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周 禮 を 中 心 と し て 見 た 中 國 上 代 の 訴 訟 制 度

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Academic year: 2022

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(1)語. 判. 官. 會. 田. 周禮を中心として見た中國上代の訴訟制度. 緒 言. 結. 裁. 言. 周禮を中心として見た中國上代の訴訟制度. 範. 一 ︵一︶. 治. 本論は周禮を中心として中國古代の訴訟制度の大要を見たものであるが︑しかし︑周禮の眞偽及びその性質につい. 古書経典の記載は春秋時代以前の歴史を傳えているのもあつて︑その典籍及びその記載内容の眞偽並にその典籍成立 ︵一︶ の時の到定は︑極 め て 困 難 で あ る ︒. くはないのである︒現存する多くの経典古書も︑傳えられているような古いものばかりではない︒しかし︑これ等の. 中國の歴史は股時代までに遡ることが出來︑その間における古籍も少くないのであるが︑信懸すべきものは鯨り多. 緒. 周禮に於ける訴訟制度. 訴訟 の 親 念 と そ の 字 義. 五 四 三 = 一.

(2) 周禮を中心として見た中國上代の訴訟制度. 二. ︵二︶. ぞは︑頗る議論があり︑康有爲︑銚際恒等の如きは︑その爲書たることを主張していて︑この説が相當信用されてい. るようであるが︑顧實︑董康の如きは︑眞書であるとしている︒今︑こ瓦に周禮の眞偽について論ずることを得ない. が︑一概にこれを劉散の偲撰と断ずることはできないように思われる︒周の制度が︑周禮の通りであつたことは信を. 措き難いが︑全部架空なものばかりではないであろう︒或は周箭の一部を取つてこれを理想化したものとも考え得る のである︒. かく周禮は問題の古典であるから︑これに基づいた本論は︑果して周代の訴訟制度であつたか否かは保謹の限りで. はないが︑しかし︑全然翻念的なものばかりとは言えないものがあると思われるから︑こ﹄にその大要を摘記したの である︒. 一例に︑書経の尭典−戦國時代の始めから孟子の頃までの間に成る︒眞古丈術書−漢の武帝以後に成る︒傭古丈樹書−戦國時. ︵一︶ 飯島忠夫博士は﹁古代世界丈化と儒教﹂に於て書中に蓮べられた天丈暦数の記事を考究して成書年代を考察している︒その. 禮−筍子の頃成る︒周禮−漢代に成る︒禮記ー戦國時代から漢初の間に成る︒論語i孟子以後漢初までの間に成る︒となし︑. 代に成る︒易経ー戦國時代に成る︒詩糎ー孟子時代に成る︒春秋ー職國時代に成る︒春秋左氏傳ー漢末の劉歌の手に成る︒儀. この他︑古典の眞儒の考謹を試みた學者は極めて多く︑娩際恒の古今儒書考︑︵顧實の重考がある︶康有爲の偽経考︑顧實の. 職國初期を上限とし︑漢初を下限として︑約三百二十年ぱかりの間に成つたものとしている︒. の論交がある︒. る左傳の眞儒及その性質○β夢①卜9ぎ暮憲身きq2即言お亀跨①頴○○ゴ︷5お畿︵漢課及邦課あり︶及中國古典の眞. 漢書藝丈志講疏︑四庫全総目提要中に記せるもの︑蒋元卿の校離學史︑顧韻剛︑鏡玄洞等の古史耕︑カーλグレーンの偉業た 儒円︸5卜9ぎ昌賦巳身9卜β包①暮O匡β窃o円舞諾. 二 訴訟の観念とその字義.

(3) 中國の古代人は︑訴訟は必ず起るものであり︑不可避のものであると考えていた︒自然現象は人間に重大な干係が. あるばかりでなく︑人間を支配するものであり︑自然の法則は人問を律するものであると考えた︒凡そ天は上行する. ことを本性とし︑水は下行するのが本性であるし︑太陽は東から出て西に浪するが︑黄河の流れは︑西に獲して東流. する︒この事實は相反する二つのものが互に存在することを知らしめるものである︒これと同じように︑人問肚會に. も利害相反する二つのものが存在する︒ここに箏訟がある︒帥ち︑利害相反することは︑天と水のように窮る所がな. い︒天道が西韓し︑水流が東注して攣りないように︑利害は涯しなく綾き︑甲人の利は乙人の害になる︒ここに箏訟. は不可避であり止まる所がない︒易経の訟の象に﹁象日︑天與水違行訟﹂とあるのがそれで︑その正義に﹁天道西. 韓︑水流東注︑是天與水相違而行︑相違而行︑象人彼此爾相乖戻︑故致訟也﹂とあるのが即ちそれである︒. しかし︑この際涯ない雫訟を︑凡て是認しようとするものではなく︑儒教は種々の制限を加えている︒例えば侵害. された利盆に封して復讐することを認め︑特に父の讐はともに天を戴かずとし︵禮記の曲禮篇︶︑復讐することは美. 畢であるとしているが︑王謙に復讐は不可であるとし︵春秋公羊傳︑大學術義補︶︑或は仇讐の調和をはかる方途を. 考えて︑私讐は禁ずべきであるとするに至り︑之が實際にも行われるようになつた︒これと同じように︑箏訟にも制. 限を加えられるに至つた︒翻ち雫訟は不可避であるとした易経も︑訟の象傳に於て︑﹁訟︑有孚窒︑暢中吉︑終凶︑﹂と. いって︑假に正嘗な理由があるとしても︑狸りに箏訟すべからずと戒め︑又交餅に於ても私情による雫訟を戒めてい. る︒又左傳︑僖公二十八年の條にある元嘔がその主である衛侯を訴えたように︑臣下がその主を孚訟するようなこと. 三. ︵三︶. があってはならないとされるに至つた︒又父のような奪長を訴えることもてきないものとされた︒萄子の宥坐篇に 周禮を中 心 と し て 見 た 中 國 上 代 の 訴 訟 制 度.

(4) 周禮を中心として見た中國上代の訴訟制度. 四 ︵四︶. ﹁孔子爲魯司冠︑有父子訟者︑孔子拘之︑三月不別︑其父請止︑孔子舎之﹂とあるのは︑父が子を訴えたのか子が父. を訴えたのか明かでないが︑父子の箏訟にあたつて︑司冠である孔子は︑何等の到決をなさずに三月も放置してその. 反省を待つていた︒所が父が箏訟を中止すべく講願したので︑孔子は之を放免したと︐いうのである︒. 次に︑訟の文字について︑若干の解読を試みるならば︑読文に. ﹁訟︑孚也︑公言也︑漢書呂后紀︑未敢訟言訣之︑郵展日︑訟言公言也︑杁言公聲﹂︑︵皇清経解巻六四三上段大令説. 交解字注︶とあつて︑雫は公言であるとしている︒ここにも私情による事は︑訟と構することが出來ないことを暗示. している︒訟は︑又訴︑遡︑悪と同義のものとしている︒齢ち説文に﹁訴︑訟也︑告訴冤柾也︒﹂とあつて︑訴と訟に. 同義語であるとしている︒しかし︑訟は雫であるという廣い意味があるのに反して︑訴が冤柾を訴えることをいうと. すれば︑訴は訟よりも狭い意味となる︒冤とは︑官吏の不當不法に受けた慮分をいうものであつて︑これだけを訴え るものを訴というとすれば︑今日の行政訴訟のようなものを訴ということになる︒. 漢書︑成帝紀にある建始三年九月の詔の中に︑﹁殆苛暴深刻之吏未息︑元元冤失職者衆﹂とあることや︑漢書百官公 卿表にある師古の引く漢官典職儀に︑. ﹁刺吏︵中略︶断治冤獄以六條︑問事︑非條所問印不省︑一條︑張宗豪右︑田宅瞼制︑以彊陵弱︑以衆暴寡︑二條︑. 二千石︑不奉詔書︑蓮承典制︑倍公向私︑毒詔守利侵漁︑百姓聚敏爲姦︑三條︑二千石︑不憧疑獄︑風属殺人︑怒. 則任刑︑喜則淫賞︑煩擾刻暴︑剥載黎元︑爲百姓所疾︑山崩石裂︑訳詳読言︑四條二千石選署不李︑筍阿所愛︑蔽. 賢寵頑︑五條︑二千石子弟侍枯榮執︑請託所監︑六條︑二千石違公不比阿附︑豪彊通行︑貨賂割損正令也﹂.

