九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
新古今集寫本に於ける撰者名の頭書について
小島, 吉雄
https://doi.org/10.15017/2556586
出版情報:文學研究. 28, pp.15-32, 1941-03-20. The Kyushu Literary Society バージョン:
権利関係:
1
/
新古今集には幾種類もの傳本がある︒た一こへぱ︑收赦歌数の多い本一ご少い本︑後鳥羽上皇が應岐で御撰抄遊ばされ
た記號のついてゐる本一こ附いてゐない本︑あるいは撰粁名を記入してゐる本と記入してゐない本︑|こいふやうに色ん
な傳本がある︒今回は︑そのうちで︑歌に撰肴名が書き込まれてゐる本についての調恋の結果を述べよう毒こ思ふ︒
撰考名の記入せられてゐる新古今集は︑東洋文庫の古活字本を除くの外は︑皆堀本で傳はってゐる︒﹃こころが︑東
洋文脈本も︑その本文は聴本でないが︑撰考名は錐で譜き込んだものであるから︑その軸でこれも弼本並に取扱っ
て差支へないものである︒随って︑撰考名の記入せられてゐる新古今集は︑拷蒋本で徳はってゐる一ご言っても不都合
でない︒また︑撰群名は︑品田太吉氏がその稚齋随筆中に紹介せられてゐるやうに︑歌尾に記入したものもあるらし
・いが︑わたくしの今までに見た一こころでは︑どの本も拷撰粁名を名歌の上部に頭課し一﹂ゐる︒すなはち︑標迦の生れ
出た所以である︒
新古今染海卒に於ける撰者橘の頭番について一五︵一二三一己
且
新古今集爲本に於ける撰者名の
頭書について
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一
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小
島吉雄
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勺
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閏
丈畢研究錐二十八輯二︿︵一二三四︶↑
今︑わたくしの知2Lゐる拙粁名の肥人せられた為本は十六本あるが︑そのうち︑全二十巻に亙り杵入れられてゐ
るものもあれば︑その一部分にしか譜き入れられてゐないもの等もあって︑すべてが一様でない︒便蹴上︑︑これを表
示すれば︑次のとほりである︒
一︑全二十巻に亙り撰粁名の頭諜あるもの
1︑柳瀬川市氏所職︑所詔賑岐本新古今集︐:
︒割︑武田赫吉氏所赦︑近藤礎行本
二.全二十巻の過半数に頭書あるもの
3︑前川侯僻家所藏︑傅藤脈鯛親兼本
4︑佐交木信綱博士所砿︑中山家藩賊本
5︑岡諜寮御識︐烏丸光榮本
6︐︑間諜寮御藏.所謂合黙本・
三︑老鋪十までの前半十巻にのみ撰宥名あるもの
7︑間諜寮御藏︑永藤七年奥諜本
︼〃
8︑同御藏命聡司城南鯖奮藏本ゞ9︑吉澤義則博士所職︑頓阿・行扉雨筆本
加︑東洋文庫所蔵︑古活字本
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四︑巻第十一以下の後半十巻にのみ撰者名あるもの
皿︑吉澤義則博士所蔵︑永職三年奥害本
廻︑大島誰太郎氏所藏︑永享三年書嘉本
超︑・猪熊信男氏所藏︑古浦本
・五︑巻第一の前半にのみ撰考名あるもの
・皿︑古梓堂文庫所藏︑古庸本
琿︑田中忠三郎氏所賊.傳藤腺良經筆本
照︑春日政治博士所砿︑傳冷呆鯨全筆本言一.
