九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
『殖民』或は「植民』なる名辭に就いて
長田, 三郎
https://doi.org/10.15017/4150387
出版情報:經濟學研究. 2 (2), pp.26-97, 1932-10. Society of Political Economy, Kyushu University
バージョン:
権利関係:
一 は し が き 二殖民或は植民なる名辮は支那固有の成語にあらす 三該名僻作出前の我國に於ける謡表現概観
四植民なる名甜の作出︵武藤数授の寝見上の功績と批評︶
五︵その一︶作出後幕末までの該名僻使用朕況一班︵附り武藤教授への質疑︶
︵ そ の 二
︶ 右 綾 き
六︵その一︶殖民と植民との可否論の吟味︵武藤教授への質疑︶
︵そ
の
1ー︶右績き︵附り信夫・浅見:大内原・山内教授等への批評並びに質疑︶
七明治初年以降の使用傾向一班 八 結 び
目
次
長
﹃殖民﹄或は﹃植民﹄なる名辟に就いて
策 二 巻
田
ー 生 成 疲 展
A
ミ剛者の可否論の吟味│ー
﹃ 殖 民 ﹂ 或 は
﹃ 植 民 ﹄ な る 名 僻 に 就 ぃ て
l l
︱六
第 二 披
耶
二六﹃殖
民﹄
或は
﹃植
民﹄
なる
名癖
に就
いて
て︑我國の植民學者中あるものは︑尤もらしき埋由を附し︑
第 二 脊
二︱七
第 二 披
二士 大阪商科大學経滸研究所編纂の﹃経清根癖典﹄第三巻中の一項目たる植民に闘する説明の末尾に於
﹃殖民﹄より﹃植民﹄を以て賞を得たる
が如く誅くもの決して勘からざるも︑それ等は皆虚言なる3日を私は附説して置いたっ紙敷の制限はそ
れ等諸學者の考證の展開︑吟味更には批評を全然許さたかった︒欲して述べ能はざりしが故に止むな
<附言の形式をとったのである︒
けれども︑嘗時の私としては︑呼けての拙稿の要旨には軍大なる訂正を必要とせすと考へ居りしが故
に︑それを基調に右の如き大腑たる︑そして又二三の植民弗者に到しては反撃的なる所言をなしたの
である︒併しその半面にも私は強/責任を感じて居た︒といふのは右拙稿は凡そ五年前のものであり︑
今日より考ふればその考證上意に満たざること移しきを以て何時かは増補する要ありと嘗てより考へ
居りしが故である︒右辮典第三巻の痰行はその機會を典へしが如く思はるので︑この機に一つには同
辟典の附説を詳述し︑他には密稿を増補せんがためこの一文を草する次第であるQ材料は完備せりと
いふを得ざるも︑そは撚筆を餘儀なくせしむるわけのものにあらざるを以て虹集し得し諸材料を基礎
1)親浣學僻典、第三巻 p.1042(昭和六年)
0 0 • •
* 以下に於て雨者を厖別する必要ある場合は菰民、植民となす。
2)拙稿、植民及び植民地の字義、國民網浣雑誌、 4:.1巻 2競(昭和二年)
︱ ︱
に筆を進むるであらう︒
本稿が概念論的なる研究であることは十分知つて居る︒だが認めらるが如くそれとても可なりの紙
敷を費さざるを得ざるが上に尚ほ強き理由としては私の研究の未熟なるがため下部梢造との連繋的考
察は殆どこれを他日に譲らざるを得ないのである︒従って本稿は獨立的意義を布するといふよりは︑
・ 盆 王
3個々の上冶建築の箪純集合といふ程の意義を有するに過ぎない︒だがこの稿が他H︑他の形態に
於て私の企闘の一部たる日本植民思想史︑
希望するとともに︑標題の問題に就いて私に屈々尋ねらる4人々に到する解答たり得んことを望む次
第で
ある
︒ ﹃
殖民
﹄或
は﹃
植民
﹄な
る名
昭に
就い
て
日本植民史の一部となるべきものたることを諒承さるべく
0 0
元来殖民或は植民なる熟語は︑﹃之を漢書に求むるに僅かに淡饗滸仲舒側並に管中の書巾﹁民殖﹂︑
即ち民を殖やすの義に用ひられたるものあるに過ぎすして﹁植民﹂なる成語は終に存在せざるを息は
しむ︒共他或は移民︑或は迦徒の文字あれど之れ民を移すの義にして今
H
の所謂植民とは共観念は逝かに狭し︑移民︑移住は植民の第一段たるに止まり決して植民共物に非ざる事多言を須ぴすして明ら
第 二 巻
二︱八
第 二 絨
ニ八
﹃菰
民﹄
或は
﹃植
民﹄
なる
名僻
に就
いて
ことを明らかにせんとして述べし言である︒
第 二 巻 ニ ー 九 第 一 一 輩
二九
﹃支那語は近来に至りても猶ほ植民 か也︒而して支那に於ては植民たる意義を表はす文字は不完全たるが如し︒漢害溝油志に﹁徒民﹂なる語あれども是れ避水のため一時居を轄せしを云ひたるなり又移民なる語は周峻其他に散見するとこ
ろなり︑近時欧洲語﹁コロ︱‑l﹂を諜するに嘗り開新地︑過読開埠︑徒居或は人民逗徒等の文字を以
てし我国の植民なる熟語は隣邦に未だ一般に流通せざるが如し﹄
たる成語を鋏ぎ︑千八百二十二年出版モリゾン氏字彙
( 1 ¥ / o r r i s o n , Di ct io na ry f o th e C hi ne so La ng ua ge , Ma ca o
&
Lo nd on 1822)
には﹁コ亡ニー﹂を﹁火竃逗徒﹂と繹せり︑その後上梓せられたる謡種の
字典は概ね﹁蜀
地﹂
﹁
届國﹂﹁開新埠﹂﹁新州府﹂﹁新脳﹂等の諜語を用ぴて︑思ひ植民に至らざりしな
り﹄とは新渡戸博士が植民なる名僻の由来を考察せらる4に嘗り︑該名癖が本来支那の成語に非ざる
博士の考證は我國に於ける最初の試みたるにも拘らす︑植民或は殖民なる名僻が本来支那の熟語に
非ざることを能く明らかにせられし貼は︑該名癖が我國人の作出に係るとせられしことと共に確かに
植民學界その他に封する︱つの貢献であらねばならぬ︒だが惜むべき哉︑右二貼は結論に於て正賞なり
しが︑考證過程上若干の過誤が存して居た︒以下先づ前半のそれだけを取扱ふ︒然るにその黙は長崎
高等商業學校数授武藤長蔵氏によって夙に指摘せられしところで︑その要黙を原文のま\引用せば次
3)新渡戸稲造氏畜植民なる名僻に就きて`法學協會雑誌、 29巻 2競、
p. 3(明治四十四年)
4)新渡戸稲造氏、ibid.p. 6.