(5) とあることによつても冤の字義が明かであ葛.訴の用例としては︑五傳成公tハ年の墜﹁訴公於晋侯﹂と蓼. のがその一例である︒遡は憩と同じであることは︑戦國策に﹁衛君跣行︑告遡干魏︒注︑遡塑同﹂とあるのによつて. 察知し得べく︑叉怒は孟子︑梁恵王に﹁皆欲赴恕於王﹂とあり︑更に論語︑憲問篇に﹁公伯寮惣子路於季孫﹂ と見えているのがその例である︒た父しこの恕は識言である︒. 訴訟. 現在廣く極めて普遍的に用いられているものであるが︑後漢書︑陳寵傳が最も古いものである︒同書に. 次に訟の文字を含む熟語は極めて多いが︑その代表的なものを墾げて見る︒. 0. ﹁得出爲太山大守︑後轄廣漢大守︑西州豪右井兼吏多姦貧一︑訴訟日百轍︑寵到顯用良吏王漢鍾顯等以爲腹心︑訟ー 者日減︑郡中清粛﹂. とあるものが印ちこれである︒これが何時頃から法律語としてあらわれるに至つたかは明かでないが︑唐令には誤. ﹁凡訴訴皆從下始︑各脛前人本司本鵬︑若路遠及事蕨者︑経陵近官司断之︑断詫訴人不服︑欲上訴者︑請不理. りなく見えていたものらしい︒︵仁井田附博士の唐令拾遣参照︶この唐令を縫受した我が養老令の公式令に. ω. 歌︑以亥上陳︑若脛三日内不給︑聴訴人録不給官司姓名以訴︑官司准其訴歌︑印下推不給所由︑然後断決︑至太. 凡訴訟須有追撮封問者︑若其人延引逃避︑爾限不赴封者︑聴越次上陳︑印爲推治︒. 政官不理者︑得上表︒レ. @. 五 ︵五︶. とあつて︑ニケ條に訴訟の文字を使用している︒而して義解は﹁謂告冤日訴︑雫財日訟﹂としているので︑今日の 行政訴訟と民事訴訟とを総構して訴訟といつていたのである︒ 周禮を中心として見た中國上代の訴訟制度.

(6) ω. 六. ︵六︶. 國語︑巻二に﹁夫君臣無獄︵獄訟也ととあり︑禮記︑王制に﹁以聴獄訟︒﹂とあり︑又︑後漢書︑陳寵傳. 周禮を中心として見た中國上代の訴訟制度. 獄訟. に﹁笠高其能韓爲餅曹︑掌天下獄訟︒﹂. とあり︑又これを倒逆させた訟獄は︑孟子︑萬章に﹁朝観訟獄者︑不之盆而之啓︒﹂と見えている︒獄訟については︑. 周禮︑地官︑大使徒の職の鄭注に﹁箏罪日獄︑箏財日訟︒﹂とあるのを見れば︑今日の刑事訴訟にあたるものは獄. で︑民事訴訟にあたるものは訟であるとしている︒しかし︑左傳の僖公二十八年の條に﹁衛侯與元嘔訟﹂とある所. の大夫元嘔と衛侯と0事は︑財にあらずして今日の刑事訴訟である︒これは元瞳が衛侯を慶してその弟の叔武を立. てようとしていると衛侯に誕言する者があつたので︑之を信じた衛公は弟の叔武を殺してしまつたので︑元順は衛. 侯を奢に訴えたものであり︑結局衛侯は敗訴したが︑元嘔は衛侯のために殺されてしまつた︒この左傳の用字例. は︑財を雫うものでないのに訟の字を使用したのである︒又詩脛の召南︑甘業の章に﹁誰謂雀無角︑何以穿我屋︑. 誰謂女無家︑何以速我獄︑室家不レ足﹂とあつて︑これは罪を箏うものでないのに︑獄の文字を使用したのである︒. 質疏と黄度とは︑告訴する所の罪の大なるを獄といい︑その小なるものを訟というとしている︒周禮︑秋官︑大司. 憲の職の疏に︑周禮正義の引く黄度の言として﹁小日訟︑大日獄﹂とあるが︑これによると︑獄訟は今日の刑事訴. 水訟︑地訟︑陰訟. 雫訟の目的物が水であれば水訟︑土地であれば地訟で︑男女問の雪は陰訟といつた︒. 訟法にあたるものとして使用されていたことになる︒. 国. 宋史︑趙謄傳に﹁水訟威息﹂とあり︑周禮︑地官︑︵司徒︶小司冠の職に﹁地訟以圖正之﹂とあり︑同︑媒氏の職 に﹁凡男女之陰訟︑聴之干勝肚之肚﹂と見えている︒.

(7) ⑫ 其他︑餅訟は︑後漢書の陳寵傳に︑健訟は︑易経︑訟の象傳に︑事訟は︑魏書の辛雄傳に︑聚訟は︑後漢書の曹. 奥傳に︑滞訟は︑陸機の丈に︑虞茜訟は︑漢書の母將隆傳に︑詞訟は︑准南子の時則に夫れ夫れ見えている︒. 又訴の熟語も︑議訴︑告訴︑仰訴︑柾訴︑喧訴︑陳訴︑申訴﹂冤訴︑密訴︑獄訴︑號訴︑諮訴︑怨訴︑上訴︑哀. 訴︑愁訴︑嘲訴︑煩訴︑投訴︑牒訴︑越訴︑自訴など幾多のも@があるが︑今日普通に用いられるものは︑このうち. 周禮に於ける訴訟制度. 告訴と上訴であろう︒告訴は史記︑鏑策傳に﹁王有徳義故告訴﹂とあり︑上訴の交字は杜甫の詩に﹁眞宰上訴天鷹 泣﹂と見えている︒. 三. 周禮六官のうち訴訟を司るものに︑天官︑地官︑秋官がある︒秋官は獄訟印ち今日の刑事訴訟にあたるものを司. り︑天官と地官及び夏官に属する敷官はこれ以外の訴訟を司るもので︑その間には戴然とした匠別があつた︒先ず獄. 秋官ということの起原. 訟を司る秋官から述べることとする︒. 四. 春と夏は︑陽が多く陰が少いので之を陽とし︑秋と冬は︑陰が多く陽が少いので之を陰とし︑五行の水を象る冬を. 陰の終りとし︑木を象る春は︑陽の初めであるとし︑一陰一陽︑相ついで去來するものとしている︒春秋繁露の陽奪. 七く七︶. 陰卑の章に﹁陰陽理人之法也︑陰刑氣也︑陽徳氣也︑陰始於秋︑陽始於春︑春之爲言︑猫椿椿也︑秋之爲言︑猶鰍鰍 周禮を中心として見た中國上代の訴訟制魔.

