第 2 章 「解放」後のアルザス・ユダヤ人社会―バ・ラン県の事例を中心に―
はじめに フランス革命が進展する中で、ユダヤ人の地位についても国民議会の議論の対象になっ たが、アシュケナズィ系とスファルディ系との間の確執は大きく、結局、フランスへの同 化がより進んでいるとされたスファルディ系のボルドーやアヴィニョンのユダヤ人のみに 対し、1790 年 1 月に先に市民権が与えられた。アルザス・ユダヤ人を含めたアシュケナズ ィ系ユダヤ人に対してはその後も議論が続けられ、彼らが市民権を獲得したのは 1791 年 9 月のことであった。これがいわゆるユダヤ人の「解放」とよばれるものである。これ以降、 フランスのユダヤ人は、ダルトロフJean Daltroffによれば次のようにまとめられる1。 1. ユダヤ人は若干の例外を除き非ユダヤ人と同等の法的地位を獲得し、外国でもユダヤ 人は他のフランス人と同等の領事的保護を受ける。 2. ユダヤ人の移動と居住について何の制限も受けない。 3. 非ユダヤ人と同様、20-25 歳の全てのユダヤ人男性に対し兵役が義務付けられる。 4. ユダヤ人の食事上の禁忌の墨守や典礼行為について何の法的制限も受けない。 5. ユダヤ人はあらゆる職業に従事する自由を享受する。 6. ユダヤ人は不動産所有の自由を享受する。また、キリスト教徒と雇用・被雇用関係を 結ぶことも認められる。 この解放によって、フランスのユダヤ人の中でも一番人口が多く、また自らの伝統にも っとも忠実であり、フランスへの同化が一番遅れているとされたアルザス・ユダヤ人社会は どのような影響を受けたのか、本章ではこの点についての解明を試みる。フランス革命以 降の行政区画の再編により、アルザス地方には、オ・ラン県(これまでのオート・アルザス に対応する)とバ・ラン県(これまでのバス・アルザスに対応する)の 2 県が設置された。 本章では、アルザス第一の都市ストラスブールがあるバ・ラン県を主な考察対象に取り上げ る。実は解放後もユダヤ人に対する法的制限は存在していたのであるが、まず、それがど のように撤廃されていったのかを第一帝政時代とそれ以後に分けて概観する。次いで、バ・ ラン県のユダヤ人の社会経済的状況に焦点を当て、やはり第一帝政時代を分岐点とし、以 後 1860 年代後半までとに分けて、主に人口動態と職業構成の面から検討し、アンシァン・ 1レジーム期の状況との比較を試みる。これらを通じて、アルザスがフランス領時代であっ た 1871 年までのユダヤ人社会の実態について明らかにしていく。 第 1 節 法的枠組みの整備 (1)ナポレオンによる対ユダヤ人政策 1801 年、ナポレオンが教皇ピウス7世と和解して締結した政教協約コ ン コ ル ダ ー トによりカトリックに 対して、1802 年プロテスタントの二派に対して信仰の自由が認められるようになり、革命 期に混乱を極めていた宗教問題に対しナポレオンは一応の解決策を出した。しかしながら、 ユダヤ人に対しては、ナポレオンは「宗派が他のいずれとも混じりあうことのない別のナ シオンであるので、後で彼らについて専念する時間を持つ」と述べ、後回しにされた2。カ トリックやプロテスタントと同様にフランス市民として扱われているはずのユダヤ人に対 し、ナポレオンは「別のナシオン」とみているのである。もっとも、当初彼自身はユダヤ人 についてそれほど知識を持っていなかったようである。彼は、1803 年にポルタリスJean Etienne Portalis(コンコルダートの交渉、民法典の作成などに関わった法学者)に、ユダヤ 人問題についての報告を作成させているが、本格的なユダヤ人政策は 1806 年に入ってから である。この年に、反ユダヤ的なパンフレットが出版され、それらを読む機会があったこ と3、アウステルリッツの戦いの勝利後、帰還途中ストラスブールに立ち寄った際、住民の ユダヤ人(特に金貸し)に対する不満を直接耳にしたことで、彼はユダヤ人政策に本腰を 入れるようになったとされている4 。彼がとりわけアルザス・ユダヤ人によって営まれてい る「高利貸し」の問題に関心を示したのも当然といえよう。 その後のナポレオンによる政策を整理しよう。1806 年 5 月 30 日のデクレにより、「ユダ ヤ人ナシオンを改良する手段について討議する」ため、ユダヤ名望家会議l’Assemblée des Notables juifsを招集することが決められ、7 月 26 日に第 1 回会議がパリで開かれた。これ 2
AYOUN, R., Les Juifs de France. De l’émancipation à l’intégration 1787-1812, Paris/Montréal, 1997, p.152.
