旅だちの前にひとこと
講演者 猪熊 葉子氏
(聖心女子大学名誉教授)
日時 2017年 3 月25日(土)14:00~15:30 会場 白百合女子大学 クララホール
ご挨拶ぐらいは立ってさせていただきますね。全く妙なタイトルをお出ししたの で、とても皆がびっくりなさって、なにをいいにきたのだろうと思っていらっしゃる だろうと思うのですけれど、私もだいぶ年をとりましていろいろあるものですから、
ここにいらっしゃる方は皆さま、児童文学というものになんらかの形で興味をおもち になって勉強なさったり、研究なさったりしていらした方ですから、そういう方たち は、そんなこといわれなくてもわかっているわよとおっしゃるかもしれないこともた くさんあると思うのですけれども、そのあたりは我慢して聞いていただいて、私が最 終的にこういうことをなぜいわなくてはいけないかということは最後に申し上げるこ とにいたします。
まず、いったい私はなにを話しにきたのかということですけれども。皆さま、後期 高齢者という言葉をご存じだと思うのよ。前期高齢者とか後期高齢者とかいいますで しょう。ところが、私のように85歳を過ぎますと、末期高齢者って。そしたら、ある 人が「まつご」と読めますねというから、そうかもしれないといったのですけれど。
私はてっきりそういう名前をつけるということは、日本の役人に違いないと思ってい たら、そうではなくて WHO がつけた名前なんだそうです。私は、紛れもない末期 高齢者でございますから、だんだんこの世の中のもち時間が少なくなっていますで しょう。ですから、最近になって、自分の経てきた道を顧みるということがあって、
とくに昨年、岩波書店から出していただいた本ではそういうことにも触れているんで すけれど。自分がこの世から旅立つのはそんなに遠い先のことではないなと思うもの ですから、なにかいっておきたいなと思ったんです。今年は不景気で、正月の元旦か ら胸に痛みが出まして、でも私は医者の娘ですから、この痛みは別に救急車を呼ぶま でのことはないなと思って我慢していて、 5 日にクリニックが開いたところで行った らば、すぐにレントゲンを撮りますとレントゲンを撮って、つい最近撮ったばかりの レントゲンと並べてみてくださって、あまりいい顔をなさらないんですよね。なにか
講 演 録
起こっていますかといったら、あなたの動脈が膨れているように思うとおっしゃるか ら、動脈が膨れるとはどういうことでしょうかといったら、その下には動脈瘤がある ということでしょうとおっしゃって、すぐに CT で検査ですとおっしゃって、CT 検 査をしたら、幸いに動脈瘤は見つからなかった。なぜ勝手に動脈が蛇行するのでしょ うかといったら、そんなこと僕に聞かれてもわかりませんといわれてしまったのです けれどね。でも、あなたには間質性肺炎の軽いのがあるから、年に 2 回は検査ですと いい渡されたのですけれど、それからはじまって、つい最近に至るまで難病に属する ものというような皮膚炎ができたりとか、あまりにもいろいろなことが起こるもの で、やっぱり末期高齢者だなと思っておりますのよね。
ですから、自分が今までしてきたことを顧みて、なにを自分が一生の間にしてきた かなと思いますと、ずいぶん子どもの文学というか、児童文学に親しんだりしてきた 時間が長いなと思って。でも、私はいったいどれだけのことをやってきたかしらと思 うと、実に不満足なことしかやれていないなと思うんですよ。それと同時に、ここに ある時期から大学院ができて、児童文学を専門に研究できる大学院は日本にはそうた くさんないですよね。 2 つ、 3 つぐらいあるのかな。そういういい状況のなかにい らっしゃる。昔の私が自分であっち行ったりこっち行ったりしながらやってきたこと よりも、ずっと研究のための状況は整っていると思うのね。それは素晴らしい速度で 整ってきたと思います。私が在任中もずいぶんいろいろなものがたくさんあって、す ごいなと思いましたね。私が、ひとりでやらなくてはならなかった時期には、本当に 参考書というようなものもなかったし、自分で探さなくてはいけなかったし、大変 だったんですけれど。だけど、ここで研究することが可能になって、今までに何人博 士号をお取りになった方がいらっしゃるかちょっと知らないんですけれど。だいたい 児童文学で文学博士になるということなんて、一昔、あるいは二昔前には考えられな いことだった。だいたい文学博士なんていうのはおじいさんに決まっているでしょ う。だから、そういう方たちにしてみれば、なんという時代だと嘆かわしく思ってい らっしゃるに違いないのですね。でも、そういう方の第 1 号は私が在任中に出たの で、とても嬉しかったんですけれども。それからしばらくしてから、私は退任いたし ましたけれども。それから後の状況を見ると、研究論文集とかいろいろなものを送っ てくださるではありませんか。だから、こういうものを拝見していると、皆さま、ず いぶん事細かにいろいろなことをやっていらっしゃるなと思うのですが、本当にこの 調子でいいのかしらという危惧もとても感じるんですね。それが心配の種なんです。
例えば、上橋〔菜穂子〕さんが、国際アンデルセン賞をおもらいになったでしょ う。今、NHK で番組〔「大河ファンタジー・精霊の守り人」〕になってもおります。
物語でもって国際アンデルセン賞をおもらいになったなんていうのははじめて。ま
ど・みちお先生がおもらいになったり、絵の方では安野〔光雅〕さんがおもらいに なったり、赤羽末吉先生がおもらいになったりしていますけれども、物語で、しかも あの方の物語は村上春樹さんと同じで英語訳だけではないのよね。ものすごく広がり をもっていらして、いろいろな言葉に訳されている。これは、大変結構なことです。
それでは研究はどうでしょうかと聞いてみたいと思ったの。皆さま方は、どのくら いの自信をもっていらっしゃるかわからないんですけれど、これまでにたくさん出て きたいろいろな児童文学に関する研究のレベルと比べて、抜きん出たものが日本の研 究者のなかから果たしてこれまで出てきただろうか。私は残念ながらそうは思えない のね。それがちょっと心残りなんですよね。もっとも、児童文学が文学の正当な一領 域であるというふうに認められるようになったのは、イギリスでだってそんなに古い ことじゃないんですのよね。例えば、「ハリー・ポッター」が出てきたときにものす ごい論争が巻き起こったことは私のこの前の本〔『大人に贈る子どもの文学』〕に書き ましたけれども、もう「ハリー・ポッター」なんか手にもって読んでいるやつがい たら、払い落としてやりたいなんてすごい大変なことをいっているおじさんなんか いるわけですよね。それだけにとどまらずに、とてもいい仕事をこれまでにしてき たキム・レイノルズ〔Kimberley Reynolds〕という人がおりまして、例えば Radical Children’s Literature は研究者だったら絶対に読んでいただきたい本なの。彼女が いっていることがひとつありまして、2006年にヴィクトリア・アンド・アルバート・