この他に︑松浦伯僻家にも撰者名ある新古今集が存在する一ごいふこ一こであるが︑わたくしは未兄である︒上記の撰
者名ある堀本中には︑妓近古菩球の店頭に出て︑はじめてわれわれにその存在を知られたものもあるから︑今なほわ
たくし等の眼に脳れないこころに︑上記のものの外にこの極の本が博存してゐるこ︽こk推定せられるが︑兎に角︑以
上が今日までにわたくしの知り得た撰者名︑番本の全部である︒
さて︑これらの諸本を簡単に解説すれば︑先づ︑柳瀬氏職應岐本は︑昭和二年に武川︒折︑二博士の迩名を以て此
の番が活字に赫刻出版せられてをるから︑改めてこ§に詳説する必要もなからう︒また︑武田博士賊近藤盛行木も︐
同博士著述の﹁閏文學研究歌迩箙﹂に﹁新古今和歌集の一博本﹂↓こ題して詐細に紹介せられてゐるから.今は解説の
野を櫛くが︑この近藤礎行本一こ柳瀬氏隙岐本一こは︑その本文の歌数並に歌詞に和逹があって︑何一群本から川たもの
新古今集堀本に於ける撰者名の頭番について一七︵二言誌︶
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丈・學研・・究︑錐二十八卿一八︵三三一三○
一こは恩へぬにかかはらす︑その雁岐御選抄の記號を朱の卿鮎で示し︑且その脚鮎湫や頭書の撰者猪が大部分湘本一致
する一こころから老へる一こハこの雨水はすぐなく一こもその撰老名や隠岐御選抄に開する限り同一系統のもので︑兄弟分
の關係をもってゐるとおもへるのである︒次に︑前田侯僻家の体藤原鰯親華本も︑育徳財幽から複刻せられてゐるか
ら︑楜知のものであるが︑この神は.巻飾七の七二六番﹁よろづよを﹂の歌から七三五稀﹁おしなべて﹂の歌まで十
︑竹︑老鋪八︐八二川恭﹁夜もすがら﹂の歌の下楜から八二七稀﹁ありす河﹂の歌まで四打︑及び︑老鋪十九︑一八六
川恭﹁にしの海﹂の歌から︑巻第二十︑一九三○稀﹁むらさきの﹂・の歌まで六十七打︑右三ヶ所にわたって本文の脆
滞があり︑その部分が後世の袖華一ごなって藍る︒そして︑その補講の分にだけ雛粁橘がない︒次に︐佐を木博士の中
山家祷城本を勝為したものが糊杵寮の烏丸光榮本であるから︑この二本は大綴川一内容であって︑共に老弟十川の巻
頭から第五肯n以下老鋪十五の経に至るまで全部撰稀名の記入がない︒また︑州蒋寮の合鰄本は巻節十六以後は閥本
にな2﹂ゐて︑巻第十五までしかない︒吉澤岬士の頓阿行房胴筆本毒こいふの峰古筆の極めによれば︑はじめ二十葉
を頓阿が時き︑その後を世尊寺行房が将きついだ−ご言はれるもので︑烏丸光旗の奥書があるが︑老鋪十までの端本で
あるし然し︑岡普索の永緑七年本や聡司城南館奮減水や東洋文庫古活字本は︑その本文は全二十巻ありながら︑撰考
名の弧番が巻十までしかないのである︒これらは︑その一謄篤の爪木が上下二冊本の上冊にだけしか撰考布を有ってゐ
穴かつたからのと一こであらう一ご忠ふ︒朧司本の奥丼に﹁撰考名は上冊にしかないのは残念である﹂↑︽|いふ意味の乙一こ
が茜かれてゐる︒東洋文庫本はその鎚諜の奥杏によれば文明十二年初秋上旬藤原雅康が命を奉じて書聴校合した宮本
を榔聴した本を以て校合誉き入れをしたもの↑こ考へられるが︑その宮本に云ふ雅康の識語は︑岡害寮永繊七年本の雑
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〆
︑吟
〆
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廉の識語ご全く一致するので︑永職七年本一己古活字本の校合川の本一こはも一ご同玉岡本から出てゐるもので︑その頭吉
もも一この書本の上冊だけにしかなかったのであらうo但し︑東洋文庫本一こ︑水職七年本一こを比校するに︑その顕著も本
文にも大分の祁逹があって︑柳瀬本と近藤本一こに於けるが如き近似性は發兇出来今広い︒このやうに巻十までに坐蜘を
右する本は︑頓阿行房雨筆本を除く他の二未が衿本文は完本であるのに對して︑巻十一以後の十巻に弧北岡を布する本