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この年以後、パンフレット類のほかに『メルキュール・ドゥ・フランス』などの雑誌に ユダヤ人についての記事が頻繁に掲載されるようにもなった。その多くが特にアルザス・ ユダヤ人の「高利貸し」行為を非難するものであった。SAGNAC, P., « Les Juifs et Napoléon (1806-1808) », Revue d’histoire moderne et contemporaine, 2, pp.465-471.
4
ナポレオンのユダヤ人政策については、かなりの研究文献を数えることができるが、そ のなかでも、ANCHEL, R., Napoléon et les Juifs. Essai sur les rapports de l’Etat français et du
は、全国のユダヤ人有力者 95 人が各県知事から任命された形で一堂に集められたものであ り、これまで別々に扱われてきたスファルディ系とアシュケナズィ系が初めて一堂に会し たことになる。ここで、ナポレオンは結婚・離婚の問題、ユダヤ人とキリスト教徒との関係、 ラビ制度の問題、高利貸しの問題など 12 項目の質問を提出した5。つまり、ユダヤ人の戒 律がフランスの法と矛盾しないかどうかを確認する必要があったからである。ユダヤ人代 表者は各質問事項について回答を出したが、ナポレオンはその回答に飽き足らず、また名 望家に対してのみならず、平教徒の一般ユダヤ人に対しても訴えかける必要があるとして、 同年 8 月末、大サンヘドリンGrand Sanhédrinを招集することを決定した。大サンヘドリン とは、古代イスラエルで行われていた裁判機構を復活させたものである。ナポレオンはこ れを開催する意図として「その[ユダヤ人名望家会議の]回答は、より強制力がありより 宗教的な形態を持つ別の会議による決定に転換されることで、タルムード(口伝律法とそ の解説の集大成)の脇におかれ、かくしてあらゆる国の、そしてあらゆる時代のユダヤ人 にとって可能な限り最高の権威を獲得できるものでならなくてはいけない。[そのために] 今日招集を提案するのは大サンヘドリンである」と述べており、時代がかった装置を持ち 込むことに対する彼の並々ならぬ熱意が感じ取れる。これは 1807 年 2 月 9 日に第 1 回会議 が開かれ、3 月 13 日に解散した6。 ユダヤ人名望家会議と大サンヘドリンでの討議、および宗務省、内務省、コンセイユ・ デタでの討議を経た後、ユダヤ人に対する一連の法令が 1808 年 3 月 17 日に公布された。 そのうち重要なものは 長 老 会コンシストワールconsistoireの設置と「恥辱令décret infâme」である。 長老会とは、ユダヤ人をユダヤ教徒として国家が監督するために設けられた組織である。 ユダヤ人が 2,000 人以上いる県7の中心都市(パリ、ストラスブール、マルセイユ、ボルド ーなど 13 の都市)に地方長老会が設置され、その地方長老会を束ねる中心機関としてパリ に中央長老会が置かれた。長老会の主な役割は、大サンヘドリンで決定された教義の遵守、 ユダヤ人コミュニティの秩序維持、ユダヤ人への「有益な職業professions utiles」の奨励、 5
質問の詳細は、例えばAYOUN, Les Juifs de France, pp.153-154 を参照。
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SCHWARZFUCHS, S., Du juif à l’israélite. Histoire d’une mutation 1770-1870, Paris, 1970, p.185 ; 有田『ふたつのナショナリズム』、78 頁。有田は招集日を 1806 年 8 月 23 日として いるが、これは誤りである。大サンヘドリンについては、LEVI, I., « Napoléon 1er
et la réunion du Grand Sanhédrin », REJ, 28, 1894, pp.265-280 ; GUTMAN, R.(dir.), Les décisions doctrinales
du Grand Sanhédrin 1806-1807, Strasbourg, 2000 などを参照。
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ユダヤ人が 2,000 人未満の県においては、それらの県をいくつかまとめて 2,000 人にな るようにして長老会を置いた。
