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アジア研究

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中国の共産主義と反キリスト教運動

1922 年の世界キリスト教学生同盟会議の開催への反対

朱 海燕

はじめに

1900 年の義和団事件は近代の反キリスト教事件(「教案」)のピークであった。その後、 排外的な教案は激減し、キリスト教は中国で著しい発展を遂げた。しかし、1920 年代に入 ると再び大きな反キリスト教運動が起こった。それは読み書き能力を持たない民衆による 文化防衛主義に基づく盲目的な排外運動であった義和団事件とは違って、近代西洋思想、 共産主義、国家主義などで理論武装した新知識人と青年学生によって行われた国民国家建 設を目指したもので、キリスト教会の「本色化(中国化)」を促しただけでなく、中国の政 治思想、宗教信仰、対外関係などにも大きな影響を与えた。 この 1920 年代の反キリスト教運動は 1922 年の世界キリスト教学生同盟大会の北京での 開催に反対した「非キリスト教(以下、非基と略す)」運動に端を発する。非基運動を引き 起こしたのは上海の「非基学生同盟」であるが、その母体は上海の社会主義青年団(以下、 青年団と略す)であった。青年団と共産党など共産主義者が運動に関わっていたことにつ いてはこれまで様々な研究が言及してきたが、彼らが運動を引き起こした理由や果たした 役割については研究者間での意見の隔たりが大きく、運動開始の具体的な経緯や上海から 北京に運動が波及した要因については、未だ研究の手が及んでいない状態にある 1) まず、非基学生同盟を組織した上海青年団の運動開始についてみると、陶飛亜はロシア からの影響を強調している。彼は 1993 年以降ロシア連邦が開放したロシア共産党・コミ ンテルンと中国国民革命に関する関連資料などを基に、1922 年の非基運動は中国知識人に よる自発的な運動ではなく、「ロシア共産党(ボルシェヴィキ)とコミンテルン極東局、青 年インターナショナルの直接の指導の下で、中国共産党が発起および指導」したと主張す る(陶飛亜、2005a: 73)。その根拠として 1921 年青年インターナジョナル第 2 回代表大会と 1922 年極東革命的青年代表大会での反キリスト教青年会(以下 YMCA と略す)の主張を挙 げている。これに対して石川浩禎は、極東革命的青年代表大会の運動開始への影響を否定 し、再組織された青年団の思想的覚醒による内発性に運動開始の動機を求めている(石川、 1995: 80) 2)。筆者は陶の見解に概ね賛同し、極東革命的青年代表大会とその同時期に開催 された極東諸民族大会の影響が大きいと考える。石川が当該大会の影響を否定したのは、 運動開始前に上海の共産党臨時中央と青年団臨時中央が大会内容を把握することができな かったと判断したからであるが、筆者はその可能性は十分あると見るからである。

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次に、運動における共産主義者の役割についての評価についてである。陶は引用文から もわかるように、発起、指導の功をすべて共産党に帰し、「政党(共産党)による組織的な 働きかけ(「発動」)があったからこそ、全国の多くの都市で 1 人が叫べば 100 人が応じる 勢いを形成することができた」と述べる(陶飛亜、2005a: 73)。これとは対照的に楊天宏は 共産党の働きを限定的に捉える。その理由は以下の 2 点にまとめられる。①陳独秀など幾 人かの指導者が運動を支持または参加したとはいえ、非基陣営の中で占める共産党員の割 合は非常に少ない、②党員個々人の行動は政党全体を代表するわけではなく、政党の政 治・思想綱領が運動に直接的な作用を及ぼさない限り、党員の参加があったとしてもその 政党が参加したとは言えない(楊天宏、2005: 249)。2 氏の主張について筆者は、共産主義に よる反キリスト教の思想は非基運動で主導的な思想とはならなかったにせよ、共産主義者 たちが組織の面で重要な役割を果たしたことは評価すべきだと考える。 以上のような観点に立ち、本稿は近年の共産党史の研究成果を取り入れつつ、次のよう に議論を進めていくことにする。まず、上海の非基学生同盟の結成とその主張を考察する。 次に、極東諸民族大会と極東革命的青年代表大会での反資本主義・反キリスト教の思想に ついて紹介し、これらの思想が非基運動開始前に北京と上海の共産主義者たちに伝わった ことを検証する。ついで、北京の「非宗教大同盟」に目を転じ、運動の中で大きな反響を 生んだのは反宗教思潮であること、同盟の中で共産主義者が重要な役割を果たしたことを 明らかにする。最後に、共産主義者が非基運動を起こした動機を分析し、非基運動が新文 化運動以来の啓蒙運動の流れに与えた影響を検討する。このように、1922 年の非基運動と 共産主義者の関係を明らかにし、運動の全体像の再構築を試みたい。

Ⅰ 世界キリスト教学生同盟第 11 回会議と上海の

「非キリスト教学生同盟」の結成

非基運動の直接的な引き金は世界キリスト教学生同盟(World’s Student Christian Federation、 以下 WSCF と略す)第 11 回会議の北京・清華学校での開催である。WSCF は、1895 年にア メリカの著名なキリスト教指導者ジョン・R・モットらによってつくられた、大学生を主 要対象とする超教派的なキリスト教国際団体である。その宗旨は「1、全世界のキリスト 教学生団体を結びつけること。2、全世界の学生の間の宗教状況を調査すること。3、以下 の事業を推進させる。(1)イエス・キリストは救い主であると学生を指導し信奉させるこ と。(2)学生たちの精神生活を高めること。(3)学生の奉仕を励まし、天国を全世界に広 めること」であった(謝扶雅、1922: 16–17)。 中国の YMCA は早くから WSCF のメンバーの一員であった。1896 年 11 月総幹事モット の指導の下で中国では「中国学塾幼徒会」という学校 YMCA の全国的組織がつくられ、 それはすぐに WSCF に加入した(顧長声、1981: 431)。その後 YMCA は中国で迅速に発展し、

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1922 年には 40 の都市 YMCA、会員 53,821 人と、197 の学生 YMCA、会員 24,135 人を持つ 組織に成長し、上海に全国協会をおいていた(謝扶雅、1924: 45)。