は︑何れも巻十一以後のみの端本であるこ一こは注側すべきこ−ごである︒すなはち︑吉澤博士の︑氷畦一乖木も︑大鳥氏
の.水享二不木も糒熊信男氏賊の古鰯本も北ハに上冊を峡いてゐるのである︒流能米には奥菩がないやうであるが︑吉雑
木﹃こ大脇木一己は︑その奥書によれば北︿に建造一年三月二十八日桟合の識語ある藤脈鰯氏の本を稗為したものご巻へら
れるのであって︑その頭韮皿を比較してみるに︑この耐木のみ一致して他木一こ一致せぬ場合が紗くないから︑その弧註
の上から一両っても剛本は親類關係にある一こいふこ−こが出水わ︒尤も剛木の机一致せぬ部分も祁椴脚にあるが︑それは輔
弼の際の談りだこ考へてよるしからう・・田其に︑撰粁名はその鰯氏秘本に巳に存在してゐたものである︒古梓推文脈
本以下の如く︐巻鋪一の︾初めの部分にだけ撰考名のあるのは︑あまりに少部分に過ぎるから︑参考一こするには物足り
ぬのであるが︑これは恐らく撰者名ある木から撰群名を勝潟しかけて何かの耶怖で中止した諜物があり︑さういふ岱
物やそれをまた為しにした番物が流布して︑かくの如き巻第一のはじめにだけ撰群名ある本数部の仲存を將來し︑た
ものざ忠はれるのである︒
↓こころで︑上記の諸嬬本を比較校合してみるに︑五にぞの撰者名の一致する部分もあれば︑また一致しない部分も
あヨ﹂︑完一全にその諏書の一致する本が一つもないのである︒ただ︑概括的に凡て︑叩の本と乙の本一この机一致する
新古今集窟本に於ける撰者名の頭審について・・一九︵三一三七︶
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丈學研究・鰯二十八職二○Q二三八︶
部分が他の本との場合よりは比較的に多いこいふこ−こが言へる︒たこへば︑柳瀬祇市氏の本一こ武田祓吉氏の近藤礎行
本書こはその大部分が一致し︑一致しない部分は極少部分であり︑また間諜寮の合鮎本と吉澤博士の頓阿行賜胴筆本一こ
は︑その迩典の名を晩する黙やその他に於て一致する部分が多い︒そこで︑この黙から推論して︑叩の本尋こ乙の本一こ
は同一系統に崎してゐるらしいこいふ推定も下し得るわけで︑すなはち︑柳瀬氏本マこ武田氏本一こは側一系統とⅡし得
るし︑側押猴介軸木一こ吉澤氏頓阿行腸湘筆本一こがまた同一系統ご見なし得る︒この推定はまたその書物の来歴一こも合
致するのであって︑柳瀬氏本の奥諜毒こ武川氏近朧本の奥諜とは全く一致してをるから︑この雨本の杏はⅢ一神木か
ら分れたも︑こいふここが川来る︒だから雨本の頭普が特に一致するこ|こにもなるのである︒佐交木佑細椰士家の中
山家森藏木をしたものが卿書寮の烏丸光榮本であるが︑この雨木はその撰者名の記號も同じであり︑その撰者名も
大略一致してゐるのである︒前記の如く︑吉澤氏の永職三年本さ大島氏の永享三年本一こは︑その奥書から兄て同系統
の本であり︑撰考名も一致するものが多いが︑この胴本にある﹁承元三年云冷﹂の定家本の奥書及び﹁建治二年三月
二十八日校合︑大納言総氏秘本云々﹂↑の奥書は︑また柳瀬本にも武田氏近藤本にもあるものであって︑随ってこの四
本は︑その源流を一にして同系統本と目せられるのである︒然し︑この川本の撰者名必ずしも一致せず︑寧ろ︐前二
審ざ後二書この二類に分れ得るのである︒これは.近藤本や柳瀬本には更に延文二年三月十日の頓阿の奥番があり︑
その奥書は尭孝自筆本にあったやうであるから.建治二年奥書本が頓阿に依って修理せられ︐.その頓阿修理本を尭孝
が筆窮し︑それを更に樽寓したのが︑これら二本−ご考へられる︒即ち︑︽前二本は建治奥書本を直接稗鰯したのに對
し︑後二本は建治本を尭孝が為したものを稗為した一こいふここになるので︑その来歴を些か異にする乙一こに依って︑
