿ぬといふ考へは鄭玄に於

て狂は兄得るものである︒故に上述の胡一水瑛︵定弐一I︶は鄭准を解樺し画して︑之によって七月の一流は風雅砿の

蕊を縦ね術へるものであるといひ︑瓜の詩であり乍ら雅蚊の韮を兼ねるのは︑恰も雅の詩であり乍ら風と狐を兼ねる

もの︵大雅掻尚の北︿風馳好︑吉市作航等を例に引く︶があるやうなものと云ってゐる︒︵巳に葉適︵一一一一華弐l︶も︑詩經

(6)

に於て伽風が十五剛風の並後︑小雅の前に収められてゐるのは︑之が風雅蚊を兼ねるからであると云った︶︒だから

詩經脱姉の作粁方王澗が同じくこの諭を稲へ之を詩の鍵朏として︑か比る明らかな理がどうして三千餘年のⅢ︑党に

一人も云ひ及ぶものがなかったのであらう︑などと云ってゐるのは前人の論を充分研討したものとは云へない︒然し

乍ら︑一柵風雅の三慨を兼ねると云ふ事は果して云ひ得やうか︒私に云はすればどうもそれは意味を爲さぬので︑

風と雅狐は本来夫糞その性侭を異にするものである︒風とは各脚の民間に歌はれた民諦︑雑とは︑凡そ儀式要禽に川

ひられる歌︑或は或る詩人の狐訓した櫛︑殊に大雅には間室の歴史︑傅統の緒川︑先川の功徳を陳べて子孫を戒める

などのものであって︑いづれも樂師によって綱製されたものであり︑︵その巾には風から探り入れられたと見える伽

もあるが︶︑弧は宗廟の樂歌である︒詩經に收められてゐる団瓜が樂歌であるか徒歌であるかは和盈議論もあり︑己

に採集されて樂歌になったにしてもそれは本来地方の災諭であり︑雅飢が儀式祭祀要愈の爲めに細製されたものとは

その性庇が異る︒︵今の誹經に混雑あること︑又詩人の弧抽の詩などについては所説あれども今川は略す︶七Hの詩は

之と誠んで見れば全く挫民の詩であり︑雅︑狐とは兄倣し難いものたることは︑後に七川の詩を僻群する所について

明かである︒

一識三川愛背の識︒同じく鯛瓜鯛雅姻釧を只七月一肺と見る諭にも︑些か異色あるのは米の王鷺詩細川に主張

する随事愛満の説である︒彼は川職の逆雑迎塞斫年祭蛸に︑衿この七月の詩を川ひるのであるが︑只その場合に應じ

て樂器を異にすると老へた︒即ち主たる樂器は土鼓州備であり︑之に鼓鈍琴遜を合すのが緬詩︵帥醐風︶であり︑之に

紘芋笙狐補諦縄逢管祥賊唯雅の十二器︵我は十一器︑鍬は動詞に波む可きものと川箕︶を合すのが關雅︑又撚譲準蒋磐

剛詩考五︵二八九九︶

| |

(7)

088回り︒ 女雛研究節二十五鮴六︵二九○○︶

雄鰐の川純を合すのが師であると云ふのである︒願炎武の︑知録にもこの説を掲げて︑七〃の詩は雅蝋の蕊を錠ぬと

云ふ︒泄家州亦王氏の説を引いて︑その識易ふ可からざるに似たりと認めてゐる︒之はつまり風雅弧各盈樂器を異に

するといふことを主眼として︑歌は同じきも︑只樂器を異にして風雅蚊を分つと見たものである︒壷は之は周瀧の鼓

隙︑雄帥の各牽を併せて老へた説なので︑風雅を只音によって分つとする論を探る人糞は之を認めるであらう︒私

も風雅畑夫皇刷を異にすることは認める︒叉木來剛風であった詩が需樂を鑿へて宴會に奏せられた事は老へられる

が︑一つの災諦をそのまk或は瓜とし︑時に戎は雅とし︑或は更に之を狐として祭祀に川ひ洲に奏することはないで

あらう︒それは他のの詩の慨を見てもわかる事である︒それに七月の詩の文句は爲政者が澗年祭蜻にそのま上川ひ

るには決して通しくない︒

周職を信ぜず︑從ってこの文の陶雅州弧をも認めぬ説︒職陽修の如きは︑今の所謂周澱は卒完の書であると云ひ︑

︵排水韮州Ⅲ︶從って疏章の師雅畑蚊も亦疑はしいものと兄る︒川職を疑ふ人尭はこの説を探るもの多く︑清の眺際恒

の如きもnら又醐雅踊蚊の文を妄言としてゐる︒

朱子の熱げたる三つの説︒朱子は詩集体七月の注に於て︑刷澱綴章の逆糾迎塞に獄く畑詩とは即ちこの附風七月の

詩である︐と断定したが︑﹁糊雅﹂﹁棚釧﹂に就いては鄭玄の三分の誠に反對して︑試みに以下三論を學げる︒

一︑王氏Ⅱ︵王安石の諭︶本とこの許打って今亡ぶ︒朱子亦その碗赴に近しといふ︒

二︑或Ⅱ︵焼氏枠の説︶七月全而を以て︑事に随って芳節を鍵すといふ説︒之亦道郡上通するし︑叉密際上行ひ得く

しといふ︒

(8)

二一︑もし以上の様でなかったら︑雅頗の中︑凡そ農事の鰯めに作ったものは拷剛の病を冠することが川來ろのではあ

るまいかo︵即ち今の詩經の雅蝋の中に之を求める老︶

以上三通りを畢げて︑読蒋の選押に任せてゐるのである︒

節一の論は簡州恥であるが之は回へ椛測の言である︒錨一の説に就いては上に己に柵れた︒鋪三の説こそ米子の卓抜なる

荒眼であるo朱子は之を敢て断定してはゐないが︑錐体の雅狐の注によって見ると︑可成りこの老を重んじてゐる様

に兄える︒

朱子が師雅とも云ふ可きものかと老へたのは今小雅の叩の楚茨︑傭南山︑市川︑大川の川捕であった︒

ことごと楚茨︒毛序には﹁幽王を刺る也︒政航しく賦販く︑川莱多く荒れ︑磯餓喪を降す︒民卒く流亡し︑祭祀饗せず︒

故に飛子古を忠ふ﹂と書かれてゐるo小雅の序といふものは︑凡そ小雅の詩を一初めの部分は文王周公礁世の詩︑從

って所詔美詩とし︑中唖を中興の主たゑ川韮の治世の詩で︑美刺和混るもの︑その後の部分を幽王乱仙の詩︑從っ

て凡て時の政治を刺る詩と決めてか上ってゐるので︑勿論之は詩の本意に適ったも・のではない︒以下信南山︑甫

旧︑大川︑凡て序の諭を取らぬ︒之らの詩には少しも上を刺る意等は無いのである︒乃で序は止むを得す︑古の廉

価を川心ひ以て今の然らざるを刺ると云ったので︑全く逝那のない解樺である︒故に之に拘はれることなく︑詩の本

文についてその内容を郭ねるより外はない︒楚茨は凡ヱハ章︒その雛一章に

よ・b

よく楚糞たる茨︑こにその純を杣ふ︒昔より何すれぞ︒我に黍桜を塾ゑしむ︒我が黍與糞たり︒我が殺需蓄たり︒我

つくや︲←準9L吟しほい

倉銃に盈ち︑我が座︵堆械︶これ憶たり︒以て酒食を鯛.り以て亨し以て祀る︒以て受んじ以て侑め︑以て量帆を介に

詩考七︵二九○二

I

1

(9)