(8) 周禮を中心として見た中國上代の訴訟制度. 八. ︵八︶. 也︑椿椿者喜樂之貌也︑漱漱者憂悲之歌也﹂とあることや︑董伸舖の封策の第一に﹁天道之大者在陰陽︑陽爲徳︑陰. 爲刑︑刑主殺而徳主生﹂とあることなどは︑刑と秋を陰としているものである︒されば刑獄を司るの官を秋官とい. い︑後漢書︑章帝紀に記せる元和二年︵八五︶の詔にも︑立春以後の報囚を禁じて︑この陰陽月令に則るべきことを. 示し︑又則天武后の光宅元年︵六八四︶から︑中宗の神龍元年︵七〇五︶まで︑刑部省の長官である刑部尚書を秋官尚︐. 書と改め︑︵唐六典巷六︶︑又我が延喜式の序の中にも﹁致粛霜於秋官﹂とあり︑大戴禮記の千乗篇にも﹁司冠司秋︑以. 聴獄訟是也﹂とあり︑鄭玄の周禮の注にも﹁象秋所立之官﹂と見えている︒又︑春秋繁露の義章によれば︑木︑火︑. 土︑金︑水を五行といい︑これが天の定めた順序で︑木は火を生み︑火は土を生み︑土は水を︑金は水を︑水は木を. 生むもので︑この順序を人爲的に攣換は出來ない︒土は︑中央︑木は左︑金は右︑火は前︑水は後であり︑又︑木は. 東方に居て春氣を︑火は南方に居て夏季を︑金は西方に居て秋氣を︑水は北方に居て冬季を司る︒故に木は生︑金は. 殺︑火は易︑水は寒を司るものとし︑之を無限に襲展させている︒秋官を金官とも構したことは︑太李御覧の時序部. 秋官の組織とその職掌. に﹁西方金官﹂と見えることによつても明かである︒. 二. 秋官の長を大司冠といい︑卿一人から成り︑之が副となり補佐するものを小司憲といい︑中大夫二人から成る︒そ︑. の下に︑下大夫四人から成る士師︑上士八人と中士十六人から成る卿士︑中士十二人から成る遂士︑中士三十二人か. ら成る縣士︑中士十六人から成る方士︑中士八人から成る訪士と︑中士六人から成る朝士があり︑何れも刑事訴訟を・ 司るのである︒.

(9) 大司憲は︑諸侯︑卿大夫から庶民までの獄訟を司るものであるが︑そのうち諸侯の獄訟には邦典によるものとして. いる︒邦典とは︑重典︑中典及び輕典の三典をいい︑胤國には重典を︑李國には中典を︑而して新國には輕典を︑適. 用し︑以て王をたすけ邦國を刑し︑四方を責めるものであるとしている︒この中の重典は割ち兵刑一如の域に到達し ている︒. 卿大夫の獄訟は︑邦法によるものとして︑議親︑議政︑議賢︑議能︑議功︑議貴︑議勤︑議賓の八辟の一に該當す. れば︑罪と相殺することとしている︒卿大夫などの有官者は︑亦有徳者でもあり君子でもある︒これらの者には犯罪︑. を想定していないから︑從つて卿大夫には刑を考えていない︒禮記の曲禮篇に﹁禮不下庶人︑刑不上大夫﹂とあり︑ ︵一︶. その孔顛達の注に︑大夫は必ず有徳者であるから︑五刑三千條は不必要であると述べ︑若し不徳の大夫あらば︑之を. 任じた君主の責任であるとし︑又︑買誼は大臣の不廉を蟹纂不飾と構し︑汚檬淫凱を惟薄不修と構し︑無能官吏を下 ︵二︶. 官不職と構したことが漢書︑質誼傳に見え︑更にこのことが孔子家語の五刑解篇にも見え︑又太宰春嚢の経濟録︑第. 八︑刑罰にも見えている︒このように卿大夫は常に有徳の君子であり︑犯罪を豫定していない︒假に罪があつたとし. ても︑構呼を別にしたり︑議せられて罪を相殺し得る特灌を有するものとされていた︒左傳の嚢公廿一年︵前五五二︶. の條によれば︑罪を得た叔向が︑能の故を以て議せられて冤れたことを傳えている︒. この議の特灌に與るには︑先ず上請して議にあたる旨を申立てなければならないが︑この上請制度が爾漢時代既に. あつたことは︑漢書の宣帝紀にある黄龍元年︵前四九︶の詔の一節や︑漢書の劉屈麓傳及び後漢書の光武紀に見える. 九 ︵九︶. 所の建武三年︵二七︶七月庚辰の詔の一節によつても明かである︒次にこの八議が律に規定されたのは︑後魏に始ま 周禮を中心 と し て 見 た 中 國 上 代 の 訴 訟 制 度.

(10) 周禮を中心として見た中國上代の訴訟制度. ﹃○. ︵一〇︶. ることは︑北史の景穆十二王列傳︑間大肥傳︑張褒傳等の諸傳及び九朝律考に引かれたものによつても知られる︒而. して︑このことが晴の開皇律にうけつがれ︵晴書︑刑法志︶︑唐律に探用された︒これ周禮の八辟に由來するもので. あることは︑唐律疏義に﹁周禮云︑八辟麗邦法︑今之八議︑周之八辟也﹂と見えていることによつても知られる所で. ある︒このうち勤と賓を除いて六議として我が律に纏受されたこ走は︑今さら読明するまでもない︒. 庶民の獄訟は︑法成によるとしている︒法成とは︑邦泊︑邦賊︑邦諜︑犯邦令︑橋邦令︑邦盗︑邦朋︑邦謳の八罪. をいい︑之を我成とも構している︒邦淘は︑國家の密事を盗みとる罪︑邦賊は逆飢をなすもの︑邦諜は異國の間諜と. なる罪︑犯邦令は教令違反の罪︑橋邦令は詐術をなす罪︑邦盗は盗罪︑邦朋は徒窯を作つて國法を紫るもの︑邦謳は 君臣を認岡するものである︒. 小司冠は︑大司冠の副で︑之を佐けて萬民の獄訟を聴くものである︒聴獄に際しては︑拷問を行わないで︑五聴︑. 三刺の法を用い︑犯人であるか否かを察知すべきもであるとしている︒五聴は︑餅聴︑色聴︑氣聴︑耳聴︑目聴とい. うもので︑鄭玄の注に﹁鮮聴︑観其出言︑不直則煩︑色聴︑翻其顔色︑不直則報然︑氣聴︑翻其氣息︑不直則喘︑耳. 聴︑翻其聴吟︑不直則惑︑目聴︑観其牟子覗︑不直則駝然︑﹂とあり︑被疑者の言語や顔色様子︑目つきなどから犯. 人であるか否かを察知すべきものであるとしている︒これがそのまま唐や日本の令に探用された︒︵唐六典巻六︑我. が獄令︶この考は書輕の洪範九疇︑第二に﹁敬用五事﹂にある王者の容貌︑言語︑眼︑耳及び心は如何なるものであ. るべきかということを読いたものの慮用であることは疑のない所であろう︒春秋繁露︑五行五事の章によれば︑五事. は人爲的なものではないとし︑王の貌は︑春のすがたであり︑木の氣であるから粛敬でなければならない︒若し粛敬.