反対の標的となった第 11 回会議はもともと 1916 年に中国で開催される予定であったが、 世界大戦のために延期となっていた。1922 年 4 月 4 日から 9 日にかけて開催されたこの会 議には、32 カ国の 146 人の外国人代表と 550 余人の中国人代表および列席者が出席した。 大会のテーマは「キリストと世界改造(Christ in World Reconstruction)」で、その下にさらに、 国際と民族の問題(「国際与種族問題」)、キリスト教と社会・実業界の改造、現代学生にど のようにキリスト教を宣伝すべきか、など 6 つの論題が設けられていた(『民国日報』、1922 年 3 月 11 日)。世界大戦後の初めての会議であったこの大会では、キリスト教と戦争の関係 とそれに関わった問題がもっとも熱く議論され、戦争の根源と戦争を利用して国際紛争を 解決する手段を取り消すために戦うことを趣旨とする決議案が通過された。つまり、大会 は第 1 次世界大戦に対する WSCF なりの総括であり、大戦後の新たな世界情勢の中で、い かに学生の中でキリスト教の影響力を高めていくかを模索する会議であった。しかし、 1922 年 2 月に大会開催のニュースが報道されるや、上海の一部の青年学生たちの猛烈な反 対を招いた 3) 学生たちは同年 2 月 26 日に第 1 回設立準備会を開き、非基学生同盟を組織することを決 定した。同年 3 月 4 日には第 2 回設立準備会を開いて同盟「章程」を通過させた。また、 執行委員を選出し、同盟事務を処理する執行委員会を組織した(張亦鏡、1927: 53)。その晩、 組織された執行委員会は会議を開き、①宣言を発表して態度を表明する、②全国の学生に 通電して一致反対を促す、③国人の迷夢を呼び覚ますために広告を出して反キリスト教文 章を募り小冊子として印刷し全国に発送する、などが決議された(『広東群報』、1922 年 4 月 20 日)。これらの決議はすぐに行動に移された。 1922 年 3 月 9 日、非基学生同盟は WSCF に反対する宣言を発表し、その翌日に全国学生 宛の「通電」と称した速達郵便を発した。同年 3 月 20 日には上海の『時事新報』にキリ スト教に反対する文章の募集広告を掲載して、集められた文章で『我們為甚麼反対世界基 督教学生同盟 ?』という小冊子を作って各地に発送した 4)。この非基学生同盟とはいかな る組織なのか。その「宣言文」を見てみよう。 我々は現代の社会組織は資本主義の社会組織であることを知っている。この資本主義 の社会組織には、一方に労せずして食する有産階級がいるとともに、一方には労して食 し得ぬ無産階級がいる。…現代のキリスト教およびキリスト教会は、「前者を幇助して 後者を掠奪し、前者を扶持して後者を圧迫する」悪魔である。 世界の資本主義は既に発生から成熟し、将に崩壊せんとしている。各国の資本家は… あらゆる手段を尽くして余命を繋げようとし…中国に駆けつけ、経済的侵略主義を実行 した。…現代のキリスト教およびキリスト教会は実にこの経済侵略の前衛隊である。… 「世界キリスト教学生同盟」は、現代キリスト教およびキリスト教会の所産である。

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…彼らが討論せんとすることは、…如何にして世界の資本主義を維持するか、…如何に して中国で資本主義を発展せしめようか等の悪巧みにほかならない。我々は彼等を我が 国の青年を汚辱し、わが国人民を欺騙し、我が国の経済を掠奪する強盗会議であると認 め、…同盟を組織し…宣戦するものである(『晨報』、1922 年 3 月 17 日 ; 張欽士、1927: 188– 189)。〔…は筆者による中略。以下同〕 やや長い引用だが、これらの批判は明らかに反資本主義思想によるもので、共産主義の 色彩が濃く出ている。ことに WSCF の大会を「強盗会議」と罵るのは、モスクワのワシン トン会議に対する非難を彷彿させるものであった(これについては後述する)。これらのこと から非基学生同盟の背後に共産主義の勢力があることは容易に推測できよう。 確かにその通りで、非基学生同盟は上海の青年団臨時中央の発意を受けて組織されたも のであった(石川、1995: 79)。上述の非基学生同盟の「宣言文」や「通電」の発表の直後、 1922 年 3 月 15 日に青年団臨時中央は機関誌『先駆』 5)の第 4 号を『非基督教学生同盟号』 と銘打って、WSCF に反対する特集号を出版した。その中には同盟の宣言、通電、章程の ほか、陳独秀の「基督教与基督教会」や赤光の「基督教与世界改造」などの計 10 篇の新 旧作の反キリスト教の文章が収録されていた。 では、青年団臨時中央はなぜ非基学生同盟をつくって WSCF に反対したか。青年団は 1920 年 8 月に兪秀松、金家凰ら 8 人が上海で発起、組織した青年団体で、上海の共産主義 小組のメンバーは皆その団員であった。その後、広州、北京、天津など各地にも同様な組 織がつくられるが、しかしこの時の青年団は「単に社会主義傾向をもつだけにすぎず」、 マルクス主義者や無政府主義者、ギルド社会主義者、工団主義者などその構成が複雑で あったため組織がまとまりにくく、1921 年 5 月には休止状態に陥った(共青団中央青運史研 究室・中国社会科学院現代史研究室、1985: 88–89; 石川、2001: 181, 190; 三好、2005: 250–255)。それ が、コミンテルンの指示を受けた張太雷(椿春)の提起をもとに 1921 年 11 月に改めて再 組織され、日本から強制退去処分を受けて 1922 年 1 月に帰国した施存統が上海の青年団 と青年団臨時中央の責任者を兼任することになったのである。だから、石川は非基運動の 発動を上海青年団の内的成熟に求め、思想的に成熟し面目を一新した青年団が活動の場を 求めていたところに WSCF 大会開催のニュースが飛び込んできたのだと述べる(石川、 1995: 79–80)。しかし、それよりも上海の青年団を突き動かしたのは、モスクワでの反資本 主義・反キリスト教の呼びかけの方だった。

