俳諧師西鶴の軌跡 : その蠢動期の再検証を中心と して
著者 森田 雅也
雑誌名 人文論究
巻 69
号 3/4
ページ 47‑74
発行年 2020‑02‑20
URL http://hdl.handle.net/10236/00028807
俳 諧 師 西 鶴 の 軌 跡
││ そ の 蠢動 期 の 再検 証 を 中心 と し て│
│
森 田 雅 也
一︑ は じ め に 井原
西鶴
︵一 六四 二│ 九三
︶の 文人 とし ての 来歴 は夏 目漱 石の それ に似 てい る︒ 漱石 は一 九〇 五年 に﹃ 吾輩 は猫 で あ る﹄ によ っ て 小説 家 と して 登 場 す る︒ 続い て
﹃坊 っ ちゃ ん
﹄﹃ 草 枕﹄ など を 発 表 して
︑教 壇を 退き
︑東 京朝 日新 聞に 入社
︑執 筆に 専念
︒そ の後 も﹃ 虞美 人草
﹄﹃ 三 四郎
﹄﹃ それ から
﹄﹃ 門
﹄﹃ 彼岸 過 迄
﹄﹃ 行 人
﹄﹃ こ ゝ ろ
﹄﹃ 道 草﹄
︑ 未 完 の﹃ 明 暗﹄ ま で 数 多 く の 小 説 を 書 き
︑四 十 九 歳 で 亡 く な っ て い る
︒そ の た め
︑
﹁小 説家
・夏 目漱 石﹂ の印 象は すこ ぶる 強い
︒し か し︑ 小説 家 と して の 作 家生 活 は 晩 年の 十 年 ほど で あ って
︑そ れ ま で の人 生は イギ リス への 国費 留学 以前 から 英文 学研 究に 打ち 込み
︑帰 国後 は第 一高 等学 校教 授︑ 文科 大学 の講 師と し て 英文 学を 講じ
︑そ れら をま とめ た﹃ 文学 論﹄
﹃ 文学 評論
﹄に みる よう に一 流の 英文 学者 とし て知 られ てい た︒ また
︑ 正 岡子 規と の交 遊か ら俳 句︑ 漢詩 も作 り︑ 深 い 人間
・文 化 認 識に 基 づ いた 講 演 の 数々 な ど があ り
︑﹁ 小 説家
﹂と し て の 側面 から のみ 近代 文学 史に 名を 刻む のは 半面 像に 思え る︒ 五十 二歳 で亡 くな った 西鶴 もま た︑ 早く から 俳諧 師と して 活躍 しな がら
︑晩 年約 十年 の文 事を もっ て︑ 浮世 草子 作 四 七
家 とし て日 本文 学史 に名 を残 して いる 感が ある
︒︵ 傍 線は 森田
︒以 下同 じ︒
︶
︵﹃ 好色 一代 男﹄ が好 評を 博し
︑そ の続 編と して
﹃諸 艶大 鑑﹄ が出 版さ れた 貞享 元年
︵一 六八 二︶ 頃︶ には もう 西 鶴 は︑ 読者 に娯 楽を 提供 する 作者 の態 度に なり きっ てい る︒ 住吉 にお ける 最後 の矢 数俳 諧の 興行 は︑ ある いは 俳 諧 への 袂別 を意 味す るも ので あっ たか も知 れな い︒ 事実 西鶴 は当 時の 俳壇 の傾 向に 慊ら ず︑ もっ ぱら 嘉太 夫節 の 浄 瑠璃 に慰 み︑ 歌舞 伎子 に熱 を上 げて い た ので あ る︒
︵ 中略
︶西 鶴 の 晩年 は
︑教 条 的 苛酷 な 儒 教主 義 の 政治 と デ フ レと イン フレ によ る深 刻な 経済 不況 に悩 まさ れて いた 時代 であ る︒ 西鶴 の浮 世草 子は その こと をよ く物 語っ て い る
︒元 禄 二 年︵ 一六 八 九︶ 四 十八 歳 の 後半 か ら 同 四年 ま で︑ 西 鶴は な ぜ か 浮 世 草 子 の 作 を 絶 っ て い る︒ 反 対 に
︑一 度は 袂別 した はず の俳 壇に ぼつ ぼつ 姿を 見せ 始め てい る︒ そ の間 の事 情も まだ よく わか って いな いが
︑多 分そ れは 肥満 型体 質で あっ た西 鶴の 身体 的故 障に よる もの であ ろ う
︒晩 年の 書簡 に﹁ 今程 目を いた み筆 も覚 へ不 申候
﹂と みえ る︒ 眼の 故障 のた めに 小説 の執 筆が 不可 能に なっ た の であ る︒ そこ で再 び俳 壇に 復帰 した ので ある
︒し かし その 俳諧 の作 品は
︑も はや 往年 の面 影は なく
︑沈 潜し た 人 生観 照の 句が 多く なっ てい る︒
︵﹃ 国 史大 辞典
﹄﹁ 井 原西 鶴 担当 野間 光辰
﹂よ り︶ 右の 説の 大概 は西 鶴は 俳諧 師と して 大い に活 躍し たが
︑途 中か ら﹃ 好色 一代 男﹄ など の刊 行の 思わ ぬ人 気か ら俳 諧 を やめ て浮 世草 子作 家に 転じ た︒ 晩年 は体 調の せい から か浮 世草 子作 家を やめ
︑俳 諧世 界に 戻っ たも のの 往年 の力 は な か っ た︑ と いう も の であ る
︒こ の 説が 人 口 に 膾炙 し た もの か
︑一 概 に 言え な い もの の
︑項 目 担 当 の 野 間 光 辰 氏 の
﹃西 鶴年 譜考 証﹄ など の精 緻な 分析 から は定 説と し て甘 受 す べき と な って い る︒ し か しな が ら︑ そ こに 再 考 の余 地 は な いか
︒以 下︑ 再検 証を 試み たい
︒
俳 諧 師 西 鶴 の 軌 跡
四 八
二︑ 俳 諧 師西 鶴 年 譜 以下
︑そ の基 本資 料と して
︑﹁ 俳 諧師 西鶴
﹂と して の面 から その 文事 を年 表と した
︒﹁ 俳諧 師﹂ とあ えて 冠し たの は 単 なる 俳諧 愛好 者と して では なく
︑当 時す でに 諸師 諸芸 また は諸 職の 一つ とさ れて いた 職業 俳人 とも いう べき もの を 意 識し てい る︒ もっ とも これ には 点者
・作 者な どの 区分 と明 確化 する こと が必 要か も知 れな いが
︑厳 たる に欠 けな が ら も﹁ 俳諧 師﹂ とし た︒ 年譜 の作 成 方 法と し て は﹃ 図録 西 鶴﹄
⑴
︑﹃ 西 鶴 年 譜考 証
﹄
⑵
︑江 本 裕氏 の 御 業績
⑶
よ り森 田 が 補 訂し た︒ また
︑改 元の 煩瑣 から わか りや すい よう に西 暦を 立て た︒ 一
六四 二︵ 寛永 十九
︶年
一歳
大坂 に生 まれ る︒ 一 六五 六︵ 明暦 二︶ 年 十 五歳
俳諧 を志 すか
︒︵
﹃ 西鶴 大矢 数﹄ 巻四 跋︶ 一 六六 二︵ 寛文 二︶ 年 廿 一歳
俳諧 点者 とな るか
︒︵
﹃ 石車
﹄巻 四︶ 一 六六 六︵ 寛文 六︶ 年 廿 五歳
三月 西 村長 愛子 編﹃ 遠近 集﹄ に鶴 永号 を以 て発 句入 集︒ 一 六六 六︵ 寛文 七︶ 年 廿 六歳
夏
﹃大 坂独 吟集
﹄所 載︒ 郭公 独吟 百韻 成る
︒ 一 六七 一︵ 寛文 十一
︶年 三 十歳
三月 高 瀧以 仙﹃ 落花 集﹄ に発 句入 集︒ 一 六七 二︵ 寛文 十二
︶年 三 一歳
正月 内 藤風 虎編
﹃櫻 川﹄ に発 句入 集
﹁餅 花や 柳 はみ どり は なの 春﹂ 一 六七 三︵ 寛文 十三
︶年 三 二歳
九月
﹁延 宝﹂ と改 元︒ 正月 寛 文十 三年 歳旦 控に 鶴永 号に て歳 旦発 句あ り︒ 俳 諧 師 西 鶴 の 軌 跡
四 九
六月 生 玉神 社南 坊に おい て万 句興 行を し︑
﹃ 生玉 万句
﹄を 編纂 上梓
︒ 十月
﹃歌 仙大 坂俳 諧師
﹄を 編纂 上梓
︑発 句並 びに 自画 像︒ 冬 鶴 永改 め西 鶴と 号す
︒こ の頃
︑西 山宗 因の 弟子 とな る︒ 一 六七 四︵ 延宝 二︶ 年 三 三歳
正月 歳 旦発 句集 に歳 旦発 句あ り︒ 一 六七 五︵ 延宝 三︶ 年 三 四歳
四月 岡 西惟 中著
﹃俳 諧蒙 求﹄ に付 合入 集︒ 四月
﹃大 坂独 吟集
﹄刊