(11) でなけれぜ︑暴風が起り︑陽氣を損じ︑政道全からぬものとなし︑言は︑金の氣で秋のすがたとし︑王の言は誠でな. ければならないとなし︑若し誠でなければ︑天下治らず露震の多い秋に草木が成熟せず︑政を失い義が立たないとな. し︑硯は︑火の氣であり︑王の硯は明哲で賢者不省を見別ける明を具備すべきであるとし︑聴は水の氣で︑王はよく. 臣下の謀を聴きわけなければならないとし︑思は︑土の氣で︑王は心が寛大で容れざるものがないという態度がなけ ればならぬとしている︒. 三刺の法とは︑先ず群臣に訊き︑亥に群吏に訊き︑更に萬民に訊くのをいうもので︑要するに公論によつて決すべ. きことをいつたものである︒この思想は書経の泰誓︑﹁天聴自我民聴︑天覗自我民親︑﹂及び禮記の王制篇の﹁疑獄氾. 與衆共之︑衆疑赦之︑必察大小之比︑以成之﹂﹁司冠正刑明辟︑以聴獄訟︑必三刺︑有旨無簡不聴︑附從輕︑赦從重﹂ ということが周禮にも反映したものと考えられる︒. 士師は︑大司憲に代つて萬民の断獄弊訟を司り︑五禁の法を以て刑罰を左右し︑更に下級の決しない獄訟を決する. ことを所掌とするものである︒五禁とは︑宮禁︑官禁︑國禁︑野禁︑軍禁をいい︑野刑︑軍刑︑郷刑︑官刑︑國刑の 五刑に相営するものである︒. 郷士は︑王城を距る百里以内の地の獄訟を聴くものである︒この郷を六分して六郷ともいい︑叉王城に比較的近い 所を近郷︑遠い所を遠郷ともいつた︒. 途士は︑四郊の獄訟を掌るもので︑之も六分して六遂とも構しているが︑四郊とは︑鄭司農によれば︑王城を距る. 二. ︵二︶. 百里乃至三百里であるとし︑鄭玄は百里乃至二百里の地域をいうとして必ずしも一致していない︒ 周禮を中心として見た中國上代の訴訟割度.

(12) 周禮を中心として見た中國上代の訴訟制度. =一︵二醜︶. 縣士は︑大夫の食邑となつている野の獄訟を司るものであり︑鄭司農に從えば︑王城を距ること三百里乃至四百里 の匠域をいうとしている︒. 方士は︑王の子弟及び公卿の采地となつている四方の都家の獄訟を掌るものである︒都とは︑鄭司農に從えば︑王 城を距ること四百里乃至五百里の匠域をいうとされる︒. 訪士は︑四方の諸侯の飢獄を掌るもので︑誘は迎で︑四方の賓客を迎える意であるという︒. 禮記の曲榿篇にある﹁禮不下庶人︑刑不上大夫﹂の旬の解繹に︑この外にも説を立てているが︑その二三を塞げると︑禮記・. 朝士は︑外朝の獄訟と疑獄を掌るものである︒. ︵一︶. 備えて初めて禮あるべきで︑物の備わらない庶人には禮を制する必要がないと言い︑叉一説には︑國君や士大夫に車行の禮が. 集説の注は︑庶人は貧賎であるか貧富不同であるから︑庶人の禮を言わず禮を制するのは士より初まると言い︑鄭玄は︑物を︑. あるのに庶人にはこれがない︒これと同じように︑その他の禮も庶人には必要がないと言い︑又他の二説には︑官人が罪あら. ば︑八議によつて赦されるから︑士大夫には刑がないと言い︑又周禮正義︑巻六十九に引く郷康成の説には︑右爵者は王と同. ていると説いている︒要するに︑禮記の曲禮篇上に﹁博丈強識而譲︑敦善行不怠謂之君子︒﹂とあり︑君子は又論語の尭日篇. 族であるから︑その刑殺は旬師の掌る所であり︑庶人の刑殺は掌囚の掌る所であつて︑庶人の刑は有爵者に用いない所からき. 漢書賀誼傳に﹁古者大臣有坐不廉而慶者︑不謂不廉目笥纂不飾﹂﹁古者大臣有坐汚繊淫飢︑男女亡別者︑不日汚楼日惟薄不. る︒. にある五美︑尊び四悪をしりぞける者で︑政に從うものであるから︑君子は有官者と同義謡であり︑常に有徳者であるとしてい. ︵二︶. とあり︑孔子家語の五刑解篇に﹁再有問於孔子日︑先王制法︑使刑不上於大夫︑禮不下於庶人︑然則大夫犯罪︑不可以加刑︑. 修﹂︒﹁坐罷軟不勝任者︑不謂罷軟日下官不職﹂︒. 庶人之行事不可以治於禮乎︒孔子日︑不然凡治君子︑以禮御其心︑斯以厨之以廉恥之節也︑故古之大失︑其有坐不廉汚稜︑再.