Ⅱ モスクワでの反資本主義、反キリスト教的態度の

確立と中国への伝播

上海で非基学生同盟が結成される約 1 か月前、1922 年 1 月 21 日から 2 月 2 日にかけてモ

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スクワでは極東諸民族大会 6)が開かれた。これは前年 11 月 12 日より開かれていたワシン トン会議(1922 年 2 月 6 日に閉会)に対抗してコミンテルンとロシア共産党が召集したもの であった。 極東諸民族大会には中国、日本、朝鮮、モンゴルなどから 148 人の代表が出席した。中 国からは共産党や青年団、国民党の代表など計 44 人の代表が出席し 7)、当時『晨報』駐モ スクワ記者だった瞿秋白と李宗武、「東方労働者共産主義大学(クートヴェ)」(以下、東方大 学と略す)の学生だった卜士奇、劉少奇、任弼時、蕭勁光などが通訳や文書工作員として 参加したという(蕭勁光、1984: 28)。大会では「ワシントン会議の結果と極東の形勢」とい う議決案が通過された。それは、C. A. ダーリンの言葉で言えば、中国、朝鮮のブルジョ アの幻想と完全に相反する問題、つまりアメリカがアジアの解放者であるという幻想を破 り、被圧迫民族が外国の帝国主義の桎梏から抜け出した後の将来と発展道路を指し示すも のであった(達林、1981: 39)。 この極東諸民族大会の開催と並行して、1 月 30 日から 2 月 2 日にかけては共産主義青年 インターナショナルの招集の下で極東革命的青年代表大会が開かれ、14 万人以上の青年を 結合した 30 の青年組織を代表して中国、日本、朝鮮、モンゴルから 70 人の代表が出席し た(村田、1979: 609)。中国からの出席者は 27 人だった(達林、1981: 45) 8)。この大会で YMCA は、資本主義制度を擁護する組織だと繰り返し名指しで厳しく批判された。その批 判内容は抜粋すると、次のようなものである。 1、「極東革命的青年代表大会宣言」 …いろいろな官製団体、YMCA、ボーイ・スカウト団等々が、諸君を自分たちの隊列 の中に引きいれようとしばしば試みている。彼らは諸君に向って服従を、当局への忠 誠を、穏やかなふるまいを説いている。彼らは諸君に自分の魂を売らせようとして、 きらびやかな外見だけの飾り物で諸君を誘惑している。彼らは諸君の運命の問題を根 本的に解決できる政治から、諸君を引き離そうとしている。 2、「極東における青年運動の一般的任務についてのテーゼ」 (23)革命的青年諸組織は反動的な青年諸組織と一般的政治諸組織に反対してたたか い、またブルジョア民主主義諸組織や諸党の中途半端さと動揺を暴露しなければなら ない。このような組織の本質を広範な大衆に説明することによって、我々は、青年大 衆をこれらの組織の影響から解放することができるであろう。たとえば、キリスト教 系の青年同盟や…に対してこれをおこなうことが、必要である(村田、1979: 510, 515)。 このように、YMCA はコミンテルンとロシア共産党によって資本主義国家の青年を引き 入れる組織の 1 つとみなされ、植民地国家の青年たちの政治革命への参加を妨害する障害 物として認識され批判されていたのである。 筆者は、このような極東諸民族大会と極東革命的青年代表大会の反資本主義とそれに付

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随する反キリスト教の思想の影響を受けて、上海の青年団が非基運動を発動したと考え る。石川も前記論文でこれらの大会に触れているが、しかし大会参加者の帰国が春以降で あることと、関連する大会文書の公表が秋以後であることを理由に、運動発動前に大会の 内容を把握することができないとして、その直接的な影響を否定している(石川、1995: 80)。しかし、筆者は大会の精神が運動開始前に中国の共産主義者たちに伝わった可能性 は十分あると考える。 その根拠の 1 つは当時の新聞報道である。1922 年 2 月のはじめ、上海の『民国日報』は 「莫斯科会議之滬聞」(2 月 1 日)と「莫斯科之遠東工人大会」(2 月 4 日)というモスクワ会 議に関する簡明な記事を掲載し、その召集状況を報道した。北京の『晨報』も「莫斯科之 東方民族大会」(2 月 7–9 日)と「莫斯科東方民族大会閉幕」(2 月 17 日)という 2 つの記事 を載せた。「東方民族大会」とは極東諸民族大会のことで、これらの新聞記事からも大会 の反ワシントン会議、反資本主義の思想が容易に読み取れる。それだけでなく、北京大学 の学生で北京の共産党と青年団の責任者の 1 人だった羅章龍は、モスクワからの通信文 (「電訊稿」)を基にして、「莫斯科的『東方民族大会』開幕了」という文章を書き、北京共 産主義グループが刊行する『工人週刊』第 29 号(1922 年 2 月 12 日)に「特載」として載せ た(羅章龍、1984: 176)。彼はこの記事で、当時中国の新聞上を賑わしていたワシントン会 議を、「日本、アメリカ、イギリス、フランス」などの「幾つかの大資本主義国」がどの ように東方民族(とりわけ中国)を分割しようかを相談する「分贓会議」だと強く非難した (羅章龍、1984: 176–177) 9)。これらによって同大会の思想は新聞記事や電報などによって 2 月上旬に既に上海や北京の共産主義者たちに伝わっていたことがわかる。 また、大会参加者が非基学生同盟結成の直前に上海に到着していた可能性も十分考えら れる。なぜならモスクワから鉄道でチタ、ハルビンを経由して帰国した場合、運動発動前 に帰国し得た可能性があるからだ。ここでは、参考として大会後に青年インターナショナ ルの代表として青年団第 1 回全国代表大会に参加するため中国に旅立ったダーリンの旅程 をもとに、その時のモスクワから上海までの移動状況を調べてみよう。 ダーリンによると、彼は 2 月 2 日閉幕の数日後にモスクワを出発し、まずシベリア鉄道 に乗って極東共和国の首都チタまで行き、そこの中国領事館でビザを取得し再びシベリア 鉄道に乗って中国国境の満州里駅に到着した。その後、ハルビンに行く途中満州里駅に近 いある町(「小鎮」)で足止めされ、そこで 2 晩泊まった。そして北京政府が中国に入る白 系ロシア人に発給する中文証明書を手に入れた。その翌日に中東鉄道の国際車両に乗り、 丸 1 昼夜の後にハルビン駅に到着。ハルビンで吉林当局が発給する関内入りのビザを取得 するために 5 日間滞在した。その後、列車に乗り 4 日後に上海に到着したという(達林、 1981: 48–56)。このダーリンの記述にはモスクワからチタ、チタから満州里間の移動日数が 記されていないが、同じルートで帰国した張国燾の記述を調べてみると、彼は両区間で約 10 日間かかっている(張国燾、1971: 172–174, 204)。以上の情報を整理すると、ダーリンは この旅に 22 日間前後かかったことが把握でき、遅くとも 3 月初めには上海に着いていた