率︶

鮒二章に

ぜいしやういひざ才

つらすL

淡舞蹄共たり︒雨の牛羊を禦うし︑以て往いて黍︵冬の祭︶芹︵秋の祭︶す︒或は剥ぎ戎は事︑或は雛ね︑戎は將め︑

はなはそな

おはいやす

呪︑肋に祭る︒︵犠牲を供へて艸育が円内にまつること︒︶祀琳孔だ明はる︒先Ⅲこれ画王なりo艸保んじ︵米子は川

保を肌の嘉號とす︶これ饗く︒孝孫座右り︒報ゆるに介禰を以てし︑餌諄妊無し︒

︵以上秋冬の祭の係︶

つぶさ之は誠んですぐにわかるように︑收推を了へて先肌を祀り﹁謝父兄弟︑術に燕私﹂する詩である︒

伝南山︒凡そ六章︑その第三章に曰く

晶生︑︾なりはひあた砿勘︵川のあぜ︶災盈たり︒季桜或盈たり︒仲孫の穂なり︒以て酒食を煽って︑我が界笂に外へぱ︑蒜老醐年なら

んO第Ⅲ章に

いはげづきいばひ中川臓打り︒慨珊瓜右り︒.とれ測りこれ菰︵酢莱︶にして︑之を皇川に献らぱ︑曾孫蒜老にして天の肺を受けんo

rノー︑完Lが乱ノ蚕々

た一Lまつひつ瞳なはそ雄唯訂ぱい

これ蒸めこれ悪り︑芯舞芥交として祀事孔だ明れり︒先Ⅲこれ皇なりo報ゆるに介禰を以てし︑寓毒紐なし︒ す○

〃{

究第二十五帆

I

︵二九○二︶

(10)

再詳鷲望計黒伊戟.sい卜伊繋丙淵N

季一一一一率詮一一︾一 〆鳶滞

汁汁の諦媚柚一旅龍が鮮刈二︽漆垂需海 鞘琴搾心轤諫耗ヨ州率卜舘翻︲伝詐緬銅

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時晉三副砂詩尋序.勤作舜畔裂汁s

弓酬罵熊毎Gdが 吠ラト訓一弓一峯ざ漁

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(11)

丈離研究節二十五枇一○︵二九○四︶

肌ぱ⁝・・⁝・⁝川雌を樂しましむの文刷の解繰も愛になる︒天子の大蛸八とは鄭玄によれば先沓︑司沓︑農︑郵表畷︑

猫虎︑坊︑水府︑昆鐡である︒︵王洲は軸︐虎を二つにして昆鐡を去る︶との農とは澱記鄭注に田雌也とある︒即ち田峻

は先鄭︵鄭司農︶の注の如く古の飴めて川を教へた者で没事の榊と老へる可きではなからうか︒

市川︑凡そ四章

︑おる鉱一幸︒仲たるかの市川︵諸諭あるも今庇大なる川の意味に取る︶︑歳ごとに十千を取る︒我れその陳きを取りやしなくさざつちかぎて︑我が農人を食ふ︒古より亦年︵剛年︶なり︒今南畝に通けば︑或は転り︑或は好ふ︒黍緩疑凌たり︒︵次の何略︶

き巽らけきもの錐二章︒我が齊明と我が犠羊とを以て︑以て肺し以て方す︒︵鄭芙︒秋后土の刺と山方の刺を祭り︑五穀成熟

の功を報すること︶

私︽我が川既に減し︑農夫の座なり︒︵鄭斐︑大蛾の畔︑農夫を労ふて以て之を休息せしむるとと︶

むかも低いやし嘩琴諺鼓を雌ち︑以て川帆︵川の洲︶を御へ︑以て廿雨を斬り︑以て我が桜黍を介にし︑以て我が士女を穀はん・

鋪三章

かいいひ

稗孫来る︒その姉子を以て︑彼の南畝に傭す︒川雌至り存ぶ︒︵との句七月の詩の刷と殆ど似たり︶その左右を擁

ぞさま

をすて

またおほりて︑その旨否を宵む︒禾易りて畝を長ふ︒絶に稗く且有し・仲孫怒らず︑農夫克く敏︒

狼I夕J0II4−凸もと

毎列肌卦井

かやばし野かやり︾よろづくる象仲孫の稼︑茨の如く梁の如し︒仲孫の痩︑無の如く京の如し︒乃ち千の念を求め︑乃ち繭の紺を求む︒黍鯉稻梁は

農夫の座︑報ゆるに介而を以てし︑閥森斑無し︒

Iむ

(12)