ミュージアムというのがロンドンにあるんですけれど、これはとても楽しいミュージ アムで、私は大好きです。ここで大掛かりな展覧会があったらしいのですね。これ は、イギリスの文学だけではなくて、海外なんかも、要するに、イギリスの文化の一 大展覧会があったらしいんですけれど、そこで子どもの文学は全く無視されていた、
と。2006年のことです。だから、「ハリー・ポッター」もそうだし、このヴィクトリ ア・アンド・アルバート・ミュージアムのこともそうですけれども、イギリスでだっ て必ずしも子どもの文学が正当に評価されているとはいえないんですよね。しかし、
そういうなかで、このキム・レイノルズとかその他何人かの人たちが、ものすごくい い仕事をしているんです。だから、私は、日本の研究者にそういう人たちに肩を並べ るぐらいの研究をしてほしいと思っています。なぜ日本では抜きん出た研究がないの かなと思っているんですが。例えば、キム・レイノルズは、皆さま、よくご存じで しょう。いくらなんでもこれも読んだことがないという方はないと思うんですけれ ど、『ピーター・パンの場合―児童文学などありえない?』という本が出て、これ は鈴木晶先生がなかなかお訳しにならないし、私なんか歯が立たないんですね、精神 分析なんかがわかっていないとできないから。だから、私ははじめからやる気がなく て、早くやってくださればいいのにと思っていたのですが、なかなか出てこなかっ
た。でも、今、読めますから読んでいただきたいんですけれどね。なぜかというと、
前以て出てきた研究を後から出てきた人はもちろん踏まえていなければいけないし、
そしてそれを批判しなければいけないでしょう。もう結構ですといっているだけじゃ なくて、どういう意味でこの研究は優れているか、どういう面が不足であるかという ことをいわなくてはいけないでしょう。キム・レイノルズという人は、最近、国際グ リム賞をもらったんですよね。このキム・レイノルズの偉いところはどういうところ かというと、この『ピーター・パンの場合』を書いてものすごいセンセーションを巻 き起こしたジャクリーン・ローズ〔Jacqueline Rose〕のことをものすごくちゃんと 批判しているの。私も、在任中、少しぐらいはいったかもしれないけれど、とても不 十分でしたね。つまり、私もちゃんと読みこなしていなかったと思うんですけれど、
それは非常に苦い思い出でございますけれどね。そういう点で、児童文学の研究でこ れまで日本の研究者のなかから、洋の東西を問わず、日本の研究書でもいいし、外国 の研究書でもいいけれど、そういうものをきちんと踏まえて批判もし、それからそれ を土台にして新たな研究の道を開いた人がどれだけいるだろうかと思うと、甚だ心許 無いのではないかなという気がいたします。
それで、これ〔『私の聖書』〕は私の愛読書ですけれども、小川国夫さんというカト リックの小説家がいますよね。私は、四旬節になると少々ホーリーにならなければい けないかなと思って、小川さんの本を取り出すんですが、彼は前に海外のことをいっ ていて、
そこで日本の社会に話をもどしまして、規格化された考え方、画一化された考え 方、それが繁栄のためには欠かすことができないし、それさえ鋭意やっていれば 安心していいと考えていると、あんがい落とし穴があると思うのです。
それといいますのは、創造的エネルギーというものは、画一化した社会で画一 化した考え方をしていると衰えていって、一方で人々は創造性の虐待や圧殺に手 を貸すような結果になってしまうのではないかと思うのです。
これはとても耳の痛い言葉だと思うんですね。私は、この前の著書〔『大人に贈る 子どもの文学』〕にも書きましたけれども、世の中に流布している常識というものに は、もちろん私たちが心得なければいけない常識もあるけれども、そんな常識なんて いうものは信じてはいけないよというものもたくさんあるんですね。ところが、全然 そういうことを頭に置かないで常識と思うのはいい加減に使われていると思うの。そ ういう点で、私はキム・レイノルズという研究者は本当に偉いと思っていて。だいた いキム・レイノルズが本当にいい仕事をしはじめたのは、私がここ〔白百合女子大
学〕へ赴任してからしばらくして大学院生の人たちと一緒にイギリスに行きました ね。ローハンプトンというところで研修をした。イギリスにはなかなかいい文学史で あるとか作品論とか既にあったと思いますけれども、そこからびっくりするように 次々と優れた研究が現れてきました。これはイギリスだけではなくてアメリカもそう です。でも、アメリカ英語と私はとても性が合わなくて、アメリカ人はやたらと新し い言葉を作るのよ。ちょっと私は読みにくいんですけれどね。でも、英語圏で優れた 研究をしている人たちがたくさん出てきた。それで、既に規格化されてしまっている ものの考え方を壊すということは理想がいるでしょうし、勇気もいるでしょうしね、
もちろん知性がいるわけよね。Radical Children’s Literature は本当にいい本でござ います、ぜひお読みになっていただきたい。ことに、YA に興味のある方には必須の 本です。絵本についてもいろいろなことをいっている。それで、キムがいいたいこと はなにかといったら変化ということなのよね。変化を恐れない。そして彼女は、この
『ピーター・パンの場合』を書いたジャクリーン・ローズなんかを、もう神様みたい に思っている人もたくさんいるんですけれども、そうじゃないよといっているわけ。
どういうところがそうじゃないよといえるかということを、この本のなかでちゃんと 書いているの。だから、読まなければいけない本なんですね。そういう意味で、やっ ぱり画一化された考え方を破壊する勇気、知性、理想、いろいろなものが必要ですけ れど、その試みがなされない限り、なにをしても意味がないと思うのね。