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と判断できる。ダーリンの場合は、大会が終了して数日後に出発し、中国入国ビザ取得の ために 7 日間も費やしてしまったが、もし中国人代表が大会終了後すぐに同じルートで帰 国したとすれば、2 月下旬に上海に着いていた可能性は十分ありうる。ダーリンは上海で 中国共産党の指導者たちと会った時に、彼らは前述した大会の詳細な状況をすでに把握し ていたと言っている(達林、1981: 59)。それだけでなく、「後に(彼らと)何回か会見した時、 1 回は YMCA について話したことがあったが」、それは「1922 年 4 月に北京で学生組織世 界代表大会を招集しようとした」「中国の YMCA は親米派の機関」で、青年団は「YMCA の親帝国主義の実質を暴露しようとした」と語っているのである(達林、1981: 59–60)。 では、ダーリンより先に上海に到着して大会状況を報告したのは誰だったのか。ダーリ ンによると、上海に到着した後、共産党中央局と青年団全国代表大会組織部のメンバー陳 独秀、張太雷、劉仁静ら 7 人と会議を開いたが、この際に極東諸民族大会で会ったことの ある「瞿秋白」が通訳を担当してくれたという(達林、1981: 59)。しかし、瞿はこの時モス クワの病院で療養中であり、上海に戻っていない 10)。おそらくダーリンのいう「瞿」はモ スクワでの大会に参加しており、かつロシア語が話せる人物であるだろう。推測するにこ の時期に帰国した兪秀松や劉少奇など東方大学に留学した人物である可能性が高いが、特 定できる証拠がない 11)。また、筆者は博士論文の中で極東諸民族大会の準備に参加した張 太雷の大会出席を当然視し、彼も帰ってきてその報告をした出席者の 1 人ではないかと考 えていたが、その可能性はたいへん低い。というのは、張はその後コミンテルン代表マー リンの通訳として彼の南方行きに付き合い、孫文に会うために 1921 年の 12 月 23 日に広西 桂林に到着し、そこで 9 日間滞在しているので、大会に出席するのは時間的に不可能だか らである(羅家倫、1984: 186)。このように更なる資料が出ないかぎり報告者を特定するこ とはできないが、しかし、梁鵬万、鄧培など幾人かの出席者は確かにこの時期に帰国した ようである 12)。そのうち、唐山青年団の団員梁鵬万は 2 月に帰国して上海の中国労働組合 書記部で働いたという(倪興祥、2006: 637)。 一方、上海の共産党中央も大会の指示と決議を注視していた。大会に出席するニコリス キー(コミンテルン執行委員会極東書記局代表)に代わって上海での工作を担当していたリ ディン(利金、極東書記局在華工作全権代表)によると、大会に出席する代表たちが出発した 後、高麗共産党中央も、中国共産党中央も、みな大会の開催とその指示や決議を待ってい たという(中共中央党史研究室第一研究部、1997: 82, 88)。 以上のことから、上述の 2 つの大会と青年団臨時中央による運動への発動が無縁ではな いことは明らかであろう。したがって、青年団臨時中央による非基学生同盟の結成は、モ スクワの極東における反帝国主義運動の推進の方針とその高揚のニュースを受けた青年団 が、再結成後の新しい力とそれ以前からの党・団の組織を基盤にして発動したものだと理 解するべきであろう。 しかし、上海の非基学生同盟による運動は、共産主義を前面に押し出すラジカルな主張 のゆえにすぐに問題視され、大きな反響を呼ぶことはなかった。反対運動は北京の非宗教

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大同盟によって初めて全国的に注目を浴びることになるのである。

Ⅲ 北京の「非宗教大同盟」の結成と運動の上海での発展

上海の反キリスト教の火種はすぐに北京に伝わった。1922 年 3 月 16 日に『民国日報』 は「非基督教学生同盟之響応」という記事を掲載し、非基学生同盟の反響として北京にも 同じ様な団体が発見されたことを伝えた。ここに言う同じ様な団体が「非宗教大同盟」で ある。それは 3 月 11 日に北京大学の一部の学生たちによってつくられ、3 月 17 日に同盟 の「宣言文」を公表した。以下、宣言文の大要である。 我々は人類社会のために宗教の害毒を一掃することを自ら誓う。…人類はもともと 進化するものであるのに、宗教は頑なに「人と万物は、天が造り地が設けたものだ 〔「天造地設」とは宋の徽宗の『艮嶽記』が典拠であり、人と万物は自然にそうなって おり、理想的であるとの意味―引用者注〕」と言う。人類はもともと自由平等なも のであるのに、宗教は頑なに思想を束縛し、個性を打ち壊し、偶像を崇拝し、主を唯 一尊べよと言う。人類はもともと平和を愛するものなのに、宗教は頑なに異を討ち、 同を党くみし、戦争を引き起こさせ、それでいながら博愛を仮面に人を騙している。人は もともと生を好み善を喜ぶものであるのに、宗教は頑なに天国で以って誘惑し、地獄 で以って怖がらせ、非人間的な権威道徳を利用している。…滑稽な宗教は科学、真理 と相容れない。憎むべき宗教は人道主義に完全に背いている。 世界と比べて、中国は清浄なところで、無宗教国と言える。いかんせんここ数十年 来、キリスト教らは日一日と中国に伝染を注入している。…彼らの尤も悪辣な企みは、 全力を傾けて青年学生を煽惑することだ。…結局、YMCA はキリスト教予備学校にな り、キリスト教徒の養成所になってしまった。…(『晨報』、1922 年 3 月 21、22 日)。 このように宣言文は、宗教を人類と完全に対立するものとして捉え、「科学、真理」や 「人道主義」を基準にそれを否定し、青年たちがキリスト教に汚染されることを危惧して いる。共産主義を唱える非基学生同盟とは異なり、非宗教大同盟の反対の根拠は主に五四 新文化運動以来の反宗教思潮によるものであることがわかる 13)。また、同日には非宗教大 同盟の「通電」も発せられた。そこには蕭子昇(瑜)、李大釗(守常)、李石曾など 79 人の 知識人や学生、労働者たちの署名が付されていたが(張亦鏡、1927: 31–32)、北方共産党の 責任者李大釗をはじめ、その多くが共産主義者であった 14) 非宗教大同盟の呼びかけはすぐに大きな反響を呼んだ。北京では北京大学、平民大学、 外交部俄文法政専門学校など 9 つの高等学校や専門学校で非宗教や非基を名乗る学生同盟 が組織されただけでなく、少年中国学会、海外新声書報社、中華心理学会などの団体や組

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織も同盟の主張を支持する声明を出した 15)。また、学界名流の非宗教大同盟への合流もみ えた。蔡元培、王星拱、呉虞など学生たちに絶大な影響力をもっていた教授たちが同盟へ の加入を表明し、このほか登録用名簿は回収していないものの、すでに加入した者に広東 軍政府の汪兆銘、胡漢民、張溥泉(継)と陳独秀、北京大学の教職員数十人がいたという (『晨報』、1922 年 3 月 28 日)。こうした中、3 月 28 日に羅章龍と李墨耕(梅羹、北京大学ドイツ 語科学生、共産党員)が作成した同盟「規約」が公表され、臨時大会では汪兆銘、蔡元培な ど 30 余人が同盟幹事に推薦された(『晨報』、1922 年 6 月 19 日)。 こうして北京での非基運動は一気に燃え上がり、それがすぐに全国に拡がっていった。 広東、福建、湖南、湖北、直隷、山西、江西、江蘇、浙江、四川の 10 の省で反対の学生 組織がつくられ、各地の新聞紙上は反宗教、反キリスト教の言論で賑わった。1922 年 3 月 から 5 月にかけて『晨報』、『民国日報』に通電や声明文を出した学生団体や組織は 50 近 くに上った。