︑宗 因評 点の 郭公 独吟 百韻 一巻 入集
︒ 四月 三 日︑ 西鶴 妻没
︑享 年二 十五 歳︒ 菩提 寺誓 願寺 に葬 る︒ 四月 八 日郭 公独 吟千 句を 手向 け︑
﹃ 俳諧 独吟 一日 千句
﹄を 編纂
︑上 梓︒ 十 一月 伊 勢村 重安 編﹃ 糸屑
﹄に 発句 入集
︒ 一 六七 六︵ 延宝 四︶ 年 三 五歳
一月
﹃俳 諧大 坂歳 且発 句三 物﹄ 刊
⑷
︒ 十月
﹃俳 諧師 手鑑
﹄を 編纂 上梓
︒ 是 年 片 岡旨 恕編
﹃草 枕﹄ 刊か
︑旨 恕と の両 吟歌 仙一 巻︑ 旨恕
・西 舟・ 西夕 と の 四吟 歌仙 一巻 入集
︒ 一 六七 七︵ 延宝 五︶ 年 三 六歳
四月 中 村西 国に
﹃俳 諧之 口傳
﹄を 授け る︒ 五月 生 玉本 覚寺 で独 吟千 六百 句独 吟を 興行
︑﹃ 西 鶴大 句数
﹄と 題し て上 梓︒ 九月 奈 良中 院町 極楽 院に て大 和多 武峯 西院 の僧
︑月 松軒 紀子
︑矢 数俳 諧を 興 行 し︑ 千八 百句 独吟 を成 就︒ 十 一月 岡 西惟 中編
﹃俳 諧三 部抄
﹄に 発句 並び に付 句入 集︒ 冬 剃 髪︒
俳 諧 師 西 鶴 の 軌 跡
五
〇
一 六七 八︵ 延宝 六︶ 年 三 七歳
三月 前 川由 平・ 中村 西国 と三 吟︑
﹁ 胴骨 三百 韻﹂ 成る
︒ 五月 青 木友 雪編
﹃櫻 千句
﹄刊
︑西 鶴一 座︒ 五月 月 松軒 紀子 編﹃ 大矢 数千 八百 韻﹄ 刊︑ 菅野 谷高 政判
︒ 八月 片 岡 旨 恕 編﹃ 難波 風
﹄に
︑旨 恕・ 貞 因・ 昌 本 と の 四 吟
︒﹃ 何 馬 百 韻﹄ 入 集
︒ 秋 筑 前 の 西 海︑ 上 阪 し て 京 阪 の 俳 士 と 参 会 し
︑俳 諧 を 興 行
︒西 鶴 こ れ を
﹃大 硯﹄ と題 し︑ 序文 を加 えて 上梓
︒西 海と の両 吟歌 仙一 巻入 集︒ 秋 京 都 那 波葎 宿 亭 にお い て 田代 松 意 と 参会 し
︑三 吟 三百 韻 を 興行
︒翌 日
︑ 河 野定 俊に 誘わ れて 嵯峨 野を 遊山
︒両 吟歌 仙一 巻を 巻く
︒こ れら を﹃ 俳 諧 虎渓 の橋
﹄と 題し 上梓
︒ 秋 高 石石 齋編
﹃珍 重集
﹄︑
﹁ 烏賊 の甲 や我 が色 こぼ す雪 の鷺
﹂の 独吟 百韻 を 所 収︒ 十 一月
﹃物 種集
﹄を 編纂 上梓
︒ 是 年 早 川西 随編
﹃五 徳﹄ 刊︑ 西鶴 一座 五吟 五百 韻入 集︒ 是 年
﹃三 鐵論
﹄に 独吟 百韻 一巻 入集
︒ 是 年
﹃博 多百 合﹄ を編 纂上 梓︒ 散逸
︒ 一 六七 九︵ 延宝 七︶ 年 三 八歳
正月
﹁吉 書也 天下 の世 継物 がた り﹂ の歳 旦発 句画 賛あ り︒ 正月 歳 旦集
﹁春 枕﹂ あり
︒ 正月 岡 西惟 中編
﹃太 郎五 百韻
﹄刊
︑西 鶴一 座の 百韻 入集
︒ 俳 諧 師 西 鶴 の 軌 跡
五 一
二月 井 筒公 木編
﹁四 吟六 日飛 脚﹂ に︑ 公木
・友 雪・ 遠舟
・西 察と の四 吟百 韻 一 巻入 集︒ 三月 水 雲子 編﹃ 難波 雀﹄ 刊︑ 俳諧 点者 の条 に西 鶴の 所附 あり
︒ 三月 仙 台梅 睡 庵 にお い て 大淀 三 千 風矢 数 俳 諧 を興 行 し︑ 三 千句 独 吟 を成 就
︑ 後
︑こ れを 西鶴 に託 し︑ 同八 月﹃ 仙台 大矢 数﹄ と題 して 刊行
︒ 西 鶴跋 文を 加え
︑歌 仙一 巻を 贈る
︒ 三月 摂 津鴻 池山 本西 六亭 にお いて
︑西 六・ 西花
・西 吟・ 西友 と五 吟百 韻を 興 行 し︑
﹃ 西鶴 五百 韻﹄ と題 して 上梓
︒ 三月 尾 州鳴 海下 里勘 兵衛 宛書 簡あ り︒ 四月 中 村西 国編
﹃見 花数 寄﹄ 刊︑ 西国 との 両吟 歌仙 一巻 入集
︒ 五月 青 木友 雪編
﹃両 吟一 日千 句﹄ 刊︑ 友雪 との 両吟 千句 及び 西鶴 跋文 あり
︒ 七月 三 田浄 久編
﹃河 内鑑 名所 記﹄ 刊︑ 発句 入集
︒ 八月 桑 折宗 臣編
﹁詞 林金 玉集
﹂に 発句 入集
︒ 八月 下 里吉 親︵ 知足
︶編
﹁稿 喚続 集﹂ 成り
︑西 鶴評 点知 足・ 䡄言
・如 風等 の 八 吟百 韻一 巻を 収め る︒ 八月 仙 台木 村一 水催 しに て︑ 生重
・辰 壽・ 一水
・頓 悦・ 定方
・重 行・ 友雪
・ 立 花等 と歌 仙六 巻を 興行
︑﹃ 句 箱﹄ と題 して 上梓
︒ 九月 杉 村西 治編
﹃二 葉集
﹄刊
︑西 鶴付 句入 集︒ 十月
﹃飛 梅千 句﹄ 刊︑ 大坂 天満 社頭 にて の一 日千 句を 所収
︒
俳 諧 師 西 鶴 の 軌 跡
五 二
十 一月 岡 西惟 中編
﹃近 来俳 諧風 体抄
﹄に 発句 並に 付句 入集
︒ 十 一月 富 永辰 壽編
﹁道 頓堀 花み ち﹂ に発 句並 に付 句入 集︒ 十 二月 中 島随 流著
﹃誹 諧破 邪顕 正﹄ 刊︑ 西鶴 を﹁ 阿蘭 陀西 鶴﹂ と罵 る︒ 十 二月 片 岡旨 恕編
﹃わ たし 船﹄ 刊︑ 西鶴 一座
・梅 翁・ 旨恕 等百 韻二 巻入 集︒ 冬 松 江維 舟著
﹃誹 諧熊 坂﹄ 刊︑ 西鶴 を﹁ ばさ れ句 の大 将﹂ と罵 る︒ 是 年
﹃杉 やき
﹄を 撰述 上梓
︒散 逸︒ 一 六八
〇︵ 延宝 八︶ 年 三 九歳
四月 和 気遠 舟編
﹃太 夫櫻
﹄を 刊︑ 発句 並に 付句 入集
︒ 五月 神 戸友 琴編
﹁白 根草
﹂に 発句 入集
︒ 五月 生 玉神 社南 坊で 再度 の矢 数俳 諧を 興行
︑一 昼夜 四千 句独 吟を 成就
︒ 六月 尾 州鳴 海下 里勘 兵衛 宛大 矢数 成就 の書 簡あ り︒ 八月 木 原宗 圓編
﹁阿 蘭陀 丸二 番船
﹂に 付句 入集
︒ 閏 八月 播 磨 飾 磨 西 漁 子 著﹃ 俳 諧 太 平 記﹄ に お い て
︑岡 西 惟 中 を 貶 め
︑西 鶴 を
﹁楠 西鶴
﹂と 褒美 する
︒ 九月 中 村西 国編
﹁雲 くら ひ﹂ に付 句入 集︒ 冬 澤 井梅 朝編
﹁江 戸大 坂通 し馬
﹂所 収梅 朝両 吟歌 仙一 巻興 行︒ 一 六八 一︵ 延宝 九︶ 年 四 十歳
九月
﹁天 和﹂ と改 元︒ 三月 齋 藤賀 子編
﹃山 海集
﹄刊
︑西 鶴版 下挿 絵︑ 発句 入集
︒ 春 熱 田に 兼頼 を訪 ね︑
﹃ 熱田 宮雀
﹄開 板成 就を 祝い
︑両 吟歌 仙を 興行
︒ 四月
﹃ 西鶴 大矢 数﹄ 刊︒ 俳 諧 師 西 鶴 の 軌 跡
五 三
五月 太 田友 悦編
﹁そ れぞ れ草
﹂に 発句 並に 付句 入集
︒ 秋 齋 藤賀 子編
﹁み つが しら
﹂に 賀子 との 両吟 百韻 一巻 入集
︒ 延 宝年 間の その 他西 鶴の 俳業 両吟 版下
﹃点 滴集
﹄に 発句 入集
︒ 編者 未詳
﹃昼 網﹄ に発 句並 に付 句入 集︒ 編者 未詳
﹃堺 絹﹄ に発 句入 集︒ 一 六八 二︵ 天和 二︶ 年 四 一歳
正月 大 幡蛇 鱗編 歳旦 集﹁ 犬の 尾﹂ に発 句入 集︒ 正月 土 橋春 林編
﹃百 人一 句難 波色 紙﹄ 刊︑ 西鶴 自画 自筆 版下
︒西 鶴自 画像 並 に 賛句 あり
︒ 正月 西 村未 達編
﹃關 相撲
﹄刊
︑西 鶴点 評歌 仙一 巻を 収め る︒ 三月 西 山宗 因没
︑七 十八 歳︒ 四月 紙 谷如 扶編
﹃三 ヶ津
﹄刊
︑発 句入 集︒ 四月 梅 林軒 風黒 編﹃ 高名 集﹄ に西 鶴版 下挿 絵︒ 発句 入集
︒ 五月 中 堀幾 音編
﹃家 土産
﹄に 発句 入集
︒ 十月
﹃ 好色 一代 男﹄ 刊︒ 一 六八 二︵ 天和 三︶ 年 四 二歳
三月 西 山宗 因一 周忌 追善 集﹃ 精進 膾﹄ 刊︒ 八月