(13) 逡放之者︑不謂之不廉汚礒而退放︑則日轡纂不筋︑有坐淫翫男女無別者︑不謂之淫飢男女無罰︑期目帷幕不修也︑有坐岡上不. 忠︑不レ謂嚇乏岡上不忠︑剣日臣節未着︑有坐罷軟不勝任者︑不謂之罷軟不勝任︑則日下官不職︑有坐千國之紀煮︑不謂之干國. 之紬︑則日行事不請︑此五者大夫既自定有罪名臭︑而猫不怨斤然正以呼之也︑既而爲之諒︑所以憧恥之︑是故大夫之罪︑其在. 五刑三域者︑聞而謎聚︑則白冠驚縷盤水加劔︑造乎閥而自請罪︑君不使有司執縛牽禦而加之也︑其有大罪者︑聞命則北面再. 也︑凡所謂禮不下庶人者以庶人遽其事M而不能充禮︑故不責之以備禮也︒再求脆然免レ席日︑言則美央︑求未之聞︑退而記之︒﹂. 拝︑脆而自裁︑君不使人捧引両刑殺之也︑日士大夫自取之耳︑吾過干有禮奥︑以刑不上大夫︑而大夫亦不失其罪者︑教使然. とあり叉︑我が太宰春墓の純濟録︑第八︑刑罰にも﹁先王の政は禮義忠怒を本とする故に︑士大夫以上の人を治るに只廉恥を. 養ふことを主とす︒禮記の刑不上大夫といへるは︑大夫は爵位貴き故に罪ありても轍くは刑を行ふべからず︑只禮儀を以て椀. して男女別なき者を罪するには︑淫飢にして刷なしと云はずして帷薄不修と︑耳ふ︒上を岡て不忠なる者を罪するには︑上を岡. しむるなり︒されば古の大夫若し不廉汚繊の罪あると︑上より是を退るには︑不廉汚穣と云はずして糖篤不飾と云ふ︒淫凱に. で不忠なりと云はずして臣節未着と云ふ︒罷輕にして任にたへざる者を罪するには︑罷輕にして任にたへずと云はずして︑不. 既に其罪に服すれども︑上の人其罪を指すに怨びず︑猫其人の爲に膿し隷て其罪を顯露せず︑詞を設けて其人を塊しむ︒是則. 官不職と云ふ︒國の紀を犯せる者を罪するには︑國の紀を犯せりと言はずして行事不請と云ふ︒此五つは罪科既に定り︑其人. 凡大夫になりたる者は︑元來右の如く罪を犯べからざることと決定して耶日其心に廉恥を持せ置くなり︒さて萬一右の如く罪. 廉恥の心を養ふ遽なり︒大夫は人臣の中にて貴き者なれば︑必ず年五+以上にして悪行ある者を撰て此位に屠しむ︒然れば︑. を犯す者あれば︑大夫に似あはざることと云ふに落着して︑よもや左やうのことは有まじきと云ふ意にて︑飾たる詞を以て其. り︒賜死とは︑上より死せよと云ふ命を下して自殺せしむる故に死を賜と云ふなり︒是に叉二つあり一には賜醗︑二には賜劔. 罪名をつけて其人を退るなり︒若し大罪ありて生て置きがたき者をば死刑に虚す︒是叉二つあり︑一には賜死︑二には斬な. なり︒︵中略︶死刑に虎すべき程の罪にあらざれば︑上に云る如くそれぞれの名目にて其人を擁しめて︑其位を退るのみな. り︒是を刑不上大夫と云ふ︒是大夫を重んずる道なり︒士は大夫より賎き者なれども︑禮儀を守り廉恥をしるべき者なる故. いる︒. 一三 ︵一三︶. に︑古の名目に士以上を君子と云ふ︒﹂とあ9︑家語と春豪は共に死罪以外︑の罪を犯したときに限り刑を大夫に上せずとして. 周禮を中心として見た中國上代の訴訟制度.

(14) 三. 周禮を中心として見た中國上代の訴訟制度. 審級制度. 一四. ︵一四︶. 周禮に於ける審級は︑一審制︑二審制と三審制の三種がある︒避遠の地に住むもの︑諸侯の領民︑外朝の人々には. 一審制をとり︑都に住む者と諸侯には二審制をとつている︒印ち方士の裁到に不服の者は大小何れかの司冠に︑誘士. の裁判に不服なものは士師に︑夫々控訴することが出來る︒もし都に佳む者は方士の裁到があつてから三月以内に限. り控訴し得るのである︒次に郷士︑遂士︑縣士の裁到に不服なものは︑大小の司冠に控訴し︑更に之に不服であれ. ぱ︑王に上訴することが出來る︒印ち六郷︑六途及び野に住む者には三審制をとつている︒又控訴の期問は︑六郷に. 佳む者は一旬︑六途に佳む者は二旬︑野に佳む者は三旬以内としている︒このように︑王城に近い地域に佳む者に三. 審制をとり︑遠い所に住む者に封しては二審或は一審制をとつているのは︑王化に浴することの厚薄によるものであ ろう︒. 審級に言及したものは︑周禮以外の古書に見出すことが出來ない︒徐朝陽の中國古代訴訟法は︑禮記の王制に﹁史. 以獄成告於正︑正聴之︑正以獄成告於大司冠︑大司冠聴之棘木之下︑大司憲以獄成告於王︑王命三公参聴之︑三公以. 獄之成告於王︑王三文︑然後制刑﹂とあるのを引いて﹁史如今之検察官起訴於正爲一審︑由正而大司寵爲一審︑由大. 司冠而王命三公又爲一審︑實三級三審之制度︑司冠爲非終審也明突﹂と述べて︑正︵鄭註に正於周郷之厨とあり︶が. 第一審︑大司冠が第二審で︑三公が第三審であるとし︑禮記は三審制度を探つたと主張しているが︑これは裁到を受. けたものの不服にもとづく再審ではなくして︑判決に愼重を期するためのもので後世の覆奏に類するものと見るべき. である︒覆奏の制度は︑書経の康譜にも﹁又日.要囚服念五六日︑至干旬時丞蔽︑要囚﹂とあつて︑要囚脚ち今日の到決.

(15) を受けた者のうちで︑情状の重い冠壌︑姦究︑元悪の如き罪︑死にあたる程の者であつて︑このような重罪犯人につ. いては︑到決があつてからすぐに︑加刑することなく︑少くとも五六日や十日は服贋思念して罰が妥當であるか否か. を深思熟考すべきであり︑刑するにあたつては︑假借なく天誹すべきであるとしている︒これが實際にとり入れられ. て︑唐の太宗は五覆奏を用いた例もあり︑叉日唐の律は死刑については︑三覆奏することを規定している︒この覆奏. は︑最高の司法官である天皇若しくは皇帝に奏するものであり︑これと禮記にある所の正の到決を大司冠が見直し︑. 訴訟代理人. 更に三公が見直すべきであるとしたのである︒. 四. 左傳の嚢公十年の條によれば︑楚の陳生︵楚王の叔父︶と伯輿とが箏訟したときに︑陳生の代理人の宰と︑伯輿の. 代理人の理禽とが互に箏訟したことが見え︑又︑同じ左傳の僖公二十八年の條に︑訴訟の代理人となつて辮護する者. を大士というと見え︑この年に衛侯とその大夫の元嘔が雫訟したが︑衛侯の代理人たる鍼旺子が衛侯に代つて辮護. し︑更に武寧子がこの鍼荘子の補佐役となつたと見えているが︑訴訟代理人の起原は相當古いものがあるようであ. る︒周禮︑秋官の小司憲の職の中に﹁凡命夫命婦︑不躬坐獄訟﹂とあつて刑事訴訟に限り︑又命夫命婦に限つて︑訴. 訟代理人を認めるものとしている︒禮記の喪服大記によれば︑命夫命婦とは︑大夫と大夫の妻であるとし︑周禮の疏. .. 一五. ︵一五︶. には︑命夫命婦は奪貴であるから︑治獄の吏が畏れて︑正確な訊間が出來ないので︑その麗僚か子弟が訴訟代理人と なるものであると述べている︒. 五 陪審制度 周禮を中心として見た中國上代の訴訟制度.

