• 検索結果がありません。

三和

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2022

シェア "三和"

Copied!
51
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

はじめに

政策決定の機関

H

首相と外相

国軍部︵以上本号︶

政策決定の過程

H

0

1二四日

1三一日

1

おわりに

渡 _—ブルム内閣とスペイン内戦ー_ー

干 渉 政 策 の 決 定 過 程

三 和

4 1  

(2)

採択 した

フランスは孤立を深めイギリスヘの依存の度合を高めざるをえなかったので

かかる重要性を有するスペイン内戦に対し︑

ブルム人民戦線内閣は不干渉政策

l a

p o l i

t i q u

d e  

e   n

o n ' i

n t e r

v e n t

i o n を

八月八日のことである︒初め首相ブルムがスペイン人民戦線

F r

e n

t e

p o

p u

l a

r の支援に傾いていただけに︑

不干渉政策を決議したブルム政府の意図について当時からさまざまな描摩憶息がなされていた︒

一方的不干渉に踏み切った三週間のあいだに何があったのか︒

府への援助を控えるようにイギリス保守党内閣から圧力が加えられたからであるとか︑援助を強行すればフランスも

スペインの前轍を踏み内戦に陥る危険があったから等々と言われていたのである︒ 援助の要請を受けた七月二

0

日か

ら︑

ベルギーや小協商諸国の離反を促し︑

(2 ) 

ある

ンスの集団安全保障上︑ゆゆしき事態を惹起した︒

て ︑ 的爆発 を顕在化させる最初の事件となった︒また総選挙︵四月二六日ー五月三日︶

l ' e x

p l o s

i o n

s o c i

a l e

スペイン内戦は一時的ではあれ統一を回復し勢力を挽回する好機となったのである︒さらにスペイン内戦はフラ

とっ

て︑

﹁黄 金世 紀

s i g l

d o

e   o r

﹂以来ヨーロッパ史の傍流に位置していたスペインは︑一九三六年七月︑再び国際政治の焦点とo

化し

た︒

スペイン内戦の勃発である︒

いわばパンドラの箱であった︒結論から述べれば︑

は じ め に

つまり不干渉政策の起源と背景に

︵ブルム︶によって屏息を余儀なくされた国民戦線

F r

o n

t n a

t i o n

a l ︑反人民戦線派にとっ

フランス政府の対応は︑既にラインランド事件から始まっていた

スペイン共和国から

スペイン共和政

で敗北し五月から六月にかけての

﹁社

会 スペイン内戦はフランス人民戦線内に潜在していた亀裂

スペイン問題は誕生してまもないフランス人民戦線内閣︵六月四日に成立︶

︱二

3 ‑ l ‑124 (香法'83)

(3)

︵既ち直接圧力説の否定を意味する︶が︑筆者もフランスの国内 環境を重視する立場に賛成であり︑平瀬教授の見解をおおむね肯定するものである︒しかし筆者はさらに第五︑第六 の理由を付け加えたい︒第五の理由は四のいわばメダルの裏面に当るものであるが︑人民戦線政府の解体を回避した

平瀬教授は四の要因にウェートを置いておられる

(四)(三)

閣内での急進党の反対とその背後にあるフランス国内世論の分裂︒ 援助競争がヨーロッパ戦争に発展することへの恐怖゜

口武器供給に対するイギリス政府の否定的反応︒

(一)

ランス政府の至上命令であったからである︒ に対するイギリス政府の態度が︑

︱二

について︑平瀬徹也教授は次の四点を指摘

関心が集中されてきたのである︒起源の問題に関しては︑イギリス政府の圧力を強調する説とフランス政府の自主性 を重視する説とがあった︒イギリスから圧力が行使されたとされる場合は三度あった︒第一に七月二三日のロンドン における仏・英・ベルギー三国会談︑第二にダルラン海軍少将

v i c e

' a m i

r a l

D a

r l

a n

とイギリス海軍本部との協議︑第 三にパリ駐在イギリス大使のデルボス外相への働きかけ

d e

m a

r c

h e

の三度である︒後述するようになお微妙で不透明

さてブルム内閣が不干渉政策を決議するにいたった要因︵背景の問題︶

(6 ) 

されておられる︒

無制限の援助競争ではフランスは工業生産力にまさるドイツに匹敵できないとの認識︒

フランス政府のイニ

な問題を残しているとはいえ︑最近の研究によればイギリス政府の直接圧力説はほぼ否定され︑

(5 J)  

シアチヴによって不干渉が発案されたものであることが明らかにされた︒圧力説は否定されたとはいえスペイン内戦

フランスの外交政策を決定する際の重要な一要素として考慮されたことは言うまで もない︒なぜなら仏英協商

E n

t e

n t

c o e

r d i a

l e を維持することはケー・ドルセー

Q u

a i

d '