﹁夢 想之 俳諧
﹂表 九句 独吟 執筆
︒ 一 六八 四︵ 貞享 元︶ 年 四 三歳
二月
﹁貞 享﹂ と改 元︒ 江 戸版
﹃好 色一 代男
﹄﹃ 諸 艶大 鑑︵ 好色 二代 男︶
﹄刊
︒
俳 諧 師 西 鶴 の 軌 跡
五 四
六月 住 吉神 社で 矢数 俳諧
︑一 昼夜 二万 三千 五百 句独 吟興 行︒ 八月 中 村西 国編
﹁引 導集
﹂に 付句 入集
︒ 十月
﹃俳 諧女 歌仙
﹄を 編纂 上梓
︒ 一 六八 五︵ 貞享 二︶ 年 四 四歳
﹃暦
﹄﹃ 西鶴 諸国 はな し﹄
﹃ 椀久 一世 の物 語﹄
﹃凱 陣八 嶋﹄ 刊︒ 正月 鈴 木清 風編
﹃稲 筵﹄ に発 句入 集︒ 一 六八 六︵ 貞享 三︶ 年 四 五歳
﹃好 色五 人女
﹄﹃ 好色 一代 女﹄ 刊︒ 三月 水 田西 吟編
﹁庵 櫻﹂ に発 句入 集︒ 一 六八 七︵ 貞享 四︶ 年 四 六歳
﹃本 朝二 十不 孝﹄
﹃男 色大 鑑﹄
﹃ 懐硯
﹄﹃ 武道 伝来 記﹄ 刊︒ 一 六八 八︵ 貞享 五︶ 年 四 七歳
九月
﹁元 禄﹂ と改 元︒
﹃日 本 永 代蔵
﹄﹃ 武 家 義理 物 語﹄
﹃ 嵐無 常 物 語﹄
﹃色 里 三 所 世 帯
﹄﹃ 新 可 笑 記
﹄﹃ 好 色盛 衰記
﹄刊
︒ 一 六八 九︵ 元禄 二︶ 年 四 八歳
﹃一 目玉 鉾﹄
﹃本 朝桜 陰比 事﹄ 刊︒ 十 一月
﹁俳 諧の なら ひ事
﹂を 筆作
︒ 一 六九
〇︵ 元禄 三︶ 年 四 九歳
五月 上 島鬼 貫編
﹁大 悟物 狂﹂ に西 鶴一 座の 百韻 入集
︒ 八月 月 津燈 外編
﹁生 駒堂
﹂に
︑燈 外・ 来山
・由 平・ 萬海
・鬼 貫等 との 六吟 半 歌 仙一 順並 に発 句入 集︒ 九月 加 賀田 可休 著﹃ 物見 車﹄ に西 鶴点 を難 ずる
︒ 十月 北 条團 水編
﹁秋 津島
﹂に 発句 入集
︒ 十月 北 条團 水著
﹃特 牛﹄ で加 賀田 可休 に駁 す︒ 俳 諧 師 西 鶴 の 軌 跡
五 五
一 六九 一︵ 元禄 四︶ 年 五 十歳
﹃椀 久二 世も のが たり
﹄刊
︒ 正月 北 条團 水歳 旦集 に西 鶴歳 暮吟 あり
︒ 正月 嶋 順 水 編﹁ 渡 し 船﹂ に 発 句 並 に 西 鶴・ 才 麿 等 一 座 の 七 吟 四 十 四 一 巻 入 集
︒ 正月 高 木自 問編
﹁難 波曲
﹂に 発句 入集
︒ 正月 北 条團 水編
﹃團 袋﹄ 刊︑ 西鶴 序等 あり
︒ 五月 流 木堂 江水 編﹁ 元禄 百人 一句
﹂に 発句 入集
︒ 五月 萩 野律 友編
﹁四 国猿
﹂に 律友 との 半歌 仙並 に萬 海・ 律友 との 三吟 第三 ま で 入集
︒ 六月 室 賀轍 士編
﹁我 が庵
﹂に 発句 並に 轍士
・萬 海等 との 四十 四巻 入集
︒ 八月 難 波松 魂軒 の匿 名で
﹃石 車﹄ を刊
︑加 賀田 可休 著﹃ 物見 車﹄ を駁 す︒ 八月 齋 藤賀 子編
﹁蓮 實﹂ に発 句︑ 並に 賀子 との 両吟
︑賀 子等 四吟
︑歌 仙二 巻 入 集︒ 十 一月 麻 野 幸 賢 編﹁ 河 内 羽 二 重﹂ に 幸 賢・ 来 山 と の 三 吟 歌 仙 一 巻 並 に 発 句 入 集
︒ 十 二月 歌 水艶 山両 吟歌 仙巻 に評 点︒ 一 六九 二︵ 元禄 五︶ 年 五 十一 歳
﹃世 間胸 算用
﹄刊 行︒ 一 六九 三︵ 元禄 六︶ 年 五 十二 歳
大 坂鑓 屋町 の草 庵で 没す る︒ 享年 五十 二歳
︒ 冬
﹃西 鶴置 土産
﹄刊
︒
俳 諧 師 西 鶴 の 軌 跡
五 六
三︑ 難 波 の俳 諧 師 西鶴 の 軌 跡 西鶴
の私 生活 が未 だ解 明さ れて いな いこ とは 衆知 のこ とで ある
︒ど こで 生ま れ︑ どの よう な身 分の 家に 生ま れ︑ 父 が 誰で
︑母 が誰 で︑ 本来 の家 業は 何で
︑西 鶴自 身が ど の よう な 生 業で 生 活 し︑ その 拠 点 た る場 所 が どこ で あ った か
︑ 本 名が 何で あっ たか
︑ま った く何 も明 確に なっ てい ない
︒ した がっ て︑ 右の よう に西 鶴の 文事 を俳 諧を 中心 に整 理し たが
︑生 年は 辞世 の句 とさ れる
﹁浮 世の 月見 過ご しに け り 末二 年﹂ から 遡っ ての 類推 でし かな い︒ 本姓 も井 原氏 とも 平山 氏︑ 名も 藤五 とも 伝え られ るが
︑こ こで
﹁西 鶴﹂ と す るこ とに 間違 いは ない
︒た だ︑ 出自 が定 かな らざ るの に﹁ 難波
﹂と する のは
︑大 坂を 中心 とし たと いう 意味 であ っ て
︑そ の俳 業と 晩年 の浮 世草 子作 家と して の出 版に いた るま でが 大坂 に基 盤が ある から であ る︒ ただ
︑浮 世草 子作 品 の 文芸 とし ての 展開 は別 項
⑸
と して
︑こ こで はふ れな い︒ 右の 年譜 にあ るよ うに
︑十 五歳 の頃 から 俳諧 を学 び︑ 後に 西山 宗因 に師 事し
︑大 坂談 林俳 諧の メン バー とし て活 躍 し た︒ 俳諧 師と して 独立 した のは 寛文 二年
︑二 十一 歳の こと であ る︒ 西山 宗因 門下 の談 林俳 諧の 俊秀 とし ての 西鶴 の 特 徴は
︑そ の後
︑﹁ 阿 蘭陀 流﹂ と称 され た自 由奔 放な 俳諧 的世 界を 拡大 化し て︑ 延宝 年間
︵一 六七 三〜 八一
︶︑ 矢数 俳 諧
︵弓 術の 大矢 数を まね て︑ 一日 の間 につ くっ た句 数の 多さ を競 う俳 諧興 行︶ を創 始し て世 間の 注目 を集 める
︒延 宝 五 年 五 月 に一 六
〇
〇句 を 独 吟し
︑つ い で 延 宝八 年 五 月に は 四
〇
〇〇 句 を 独吟
︑翌 年
﹃西 鶴 大 矢 数﹄ と 題 し て 刊 行 し た
︒そ の序 に﹁ 自由 にも とづ く誹 諧の 姿 を 我仕 は じ めし 已 来 也︵ この か た な り︶
﹂と 宣 言 して い る︒ こ の間
︑三 十 四 歳 のと き妻 を失 い︑ 三人 の幼 児を 抱え る家 庭的 な不 幸を 経験 した とさ れる が︒ 速吟 と浮 世の 日常 を題 材と した 風俗 詩 を 武器 とす る西 鶴の 激し い自 己主 張は
︑旧 来の 俳諧 に限 界を 見て いた 新し い集 団が 掲げ る統 率者 とし ての 地位 を固 め 俳 諧 師 西 鶴 の 軌 跡
五 七
て いく
︒ 西鶴 は延 宝八 年六 月二
〇日 付鳴 海下 里勘 州宛 書状 を発 して 矢数 俳諧 の成 功と 師・ 西山 宗因 から 褒美 をあ ずか った こ
︵ ママ
︶
と を報 告し てい る︒ 書中 の﹁ 今度 西山 宗因 先師 より
︑日 本第 一前 代之 俳諧 の性 と世 上に 申わ たし 候︑ さて さて めい ぼ く 此度 也﹂ は西 鶴が 難波 だけ でな く︑ 全国 レベ ルに おい ても 日本 一の 俳諧 師と なっ たこ とを
︑当 代随 一の 大宗 に公 認 さ れた こと を意 味し てい る︒ 俳諧 師西 鶴の 名声 は︑ この 延宝 年間 にお ける 膨大 な 俳 業と た び たび の 俳 諧大 矢 数 興 行の 成 功 で一 気 に 高ま り
︑﹁ 難 波
﹂﹁ 大 坂
﹂の
﹁西 鶴﹂ と いう 俳 諧 師は 地 方 俳壇 の 人 々 に知 れ 渡 った
︒結 果
︑俳 人 と し て の 交 流 も 全 国 区 に 拡 が り