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/ ﹁隆︑雅︑右︑定﹂|へ︺あるが︑これは他本の一二九九番に﹁術︑有︑定︑隆︑雅﹂一三○○瀞に﹁布︑定﹂ぐ﹂あるの 腿氏永享本には︑識節四の部︑一二九九﹁あひ兄しは﹂に﹁術︑定︑有﹂︾ごあり︑次の一三○○﹁あはれなる﹂に 隆︑雅﹂二二希の歌に﹁隆﹂|こあるのであって︑これは烏丸本等の方が為し述へたものだらう一ご忠はれる︒また大 木一こに﹁朧﹂﹃こあり︑二一二﹁やまたかみ﹂が右二本に﹁定︲陸︑雅﹂↑ごあるが︑他の諸本は一三○稀の方に﹁定︑ つた﹃こ推定せられる場合が紗くない︒一例をあげる一こ︑赤下の部︑一三○﹁山たかみ﹂の歌が烏丸本と佐糞木氏中山 に一致する部分が非常に多く︑また和一致しない部分でも︑諾本を比較した上で考へてみる︑こ︑明かに一方が為し談 査して行く一己︑同一系統でないご思はれる本の間にも︑たごへぼ柳瀬本一こ間諜裟合鮎本今この場合の如きに於ても︑互 し難いので︐はっきり一こ︑それがどの系統に脇するか一こいふこさを断定しにくいのである︒|ごこるが︑更に仔細に調 その他の木は︑或る部分は柳瀬本に一致し︐或る部分は烏丸本に一致するざいふ風で︐一撤して相一致する本を見出 系︐側蒋寮鷹司本も秋の部以後は大冊合軸木の方に合致するからこれもまたこの系統に腸せしめて差支へなからう︒ 変木氏の巾山本と岡害寮の烏丸本一こは同系であり︑岡蒋寮合鮎本さ吉澤氏頓阿行屍雨誰本一こ東洋文庫古活字本さは同 澤氏永藤本一二は同系に厩し︑更にそれが柳瀬氏本一こ近藤本︑吉澤氏本一こ大島氏本の二類に分れるここは今述べたが︑佐 一こ︑この撰對名を有する本は︑幾つかの系統に統合せられるこ一こになる︒柳瀬本と武川氏近藤本さ大島氏永享本と吉 その撰薪猫の上にも相違が生じてをるのではないかEいふこさも老へられるのである︒かういふ風に槻察してくる
が正しいので︑これは明かに永享本の篇しあやまりである︒氷享本には︑かういふ前歌の蜘書の一部分を誤まって次
の歌の喪一こ錯乱させた簡所が往舞にして存在するのであって︑懸五の部︑一三六八稀﹁調があたり﹂の歌以下三荷
新古今災堀本に於ける撰者名の頭秤について一二Q二三九︶
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丈錐研究錐一千八職二二︵一二一四○︶
が諸木何れもそれぞれ﹁定︐隆雅﹂﹁右定雅﹂﹁定隆雅﹂となってゐるのに︑永享本だけが︑﹁定︑隆﹂﹁雅︑有﹂﹁定
雅﹂↓こなってゐるのなども︑前歌の撰蒋名を順次一つづつ次の歌へすらして行ったための錯誤である︒かういふ風に
堀し誤りと推定せられる場合が雌あるのである︒わたくしの調査したこころでは︑剛書嬢烏丸本は佐凌木氏中山木を
最も忠避に勝為したものであるが.それでも土一簡所の鰯し誤りがある︒そのうちの四況簡所は中山木では合軸代川
の貼紙の下になってゐるから烏丸本の飛粁はこれを確認し得なかったのであるとしても︑なほ他の六七術所は筆考の
談猫であると︸一両はねばならぬ︒直接謄聴の鳥丸本に於てすらその通りである︒だから︑次凌に傅爲せられてゆくにつ
/れて︑談潟も一脈多くなって行って︑つひには︑三五三番﹁身のほどを﹂の歌の如く︑五通りの異なる猟警を生ずる
ほどの乙一こにもなるのであらうといふ推定も可能である︒
さて︑以上の諾事迩を綜合し︑押し詰めて考へてくる一こ︑ゞどうしてもこの撰肴名一ごいふものは︑も一こ或る一本に記
入せられて居ったもので︑それを次交に為して行って︑今日のやうに数多くの撰新名ある篤本を生じたらしく川心はれ
るのである︒言はぱ︑そのも一こは一本であったのである︒しかし︑今日のやうに多くの異なる爲本が仰はってみる
︾﹄︑その脈本は︑どれであるか︑またどの本が一瀞その原本に近いものであるか一こいふやうな乙一こは︑分りかねるや
うになってしまってゐる︒武川耐吉郷士等は︑烏丸本奥書に京極中細一両入逝自筆本を以て校合し上の注を篇し錐つた
グーご記してゐる軸から︑この撰薪名は︑も一こ藤原定家書扇の本に附せられてゐたものである一こいふ風に考全﹂をられ
ろ︒この腸丸本奥書はも一こより︑撰若名ある諸本が何れも定家自筆本系統であり︑定家自筆本を以て校合を畑へてゐ
るこ﹃こから考へても︑この武川博士の推定は肯肯出来るのであるが︑同じ定家自筆本系統にも撰鐸姉名のない本︑たこ