そして兵役を義務付けること、であった。この結果、フランスは初めてユダヤ人を長老会 という一元的かつ中央集権的な組織によって掌握することになった8。 その一方、「恥辱令」は、アルザス・ユダヤ人が強く意識された法令であり、特に彼らの 経済活動を制限するための条項が並んでいる。以下、条項の一部を挙げておく9。 「元金が 5%以上の利子の蓄積によって明らかな方法であれ秘密裡であれ深刻な状況に 陥った債権は全て、法廷によって割り引かれる。もし、利子が 10%を超えた場合、その債 権は高利と宣言され、無効になる。」(第 5 条) 「今後来る 7 月 1 日から、正確な情報に基づき、そして、1.当該のユダヤ人が高利貸 しにも違法の商取引にも携わっていないことを確認した市議会と、2.彼の品行のよさを 確認した居住区域の長老会と、による証明書に基づき県知事が発効する免許状を持たない 限り、ユダヤ人はいかなる商行為もできない。」(第 7 条) 「現在オ・ランとバ・ラン両県に居住していないユダヤ人は、今後そこに居住することは できない。」(第 16 条) 「この県(オ・ラン県、バ・ラン県)のユダヤ人は、徴兵に関して兵役代理人を立てるこ とは認められない。その結果、全ての徴兵適齢者のユダヤ人は兵役の義務がある。」(第 17 条) この「恥辱令」は、「ユダヤ人に対して行われるさまざまな措置の効果によって、彼らと 帝国の他の市民との間にいかなる相違も見られなくなるだろうという期待」(第 18 条)の 下、10 年だけの効力期間を持つ期限立法であった。期限付きの法令とはいえ、これにより 1791 年に全フランスのユダヤ人が享受したはずの市民的平等の原則が覆されてしまった ことになる。また、「ボルドー、ジロンド県、ランド県に定着しているユダヤ人は何の苦情 も受けておらず、不法な取引にも従事していないので」(第 19 条)、彼らはこの法令の適用 から除外されていた。さらに、年が経つにつれ、他地域のユダヤ人も次々と適用外となっ ていき、結局最後まで法令の対象になっていたのはアルザス・ユダヤ人であったのである。 つまり、フランスのユダヤ名望家会議や大サンヘドリンの招集によってフランスのユダヤ 人が一元化されたにもかかわらず、アルザス・ユダヤ人と他地域のユダヤ人とを切り離し た政策が講じられたということになる。したがって、アルザス・ユダヤ人にしてみれば、 この法令は「屈辱的」であった。 8
HALPHEN, A.-E., Recueil des lois, décrets, ordonnances, avis du Conseil d’Etat, arrêtés et
règlements concernants les Israélites, Paris, 1851, pp.39-40.
9
ナポレオンによるユダヤ人政策として、もう一つ 1808 年 7 月 20 日の法令10が挙げられ
る。ユダヤ人は伝統的に旧約聖書から引用した名や、出身地の村の名を自分の名前とし、 さらには「アブラムの息子」のように表すだけで独立した名前を持っていない場合も多か
った。この法令では、「現在まで姓と固定された名を持っていないものは、この法令の公布
後 3 ヶ月以内にそれをつけ、居住している市町村の民籍事務管掌者officier de l’état civilの前
で登録しなくてはならない」(第 1 条)として、ユダヤ人が他のフランス人と同じような姓 名を持つことが強制された。また、「姓として旧約聖書の名も都市の名もつけることは認め られない」(第 3 条)とされたので、結局多くの場合ユダヤ人は新しい姓名を名乗らざるを 得なくなった。この法令は、おそらくユダヤ人の徴兵を確実にするために出されたもので あると思われる。なお、アルザス・ユダヤ人の例を見ると、新しい姓がフランス人の姓と しては奇妙なものが含まれていることを指摘して、反ユダヤ的な地元の当局側が恣意的に つけたのだとする説があったが、それは今日では否定されているようである11。 以上見てきたように、ナポレオンのユダヤ人政策は、フランス革命期からの課題であっ たユダヤ人のフランスへの同化を、長老会制度の創設、兵役や姓名の区別の強制などによ って、組織的・制度的に推し進めるものであった。また、ユダヤ教はカトリック、ルター派、 カルヴァン派と並び公認宗教の一つとされ、1905 年の政教分離法までこの四宗教並存制度 は継続した12。こういった一元的な「フランスのユダヤ人」に対する政策が策定されてい った一方で、アルザス・ユダヤ人に対しては、他のユダヤ人とは切り離されて別の政策が講 じられた。フランスのユダヤ人の「解放」に齟齬を生じさせてまでも、アルザス・ユダヤ人 の市民的平等の権利が制限されたということは、彼らの状況にさほど進展が見られないと 判断されたとともに、彼らのアルザスにおける反響、彼らの「問題」が相当深刻なものとし て受け止められたということであろう。このように、ルイ 16 世による政策以降、第一帝政 期までに至るまで、アルザス・ユダヤ人は他のフランスのユダヤ人とは別個の法的処遇を 受けたのである。 10
HALPHEN, Recueil des lois, pp.48-50.