O r

s a

y の外交目標であり︑

(4)

ておきたい︒ 最も重要であったと考えている︒ 一方的不干渉を急いだのも分裂回避の願いからであった︒

つまり人民戦線の維持︑存続という組織利

いという願いである︒援助を強行すればブルム政府は崩壊し︑

り悪いものとなりかねないという懸念が存在したのである︒辞意を洩らしていたブルムが思いとどまったのもこのた

めであったし︑

益が国際連帯というイデオロギー利益にまさったのである︒それにもし不干渉協定が列強によって遵守されるなら︑

スペイン共和国にとって不干渉は必ずしも不利ではなく︑紛争を局地化することができ︑

しうるという希望もあったことであろう︒第六の理由は口とも一部関係するものであるが︑

との連関である︒政府および外務省がこの時期︑

り現状維持の政策︶

フランス外交の機軸としたものは仏英連帯による平和の確保︵つま であった︒ところがスペイン共和国への武器引渡しがもたらすものは︑対立ブロックヘのヨーロ

ッパの分裂であり︑それはフランス外交の機軸に背馳するものであった︒不干渉政策こそが︑フランス外交の統一性︑

一貫性を保証したのである︒

のタイプの政治家ではなかった︒

その後継政府はスペイン共和国にとってブルム政府よ

そのうえ内外の平和を維持 フランスの外交政策全体 フランス政府は不干渉以外の政策をとりえなかったのである︒なぜならリスクの大きい

政策を決定しうるのは官僚ではなくて︑強固な意志とリーダーシップを持つ政治家であったからである︒ブルムはこ

. . . .

. . .  

ともあれ筆者は不干渉が決定された八月上旬の時点では︑口と四と国と因の理由が 本稿は以上のことを明らかにせんとするものである︒外交政策の決定モデルの枠組を援用しつつ政策決定中枢の動

(8 ) 

きを分析し︑不干渉政策がアウト・プットされるプロセスとその理由を検討せんとするものである︒なお続稿におい て決定中枢の環境因子である政治集団・社会集団の意見を分析し︑不干渉政策の構造を描く意図であることを付言し 本論に移る前に不干渉政策の研究が人民戦線史に占める位置について︑換言すれば︑人民戦線史における外交政策

︱二

3 ‑ 1‑126 (香法'83)

(5)

払 底

きる者に鋭く回答を迫っている︒

︱二

(9 ) 

二月六日が内政の新時代を切り拓いたように︑三月七日は外交の新時代を画した︒確かに三

0

年代のフランス外交

を回顧したとき︑三月七日が重大な転機であったことに異論の余地はない︒ラインランド事件によってロカルノ体制

( 1 0 )

1 1 )

 

は終焉し︑フランスは同盟国の信頼を失い︑国際政治のアクターとしては﹁二流国﹂に転落し﹁眠れるパートナー﹂

と評された︒バルトゥー

L o

u i

s B

a r

t h

o u

外相が試みたドイツの孤立化を目的とする安全保障政策は崩れ︑フランスは それではなぜラインランド事件後三カ月して誕生した人民戦線内閣は︑外交上の体勢立て直しができなかったので

あろうか︒ドイツが外交攻勢を本格的に始動させたのは︑人民戦線政府のときであった︒スペイン共和国を見すて︑

独澳合併

A n

s c

h l

u B

を黙認し︑ミュンヘン協定を承認したのも人民戦線政府であった︒なにゆえに人民戦線政府は︑イ デオロギー的にも対立するヒトラー・ドイツに対抗しえなかったのか︒

ショータン

C a

m i

l l

e C

h a

u t

e m

p s ︑ダラディエ

E d

o u

a r

d   D

a l

a d

i e

r の各政府が人民戦線政府の名に真に価しないとしても︑社会党首班の第一次レオン・ブルム

L e

o n

Bl

um

内閣になぜ体勢の立て直しができなかったのか︒このような問いは単に歴史家の興味の次元を越えて︑現代を生 さて如上の問いはなぜ人民戦線は国際場裏でイニシアチヴをとることなく崩壊したのかを問うことに帰着するであ

ろう︒さまざまな要因が考えられる︒経済政策の失敗︑硬直した軍事戦略思想︑国力の基礎となる人的物的諸資源の フランス人を捉えた平和主義という社会心理的要因等々︒これらの理由のあるものは人民戦線政府の選択の範 囲を制約し︑あるものは人民戦線政府の権威を掘り崩し失意を生み出すことに寄与したであろう︒しかしわれわれは

崩壊の直接の理由を内政の失敗によりも国際事件の衝撃に求めることができる︒なぜなら人民戦線は﹁国際事件の暗 自国の安全すら脅かされるにいたり︑四

0

年の潰乱

d e

b a

c l

e を迎えるにいたるのである︒ 研究の意義について述べておきたい︒

(6)