一叩
〆
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へぱ石津本のやうなのも存するのであるから輪定家書海一こして僻米する本には撰考名のある本一ご無い本一この二種類が
あった一ご老へられるのである︒而して︑この槐考名の記入は定家が自らし一﹂おいたものか︑或いは後人が他本から定
家木に謝し一こったものなのか︑その逢の淌息は明かでない︒岡脊索の永職七年木の奥書などによれば︑悔廷關係の何
虚かにかうした撰考名ある本が秘硫せられてゐて︑その本を応し博へて今日兄る如き撰考名を布する数種の聴木の
傅來−ごなった竜こいふ想像も出來さうである︒之を要するに︑その卯木のここは︑判然一こしない︽ごいふのが現下の状態
である︒
柳湘氏本には︑一↑︒
︵ィ︶たれなり毛ごおくれさきだつほどあらぱ形処にしのべ水華ゆあ一こ
︵回︶いくよへし入江の松ぞむかしより立ちよる波の数はしるらむ︑
に︑それぞれ撰粁名﹁術﹂﹁術︑定︑隆﹂があり︑また前川家本︑烏丸木︑佐鞠木氏中山本には︑
︵ハ︶ほ−こさぎすむかしをかけてしのべきや老のねざめに一雄ぞする
に撰荷名﹁術﹂があり︑剛菩寮朧司木に一は︑
︵こいかにせむ世にふるながめしぱの戸にうつるふ花の存のくれがた
の歌を朱韮で番入れて︑撰者名﹁隆︑雅﹂があり︑また前川家木︑柳湘氏本には︐共に
︵ホ︶︑ぼ一へ︺一こぎす花たちばなの香ばかりになくやむかしの橘礎なるらむ︑
に撰村名﹁術﹂があり︑大島氏永享木には︑
新古今集鴬本に於ける撰者名の頭杵について一三︵三三四こ
毎
1
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.騒初の原本は︑どういふ席本であったか一こいふここは︑なかなか推察が困難になってくる︒切出歌を全部包含してゐ
少
や吉澤氏頓阿行房雨筆本等には︑所調切出歌は殆ど全部減ってゐないのである︒老へれば︑この方面に於ても︑色だ をしてでもその有撰者名原本の而影を存せしめる堀本が一つでもあってよささうなものではないか︒武川氏近藤本
言疑問が生じてくるのである︒ た切川以前の海本であったらう一己いふここが第一に老へられるが︑然らば︑何故︐前田家本や柳淑本にその歌があつ |
I95 文學研究錐二十八輯二四︵一二一四二︶
︵へ︶都にて春をだにやはすぐし僻ぬいづちか雁のなきて行くらむ︵卜︶ねがはくぱ花の下にて乖死なむそのきさらぎのもち月の比・画・
にそれぞれ撰考名﹁雅﹂﹁有定隆雅﹂がしるされてゐる︒これらの歌は何れも杵迦流布木にはない歌で︑所訓切繼時
代に削除せられた歌なのである︒一だから︐古鰯本中にもこれらの歌を含まぬも︑こ含むもの一こがあって︑而もそれが
極めて雁糞である︒その上︑︵ィ︶︵ロ︶の雨首は烏丸本にも出てゐる歌であるが︑烏丸本には撰考名の注記がない︒
み出てゐる歌で︑他の撰者名注記の海水には救ってゐない歌なのである︒かういふ事誕を以てする一こ︑撰蒋名注記の 名がない︒︵ホ︶の歌も烏丸木︑鷹司木には撰粁名がない︒︵へ︶︵ト︶の雨首は︑石津本一ここの大島煕永享木さにの また︵ハ︶の歌は柳瀬氏本には撰背名がなく︑︵一︶の歌は︑烏丸本︑前川家本にもある歌であるが︑それには撰考
て︑その撰若名がないのであるか︑またもし底本に洩れてゐる歌があれば︑鷹司本がやってゐるやうに︑課入れ増補
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↑三矢重松博士や武田耐吉博士の所説以來︑新古今集頭丼の撰考名は︑勅命に依って五人の撰粁が建仁三年初夏に古
来の歌を各自に選進した時の弁選進歌の避進新を示す記號である一ご老へられ︑今日では︑それが學界の定説一ごなって
ゐる︒悲し︲この撰者名がその建仁三年選進の時のものであるならば︑この選者名によって︑錐一に︑撰和の選歌伽・
向の一斑を察知するここが出来︑節二に︑撰者が選進の際にどういふ歌集を利川したか︑また選進に倣って派閥的心