二 ︱
l o
の如くである︒即ち日く﹃新渡戸博士が指摘されたる葉仲舒の偉に﹁民殖﹂即ち民を殖やすの義に用
ひられたるものと解繹されしぃょ厳格に云へば正しからすと予は思ふもの也︵中略︶予は大正七年夏鹿
兒島第七高等撰校所載欽定前漢害を借覧するの便を得これが考證を試みんとして董仲舒偲を桧せしに
欽定前漢害巻五十六中列佃第二十六置仲舒の一節に是以陰陽調而風雨時然生和而萬民殖五穀熟而草木
茂云々とあるを預見せり︒察するに新渡戸博士は右一節中にある﹁萬民殖﹂より﹁民殖﹂の1
一字
をと
り民を殖やすと讀まれしものならすや︒然らばこれ正しき讀方にあらす︒右は萬民か増殖するの意に
して人口が増加する事を述べしものと思はる︒前漢害巻九十九列億六十九下王芥の一節に百穀聘茂庶
草蕃殖口謡蕃滋也とある庶草蕃殖と酎照すれば萬民殖の意味も明瞭となるべし jLJo
私は武藤教授の讀方の正賞なるを知る︒蓋し欽定前漢書には︑数授の指摘せる文言があり︑そは白
文なるも漢書評林には問題の箇所は明瞭となり﹃拳'生和^而萬'民殖こ云々とあるを以てである﹄従
つて博士の見解に封する教授の批評は正しい︒
けれども知らるるが如く︑右の批評は考證過程上に於けるそれであり︑而してそは植民たる名附が
本来支那の成語に非らすとした博士の主張に何等の影響も典へざるものである︒博士の過誤は結論に
到して影響すべき巾の全然たかりしもので︑謂はば論断に殆ど闊係たき諌明句に於ける諜謬たるに過 ﹃殖民﹄或は﹃植民﹄なる名隊に就いて
第 二 巻
第 二 獄_
5) 武膝•長蔵氏~再び邦語の植民なる名僻の由末に就て`國家楳會雑誌,. 33
゜
巻4賊、 pp.103--104 (大正八年)一―—以下 B の 1 なる符猿を以て上渇
論文を表はす。蔽し此問題に脳する同氏の疲表が二三あるを以てである。
6) 欽定前漢書畜巻五十六~査仲舒博、第二十六。六枚目、漢書評抹、第二
十九本、第五十六巻。四枚H(通本三十五枚目)
﹁殖
民﹄
或は
﹃植
民﹄
なる
名癖
に就
いて
ぎなかった︒︐これ武藤教授が︑その叙述に於ては先きとなり居るが︑教授獨特の細心精緻を極めたる語
種の考證︑即ち多敷の甜書・漢繹支那繹聖書・支那典籍の調杏更には武藤長平氏に到する紹會アダム
・スミズ國富論の漢謁調査等を試みて後﹃予は新渡戸博士の考説の結果共結論の正しきが如く感する
もの也﹄﹃新渡戸博士が漢書に﹁殖民﹂又は﹁植民﹂なる字を預見せすとの結論は
l E しきものと信中﹄
と断じたる所以であらう︒
今数授の考證を引用する追なきが故に全然省略するが︑
ものに非ざることこれである︒
第 二 巻
第1一競 以上の記述に於てその考證の程度は別とし
て雨者の見解が全然符合せるところあるを知り得る︒即ち植民なる︑或は殖民たる名甜が支那偉来り
さて然らば何虚に於て何時頃誰人によって如何にして作出せられたか︒
新渡戸博士は云ふ﹃植民の文字は明らかに近代我邦の創作に係り︑西洋思想の流入に伴ひ︑換言すれ
ば歌洲語の醒繹によりて出でたる事を知るに足らん﹄と︒又武藤教授は深重なる考證の後に云ふ﹃こ
れによ
b
ても植民又は殖民なる名癖が我日本にて作成されしものなる事を推察するを得ん﹄﹁殖民なる名僻も我國に於て先づ使用されたるものなるべし﹄と︒
該名甜が我國人の作出に係るとの貼に於ては幸ぴにして雨氏の説に二致を見る︒けれどもそのこと
は他の諸貼に在つて不一致を見すとすることを許すべくもない︒即ち作出せられし時代・作出者及び
ニ ニ ︱
7)武膝長蔽氏書邦語の植民なる名陪は闊語の諜なりとの設、國家學合雑誌.
31巻 12就 p.94.(大正八年)一ー以下Aなる符猿を以て.J‑.す易論文を表 はす。その理由は同前。
8,武聴長蔵氏、BのI.p. 103. 9)新渡戸栢造氏、ibid.pp. 3‑‑4. 10)武膝長蔽氏、 Aの p.99. 11)武蔵長蔽氏、BのI.p. 105.
>
過程に於ては雨説は全然趣を異にし︑絃にも論断の一致・考證過程上の不一致が見られしこと前の場
合と同様である︒そこで問題は雨説の吟味に進み入ることが要求さるるも︑そは叙述上の絶封的順序
ではない︒全文を通じて知らるるが如く︑本稿は可能なる限り史的叙述の形式をとり度い︒而して既
に植民なる名僻が邦人の創作に係ること明らかとなりし以上は︑その細密たる諸問題の討究も必要で
はあるが︑それ等詳細なる考察は後段に試みることとなし`絃には植民或は殖民なる名僻の作出前段
階に於ける植民を意味せしめし他の表現を史的に眺め度い︒これ次項の眼目とするところである︒
さて上掲の問題に就いて極めて債値ある材料を提供せられしは︑武藤教授の植民の名辮に闘する最
初の研究・疲表に多大の興味をもちつLも同教授の研究とは梢々趣を異にした一論文を痰表されし故
内田博士の﹃コロニーの繹語としての開國﹄なる一文がそれである︒
大阪朝日新聞紙上に最切掲載され︑同年︳︱‑月の函館師範學報第二十二琥にも轄載されし由なるが︑
の二材料は手許にたい︒併し同年九月の﹃歴史と地理﹄第二巻第一二琥たる﹃植民琥﹄に﹃開國と云ふ
語に闘する知見補遺﹄と題する短文及び前記新聞並びに學報所載文に相賞するものはこれを持つ︒こ
﹃碓
民﹄
或は
﹃植
民﹄
なる
名癖
に就
いて
この論文は大正七年一月二日の
第 二 巻
第一
1琥
こ
12)内田銀蔵氏畜近世のH本(附録) pp.427‑448(・大正八年)
﹃薙
民﹄
或は
﹃植
民﹄
なる
名僻
に就
いて
の好資料たりと云ふも敢て過言ではたからう︒ それ等を廿子として上掲問題の解明を試んで行き度い︒
第 二 巻
第 二 撃
れ等の1一材料こそ如上の研究に闘する内田博士の所説の根本的なるものと考へらるるので︑主として
ところが︑博士の研究は新渡戸博士及び武藤教授に於けるが如く︑植民或は殖民と云ふ語に就いて
のそれではなくして︑寧ろ﹃開國﹄と云ふ語に就いての研究である︒従つてその中植民に闊聯せる箇
所が本稿に役立つが︑幸ひにしてかかる箇所が極めて多きに一且つて居る︒かくてその殆ど全部が本稲
さて博士は﹃開國﹄と云ふ語には種々なる用ひ方がある︒先づ三つの異れる意義がありといひ得ベ
く︑第一は建國とか紀元とかいふ意味であり︑第二は鎖國に到する開國であって︑國を開いて他の國々
と交通することであり︑第三は新に未開の國土を開くことであって︑即ち開拓叉は植民に嘗るのであ