( 1 2 )  

雲によって窒息させられた﹂

人民戦線を崩壊にいたらしめたのである︒従って国際事件の衝撃に対するフランス国内の反応やその事件への人民戦 線政府の対応を考察することは︑人民戦線の崩壊を考究することにつながる︒それは人民戦線を葬った急進党の行動 を見 ると き︑

からである︒突発する国際事件が人民戦線の裂縛を押し拡げ︑人民戦線に宥和を強い︑

三八 年一

0

月︑形骸と化していた人民戦線を葬ったのは急進党であった︒

産党批判を展開し︑

翌 一

一月の人民連合全国委員会の会議で︑急進党の代表は

( 1 3 )  

であり﹁これ以上︑同席することを拒否する﹂と訣別を宣言したのである︒人民戦線を離脱する理由として急進党が

挙げているのは︑与党たる共産党の反政府行動への不満であって人民戦線政府の社会経済政策への不満ではなかった︒

( 1 4 )  

三七年二月に人民戦線綱領の停止

l a p

a u

s e

が宣言されたが︑﹁暗々裏の停止

l a p

a u

s e

m p   i

l i c i

﹂は既に三六年九月かt e

ら始まっていたことを考えれば︑急進党のこの態度は当然ではある︒しかも上院財政委員会では︑急進党のジョゼフ・

カイヨー

J o

s e

p h

C a

i l

l a

u x

が綱領のサボタージュに努めていたからである︒

フランス・ジャーナリズムの関心を集め

急進党は共産党の反政府行動が秩序への脅威となったと判断した︒﹁ファシスト・リーグ﹂に対しては秩序の擁護者

であった共産党も︑再び秩序の破壊者となったと急進派の目に映ったのである︒共産党と急進党がこの時期︑最も対 立するのは外交政策の領域であった︒共産党は三六年の秋から政府の外交政策を批判し︑三八年一月にはイヴォン・

の罷免すら要求している︒他方︑急進党も共産党のスペイン共和国援助キャ

デルボス

Yv

on

D e

l b

o s

外相︵急進党︶

ンペーンには苛立ちを覚えていた︒三六年一

0

月の怠進党大会を前にして︑

たのは急進党と共産党との関係がどうなるのかということであった︒また同年︱︱︱月には急進党のジャン・ミストレ

J e

a n

i   M

s t

l e

r 下院外交委員長は急進党議員団の総会で︑不干渉政策を再び問題にせんとしている共産党の態度に遺憾 一層明らかとなるであろう︒

﹁共産党とのあらゆる協力は不可能﹂

マルセイユにおける党大会で急進党は共

︱二

3 ‑ 1 ‑128 (香法'83)

(7)

︱ 二 九

( 1 6 )  

の意を強く表明し拍手喝采を浴びていたのである︒外交政策をめぐる人民戦線内部の対立こそ︑人民戦線の主要な分 裂因であったわけである︒突発する国際事件は政党間のみならず︑社会党のごとく一政党内部にも亀裂をもたらし人

民戦線の解体を促したのである︒

人民戦線政府にとって︑

かかる国際事件の最初のものがスペイン内戦であった︒しかもスペイン内戦は人民戦線政

府が誕生してまもない時期に勃発し︑人民戦線が崩壊するまで人民戦線を悩ませ続けたのである︒

閣の努力を徒労に終らせたのである︒ スペイン内戦に対

するフランス政府の対応は︑ますます独自の外交を阻害することとなり︑集団安全保障を再構築せんとするブルム内

スペイン内戦が人民戦線政府の外交上の体勢をさらに悪化させたのであった︒

悪化した体勢はショータン内閣︑ダラディエ内閣と経るにつれて一層︑復原力を失っていったのである︒スペイン内 戦の衝撃の大きさが諒解されるであろう︒スペイン内戦に対するフランス国内の反応の中に︑既に戦争の忌避︑ドイ ツヘの宥和といった社会心理的要因を看取することができるのである︒従って不干渉政策は単なる一外交史的事件で あるにとどまらず︑フランス人に与えた社会的心理的影響という点で﹁ミュンヘン﹂に通ずる事件であった︒換言す

( 1 7 )  

れば不干渉政策に見られるフランス国内の反応は﹁ミュンヘン﹂の原型とも言いうるのである︒以下において筆者が 不干渉政策の構造を明らかにせんとするのは︑人民戦線の崩壊︑さらにはフランスの潰乱を解くひとつの鍵があると 考えるからにほかならない︒わが国ではかかる観点から人民戦線の外交政策を論じた研究はいまだ存在しない︒宥和 政策の研究もイギリス︒サイドのものが質量ともにフランスを圧倒している︒しかしフランス人民戦線の崩壊という 視角を導入したとき︑人民戦線の外交政策の重要性が新たな相貌を帯びて浮かびあがるのである︒人民戦線の外交政