之は竹孫︵毛︑鄭は成王と爲す︒米子は祭・を主る荷の稲︑仲川より以て無窮に至る拷之を稲するを得といふ︒曲慨に

﹁謝候天子に兇ゆるに臣某侯某と日ひ︑その雌と言ふとき自ら稲して寡人と日ひ︑︑その洲服に在るとき通子孤と日ひ︑

祭祀に臨むに内事には孝子某侯柴と川ひ︑外事には仲孫共侯染と︑ふ云愛︒とあり︒周の初めの諸侯は後代の大諸侯

とは異り︑その多くの一族を封じて小さな領主となってゐたのであると恩ふ︶︒が川に來て︑方壮をまつり︑盟年を

帆すことを歌ってゐる︒故に周澱に於て︑逆暑迎塞に剛と云はす︒所年祭蛸には國と云ってゐるのである︒と囚に以

其姉子︑鱸彼南畝︑川雌至群といふ七月の詩と相通ずる句があるのは注意す響へきである︒︵後述︶

︾﹄鼻﹄大川︑凡そ四章︒之を朱子は農夫の刑とし︑その上を狐美するものと云ってゐる︒然し農夫が前腕に秤へる詞の落し

と云ってゐるのは不可である︒

に他そだとすきこと&じ

第一章大川稼多し︒晩に種えらび︑既に戒へ︑醜に術へて乃ち事あり︒我が軍き絹を以て載を南畝に俶む︒その

両殼を播き︑既に庭く且つ碩なり︒竹孫にこれ識︾o家認呼雌撮い怖癖︶ なほお低い

ふさ

ふのいなぐさばぐさぬいとくぼうぞ4節二章既に方なり既に早り︑既に堅く︑既に好し︒狼あらず︑券あらず︒その奴滕とその孟賊と︵韓鐡︶を去

あたり︑我が川称を害するなし︒副肌祁あり︑乗りて炎火に界へん︒

えん

かしここい也

第三章涼︵雲興る貌︶として韮を︒雨を興すこと祁盈︒我が公田に雨ふり︑途に我が私に及ばん︒彼に瀧らざる秤

い雄つかのこいなだほおち

あり︑此に鮫めざる猫あり︑彼に辿れる乗あり︑此に洲たる穂あり︑これ寡姉の利なり︒

かれいひよもつかみいんし世いこぐ

節Ⅲ章・竹孫来る︒その姉子を以て︑彼の南畝に傭す︒田峻至り卉ぶ︒來りて方に禰祀す︒その騨黒︵犠牲︶と

その黍桜とを以て︑以て亨し以て祀り︑以て景耐を介にす︒

剛誌老一一︵二九○五︶

(13)

[ 文皐研究姑二十五鮴一二︵二九○六︶

公川私川は術に問題とされる所であるが︑恐らく公川は曾孫及その一族の川であらう︒とれについては後に七〃の詩

を述雷へる所と併せ老へたい︒この詩の末章によって︑侍耶孫が来て祁をまつることがよくわかるoとの端にも亦以北︿姉

王蓉盈の伽があって七月の詩と通ずるものである︒從ってこの二流は七〃の詩と或る關係を有するものであることが

老へられる︒小雅の中には剛風の詩の句を探り入れてゐる例が他にあることから老へると︑これらの詩も︑或は七″

の詩の句を参考にしてゐるのかも知れないと股はれる︒

次に朱子が關蚊に非ずやと見た周蜘の胤文︑価工︑瞳唯︑剛年︑職斐︑良報について︒

思文は︑川の先川とされる后稜を一祀る一︾川樂で︑郊特牝に﹁蛸の祭は先水川を︑王にして司班川を祭るなり︒﹂と︑鄭派に光雄m

は祁災氏の蒲く司尚は后桜赴也といふo

思文麻桜︑克剛彼天︑立我蒸民︑莫庇剛極︑胎我來牟︑帝命菱川︑批庇班爾界︑陳常干峠夏

それ文徳尚き后溌はよく天のこ上ろにかなひて︑わが民を食ましめ総へりoげに徳の極みなるかなo我らに麥を皿︿

へ給へり︒天帝この対をしてあまねく民を養はしめ給ふ︒かぎりもなく界もなく︑われらに道を叩︿へ給へり︒

︵郷鐸砿型睦州理︑︶

価︑この緋は大雅生民の詩と机雁ずろもので︑叉月令に孟赤の月天子殻を上帝に斬る︒︵鄭が赤秋体に向く︑夫れ踊

程を郊祀して以て避事を耐る︒払縣塾にして郊し︑郊して後排す云さとあり︑蟠祭に川ふる歌とは限って老へる事

は川来まい︒

匝工︑岻雌叩は米子は天子が農肯を戒むる詩といふ︒価工の毛序に諦侯助祭して胸に辿るなりといひ︑悲遭の獅断︵二一

|

斗彦

(14)

家詩論と兇らる︒︶にも諦侯助祭して之を胴に辿るとき歌ふ所とする︒噛嶬は毛序及渦断に︑赤夏播を上帝に耐る也

といふ︒Ⅲ年は毛序に秋冬報する也︑澗断には秋冬に蒸宵する時の歌といふ︒

剛年多黍多稀︑亦布商膜︑繭億及神︑鱒澗鯛瀧や蕪典剛批︑以洽百職︑降禰孔皆

いねい値くらもb

この蝿けき年黍多く稀多く︑商き原干醐づに︑浦作り鴎作りもちて︑とほつみ川にたてまつり︑百の愁典へまつ

る︒紳黙の耐を授け給ふこと︑かぎりなくあまれからむ︒

ざん赦斐は毛序澗断共に雅薪川して枇櫻に川る欲とする︒

いゐくしみ力づすきこと︲ほどたれふく

:⁝⁝・・・・嶮たる一その倦︑共姉を思州し︑その士芹依るあり︒略きその紺︑戒を南畝に俶む︒その而殼を播く︒避幽

すな哩んでこれ活く︒:⁝・⁝・︲赦ち極ること沸く疵てるその祇︑禽億及神︑︵侭の上を肺とい.ご酒を爲り端を偏り︑川砒

す今令め證なに蕪外し︑以て百澱に治ふ︒⁝⁝︐⁝:

の如く︑大川蝿年︑そして又七川の締と夫凌机迦ふ所の歌である︒

良紺は毛序︑猟断共に秋献桜に報する歌斗一する︒

しょく?ふ異たたる艮紹︑減を南畝に俶む︒その而穀を播く︑迩函んでこれ活く︑戎は來って女を鵬る︒筐と筥とを減く︒そ

の総これ黍・⁝::︒⁝

・の如く又赦斐及七月の詩と祁通ずる川を右する︒

以上のやうに見て來ると︑この総流の排は亦縫を祁り又秋祇桜に報じ︑間澱に詔︵所の剛祭蛸すれば附蚊を鍬し土皷

則詩考二一︵二九○七︶

一‑‑ ー−−−巳一了

(15)