るの旨を述ぶ︒而して右第三の場合の開國は︑同博士の言の如く︑拓殖・開拓又は植民に嘗るので︑
従つて廣義の開國は固より︑第三の場合の開國と雖︑綿てが同博士の表現に従へば﹃文字通りの植民﹄
ではなく︑その中のあるもののみが植民である︒これ博士が自ら寛政十一年東奥蝦夷地即ち今の北海
道を︑幕府の直轄となし経螢するにつき︑幕府の公文害に﹃開國﹄と云ふ文字の前後三回に一且つて用
ひられたるに封し︑﹃此の開國といふ考へは︑主として北海道の土人即アイヌを撫育教化して︑之を
>
13) 内田銀蔽氏• ibid. p. 431.尚本庄博士、開國と鯉済、大阪朝H新聞社 疲行~開國文化 p. 150 及び武膝長蔵氏• El英交通史概観冒同上書、 p. 398並びにBのI.pp. 99‑100参照。
日本風に同化し︑漸次北海道を開疲しゃうといふのであったから寧ろ開拓の方であって︑文字通りの
植民とは少し異るが如く思はれる﹄と云った所以であらう︒
か4る事情なるが故に︑開國たる表現にて植民を意味したものこそ︑植民或は殖民なる名癖作出前
及び後に於ける植民或は殖民の他の表現であるが︑博士は以上の外に尚ほ﹃開國﹄に闊聯して﹃國を
開く﹄﹃開業﹄﹃其人を分ち置き﹄﹃衆を植へ﹄﹃人種を蒔く﹄等々の諸表現までも引用したのであって︑
而かもそれ等謡表現も亦表現の見られし嘗時の賓欣に照應して顧れば︑同博士の言の如くその多くは
﹃文字通りの植民﹄を意味せしめて居たが故に︑
殖民或は植民の他の表現である︒だが絃では該名癖作出前の諧表現を顧ることを主眼とせしが故に︑
作出後の表現に就てはこれを全部後述するところに委ねる︒
﹃賓暦︑明和︑安永の頃には西洋の事物を愛好する風起り︑閾弗も次第に勃興の氣運に立至り︑天
明︑寛政より享和︑文化の頃に至りては海外の事情に留意する人士も段々と出で来り︑今日普通の意
味にての開國論を懐抱する先覺者もあるに至ったことである︒併し乍ら共の賞時に於て﹁開國﹂とい
ふ語は鎖國に封する開國ではなく︑今日ならば植民又は拓殖とでも云ふべき意味に使用せられたとい
ふこと︑是れは開國論の来歴を尋ぬるもの\念頭に存して置くべきことと思ふ﹄との内田博士の説の ﹃殖
民
﹄或
は
﹃植
民
﹄な
る名
僻に
就い
て
これ等も亦植民或は殖民なる名辮作出前後に於ける
第 二 巻
ニ ニ 四
第 二 競
一 四
14)内田銀蔵氏、 ibid.pp. 433‑436.
IS)内田銀蔽氏,ibid. p. 439.
﹃殖
民﹄
或は
﹃植
民﹄
なる
名僻
に就
いて
如く`嘗時我國に在つては開國は植民・殖民又は拓殖を多く意味したので︑従って賓唐より文化に至
る約牛世紀間は︑開國を以て多く植民叉は殖民を意味せしめ︑
て植民或は殖民を意味せしめしもの決して勘なしとしない︒けれどもそのことは賽暦前に殖民或は植
民を意味せしめし他の表現の絶封的非存在を認むることではない︒吾々はこの好例を先づ新井白石の
周知の如く白石が﹃西洋紀間﹄を公にせしは賓永六年︵一七
0
九年︶であり︑せしは正徳二年︵一七一1至年︶のことである︒既に西洋文化の輸入を見たりし時代なるが上に︑彼は
賓永五年︵一七
0
八年︶偲導の目的を以て日本に渡来せし一伊太利人と賓永六年に會見し︑一蘭人と會見せること等ありしを以て前記附書には新文化を紹會する所多々存した︒︵註一︶
﹃西洋紀聞﹄中巻﹃イスパニヤ﹄の條に︑﹃またゾイデ・アメリカの地を併せて新に國を開き︑ノー
ワ︑イスバニャと琥す﹄同じく﹃ノーワ︑イス︒ハーーヤ﹄の條に﹃ノヲルト︑アメリカの南地にあり︑
﹃ノ
ーワ
︑
こLを過て南する時はすなはちゾイデ︑
︶ 7 所也
6 1 叉 ︑
フランスヤ﹄の條に︑ 二著響に求むることが出来るであらう︒
アメリカの地なり︑
第 二 巻
第 二 琥
一 五
叉間國と類似若しくは近似の言僻を以
﹃釆
寧見
異言
﹄を
公に
正徳二年
イスパーーヤ人併せ得て新たに國を開きし
﹃これまたフランスヤ人併せ得て新たに國を開きし所た
り﹄とあり︑且つその附言に﹃按するに此方の地極めて濶く︑共俗︑木石と共に居り︑鳥類と共に禁
ニ ニ 五
* 括弧中の年輩は西肝を示す。以下穂て同じ。
16)新井白石全集、第四(明治冊九年) p.758.内田銀蔵氏、ibid.p. 437. 17)新井白石全集、ibid.p. 769.内田銀蔽氏、 ibid.pp. 437ー438.
に於ては
6 £ c o l o n i e "
は﹃開國﹄と繹出し ざりしところに現代人の興味が注がるであらう︒
﹃殖 民﹄ 或は
﹃植民﹄なる名陪に就いて
8 す︑エウロバ地方の國々︑その地を併せて新たに國を開きし多し﹄と云ひ︑
に牒
りて
︑
晨 西 方 大 國 也
︒ 其 役
︵ 雰 可 占 靡
︒ 凡 十 八 國
︒ 民 物 豊 饒
︒ 俗 競 貨 嘩 歴 市 海 外 向 雙 北 亜 墨 利
加地
1新開
1一
其國
1﹄との如く︑尚ほ叉﹃西洋紀聞﹄中巻に︑﹃按するに︑はじめボルトガル人ゴアの地
つゐに廣東海港の地を借りて︑共人をわかち僅て海舶の事を管せしむ﹄との如く︑
て新に國を開き﹄﹃併せ得て新たに國を開き﹄﹁得︳︳北亜墨利加地1新
開︳
一共
國
1﹄とは即ち嘗時の︑
日の殖民或は植民を意味するものであり︑
は︑即ち賞時の︑ 三六
又﹃釆覧異言﹄にも︑﹃欧
叉今
又今Hの軍事植民を意味せしめたのであらうが︑而かも未だ殖民或は植民と表現せ
然るに天明︑寛政の頃に至っては︑海外の事情に留意するもの︑従って叉蘭書に意を彿ふもの漸次
増加し︑寛政八年︵一七九六年︶︑稲村三伯が我國最初の繭和字帯たる﹃ハルマ和解﹄即ち﹃江戸ハル
マ﹄を編むに至った︒字書編纂の経過等は賞面の問題に直接闘係なき故を以てこれを省くも︑この字書
え( V
o l k p l a n t i n g "
は﹃人民を植る﹂とあるよし︒
瀾語を直繹せしだけ︑前掲白石に於ける表現よりも進歩の跡を認め得べく︑殊に後者に至っては正に
植民なる名僻を生まんとするに近しと云ふべきであらう︒けれども未だ成語殖民又は植民を作出する ﹃地を借りて︑北ハ人をわかち置き海舶の事を管せしむ﹄と 第1一
巻
二二六
雨者とも
第 二 披
﹃併
せ
18)新井白石全集,.ibid. p. 770.内田銀蔽氏、 ibid.p. 438.
19)新井白石全集,.ibid. p. 822.内田銀蔵氏、ibid.p. 438.武膝長蔽氏。
Aのp.100.