( 1 8 )  

策を研究する意義は︑ここに存するのである︒

3 ‑ 1 ‑129  '83)

(8)

( 3 )  

( 2 )  

( l

)  

ケースを加えれば︑ ﹁黄金世紀﹂以来スペインは衰退

d e

c a

d e

n c

i a

フランス離れは次のようにして生じた︒ロカルノ締約国たる隣国ベルギーは︑

中立政策への復帰を宣言した︒チェコスロバキアは三六年八月にドイツとの恒久的な平和協力関係の必要性を声明し︑

不可侵条約の締結をドイツに打診している︒ルーマニアでは三六年八月に親仏家

f r

a n

c o

p h

i l

e の外相が退陣した︒またユーゴスラ ビアも三六年九月にイタリアと経済金融協定を結び︑翌年三月に不可侵条約を締結した︒ブルム自身三六年六月にこれらの国々の 重要性を次のように位閥づけていた︒﹁かれらの安全はわれわれ自身の安全の一要素である︒丁度われわれの安全がかれらの安全 の不可欠な一部であるように︒﹂従ってこれら同盟国のフランス離れは︑

19 36 . 

)

t

一三

と称されて フランスにとって深刻な事態をもたらすことになるわけ

C f . ,

  M a

ur

ic

e  B

au

mo

nt

, 

1d

f d

i l

[ i

[ c

d e

l d

P L

I9

I8

19

39

t̀

om

e  I I  

1936 

19 39 ,  3e 

e d .  

( P a r

i s ,  

19 51 ).  p p

7.  

32

7 38 .,

P i  

e r r e

 

R e

n o

u v

i n

, "

L a

  p o l

i t i q

u e   e

x t

e r

i e

u r

e   d

u  pr

e m

i e

r   g

ou

ve

rn

em

en

t  L

eo

n  B l u m ' ̀

` i n   C o l l o q u e .

e   L

on

  Bl

um

  ch e f  

d e

  go

uv

em

n l

C ) n I

( P a r

i s   ̀ 

19 67 ),  p .  

34 9. , 

L'

CE

um

e

d e

  Le

on

  Bl

um

,  t

om

e 

I V

119341937

( P a r

i s ,  

1964), 

p .  

36 1. , 

Le

  Te

mp

s,

21  

a o

u t

  1

93 6,   3 1

 a

o u

t  

このほかにもチャーチルからブルム首相に︑

ボールドウィン首相からルブラン大統領に警告がなされたとも言われるが真偽は不 明である︒ラクチュールはチャーチルがその夏︑何度かブルムを訪れたと記している︒チャーチル自身は回顧録の中でコルバン駐 英大使に七月三一日︑個人的責任で文書を送ったことを明らかにしている︒チャーチルは仏独の武器援助競争が始まれば︑英国の 有力分子はドイツに好意を抱きフランスと疎遠になるだろうと迩べ︑厳正中立をフランスに要求したのである︒ともあれこれらの

イギリス政府から圧力が行使されたとされる場合は五度となる︒この二度の警告については︑平瀬徹也﹁不干 渉政策の成立についてーーーフランス外交文書集を中心に﹂﹃東京女子大学読史会﹄第二四集︵一九七二年︶六ー八頁を参照のこと︒

一月には 一九三六年一

0

月にフランスとの同盟条約を破棄し

﹁アフリカはピレネーから始まる﹂︵アレクサンドル・デュマ︶

3 ‑ 1 ‑130 (香法'83)

(9)

*ギ-'t--~~0::や竺JeanLacouture, Leon Blum (Paris, 1977), p. 355. ~ キ—~~『抵I]~+<釜回厖啜e<U世エ涵巨~-

l兵臣兵母)lギー1<賦゜~~!L.."""",¥G檸甘口:10:,や芸T~moignagede M. Jimenez de Asua, in Leon Blum chef de 

gouvernement, op. cit., p. 4JO 

("<t') h~ ~..,;i)如全や-v-G-<み~~ざ卜入G菱条如l'amiral..lJ,....)い二心閤I',\~,\ r<~ 奴以笠認は竺社以S忌▽基ィll̲;:; 

ゃ.:: "°  ゜

(Ln) CL Robert J. Young, In Command of France.French Foreign Policy and Military Planning 1933‑1940 (Cambridge, 1978), 

pp. 136‑142 .. Jill Edwards, The Bn.tish Government and the Spanish Civil War 1936‑1939 

Carlton, "Eden Blum and the Origins of Non‑Intervention", Journal of Contemporary  (London, 1979), pp. 15‑30., David 

History, VI no. 3 (1971)., M.D. 