rrlD

文學研究節二十五岬一四︵二九○八︶

を酸ち以て老物を息はしむの文に必しも限定されぬが︑しかし夫盈の詩が机通するものと持ってゐるは確かである︒

・之ら祁迩ずる幾端の農事に開する詩が︑それならば︑何故噸の名を冠せられる事が川来るであらう︒

七月の詩が周公がその先測の耐に在った柑時の苦労を陳べたものとする沓説には從へぬ︒それは後に述べる通りであ

る︒又願炎武は周の枇に醐剛といふ団は無いことを云ってゐる︒之は他の國風がそれ人︑の閏に於て採集されたとい

ふ意味のものと異ってゐる︒乃で職炎武は上述の如く︑王質の蒜を主樂器とするの説を探るので︑玉髄の結論には賛

成川来ぬけれども︑私は︑之ら農事の祭りの楽が土鼓と錆を主樂器としてゐたらしいことは認めたいと思ふ︒川棚楡

章は土鼓州擶を掌るといふ︒そして逆甥迎寒斫年蛸祭に何れも土鼓剛術を以て奏することを云ってゐる︒之を今一つ

識するものを恥げたい︒それは澱祀郊塒牝に

天子は大蛸八︑伊衿氏始めて蛸を爲す︒云盈

と云ひ︑同じく明堂位に

土鼓︑溌桴︵鄭云ふ︑笠は常に蛍に煽るべし︒土を川めて鼓を盤つもの︶︑誰補は伊衿氏の樂なり

といふ︒してみると蛸に土鼓と術を川ふるのは一般の風習であったらうと思ふ︒た回明堂位には兼補といひ︑川慨に

は剛術と云ふのが異ってゐる︒刷澱倫章の鄭司鰹の注には︑關箭とは閥地に応する竹といふ︒明錐位に華といひ︑と

kに砿の竹とすれば少L合はいが︑兼笛は怖の律のもととされるものである︒之は矢張り鄭玄のやうに醐人吹箭の

蕊と云った方が幟耕だと忠ふ︒もと鯛の地方に行はれた楠を伴奏とするⅢ有の雛訓のものであった故に鯛風といひ︑

之が永く農村に行はれ︑同じく土鼓と術とを以て農の祭の節に炎する雅弧の歌をも︑亦湘雅湖といふのは考へ

(16)

られぬことでない︒只川澱の記載は雅独.本来の別が見えず︑或は諸侯澱樂を催し︑且つ雅砿己に本來の川途を乱した

後のものがその記栽にある根擁を與へてゐるのであらうか︒

二︑七月の詩

詩經の師風凡て七篇︑その中七月の詩を除く他の六浦は避は峨風と云はる可きでないことは早くから知られてゐる︒

それらの詩は何れも刷公の作︑或は刑公に開するものと兇倣されたが故に︑七月の詩の後に附けられたのである︒何

故かと云へぱ︑七月の詩そのものが︑從來亦刑公の作と云はれて来たから︒毛詩の序に日ふ︑

七月は王業を陳ぶる也︒間公愛に遡ふ︒螂睡塾印蜂錘詐蝿維唾岬院識罐群故に后峻先公風化の曲る所︑王業を致すの

眼難を陳ぶるなり︒

又鄭譜に曰く︑

鯛は后挫の曾孫公劉といふ者が︑部から川て徒つた所の戎狄の地名である︒公劉は此の地に蹴れ︑猫ほ后稜の業を

ふ堆怖め︑勤仙して民を愛し︑民威之に蹄して剛を成した︒その封域は岡貢雍州岐山の北に在る︒股の末︑太王が叉戎

狄の難を避けて岐山の南に移った︒周の成王の時︑周公が流言の難を避けて川でl東都に居ること二年︑先川の

公劉太王が鰍に居て苦努したことを恩ひ︑今や己れの身の雌に辿ふ境遇を比べてのべたものである︒

といふ︒即ち序及鄭玄は︑この詩は川公が先肌の剛に在った頃王業の韮をきづきつ上苦労してゐた儲時のことを歌っ

たので關風と云ったやうに説いてゐるのである︒朱子も亦﹁刑の武王崩じて成王立ち︑周公家宰を以て政を雛し︑乃

剛詩考一五︵二九○九︶

111.111︑●凡︲︲111司1.︲1︲︲

(17)

文學研究雄二十五鮴一六︵二九一○︶

で先Ⅲ后挫公劉の化を述べて詩一端を作り︑以て成王を戒めたもの︒﹂と云ってゐる︒然し乍ら誰でももし一度七月

の詩を誠んでみれば︑周公が天子成王を戒める爲めに作った詩などkは到底忠へるものではない︒又先皿の公劉太王

が勤労したといふ意味でもない︒之は全く挫村の一年を詠じたものである︒そのつもりで今こ上に先づ大意を課して

みる︒課文の拙劣なることは許され度い︒只奮説を洗って成る可く本来の意味を示し度いばかりだから︒

︵一︺虻かご 一︑七月流火七川大火が西に行けや九N授衣九〃それ人1多仕度 ︵|ご︵七︺ 九川授衣九月それ人︑多価度春日城陽赤はあた氏か

一之H儲發纈矧やさむ風有鴫倉庚うぐひす鴫けば

二之日栗烈師走は凍る女執総筐娘はかごもって 無衣無禍荒物毛ごろも川意かなうて迩彼微行小經に行って 何以卒戯何で越されやうか年の蕊麦求柔桑桑の芽つむよ

︵四︶

三之日予報む〃すきとり祥日迦糞非はうらノー ︵五︺︵北︶ 凹之日襲趾如月やくわとる釆繋祁糞よもぎをつめば 同我姉子女腸子供も特つれ立って女心傷悲峡ごiろはやるせなや

に葹小仁畑圭恥作トーノT1﹂ひ11巫Ⅶい

南の畑にわりごを運べ殆及公子同蹄ついて行き度い若様に

川峻至害川峻さまもおよろこび三︑七月流火七川大火が西に行けや ︹十一︶す こ︑七月流火七〃大火が洲に行けや八凡瀧兼

八月声刈り曲⑱川意

(18)

瀧川條桑

取彼斧肪

︹十二︶以伐速揚

狩彼女桑

ししJJn堀伽暫

赦玄戦黄我朱孔陽

爲公子裳山川秀蕊

−11J1↓ゾⅡリyjⅢ岬叫

八月共極

トー間叔囎﹄jl1

一之日子路

取彼狐狸

篤公子菱

│刺

詩・考

川川こぐさに液がなれば五月始めて岬の笠

十月葉が散る

繩川や狩りLて

狐をとって

若様逹の皮ごろも 蝿生滅の始まる唖は桑の枝切り斧で打ち逓ろし小桑はしこいでその葉をとって

もず化川鵬が鳴く

八川苧をうむ

黄色や黒や・

あか

一きは朱く染めたる布は

お蒜せ巾さう飛様に

二之日共同

戦繊武功

荷私共樅

献獅子公

五︑五月斯鐡動股

六月莎難振羽

︵十三︶↑七月在野

八月在字湾紫諏鼠

寒向城戸

嵯我姉子H爲改歳

入此室虎 九Ⅱ在戸●十月蟠岬入我淋

隙Ⅲふさいで凧をくすべ

あみどまどをつぶして細戸を誰って

女子供ょさあこkへ入って

年を迎へろこの中で

一七︵二九一二

師走そろって巻狩りにいぐさのけいこは怠らぬ

ゐのこ小さい永は家づとに

大きい家は殿様に

五川はたをり股すって鳴けば

六月調ふるくつわむし

七皿野になき

九月戸nに

恥か十月は床にいつか来て鳴くきりぎ

りす 八川はのきに 111洲

(19)