20)新井白石全集、 ibid.p. 765.内田銀蔽氏..ibid.p. 440 .
.21)武膝長蔵氏" Aのpp.105-106~ BのI.p. 100.内FEI銀 蔵 応 ibid.p. 431.
﹃殖民﹄或は﹃植民﹄なる名僻に就いて 必す見逃すべからざるものであらう﹄との結語の下に多く引用されしところなるも︑そのうち﹃文字通りの植民﹄に闘するもの︑並びに引用されざるもの
‑ 1 1
一三を示せば次の如くである︒先づ前者から
﹃然るに寛政八九附年の蝦夷のエトモといふ所へ工ゲレス舶著岸せしは︑水木辮用の為たりときく︑
思ふに左にはあるまじ︑ロシャ︵モスコビャを云ふ︶より東蝦夷二十餘島︑及カムサスカの大國を見
出して開業に丹誠をするとの取沙汰欧羅巴中へ響亘るに囚て︑様子見届の腐に渡来せしならん︒﹄﹃綿
て欧羅巴の帝業の最第一は︑開業を以て國務の最初とするの制度なれば︑天下の國土は何れとなく渉
渡して︑土人の風情を試るを常とせり︑いまだ人道開けざるは撫育丹誠して数化しいまだ無人たる國
土は人種を蒔き︑萬事萬端後来の得失損益を遠く慮て精密を盛すゆえ︑次第に國家富榮るたり﹄とは
上掲饗巻上に見たるところである︒而して前文中﹃開業に丹誡する﹄とは露國の東方植民を意味し︑ 始
める
︒
ことに闘しては内田博士が︑ には至らたかった︒
第 二 巻
この字書は後述の﹃繹鍵﹄と闘係するが故に若干の留意が望ましい︒
本多利明が﹃西域物語﹄を著はせしは﹃江戸ハルマ﹄出でしより二年後︑即ち寛政十年︵一七九八
年︶のことである︒此の書に於ても殖民或は植民を意味する他の表現を見るを得るのであって︑その
﹃植民に闘する用語の沿革︑並びに植民思想喪逹の来歴を繹ぬるもの4
l l二七
第 二 披
一 七
22)日本網浣叢書、巻十二、 p.150.内田銀蔽氏、ibid.pp. 442‑443.
23) B本籾浣叢書、 ibid.p. 151.内田銀蔽氏、 ibid.p. 443.
り︑更に﹃人種を蒔き﹄とは移住植民を意味せしめたものであらう︒
ニ ニ 八
後文中の﹁開業﹄とは賞時の殿洲諸植民國の植民或は殖民を意味せしむるために用ひられし言寄であ
﹃日本國の國琥をカムサ
スカ
の
土地に遂し︑古H本と國琥を改革し仮舘を居へ︑開業に丹誠させしむるに於ては︑年を歴ナして良國
となり逐々繁榮を硯`終に世界最第一の大良國とならんオ弟との事﹄とは︑英國の繁榮を見て我國が
﹃西
域物
語﹄に於て︑彼は右
の如
く﹃開
業﹄
﹃人
種を
蒔く﹄なる表現を以て殖民或は植民を意味せし
めたが
︑﹃
開
業﹄は他のi者にも同榜の意味で用ひられて居る︒﹃然るに日本は支那の古風俗に倣たる癖
あって有司たる者天文算数に透脱之人稀なれば︑時々蝦夷の土地を開業なさんと崩あれども︑還て相
績する所存のなきは道岬に暗らき故なり︑日本より逝に良國の大國を愚庸之妄言に迷惑して︑大盆を
得取らざるは
1 3 本之不幸なり︑殊に蝦夷の諸島は明和安永のころよりモスコビヤの吏渡来して︑開業 カムサスカに梢民すべきを主張した言霜
であ
る︒
﹃殖
民
﹄或
は
﹃植
民
﹄な
る名
隊に
就い
て
﹃只今のごとく
渡海
︑運送︑交易は商買の
家業
となり に丹誠を喝せしゆへ︑既にカムサスカ之大國を始︑東蝦夷
の諸
島凡拾八九島を横領して︑所々に案を築
き︑群縣交代として土人を撫育するといへり﹄
居て
は︑
局島
の土人も永久に人間に可レ化様
なく
︑ 夷秋の俊
に経歴するゆへ︑モスコビャにては能時節
5 を見透し︑蝦夷の謡島を開業に丹誠を咽細すは︑時に得たるともいふべきなり﹄とは﹃経世秘策柚遺﹄に
第 二 巻
第 二 琥
一 八
.. . .
i̲
9 : 1一
24) B本紐浣汲瞥、ibid.p. !99.内田銀 蔽氏,ibid. pp. 444‑445. pp. 446 ー447.
25) B本純涜叢害,ibid. p. 84. 26)日本飩浣叢書、ibid.p. 89.
︵註
ーー
﹃殖民﹄或は﹃植民﹄なる名僻に就いて ︶
︵註 一︶
第 二 巻
第 二 輩
九
見へたる所である︒而して前文中﹃時々蝦夷之土地を開業なさん萌あれども﹂といふ言句中の﹃開業﹄
は︑今日の學者中ある者が往々内地植民(Innere
Ko
lo
ni
sa
ti
on
)と
呼ぶ
もの
を指
した
る諜
で︑
そは
拓
殖の意味で︑此の貼は前文中に於ける後出の﹃開業﹂及び後文中のそれと趣を異にし純然たる植民或
﹃開業﹄の綿てが植民或は殖民を意味せざる
ものなることに留意が望ましい︒併し等しく﹃開業﹄なる語を以て植民・内地植民に嘗嵌め居ること
は︑今日往々植民の語を以て固有の植氏・内地植民の場合にも営嵌め居ること\趣を同じくして若干
の興味がある︒我國内地植民︵ランチに徒へば正確には内地轄住︶の思想史研究には見逃し得ざる言
句であらう︒︵註二︶
そはとも角︑天明・寛政年間に於ては︑外國諦事情の紹介︑それに基く我國策に封する意見︑外國
字書の邦繹等見られしが︑未だ殖民或は植民たる名癖を作出するに至らす︑同義的異表現が用ひられ︑
0 0
中には殖民特に植民に極めて能く近似せる表現もありしこと如上の如くである︒
山村昌永日く﹃公︵白石源公︶の所記に云<寅永巳丑七月羅馬人に逢て其末由を問ふべきの命を蒙て別記
あり︒又正徳壬辰の春台命を受て末貢の和閑人に問到す﹄云々と︒賓永巳丑は賓永六年︑正徳壬辰は正
徳二年である︒會見が著述の動槻及び内容をなしたことが察知し得る︒
本多利明の舘清思想︑殊に植民思想︑帝國主義的思想に就いては︑本庄榮治郎博±著﹃鯉涜史研究﹄︵大 は殖民ではない︒雨者はこれを厳に匝別して讀むべく︑
ニ ニ 九
'* 山村昌永、訂正噌謬采覧異言、序編。凡例(享利三年)一一廣島文理科
大學所蔵。
正九年︶に詳しい︒同博士近業の﹃近世の籾済思想﹄︵昭和六年︶にも詳述せらる︒殊に﹃開國﹄を以て利明 が植民を意味せしめし一文を引用されて居る︒即ち﹃何國にても開國之綬初は︑海邊より居村有之人民 次第に噌碓に相院ひ︑漸々と山方の陸地深く住居仕事に御座候得ば︑何れにも開國の敢初は魚漁を稼稽
*
*
*
*
*
と仕候﹄がこれである︒
崩芽は障害たく︑且つ又助成條件の存するに於ては喪育成長する︒勝に作出せられんとせし成語﹃植
民﹄も終に作出せらる4
機を
迎え
た︒
前述の如く近似的なる諸表現が外國文化の影響により考へ出されしと同様に︑植民なる成語も亦和
﹃明治以前の和書中明白に植︵或は殖︶民
2 の熟語を載せたるものは一も之れあらざる如く︑和躾者に叩きしも同様の答を得たるに止まり﹄云々
とせ
しに
封し
︑
﹃箪純なる和學者に邦語植民なる文字の起原を問ふも答を得難きは珂由あることにし
て︑さりとて明治以前の和害中に明白に植︵或は殖︶民の熟語を載せたるもの一も之れあらすと断定
するを得す﹄と述べ︑叉博士が︑﹃文久二年堀辰之助・高島太助・箕作貞一・手塚節蔽氏の四氏の編
5 纂になれる﹁英和野繹﹂に依れば絃に始めて柏民の文字用ひられ﹄とせるに到し︑該字饗編簗者氏名 蘭の文化よ
b
作出せらる4に至った︒嘗て新渡戸博士が︑四
﹃菰民﹄或は﹃植民﹄なる名癖に就いて
第 二 巻
二三〇
第 二 蒙 四
〇
,g,•もt'a‘,;;ざ硲よ
*
*
四大急務に闊するJ:書ー一本庄博士の上掲書より借用。
***本項は殖民或は植民なる名僻作出前の我國に於ける該名僻を意味せし めし諸表現の概麒たるを以て右引用以外に尚ほ参照すべき諸書の存する
を知る。だが他8更らに追補するであらう。
27)新渡戸稲造氏、ibid.p. 3. 28)新渡戸稲造氏.ibid. P. 7.