︑ 大 坂を 起点 に江 戸・ 京都 など の都 市俳 壇︑ 地方 俳壇 との 絆は 西鶴 によ って 大成 し︑ その 事象 は談 林派 その もの の全 国 制 覇に 繋が った とい える ので ある
︒ 一見
︑西 鶴の 延宝 年間 は︑ 私事 の妻 との 死別 以外 は︑ 順風 満帆 の俳 業の よう であ るが
︑西 鶴を 巻き 込ん だ談 林俳 壇 を 揺る がす 事件 が起 こっ てい る︒ 西鶴 とと もに 大坂 談林 俳壇 に名 を馳 せて いた のが 岡西 惟中
︵一 六三 九│ 一七 一一
︶で あっ た︒ 江 戸時 代前 期の 浪人 学者
︑俳 人︒ はじ め松 永氏
︒通 称平 吉︑ 名は 勝︒ 号惟 中・ 一時 軒・ 北水 浪士 ほか
︒寛 永十 六 年
︵一 六三 九︶ 因州 鹿野 の産
︒父 は没 落武 士︒ 惟中 はは じめ 土地 の先 学に 和歌
・歌 学を 学び
︑青 年以 後岡 山に 住 み 京都 の烏 丸資 慶に 歌学 を︑ 青蓮 院宮 尊証 入道 親王 に書 道・ 歌学 の免 許を 受け た︒ 学を もっ て岡 山藩 に仕 官を 志 し たが 失敗 した らし い︒ その 間俳 諧に も 興 味を 抱 き 寛文 九
︵一 六 六九
︶︑ 十 年 ご ろ西 山 宗 因に 入 門︑ 談 林俳 諧 全 盛 期の 波に 乗っ て俳 諧寓 言論 を鼓 吹し つつ 俳論
・評 論活 動を 展開
︑延 宝六 年︵ 一六 七八
︶に はつ いに 宗因 跡目 を ね らっ て大 坂に 進出
︑談 林随 一の 論客 とし て筆 陣を 張り
︑実 作の 井原 西鶴 と双 璧を なす
︒し かし 延宝 末の 談林 衰 退 と同 時に 俳壇 を去 り︑ 本来 の歌 学・ 儒学 にも どっ たが 外題 学者 との 評も あり
︑学 問的 には 二流 に終 った
︒俳 論
俳 諧 師 西 鶴 の 軌 跡
五 八
﹃俳 諧蒙 求﹄
﹃近 来俳 諧 風 体抄
﹄︑ 古 典 注釈
﹃枕 草 子 旁註
﹄﹃
︵ 諸 鈔正 誤
︶徒 然 草 直解
﹄そ の 他 の著 あ り︒
︵﹃ 国 史 大 辞 典﹄
﹁ 岡西 惟中
﹂項 目担 当・ 今榮 蔵︶ 右は 果た して
︑岡 西惟 中の 胡乱 な文 事を 見 事 にま と め られ た 項 目で あ る︒ い つ の間 に か︑
﹁ 寓言 論
﹂な る もの を 持 っ て談 林俳 壇の 理論 派を 標榜 し︑ 大坂 に寓 居を 求め
︑延 宝年 間に は俳 諧活 動を 積極 的に 展開 し始 めた
︒ 延宝 八年 正月
︑歳 旦三 物に
﹁摂 州大 坂﹂
﹁ 西山 梅翁 跡目
﹂﹁ 一時 軒惟 中﹂ とし て京 都か ら井 筒屋 庄兵 衛方 より 版行 す る とい う蛮 行が あっ た︒ これ は西 鶴ら 談林 派の 諸氏 を差 し置 いた 僭越 な談 林俳 壇二 代目 宣言 であ る︒ 先に 延宝 七年 十二 月に
︑貞 門派 の中 島随 流著
﹃誹 諧破 邪顕 正﹄ が談 林派 を烈 しく 難じ て︑ 西山 宗因 を﹁ 紅毛 流の 張 本
﹂と 罵り
︑大 坂の 代表 とし て西 鶴を
﹁阿 蘭 陀 西鶴
﹂︑ 京 都 の代 表 と して 菅 野 谷 高政 を
﹁惣 本 寺半 伝 連 社高 政
﹂と し て 攻撃 して いる が︑
﹁ 大坂 の岡 西惟 中﹂ の名 はあ が らな か っ た︒ 惟中 と し ては 沽 券 に 関わ る 屈 辱で
︑翌 年 の 歳旦 三 物 の
﹁西 山梅 翁跡 目﹂ とい う自 称に 発展 して しま った と言 える
︒ しか し︑ 惟中 の蛮 行は 続い た︒ 延宝 八年 二月 に﹃ 誹諧 破邪 顕正 返答
﹄を 刊行 し︑ 宗因 及び 宗因 俳諧 に対 する 随流 の 論 難を 排撃 し︑ 反対 に同 門の 高政 延い ては 西鶴 をも
﹁文 盲不 智の 輩﹂
・﹁ 師 伝を 背﹂ く﹁ 不才 放埒
﹂者 と暗 に貶 め︑ 己 れ を以 て﹁ 梅翁 師の 正統
﹂を 継ぐ 者な るこ とを 言外 に匂 わせ て いる
⑹
︒こ れ は 惟 中が
﹁梅 翁 師 の正 統
﹂と 宣 言し た の と 同じ 由々 しき 事態 であ る︒ が︑ 直な る西 鶴の 反論 も宗 因の 反響 も未 見で ある
︒ しか しな がら
︑西 鶴は すぐ に惟 中の みな らず
︑す べて の談 林俳 人へ のメ ッセ ージ とも 言う べき 行動 をと る︒ それ が 延 宝八 年五 月に 催さ れた 生玉 神社 で催 され た矢 数俳 諧興 行で ある
︒こ の矢 数俳 諧は 延宝 九年 四月 に﹃ 西鶴 大矢 数﹄ と し て刊 行さ れる が︑ 野間 光辰 氏は
︑こ の一 連の 行為 につ いて
︑ 延 宝九 年四 月刊 行の
﹃大 矢数
﹄巻 四西 鶴 自 跋に
︑﹁ 予 俳 諧正 風 初 道に 入 て 二 十五 年
︑昼 夜 心を つ く し︑ 過つ る 中 春 末の 九日 に夢 を覚 し侍 る︒
﹂ と述 べて ゐる
︒こ れ は西 鶴 の 俳諧 師 と して の 生 涯 にお い て︑ 特 筆す べ き 事件 で あ 俳 諧 師 西 鶴 の 軌 跡
五 九
る と思 ふ︒ 抑も
﹁夢 を覚 し﹂ たと いふ こと は 如 何な る こ とを い ふ ので あ ら う か︒ 即ち
︑﹁ 今 世 界の 俳 風 詞を 替 品 を 付︑ 様々 流儀 有と いへ ども
︑元 ひと つに して 更に 替る 事な し︒ 惣て 此道 さか んに なり 東西 南北 に弘 る事
︑自 由 に もと づく 俳諧 の姿 を我 仕は じめ し已 来也
︒﹂ と い ふ一 大 自 信に 到 達 した こ と に 外な ら な い︒ しか し て その 大 自 信 に基 いて 再度 世に 問う たの が︑ 是歳 五月 興行 の矢 数俳 諧︑ 四千 句独 吟俳 諧で あつ たの であ る︒
⑺
と 指摘 され てい る︒ 矢数 俳諧 興行 の成 果は︑先 述し た下 里勘 州宛 書状 にあ るよ うに 面目 躍如
︑師 の西 山宗 因か ら﹁ 日 本 第一
﹂と 誉れ をい ただ くこ とに なる ので ある
︒こ の書 簡が 事実 なら 西山 宗因 が認 めた 談林 の後 継者 は西 鶴で ある と い うこ とに なる
︒結 果︑ 中島 随流 への 論駁 にも なり
︑惟 中の 跡目 略奪 への 抑止 にも なっ たの であ る︒
﹁ 生玉 大矢 数﹂ では なく
︑﹁ 西鶴
﹂と 冠し たこ とに 西鶴 の自 信と 自負 が感 得で きる
︒ 談林 俳壇 での 揺る ぎな い地 位を 獲得 した 西鶴 であ った が︑ 延宝 期が 終わ ると
︑そ の翌 年の 天和 二年 三月
︑師
・西 山 宗 因が 没す る︒ 宗因 はこ の年 正月 も大 和郡 山で 歳旦 の 連 歌発 句 を 詠ん で い るの で
︑突 然 の 死で は な かっ た よ うだ が
︑ 七 十八 歳と いう 享年 は老 衰と 言っ て よ く︑
﹃西 山 宗 因全 集
﹄に
︑そ の 前年 中 に﹁ 生 涯 の連 歌 発 句を 自 選 浄書 し て﹃ 宗 因 発句 帳﹄ 成る か﹂ とあ るよ うに
︑自 他と も︑ その 終焉 を予 期し てい たと 推察 でき る︒ その ため であ ろう
︑西 鶴は その 年︑ 宗因 没後 半年 余り しか 経た ない 十月 に﹃ 好色 一代 男﹄ を刊 行し て︑ 浮世 草子 の 世 界に 身を 転身 する ので ある
︒版 下は 少な くと も没 後四 十九 日過 ぎた 頃に は取 りか かっ てい たで あろ う︒ この 半年 ほ ど の間 に談 林俳 壇に 何が 起き たか
︑有 力な 史料 はな いが