文學

六月食鯵及莫

七卿亭葵及裁

八月剥棗

・十月催稻

爲此赤酒以介川群

七Ⅱ食瓜

八月断壷

L11卜上

4JノーlF14〃JIJ

菜茶薪維食我避夫

七︑九月築場凧

十月納禾稼

黍稜亜樛

禾麻救麥咲我野夫

I

究雄二十五鮴 じべえび

六月麓とれ野荊萄を食へ

つあふひ生めに七月葵と寂を亨ろ

雌つめ八月棗をうち藩し

十月稻刈って

奔酒作れ

よはひ齢延ぶるになうてはならぬ

七月瓜食み

九月は麻の疵を拾ひ

にがな屯らでたこ四茶とるやら柵は薪↑

わしの豊夫を食はさにやならぬ

たん畷

九月川凧をうちかため

十凡畑のとり入れは

もちきび︑うるきび︑わせ︑をくて 八凡はひさご

さて農夫らょ 五穀かづjく︑︲

'

我稼既同

︹十四︶上入執宵功

誰附子茅

寄附索細駆共乘屋

共始播酊穀

︵十五︶二之日盤亦沖凌

三之日納子凌陰

川之日其蚤

献蒸祭韮

九月川洲

︒→〃脈場

朋椚斯饗日役終羊

へ十六︺鵬彼公堂

榊彼兇脱萬詳無泄

一八︵二九言こ

わしの取入れすませた上は邑へはいってお上の仕事共は茅かれ夜は繩なうて畑の小屋もこの間になほせぢきに種まき妬めにやならぬ師走ちよん︑ノー氷をきって睦月水室に氷を入れて

ひつじ如月朝から蕪を供へ

韮も供へて水室を附く にら

九月をく新さて十月は

取入れ跡を帰うて清め

酒はふた樽

羊を殺し

殿の御殿で

さかづきあげて

あら日川度やなH川度やな

(20)

︵一︶大火︑心星︒牌日日︵十︶殆は毛仰始めてと識むも︑むしろ庶幾の意に ︵二︶授衣︑腱夫逹に冬の衣を授けること︒ょむを可とす︒

︵三︶一之日︑間の正月︑夏肝の十一川・芦を刈って通をかふ仙諏を作る︒

︵四︶干却を毛仰も朱子も耒耕を修むと解く︒之は︵十二條桑︑桑を枝ごと藩して其の葉を釆る・

つか

夏小正の正月︑農その末を絲ぬと云ふあり︑︵十二︶迩揚︑枝の遠く伸びてゐるもの︒

Ⅱ令季冬の月耒却を竹め田器を具へしむとあ︵十一二七Ⅱ在野︑八胤在字︑九月在戸︑は皆蟠峠の

る竿よりかく老へるのであるが︑私はむしろことを云ふとする鄭葵が正しい・之を或は隆

夏小正正〃の陛率均し田の句に術てL考へ度夫のことLする説もあるが取らぬ︒又斯盆︑

い︒子は干飛︑干蹄︑子柾等の如くこちらか莎難︑蟠峠は同一物で時に随って愛化して名

らゆく意味をもつ時川ひられる助餅である︒を異にするといふ朱子の説は課︒

︵五︶畢趾は足を翠げて耕すと從來僻縄されるがむ︵十四︶宮功︑公室官府の役︑或は古隆夫春夏は川巾

しろ千打吾氏の識の如く趾を鋤と見る方が良の庵に居り秋冬は邑中の宅に居る︒その色居

いであらう︒の宅の弥治の郭とも云ふ・

︵六︶川畦は前述︑喜を鄭玄は館に戒む︒又邇ず︒︵十五︶朱応絡る頃天然氷を喋って氷室に貯識するこ

︵七︶載︑すなはち︑始めてと掴む人あるも︑後章とは今で恥北京あたりで艇ぱ見受ける光景で と一致させてすなはちと見る方が良い︒ある︒ ︵八︶総催︑深いかご︒︵十六︶公堂︑前に述べた飲然の場所であらう︒

︵九︶祁冬︑衆多の様︒

此の詩の各月の数へ方は非常に複雑に兄える︒避は夏雁と刷勝が混川されてゐたと拠るのが岐も矛盾のない見方であ

帆詩考一九︵二九二一二

II

(21)

一一

文醗研究節二十五刺二○︵二九一四︶

る︒之については長くなるから詳論は略す︒術との詩を読んで注意す可きは夏小正との關係である︒夏小正は一種の

雁である︒又月令の中にもこの詩と同じ言葉を兇川す︒今この詩の紀川と共にこの三つの相通ずるものを畢げて比較

して兇やう︒

I

正夏

三月

ニニ

月正

三周

ノ』

jj

七月誌巾紀Ⅱ

三之日

j1

四之日︵春日︶

jj

七月詩中ノ句

右釆献撃納

'鳴繋兼

倉祁・祭

庚々非趾陰

秀襲

女心傷悲

條桑

七n 7制】

夏小正

雁北郷

農絲朕未

陛率均山雑多女士

蹄桑 価氷 券幽 牲糎黍 初俊鶇 釆繋

有鳴介庇一趣御津娠挙字︶

鋤迩郭 月令 念戊鴫

鮮業附泳 天子親栽未却諸侯大夫躬耕︑王命布挫非︑命川舍束郊

王瓜生苦莱秀

(22)

ノk

jj

ロー■ヨ

ノ、

jj

j1 jl jj jj

十二Ⅱ

詩考

八両月

七Ⅱ

←1‑ 八醗凡

‑1‐

吟ロー・

〃、

五月

ノI }1 H

薪授 椛玄栽黄

食瓜

莎難振羽 1.J

DJ凸

弧r

f辰

Fソ

1

玄剥

校瓜

『辨 聖 一

王姑韮 良州鴫

初砕大火小

有司同寒気總至民力不戦皆

入室章木黄落

蟠火

1l'

蝉始鴫

一二︵二九一五︶

| |

一一 一一

(23)

−L

息之

十一N一日一之日干幣王狩田猟禽獣 十二Ⅱ二Ⅲ二之日共同淵武功

難氷命取氷

雁北郷

以上の如く七州の詩と夏小正︑月令の川には共通なる鮎が多く︑又巾には夏小正と月令とが同じであって︑七Hの詩と

はその月を異にするもの︑又夏小正には同じきも︑月令には無いもの︑川令に同じで夏小碓にないものも有る︒只そ

の川に五に關聯あることは一Hにして知り得る︒叉その小異も︑厳格に川で分っ事の出来ぬものもあり︑それからそ

の作られた時代や場所によっても多少の相逮は生歩可く︑それに史に夏小正は不完全な書であって︑之を俄に断定し

がたい︒たご重大な鮎と見られるのは大火の中する時期で︑馬瑞辰は之について︑﹁夏小砿には五川初仔大火中すと

云ふ︒之は尭典のⅡ氷狼火以正仲夏と一致し︑鹿夏の時の牌である︒詩に七月流火といへぱ火星の中するのは六月に

ある可く︑左体の火中塞培乃退︒及び川令季夏丹心中と一致し︑之は川案の脾である﹂といふ︒しかし乍ら詩の流火

災L

巳甜一

〃I

﹀し雄二十五鮴

殺朋蟠入

韮酒峠此,、、 斯入室

羊饗 ;│イこ虚

一ド

先祠來大 祁千年飲 五公子蒸

祀Iil:

、及宗天

" IIIj ,子

出帆l 大乃

割祁

休臘

一三一︵二九・一六︶

(24)

︵大火が門にくだること︶といふ表現は慨めて畷昧な語である︒之を以て直ちに詩の製作年代も決し難い︒故に飯島博 士は大火凹流を西紀前三四年・唖︵戦剛︶に術て︑老へれば都合が良いと云はれるに對し︑新城博士はその槻測の時間︑

部将といふ語の老へ方を祁異すれば間紀前一千年噸︵西間︶とも見られると云ってゐられる︒尭典は後世の偏作と見ら

れるものであり︑夏小正の五月初界大火巾も︑それあるが故に此の課を直ちに虞夏の時のものとは爲し得ない︒王禅

が之を以て後仙の暦数に鞘しい春が逆老して推測したものと云ふのも珈山のある事である︒Ⅲつ私の見る所によれ

ば︑かくの如く七月の詩と同・一の文句があるといふ事は︑夏小碓が七川の詩淀利川してゐる誰擦であると忠ふ︒何故

なれば︑夏小正は月によって順序立てられた暦であり︑七月の詩は自然に歌って行かれた歌であり︑かkろ歌の中に

癖の文棡をよみ込む事などは券へられない︒必ずや奥小正は七月の句を利川したものである︒月令は無論剛家の慨と

して記されたものであり︑その中に七月の識も参考されてゐるのであらう︒

先に巳に述べたやうに︑七月の詩は決して刷公の作でもなく︑風化の功とか王業の眼雌などを述べるつもりでもな

い︒避村の一年を叙したものである︒ただこの時についてそれは如何なる人糞によって歌はれたものかを一鯉注意す

可きである︒從來はこの詩を以て︑周公が風化の功を述べたと兄る故に︑古︑上下の怖呼く︑殊に下民が勤労して上に

報ゆる風俗の厚きを示すと解く︒第三章爲公子裳の下に︑鄭玄は注して﹁その既ぶものk鰯めにいく﹂するの意と云ひ︑

朱子も亦﹁その事に鍔して而も己をすてて上に奉る︒至誠惨惟の意であらう︒上はこの心を以て下に施し︑下はこの

心を以て上に報ずる美しい心持﹂と云ふ︒或は節四章の言私共縦献獅子公についても米子は﹁その上を愛して巳むとと

なき也﹂といふ・さうして末章には張子︑語を引いて︑﹁此堆災がその飛に忠節なることの雑しきを見る﹂とある︒凡て剛誹考三二・︵二九一七︶ 1

111I

(25)

文學研究節二十五艸二四.︵二九一八︶

乢緋・と農民が勤労して上に報水る美しい風俗と兄たものである︒然し周公云荏の老は巳に去った︒それでは之は農夫

の歌であらうか︒すると我農夫︑我野夫は如何に解樺川來やうか︒此詩に﹁我﹂と云ふものは︑

九川火一さが辿れば盤夫逹に衣を授けてやる満であり︑

姉子雄に改成に宝に入らしむる符であり︑

ひろ茶を叔ひ︑緋を薪にし︑﹁我が農夫﹂を食ふ利であり︑

收准を了れぱ﹁嵯我野夫︑上入執宮功﹂と命ホろ芥である︒

而も一方彼主及公子たちに對しては

庄尤狼めきらつ少︑孔だ陽かなる﹁我が﹂朱の布を以て公子の裳を鱒り

鯉夫の暇な時になれば狐狸を狩って公子の姿を作り・

縦︵一成の家︑小さいもの︶淀私し︑軒︵三歳の氷をいふ︒大きいもの︶は公に献ずるo

が如き色糞なつとめを有する符であり︑そして收雄がすんで朋桝︵川樽の浦︶をもち︑兼羊を殺して公堂で杯を畢げる

ところの村である︒

公一十とは前に述べた紳孫の子供逵兄る可きであらうか︒之らの上崎にある入廷は下なる農民の労働によって蓑はれて

ゐるが故に︑

我川既に賊し︑挫夫の膣︒︵市川︶

仲係怒らず︑農夫克く徴︒︵市川︶

−−−− .一一一一

(26)

等の詞がある︒そして紳孫の一族は

我介眺に盈ち︑我鹿維れ億・︵楚茨︶

で︑澗食を作り︑牛羊を梨うして祁をまつり︑祁又之に報ゆるに介稲を以てすと云ひ︑祭のあとでは一族諸父兄弟

なか影・

が術に燕私︵楚茨︶して︑子糞孫盈巷ることなく之を引ふることを祝したのであった︒︵楚茨︶

たかしる

なら

之を榧ること椎だ︑之を祇むとと栗糞︑典の栄きこと斯の如く︑その比・へること櫛の如し︑以て百宝を開く︑百室

やす

盈てり︑姉子掌んぜり︒︵良祁︶

とlで百室とは上に於ける曾孫の一族に外ならぬ︒雅の楚茨信南山等の詩︑又噸の幾鯆は︑これ陛明にして始めてよく

ふるやした

理解されよう︒その下にある農夫はかくて竹孫の田を排L︑その收准は竹孫のものであり︑彼らは陳き米を以て食は

れ︑︵伸彼市川︑歳取・十千︑我取共陳︑食我農人︶︑寡婦は落穂を拾ひ︑︵彼有迩乘︑此有滞穂︑伊寡姉之利︶收推を了

れぱ上の土木に從事し︑共は茅かり夜は索を細ふて生活してゐたのである︒

七月の詩に我と孵すろ考はかる農夫を率へて耕作し︑同時に﹁公﹂に對し稚盈の義務を持ってゐる︒七月の詩に﹁曾

孫の稼︲一といふやうな語がなく︑叉特に公門といふ字も見えぬので︑この﹁我﹂なるものは農夫の一族の長であり︑そ

の一族の避夫を杼して︑上仲孫の一族の川と耕し︑その收推は全部竹孫のものである故に七月の詩中布や獣の他に特

に殻物を献るといふ伽がないのであるといふ考へ方をしてゐる人もあるが︑然し巳に我稼既同︵第七章︶と云ひ︑叉兼

羊を殺して公堂に僻るなどl云へぱ︑之は矢張り農夫を右して私の田を耕してゐるものであると恩ふ︒公に對しては

布や戦を献るほか︑穀物についてはこの詩のみでは明にし難いものであるが︑やはりこ型にも公川私田を老へる可き

I詩考二五︵二九一九︶

11

(27)