Gallagher, "Leon Blum and the Spanish Civil War", Journal of Contemporary History, VI no. 3 (1971) ., Geoffrey Warner, 

"France and Non‑Intervention in Spain July‑August 1936", International Affairs, XXXVIII no. 2 (1962). ~ 葉担却「怜片楽

濫擬S笞料~0.:い」

i

忌翌攣'匝出「't',~ ~ 翌翌刈K0('<;‑,¥ ‑E: 活ー一勾▽旦怜+栄S笞料如廿合旦ー一」『屯批製粧、i<ll曲

(1

兵K目ltt‑)

i,¥

苗笑;fJ刈゜ギ,ヽヽS螂細芸

l

兵判I]母8:;;1獣其筈Colloguefranco-britanniqueは惑丑初~+.!漉縄似(C.J.Child, 

Great Britain France and Non‑Intervention in Spain July‑August 1936., Pierre Renouvin, La genese de !'accord de non‑

intervention dans la guerre civile espagnole aout 1936.) 如全面モ火全S~t-0゜判1lll¾-8:8枢起癒竺桜平全'K~キ,ヽヽS

攣竺掌躙や4Ql'Qo I‑¥'.:.L. t:'‑‑'t<Q榔艦芸ャ冷="K溢迄Q(‑4以細'籠萎如嗣掴旦圧二やfJQ臣國!l..iJ 

I'‑‑‑""

ロー*如揺i{:+.! S~l'Q

片隠添~E;漉計馬洲竺'兵活囲旦沿二やK-t+-楽溢掘如~vi-0詭臣園旦濫氾叔孟罹低如呂•i<+.:! ~lilt孟継繋や~i-0゜好祖l±!兵蒋Q~

, 山叶ー・土ードK~柑蔀螂攣『K~~,\t四暉鑓』S忌姿心掘111姿心S猛浬S長刈賑旦祗趣約ごや.::i‑0

゜ <m:: 

ギエ゜(='鉗.j:ti"<;‑

=" r-<+<~ i卜~~K~正刈ぐ甘訳....).;..!匪'+<~竺嘔巡帯経如~....)や~~~出兵如全芯+.!..JJ~~ や竺国初ニャ;t{!茶抵111堵や竺iJQ

掴宦竺忌澁初ごや,;~Qや~~See,Hugh Thomas, The Spanish Civil War, first ed., Harper and Row Publishers (London, 

玉ぷ和︶ (Coo

ICI│I│c 

1  Ill  1 

(10)

( 9

)  

( 1 0 )   ( 1 2 )

 

( 1 1 )

 

( 7

)  

Sp an is h  C i v i l   W ar ,  o p . c i t   . .   5 6  

﹃琉大法学﹄第二六巻(‑九八

0

年 ︶

「宮僚政治モデル1その特質と評価ー~」『国際政治』五0 レアム•T・アリソン『決定の本質—ーキューバ・ミサイル危機の分析』宮里政玄訳

Le on   Bl um

  ou

a     l p o l i t i q u de   u  j u s t e   ( P a r i s  

̀ 

1 9

7 0 ) ,   p p 1 .   3   0

1

3 1

う印象を持っている︒援助派は少数派であったのである︒ 1 9

6 3 ) ,   p . 5 8   2

` .  

t h i r d   e d . ,   Pe ng ui n  B oo ks  ( Lo nd on

̀ 

 

1 9 7 7 ) ,   p p .   3 88

3 8

9 .

( 6

)

平瀬徹也﹃フランス人民戦線﹄

An dr e  S i e g f r i e d D,   e la   I l l e  

l a   JV e  Re pu bl iq ue   Al ex an de r  W er th ,  Th e  De s t i n y   o

f  F ra nc e  これはパリ駐在イギリス大使の言葉である︒

( P a r i s ,   1 9 5 6 ) ,   p .   6 3 .  

を参照のこと︒

三モデルに多くの示唆を得ている︒ジョゼフ・フランケル

1 1  

﹃外交における政策決定﹄河合秀和訳 一三七ー一五四頁︒

~

このほか進藤

への批判を意味

もっとも筆者はフランスの国内世論は深く分裂せず︑大半は武器供給に否定的で不干渉政策を積極的に支持ないし黙認したとい

このような筆者の考えはレオン・ブルムが一九四二年七月九日付けの手 紙の中で表明した内乱説︵不干渉政策を決議しなければ﹁フランスでは内戦が対外戦争に先行していただろう﹂︶

している︒これらの点については続稿で明らかにしたい︒

Vo ir

l e

t t r e

Su za nn e  B lu m,

  9 j u

i l l e t   1 9 4 2 ,   c i t e e   c l a n s   C o l e t t e   A u

dr y,  

( 8

) 外交政策の決定過程を分析するに際して︑包括的な枠組に関してはフランケルのモデルに︑決定中枢の分析についてはアリソンの

(L on do n 

̀ 1 9

3 7 ) ,   p .   2 2 9 .   Cl er k  t o  

Ho ar e, J  un e  Da

vi d  T ho ms on ,  D em oc ra cy n     i Fr an ce   si n c e   1 87 0, 5   t h   e d .  