例えば、絵画のことを考えてごらんになると、ピカソ〔Picasso〕という大した人 がいたんですね。ピカソは、どういうふうに変化したか、皆さま、たぶんご存じだと 思うんですけれど、最初の頃は青の時代といいましたね。青の時代のピカソは、非常 にわかりやすい絵だった。確かに青の時代は、ちょっと陰鬱でしたね。貧乏な人だと か苦しんでいる人だとか、そういう人たちの絵を描いていたから。でも、とてもわか りやすい絵だった。次にバラ色の時代というのがきて、かなり明るくなる。その後ど うなりましたか。キュビスムというものが興った、新古典主義が興った、シュールレ アリスムが興った、そして『ゲルニカ』に至ったでしょう。今、ピカソというと『ゲ ルニカ』とおっしゃる方があるかもしれないけれど、ピカソの全画業のなかで『ゲル ニカ』だけを取り上げて問題にしていいのかということがあるでしょう。だって、彼 は次々と壊していったのよ。これは、本当は後でいうことですけれど、私はとても音 楽の常識がない人間ですけれども、私が非常に興味をもっている音楽家に、日本の現 代音楽を世界に知らしめることになった武満〔徹〕さんという方がいらっしゃる。武 満さんも音楽を壊した、でも、壊したといいながら、とてもわかりやすい歌も作って いらっしゃるし、合唱曲もたくさんあるんですけれども。でも、この前笑ってしまっ たんですけれど、N 響の中継があって、武満さんのお嬢さまが出ていらして、すごく
美人で、そのお嬢さまがいうのに、自分は父親の現代音楽ばかり聞いていたものだか ら、あるときにベートーベン〔Beethoven〕を聞いて、世の中にこんな素晴らしい音 楽があったのと思ってしまったといっていらしたので、私は本当におかしかったんで すね。だって、武満さんは『ノヴェンバー・ステップス』という琵琶を使ったり尺八 を使ったりする、あの音楽で世界に知れ渡る人になったでしょう。だから、結局彼も それまでの皆が常識的に思っていた音楽を壊した人じゃないですか。一番新しければ いいのかというと、そうではないのよ。それを間違ってはいけないんですけれどね。
ピカソの場合も、ではいったいどこをとったらピカソなんですか、青の時代のピカソ は『ゲルニカ』よりも劣るんですかといえるかどうか。でも、彼の次々に壊していっ たプロセスの背後になにがあるかといったら、絵画という芸術の本質があるでしょ う。だから、そのことを考えつつ、ピカソをどういうふうに評価するかということが いわれなければならないのよね。音楽もそうだと思うんですけれど。
それで、現在、研究者たちが直面している問題。研究者たちって、皆さま方のこ とよ。今、IT の世界ですから、調べることがあれば、もう簡単に調べられますね。
それから、山のように参考文献がある、そういう環境のなかにいて、どうやったら 本当に意味のある研究ができるかと思わなければいけないと思うのです。子どもた ち、大人もですけれども、IT の急速な発展で読みものがすごく変化しているんです ね。このなかに、ファン・フィクションというものを読んだことのある方はあります か。ファン・フィクションというものが、今、ものすごい勢いで作られているんで す。「ファン」というのは、いわゆるファンよね。つまり、今問題になることはなに かというと、児童文学の作り手がかつてのように大人が作って子どもに与えるという ものではなくなりつつあるのよ。これはすごいことですね。たくさんのサイトがあ る。あまりたくさんあるから、私ちょっと開けて読んでみようかなと思ったけれど、
あまりたくさんあるから、読む時間もないし、まだ読んでおりませんけれどもね。要 するに、ファン・フィクションというものは、だいたい15歳ぐらいから20歳ぐらいま での女子が書いているのね。もっぱらネットで読めるんですね。たくさんサイトがあ るの。一番ファン・フィクションのなかで取り上げられるのが、「ハリー・ポッター」
なんです。「ナルニア」もあるんだそうです。そのうち、「ナルニア」のサイトを開け てみたいと思っていますけれどね。そうすると、どうなるかということよね。これは 大変ですよね。要するに、書き手が子どもになってしまったんです。大人の作家はど うするのということになるでしょう。しかも、ファン・フィクションの場合の作り手 の方のメリットはなにかというと、あっという間に反応が返ってくるということ。こ れまでの大人が作って子どもに与えてきた読みものは、そんなに簡単に子どもからの 反応は返ってこないでしょう。そういう時代に、今、なっているんです。読み手の子
どもたちも、もちろん IT の世界にどっぷり浸かっていますよね。作り手の方も、そ ういうなかで作っている。そうすると、いったい文学ってなになのという大問題が出 てきます。だから、これまでの常識的なアプローチをしていて、すべてがわかるは ずがないのよ。もちろん、ファン・フィクションというのは、今、申しましたよう に「ハリー・ポッター」だとか、「ナルニア」だとか、他にもあるんだと思いますけ れど、なかに出てくるハリー・ポッターもそうだし、ちょっと小生意気なお嬢さん、
そういう人たちのいう言葉をその通りに使ったりしているらしいんです。それに加え て、セックスの問題であるとか、いろいろな問題がつけ加えられて、ファン・フィク ションができているのね。そういう形で、若い人たちが書き直しにかかっているんで す。そういう時代に、いったいこれまでの児童文学の研究者たちはどう立ち向かうの かという問題があるでしょう。すごい変化ですね。だから、少しは震えなくてはいけ ないのよね。ですから、私ももう少し時間があればファン・フィクションを開けて、
具体的にどう、でも残念ながら英語ですから、そんなにすらすら読めないかもしれな いんだけれど。日本ではあまりファン・フィクションというものが書かれていないみ たいね。日本でいうと、二次創作ということになるんでしょうかね。昔は和歌だっ て、本歌取というものがありましたから、うまく本歌取ができるということもひとつ のいい歌詠みの条件だったと思うんだけれど、今のこのファン・フィクションという のはそれどころの話じゃないんですよね。つまり、文学というものの概念を変える力 をもっているかもしれない。
今、ここにいらっしゃる方で、実際に研究職というか、教えていらっしゃる方はど のくらいいらっしゃいますか。その他の方だってね、大学院をお出になったりなんか しているわけだから、もちろん研究をそれぞれしていらっしゃると思いますが、研究 というものをするためにはいろいろな準備段階が必要ですよね。むやみやたらに研究 やります、好きだからやりますというわけにはいかないでしょう。どういう行動にも 無意識の動機というものがあるでしょう。人間は、日常生活のなかでいろいろな行動 をしていますよね。朝起きて、顔を洗って、歯を磨いて、ご飯を食べて、家に帰った らお風呂に入って、いろいろあるんだけれど、人間はそういう日常的な行動にはいち いち意識をしていないです。しかし、ある特定の領域に目を向けて、それを選択して 学ぶ、あるいは学ぶだけに終わらず皆さま方のように研究にまで進むには明確な動機 というものが必要です。なぜ、自分が児童文学の研究や勉強をすることが面白いの か、それを選んだのか、それをまず考えてほしい。自然にそのなかに入ってしまった という人もいますけれどもね。でも、やっぱり動機があるのよ。私は、この本〔『大 人に贈る子どもの文学』〕に書きましたけれども、この本を読んでくだされば、私が なんでこういう人間になったかということを書いてあるので、今、時間がないから興