(16) 周禮を中心として見た中國上代の訴訟制度. 一六. ︵一六︶. 東川徳治氏の﹁支那法制史研究﹂は三刺の法を以て陪審制度と解している︒この三刺の法は︑民情を聴く駝に於. て︑今日の陪審制度に似ていると言うことが出來るが︑疑罪を罰することを排除する目的と︑天意を窺知する手段と して民情を聴くものである驕に於て︑決して今日の陪審制度ではない︒. 周禮に獄訟の範園に厨しないものについて聴訟するものとして︑天官︑地官と夏官の中に敷個の官を設けている︒. 天官︑小宰之職に﹁以官符之六叙正群吏︑︵中略︶六日以叙聴其情﹂とあるのは︑鄭注によれば︑食豫の多少につい て雫訟あるときは︑小宰が之を決するものであるとしている︒. 衣に地官の大司徒は︑六徳︵知︑仁︑聖︑義︑忠︑和︶と六俘︵孝︑友︑睦︑媚︑任︑憧︶と六藝︵禮︑樂︑射︑. 御︑書︑敷︶を萬民に教える職責を持つものであるとしている︒若しこの教令に違背すれば︑八刑を以て之を糺すも. のである︒八刑とは︑不孝の刑︑不睦の刑︑不媚の刑︑不弟の刑︑不任の刑︑不憶の刑︑造言の刑と飢民の刑の八を. いうもので︑これは周禮に於ける五刑︵秋官︑大司冠にいう野刑︑軍刑︑郷刑︑官刑︑國刑︶の中の郷刑の内容をな. すもので︑造言︑風民の二刑以外は︑凡て反道徳行爲に封するものである︒この教令蓮反に封しては大司徒が糺する ものとしている︒. 次に小司徒は︑六郷の民の政教戒禁を掌るものとしているから︑賞罰を施すに當つて之を糺すものである︒又︑田. や土地に關する箏訟も管するもので︑民訟︑印ち田の畔に關する箏訟を地の比隣を以て到じ︑地訟翻ち境界の孚訟を 地圖を以て到ずるのも小司徒の所掌としている︒. 次に郷師は︑田猟を司るので︑その期日に關する箏︑郎ち箏禽の訟を噺ずる︒又媒氏は︑陰訟と名づけた男女間の.

(17) 箏訟を断ずるものとしている︒. 司市は︑度量を正し︑商費を取締るものであるから︑質民の詐偶を糺すものであり︑質人は︑市の貨︑人民の所有す. る牛馬兵器及び四時の食物を管するものであるから︑これ等のものに因つて生じた犯禁を断じて罰するものである︒. 途師は︑六途の民の使役納税を掌るものであつて︑それによる治訟を聴ぎ︑途大夫は︑六途の民の家の衆寡︑六. 畜︑田野稼稽の功を管するものであるから︑その政令戒禁を守らない者の治訟を聴くのである︒. 縣士は︑縣の政令を掌るもので︑稼稿︑役の功をかんがえて賞罰を行うものであり︑之に關する治訟を聴くのであ る︒. 次に夏官の墓大夫は︑墓地に關する箏訟を聴き︑馬質は︑馬に關する馬訟を聴くのである︒. 以上によつて天官︑地官及び夏官の中に属する諸官の聴訟は︑或は道徳違反︑又はその所掌とする所のもので︑罰. を加うべき結果を來す性質の聴訟を除けば︑今日の民事訴訟の灘念に合致するものが多い︒梁啓超は︑その著︑﹁先. 秦政治思想史﹂に於て﹁蓋初民肚會之政治︑除祭祀闘雫以外︑最要者便是訟獄︑而古代所有灌制度未確立︑婚姻從其習. 慣︑故民事訴訟者甚稀︑有訟皆刑事也﹂と述べているものは︑蓋し安當のものというべく︑洋の東西を間わず︑先ず. 刑事財係のものが︑その全部を占めているものである︒更にこれに附言するならば︑公共の安寧を破り︑肚會の秩序. を素すものは︑罪小なりと錐も︑爲政者は等閑に附さずして之を慮罰するが︑私人問の法盆の侵害に止まるようなこ. と︑換言すれば︑灌力者或は爲政者に直接影響の及ぼさないものであれば︑或は不問に附すか︑或は五保十保の保長. ︑. 一七. ︵一七︶. や亭長︑薔夫などの末端に於ける行政劃内に於て便宜慮断したものであろう︒又力によつて統御される肚會︑從つて 周禮を中心として見た中國上代の訴訟制度.

(18) 周禮を中心として見た中國上代の訴訟制度. 一八 ︵一八︶. 灌利翻念の護達しない杜會に於ては︑民事的孚訟は稀少であるであろう︒しかし︑別項に於て述べたように︑早くも. 後漢の世に於て訴訟と獄訟と匠別して用いたこと︑大禮に於て周禮は刑事訴訟と民事訴訟を匠別して︑之を別々の官. 裁到官. によつて聴訟させようと企圖したことについては︑頗る注目に値する︒. 四. ︵一︶ 儒教に於ける理想的の裁到官は︑舜に命ぜられて士となつた皐陶である︒その言として傳えられているものに書脛 の大禺護に. 豊. ﹁帝徳岡葱︑臨下以簡︑御衆以寛︑罰弗及嗣︑賞延於世︑宥過然大︑刑故無小︑罪疑惟輕︑功疑惟重︑與其殺不皐︑ 寧失不脛︑好生之徳︑治於民心︑戴用不犯於有司︒﹂. というのがあり ︑ ま た ︑ 皐 陶 護 に ︑. ﹁競競業業︑一日二日︑萬機無噴庶官︑天工人其代之︑天叙有典︑勅武五典五惇哉︑天秩有禮︑自我有禮有庸哉︑同. 寅協恭和衷哉︑天命有徳五服五章哉︑天討有罪五刑五用哉︑政事懲哉︑天聰明自我民聰明︑天明畏︑自我民明威︑達 於上下敬哉有土︒﹂. というのがあり︑更に舜典に﹁告災離赦﹂﹁枯終賊刑︒﹂などの言があり︑これが永く儒家の刑罰に封する根本理念と. なつたばかりでなく︑實に東洋に於ける刑法を左右したもので︑その後世に與えた影響は極めて大きいものがある︒. 〃.

(19) 自虎通の聖人章に﹁若稽古皐陶︑聖人而能爲舜陳道︑朕意恵可底行︑又募施象刑維明︒﹂とか︑﹁皐陶烏嫁是謂至誠︑. 決獄明白察於人惜︒﹂などと言つて︑皐陶を以て︑伏義氏︑神農氏︑黄帝︑帝尭︑帝舜︑禺王︑湯王︑文王︑武王︑. 周公︑孔子と蚊べて十二聖の一人に敷えている︒又これ等の聖人が︑その容貌に於て︑常人と全く相異することを述. べ︑皐陶もその例に洩れず︑その口唇は鳥の唇と同形であるとし︑これが至誠をあらわし︑獄を明白に決し︑人情を. 察することを示していると述べている︒又この白虎通の外にも︑皐陶の異相を述べたものに︑論衡と葡子がある︒論 幽. ︵二︶. 衡の講瑞篇には︑皐陶の口は馬に似ていたと言い︑骨相篇には︑頭の中央が凹み四周が高くなつていたと言つてい. る︒これは頭の形が孔子に似ていたことになるのである︒又葡子の非相篇に﹁皐陶之欺︑色如削瓜︒﹂とあつて︑そ. の顔色は剥きとつた瓜の色︑印ち青緑色であつたと言つている︒又その出身についても︑全く常人と趣きを異にして. いる︒史記︑秦本紀によれば︑秦の遠祀は大業になつていて︑史記索隠は︑皐陶には大業という別名もあつたといつ. ているから︑大業と皐陶は同一人であつたものと考えなければならない︒史記によれば︑帝顎頚の孫︑女脩が織布の. 際に玄鳥が來て落した卵を飲んで大業を生んだという傳説を傳えている︒皐陶の口唇が鳥に似ていたということ︑法. 術を以て治國の要具とした秦の遠租に理想的法官である皐陶をもつて來たことは︑亦理由なしとしない︒又竹書紀年. によれば︑舜の三年に︑その命を受けて刑を作つたとし︑書経の皐陶護によれば︑寛にして栗︑柔にして立︑悪にし. ︵一九︶. て恭︑胤にして敬︑擾にして毅︑直にして温︑簡にして廉︑剛にして塞︑彊にして義の九品の徳︑翻ち九徳を具えて ︵三︶ いた理想的の裁到官であり︑一度び舜は帝位を輝譲すべく考えたが皐陶の死によつて果さなかつたと傳えている︒然. 一九. し皐陶は飽くまでも裁到官の理想化されたものであり︑傳読的のものとなすべきである︒ 周禮を中心として見た中國上代の訴訟制度.