︑先 の跡 目問 題に 巻き 込ま れた くな い西 鶴が そこ にあ った の で はあ るま いか
︒や はり
︑貞 享元 年六 月に 行わ れた 住吉 神社 で矢 数俳 諧︑ 一昼 夜二 万三 千五 百句 独吟 興行 は俳 業の 中 で 一区 切り をつ けた とい う意 味で
︑可 視化 され た回 答と も言 える
︒ その 後も 貞享 年間 を通 じ︑ 俳諧 から 離れ た わ けで は な いが
︑﹃ 好 色 一代 男
﹄の 異 様 すぎ る 人 気は
︑西 鶴 の 次な る 作 品 を望 んで 止む こと がな く︑ 浄瑠 璃も 含め て年 間 五 作品 前 後 の浮 世 草 子を 刊 行 し てい く
︒研 究 史の 中 で も︑
﹃好 色 一
俳 諧 師 西 鶴 の 軌 跡
六
〇
代 男﹄ のみ が西 鶴自 作で ある とか
︑西 鶴工 房な るも のが あっ たと か取 り沙 汰さ れる が︑ 延宝 期の 多忙 さか らは 決し て 不 思議 では ない
︒ さ り なが ら
︑俳 諧 への 情 熱 は残 っ て い たの で あ ろう
︒元 禄 四 年に 弟 子 の 北条 團 水 を絡 め て︑ 難 波 松 魂 軒 の 匿 名 で
﹃石 車﹄ を刊 行し
︑加 賀田 可休 著﹃ 物見 車﹄ を駁 した 論 調は か つ てな い 凄 烈な も の で あっ た が︑ 詳 述は 別 項 に譲 り た い
⑻
︒ま た︑ 元禄 二年 正月 に刊 行さ れた
﹃一 目玉 鉾﹄ は地 誌と 分 類さ れ る が︑ 蝦 夷千 島 か ら五 島
・壱 岐・ 対 馬に 至 る 間 の城 下町
・宿 駅・ 物産
・社 寺・ 名所
・古 跡・ 故事
・古 歌な どを 記述 して おり
︑絵 入り のた め︑ 旅行 案内 記と もさ れ る が︑ 俳諧 師西 鶴が 諸国 を巡 った り︑ 情報 を集 めた 成果 であ る︒ 序末 にも
﹁難 波俳 林﹂ と肩 書き して いる こと から も 難 波 の 俳 諧師 と し ての 自 負 が伺 え る
︒ま た︑ そ の所 載 の 名所 が 西 廻 り航 路 と 重な る こ とな ど は こ れも 別 項 に 譲 り た い
⑼
以 ︒ 上 のよ うに 俳諧 師西 鶴の 軌跡 を俯 瞰し たが
︑私 的に 俳諧 師西 鶴と し ての 足 跡 を 三期 に 分 けて 考 え たい
⑽
︒極 め て 事 象 的 で あ る が﹁ 第 一 期 蠢 動 期︵ 出 生〜 寛 文・ 延 宝 元
︶﹂
︑﹁ 第 二 期 躍 動 期
︵延 宝 元〜 貞 享︶
﹂︑
﹁ 雪 辱 期
︵元 禄
︶﹂ と 名付 けた い︒ 第三 期は 相応 しく ない 命名 のよ うで ある が︑ かつ ての 談林 俳壇 の木 鐸の 雪辱 期と した
︑今 後も 論を 加 え たい
︒
四︑ 俳 諧 師西 鶴 の 蠢動 期 の 再検 証 再び
︑第 一期 につ いて のみ 検証 を加 えた い︒
﹁ 井原 西鶴
﹂と いう 人物 はほ とん どの 事典 類に 立項 され てい るも のの
︑ そ の時 期の 記事 に落 着す るも のは 得ら れな い︒ 先述 の﹃ 国史 大辞 典﹄ より その 部分 を引 用す る︒ 江 戸時 代前 期の 俳諧 師︑ 浮世 草子 作者
︒本 名平 山藤 五︒ 伊藤 梅宇 の﹃ 見聞 談叢
﹄に よる と大 坂の 富裕 な町 人の 子 俳 諧 師 西 鶴 の 軌 跡
六 一
弟 であ った が︑ 幼少 にし て父 に死 別し
︑家 業を 手代 に譲 って みず から は俳 諧に 遊び
︑諸 国を 遊歴 する かた わら 小 説 に筆 を執 った とい う︒ 西鶴 自身 の記 すと ころ によ れば
︑明 暦二 年︵ 一六 五六
︶十 五歳 のこ ろ俳 諧を 学び
︑寛 文 二 年︵ 一六 六二
︶二 十一 歳の 時に は早 くも 点者 とし て独 立し たと いう
︒俳 号を 鶴永 と称 した
︒最 初は 貞門 古風 を 学 んだ よう であ るが
︑の ちに 談林 俳諧 の祖 西山 宗因 に師 事し たこ とが
︑西 鶴の その 後の 生涯 を決 定す るこ とに な る
︒延 宝元 年︵ 一六 七三
︶三 十二 歳大 坂の 生玉 にお いて 興行 した
﹃生 玉万 句﹄ は︑ すな わち 彼が 宗因 門の 新鋭 と し て︑ みず から
﹁阿 蘭陀 流﹂ の軽 口・ 狂句 の新 しさ を天 下に 呼号 した 第一 声で ある
︒
﹁ 幼少 にし て父 に死 別し
︑家 業を 手代 に譲 っ﹂ た か否 か は 想像 の 域 であ る し︑ こ こ では さ ほ ど重 要 で はな い
︒む し ろ
︑﹁ 俳 諧に 遊び
︑諸 国を 遊歴
﹂し たか 否か の方 が 重要 で あ る︒ なる ほ ど︑ 西 行は 生 涯 の 大半 を 奥 州か ら 九 州ま で の さ すら いの 旅で すご すが
︑こ れ は 西鶴 と 同 時代 を 生 きた 芭 蕉︵ 一 六 四四
│一 六 九 四︶ が﹃ 奥の 細 道﹄
︵ 一七
〇 二︶ 冒 頭 で﹁ 月日 は百 代の 過客 にし て︑ 行き 交ふ 年も また 旅人 なり
︒船 の上 に生 涯を 浮か べ︑ 馬の 口と らへ て老 いを 迎ふ る 者 は︑ 日々 旅に して 旅を 栖と す︒ 古人 も多 く旅 に死 せ る あり
︒﹂ と 唱 えて か ら 定着 し た 俳 人と し て 持ち あ わ せる べ き 境 涯︑ さら に言 えば 俳諧 師と して の修 業の 一つ では ある まい か︒ 何も 芭蕉 が登 場す る前 のこ の時 期に
︑西 鶴が 俳諧 師 を 志す ため に﹁ 諸国 を遊 歴﹂ した とは 思え ない
︒ 論者 は以 前よ り︑ 拙論 とし て主 張し てい るよ うに 西鶴 は隠 居す るま での 青年
・壮 年期
︑米 商人 とし て︑ 海の 道よ り 全 国を 廻り
︑交 遊範 囲を 拡げ たの であ り︑ その 結果 とし て晩 年の 浮世 草子 の多 くが 諸国 話の 形式 をと るこ とに 繋が っ た
⑾
と考 えて いる
︒そ の意 味で は逆 の発 想で 諸国 物産 の流 通圏 をま わ るこ と で︑ 全 国 を知 り 尽 くし て お り︑ それ が 俳 諧 に役 立っ たと 言え るの であ る
⑿
︒ 彼の 地の 海運
︑川 運の 流通 拠点 には 経済 的に 豊か とな った 素封 家が リー ダー シッ プを とり
︑富 裕さ とと もに 生ま れ た 文化 熱が 俳諧 の遊 びを 覚え
︑や がて それ は旦 那芸 とし ての 地方 俳諧 文化 圏を 形成 し︑ そこ に大 坂俳 壇の 旗手
・西 鶴
俳 諧 師 西 鶴 の 軌 跡
六 二
が 風交 を尽 くす
︒彼 が﹁ 大坂 談林 俳壇
﹂の 雄と して 相互 交流 を行 い︑ 都市 談林 と地 方談 林を 結び つけ たの であ る︒ 事 実
︑地 方俳 諧文 化圏 を形 成し た人 々は 流通 文化 圏の 盟主 たち であ った ので ある
⒀
︒ とこ ろで
︑右 に﹁ 明暦 二年
︵一 六五 六︶ 十五 歳の ころ 俳諧 を学 び﹂ とは 誰か らど のよ うな 俳諧 をま なん だの であ ろ う か
︒俳 諧 の 道に 入 っ た年 は
︑西 鶴 自ら が
﹃西 鶴 大 矢数
﹄︵ 一 六 八一
︶巻 四 跋 で﹁ 予 俳 諧 正 風 初 道 に 入 て 二 十 五 年
﹂ と 記し てい ると ころ から 遡っ て明 暦二 年と して いる に過 ぎな い︒ 客観 的な 記録 は未 見で ある
︒こ の当 時の 俳壇 は松 永 貞 徳を いた だく 貞門 派が 全盛 期で あり