詩經の詩に腿ば束薪來楚來拐等の語句が川る︒そして又それらの詩に結蟠︑男女の事に關係あるものが多いのはすぐ

に氣のつく事である︒之に就いて古來注粋家は各締にまちまちの州枠を下して︑それが如何なる關係に於て夫々の詩

文學研究第二十五脚二六二一九二○︶

では無からうか︒仲孫來るといふやうな文句はないけれどもかの殆及公子同蹄の句は在は良祁の﹁或は來って女を鵬

る﹂の伽に祁雁ずると見る可きであらう︒︾てしてか上る薪が一年の收惟を了へて︑公堂に蹄って杯を翠げる時などに︑

この詩が詠はれたものと見るのが雌も自然ではあるまいか︒

︵赤女感陽無云を︶経りにその殆及公子同帥の句についても色舞な解縦が行はれ︑鄭去の注は巳に始めに翠げた如く︑遊だ迂逹ではある

が全く鮒を失したものでもないが︑米子となると之を道徳的に解緤して︑﹁徴時公子は猫自分の國の女を姿つた︒

そして立派な家柄の︑公室と婚姻を通じてゐる者でさへ︑女はやはり獄桑の務につくさぬものは無かった︒乃で︑そ

の公子の許嫁の娘が︑やがて自分が公子に嫁ぎ︑父母に遠ざかる畔のことを想って悲しむのである︒その風裕の厚

く︑上下の怖交走机愛するとと此の如し﹂と云ふ︒裡束壁の様に︑随分鋭い叉新らしい見方をした人でさへ︑大い

にこの論に鈴成した︒又或は公子をわざ/1女公子と見る眺際慨の説もあり︑叉夫人が姉女を率ゐて釆桑の澱を行ふ

ふかきかたみ↑︶字年少つ

時のこと云変といふ説も一三に行はれてゐる︒しかし巳に上に撚筏を執って微行に行って桑をとるといふo此の時

公子逹が︑﹁或は來って女を眠る﹂とは︑後世打名なかの附上桑の詩と同じ怖景が想像されないであらうか︒

I 束薪考

﹄FrpIII

(28)

の﹁輿﹂となってゐるものかを明にしてゐない︒只細樛の詩の毛体に﹁男女腱を待ちて婿を成す︒薪秘の人覗を待って

後束ねるが如し﹂といふ解繰が或る近いものと恩はせるばかりである︒漢庇の詩の翅糞錯薪︑言刈其楚︑之子予蹄︑

言秣共馬の鄭斐に﹁我その馬に秣はんと凧ふは︑職鮪を致すなり︒意亦るを示す﹂といふ︒彼は秣其馬を測餓の意に取

ってゐる︒それは白駒の詩の︑皎凌白駒︑在彼空行︑生混一束︑共人如王の鄭美里主人の鮪沌しと雌も﹂云盈と云っ

てゐるものと机通する︒この二筋︵漢庇︑白駒︶とも毛仰には之に開する何らの説明は無い︒何故鄭玄が白駒の詩に於

て主人の儀云糞と云ったかと云ふと︑儀職聰慨に︑一︲之に鮪するにその澱を以てす︒上賓は大牢︒積は唯拐禾︒﹂澱記

聡韮に﹁主剛客を待つに州入三獄し︑客に舍に燃し︑五牢の具内に陳す︒米三十車︑禾三十車︑拐薪は禾に倍す︒皆

外に陳す﹂と記されてゐるのに擴ってゐると忠ふ︒砿は上の恢腿の鄭注に︑凡そ人に賜ふに牲生を以てするを鮪と口

ふ︒儲は猫票のごとく︑給のごとし︒即ちこ上は生牲の意である︒告朔の儀羊が生牲の意であるやうに︒但し叉餓は

おく傾餉の意にも川ひられ︑左傅に秦伯又之に粟を鱗るといふ︒或は禾米の事をも云ひ︑粟人餓を献す︵倒語︶のやうにも

川ひられる︒さて之は恥耀で大夫が仙剛に使した場合︑主剛が之を待つの慨であり︑鄭玄は生牲の意味を以て白駒の

詩を解粋したのであるが︑更に岡様なことを婿耀の場合にも有ったものとして漢臓詩を解したのである︒悪刷暢は之

を評し再婿澱に塒を川ふる者はないと反對した︒けれども私は﹁拐薪を外に陳ぬる﹂ことはやはり僻澱の場合に有っ

たものではないかと老へる︒といふのは薪といふものが生活の必需品たる事は云ふ迄もない︒大雅械撲の詩に︑.八

をたる械撲︑之を薪にし之を楠む﹂その毛仰に﹁楠は祇也︒山木茂磯し︑繭民得て之を薪にす﹂といふ︒古僻職に際し

て女を婆る賠価として物を女の親に蛾つたことは︑やがて僻州の納徴︵紬納︶となって︑士仔雌には玄練來吊椛皮を女

束薪考二七︵二九二こ

!

何I

(29)

│, 文皐研究雄二十五艸.二八︵二九二三

の家に鮒ることになってゐる︒がこの際庶民の間於ては薪や秘を贈る事が想像されないであらうか︒

士杼職には納釆に雁を川ひる︒雁を用ひるのは仔職ばかりではない︒大夫机見の職にも兼雁を川ひた筈である︒それ

が士祁見澱には雄を川ひることになってゐる︒然るにこの雄も雁と共に結嬬といふことk或る聯想を有することは鞄

打苦葉の詩にびわたりえうわだ弔禰たる洲の盈てるあり︑隙たる雄の鴫けるあり︑濟盈ちて軌を満さす︑雄鴫いてその牡を求む︒

$︽pJjDのと雌凌たる鴫雁︑旭日始めて旦︑士如し妻を肺らぱ︑水の未だ沖けざるに及べ︒

といふのを以て察せられる︒

仔泌の腓には必す鮮魚を川ふといふ︒︵俄雌︶又澱記昏韮に姉人嫁に先つ三月︑公宮に教へ︑教へ成れば之を祭る︒牲

には魚を川ふ︑とあり︒この魚といふものは又岻ぱ辮姻の詩に川るもので︑澱に魚を川ふるのも偶然でない︒︵鄭注

に魚は陰知なりと云ふ︒︶

かh魚網を設けて鴻之に雛る︒

せむし燕腕を求めて︑この戚施を得たり︒︵新姦︶

共釣維れ何ぞ︑維れ絲伊れ緒︑

齊侯の子︑平王の孫︑︵何彼磯突︶

(30)