味のある方はお読みくだされば幸いですけれど、そういう動機、なにか物事をすると きに意識的に動機があって、その動機があるからこそ選んだ。だったら、あなた方は これまでにどのくらい児童文学作品を読んできましたか。いつ頃からですか。どうい うタイプの作品を好ましく思いましたか。ファンタジーですか、リアリズムですか。
日本の作品ですか、海外の作品ですか。それとも本はあまり読まなかった、漫画の方 が好きだったとか、いろいろあると思う。児童文学作品には、この頃盛んにアニメ化 されて評判になったものがたくさんありますけれども、そのアニメ化されたものと、
そうでない元の作品とはどこでどう違うのかということも考えなければいけないです ね。動機があるんです、だからやっているんですという方があったらば、今度は研究 を実際にやらなければいけないわけなんだから。じゃあ、楽しむために読んでいるだ けでいいんですかというと、そうはいかないんですよね。研究するということは、ま ず、ある作品、ある作家、児童文学といわれるものを生み出した時代、社会などが もっている意味を発見しなくてはいけないということです。その結果を取り出して、
それが人間に与える影響と意味を認識することだと思います。その際に、私がとても 薦めたいことがあるの。それはなにかというと、イギリスでいいと思うんです。なぜ かというと、イギリスには長い児童文学の歴史があるから。だから、片方にイギリス の児童文学史を置いておく。片方に日本の児童文学史を置いておく。そして並べてみ ると、どこが違うのかということがわかるでしょう。やってみると、これはきっとす ごく面白いですよ。自分がやらないからなんだけれどね。でも、無意識のうちに私は やったと思いますけれど。これはやってほしいことです。今、私がそういいましたけ れど、イギリスの方が優れているから並べて研究しなさいというのじゃないのよ。優 れているとか優れていないとかいうことじゃなくて、どういうプロセスでイギリスで は子どもの文学というものが出てきて、今日に至るまで流れてきたか。その流れてく る途中で、その作家たちはどんな問題に出会っただろうかということがわかる。日本 の場合も同じくね。どこが違うんだろうなということを考えていただきたいと思って おります。
それで、キム・レイノルズが面白いのはなぜかというと、はじめてといっていい、
例えばヴィクトリア朝までの児童文学の後、彼女は「モダニズム」という言葉を導入 したのよ。モダニズムという言葉を使うんだったら、当然「ポスト・モダニズム」も 出てきますね。モダニズムというのは、なにだったかというと、要するに、さまざま な文化のなかにおよそヴィクトリア朝と違うものがいっぱい出てきたということで しょう。つまり、いろいろなことが新しくなったんです。変化したんです。そういう 意識をもって、キム・レイノルズはこの本を書いているの。これは、本当にとてもい いことだと思います。それで、果たして日本にキム・レイノルズがいっているような
意味でのモダニズムの児童文学があっただろうか。あったとすれば、それはどこだ、
誰だということが考えられて然るべきだと思うのね。そういうふうな比較をしてごら んになると、自ずから問題の所在が見えてくるはずなんですね。もう学部の頃から児 童文学に興味をもっている人たち、それから院生もそうだったんだけれど、例えば児 童文学における「笑い」という、すごく大きなタイトルで論文をお書きになろうとし ている方があったりするんだけれど、児童文学における「笑い」とはいったいどうい うことなのということでしょう。そうすると、児童文学のある作品の、こういうとこ ろで主人公が笑ったとか、そんなことじゃないはずなの。結局、ナンセンスというよ うなことにまで行き着かなければいけないでしょう。そういう、問題の所在がだいた いわかるんだけれど、本当に突き詰めていくとどうやって処理していいかわからない ということがたくさんあると思うんです。
そこで申し上げたいことは、これはもう皆さま、ご自分で発見していらっしゃると 思いますけれど。Children’s Literature Studies: A Research Handbook という本は、
キム・レイノルズともうひとりの人が書いた本で、どういうふうにやったら児童文学 の研究ができるかということをもう詳細に案内してくれている本で、これを皆さまが 自分でもっていたら、かなりすらすら論文を書けるんじゃないかと思うくらい便利な 本よね。それから、問題の所在をどうやって見つけるかで大事なことは、Keywords for Children’s Literature という本です。これは本当に役に立つ本なのね。なぜかと いうと、ここには全体で49のエッセーというべきか、なんといったらいいんでしょ うね、短いものですけれども。いろいろな問題、読者の問題があれば‘boyhood’と いうのがあったりとか。ABC で並んでいますから‘boyhood’の後は‘censorship’
になったり、‘character’とか、‘class’とか、‘classic’、‘crossover literature’、
‘culture’とか、‘fantasy’もあれば、いろいろあるんです。これをもっていてしっ かり読んだら。それで、このひとつひとつの問題について書いている人たちは超一流 の人たち。今の児童文学研究者で、誰が信頼に値する研究者であるかということは自 分で発見しておかなくては駄目なの。やっているうちに、必ずぶつかるはずなんです よ。
そこで私が苦言を呈したいことがあって、こういう研究論文集だとかいろいろいた だくと、これはずいぶん昔からですけれど、たくさんの研究書の解題が載っています ね。この本を書いたのは誰で、内容はこういうことが書かれていますというんです が、あまりたくさんあるからね、 1 冊ずつ中身まで読んでお書きになっていますかと 聞きたくなっちゃうのよ。このキム・レイノルズの Radical Children’s Literature は 賞をもらった本ですから、後ろにいろいろ書いてあるから便利ですけれど、こういう ものをただ引き写しただけで解題が書かれているんだとしたらとんでもないことな