︑従 来よ り西 鶴 に つい て も 初め は 貞 門俳 諧 に 学 んだ と 言 う説 が 多 い︒ しか し
︑ 二 十一 歳で 俳諧 点者 とす る説 も﹃ 石車
﹄︵ 一 六九 一︶ 巻四 に﹁ 誹道 に入 て三 十余 年﹂
﹁我 三十 年点 をい たせ し﹂ とあ る の を遡 った だけ であ る︒ 現研 究状 況に あっ ては 西鶴 の師 匠系 列は 明ら かで ない とい う判 断を 下す のが 妥当 であ ろう
︒ ただ
︑西 鶴が 貞門 俳諧 に学 んだ とす る言 説の 拠り 所に して も西 鶴の 年譜 を当 時の 俳諧 史に 被せ たに すぎ ない
︒ だ がし かし
︑﹁ 談 林派
﹂の 定義 は難 しい
︒﹃ 日本 国語 大辞 典﹄
﹁ 談林 派﹂ にお いて
︑ 江 戸時 代︑ 寛文
︵一 六六 一〜 七三
︶末 年か ら延 宝年 間︵ 一六 七三
〜八 一︶ にわ たっ て俳 諧文 学の 主流 とな った 流 派
︒西 山宗 因の 軽妙 で自 由な 作風 のも とに
︑大 坂の 新進 気鋭 の俳 人西 鶴・ 惟中 らが 集ま って 反貞 門的 で奔 放自 由 な 新 流 派 を形 成 し た︒ 中世 の 宗 武・ 宗鑑 の 作 風 を継 承 す るこ と を 標 榜し た が︑ 当 時の 庶 民 の 生 活 感 情 を 反 映 し て
︑そ の 現 実 生活 を い っそ う 強 烈に う た い 上げ て い る︒ 延宝 三 年︵ 一 六 七 五︶ 頃 か ら 江 戸 の 新 鋭 俳 人 桃 青︵ 芭 蕉
︶・ 幽 山・ 松意 らが 加わ り︑ さら に 京都 俳 壇 の高 政
・常 矩 らも 同 調 す るに 至 っ た︒ 当時 は 西 翁流
・宗 因 流・ 梅 翁 流な どと 称し てい たが
︑の ちに 江戸 の田 代松 意一 派の 自称 であ った
﹁談 林派
﹂が
︑こ の派 の名 称と され るよ う に なっ た︒ と する よう に︑ 諸説 は貞 門俳 諧の 作風 の マ ンネ リ ズ ムを 打 破 する た め︑
﹁ 西 山宗 因
﹂を か つい で
︑大 坂︑ つ いで 全 国 的 に奔 放自 由な 新風 を起 こし
︑新 流派 を形 成し
︑そ! の! 全! 盛! 期! を! 延! 宝! 年! 間! 前! 後! に! 求! め! て! い! る! こ とは 共通 認識 であ ると 言 俳 諧 師 西 鶴 の 軌 跡
六 三
え る︒ 穿っ た見 方を すれ ば︑ 西鶴 と師 であ る西 山宗 因︵ 一六
〇五
│八 二︶ の俳 業に 合わ せた 感さ えあ る︒ 西山 宗因 につ いて は︑ その 文事 とも 言う べき 活動 歴が 長い ので 最も 簡潔 な解 説を 引用 して おく
︒ 江 戸時 代前 期の 連歌 師︑ 俳 人︒ 通 称次 郎 作︑ 諱 は豊 一
︵と よ かず
︶︒ 連 歌 名 は宗 因
︒の ち 俳号 と 共 用︒ 俳号 は 一 幽
︑の ちに 西 翁・ 西 山翁
・梅 翁
・野 梅 子︵ 翁︶
︑別 号 に 長松 軒
・忘 吾 斎・ 向 栄庵 な ど があ る
︒慶 長 十年
︵一 六
〇 五
︶加 藤清 正の 家来 西山 次郎 左衛 門の 子と して 熊本 に生 まれ た︒ 元和 五年
︵一 六一 九︶ 十五 歳の ころ から 家老 八 代 城代 加藤 正方
︵号 風庵
︶の 小性 とし て出 仕︑ その 感化 によ って 連歌 道に 入り
︑つ いに 終生 主従 の変 わら ぬ契 り を 結ぶ
︒連 歌の 師は 京の 里村 昌琢 で︑ 豊一 の名 のみ える 最も 早い 作品 は︑ 元和 七年 十月 二十 四日
︑佐 河田 昌俊 が 興 行 し た 連歌 百 韻 であ る
︒主 正 方に 従 っ て 江戸
・京 を 往 来す る 間︑ 何 が し か の 作 品 が あ り︑ 寛 永 八 年︵ 一 六 三 一
︶に はは じめ て宗 因を 号し た︒ しか し︑ 翌九 年突 発の 加藤 家陰 謀事 件に より 肥後 一国 は収 公︑ 主従 とも に浪 人 と なる
︒翌 十年 入京
︑正 方と とも に宗 因は 連歌 師と して 活躍 した
︒正 方が 仕官 運動 に失 敗し て広 島藩 御預 けの の ち
︑慶 安元 年︵ 一六 四八
︶同 地に 客死 する に 及 び︑ つい に 意 を決 し
︑大 坂 天満 宮 の 連 歌宗 匠 と して 大 坂 に下 る
︒ 以 後寛 文期 に至 る間 はも っぱ ら天 満宮 を根 拠と して
︑月 次連 歌の 再興 など に活 躍︑ その 名声 諸国 に弘 まり
︑各 地 に 出張
︑﹃ 松 島一 見記
﹄﹃ 筑紫 太宰 府 記﹄
﹃ 西国 道 日 記﹄ など の 紀 行文 を 残 し た︒ また こ の 時期
︑京 の 松 江重 頼 を 招 い て 俳 諧を 興 行 し︑ つい に 俳 諧師 と し て も指 導 者 の技 倆 を 発 揮し た
︒か く て 貞 門 古 風 の﹁ 詞 付﹂ か ら 脱 却 し て
︑軽 妙自 在な
﹁心 付﹂ の特 色を もっ て俳 壇に 清新 の風 を吹 き入 れ︑ 軽口
・狂 句を もっ て標 榜︑ つい に談 林俳 諧 の 宗枢 とし て仰 がれ るに 至っ た︒ 守武 流ま た西 翁流 とい われ 宗因 晩年 に及 んで 俄然 全国 を風 靡す るや
︑い ち早 く 井 原西 鶴が 馳せ 参じ た︒ 延宝 三年
︵一 六七 五︶ 宗因 は東 下し て内 藤風 虎屋 敷に 滞在 し︑ 松意 ら江 戸談 林の 徒と 興 行
︑松 尾芭 蕉・ 山口 素堂 らも これ に同 調し た︒ また 同六 年岡 山か ら上 坂し た岡 西惟 中︑ 京の 菅野 谷高 政も 参加 し て
︑宗 因流 は昂 揚の 時期 を迎 える
︒︵ 後 略︶
﹃国 史大 辞典
﹄﹁ 西 山宗 因﹂
︵担 当 島居 清︶
俳 諧 師 西 鶴 の 軌 跡
六 四
再び
︑俳 諧師 西鶴 の﹁ 蠢動 期﹂ の検 討に 視座 を移 す︒ そこ には 西鶴 と西 山宗 因と の関 係を 起点 とす るの が論 じや す い こ と は 一目 瞭 然 であ る
︒と こ ろが
︑こ れ も ま た初 回 の 接点 が 不 明 であ る
︒と は い う も の の﹁ 西 山 宗 因﹂ に つ い て は
︑近 年︑ 西山 宗因 研究 の泰 斗に よっ て編 まれ た﹃ 西山 宗因 全集
﹄が 完結 した ので
︑こ れに よっ て近 世前 期韻 文史 を 再 検 討 で き る と い う 至 福 の 学 恩 を 得 た
︒そ こ で
︑俳 諧 師 西 鶴 の﹁ 蠢 動 期﹂ に つ い て も︑ そ の﹁ 西 山 宗 因 年 譜﹂
⒁
を︑ 西 鶴と 西山 宗因 の関 係性 を実 践躬 行し たい
︒以 下︑
﹁ 蠢動 期﹂ に関 わる
﹁西 山宗 因年 譜﹂ に基 づい た略 年譜 をあ げる
︒ 一
六五 四︵ 明暦 元︶ 年 五 十一 歳 冬
約十 年住 んだ 天満 宮境 内の 仮寓 有芳 庵を 去り
︑某 所に 寓居 する
︒ 一 六五 六︵ 明暦 二︶ 年 五 十二 歳 正月
俳諧 の歳 旦発 句﹁ 明暦 や﹂
︵﹃ 境 海草
﹄︶
︒ 同
発句
﹁古 歌に
﹂︵
﹃ 知足 書留 歳旦 帖﹄
︶︒ 蔭 山 休安 撰
﹃ゆ め み草
﹄に
︑俳 諧 発 句六
︑同 付 句 二 句 入 集
︑﹁ 天 満 之 住・ 一幽
﹂と あり
︒ 二月
清水 寺法 楽の 独吟 連歌 百韻 を賦 す︒ 三月
某人 の求 めに 応じ
︑﹃ 古 今和 歌集
﹄の 書写 を遂 げる