このような燃え上がりを目の前にして North China Daily News をはじめとする外字紙は 非基運動を「第二の団匪事件の発生」と危険視し、言論の過激さを問題視した周作人など 北京大学教授 5 人は「信教の自由」を主張する「宣言」(1922 年 3 月 31 日)を発表した。そ れは宗教に「挑戦的に反対する」ことへの批判と信仰の「絶対的な自由」を強調するもの であった。これらの反対を受けて非宗教大同盟は 1922 年 4 月 1 日に李大釗による第 2 次通 電を発して排外性と過激性を指摘する外字紙の批判を否認し、信教の自由を先に侵したの は WSCF だと反論した。その一方、同盟は王星拱、李大釗、蕭子昇らによる「非宗教者宣 言」を発表し、宗教反対の理由を丁重に説明した(『晨報』、1922 年 4 月 4 日)。その後、信教 の自由に関する問題は、周作人と陳独秀をそれぞれの代表論者とし、梁啓超などの「非非 宗教者」やキリスト教知識人をも巻き込んだ「信教の自由をめぐる論戦」に発展していっ た。 こうした動きの中で、WSCF 第 11 回会議は予定通り 1922 年 4 月 4 日に北京の清華学校 で開かれ、9 日に無事閉会した。非宗教大同盟は 4 月 9 日の午後に北京大学を借りて第 1 回会議(講演大会)を開いた。会議には 1000 人以上が参加した。フランス留学組で宗教に 否定的であった蕭子昇が司会し、学長蔡元培や教授李大釗、李石曾、呉虞、心理学者張耀 翔らが講演を行った。その講演で蔡元培は信仰の自由の角度から宗教を論じ、とりわけ教 会学校と YMCA が未成年の学生を誘い入信させることに反対した。彼は「教育独立議」 (1922 年 3 月)での主張を繰り返し、「(一)大学では神学科を設ける必要はない。ただ哲学 科の中に宗教史や比較宗教学などを開設する。(二)各学校には、教義を宣伝するカリキュ ラムがあってはならず、祈祷式を行ってはならない。(三)伝道を職業とする人は教育事業 に携わらなくていい」と教育と宗教との分離を訴えた。周作人らの「宣言」については「信 教するのも自由であり、信教しないのも自由である」から非宗教の信仰を持って非宗教運 動を行うのに遠慮する必要はないと運動の正当性を強調した(『晨報』、1922 年 4 月 10 日)。 講演会のほか、非宗教大同盟は全国の人々にキリスト教の「危害」を知らせるため、『中

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国教毒図(分省)』をつくって配布し(羅章龍、1984: 96)、1922 年 6 月には『京報』経営者 の卲飄萍の支援を受けて『非宗教論』叢刊第 1 種(北京新知書社、1922 年)を発行した。そ の中には前述した会議での講演文を含め、蕭子昇、羅章龍、蔡元培、李大釗、李石曾など 13 人の計 31 本の反キリスト教の文章が収録された。また、同年 6 月 18 日には同盟の第 1 次幹事会が開かれた。20 余人が参加し、蕭子昇、李石曾、張耀翔、韋玉等 8 人が常務幹事 に選ばれた。そのうち、朱務善、李大釗、范鴻劼、繆伯英(女)の 4 人は共産党員であった。 その他、会議では運動の進め方も討論され、全国非宗教団体の総同盟会議を開くこと、月 刊誌を作ること、定期的に講演を行うことなど 5 項目が決められた(『晨報』、1922 年 6 月 19 日)。しかし、これを最後に北京での反対運動は次第に下火になった。 さて、上海の非基運動はどのようにして北京に飛火したのか。楊天宏はアメリカ人研究 者 J. G. ルッツの観点を受け入れ、両地の社会主義と無政府主義の団体に参加したことが ある金家鳳が双方に橋渡しの役割を果たしたと主張する(楊天宏、2005: 109)。金は上海青 年団の発起者の 1 人で、この時北京で共産党と青年団の活動に関わっていた。「通電」に 載った同盟の連絡先が彼宛になっているなど、彼が重要な役割を果たしたことは確かなよ うだが、しかし運動の北京への伝播はこのような個人的つながりによるものというよりも 青年団臨時中央の指示によるものではないかと思われる。というのは、ダーリンによると、 北京青年団の非基運動を指導するために、青年団臨時中央から張太雷が北京に派遣され、 会議開催の期間中に北京の街や開会中の講堂で反帝国主義のデモが行われたというからで ある(達林、1981: 64) 16)。当時の上海の動きに詳しいダーリンのこの証言は信用できると思 う。羅章龍も回想録の中で張の派遣を仄めかすような文章を書き残しており、「党中央も このことを非常に重視していた」という(羅章龍、1984: 97)。張がいつ北京に派遣されたか はまだ確定しきれないが、しかし青年団大会開催をめぐって当時青年団臨時中央と各地の 青年団との通信が頻繁だった状況を考慮に入れれば、おそらく、上海の指示を受けて北京 青年団(と北京大学マルクス学説研究会)が動きだし、それに宗教に否定的だった李石曾、 蕭子昇らの知識人や青年学生が加わり、非宗教大同盟を結成したと考えるのが最も妥当だ と思う 17)。その際、双方協力の土台となったのが五四新文化運動以来の反宗教の思潮で あったことに疑いを入れる余地はない。 これについて石川は、非基学生同盟と非宗教大同盟の組織的な関係は明瞭ではないとし ながら、後者についてフランスからの影響を強調し、李石曾の下に中仏教育会の秘書をつ とめ、反宗教的であった蕭子昇が、蔡元培や李石曾を動かして大規模な運動に発展させる 活動を開始し、これに羅章龍を中心とする北京大学マルクス学説研究会と北京青年団が最 も積極的に反応したという(石川、1995: 73–74, 77)。しかし、これは羅の回想と噛み合わな い。後年、羅はマルクス学説研究会を振り返った際に非基運動に触れ、「我々が非宗教同 盟を成立させた時、蔡元培に参加するよう誘ったところ、彼は同意した」、そして『非宗 教論』を出版しようと準備していた時に、蕭がフランスから戻ってきて、「彼は私に我々 の非宗教同盟に参加したいと言っただけでなく、さらに李石曾、汪兆銘を誘って一緒に参