0

年 ︶

所収︑宮里政玄﹁対外政策決定の分析枠組﹂

1 9 3 6

,   c i t e d i n     M .D .  G a l l a g h e r ,   Le on l  B um   an d  t he   ( O

x f o r d ,   1 9 7 7 )  

̀  p .  

2 0 0 .

  シューマンも人民戦線は外交政策の失敗で

3 ‑ 1 ‑132 (香法'83)

(11)

恋.;:;;~.:'I'瞑澁如心ぐい二l{l°FrederickL. Schuman, Europe on the Eve: the C'sesof Diplomacy 1933‑1939  1939), p. 27 4.  (New York, 

(~) Jacques Kayser, "Souvenirs d'un militant 1934‑1939", Cahiers de la R⑰ ublique, no. 12 (1958), 81‑82., Georges Lefranc, 

Histoire du front populaire 1934‑1938, 

ze 

ed. (Paris, 1974), pp. 278‑279. 

(;:!:) Ibid., p. 229. 送三さ「i"Ii" 

ぃ← ‑< 

Lrli挙蕊溢迄ミ#俎・姦姿溢栄ー::::三̲J:: 遮粘捏益』蒜l~ii'臣'E炉(1

+J<

ー斗兵母)

i,,

G, J刈゜迅王出3浬以竺令卜全~-K:翌S:;t:i改姦迄迄抵心心こ全¥へ可ヰ忌呈令$...)+.!{‑R:!±::~i-00

(臼)Daniel R. Brower, The Neu• ]acobins: the French Communist Party and the Popular Front (New York, 1968), pp. 200‑205. 

(;£) Le Temps, 22‑26 octobre 1936, voir les rubriques de Bulletin du J our et Revue de la Presse, 4 decembre 1936, p. 8. , JI Jや『ミ・

ぷ,\』S潔蕊孟垣垣はでこ¥JililIT

い谷.¥11)火二゜『~.ぷ,\』竺迷柑孟.(_-fi~宇華や紫tヒ活姦竺l!l]iく辻卜やキ]に活如ま忍沢心旦ヤご収)

匂全ぐ火゜

『全・ぷ八』~~w濫迄~~ー・ユギーS丑江孟海臣凶~l,.,_-1J~J.;;;¥‑J谷::;;:‑.wGギ紺竺竺笹濫迄S柑恙如:t:‑1七ヤ

心心祁叫;,~\J ̲: ‑t‑l゜,,,入キ~~., 入キr<.L令,*Jacques Chastenet (『抵I:j:.j(品溢淑』Histoirede la Troisieme Rublique,4 tomes 

S油押や.ii)~i-0)

l

i

zit‑造名茎四溢+<,;.̲̲‑nIJ如篇且心勾的『全・'<'.,¥』如帯ニャ~~如忌心tJt‑0 IいJ如廿:::-it:-<~..lJ痘''<

いこ心゜~~ 『~.ぷ入』竺,入キt<.L令,*~印,,

—~ •

II/ローEmileMireaux .1‑j返癒疇9澪遷蠍世塁四配

や,:¥':)QS涵臣

丑=玉湮や笹辻芝旦痣初~,;.__--,,I\叶—l'(~茫謡如翌学

いこ心゜

~Journal Officiel ,.JJ

ゃ芯゜『全・ぷ入』

guerre d'Espagne 

Pub.lie Opinion  I‑{'.::L..1, ー~.I‑{:::::‑, EdouardHerriot『→・ぷ,\』如ぶ声SI

竺抵l81½澤蕊~Jilim•i< i‑0 8や埒心~Cf.,David W. Pike, Les fran,・ais et la 

(Paris, 1975), p. 40., Charles A. Micaud, The French Right and Nazi Gennany 1933‑1939, a Study of 

(New York, 1964), p. 9, p. 242., Claude Bellanger, Jacques Godechot et al., Histoire generate de la presse 

francaise, tome III (Paris, 1972), pp. 558‑561., Jean‑Noel Jeanneney, Francois de Wendel en Rゆublique,!'argent et le 

歪ぶ和︶ (800

CIIIIC

1 11] II] 

(12)

⑪渡邊啓貴﹁一九三八年︱二月六日仏独声明﹂﹃法学研究﹄第五五巻八号︵一九八二年︶

(IO)  (9)  (8)  (7)  (6)  (5)  (4) 

(2)  ①植田隆子﹁東方ロカルノ案の形成︑ ( 1

8 )  

Po u0 0i r]  

914‑1940 

( P a r i s ,  

19 76 ) 

`  pp

. 