理を働かせたかどうか︑〆さいふここを知るこ一こが肌來︐節三には︑歌合判制一︑︶撰考の選歌sどういふ關聯をもってゐ
るか︑等ざご色んなと一こをこの撰考名を材料にして考究するここを得るのであるが︑果してこの撰春名が建仁三年選
進の時のものであるかどうか一こいふこ︸こは︑輕登に決定し難いものがある︒そして︑醜に學界の定説一こなってをるこ
さではあるが︑今一應それを疑ってかiら鯉ぱならぬ理山がある︒
/︑
抑どこの頭書の撰者名が建仁三年初夏の五人の撰考の避進歌を示すものである一こいふ理由は︑第一に建仁三年四月
以後に逃入ぜられた歌には撰審名がない道理であるから︑建仁三年川川以後の製作歌及びそれ以後に入集せられたこ
↓この明かな歌を検討してみるに︑その何れにも撰肴名がないこいふここ︑銘二には明月記その他糀時の文献で避進新
の分ってゐる歌を訓森するに︑その撰考名が全く柑時の記鋒に合致する︸こいふ層こである︒この消極的こ職種的一この
二つの理Ⅲによって武川陣士はこの撰粁名を建仁三年四″選進の時のもの一己断定してをられるのである︒その詳細は︑
同博士著﹁図文躍研究歌道箙﹂の﹁新古今集の成工及びその仰來﹂節一三一○皿から第三四七瓦にわたる記燕を参万せ
られたい︒同博士の記事の中には二三那涯の誤記があるけれども大綱に關係がないから︑今は言はい︒
↑こころで︑武川郷士の言はれるやうに.建仁三年川Ⅱ以後の製作もしぐは入集歌はその殆ど大部分に択粁名がない
新古今築為本に於ける撰者名の頭響について二五︵三三四三︶
|
I
1 1
丈畢︑研究錐二十八郷二六︵三三四四︶
のであるが︑しかし︑例外があるのである︒その例外をあげてみる↑こ︑
︵二七九︶山ざ一このみ胆のあま雲一こだえし一﹂夕くす歩しきまきの下露
これは承元二年二Ⅱの作であるが︐柳瀬本壼ご武川氏近藤本一こには定家の頭書がある︒︑
︑︵二九○︶ふく風の色こそ見えね高砂の尾上の松に秋は來にけり
建永二年の歌であるが︑吉澤氏の頓阿行腸雨筆木一こ︑雁司本及び東洋文脈本には家隆一こ雅經一この頭諜がある︒
︵三六○︶み山ぢやいつより秋の色ならむ兄ざりし雲のゆふぐれの空◆
元久二年の元久誹歌合の歌であるが︑脇丸本一こ佐燕木氏中山本一こには有家の名がある︒
|︵川七一︶野腺より露のゆかりを評ねきて我が衣手にあきかぜぞ吹く
︲これは元久元年十二月の歌であるが︑烏丸本一こ佐盈木氏中山木一こ岡書寮永職三年本一こには雅經一こある︒
︵五○六︶秋かぜの袖にふきまくみれの雲をつばさにかけてかりもなくなり︵元久二年詩歌合の作︒柳瀬本︐武・
川氏近藤本に︑定家︑家隆︑雅經︶
︵江八一︶ふかみどりあらそひかねていかならむまなくしぐれのふるの帥すぎ︵元久二年日吉三十首の中︒烏丸
本︑佐迩木氏中山本に︑定家︑雅經︶
づ
︵二△一三︶おく山のおどるがしたもふみ分けて道ある世ぞ一こ人に知らせむ︵承元二年住吉歌合の御製o烏丸
〃本︑佐倉木氏中山本に︑迩具︶
︵一︲七九三︶かすが山谷のうもれ木くちぬ|二も君につげこせみれの松かぜ︵元久元年春日祇歌合の歌︒柳瀬氏1
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本︑武川氏近藤本には定家︶
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︵一九○○︶をしほ山祁のしるしを松の葉に契りしいろはかへるものかは︵延丞卒の歌︒柳瀬本︑武川氏近藤 本には家隆︶
かういふ瓜に︑建仁一二年以後の作で︑選粁名の記號のついてゐる歌があるのである︒但し︑これら九首は︑何れも同
系の弼木の一二にのみ撰若名があるのであって︑他の海本には存在しないものであるから︑これは選者名のある方が
間迷ってゐるので︑ないのがよろしいのである一こいふ論も出來る︒中には酌その前後の開係から見て︑たしかにその
撰着猪のある方が間遠ひだ一こ認定せしめられるものすらあるのである︒よって︑それらは暫く度外におく一こして︑而
もここに一首︑︒ ﹄﹄a︵九・九四︶ふるさ一こにききし風の朧もにずわすれぬ人をさやの中山