11
例えば、Pompet, Rorphuro, Ragetosなどの姓が登録されている。なぜこれらの姓が登録さ れるようになったのかはよくわかっていないようであるが、少なくとも当局側が名前を決 定する権限までは持っていなかった。詳しくは、POLONOVSKI, M., « Nouvelles remarques sur l’application du décret du 20 juillet 1808 en Alsace », REJ, 158, 1999, pp.445-454 を参照。
12
ただし、復古王政時の憲章第 5 条で信教の自由が認められていながら、第 6 条において カトリックは国教religion de l’Etatである、と示されており、厳密に言えばこの期間におい ては四宗教は「並存」していなかった。
(2)第一帝政期以後の法的状況 復古王政に入り、1814 年に出されたルイ 18 世憲章シャルトによって信教の自由の保障と諸宗教 は同等に扱われ保護されることが規定されたものの、憲章自体が矛盾した内容を含んでい た13。ここでこの問題には深く立ち入らないが、アルザス・ユダヤ人の問題との関連で言 えば、憲章によって恥辱令が失効されることはなく、10 年の期限立法という当初の規定通 り 1818 年まで維持されることになり、この期間は彼らに対する信教の自由の保障は留保さ れた。失効時期が近づくにつれ、バ・ラン、オ・ラン両県議会が、ユダヤ人はいまだに同 化していない、ユダヤ人からの負債になお多くの農民が苦しんでいるとして、期間の延長 の要求を何度も行っているのであるが14、これについてはアルザス・ユダヤ人に対する地 元当局を含む周囲の嫌悪感の根強さと、実際には恥辱令はそれほど厳格に適用されていな かったことの表れとがうかがえる。恥辱令の延長を要望する声(特に地元の)の強さにも かかわらず、結局恥辱令は 1818 年に失効した。 七月王政期においてもなお、ユダヤ人にのみ課せられる制限があった。それは裁判所で 行うモール・ジュダイコMore judaïcoと呼ばれる宣誓である。これは、フランス革命時にい ったん廃止されていたが、第一帝政期に復活し、アルザス両県で実施されていた。ユダヤ 人は原告、被告、証人、いずれの場合においても出廷するときに前もってシナゴーグへ行 かなければならず、律法の前で旧約聖書の申命記中の呪いの言葉と十戒の偽証の罪を聞い た後に宣誓する、というものである15。モール・ジュダイコの廃止については、ニームの ユダヤ人弁護士で後に政府の主要閣僚として活躍するクレミューAdolphe Crémieuxが大き な役割を果たした。彼は法の前の平等と信教の自由を強調し、モール・ジュダイコはこれ に違反していると主張した。さらに、1842 年にコルマール控訴院で宣誓を拒否したユダヤ 人をめぐる議論が起こり、これを契機にして16ようやく 1846 年、宣誓が廃止されることに なった。このとき破毀院は、「フランスのユダヤ人は今では完全に全ての同国人に同化して 13 注 12 参照。 14 ADBR, V510. 15
これについては、例えばFEUERWERKER, L’émancipation des Juifs, pp.565-650 などを参照。
16
このときコルマール控訴院は、「アルザス・ユダヤ人はドイツ人であり、したがってタル
ムード主義者talmudisteである。その結果として、何世紀も前からドイツに存在しているモ ール・ジュダイコの宣誓はアルザスで強制されなければならない」という見解を出し、宣 誓を強制した。これに不満な当該ユダヤ人は、1844 年破毀院に上訴した。FEUERWERKER,
いる。モール・ジュダイコを強制することは法に違反することであり、憲章によって宣言 された信教の自由を直接侵害するものである」という見解を示した17。 モール・ジュダイコの廃止により、アルザス・ユダヤ人を含む全てのフランスのユダヤ人 に対する差別的な制限は撤廃された。ちなみに、これに先立つ 1831 年には、ラビにも他の 宗派の聖職者と同様、国家より俸給が支払われるようになっており、ようやくユダヤ人は 七月王政の頃に法的地位を向上させていくのである。 第 2 節 第一帝政期におけるバ・ラン県のユダヤ人 第一帝政下のバ・ラン県におけるユダヤ人の社会経済的な状況を知る一つの手がかりと して、1806 年 4 月に警察大臣より各県知事に送付された通達がある。そこには、1.県内 に居住するユダヤ人の概数、2.そのうちの土地所有者の割合、3.