﹃殖 民
﹄或
は﹃
植民
﹄な
る名
僻に
就い
て
綺の學者志筑忠雄ーー︵通稲忠次郎︑
第 二 巻
第 二 猿
四
.癖書名を訂正したるが上に︑博士の褻見より約半世紀以上も前に︑既に成語植民が邦饗中にこれあ
りしことを褻見︑報告したるは︑武藤敢授の大たる功絞である︒私の知る範園に於ては︑伺教授は自
幻己の褻見を前後四阿に亘つて登表して居る︒
然るにそれに釘しては何等の反證も出でざるのみか︑内田博士の如きは泊極的肯定を堂"て典へ︑
叉
とまで記せられて居るe彼此の闘係より考ふ
れば︑教授の主張は特に反證なき限り︑今後に於ても効力を保持する︒本稿の一部として成語植民の
生成過程を説述し来りし私としては︑該成語作出のことに就いて営然一言する必要あるべく︑絃に於
けれども敢校が不明なりとせし黙は︑私に在つては諸饗を顧ることによつて明瞭となりしが故にそ
の箇所はこれを柚ひ︑且つ教授の無批判的引用を批評すること4
した
︒
さて既述の如く天明・寛政より享和・文化の頃に至りては︑海外の事情に留意するもの次第に殖え︑
殊に蘭學に到する研究の漸く盛となるに至りし頃に︑﹃和漢學の素養も相嘗にあり︑和閾の文法を精
しく研究し裳時蘭學の進歩に大功ありし人で︑同時に敷學・天文學・物理學等にも造詣深かりし﹄長
柳圃と琥しーつに中野柳圃として偲へらる4は異名同人たり︶ てか効力を保特する教授の所設の栖概を述べん︒︵註一︶ ﹃言泉﹄大正十一年版には﹃植民・殖民
Vo
lk
pl
an
ti
ng
﹄
三
29)武藤長蔽氏、 A.B の I. 並びに『}胚史と地理』第二巻•第三鰊`大阪朝 H 新開社、開國文化。
30)内田銀蔽氏、 ibid.p. 429.
の者と婚を姐するによりて暫時の間に大なる富を致し深く國人の心を得て大におのが利益となし謡 れり千五百四十
一 去
ヰの
頃のことなり
謀者日
千五 百四 十一 ー 一年は天文十二年にあたれり の習なり人を渡して 住しむるをいふ也
且は異財奇貨により且は使俯を遣して説法する所の耶麻経の教により且は新化 桧夫
爾自注日此は偶然に出たり一艘の海 舶風暴にあひて是國
の浦に漂着せ
Lによ しとす此俗傲慢なること日本人に劣らぬものなり彼等是地桧出
人を植るこ
. .
と彼等が闊
の後幾程なきに現前の利に誘れ大に是地に植民し 確貨性大なりと考ふるが故にそれに従って問題の箇所を左に引用する︒
>
ーー
が︑
享保十四年(‑七一元年︶出版の桧夫爾
(E ng el be rt Ka em pf er )
の著闇評日本志
(D e Be sc h, ry vi ng o V n J ap an )
の附録中日本鎖國の可否を論じたる部分を︑享
和元
年︵
一八
0
一年︶
抄繹
附註
し︑
. .
﹃鎖國論﹄と題して窃本とし︑そのうちに於て始めて植民なる名期を用ぴたのである︒現在獨文本・
英^佛^閾繹本手許になきも︑武藤教授の精密なる考證によれば︑右著書中の
Vo lk pl an ti ng
を彼は
植民と繹せしが如くである︒即ち閾語は
"
Vo lk
"
﹃民
﹄ぷ
(P
la nt in g"
は﹃植ること﹄なるが故に直繹し
. .
て植民としたのである︒私は現在手許にある杏園主人の践文を見る﹃鎖國論﹄中より︑問題の箇所を
引用したいのであるが︑それよbも嘉永一二年(‑八五
0
年︶に至り武藤國忍の吼澤翁満がその数本を以て校訂し︑更に刻異人恐怖憚論一編を加へ﹃異人恐怖偲﹄と改題して梓行せしもの4
方が
︑
資料的
ポ ル ト ガ ル
﹃凡界國人の中に在て大に日本に同膠してこれが害をなすの甚しきものは波爾杜瓦爾人にしくはな ﹃殖民
﹄或は﹃
植民
﹄なる名癖に就いて
第 二 巻
第 二 競
四
.31) 武藤長蔽氏•A. p. 92. pp. 107‑111. BのI.pp. 100‑101.『胚史と地 理』 ibid.pp. 1 ‑:‑2.大阪胡H新聞社行.ipid. pp.'397‑398.