(20) 周禮を中心として見た中國上代の訴訟制度. 二〇. ︵二〇︶. 裁到官には皐陶のように︑九徳を具えたものが理想的であるとされているが︑儒教は︑訴訟の起る根原を塞いで︑. 如何にすれば訴訟をなくし︑刑なきを期待することが出來るかということに重尉を置いて︑裁到官の人的要件につい. ては︑あまり考慮を沸わなかつた︒論語に﹁子日聴訟吾猫人也︑必也使無訟乎︒﹂と︑孔子の言と構するものを傳え. ているが︑このような考え方が儒教の訟に封する根本観念となり︑聴訟は極めて難儀なものであり︑その訟の起る源 ︵四︶ を塞ぐに︑民をして化に浴せしめ︑以て訟なからしめるように力めるべきであるとした︒. 然し︑いかに儒教は刑なきを期し︑訟なきを圖るとも現實には決して望み得べくもないことであり︑松李伊豆守信 ︵五︶ 綱の手生の言に︑儒者の申す檬にて國の政務はならぬ物也と︑いうようなことは︑ひとり我が江戸時代初期のことば ︵六︶ かりではなかつたのである︒禮義三百︑威儀三千があると同じように︑正刑三百︑科條三千があって︑少しも減少す. る所か︑時代と共に盆々増加の一途を辿る實情であつた︒例えば漢の成帝の河李年間の詔の中の﹁甫刑云︑五刑之厨. 三千︑大辟之罰其属二百︑今大辟之刑千有飴條︑律令煩多百飴萬言︒﹂というのが漢代における現實の姿であつた︒. 凡そ制度や法が如何に問然するところがないとしても︑之を蓮用するに人を得ざれぼ死物︑死法となることは古今. 東西に亘って一つの例外も存在しない所のものである︒萄子の君道端に﹁法者治之端也︑君子者法之原也︑故有君子. 則法錐省足以偏突︑無君子則法錐具失先後之施臭︑不能慮事之攣足以凱突﹂とあるのは︑法が人を得なければ︑死法. ︵一︶. 春秋元命包によれば︑皐陶は士師に任ぜられたという︒士又は士師は裁剣官である︒. となり︑徒法となることを道破したものである︒. ︵二︶ 史記の孔子世家に﹁生而首上圷頂︑故因名日丘﹂とあつて︑孔子の名﹁丘﹂の生じたのは︑頭の形朕から來たものであると している︒.

(21) 四書正解に引用した苑氏の言に﹁聴訟者治其末塞其流也︑正其本清其源則無訟英﹂とあり︑又大全陳氏の言に﹁使無訟正有. ︵三︶史認の夏本紀に﹁帝禺立︑而塞皐陶薦之︑且授政焉︑而皐陶卒︒﹂と見えている︒. 道徳齊禮内︑夫子亦未説明所以使之故正欲令﹂とあり又︑四書輯疏に﹁教民親愛莫善於孝︑教民禮順莫善於弟︑此無訟之道. ︵四︶. 也︒民有常産則有常心此無訟之政也︑所謂正其本清其源者也︒﹂とあり︑論語集説に﹁王粛日︑化之在前︒﹂とあつて︑何れも. 禮記の中庸篇に﹁禮儀三百︑威儀三千﹂とあり論衡の謝短篇に﹁古禮三百威儀三千︑刑亦正刑三百科條三千﹂とある︒五刑. 史籍集覧に改録された紳書抄の中にある松李伊豆守︑儒を疾まれし話の中にある︒. 教化を施せば訟渉なくなるものとしている︒. ︵六︶. ︵五︶. の厨三千としているのに︑書経の呂刑と孝経の五刑がある︒. 皐陶は書経の舜典に﹁汝作士﹂とあるように︑士印ち裁到官に任ぜられたと傳えられているのを別として︑左傳に よって︑裁到官を見ると︑春秋諸侯には次のような裁到官があつたようである︒. e宋に︑大司冠︑小司寵のあつたことは︑成公十五年の條に﹁向爲人爲大司冠︑麟朱爲小司憲︑是年二司憲出奔. 魯に司冠のあつたことは︑嚢公の二十一年の條に﹁季孫謂藏武仲日︑子爲司冠︑將盗是務去﹂とあるのによつて. ている︒. 楚︑樂商爲司憲﹂とあつて︑大司冠の向爲人と小司冠の麟朱が共に楚に出奔したから︑樂喬を司冠に任じ売と傳え. 口. 苦に司冠のあつたことは︑嚢公三年の條に﹁魏経日︑請蹄死於司冠﹂とあることによつて知られ︑この外に理宮. 知られる︒. 国. のあつたことは︑昭公十四年の條の注に﹁士景伯晋理官﹂とあることによつて知られ︑又地方の司法事務を行うも. 二一. ︵一コ︶. のに︑大夫があつたことは︑僖公二十五年の條に﹁趙衰爲原大夫︑狐湊爲温大夫﹂とあることによつて知られる︒ 周禮を中心として見た中國上代の訴訟制度.