の。だって読んでみなきゃわからないじゃありませんか。しかも、だいたい 2 人の方 がやっていらっしゃる。 2 人の方がこんなにたくさんの本を果たして読んだ上で書い ていらっしゃるのかといったら、そんなこと到底できるはずないのよ。関西の三宅興 子さんなんかもずいぶん前からやってくださっていて、私もずいぶん目にさせていた だきましたけれど、やっぱり読んでみないとわからないでしょう。だから、そういう 勉強の仕方というのが必要ですよね。誰が今、最前線にいる書き手であるか、研究者 であるかということを、しかもその研究者のなかには文学だけの研究者ではないんで すよね。だから、そういう人たちの名前を見て、この人のこういう本だったら読んで みるかなと思えるようになっていなければいけないでしょう。それは、自分が本当 に苦労しなければいけないことなの。それができないと研究者としての意味がない と私は思っております。要するに、そういう観点から、例えば、Radical Children’s Literature というのをはじめから終わりまで読んでごらんになると、本はこういうふ うに書くものなのねとよくわかります。実にうまく書けているの。しかも、研究者に 希望をもたせてくれますよね。これ、大事なことでしょう。読んだはいいけれど、到 底私はできないわと思われては困ってしまうからね。そんなことはないのです。
先程、ある領域を選んで研究をする、その世界に入っていくということには動機が あるはずですといいましたね。動機があるんだったら、その動機がどういう動機かと いうことを自分にいい聞かせなければいけないし、それは結局自分はいったいどうい う人間なんだろうということに繋がっていくのよ。つまり、自分のアイデンティティ ですよね。皆さん、アイデンティティという言葉はよくご存じだと思うんですけれ ど、青年特有のアイデンティティ・クライシスというのがあって、精神科医とか、臨 床心理士とか、いろいろな人たちが青年期のアイデンティティ・クライシスについて いろいろな本を書いていたりするんですけれども、でもアイデンティティというのは いくつになっても問題になるの。中年であろうと、老人であろうと、私なんて老人で すけれども、いまだに自分が誰だかわからないのよね。私、毎朝、洗面所に行って、
鏡に自分を映すでしょう。そうすると、あなたは誰と聞いてしまう。なぜかという と、本当に私には自分でわからないことが山程あるんです。なぜかというと、結局、
自分を知らないでなにもはじまらないなと思っているからなんですけれど。
私、先程もちょっと白状したかな、音楽に対してとても疎いのよ。だから、今の私 の野心はなにかというと、武満さんの『ノヴェンバー・ステップス』という世界に認 められた作品をせめてわかりたいな。YouTube で聞いてもわからないんですね。私 は、昔からモーツァルト〔Mozart〕が大好きで、モーツァルトのピアノコンチェル トの21番の第 2 楽章を聞くと、うっとりしてしまう人間なんですけれど。これは余計 なことで曽野〔綾子〕さんに聞こえたら怒られてしまいそう。この前、曽野さんのご
主人、三浦朱門さんが亡くなったでしょう。それで私はお悔やみを書いた。三浦さん は面白い方で、私みたいに忙しい人が心臓が悪くないはずはないと勝手に決めて、ク リニックを紹介してくださったの。私は行く気は全然なかったのに、向こうから電話 がかかってきて、三浦先生のご紹介ですから、いついらっしゃいますかと聞かれてし まって、しょうがなく行ったんですけれど、なんでもなかった。そういうことがあっ て面白い方だなと思っていたのに、亡くなったから、私は曽野さんにお悔やみを、私 は今、パーキンソン病で手書きができないから打ちまして、それで差し上げたんです けれど。そうしたら、曽野さんが電話をくれまして、私そろそろ退場の時期よといっ たら、へぇといって、いろいろなことを話した。それで、あの方、突然、私が絶対行 きたくないと思うようなオペラのお誘いなんかしてくださったりするんですけれど、
全然趣味が違うのね。私が好きなのはモーツァルトよといったの。うーんと溜息をお つきになるの。なんでモーツァルトが好きだと溜息をつくんでしょうねと私は思っ たんだけれど、溜息をついていましたね。だいたいもうじきはじまるでしょう、「ラ
・ フォル ・ ジュルネ」でしたか。あれをはじめた方は、だいたいモーツァルトのピア ノコンチェルトの21番の第 2 楽章を皆に生で聞かせたいと思ってはじめたんじゃな い。モーツァルトを嫌いだという人とはあまりつき合いたくない。曽野さんが嫌いだ といっているわけじゃないのよ。だから、別につき合わないとはいわないですけれど ね。それは音楽だけの話じゃないのよ。私は絵画も好きですし、彫刻も好きですし、
劇も時々は見ますし、いろいろなものが好きなんですけれど、音楽だけは残念なが ら、父親が音楽はうるさいから駄目といってなにもさせてもらえなかったから、とて も疎いんですね。だから、可視的に見えるもの、それから文学、文学はもちろん最初 にくるんですけれど、それでいろいろなアートがあって、例えば彫刻。ここ〔白百合 女子大学〕にも前に教えにきていらした小野かおる先生という東京造形大学の先生が いらしたでしょう。小野先生と私はすごく仲良しで、ヨーロッパ中を車で走り回った 仲なんですけれど、今、残念ながら東京にいらっしゃらないんだけれど。あるとき、
私が、ロダン〔Rodin〕なんて全然いらないわといったんです。そしたら、怒られて ね。ロダンを否定するのとおっしゃるから、だっていらないんだもんといったら、冗 談じゃないわよと怒られちゃったの。それは確かにロダンはすごい人なんだろうと 思うけれど、私は全然呼ばれないからね。それよりも、例えば、ヘンリー・ムーア
〔Henry Moore〕はものすごくたくさん作品があって、いつかヘンリー・ムーアの作 品をパソコンで開けて見てください。ものすごくいろいろなものがあるなかで、私 がこれこそヘンリー・ムーアの最高傑作と思っているのはなにかというと King and Queen なの。King and Queen なんて、本当にこれが人間というぐらい、もう肉なん かもなにもついていない。そして、本当に顔もどんな顔かわからないくらいのもの