﹃殖
民﹄
或は
﹃植
民﹄
なる
名僻
に就
いて
ある事柄である︒
第 二 巻
は作出せられし該名隊を同教授が無批判的に紹介せしことこれである︒
第 二 験 四
(V ol kp la nt in ge n"
0 0
0 0 0 事如意なるに衿るの余敢て本意を逍くして其國の政事をさへにや\雙革する所あるにいたりて大に
△ 民の野心兇悪の端を彼きて極めて嘗今家の害となりぬ﹄と︒盆
竺 一 ︶
畜•植民たる成語を示しつ4も︑﹃人を植ること﹄﹃人を渡して住しむるをいふ﹄と註謁せしは︑嘗時未
だ該名辮が並"囁化せざりしことを暗示すると共に︑﹃植民﹄が従来﹃人を植ること﹄﹃人を渡して住し
むること﹂と一般的にせられ居りしものなることをも示せる黙は︑該名附作出そのものとともに興味
植民なる名癖の作出を紹介することによって本項は完了せしむべきである︒だが武藤教授がその必
要にも拘らす︑全然不問に附せし一事項が技に潜むを以て若干の附説が必要とせらる︒その一事項と
赦授の該名僻紹介の操作は次の如く要約し得る︒即ち桧夫爾が︑前掲書に於て葡萄牙人の我が日本
への渡来を示すに
'' Vo lk pl an ti ng en
"
たる表現を以てせしに対し︑志筑忠雄氏はその蘭繹書に極めて
忠質に﹃植民﹄と繹出せしを︑教授は一言半句の批評も加ふることなく紹介したことこれである︒も
つとも教授は桧夫爾の害の英繹本獨文本を封照されては居るが︑それも蘭繹書又は日本繹に封する箪
なる引き合びとして示されしのみで︑教授自身の何等の批評も加へられて居ない︒
>
は ( 'S e t tl e m en t s "
であ
り︑
であると云ひ得るであらう︒ 二三四
"
Ni ed er zu la ss en
"
であり︑﹃植民﹄であるといふのみで謡國語の封照を試
みて居るに過ぎない︒その意味に於て極めてなだらかなる︑平坦なる紹介であり︑虚心平意なる記述
物事によってはかくの如き紹介も許さる︒けれども被紹介事項にして批評を加ふべき餘地ありとせ
ば紹介者は批評をもたすを要する︒こは敢て奇とするに足らす極めて通例の形式である︒而して荀<
も植民學的素養の多少とも有する者の立場よりせば︑右の紹介と共に嘗然批評をせねばたらなかった︒
そは虚氣平心たる紹介︑無批判的紹介を断然許容せざる所であった︒丑盆し見らるるが如く如何に蘭繹
書が'•Volkplantingen"なる表現を以てし、且つ叉戒初の邦繹者が邦繹の豪本に極めて忠質にそれを
﹃植民﹂と繹せしとは云へ︑それ等雨國語によって指示せられし事象は︑武籐教授も十二分に認めらる
るが如く萄葡牙人の我國への渡来であってそれは正しく植民ではなく移民たりしを以てである︒尤も
移民と植民とを同一概念とする論者にとつては︑此の場合無批判的紹介は許されるが︑仮令朧ろげたる
構想にもせよ後述の如く特定國の特定地域への特定國民一部者の移住を植民たりとせられ居るが如き
武藤数投としては︑植民たる名甜の紹介についで嘗然に
"
Vo lk pl an tm ge n"
なる表現は此の場合適嘗
にあらす︑そは仮令﹃植民﹄と邦繹せられたりとは云へ事象と稲呼との間に完全に一致せざるものたる
﹃殖
民﹄
或は
﹃植
民﹄
なる
名癖
に就
いて
第 二 巻
第1
一 袖 四 四
﹃殖 民
﹄或は﹃植民﹄なる名癖に就いて ことを指摘すべきであった︒そは正に紹介者の資務の︱つであったといふも過言ではなからう︒
然るに教授はそのことに闘して片言双癖すらも費すことなく︑唯無批判的・反射的に吾々に紹介さ
れしに過ぎない︒そは数授の効績が痰見の機械的紹介たる以上の何物でもないことを表明されたもの
であ
る︒
しく片手落ちなる紹介で此の黙は数授のため哭々も惜む次第である︒教授の効績は輝く︒l E
だが燦然として輝くには不十分なる琢磨であった︒
さあれ植民なる名癖は誤用を基礎とする忠貨なる邦繹によりかくて始めて生じた︒
︵北 二︶
︵註 一︶
第 二 巻
字書に就いて武藤教授が新渡戸博士に加へし批評は膵俣詮吉郎氏の論文に照して正賞ならん︒但し同氏
*
*
も編者名を一字諜記せり︒向ほ豊田賓博士の論文及び荒木伊兵樹氏の近業参照︒
前掲引用文中
00000
は武膝絞授にあっては不明とせられし箇所なるも︑①上掲寓本②文明源流叢
書策︱︱一には明瞭なり︒語路梢々整調を鋏くも︑とも角明瞭なるを以てこれを補ふこととした︒補正せし
箇所は武藤教授の﹃四宇不明﹄に到し寅は五字である︒因に
8本國粋全書第二十四冊は根掠なき記載で あら う︒
. .
△は武膝教授の引用が前記諸本の何れとも異る黙︑植民の傍黒子は私の附せるもの︒
拿
*
*
尚哭秀三氏繹註書の参照を望む︒
二三五
第 二 競 四 五
* 勝俣詮吉郎氏、 H本歌化史の片影畜『我等』第三巻第十二聾(大正十年)
** 豊田博±"英和及和英字書の疲逹、英文學研究第十巻第一猿。荒木伊
兵徽氏畜日本英語學書志(昭和六年)
*** 晃秀三博士、ケンプル江戸参府紀行.下巻(昭和四年)
引用・賓證するであらう︒ かくて成語植民の作川者・作出時・過程及び背景の若千を知り得た︒然るにその後ある時期までは
該熟語の用ひられしは︑煎集し得し範園の材料に於ては寧ろ稀少的たりしを知るCその原因如何は本
稿の主目的にあらざるを以て一切不問に附し︑以下該名僻の使用が稀少的︑その意味は今日の如く社
會的ならざりしことを知らんがため︑諸書の文言を年代順に顧る︒
享和
一︳
一年
(‑八
0
三年︶に公にせられし山村昌永の﹃訂正増繹釆覧異言﹄中に於て︑吾々
は彼れが
﹃衆
を植
へ﹄
﹃衆 を植
へて
土
を闘
く﹂
﹃
共埴を開てこれに腺る﹄﹃土を拓き衆を植へ﹄等々の表現を以て
殖民或は植民を意味せしめ︑決して植民或は殖民なる名甜を用ひざりしことを卸る︒従前の如く若干
エ ス ベ ン ナ
巻三イスバニアの條の培謀中に﹃土人は自稲して厄斯班那と云ふ其初め亜細亜洲より衆を植るの地
⑬ たり﹄巻四グルウンランテャの按文に︑﹁此地は未審藷北地の其一にして近時弟那璃爾加より衆を植
めへ﹄云々︒又同培繹中に﹃千七百二十八年呻本
5
年ぶ匹に弟那馬爾加の王より人を造して此所に衆