45 5 46 4.  

1975 

̀ 

p .  

7.  

一九六五年︶所収︒

( 1 7 )

当時空相であったピエール・コットも﹁不干渉は既にミュンヘンの前兆であった﹂と最近語っている︒

Le Moミ l e ,

2 1

n  

o v

e m

b r

e  

わが国の人民戦線研究は反ファシズム統一戦線視角という一面的アプローチから︑多様な視角による多面的アプローチヘと推移

してきた︒現在では人民戦線政府の社会経済政策の研究が盛んであるが︑本稿が人民戦線の外交研究の本格的幕あけとなれば幸い

である︒過去二五年間の一九三

0

年代のフランス外交に関する邦語文献のリストを掲げておく︒

一九三三年I三四年﹂﹃津田塾大国際関係学研究﹄四号︵一九七八年︶︒

斉藤孝﹁エティオピア戦争とラヴァル外交﹂﹃第二次世界大戦前史研究﹄︵東京大学出版会︑

﹁フランス人民戦線とその外交﹂﹃国際政治﹄第三五号︵一九六八年︶︒

浜口学﹁両大戦間期フランスの外交指導ーーー不安定の中の安定ーーー﹂﹃社会科学紀要﹄︵東大教養部︑

平井友義﹁一九三五年・仏ソ同盟条約の成立をめぐる一考察﹂﹃国際法外交雑誌﹄第七

0

巻第二号︵一九七一年︶︒

平瀬徹也﹁ブルム内閣とスペイン内乱﹂﹃西洋史学﹄第六二号︵一九六四年︶︒

平瀬徹也﹁不干渉政策の成立について﹂﹃読史会﹄第二四集︵一九七二年︶︒

平瀬徹也﹁フランス社会党とミュンヘンの宥和﹂﹃社会思想﹄第一巻第一号︵一九七一年︶︒

山極潔「フランスの外交ーー—バルトゥー外交からラヴァル外交への転換を中心にー」『国際政治』(-九五八年)。

渡邊啓貴﹁ダラディエ政権下のフランス外交﹂﹃国際政治﹄七二号(‑九八二年︶

一三

OI

3 ‑ 1‑134 (香法'83)

(13)

第三共和政のフランスにおいて︑外交政策の決定に事実上

d e

f a c t

 

0

の権限を有したのは首相と外相であった︒憲法

的法律の規定によれば︑

六日

S e

i z

e

Ma

i ﹂事件後︑大統領は実質的権限を失い︑

ができあがっていたのである︒第三共和政最後の大統領アルベール・ルブラン

A l

b e

r t

L e

b r

u n

もかかる人物であり︑

もはやマクマオン元帥

m a

r e

c h

a l

d e

  Ma

cM

ah

on

に許されていた行動は不可能であった︒大統領に残された権能は内 政面では︑首相を指名し︑閣僚会議

C o

n s

e i

l d

e s

  m i n

i s t r

e s を主宰し︑内閣に助言を与えることなどであった︒しかし

首相の指名にしても大統領の専断は許されず︑結局は議会多数派の意思に従わざるをえなかったのである︒外交の分 野では︑大統領の権威の衰微は著しかった︒かつての外交全般に渡る広範な権限は名目的となり︑とりわけ一九一八 年後︑内閣会議

C o n s

e i l

d e

  c a b

i n e t

でも外交問題を取り扱うようになってから大統領は影響力をなくしたのである︒

大統領主宰の閣僚会議の場でもルブランは︑会議でリーダーシップを発揮して討論を自己の考えの方向に導くことも なか った

領の政策決定に占める役割は小さく︑﹁決定ゲーム﹂において 問題に関してブルムに助言を与えているが︑ 従ってスペイン問題についても︑

首相と外相

政策決定の機関

共和国大統領が条約の交渉・批准など外交全般に渡る権限を有していた︒しかるに﹁五月一

一般に立法府にとって安全で凡庸な人物が大統領となる慣習

ルブラン大統領が果たした役割は副次的であったと考えられる︒

かれの発言が首相に決定的影響を及ぼしたとは言いがたい︒

﹁ジュニア・プレーヤー﹂︵アリソン︶

一三

つまり大統

の地位を占める ルブランはこの

(14)

(N

ew

 

それでは外交政策の最高決定者たる首相と外相の閲歴︑

スペイン内戦に対する政策決定といった危機決定には︑

( l

)