維れ鵜梁に在り︑その味を濡さず︑

かの之の子︑その鱗を遂げす︑︵候人︶

等皆之に關するものである︒之ら辮姻︑男女の詩に脳ぱ見受けるものと︑僻澱の儀職風習との間の關係は注意すべき

束薪考二九︵二九三三

篭廷たる竹竿︑以て洪に釣る︑堂爾を胆はざらんや︑速くして之を致すなし︒︵竹竿︒これを他閥に嫁した女が替向分が故郷の川に釣して遊んだ

ことを懐しむといふ哲説は不可・・︶

敞筍梁に在り︑其の魚紡鰈︑

Dとつ齊子肺ぐ︑その從ふもの雲の如し︒︵敞禰︶ ︑︑

狐あり繕︑彼の洪の梁にあり︑慰謝蕊蝉驍灘灘ね︶

心の憂ふる︑この子裳なL・︵有狐︶

豈それ魚を食ふ︑

めと

笠それ妻を婆る︑

必ずしも河の鮎ならんや︒

必ず齊の姜ならんや︒︵衡門︶

1

(31)

文凝肝究雄二十五艸三○︵二九二四︶

である︒︵魚は女に比へ︑・魚を食ふ事は女を姿ることに比へるやうに︑魚と女は結びつく性衝のものなる故に︑姉人教

成の澱に魚を用ふるのであらうが︒︶さて又絲辮の詩に薪の事が腱ぱ出るので之を上に云ったやうに婚職の智悩と結

んで考へて見度くなるのである︒︵且つ帷︑薪ともに木來辮漉の季節といふものに關係ある事を同時に老へる事が出

来るが︒︶古い書物乍ら︑ウエスターマークの人川紡辮史に﹁マン零コ−1地方は鹿の皮二枚を以て女を姿るに和常な慣

とする︒:.⁝⁝⁝富有なパシュチル人は時壁三千ルーブルにも及び︑極めて貧しいものは木や枯革の一束で賀ひ受け

る︒﹂︵掠奪結婚と唯礎結婿︶といってゐるものを併せ老へられる︒

かうして女を婆る時︑薪拐を川ふる風智を︑庶民の間に豫想せホにゐられない︒そしてこの考を以て始めて詩經の幾

浦の詩が自然に理解されるのである︒

刷耐漢吹︒この詩の﹁剃盈たる錨薪︑ここにその楚を刈る﹂を以て衆女の艀貞潔なるに嚥ふと云ふ鄭韮は談である︒又

その馬に秣はんと欲するは則ち悦ぶの至也と云ふ朱子の考も不充分である︒且つ朱子は錨薪に就いては何の典とも解

擁してゐない︒只鄭注に澱睡を致す︑と見たのは上にのべた儀祗︑職記の研究から来てゐる︒之を女をめとるに薪や

甥を鮴ることを老へたら︑直ちに此の詩が女を思慕する意味に了解される︒

南有喬木︑不可休思

漢有排女︑不可求思

漢之臓芙︑不可泳思

江之永英︑不可方恩

南に商い木があれど︑行って休まうす響へもない・

漢のほとりに奴はゐれど︑ちよいと云ひよるす︑ぺもない・

漢は庇うて泳いで越せぬ

江は永うて筏でゆけぬ

一三

(32)

いばら二︑拙盈鮎薪︑言刈其楚茂るこの班︑楚を刈って

之子子歸︑言秣雌︿腸あの子が嫁に來るならば︑馬にまぐさもやらうもの

漢之隣爽︑不可泳思漢は炭うて泳いで越せぬ

江之永典.不可方思江は永うて筏でゆけぬ

三︑荊煮鮒薪︑言刈其並茂るこの戦︑ょもざを刈って

之子干蹄︑一言秣其馬あの子が嫁に来るならば︑馬にまぐさもやらうもの

漢之咲央︑不可泳思漢は隣うて泳いでゆけぬ

・江之永央︑不可方恩江は永うて筏でゆけぬ

方玉潤は此詩を樵歌の一睡かと云ってゐるo薪をきる者たちがうたふ歌で︑各章の般後の二棚は衿でついて嚇す言葉

であらう︒それにしても薪と結婚の關係を老へれば一崎自然に聞えやぅ︒

野有死脂o銘二章﹁林有撲撤︑野有死贈︑白茅純束︑有女如玉﹂を鄭玄のやうに撲撤︵小木︶の中や野に死鹿ありとした

のでは通じまい︒米子のやうな撲撤を以て死庇に新き︑白茅で束ねるといふのも談である︒撲椒はたき木にしやぅ︑

能協の皮監︑I樋に笹をもってゆく#憩噌ぱl男藍を求めにゆく葦簾しやぅ.

︵此の詩は課せば第一章第二索が稲卑俗に過ぎるので略す︒た営第三乗の如き朱子が凍然犯す可からざるの意などⅨ

いふものは全く談易只女性の媚態である︒︶

齊風南山の詩︑析薪如之何︑匪斧不克︑取斐如之何︑匪媒不得︵薪きるにはどらするぞ︒斧でなければきれはせぬ・妻をめ とるにやどうするぞ︒仲人なしでは叶やせぬ︒︶も口金叩呂を合せるだけの典ではない︒︵さう云ふものも往凌有るが︶やはり

束薪考二二︵二九二五︶

1

(33)

唐風細膠の詩も自ら之で解ける︒

文畢研究節二十五岬三一︵二九二六︶

析薪と絲辮を結びつけて老へる可きである︒

附風伐何の詩にも之に似た文句がある︒

車肇の詩の析共柞薪を﹁礎女王后の位に在る駐得ば︑必ず嫉妬の女を畔除して︑君の明を蔽ふものを去る﹂意と解樺し

︵末章︑制爾新蟠︑以慰我心︶た鄭玄の説は全く曲解である︒この詩を古序を排して新嬬を燕樂する詩と見た朱子の説は甚だよい︒たごその析其柞

薪については朱子も何らの解を與へて居らぬ︒が上述の老によってこそ之が新婚の詩にふさわしい言葉である事を知

る︒即ち第四章に︑

腓彼荊岡商い岡にのぼって

.と↓ワ析其柞薪柞の薪を伐る

析典柞薪枠の薪を伐れば

︐其莱桁分茂ったその紫よ

鮮我剛爾お前を得るこのよろこび

我心鰯今私の心は晴れやかだ

ここ

綱子今細 擢今夕謬 束子何束 謝今夕薪

三此兄三

jI4 良此星

在人良亦 剛何人天

ひきまとふ薪のたば︑三つ星は空にか堂やく︑

今栂は何と鯖しい夕︑このい上人に途へるとは︑

あL︑このい上人をどうしやう︒︵弄羅母儒撫雌轆他恥毒錘惟僻池呼王雌鍛嘩誹呼︶

&ぐさひきまとふ糊のたぱ︑三つ星はたつみの空に︑

[

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