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加した」という(羅章龍、1990: 206)。これは筆者の推定が的外れでないことを証明している。 なぜ同じく共産主義者によって準備されたのに、北京と上海の運動はそれほど性格が違 うのか。これについては両都市の違いに注目したルッツ(Lutz)の解釈で答えることがで きよう。つまり、政治の実践主義が台頭しはじめているものの、北京は依然として誇り高 い新文化運動の中心であり、ここの知識人にとっては宗教批判は伝統を打破し新しい思想 を求める基礎であったのに対し、外国租界をもつ上海は中国の資本主義発展の中心で、急 進的な政治活動家の活動舞台だった。このような状況は多くの民族主義者が革命的な政治 の方向に転化していくことを意味し、彼らにとって非基運動は反資本主義革命の第一歩に なったのである(J. G. Lutz, 1988: 60–61; 楊、2005: 116)。 では、上海での非基運動はその後どうなったのか。それは北京での運動に大いに後押し されて新しい展開を迎えた。1922 年 4 月 1 日に上海同志会は『晨報』宛てに「東電」を発 して「(北京の)非宗教の諸同志と一致して進めたい」旨を表明した(『晨報』、1922年4月6日)。 それに続き復旦大学の学生たちも非宗教同盟を成立させて北京の非宗教大同盟に共鳴した (『晨報』、1922 年 4 月 11 日 ; 『広東群報』、1922 年 4 月 13 日)。 また、学生たちに影響力が大きかった知識人―左舜生、張聞天、邵力子、沈玄廬(定一)、 沈雁氷(茅盾)ら―も文章を書き、演説を行って運動を支持した。彼らの言論は主に北 京の周作人らの「信教の自由を主張する宣言」に反論するものであった。最も激しい反論 をしたのが沈玄廬の「敢問非宗教信徒的反対『非基運動』」である。中国共産党の創立者 の 1 人で、戴季陶らとともに上海で週刊紙『星期評論』を創刊したことのある沈はこの文 章の中で、「弱者は宗教に依って自らを騙して慰めとし、強者はそれを笠に着て殺人の手 口とする」、宗教による迷信は有産階級が無産階級を陥れる罠である、と主張したが、そ の文章の中に溢れる周作人ら 5 人に対する非難・皮肉は極端なほどのものであった(『覚 悟』、1922 年 4 月 11 日) 18) 学生界と知識界だけでなく労働者の中からも非宗教大同盟に同情する声が出た。朱沢 河、黄渺海らの「工界対非宗教同盟之意見」がそれである。彼らは同盟宛に電報を発し、 「資本家が宗教によって、博愛、平等で以て引き寄せ、天国・地獄で以て脅迫とするなど 労働者たちを愚弄するのを得意とする」から、「労工神聖」の目標を達成するためには宗 教を打ち破らなければならないと述べた(『民国日報』、1922 年 4 月 13 日) 19) このように各界で反キリスト教の気運が高まる中、非基学生同盟も積極的に運動を展開 していった。1922 年 4 月 2 日、WSCF 会議の開催を間近にひかえて非基学生同盟は反対方 法を討論するために上海浦東中学で会議を開いた 20)。青年団の責任者である施存統が司会 を務め、月刊誌『少年中国』(少年中国学会)の編集者で当時中華書局に勤めていた左舜生、 後に有名な動物学者になった陳兼善、上海共産党臨時中央局の蔡和森、夏斯金(音訳)ら が会議で講演をした(『広東群報』、1922 年 4 月 19 日、20 日) 21)。その講演内容は種々様々で、 陳のように進化論などを用いてキリスト教の神話と魂と肉体は分離できるという宗教的な 二元論を論破したものもあれば、夏のように外国人宣教師はみなスパイだという主張も

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あった 22)。この会議には 4、5 百人が参加した(『晨報』、1922 年 4 月 4 日) 23) また、同年 4 月 21 日にはすでに共産党総書記になっていた陳独秀を招いて交通大学の 上海分校で講演会を開いた。この講演会で陳独秀は以前『新青年』(1920 年 2 月 1 日)に発 表した「基督教与中国人」での見解を覆してキリスト教を完全に否定した。つまり、博愛、 犠牲などの美徳はキリスト教特有のものではなく、もっとも重要な教義である「有罪」(原 罪)、「贖罪」も取るに足らない。中世のカトリックの罪悪も大きいが、プロテスタントは それとは違って「籠絡」の手段を使って「愚夫愚婦と基礎のない青年を間違った道に紛れ 込ませ」「人生真義」を知らないままにさせる。それに、現在のキリスト教は資本主義制 度下にあり、「資本化」された。「資本主義に反対する以上」、キリスト教も逃すわけには いかないと語った(『覚悟』、1922 年 4 月 25 日)。マルクス主義に転向した陳独秀のキリスト 教観は反資本主義的立場からのものに変化していた。 このような宣伝活動と相まって、上海の非基学生同盟は学生同盟という狭い枠を超えて全 ての反キリスト教の人々を網羅できる非基同盟に拡大しようという動きもあった。1922 年 4 月 20 日非基学生同盟は『民国日報』副刊『覚悟』に「徴求同志啓」という募集広告を載せ、 個人および団体による同盟加入の方法を提示し、同盟への参加を呼びかけた。その加入方 法には北京の非宗教大同盟の緩やかな入会方法と違って、ある種の組織性が見られる。 以上のように、1922 年 4 月に入って上海の非基運動は北京の非宗教大同盟に大きく後押 しされてピークを迎え、これを背景に青年団による組織拡大の動きも見られた。しかし北 京と同様に WSCF 会議の終了で反対目標を失ったことと、学校が夏休みに入って運動の主 力の学生たちが帰郷したことによって運動はしだいに鎮静化していった。次にこの運動が 再燃するのは 1924 年の教育権回収運動においてである。非基運動について、広州の張亦 鏡が編集するバプティスト系の月刊誌『真光雑誌』が激しい反応を見せたものの、キリス ト教側の対応は温和なもので、大きな反応をすることはなかった。

Ⅳ 中国社会主義青年団全国代表大会と反キリスト教議案

各地で学生による非基運動が盛んに行われている中、1922 年 5 月 5 日から 10 日にかけ て広州で青年団第 1 回全国代表大会が開かれた。15 カ所の青年団、5 千余人の団員を代表 して 25 人の代表が出席したこの大会では青年団の「綱領」、「規約」および四つの議決案 が通過された。そのうち、「中国社会主義青年団と中国の各団体との関係に関する議決案」 の中には次のような反キリスト教、反宗教の項目が盛り込まれた(記者、1922: 117)。 (1)YMCA キリスト教が資本主義の護符となり、また帝国主義の先鋒であることは、 もはや、ごまかすことができない。YMCA は、中国では、教育、娯楽等の利益によっ て中国の青年を誘ない、アメリカ資本主義に同化させ、商業科を附設してアメリカの

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銀行および商店のために徒弟を養成し、中米親善を宣伝してアメリカ資本家のために 市場を拡めてやっている。YMCA が中国の旧勢力と結合していることは、それが中国 の官僚と互いに結託しあっている点に現われている。したがって、この団体について は、言葉と文字によってその罪悪を宣伝し暴露して、青年がこれにだまされたり、こ れに感染させられないようにしなければならない。… (2)反キリスト教的および反宗教的諸団体 …反宗教団体が一切の宗教に反対するの は、宗教が思想を束縛しているし、また歴史的に常に旧勢力と結合していたからであ る。宗教に反対するのは、青年の思想を自由にし、革命の道におもむかせるためであ る。だから、こうした反キリスト教的、反宗教的諸団体に対しては、その活動を極力 援助すべきであり、またこうした団体の中に青年団同志の「小団体」を組織すべきで ある。この小団体はできるだけ活動することによって、指導的地位に到達すべきであ る(記者、1922: 128; 中国国際問題研究所中国部会、1970: 115–116)。 そのほか、教会学校にも注目し、「教育に関する議決案」の中で、教会学校内で「不平 等な待遇と圧迫を受けている」「反キリスト教の青年たちの利益のために、彼らを助けて 教会学校内で平等待遇の運動を繰り広げる」ことを規定した(記者、1922: 127) 24)。これは 非宗教大同盟の主張が青年団に与えた影響の産物といえよう。 これらのキリスト教に関する議決案の通過は、明らかに極東革命青年代表大会の思想を 反映したものである。それは非基運動の気運に乗ってなされた側面もあるが、何よりも張 国燾、ダーリン、兪秀松、王振翼(仲一)など大会出席者の多くがモスクワでの 2 つの大 会の出席者で大会の精神をよく知っていたことと、陳独秀、施存統、蔡和森、金家鳳、譚 平山、陳公博、張太雷などが運動の指導者であったことが大きく関係していたのであろう。 この大会によってモスクワの反キリスト教の思想は正式に青年団の活動内容として定着 させられ、共産党および青年団の反キリスト教運動の指導綱領となった。その後、瞿秋白 が「帝国主義侵略中国的各種方式」(1923 年 7 月)の中で「文化侵略」という考えを提出す ると、共産党による反キリスト教運動は帝国主義の文化侵略に反対せよというスローガン の下で展開されることになる(陶飛亜、2005b: 106)。 では、ロシア共産党・コミンテルンと中国共産党中央局は 1922 年の非基運動をどう捉 えていたのか。リディンのコミンテルン執行委員会極東支部宛の報告書(1922 年 5 月 20 日) の中では、次のように述べている。 反キリスト教運動の基本要素は外国人に対する民族抗議運動である。…(それは) 政治的には未熟であるが、ナショナリズム感情を持っている広範な青年階層を運動の 中へと吸い込むことができる。第 2 の要素は…キリスト教宣教師、…外国資本家の代 理人に対する抗議であり、…資本主義制度に対する抗議である。…第 3 に、一部の重 要ではない階層がキリスト教に対する宗教排斥感情の支配を受けて、反キリスト教運