︒﹁ 宗因 花 押﹂
︒ 六月
連歌 師昌 隠の 七回 忌に 連歌 発句 を手 向け る︒ 九月 十五 日 天満 碁盤 屋町 の向 栄庵 成る
︒ 二十 日
﹁ 告天 満宮 文﹂ を草 し︑ 連歌 百韻 とと もに 天満 宮に 奉納
︒ 同庵 に入 る︒ 向栄 庵新 造記 念の
﹁あ さみ こそ
﹂俳 諧百 韻を 興行 する
︒発 句︑ 重頼
︒ 重頼
︒連 衆︑ 宗因
・以 春・ 玖也
・顕 成・ 祐是
・忠 由・ 保友
・三 政・ 執 俳 諧 師 西 鶴 の 軌 跡
六 五
筆︒ 十二 月 向栄 庵に おい て﹁ 神の 春﹂ の吟 成る か︒ 一 六五 七︵ 明暦 三︶ 年 五 十三 歳 正月
俳諧 の歳 旦発 句﹁ 新春 の﹂
︵﹃ 知 足書 留歳 旦帖
﹄︶
︒ 本年 前後 の春
︑大 坂住 の俳 人数 名と 共同 で会 所を 借り
︑月 次の 俳諧 興 行 を 始め る か︵ 松 平文 華 館 蔵宗 因 真 蹟 短冊 詞 書︶ 本 年以 前 の 春
︑﹁ な がむ とて
﹂俳 諧独 吟百 韻成 る︒ 富永 燕石 撰﹃ 牛飼
﹄に 俳諧 発句 二句 入集
︑﹁ 天 満・ 一幽
﹂と あり
︒ 一 六五 八︵ 明暦 四︶ 年 五 十四 歳 七月
﹁ 万治
﹂と 改元
︒ 八月 頃 京都 壬生
︑寂 静庵 順正 の聖 廟を 拝し
︑法 楽の
﹁月 清し
﹂独 吟連 歌歌 仙 を興 行︒ 是年 頃 末吉 宗久 独吟 の同 母懐 旧﹁ 見つ る世 の﹂ 連歌 百韻 に批 点を 施す
︒ 一 六五 九︵ 万治 二︶ 年 五 十五 歳 正月
歳旦 吟と して
︑連 歌発 句﹁ 万代 を﹂ 成る
︵﹃ 宗 因発 句帳
﹄︶
︒ 歳旦 吟と して
︑俳 諧発 句﹁ 難波 津に
﹂成 る︵
﹃ 捨子 集﹄
︶︒ 難波 入江 にて 榊原 忠次 と参 会︒ 百韻 成る
︒ 夏
榊原 家の 招請 によ り播 州下 向︒ 曽根 天満 宮に て連 歌座 に出 座︒ 八月
姫路 藩邸 にて
︑和 歌一 首︑ 連歌 発句 一句
︑俳 諧発 句一 句を 詠む
︒ 同月 姫路 藩邸 にお いて 連歌 百韻 に一 座す るん どし
︑九 月ま で滞 在か
︒ 九月 頃 榊原 政房 の参 府を 機に 機姫 路を 辞し
︑曽 根村 で俳 諧発 句を 吟じ るな どし つつ
︑大 坂天 満に 戻る か︒
俳 諧 師 西 鶴 の 軌 跡
六 六
岡本 胤及 撰﹃ 鉋屑 集﹄ に俳 諧発 句六 句入 集か
︒﹁ 大 坂﹂
﹁一 幽 六﹂ と する も︑ 完本 は現 存せ ず︒ 本年 以前 の秋
︑大 坂に て﹁ つぶ りを も﹂ 俳諧 独吟 百韻 成る
︒ 十月 中旬 序 刊・ 高瀬 梅盛 撰﹃ 捨子 集﹄ に俳 諧発 句一 句入 集︒ 一 六六
〇︵ 万治 三︶ 年 五 十六 歳 正月
歳旦 吟と して
︑﹁ 朝 夕の
﹂と 詠み
︑天 満・ 大坂 連衆 二十 三名 の歳 旦 連歌 発句 とと もに
︑姫 路の 榊原 忠次 に贈 るか
︒ 正月 十五 日 序刊
・北 村季 吟撰
﹃新 続犬 筑波 集﹄ に発 句三 句︑ 付句 六句 入集
︒
﹁ 摂津
﹂﹁ 一幽 天 満﹂
︒ 二月
昌啄 二十 五回 忌追 善の 独吟
﹁年 月や
﹂連 歌百 韻を 興行
︒ 三月
姫路 藩邸 にお いて
︑榊 原忠 次及 び家 中と 連歌 に興 じた か︒ 四月 刊︑ 高瀬 梅盛 撰﹃ 俳仙 三十 六人
﹄に 選ば れ︑ 俳諧 発句 一句 入集
︒ 七月 刊︑ 那賀 盛之
・阿 知子 顕成 撰﹃ 境海 草﹄ に俳 諧発 句二 十八
︑付 句 十句 入集
︒﹁ 天 満﹂
﹁一 幽 廿七
﹂︒ 九月 十五 日 跋刊
・谷 口重 以撰
﹃百 人一 句﹄ に選 ばれ
︑俳 諧発 句一 句︒ 九月
正方 十三 回忌 にあ たり
︑﹁ 消 にき と﹂ 懐旧 連歌 百韻 を独 吟で 賦す
︒ 十 月 刊︑ 松江 重 頼 撰﹃ 懐子
﹄﹁ 懐 子﹂ に 俳諧 発 句 二 十 五 句︑ 付 句 四 十 二 句 入集
︒同
﹁懐 子 伽﹂ 発 句十 六 句︑ 付 句百 五 十 七 句 入 集
︒﹁ 大 坂 之 住﹂
﹁ 一幽
﹂ 冬
伊勢 大神 宮参 詣し て連 歌発 句一 句成 るか
︒ま た︑ 松坂 の昌 隠旧 跡を 訪 俳 諧 師 西 鶴 の 軌 跡
六 七
ねて 連歌 発句 二句 成る か︒ 冬
伊勢 滞在 中に 俳諧 発句 三句 成る か︒ 一 六六 一︵ 万治 四︶ 年 五 十七 歳 四月
﹁ 寛文
﹂と 改元
︒ 正月
宗春 と伊 勢大 神宮 法楽 の﹁ 日の 御影
﹂連 歌百 韻を 両吟 で賦 し︑ 神前 に 奉納 する
︒ 本年 前後
︑作 者不 知の
﹁つ くね ても
﹂俳 諧百 韻に 評点 を施 す︒ 本 年 以前 の 夏︑
﹃ 雪千 句
﹄追 加﹁ 撫 物や
﹂俳 諧 百 韻 を 保 友・ 重 安 と 共 に成 就︒ 七 月 跋刊
・高 瀬 道 甘撰
﹃へ ち ま 草﹄ に俳 諧 発 句 一句 入 集
︒﹁ 摂 州 大 坂 之住 一幽 一
﹂ 一 六六 二︵ 寛文 二︶ 年 五 十八 歳 正月
歳旦 吟と して
︑俳 諧発 句﹁ 相生 の﹂ と詠 み︑ 天満
・大 坂連 衆十 六名 の 歳旦 俳諧 発句 とと もに
︑姫 路の 榊原 忠次 に贈 る︒ 三月 刊︑ 如之 撰﹃ 伊勢 正直 集﹄ に俳 諧発 句十 一句 入集
︒﹁ 大 坂住
﹂﹁ 西 山一 幽 十一 句﹂ 三月 初旬
︑大 坂を 発ち
︑京 に数 日滞 在後
︑東 海道 を下 り︑ 夏中 を奥 州 磐城 平藩 主内 藤忠 興嫡 男義 概の 江戸 屋敷 を中 心と した 文化 圏で 過ご す か︒ 六 月 序 刊
︑田 中 光 方 撰
﹃雀 子 集
﹄に 俳 諧 発 句 一 句 入 集︒
﹁大 坂 之 住
﹂
﹁ 一幽 一句
﹂︒
俳 諧 師 西 鶴 の 軌 跡
六 八
七月
江戸 より 磐城 平藩 に入 り︑ 磐城 平藩 主内 藤忠 興の 城下 に至 る︒ 八月
﹁ 奥州 紀行
﹂︒ 九月 に発 ち︑ 十月 江戸 着︒ 越年
︒そ の間
︑少 なく とも 連 歌会 に六 回出 座︒ 十二 月︑ 娘死 没の 報に 接す る︒ 以上
︑西 鶴十 三歳 から 二十 一歳 にあ たる 時期 の西 山宗 因の 文事 をあ げた が︑ 西山 宗因 が主 公加 藤正 方を 失い
︑大 坂 に 移り 住み
︑俳 諧師 とし て活 躍し なが らも
︑大 坂天 満宮 の連 歌所 所長 とし て一 流の 権威 ある 活動 の中 にあ った こと が 知 られ る︒ この 時期 の宗 因は 連歌 師と して は姫 路・ 伊勢 の地 に活 動の 場を 求め てお り︑ 江戸
︑東 北に も足 を運 んで い る
︒俳 諧で は松 江重 頼︑ 高瀬 梅盛
︑北 村季 吟な ど貞 門派 俳人 との 交流 が認 めら れる
︒同 時に 大坂
・天 満衆 とい うよ う な 大坂 俳壇 を指 麾す る立 場に あっ たこ とが わか る︒ それ では 西鶴 が十 五歳 で初 めて 俳諧 を嗜 んだ 際の 師や 門流 は誰 であ った か︑ とい う問 いで ある が︑ 貞門 派と いう よ り は︑ 大坂 の俳 壇の 何某 では なか った ろう か︒ 元服 を 済 ませ て い たか ど う かは 不 明 な がら
︑俳 諧 の 道に あ そ ぶな ら
︑ し か る べ き仲 介 者︑ そ れが 親 兄 弟か 番 頭 級 の者 と し ても 旦 那 遊 びと し て︑ 相 応の 分! 知! り! が 嚮 導 し た で あ ろ う︒ そ の 際
︑大 坂に 住ま う者 であ れば
︑俳 諧を 志す にあ たり
︑す でに 西山 宗因 と彼 に心 服す る大 坂衆