閣僚会議と内閣会議について一言する︒閣僚会議は大統領が主宰しエリゼ宮で開かれる正式の閣議で︑大統領と大臣と次官から構

成される︒外交問題は本来ここで審議されることになっていた︒内閣会議は首相が主宰し首相官邸

H o

t e

l M

at

ig

no

nで開かれる非

公式閣議で︑大統領は臨席しない︒前者の閣議は法律に明記されており︑週二回開かれて︑執行権の行使にかかわる全問題を決定

した︒後者の閣議は一般政策や議会対策を審議した︒バルテルミィによれば︑閣僚会議でも大統領はただ出席しているだけのよう

で︑実際に会議を主宰し討論を指導し動議を可決させるのは首相であったという︒ただし決議が有効となるためには大統領の署名

を必要とするという事実のみが︑大統領の助言に重みを与えるものであった︒もっとも戦間期には署名が拒否されることはなかっ

たようである︒それに政策の執行には大統領の署名だけでは不十分で︑所管大臣の副署も必要であったのである︒

C f . ,

  An

th

on

y  A

da

mt

hw

ai

te

,  F

r a

n c

e   a

nd

  th e

  Co

mi

ng

f   o

h e   t

  Se

co

nd

  Wo

rl

d  W

m

1936‑

1 9 3 9

 (

L o

n d

o n

,  

19 77

)  , 

p .  

11 3. , 

F r

e d

e r

i c

k  

L .  

Sc

hu

ma

n,

W 

m︑ミ

nd

D i

p l

o m

a c

y  

i n  

t h e  

F r

e n

c h

  R e p u b l i c  

れる範囲で略述しよう︒

(3 ) 

く作用するからである︒

Yo

rk

, 

19 31 ) 

p .  

13 .,  (

Wa

r

an

d  D

ip

lo

ma

cy

J o

s e

p h

  ,  B

a r

t h

e l

e m

y ,

h  T

e  G

ov

er

nm

en

t  o

f   F r a n c

e ,

  t r .  

by

. B   J

.  

r r i s

  ( L

o n

d o

n ,

  1

92 4)

 

p .  

97 . 

( 2

)  

Ad

ri

en

  D a n s e t t e ,

i s   H

t o i r

e   d e

s   p r

e s i d

e n t s

d  

e   l

R a  

p u

b l

i q

u e

̀ 

 

d e

  L o

u i

s  

, N

p o / e o

n B

on

ap

r t e

i i  

V i

n c

e n

t   A

u r

i o

l  

( P a r

i s ,  

19 53 ) 

p p

.  

251252,273275.+八邸飢竿5

5

X

Jめぐってはこのほかに

A l

f r

e d

G r

o s

s e

r ,

a  L

 

/Ve 

R e

p u

b l

i q

u e

  e t  

s a   p

o l i t

i q u e

  e x t

e r i e

u r e  

( P a r

i s ,  

19 61 ) 

p .  

40 .,

S  

am

ue

l  M

.  O

sg

oo

d 

̀ :  

fh

e  T

hi

rd

  R e

p u

b l

i c

n     i

H i s t

o r i c

a l   P

e r s p

e c t i

v e " ,

n     i

G e

r a

l d

  N .

  G

ro

b  e d . ,  

S t

a t

e s

m e

n  

政策決定者のパーソナリティが大き

にすぎないと考えられるのである︒

外交 目標

︑ 状況の評価︑

価値などについて本稿に必要とさ

一三 六

3 ‑ 1‑136 (香法'83)

参照

関連したドキュメント

We allow these overlaps in all cases except in the case d = 2 where stabilisers of quadratic forms modulo scalars are C 3 -subgroups: we will not consider such groups as C 8

Complex formation is used as a unified approach to derive represen- tations and approximations of the functional response in predator prey relations, mating, and sexual

During his stay in Cambridge from 1969 to 1979, Sir James vigorously continued his teaching and research on acoustics, more and more wave propagation, geophysical fluid dy-

During his stay in Cambridge from 1969 to 1979, Sir James vigorously continued his teaching and research on acoustics, more and more wave propagation, geophysical fluid dy-

During his stay in Cambridge from 1969 to 1979, Sir James vigorously continued his teaching and research on acoustics, more and more wave propagation, geophysical fluid dy-

Although I admittedly do not understand string theory from a physical point of view, I do think (most of my colleagues from algebraic QFT do not share such optimistic ideas) that

Some examples include Gradstein’s 1925 direct extension of Sylvester’s 1888 lower bound of five on the number of distinct prime divisors of an OPN, as well as Dickson’s 1913

Using a bijection due to Bouttier, Di Francesco &amp; Guitter between rooted planar maps and certain four-type trees with positive labels, we derive our results from a conditional