が、ひっそりと座っているだけの彫刻なんですね。それは、日本の美術館にもある し、いろいろなところにあるのよ。フィレンツェだとどこかの高台にあるらしいんで すけれど、それはまだ見ていませんけれど。でも、あれを、私たちが車に乗ってイギ リスのイーストアングリアの畑のなかをずっと行ってやっと見つけたときの、その素 晴らしさったらなかった。王者の孤独というものがもうそくそくとして迫ってくる のね。つまり、彫刻が物語をもっているの。これは素晴らしいことじゃない。です から、ジャコメッティ〔Giacometti〕も好きですけれども、ヘンリー・ムーア。じゃ あ、ヘンリー・ムーアは、王者の孤独だけしか作っていないかって、そんなことはな いです。あの方は現代彫刻家の一大作家ですから、すごく抽象的なものもありますけ れども、同時に家族の銅像というか、彫刻をたくさん作っている。すごくふくよかな お父さん、お母さんが、子どもをかき抱いている彫刻がたくさんあるでしょう。で も、その片方に King and Queen みたいな、本当に人間の孤独ってこういうものなの ね、しかも凡人の孤独じゃないのよね、王者の孤独なんですよ。どれ程の孤独の深さ か。そういう働きかけをしてくれるということは素晴らしいと思っているんですけ れど。同時に、私の大好きな浮き彫りがあるんです。それはデラ・ロッビア〔della Robbia〕、これも開けて見てくださいませ。これは今、フィレンツェの大伽藍のすぐ そばに置かれていると思いますけれど、少年少女たちが歌っている浮き彫り、レリー フなの。歌っているから音楽が聞こえてくるんじゃないのよ。本当に、そういう浮き 彫りのなかからある旋律が聞こえてくる。これは若さの声よね。ところが、〔小野〕
先生はどういうものか、私の好みが違うということもあるのかもしれないんだけれ ど、このデラ・ロッビアもあまり。デラ・ロッビアの作るレリーフはロダンと全然違 いますけれど、これがまた美しいんですよ。そういうことを擁護してくれているの が、この私が長年傾倒している哲学者のスザンヌ・ランガー〔Susanne Langer〕と いう人。この人には『感情と形式』という大著があって、これは読むべき本なのね。
でも、読むべき本といったって、厚いですし、なかなか読みにくいと思ったら、岩波 新書から出ている『芸術とは何か』という本を読んでくださればいいんですけれど。
このなかに私がいいたいことを書いてくれているの。このデラ・ロッビアに関連し て、こういうことをいっているんですよ。
これらの十五世紀のトスカナの彫刻家たちは、主に浅い浮彫に従事した……この 浅い浮彫の方式は、彼らが彫刻の特別の制約と闘いこれを打破する手段であっ た。その制約は、あらゆる彫刻作品の材料やその他の本質的な条件から生じる。
そしてそれは彫刻作品がおち入りやすい極端な写実の傾向に存するのである。
〔池上保太・矢野萬里訳〕
だから、私は、このスザンヌ・ランガーが大好き。すごく影響を受けました。彼女 の『感情と形式』は、今、一冊本になっていて、ものすごく厚ぼったくなっていて、
ものすごく高くもなっていると思うんですけれど、この本がなぜ『感情と形式』とい うかというと、人間がもっている感情というのには、すごい種類があって、そういう 感情がある形式のなかで表現されたときというか、形式のなかに収まったときに、さ まざまな芸術の変化が生じる。だから、悲劇的な芸術というのは悲劇的な感情から生 まれるんですね。それが形を成したら悲劇ができる。それは人間の運命というものと 密接に関わっているということをランガーはいっていますし、喜劇はそうではなくて 生に向かって開かれる感情である。彼女がいっていることはすごく面白くて、悲劇の 方を先に人間は作ったんだそうですけれど、私はよく知りませんけれどね。だから、
絵画もそうだし、劇もそうだし、いろいろな芸術作品、文学はもちろんだし。そうい うものが人間感情と深く関わっていて、形をもつと芸術作品になる。私はこの考え方 をすごく素晴らしいと思って、この人は昔からとても影響を受けた人です。だから、
少なくとも『芸術とは何か』ぐらいは、ちょっと時間があるときに読んでくださると いいと思っています。
そこで私は、今、もうこんな年になってしまったので、これから児童文学の研究は もうできないと思っておりますから、そろそろやめにいたしますけれど、やめにいた しますって、今日やめるのよ。今日がだから、私の児童文学関係の講演の最後でござ います。以後、一切の学会からも退却いたしますので、講演も原稿も全部お断りしま すので、そのおつもりでいてください。でも、やっぱり、死ぬ前にやっておきたいこ とがあるではありませんか。先程もいいましたように、自分のアイデンティティとい うものがわかっていないのよね。だから、わかりたい。自分のアイデンティティをど うやったら確立できるか。おととい、ちょっと仲のいい友だちと音楽会に行ったんで すけれど、話をしたら、そんなことできるわけないわよと頭ごなしに怒られちゃった んですけれど。でも、やっぱり、自分がどういう人間として生きてきたのか、その長 い道程のなかでなにが起こり、どういうことに私ががっくりし、どういうことを喜ん だのか、いろいろなことがあると思うんです。この私の本〔『大人に贈る子どもの文 学』〕でも書きましたけれど、世の中の人は、ものすごく暗いのが人生であると思っ ているでしょう。皆さまは知らないけれど。世の中はそもそも暗いのだから、我慢し て生きなければしょうがないのよと思っている。それは、とても常識的な敗北主義だ と私は思うんです。さっきの小川国夫氏は、この点について、とてもいいことをいっ ているのよ。それはこういうことです。少年時代というテーマで話をなさったときの ことなんですね。
―心の奥をのぞいて見ますと、少年時代には嬉しいことも悲しいこともあっ たのでしょうが、嬉しいことのほうが強く印象に残っているのです。他愛ない キッカケで嬉しくなったにちがいありませんが、そういう幸福感といいますか、
人間が白紙の感受性の上にしるした幸福感は、あんがい大事なものではないかと 思うのです。
普通少年時代そういうことがあって、青年時代、壮年時代となっていくのです が、その間に、とくに幸せな方でないかぎりはいろいろ困難にもぶつかります し、人生に一回や二回はどうして生きていったらいいかと思い悩むほどの壁にぶ つかることもあります。そういうときには目標を立てようにも立たないという状 態になります。藁にもすがりたいのですが、そのようなときには、自分がかつて 味わった幸福感へ、手さぐりしつつ気持は向っていくと思います。仮に、そうい う経験がぜんぜんなかった場合は、その人は幸福とは何かということを知らない ことになりますから、迷いの霧のなかでどっちへ向って進んだらいいか触手が働 かなくなってしまう。したがって、少年時代にはっきりと幸福感をつかんだ場合 には、終生絶望的な混迷に陥ることはないんじゃないのかと思うのです。
もちろん少年時代の幸福感といっても、うまく縄が跳べたとか、魚が捕まったと か、あるいは先生に褒められたというようなことで、その内容は他愛ないといえば 他愛ないのですが、胸に刻んだ幸福感はきっとかけがえのない宝なのでしょう。