一己いふ家隆の歌が︑元久元年十一月の北野宮歌合の作であるにか比はらず︑諸本全部一致して雅維の頭書があるので
︑
ある︒た一こへ一首たりさいへども︑かく諾本一致して撰考名を記入してゐるさいふ乙一こを論煮はどう識明するか︒こ
れをも何かの問違ひである↓ミー言ってしまへぱ︑それまでNあるが︑しかし︑かういふ事蜜は︑一雁疑Ⅲこしていいも
のであらう一こ川心ふ︒即ち︑建仁三年四側以後の撰に撰考名の存するものがあるこ↓こ︑これが節一の疑問である︒
次に︑明月記によれば︑元久二年三月二十四口に藤原良維が九條師肺の歌が一首も入集してゐないのを迩憾に忠
ひ︑その歌を選入するやうにこ藤脈定家をして源家曇に通達せしめ一Lゐる︒巻第十三︑二八○稀の歌は師輔のであ
るが︑この明月記の記顎から老へれば︑元久一扉︲三月一千叫日以後に於て入菜した歌である筈だから︑木來ならば靭
新古今難篤本に於ける撰希名の頭番について二七︵三三四五︶
丈畢・↑研究錐二十八職ゞ二八二三四六︶
撰肴名なき歌の部に脇すべきであるのに︑諦本艀定家の名を珈書してゐる︒武川溥士は︑これを以一L︑定家が特に選
出の任に倣ったか︑又は定家の選歌を復祈させたものでぁら々︵述べてをられるが︑もし定家がぁらたに選川したも
のであるならば︑この頭書の撰者名は︑遮仁三年川凡選進の時のものであるざいふこ一己が出来ぬわけで︑それ以後の
︲〆にも迩粁名があるごいふこ﹁こになる︒もしまた︑定家の選歌をこ氏に復活せしめられたもの一ご考へても︐この撰宥名
の頭諜は︑元久二年三〃末以後に稗加へられたもの一こいふこ一こになるから︑杵迦一般に老へられてゐるやうに︑和歌
所の革稲本に細築上の使血から撰粁名が部熱の際に記入せられた一ごいふ推定は成立しないこ一こになる︒何れにして
も︑かういふ風に建仁三年以後に切入れられた歌に撰粁名がある一こいふこ︾こは︑問題である︒これが疑問の第二︒
疑問の第三は︑︲後鳥羽院御口偲に︑藤陳良經の歌︑
︑︵一三六︶さそはれぬ人のため一こや残りけむあすよりさきのはなの︑雪
について次のやうな御記述があるこさである︒
﹁あながちに歌のいみじきにてはなかりしかども︑新古今に申し入れて︑このたびの撰集のわが歌には赴誰なり一こ
一L度交自讃し申されけり一こぎl侍りき◎苛よりかくこそおもひならはしたれ︑歌いかにいみじけれども︐異様のふ
るまひしてよみたる識の歌などは︑勅撰うけたまはりたる人のもざへ送るこ一こなし︒これらの故愛しらぬものやは
あるoされども左近の櫻の詠うけられぬよし︑たびたび歌評定の座にても申しき︒家隆等もき典し事なり︒諾事こ
れらにあらはなり︒﹂企・・
此の御文章は︑藤陳定家が︑﹃歌存知の趣︑いささかも事により折による一二いふこ今己﹂のなかった一例﹃こして塞げ
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させられたものであって︑敬語の使ひ分けから言っても︑良經がこの歌を自讃して特に新古今集に入渠するやうに迩
廷
動したものであり︑グ定家はこの歌を歌合の席上などでよろしくない歌だ一ご言ひ︑新古今に入渠の恢仙のないものだ一こ
いふ風に言った一こ理解し奉るべきである︒︷こころが︑新古今集爲本の頭諜を見るに︑この良經の歌は諸本が一様に定
家︑家隆︑雅維一ご記入してゐる︒もし御口傳の御文章によるならば︑定家はこの歌の悪口を言ってゐるのであるし︑復
この歌の入集は艮經の申請懇望によるのであるから︑定家の選出でない方が理揃にかなってゐる︒すなはち︑この頭
諜の撰粁狛一こ御口傅の御文章一ご矛屑を生じる鮎が鋪三の疑問である︒
1
次に蛎四恭側に︑︾もしこの頭書の撰粁名が建仁三年四〃のもの寺︶すれば︑避進背自身で自分の歌を椎隙する−ごいふ
〆こ一己は︑先づ術識では老へられないから︑撰考名一こその歌の作者こは一致しない筈である尋ご恩ふのであるが︐事寅
は︑作者こ撰者名一この相一致するものが往食にしてあるのである︒わたくしの調査にして兄藩しがないこすれば︑全