を植へ土を闘く﹄巻五マダガスカの増繹中に﹃彿郎察國人その東海演の地を多く併せ有ち衆を植へ地 五︵その一︶ ﹃殖
民
﹄或
は
﹃植
民
﹄な
る名
辟に
就い
て
第 二 巻
二三六
第 二 鰊
四六
32) 山村門永子llJI培諜、松田勤士案校正、大槻茂質子換参閲、訂正噌繹釆 究異言勺紅11癸亥春三月)ー一廣島文理科大半所祓。
31) JJJ 村凸永. ibid. 巻:::• 二枚目、内田銀蔽氏、 ibid. p. 441. 34)山村閂永、 ibid.巻四.::::十枚目。
35)山村l1永.ibid. 巻四、三—r•• 四枚目。
﹃殖
民﹄
或は
﹃植
民﹄
なる
名僻
に就
いて
第 二 巻
第 二 盤 四 七
ク ウ ヒ ネ
を闘き逹烏虚涅と云る城を築けb﹄巻六ゴイネアの條に﹃今は和蘭の人此に至て大に土を拓き衆を植
へ﹄巻十ロソンの條の培繹中に﹃伊斯地憫亜人も此詣島を多く併せ布ちて衆を植へ士を開く﹄巻十一
ゾイデアメ
l J カ︵即南亜墨利加︶の條の培繹中に﹃批設に此洲ある事を知てより以来欧羅巴洲中伊斯把
ー ー ア ホ ル ト カ ル フ ラ ン ス ア ン ゲ サ ア テ イ ナ マ ル カ シ ュ ェ シ ア
佃亜波爾杜瓦爾彿郎察和蘭諧厄利亜弟那瑶爾加麻亦齊等の諸國の人皆此に至り共地を開てこれに棟る
殊に伊斯把側亜國王の併せ有つの地最多くして此大洲三分の一を領し1一虚に小王を置く﹄バラギュア
イ ス
^ ニ ア
イ﹃伊斯把僻亜の人多く此地を併せ有ちて虚々に衆を植へ土を拓きて城邑を建つ﹄巻十二︑ノオハア
日本
天正
十二
年 ンゲリャの條の増繹中に﹃千五百八十四年明萬暦十二年に請厄利亜の人始てこれを併せ有ちて虚々
ポ ス ト ン
に城を築き衆を植へ士を拓く其府城を撲斯東と云ふ﹄カルホルニアの條の増繹中に﹃伊斯把儒亜の人
虚々に衆を植へ土を闘て多く海港あり﹄等々は︑皆殖民或は植民を意味せしものなるが︑亜米利加ヘ
の阿弗利加黒奴輸出も彼の注意せしところである︒即言ふ﹃凡此洲︵アフリカ︶の人大抵資性野鄭愈
暴にして理義を識る事少し故に共諸國或は城邑ある者あり或は城邑屋室たくして地を席とし山林に緊
居するあり或は僅に遮陽の如き者を造てこれに居るあり欧羅巴洲の人毎年此に来り多く此士の人を買
ア メ リ カ
求めてこれを亜振利加洲に送り新地を開き衆を植ゆ﹄と︒
吾々は最後のものを除き︑.右の引用に於て彼が植民或は殖民を意味せしめし諸表現を知るを得た︒
二三七
36)山村昌永,.ibid.巻五、二十四枚目。内田銀蔵氏、 ibid.p. 441. 37)山村昌永. ibid.巻六、十三枚目。
38)山村昌永、 ibid.巻十、五枚目。
39)山村呂永、ibid.巻十一、五枚目。
40)山村昌永、ibid.巻十一畜三十枚目。
41)山村畠永、ibib.巻十二、十四枚目。
42)山村月永、ibid.巻十二、二十五枚H。 43)山村
n
永、 ibid.巻五、六枚目。彼は又植民の未成立に就いても述べ︑ 二三八
( C o l o n i e ' '
は﹃開 グルウンランテャの按文中に﹃六物新志中に此説を引てこれ其
未だ國と為さる以前の事ならんと云り︒未為國とは弟那璃爾加の人此に至て國を開かざる以前を云な
り﹄とはそれであり︑﹃未為國﹄との表現を以てせることは︑先きに引用せし阿地に闊する記述と判
以上梢々冗長に失したが︑吾々は右に於て植民なる熟語作出後と雖︑該名僻が用ひられす︑却て他
の表現を以てせられしことを知り得た︒右と同様のことは尚ほ他害にも見られし所で︐その二三の例
として文化七年(‑八一
0
年︶に籐林普山が前述﹃江戸ハルマ﹄を主たる豪本として編みし蘭和字書﹃繹鍵﹄︑天保四年(‑八三三年︶完成︵武藤教授の考證に握る︒荒木伊兵衛氏は﹃文化十二年に全く
脱稿した﹄といふ︶の所謂﹃ドーフハルマ﹄﹃長崎ハルマ﹄︑並びに弘化二年(‑八四五年︶列行美作
・箕作寛省吾著﹃坤輿薗識﹄に於て見らる︒
先づ﹃諜鍵﹄から顧るに︑同書には
i (V o l kp l a nt i n g"
は
るも
︑
比して若干の興味がある︒ 盃薙民涵は﹃植民﹄なる名癖に就いて
﹃人民を植る﹄とあり︑
國﹄と繹出され︑植民或は殖民なる成語を用ひて居らない︒以上のことを明かにせば事足りしわけな
この黙に闘する武藤教授の褻表に︑前後闘係の一致を訣ぐが如く恩はるるものあると\もに︑
同教授の考證と私のそれとの間に若干の馴齢︑更らには︑教授自身の誤謬があるが如く思はるので此
第 二 巻
第 二 競
四八
44)山村昌永、ibid.巻四、三十三枚目。
第 二 巻
第 二 攣 四 九
の際一言を費したい︒それは餘りに些々たる問題であり`従って取り立てヽ云ふには稽々躊躇すると
ころありしも︑それが放置は却つて同教授に対する證を寒年せるものにあらすと考ふるが上に︑或は私
自身の過誤なるやも知れすとの懸念あるを以て抜に柳か問題とする︒先づ前者即ち同教授の公言の不
植民なる名甜に闘する第一回目の褻表の百六頁に教授は次の如く云ふ3
‑ 0
年︶列行せられし繹鍵︵中略︶を見るに
C o l o
n i e
を開國と繹しく
o l k p
l a n t
i n g
~る文字はこの字
饗にはなき事前節に一言せし誨の如し﹄と︒
これを讀むものは誰人と雖︑教授の﹃前節に一言せし虞の如し﹄なる所言によって惑はされざるを得
ないであらう︒蓋しそは教授の所言とは反封に何虞の前節にも一言されて居らないからである︒教授
はその後の痰表に於て︑訂正すぺきは訂正し︑加筆すぺきは加筆したが︑右の不一致は直後に違ぶる
他の問題と¥もに獣して語られたかった︒そは教授自身の錯覺ではないか︒序いでながら問ふとする︒
百六頁の右の文言中には尚ほ問題がある︒即ち私の所謂﹃麒齢﹄がそれである︒教授によれば前記
﹃諜
鍵﹄
には
"
Co
lg
ie
"
を﹃開國﹄と繹し
; ^ V o
l k p l
a n t i
n g "
~る文字はこれを訣ぐといふ。だが私の
観るところによれば敢授の所言の前牛に封してのみ然りと應え得るも︑後半には疑問ありといはざる
﹃殖
民﹄
東は
﹃櫨
民﹄
なる
名辮
に就
いて
一致から始むるであらう︒
二三九 ﹃文化七庚午年︵西唇一八
4S)武藤長蔽氏、 Aのp.106.