その他の(土地所有 者ではない)ユダヤ人が従事している生業industrieの種類、4.通常の取引における利子 率、5.シナゴーグ、公的教育施設の有無、6.民法典と徴兵制度を遵守しているかどう か、という 6 項目が質問事項として記されていた18。これに対するバ・ラン県知事の回答を 見ることで、県内のユダヤ人の状況が推測できる。それによれば、 「県内の土地所有者としてのユダヤ人は非常に少ないので、非ユダヤ人との比率を出す ことはできない。」 「ユダヤ人はほとんど専ら取引業、仲買、そして抵当付の貸し付けといった生業に従事 している。・・・彼らは家々に入り込み、いわば彼らの執拗さと廉価という魅力によって、誠 実な商売では屑になるような品々を常に下層階級の住民に売りつけている。」 「抵当付の貸しつけが行われることによって、ユダヤ人が常にしかけている罠から農民 たちを守るための厳格な措置を規定しなければならない。」 「この宗派の大部分は常に諸法律、特に徴兵制の網をかいくぐろうとしている。彼らは 若すぎるとか年をとりすぎているとかを証明しようとしている。・・・彼らが抽選で兵役に割 り当てられると、ほとんど常に兵役免除の方法を行使する。」、などと回答している19 。こ れから見る限り、ユダヤ人の状況はアンシァン・レジームの頃とほとんど変化していない。 この回答をナポレオンが重視したのは明らかであり、それが「恥辱令」の内容にも反映さ 17
FEUERWERKER, L’émancipation des Juifs, pp.640-643.
18
ADBR, 7M190.
19
れたことはほぼ疑いがない。 ただし、人口については県知事が「このナシオン[ユダヤ人]の顕著な増加」と述べて いるように、アンシァン・レジーム末期から第一帝政期にかけて急激に増加した。彼らの人 口を少しでも正確に把握する20ために、以下に見るように帝国政府はさまざまな法令を出 している。 国家による全国的な一般人口調査自体は、1801 年に初めて行われた。しかし、この時は 特にユダヤ人についての項目は設けられなかった。ところが、ナポレオンの治世下におい て状況は一変する。上述したように、彼のユダヤ人政策が本格化したのは 1806 年以降であ るが、この年はまた、ユダヤ人の人口調査が着手された年でもあった。先に引用した同年 4 月の警察大臣による通達の第 1 の質問事項がそれに当たる。この通達がアルザス両県に 送付されたことは間違いないが、全ての県に送付されたかどうかは定かではなく21、デー タも正確さに欠けるものであった22。 それからほどなくして、今度は内務省統計局から各県知事に「できるだけ早いうちにユ ダヤ人の正確な人数を知らせるように」という通達が送付された。この通達はおそらく全 ての県知事に送付されたようであるが、それでも県によって調査方法がかなり異なってお り、統一的なリストを作成するまでには至らなかったようである23。 ある程度信頼性のある全国的なリストが作成されるようになったのには、1808 年 3 月 17 日の法令の存在が大きい。この法令のなかで、2,000 人以上の住民がいるところにはシナ ゴーグを設置すると規定されたので、正確なユダヤ人人口を把握する必要に迫られたので ある。3 月 28 日、今度は宗務大臣の名前で通達が全ての県知事に送付された24 。このとき の調査結果は 7 月初旬にまとめられ、それによると 1815 年以後の国境に基づくフランスの ユダヤ人は 47,166 人であった25。 なお、その後も人口調査に関係した法令は次々に出されている。上述した 1808 年 7 月 20 人口を正確に把握する必要があった理由の一つは、ユダヤ人からも確実に兵士を徴集す るためであった。 21
POSENER, S., « Les Juifs sous le Premier Empire : les enquêtes administratives », REJ, t.90, 1931, p.4. なお、彼はこの通達を 5 月 7 日付としている。
22
BENSIMON-DONATH, D., Socio-démographie des Juifs de France et d’Algérie, 1867-1907, Paris, 1976, p.62. このとき、バ・ラン県知事はおよそ 22,000 人、オ・ラン県知事は 14,500 人 のユダヤ人が居住していると回答している。
23
POSENER, « Les Juifs sous le Premier Empire : les enquêtes », p.12.