・天 満衆 は無 視で きな い 存 在に なっ てい たの では なか ろう か︒ それ なら
︑初 めか ら西 山宗 因か ら一 字 を もら い
︑﹁ 西 鶴﹂ とす べ き であ っ た か もし れ な い︒ しか し
︑右 に 見る よ う に
︑こ の時 期の 俳諧 師西 山宗 因は 句引 から 確認 する よう に﹁ 大坂
﹂ま たは
﹁天 満﹂ の﹁ 一幽
﹂と して 活躍 して いた こ と がわ かる
︒西 鶴は 初め 鶴永
︑の ち西 鶴と 号し たこ とは 判っ てい る︒ 他に 西鵬
・鶴 翁・ 四千 翁・ 二万 翁・ 松寿 軒・ 松 風 軒・ 難波 俳林 など の号 が あ るが
︑﹁ 一
﹂や
﹁幽
﹂の 付 くよ う な 号は な い︒ そ の 意味 か ら は︑ やは り
︑初 め の師 は 大 坂 衆︑ 天満 衆と 呼ば れて いた グル ープ に属 して いた ので はな いか と推 察で きる
︒ 俳 諧 師 西 鶴 の 軌 跡
六 九
西鶴 は鶴 永時 代︑ 三十 二歳 で﹃ 歌仙 大坂 俳諧 師﹄ を編 纂上 梓し てい るが
︑友 人た ちと とも に貞 門派 の古 老を 多く あ げ てい る︒ やは り︑ そこ には 若年 で大 坂衆
︑天 満衆 から 可愛 がら れる 西鶴 が若 き日 の俳 諧師 の姿 が︑ そこ にあ った の で はあ るま いか
︒ とこ ろが
︑寛 文二 年に 西鶴 二十 一歳 にし て︑ 俳諧 点者 とな った とす る拠 り所 がな い︒ それ どこ ろか
︑右 の西 山宗 因 の 文事 から は︑ その 頃︑ 連歌 師と して 大名 家等 から の求 めに 応じ
︑日 本列 島を 縦横 無尽 に移 動す る姿 が映 し出 され て い る︒ 寛文 三年 から は豊 前小 倉︑ 太宰 府な どが 加わ り︑ 寛文 四年 には
︑再 度の 奥州 下向 とな る︒ それ だけ に寛 文二 年当 時の 西山 宗因 は磐 城平 藩の 内藤 親子
︑豊 前小 倉の 小笠 原忠 真と いっ た大 名と の風 交に 夢中 で 大 坂俳 壇に は興 味が なか った ので はな かろ うか
︒と いう より も当 時の 寿命 から は老 齢︑ 否︑ 六十 歳に 近い 宗因 は高 齢 で あ り
︑そ こ まで の 活 躍は で き なか っ た の では あ る まい か
︒事 実︑ 還 暦 を迎 え る 寛 文 四 年 か ら は﹁ 一 幽﹂ の 俳 号 よ り
︑﹁ 西 翁﹂ の号 が散 見で きる ので ある
︒ さす れば
︑こ の西 鶴二 十一 歳立 机が 誠な らば
︑師 は西 山宗 因以 外の 大坂 衆︑ 天満 衆と いう こと にな る︒ し か し︑ 西鶴 が 三 十二 歳 の 時︑ 鶴永 の 号 で 刊行 し た 処女 撰 集﹃ 生 玉 万 句
﹄︵ 一 六 七 三︶ は︑ そ の 序 に 記 す よ う に
︑
﹁狂 句︑ かる 口﹂ の句 作で あっ た︒ これ は貞 門俳 諧 を打 ち 破 る新 風 の 先駆 け と 見 るべ き で︑ そ の功 成 っ て︑ この 年 の 冬
︑西 山宗 因か ら一 字を もら い︑ 鶴永 改め
︑西 鶴と 号し たと 考え るの が順 当で はあ るま いか
︒ さて
︑西 山宗 因が 連歌 師で ある こと は留 意し なく ても よい のだ ろう か︒ 尾崎 千佳 氏に よっ て︑ 西山 宗因 が連 歌︑ 俳 諧 どち らで も時 宜に あわ せて
﹁宗 因﹂ 号を 用い たこ とは 詳細 に報 告さ れて いる
︒そ うな ると
︑連 歌の 場に 出座 して い た 可能 性も 否定 でき ない ので はな かろ うか
︒も ちろ ん︑ 西山 宗因 の連 歌の 場に 西鶴 がい たと いう 確証 を得 たわ けで は な い︒ むし ろ︑ 管見 では 否定 的で ある
︒た だ︑ 磐城 平藩 の内 藤親 子︑ 豊前 小倉 の小 笠原 忠真 のよ うな 大名 家や 歴々 の 神 社等 に出 入り する ほど の格 式を 持つ 西山 宗因 が︑ 出自 も怪 しい 人物 を手 元に 置く であ ろう か︒
俳 諧 師 西 鶴 の 軌 跡
七
〇
︻図 1︼ は 延宝 元 年 刊の 西 鶴 編﹃ 歌 仙 大 坂 俳 諧 師﹄ に 載 る 西 鶴 の﹁ 鶴永
﹂時 代 の 自画 像 で あ る︒
︻図 2︼ は 天 和 二 年 刊 の 土 橋春 林 編﹃ 百 人一 句 難 波 色 紙
﹄に 載 る
﹁西 鶴
﹂で あ る
︒ 自画 とさ れて いる
︒こ の両 者の 違い は︑ 一見 して 剃髪 して い るか 否か
︑帯 刀し てい るか 否か であ る︒ 剃髪 につ いて は︑ 妻 を亡 くし た延 宝三 年と いう のが 翌年 の﹃ 誹諧 大坂 歳旦
﹄の 西 鶴句 の詞 書な どか ら定 説で ある
︒帯 刀に つい ては 難し い︒ 寛 文八 年︑ 町人 の帯 刀禁 止令 が出 て以 来︑ 町人 が大 刀を 佩く こ
図
2
図1
図
3
俳諧 師 西 鶴 の 軌 跡
七 一
と は慎 まれ たは ずで
︑威 風堂 々の 西鶴 の帯 刀絵 姿は 何を 意味 して いる ので あろ うか
︒も ちろ ん︑ 西鶴 が士 分で あれ ば 申 し分 ない が︑ その 説は 短絡 過ぎ るで あろ う︒ ここ にあ げた
︻図 3︼ は元 禄六 年 刊 の﹃ 男重 宝 記﹄ 巻 二の 四
﹁連 歌 誹諧 の 仕 や う﹂ の項 の 画 であ る
︒﹃ 西 山宗 因 全 集
﹄に 掲載 する この 画の 解説 は以 下で ある
⒂
︒
﹁は いか いす る所
﹂と 題さ れた 一面 の上 部に 松 永貞 徳 の 俳席 図
︑下 部 に宗 因 の 俳 席図 を 描 く︒ 貞徳 座 の 連衆 が 扇 子 を手 にし た富 裕な 町人 風で ある のに 対し
︑宗 因座 の連 衆は 脇に 刀を 置い た武 士風 の人 々と 見え る︒ 貞門 俳諧 と 宗 因流 俳諧 の階 層差 を象 徴的 に示 して いる と思 われ る︒ すな わち
︑︻ 図 2︼ の西 鶴図 は西 山宗 因と 一座 した 際の 正装 では なか った かと 推察 する
︒ それ にし ても
︑加 藤家 に仕 えて いた 西山 宗因 の門 をく ぐる には それ なり の格 が必 要で あっ たろ う︒ 先述 の岡 西惟 中 が 士分 であ った こと を考 慮す ると
︑西 鶴も 町人 とは 言え
︑西 鶴と 親交 のあ った 三田 浄久 の祖 父水 野如 雲が 福島 正則 に 仕 えて いた よう に武 士の 家系 であ った こと は十 分に 考え られ る︒ 松尾 芭蕉 が蕉 門に 許六 他地 方の 武門 にあ る人 々を 門 人 とし て手 篤く した のも 宗因 座を 意識 した から では なか った か推 察す る︒ もっ とも
︑岡 西惟 中や 松尾 芭蕉 に西 鶴を 見 下 した 言が ある のも
︑西 鶴の 先祖 の家 系は 武家 とし ては 哀れ な末 路に あっ たの では ない か︑ それ が西 鶴武 家物 の歴 史 認 識に 関わ って いる のか も知 れな いに とど めた い
⒃
︒ いず れに して も西 鶴の 蠢動 期に は検 証す べき 事が 山積 され てい ると 言え よう
︒ 五︑ お わ り に 提起
した 俳諧 師西 鶴の 軌跡 の検 証は 俯瞰 に終 わり
︑蠢 動期 の再 検証 も確 証は 得ら れて いな い︒ しか し︑ 今後 の研 究
俳 諧 師 西 鶴 の 軌 跡
七 二