を得ざること既に拳示せしところより十分知るを得んも、技に詳言せば『繹鍵』1Hハ0丁には(^Vol'•
とあり︑二六三丁には
f
ーkp la nt in g"
﹃人民を植る﹄とあって︑教授の考證とは多少趣を異にして居
る︒即ち若干の﹃馴齢﹄がある︒
本書は稲村三伯のハルマ和解を抄略 だがその馴励も︑私の参照せし輻岡縣立岡書館所蔵の﹃繹鍵﹄が︑不幸にして登行年代不明のため︑
又著作者名簿不明のため︑武藤教授の参照せしものと同一物たらすしてその後の版又は流布本なりし
ことより生ぜしものにあらすやと思び︑念のため荒木伊兵衛氏の近業﹃日本英語槃書志﹄を参考とし︑
更らに一段孜究することとした︒今その考證過程を略述せば次の如くである︒荒木氏は前掲書七一頁
より七二頁に一旦つて﹃繹鍵﹄一一冊藤林普山著文化七年(1810)列
して三萬餘言となし百部を限りて活版に附して列行せるものにして︑附録に一二伯のハルマ和解編纂の
始末と和繭の各字悟の昔韻表︑敷字等を記せり︒安政四年(1857)大野藩の廣田憲寛︑本書に改訂を
加へて﹁改定増補繹鍵﹄を編纂刊行せりと云つて居る︒これによれば﹃繹鍵﹄そのもの4その後の版
もなく︑又流布本もなきこと明瞭である︒だがそのことを以て武藤教授の参照せしものと︑私の借覧
せしものとが直に同一であるとは云ひ得ない︒何故なれば数授の参照せしものは一目瞭然﹃繹鍵﹄た
るが如きも、私の借覧せしものは既述の如く褻行年代•著作者名·装禎内容の一部がその不明のため、 ﹃殖民﹄或は﹃植民﹄なる名辟に就いて
第 二 巻 ニ四
0
第 二 鰊
五0
殖 民
﹄或は﹃
植民
﹄な・る名畔に就いて 考證との間には多少の馴齢がありしわけである︒ あるといふのみである︒而してその諸黙とは︑
第
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ニ四
第 二 却
ー
五
或はその他のため前記荒木氏の所言に完全に一致せざるを以てである︒けれども次の霜貼への好意的
解繹は`私の借覧せし﹃澤鍵﹄が或は﹃繹鍵﹄そのものにあらすやと思はしむるが如くである︒私は
確言しない︑唯好意的解繹を次記の諸貼に施すことによって﹃謁鍵﹄そのもの卜如く思はしむる貼が
一冊本となれるも二冊本を合本綴込みしたる形跡ある
こと︑詳言せばMの項に終る一冊と︑Nの項より始まる一冊を合本せしが如く思はる貼その一︑木版
にあらすして活字本らしき黙その二︑饗中に﹃太西莉名諜鍵﹄なる一頁があることその三である︒
右の諸貼を以てするも︑荒木氏の前掲言そのま4にあらざるを以て︑直ちに武藤教授の参照せしも
のと同一物なりと断定し得ざること固よりである︒だが恨りに同一物たりとせば︑教授の考證と私の
然るに右の馴紬は考證上の次の過程に踏み入れることによって︑そは既に馴勘たらすして︑武藤数
授の誤謬ならんと私をして思はしむること\なった︒弊學閾書館蔽の﹃諜鍵﹄は一黙疑ふ餘地なきも
ので︑それこそ武藤教授の参照せしものと同一本なるを断言し得るものであらう︒而して今それを観
るに
二六
二丁
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﹃人
民を植る﹄と明らかにある︒教授の﹃この字書になき事﹄云々と
は正しく反封に歴然と存在して居る︒
し ﹄ の二材料たるや私に殺授の言ひ分の梢々疑はしぎこと︑更には全然談謬たらヤやとた︒然るにそれ等 私は最初赦授の獲表に十分なる借用を置きしがため︑前述の如き一︱つの過程をふまざるを得なかつ
思はしむるに至った︒教授はこの獣に就いて如何なる解答を典へられんとするであらうか︒最初に断
り置きしが如く︑問題としては些細なるも不問に附すべぎ理由なぎを以て併せ殺示を得るべぐ一言し
た次
弟で
ある
︒
ニ四
二
そはとも角として︑植民なる文字が﹃繹鍵﹄にこれなきこと以上によって卸るを得た︒同様のこと
は﹃長崎ハルマ﹄にも云ひ得るところで︑即ち同辮書には
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船後者には﹃種衆﹄とあること武藤教授の考證にも見えしところであるC
轄じて最後のもの︑即ち﹃坤輿閾識﹄の袷討に移らんとするものなるが︑同害には武藤教授自身に
於ける引用基準の不統一を遺憾た<暴露した思ひもよらざる引用の代りに﹃人種を移す﹄
﹃此地に移し﹄たる表現がある︒それ等の諸表現を完全なる形態に於て卸り得んがため︑そして
叉技でも同教授に垂数を得んがため引用例示したい︒
● シ ャ
同害巻之二魯西亜の項に﹃帝殖して後︑共妃︑名は﹁カクリナ﹂叉能く共志を攪ぎ︑更に北亜墨利
マ ダ ガ ス カ ル
加洲北地に︑人種を移すと云ふ﹄巻三廂打昂矢加爾の項に﹃今を距る事一一百年前`佛陽西入︑此地に 3殖民遍は﹃楡
民
﹄な
る名
暉に
就い
で
第 二 巻
﹃人
稲を
移
第 二
舅 '▼
五
46)弊學岡書館所蔵、武蕨長蔽氏.Aのpp. 104ー105.
•47) 箕作宜省吾.坤輿岡識、巻二.六枚目、(弘化二年)一一京都府立闘書 館所蔵。原本は片個名且つ特殊の場合には古文字を用ひるも、これ'を平 個名とし現代字に改めたり。本害のみならず本稿引用の他書にも右原則 の適用をなせしこと勘なからず、附記して此際断り置く。
﹃庫民﹄或は﹃植民﹄なる名僻に就いて 人種を移し︑又城案を葉き︑
ブ ラ シ ー ル
四上︑伯西兒の項に︑
第 二 巻
第 二 輩
五
己れが所轄に為さん事を謀りしかども︑遂に功を全ふせすして止む﹄巻
﹃我明應八年︑波爾杜瓦爾國王︑先づ試みに数多の罪人を此地に移す﹄同下︑
﹃嘆砧利國人︑始めに此地の南邊﹁カロリナ國に人種を移す︵中略︶敷百の人種を移すと云ふ﹄臥
兒狼徳の項に︑﹃弟那瑚爾加の人︵中略︶人種を移す事敷回︑末だ意の如くに蕃術せす﹄巻五新和蘭
﹃我天明七年︑喋哨利國人︑新たに自國の罪人八千餘名︑及び獣畜数種を︑遠く此地に移す
の項
に︑
と云ふ﹄等それである︒右の中第三及び最後のものは︑その用語の嘗否を別とすれば︑植民學者が往
々呼ぶ所謂犯罪植民である︒
技で私は武藤教授の引用に獨れて見たい︒彩授が植民なる名辮の由来を明らかにせんことを︱つの
主たる目論とせられしことは︑如何たる黙よりするも否定し得られない︒而かもその植民によつて意
味せしめられしものは教授自らは之を言明せられざるも︑特定國の本國民一部者を特定地域に移植せ
しむるものたるべく︑殺授の考證の全部を通じて観ればかく解せざるを得な.いのである︒底流はそこ
に在りしものとの前提に話を進める︒然るに教授は数投の論文の附註の一節に於て﹃坤輿園識巻之三
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亜弗利加線括中に徒植なる文字を使用したる例あり日く﹁近世和蘭人及び其他の欧逼巴諸州人米て分
領する虞多し其風俗至て野鄭通國皆毎に裸罷叉男女を賣繋するの悪風あり︵寛按するに西洋人本土の
ニ四三
48)
1
計作宜省吾..ibid.巻完、十五枚目。49)箕作寛省吾、ibid.巻四、下、四枚目。
50)箕作寛省吾、 ibid.巻四"‑応十一枚目。
51) J'l:作寛省吾、ibid.巻五。二枚H。