少年の無垢な記憶に刻んだ気分は、一般に原体験と呼ばれますが、この原体験 というものは、われわれは過去にあるように思いますが、あんがい人間が大事な 未来の目標を立てる場合に、彼の原体験を原形にして立てていると思うのです。
つまり原体験というのは過去にあるわけではなくて、いま申し上げたような意 味では人間の未来にあるともいえます。
これは、とても助けになる言葉だと思いませんか。本当に大人になってしまうと、
人生は暗い、物事がうまくいかなくたってそれが人生というものだからしょうがない んだというふうに思いがちですけれど、そう思わないでいなければいけないですよ ね。現実を覆っている暗さはとても厚い。児童文学のなかには、とりわけ YA とい われている領域には非常に暗いものが多くあります。最近では絵本のなかにも、子ど もの本としては不適切な要素だとしてかつては退けられていたものが登場している。
例えば、死。そこでキム・レイノルズが Sleepless というタイトルで紹介しているの が、『すいみんぶそく』という長谷川集平さんの本。長谷川集平さんは、皆さん、も ちろんご存じよね。日本の優れた絵本作家です。この睡眠不足の少年はなにを見たか というと、見ただけじゃなくて寝られなくなってしまったんですよね。それは、今ま
で元気だったおじいちゃんが亡くなって、
だけど、おじいちゃんは 霊柩車に乗せられて行ったきり 帰ってこなかった。
ぼくらはみんな、ああやって 行ったきりになるんだろうか。
おじいちゃんのいない家。
ぼくのいない世界……。
霊柩車の絵が描いてある。『すいみんぶそく』。子どもが死ということを念頭に置か なくてはならなくて、寝られなくなってしまった。そういう子どもだっているんです ね。私の母なんかも、よく寝られなくなったとはいっていないね、寝たもんね、あの 人、たぶん。私は死について考えない日は一日だってないのよと威張っていましたけ れども。でも、おじいちゃんがいなくなった、そして、霊柩車に乗っていってしまっ たきり帰ってこない。それを絵本にした。それをキム・レイノルズはちゃんと本のな かで使っているんですね。
それから、例えば、「とても理解しにくい」、「どういうふうに判断したらいいかわ からない」という〔本〕。トミー・ウンゲラー〔Tomi Ungerer〕という人をご存じで しょう。この人の絵本で、『あおいくも』というのがあるんですけれども。あおいく もは、小さいときからすごくのんきな雲で、だんだん、だんだん太って大きくなって いくのね。でも、全然意に介さないでいたから、どんどん、どんどん大きくなってし まって。ところがあるとき、なにが起こったかというと、下界でとんでもないことが 起こったんですね。戦争かなにか。戦争とは書いていないのね。皆が殺し合ってい たって。白い人間が黒い人間を殺しまくる。黒い人間が赤い人間を殺しまくる。赤い 人間が黄色い人間を追いかける。黄色い人間が白い人間を追い回していた。それをあ おいくもは見てしまった。どうしたらいいだろうと思った。それで、あおいくもは 雨を降らせる。最後の方にどうなるかといいますと、どんどん雨を降らせているうち に、あおいくもはなくなってしまうのよ。そのために、この絵本をどのように理解し たらいいかということが問題になって、これは自殺ではないかとか、そうではなく人 助けのための崇高な行為だという評もある。そのようなことも、キム・レイノルズは 書いていますね。それで、彼は下界で起こっていることを見て大事な決心をしたと いっている。どんどん、どんどん雨を降らせていって、そしてすっかり彼はいなく なってしまう。このように、絵本の世界にもすごく大きな変化が現れてきている。ト ミー・ウンゲラーはもっといろいろなものを書いていますから、すごく優れた絵本作 家ですけれどね。トミー・ウンゲラーだけじゃないですよね。だから、絵本の世界に も、もう研究する材料は山程ある。もちろん文学の世界にも山程ある。
ですから、やはり人生は暗いばかりじゃない。暗いよといって済ませればいいとい うものでもないんですよね。人間は大昔から、実はやはり生きようと思って生きてき たんだと思うんです。だけど、現実はそんなに簡単にいかないじゃないかというのは もうすごく大方の人たちの信念にまでなっているから、世の中はそんな甘くないじゃ ないかとばかりいわれてしまう。だけど、そうじゃないですよね。だから、たぶん皆 さまのように児童文学に興味をもってくださった方々は、そういう人間の生への思考 というものを大事に思って、その要素に惹かれて児童文学を勉強しようとお思いに なってくださったんじゃないかなというふうに思うのね。
少なくとも私にはもう時間がないから、自分の本に書いたことは皆さまが読んでく ださることを当てにして申しませんけれど、小川さんがさっきいったみたいに、たわ いないことであっても楽しいことは私の子どもの時代になかったんです。私の最大の 今の課題はなにかというと、もう母は亡くなって久しいんですけれど、しかもやたら 有名になって面倒くさいんですね。面倒くさいとはなにかというと、私が著作権を もっているものだから、やたらと NHK からなにを使うだのといわれるんですよ。で すから、もういい加減にしてと思って、そのうちに全部著作権を寄付してしまおうと 思っているのね。でも、やはり私は残念ながら、母に対して愛しているといえないの よ。これは辛いことなんですけれど。では、恨んでいるかというと、恨んでいるとも いえないのね。その一世代前の祖父と祖母については恨んでいる。母のことを最近書 いてくださった方があって、そこでそういうことをもうちょっとちゃんと掘り下げな くては駄目ではないかと私は思っているんですけれど。祖父と祖母はある時期別れ た。母が 4 歳、年子の妹が 3 歳のときで、長男は学齢に達していたかもしれないです けれど男の子がいたんです。 3 人の子どもがあった。それで、祖父は金持ちの医者 だったんですよね。なんだか知らないけれど彼らは別れた。祖母には、私は会ったこ とないのよ。母も会ったことがないんですよ。会ったことはあったと思うんだけれ ど、 4 歳だから覚えていないでしょう。結局、子どもたちはばらばらに預けられた の。だから、母は、母親にかき抱かれたという記憶がない。実をいうと、私だってそ うなんですよ。彼女は20歳で結婚して、21歳で私を産んで、それで父親が九州大学で 学位をとるために福岡に行きましたから。私は、しょっちゅう子守さんの背中にくく りつけられていたらしいんです。いったい母はなにをしていたんだろうなと思うんで すけれど。要するに、祖父がすごい金持ちだったから、それは母の口から聞いたこと があるんですけれど、当時の東京大学の総長がもらう月給ぐらいのものを毎月もらっ ていたらしいの。いったいなにに使ったんだろうなと思っているんですけれどね、彼 女は白状しなかったからわからないの。だから、私は彼女に向かってなにかものをい うことができない。だから、恨んでいるということもいえない、適当な言葉ではな