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動に参加する可能性がある。最後に純粋な反宗教的な知識分子の無神論者団体も反キ リスト教運動の総戦線に参加した。彼らは運動が最も盛んに行われている時に、それ を科学的反宗教運動の軌道に乗せた(中共中央党史研究室第一研究部、1997: 91)。 つまり、共産主義者たちが運動を発動した目的は、青年たちの共鳴を引出しやすい「民 族抗議運動」を引き起こして彼らを革命運動へ引き寄せると同時に反帝国主義の宣伝をす ることにあった。運動は最後にリディンのいうとおり「科学的反宗教運動」へと軌道を変 えられたが、しかし彼らは予期した目標を達成したといえよう。ダーリンによると、青年 団は運動を通じて戦闘の洗礼を受けただけでなく、基盤を固めて成長し、1922 年初めに約 2000 人だった団員数は 3000 人を超え、17 もの都市に組織をつくるに至ったという(達林、 1981: 58, 63)。一部の地域の青年団再建と時期が重なることもあって青年団の拡大をすべて 非基運動に帰することはできないが、運動中に青年団や共産党が各地の非基・非宗教の学 生同盟を利用して多くの学生の取り込みを積極的に行ったことが大きな功を奏したことは 否定できないだろう 25)

おわりに

以上、上海と北京を中心に共産主義者たちの動きに注目しつつ 1922 年の非基運動の勃 発と展開についてみてきた。本論で具体的に検証したように、上海青年団が運動発動に踏 み出したのは、再結成された青年団の思想的覚醒にその一端があったにせよ、何よりもワ シントン会議に対抗して開催された極東諸民族大会と極東革命的青年代表大会の反資本主 義と反キリスト教の思想に触発された契機と側面が大きかった。この意味において、1922 年の非基運動はロシアのボルシェヴィズムとアメリカのプロテスタンティズムの対立の中 国における顕現であったともいえよう。 では、この運動はなぜ全国に広がることができたのか。その背景要因は、1 つはパリ講 和会議とワシントン会議への失望によるウィルソンをはじめとする欧米国家に対する広汎 な人々の不満であった。つまり、1922 年の非基運動は中国の期待を裏切ったこれらの会議 に対する 1 つの反応であり、その捌け口だったのである。上海の非基学生同盟が全国学生 に訴えたのはまさにこのような不満と苛立ちの心情だった。そしてもう 1 つの要因がそれ を正当化し支えた。新文化運動以来中国の知識界で形成されてきた啓蒙思想的な反宗教思 潮である。それを体現したのがこの思潮下に集合した北京の知識人たちの大連合である非 宗教大同盟であった。だから、この運動は多くの青年学生と知識人の同情と共鳴を引き出 し得たのであった。1922 年の非基運動はこのように政治的動機によって火が付けられたと はいえ、なお新文化運動以来の啓蒙運動の延長線上にあった。だが、運動が共産主義者た ちによって発動され、介入されたことによって啓蒙運動は次第に急進的な方向へ傾斜し、