慨で十七行かやうな歌がある︒しかし︑それらの歌には諸本全部撰者名が一致する﹃こいふものがなく︑ある歌は一二
戸の鰯木のみが作者名ご合致して︑他木に於ては合致しないここもあり︑またある歌に於ては大半の紺木が作者名一こ合
致し︑一二の本のみ合致しないこいふものもある︒密へぱ︑赤共七五︶打家の歌﹁青柳のい一こに﹂は︑東洋文脈本の
み﹁有︑定︑隆﹂↓ごあり︑他本は袴﹁定︑隆︐雅﹂︾こなってゐる︒また︵八二︶家隆の﹁おもふどちそここも知らず﹂
の歌は︑Ⅶ神寮水雄三年本のみ﹁布︑雅︑隆﹂二あって︑他本は﹁右︑定︑﹂もしくは﹁有︑定︑雅﹂|こなってゐる︒
︑ザ
かういふ風にた■一本もしくは同系の本にのみ作詩名一こ同一腿者名があるやうな場合には︑さういふ木の醐祥名が恐・︑
らく縦つてをるのであらう一こいふこさもⅡkろ︒けれども︑︵九六八︶﹁忘れなむ待つ一こな告げそ﹂定家の欲の如く鳥■IeH0p〃︿/
新古今集篤本に於ける撰者名の頭審について二九︵三三川七︶
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丈學研究鋪二十八岬三○︵一二一四八︶
丸本︑佐凌木氏中川本︑岡諜寮永幟三年本︑前川家木︑岡辨寮脳司木︑吉澤氏慨何行腸雨兼本︑東洋文脈本の七本が
﹁定﹂の撰蒋柄を布してをり︑﹁定﹂の面洲をもたぬのは僅かに側斡寮合鮎本一ご柳洲本一ご武川氏近藤木一この三木に過
ぎぬごいふ場合には︑﹁定﹂の頭諜ある木を悉く誤りだ一ご断じ去る匡一こは輕糞にゆるされぬこ一こであらう︒三本以上︽
にかういふ不合邪な撰者名があって︑正否の俄かに辨別しがたいものは︑なぼこの外にも八首ある︒哀傷部︵七八川
︑希︶知足院入逝の歌に於ては︑岡神寮永職三年本︑前田家本︑柳瀬本︑武田氏近藤本の四本にのみ﹁術﹂の頭諜があ
〃り︑他の六木には撰考名がない︑けれども︑これは明月記の記事によれば︑通共の進川歌であるから︑﹁術﹂の頭杵
︑のある方がよろしい︒このやうに撰粁名のある方が無いのよりもその数がすぐなくても︑ある方が正しい一こいふ場合
もあるのであって︑かやうに頭諜が臨本によって扣逮してゐる場合には︑他に確誰でもない限り︑その正否の辨別は
なかなかに困難なものである︒︑一こすれば函右の例に於けるが如き︑撰考名一こ歌の作考さの一致する頭謡も︑不合理だ
からs言って弧ちに間遠ひだざ断じさるこさが肌來ない︒而も︑もしこ上に此の不合理の頭書の方を採りあげるなら
ば︑撰粁が自作の歌を自選して勅符した一こいふここになって︑紗から歩常識を逸脱した髄を得ないここiなるのであ
﹃覧る︒随って︑かやうな不職柑の頭書のある本の存するこさに︑わたくしは疑側を懐くのである︒
以上わたくしの疑問一こする一こころは︑また︑この撰考名頭書を建仁三年選進時の選川者の名である今こする説に對す
︑ろ反證さなるのである︒
然らば︑この頭書は︑全然︑建仁三年川月選進時の選進背病だこ言へないか↓ごいふに︑さう言ひきってしまふこ一こ
〃も州来ないo武田博士も繁げてをられるやうに︑建仁三年四〃の選進考調だ﹃ご忠はせる材料も賊る多いのである︒寧
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文畢研究雄二十八枇.三二︵三三五○︶ 一■毎
進者名を示すものならば︑さういふ推定炎料一こなり符るのであるが︑今まで述べて来た|ごほり︑この頭狩が何を迩味
してゐるのかは明瞭でないのであるから︑かういふ確堕性のないものを喪料一こして︑これから撰粁の選歌傾向を老ヘ
ノたり︑叉︑ある鯉背の言ってゐるやうにこれを以て新古今集の部熱の際にその和歌所の車稲本には心尭えのために撰
肴名を沁入せられてゐた一こ推定したりするここは︑凡そ畢問的でないこ言はねばならぬ︒I
この問越については︑われわれはもう一度よく老へ直してみねばならぬ︒︵昭和十五年九月末H︶
。 附把本文中引川歌に附した恭號は脚歌大籾の恭雛である︒
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