(22) 画. 周禮を中心として見た中國上代の訴訟制度. 一三 ︵二晶じ. 齊に司冠のあつたことは︑成公十八年の條に﹁慶佐爲司冠﹂とあることによつて知られ︑又士のあつたことも︑. 同じ條に﹁齊侯使士著以戎殺國㊧於内宮三朝﹂とあることによつて知られる︒. ㈲ 鄭に司憲のあつたことは︑昭公二年の條に﹁公孫黒將作飢︑子産日︑不速死冠將至﹂とあることによつて知られ. 因. 楚に司敗のあつたことは︑文公十年の條に﹁子西日︑臣蹄死於司敗﹂とあることによつても知られる︒杜注によ. 衛に司冠のあつたことは︑昭公二十年の條に﹁公孟繁押齊豹奪之司憲﹂とあることによつて知られる︒. る︒. ㈲ れば︑司敗は司冠と同じであると言つている︒. 囚 唐に司敗のあつたことは︑定公三年の條に﹁唐人矯馬而献之子常︑子常館唐侯︑自拘於司敗﹂とあることによつ て知られる︒. 秦に於ては︑中央に廷尉を置き︑刑獄を司らせ︑又︑御史を置いて弾劾させた︒地方は封建を慶して三十六の郡を. 置き︑守︑尉︑監を任命した︒又郡の下に縣を置き︑更に十保五保の制をつくつて︑相牧司連坐の法をとり︑劃期的. これは秦が丞相︑太尉︑御史大夫の三大官を置. な大改革をなすに至つた︒漢は︑大腱に於て秦の制を襲いだが︑封建︑郡縣の二制を併用したので︑その機構は必ず しも同一ではない︒又三公九郷の構は︑漢代に始まるのであるが︑. き︑その下に廷尉︑衛尉︑宗正︑太僕︑少府︑奉常︑郎中令︑内史︑典客を置いたのに浩革したものであり︑後世の. 廷官の骨子は秦に始るものと言うべきである︒漢に於ける廷尉は︑景帝の中元六年に大理に改められ︑武帝の建元四 ︵一︶ 年に廷尉に復し︑哀帝の元壽二年に︑再び大理に改められた︒順次これが厨官として史︑奏曹豫︑從史︑卒史ない︑もが.

(23) ︵二︶. 設けられるに至つた︒又御更には御史大夫︵大司空ともいう︶︑中丞︑侍御史があつて︑糺察弾劾︑宮の糺禁を司つ ︵三︶ た︒又大司馬府に驕する護軍都尉も司法を分捲し︑地方に於ては京兆引︑左漏翔︑右扶風があり︑之を三輔と構して. 長安城の司法警察のことを分け司り︑郡守︵太守︶︑郡豫︑決曹豫があつて︑郡に於ける決訟をその所掌の一つとし. た︒叉︑刺史は︑武帝の元封五年に置かれたもので︑郡國を周行して冤獄を断ずるものであつた︒縣には縣令又は縣. 長がある︒漢書百官公卿表によれば︑一縣の中に萬戸以上ある所の長官を縣令とし︑一萬戸以下の縣の長官を縣長と. いつたようである︒又縣の廣さの標準は︑大たい方百里であるし︑この中に郷があり︑郷の中に︑又いくつかの亭が ︵四︶ ある︒この郷には︑三老︑薔夫︑游微などの官があり︑薔夫は聴訟︑牧税を司り︑游微は賊盗を循禁するもので前者 は司法官と税務官を兼ねたものであり︑後者は司法警察官である︒. 後漢亦前漢の制度を踏襲して︑中央には廷尉︑御史を置いた︒光武帝は︑更に水火︑盗賊︑詞訟︑罪法を掌るべき. 正疑獄︑多以詳當見從﹂と見えて. 尚書を置いた︵通典︶︒この別名を賊曹とも言つたが︑これが後世︑刑部省と大理寺と分職するの基をなしたのであ る︒又この尚書については︑後漢書の張晧傳に﹁晧拝廷尉︑留心刑断︑敷與尚書. いる︒叉地方を十二州に分け︑刺史十二人を毎年八月に︑一人一州を巡行させ︑郡國の囚徒を録させた︵百官志︶︒. これは後漢の初めには司隷校尉といはれたものであるが︑建武十八年刺史に改められ︑露帝の中卒五年に︑牧と改め. られている︒この他︑郡守は決訟検姦︑訊囚を司り︑縣令や縣長は︑禁姦罰悪︑理訟李賊を掌り︑亭長︑游微の所掌 亦前漢と同じであつた︒. 二三. ︵二三︶. ︵一︶漢書百官公卿表に﹁廷尉秦官︑掌刑辟︑有正左右監︑皆千秩石︑景帝中元六年更名大理︑武帝建元四年復爲廷尉︑宣帝地節. 周禮を中心として見た中國上代の訴訟制度.

(24) 周禮を中心として見た中國上代の訴訟制度. 二四. ︵二四︶. 漢書︑張湯傳に﹁湯爲廷尉︑請博士弟子治何書春秋︑補延尉史﹂とあり同書︑路温箭傳に﹁廷尉光以温好署奏曹橡﹂とあ. 三年初置左右亭︑秩皆六百石︑哀帝元壽二年復爲大理﹂ ︵二︶. り︑又同書︑兜寛傳に﹁廷尉湯以從史見寛爲之﹂﹁寛以掌故功次補卒史﹂. 漢書百官公卿表によれば︑京師の政務を掌るものは︑周にあつては内史といい︑秦漢が之に倣つたが︑漢の恵帝の二年に︑. などとあつて史︑奏曹橡︑從異︑卒史などの名.禰が史書にあらわれている︒. 左内史︑右内史に分け︑武帝の太初元年に︑右内史を京兆ヂ︑左内史を左凋蜴と改め︑秦代の主欝都尉を︑景帝の中元六年に. ︵三︶. 漢書百官公卿表に﹁大率十里一亭︑亭有長︑十亭一郷︑郷有三老︑有秩薔夫游微︑三老掌教化︑薔夫職聴訟収賦税︑游徴循. 都尉︑武帝の太初元年に右扶風と改めた︒ ︵四︶. 禁賊盗︑縣大率方百里:亦如之皆秦制也︒列侯所食縣日國︑皇太后皇后公主所食日邑︑有攣夷日道︑凡縣道國邑千五百八十七︑. 又これが後漢に襲用されたことは︑後漢書︑城宮傳に﹁少爲縣亭長游徹﹂とあることや︑後漢書の泣に﹁績漢書四︑毎十里. 郷六千六百二十二︑亭二萬九千六百三十五﹂とあつて︑郷の三吏の所掌を塞げ︑地方制とそれぐの数を列墨している︒. 結. 一亭︑亭有長︑以禁盗賊︑毎郷有游︑微掌循禁姦盗也﹂とあることによつても知られ︑亭長亦刑官であつたもののようである︒. 五. 行されていたものとは信ぜられないのである︒もしも勝手な臆測を逞うするならば︑周禮は周制の或る一部から推演. までに解決されてはいないものと思われるが︑後者については︑いかに考えても周禮の制度が事實において周代に施. か否かの問題もあるのである︒前者については︑先人及び同好の學者の克明な努力にも關わらず︑未だ一黙の疑なき. のもの瓦眞偽の問題もあり︑又たとえその成立が正しいものとするも︑その記載内容が果して事實に即しているもの. 以上は主として周禮を本として周代の訴訟制度の大要を見たものであるが︑初めにも述べた如く︑周禮には周禮そ. 証 ロロ.

(25) 横大して一の理想的な制度を案出したもので︑その作者は周公を讃頬している者流で︑これに後の劉歌が加筆修訂を. 加えたものではないか︵尚書︑周書︑立政︑同︑周官︑史記︑周公世家参照︶︒何れにしても︑周禮の制度が實際の. ものではないことは否定できないと思われるから︑前述の訴訟制度の如きも︑周初及び春秋戦國時代のものであると. 二五. ︵二五︶. は言い得ない︒しかし︑これと似通つたものが存する可能性はあり得ると思う︒か玉る意味において︑何等かの参考 資料ともなるを得ば幸であると考えて筆を執つたのである︒. 周禮を 中 心 と し て 見 た 中 國 上 代 の 訴 訟 制 度.

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