い。でも、もういなくなっちゃったんだから、どうしようかなと思っているんですけ れどね。そのうち、神父になった彼女の孫に聞いてみようと思っておりますけれど ね。だから、そのように世の中がとても暗いなかで、私は子どもの頃に児童文学作品 のみならず、文学作品に触れることで生き長らえてきたと思うのね。それで、私は非 常に要領が悪いの。あっちへぶつかったり、こっちへぶつかったりして、先生方のい うことは全然聞かないから、ものすごくバッシングされていましたしね。十何年も講 師のままで据え置かれた。それは全然なんでもなかったんですけれど。なんでもない 顔をしているから、余計憎らしかったらしいんだけれど、でもすごいバッシングに あっていましてね。本当に、読むものの世界に入り込んでいるときぐらい幸せなこと はなかった。それは、どうしてかといったら、やはりそのなかに本当に人間が人間ら しく幸福な生き方をするための具体的なイメージがあったということです。これはイ メージがないとね。ということは、お手本がないとなかなか思いつかない。もうそん なことは古いじゃないですかといってもらいたくないのね。だって、親きょうだい、
もちろん祖父母でもいいんですよ、友人、知人、そういう人たちといいコミュニケー ションをして、そして、その方たちが困っていたらお助けする、慰める、それから向 こうからも慰められる、そういう関係をもつということが人間の幸せなんじゃないか なと私は思いますから。そういうものが私が読んだもののなかには、たくさん具体的 なイメージとしてあったから、私は生き長らえたと思うの。ですから、そういうこと をいいたくて今日は伺ったんですけれど。やっぱり、そういう対人関係のとても肯定 的なあり方というものが成り立つためには、そのそばに愛というものがなくては駄目 なのよね。だから、どうやったら人を愛せるか、これは人間の永遠の課題ですけれど も。私はちっともそれに到達していないから、悪いと思っていますけれど。
やっぱり物事をするときには手順がいるし、手順の前に動機が必要だし、動機があ るならばその動機に従って、なにをどのように具体的に形にしていくか、人に理解し てもらえるものにできるか。そして、なによりも私は、さっき申しましたように、イ ギリスの児童文学史と日本の児童文学史を並べてみて、例えばキム・レイノルズがい うように、モダニズムという言葉である時期を切り取る。彼女がモダニズムの先頭 として挙げているのが、これも面白い本ですよ。Alice to the Lighthouse: Children’s Books and Radical Experiments in Art というデュシンベリー〔Dusinberre〕という 人の本ですけれども、このデュシンベリーはモダニズムの一番先の児童文学はルイ ス・キャロル〔Lewis Carroll〕だといっている。ルイス・キャロルが出たことによっ て、子どもの文学の世界は大きく変わった。そして、この人の面白いところは、そこ にとどまらずに、その後にきた数々の有名な詩人や文学者たちがその子どものために 作品を書いているのね。これはとても大事なこと。これはすごく面白い本。これは手
書きで、その頃35ポンドで買ったんですよね。私は、しばしばロンドンの古本屋に 行って、チャリングクロスのあたりにたくさんの古本屋があるんですけれど、その 古本屋のひとつに入っていったら、すごく意地悪そうなじいさんがいて、じろっと 私を見て、ハンドバッグ、その他はそこへ置けというの。私、別に本を盗もうと思っ ていないのにねなんて思って、嫌なやつと思ったんですけれど。それから、いろい ろ探して、なかなか面白い本を見つけたので、まとめて送ってもらったりしている うちに、だんだん仲よくなりまして。でも、一番残念だったのは、最後にサトクリ フ〔Sutcliff〕さんと会う約束をしていたときに、彼と会わなければならない用があっ て、出かけなければならなくて、そのときサトクリフさんはもう亡くなっていたんで す。亡くなってお葬式の日だったんだけれど、私はお葬式に行きたかったんだけれ ど、ピーター・ストッカムというおじさんだったんですが、そのピーターが待ってい るから行かなければならなくて、あの日は悲しくて本当にくちゃくちゃになりました ね。そうやって、探し当てた本というのがあると、これはやはりそばに置いておきた い本で、読み返してみるといろいろなことを改めて発見する。だから、本を 1 冊買っ て、これでいろいろなことがわかってよかったと思ってはくれぐれも駄目で、何度も 何度も読まなくてはいけない。もう本当に読み返すといろいろなことがまたわかりま すでしょう。やっぱり、手順よく事を運ぶためにさっきの本がある。研究というもの は、こうやるとちゃんとできますよという本があるんだから、もっていれば便利じゃ ないですか。それから、研究の領域にはどんな問題がありますかといったら、さっき の Keywords for Children’s Literature をもっていたらいいと思う。私がまだ在任中 だったら、大学院の人たちのひとりひとりにもってもらいたいと思うくらいよ。そう すると、児童文学の研究にはどういう領域があって、どんなふうなことが研究できる んだろうかということがわかるでしょう。ところが、なかなか難しいのは英語です。
皆さまも語学はしっかりと勉強なさっていただかなくてはいけないのよね。私も決し て大きなことはいえないですけれど。お料理だってそうですけれど、今日はなにか作 ろうと思って、いろいろなお野菜を切ったりなにかしても、ではこれはいったいなに になるのって、ただ並んでいるだけではどうにもならないでしょう。これは何々にす る、そうしてそのためにはどういう手順でやるかということを考えなくてはいけな い。だから研究というのは本当に、人にわかってもらわなくてはいけない。人にわ かってもらわなくてはいけないし、わかってこれは意味があるなと思ってもらわなく てはいけない。そういうものを作るのが研究というものですよね。
だけど、ここにいらっしゃる方のすべてが研究者になる必要は無いの。研究者にな る必要はないとはいわないけれど、研究者でなくてはいけないとは思わなくていいと 思うのよ。自分の人生のどこかで児童文学というものに触れたということを、心のな