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青年団第 1 回全国代表大会決議案という形で定式化しされたモスクワ発の反帝国主義、反 キリスト教の急進的な思想は、1923 年の「文化侵略」論を経て 1924 年の国共合作を通じ て国民党にも浸透していくようになる。国民革命の左傾化の始まりである。その後の運動 の経過と影響などについては別稿で検討する。また、本稿は資料不足のために、反対運動 に参加した学生たちの動機、身分等については十分に論じることができなかったが、これ らについては今後の課題にしたい。 (注) 1) 代表的な研究に顧長声(1981)、査時傑(1993)、石川(1995)、楊天宏(2005)、陶飛亜(2005)など がある。 2) 1922 年の非基運動の持つ意味をキリスト教に代表される宗教への「信仰」に抗する「科学」への信仰 の確立に求め、「科学的社会主義」としてのマルクス主義への信仰はキリスト教を信仰することと心性の レベルでは同質であることを暴露した石川の研究は、中国革命を理解する上でカギともなるもので、今 や中国研究者の間では「常識」となっている。拙稿もこの「常識」を前提にしていることを断っておき たい。 3) WSCF 第 11 回大会を宣伝するため、YMCA の機関紙『青年進歩』(上海)は、1922 年 2 月号を「世界 基督教学生同盟号」として出版したが、この特集号が青年学生の注意を引いたという(C. S. CHANG, 1923: 459)。一方、2 月中旬から『民国日報』など各地の有力紙も大会開催について友好的に報じていた。 4) この小冊子は計 14 篇の文章からなっており、そのうちの 9 篇は『先駆』第 4 号からの転載であった(張 亦鏡、1927: 355)。 5) 雑誌『先駆』(1922 年 1 月 15 日に創刊)は、当初は北京の青年団により出版されていたが、北京政府に出 版を禁止されたため、第 4 号から上海の臨時中央局により出版することになり、施存統が編集を担当し たという(中共中央馬克思・恩格斯・列寧・斯大林著作編訳局研究室、1959: 12–13; 王水湘他、1990: 233)。 6) この大会は、「極東勤労者大会」、「極東諸民族大会」、「極東共産主義的・革命的諸組織大会」、「極東諸 革命的諸組織代表大会」、「東方民族大会」など、様々な名称で知られている。ここでは便宜上「極東諸 民族大会」とする。会議の最初の予定地はイルクーツクであったが、1922 年 1 月になって急遽モスクワ に変更され、最後、ぺトログラードにて閉幕した(コミンテルン、1970: 3, 7)。 7) そのうち、共産党員が 15 人、青年団員が 11 人である(コミンテルン編、1970: 204)。楊奎松によって、 決議権をもつ代表 39 人のうち、34 人の名前が明らかにされ、その中には、鄧培、王寒燼、王尽美、高尚 徳(君宇)、張国燾、梁鵬万、馮菊坡、賀恕、許白昊(赤光)、王振翼(仲一)、鄧又銘などの共産党員や 青年団員の名前があった。また残りの 5 人のうち 3 人は、東方労働者共産主義大学の学生代表任弼時、 梁柏台と、コミンテルン第 2 回大会(1921 年夏)の中国代表の 1 人でモスクワ滞在中だった青年団初代 書記兪秀松である可能性が高いという(楊奎松、1994: 269–284)。 8) 参加者リストは不明だが、「極東諸民族大会」に出席した共産党員や青年団員がこれに参加したのであ ろう。また、この大会でダーリンは青年運動に関する報告を行っている(達林、1981: 46–47)。 9) 言葉遣いは違うが、その内容は上海『民国日報』の記事と似ている。彼はまた、大会に出席する北方 代表団が旅の途中で随時手紙を出してグループの活動状況を報告することを約束しており、代表の 1 人 の柯慶施は幾通もの長い手紙を書いて旅行中の状況を教えたと述べている(羅章龍、1984: 176)。 10) 極東諸民族大会が開かれる前から入院中だった瞿は、通訳が不足していたため入院中でありながら大会 に出ていたが、大会終了後容態が悪化して再入院する。そうした彼が帰国の途に着くのは 1922 年末である (周永祥、1992: 72–75, 82)。瞿の病については、張国燾も回想録で触れている(張国燾、1971: 195–196)。 11) ダーリンはまた、「瞿秋白」や張太雷とともに、広州に行く途中の汕頭で青年団綱領と規約の草案を作 成したという。この記述にもとづいて近年、ダーリンと一緒に青年団の綱領などを作成した「瞿」は蔡 和森だという主張もある(李永春・暴宏博、2012)。しかし、ロシア語が話せない蔡が上海で通訳をして くれた「瞿」であるとは考えられないので、まだ疑問は残ったままである。 12) 北京の非宗教大同盟が 3 月 17 日に発した「通電」の署名リストからこの 2 人の名前を確認できる。 13) この反宗教思潮の形成およびその内容については、拙稿(2010: 111–129)を参照されたい。 14) 筆者が調べた限り、鄧中澥(仲夏)、阮永釗、繆伯英、許新凱、金家鳳、李大釗、范鴻劼、劉仁静、毛 恒仁、羅璈階(章龍)、楊人杞、朱務善、呉汝明、李梅羹、王錚、何孟雄、李駿、黄日葵、范體仁、宋天放、 賀述(恕)、王復生、游天洋、梁鵬萬、鄧培、李震瀛、楊鐘健、阮章など 28 人が共産主義者で、そのほ とんどが北京大学マルクス学説研究会の会員だった。北京大学マルクス学説研究会は 1920 年に李大釗ら

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によってつくられた北京共産党の指導下にあった組織で、北京だけでなく天津、太原などの都市にも会 員を有しており、青年学生のほか労働者の加入も多く見られた。1922 年の時、同研究会の会員数は約 150 人であった(羅章龍、1984: 62–67; 倪興祥、2006: 145–146)。 15) そのうち、共進社は北京に留学した陝西青年たちがつくった組織で、主要メンバーの李子洲、劉天章ら は北京大学マルクス学説研究会員であった。工人週刊社は新聞『工人週刊』の編集機関である。同紙は 共産党が早期労働運動を指導した時に刊行したもので、1921 年 7 月に北京共産党組織により創刊された。 16) ルッツも開会式の日に北京非基督教同盟が清華学校の学生宛に手紙を送り、国立大学の設備が宗教の ために使われることを抗議したという(Lutz, 1987: 209)。 17) 張国燾は回想録で、「非基学生同盟」は青年団北京幹事会によって組織されたと述べているが 、これは 正しくない。回想録によると、彼は 2 月下旬にモスクワを発ち、3 月の間に上海に着いたという。おそら く彼は 3 月 20 日前後に上海に着いたと思われるが、その時は、非基運動の中心はすでに北京になってい た。だから彼の記憶には、非基運動は北京幹事会によって組織されたものだと残っていたのであろう。 18) この文章が『覚悟』に載った後、広州のバプティスト系の雑誌『真光雑誌』の編集者である張亦鏡は、 その内容、文筆から見て、上海の「非基学生同盟」の「通電」は、沈玄廬が書いたものに違いないと断 言した(張亦鏡、1927: 190)。 19) 彼らはおそらく第 1 次世界大戦の時、北京政府によって連合国側への支援としてヨーロッパに派遣さ れた「華工」たちであろう。ヨーロッパから帰ってきた華工たちは五四運動の重要な勢力の 1 つであった。 20) 会議は当初イギリス租界内にある愛文義路毓賢高小を会場として予定していたが、租界警察に干渉さ れて臨時に浦東中学に変えた(『晨報』、1922 年 4 月 4 日)。 21) 楊天宏は、講演者は左舜生と陳兼善の 2 人だとしている(楊天宏、2005: 130)。 22) 彼自身は宗教が科学に背き人間の苦悩を根本的に慰めることができないから反対するという。 23) 一方、『広東群報』4 月 19 日付の記事は参加者数を千数百人としている。 24) ここでいう「不平等な待遇と圧迫」とは、汪兆銘が「宗教毒民論」(『民国日報』、1922 年 4 月 15 日) で指摘した非教徒の学生に礼拝を強要したり、高い学費を取ったりしたことをいうのであろう。 25) それがもっとも顕著にみられたのが広東の運動であった。広州の反対組織は最初非基と非宗教の 2 つ の同盟に分かれていたが、譚平山ら共産党員の斡旋の下、最終的に省レベルの広東非宗教大同盟下に結 集し、同盟の重要ポストは青年団員が占めるようになった。 (参考文献) 日本語 石川禎浩(1995)、「1920 年代中国における「信仰」のゆくえ― 1922 年の反キリスト教運動の意味 するもの」(狹間直樹編『1920 年代の中国』汲古書院)、67–95 ページ。 ―(2001)、『中国共産党成立史』岩波書店。 コミンテルン編(1970)、『極東勤労者大会―日本共産党成立の原点』(高屋定国・辻野功訳、原著 は 1922 年発行)合同出版。 朱海燕(2010)、「中華民国初期における宗教批判について」『言語・地域文化研究』第 16 号、111– 129 ページ。 日本中国国際問題研究所中国部会編(1970 年)、『中国共産党史資料集』第 1 巻、勁草書房。 三好章(2005)、「燎原の火―新民主主義青年団/中国共産主義青年団」(野口哲郎『結社が描く中 国近現代』山川出版社)、249–267 ページ。 村田陽一編訳(1979)、『コミンテルン資料集』第 2 巻、大月書店。 英語

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