24
ADBR, V514.
25
POSENER, S., « Les Juifs sous le Premier Empire : les statistiques générales », REJ, t.93, 1932, pp.195-197.
20 日の法令も、変更前と変更後のユダヤ人の名前を民籍簿に登録することが義務づけられ たので、この民籍簿によってユダヤ人人口を把握することは可能なはずである。ただし、 実際には名前の変更を拒否するユダヤ人がいたりするなどで、登録が全国的に実施される までには至らなかった26。 1809 年 8 月には、宗務大臣の圧力下で中央長老会による調査が行われた。この調査では、 各地方長老会における徴兵適齢者のユダヤ人の数、家長の数、土地所有者の数などが調査 対象になった。この結果は翌年 6 月にまとめられ、それによるとフランス全体のユダヤ人 人口は 46,663 人であった27。 このように、ナポレオン統治下においてユダヤ人の人口調査は警察省、内務省、宗務省 という 3 つの行政機構によって行われていたのである。この事実からしても、当時の政府 のユダヤ人に対する関心の強さを見て取ることができる。 さて、第一帝政下のバ・ラン県のユダヤ人についてであるが、1808 年 3 月 28 日の宗務大 臣による調査結果を見ると、5 月 21 日付の県知事の返事によれば、県内のユダヤ人は 16,155 人であり、145 の市町村に散らばって居住していた28。したがって、フランスのユダヤ人の 34.3%がバ・ラン県に居住していたことになる。そして、ユダヤ人の非ユダヤ人に対する 割合が最も高いのもバ・ラン県であり、約 3.3%であった29。1784 年と比較すると、ユダ ヤ人人口はおよそ 25 年の間に 4,443 人、27.5%分増加したことになる。そのなかでもきわ めて増加率が激しかったのはストラスブールであった。アンシァン・レジーム末期、有力 ユダヤ人のセール・ベールとその家族のみはストラスブールと交渉を続けた挙句、例外的 に市内に家屋を所有することが認められ、1784 年の人口調査でその数が 68 人とされてい る。しかし、本来はストラスブールにユダヤ人が居住することは禁止されていたので、解 放後居住の自由が認められて以後市内のユダヤ人人口が増加したのは何も驚くに当たらな い。1808 年にはその数は 1,476 人になっていた。 都市の人口増加を除けば、ユダヤ人の居住形態にはそれほど変化は見られない。バ・ラ ン県では多くの市町村に小規模のユダヤ人共同体が散らばっていたが、この現象は継続さ れた。バ・ラン県にあるユダヤ人が居住する市町村は上記のように 145 あり、そのうち 89 26
POSENER, « Les Juifs sous le Premier Empire : les enquêtes », pp.16-17.
27
BENSIMON-DONATH, Socio-démographie des Juifs, pp.62-63.
28
ADBR, V514; AN, F19 11023.
29
次に割合が高いのはオ・ラン県の 2.9%、次いでモーゼル県の 1.7%である。POSENER, « Les Juifs sous le Premier Empire : les statistiques », pp.196-197.
の市町村のユダヤ人人口は 100 人以下であった。これに対し、オ・ラン県では 9,915 人が 58 の市町村に居住し、100 人以下のユダヤ人しか抱えていない市町村はわずかに 20 である。 バ・ラン県内には 4 つの郡arrondissementがあるが、そのうちストラスブール郡にユダヤ 人の比率が高い市町村が多かった。目立ったところでは、クワツェナイムで住民の 42.1%、 オドゥラツサイムで 39.5%、シロッフェンで 38.3%、ビシャイムで 34.0%がユダヤ人で あった。これらの市町村はストラスブールに近く、県知事が「この都市[ストラスブール] からそう離れていないいくつかの村は長い間ユダヤ人の避難所asileとして機能していた 30」と書いたように、解放前にストラスブールで商売を営むことはできたものの居住は不 可能であったユダヤ人が、周辺の町や村に集まるようになっていたのである。その状態は やはり解放後も継続され、ストラスブールへ移住した者はいたが、そのまま周辺にとどま った者は少なくなかった。 このように、解放後居住の自由が認められたことで、都市ストラスブールでは人口が急 増した。一方、農村部では地域的偏りは解放前とそれほど変化しておらず、また急激な増 加を示した所はほとんど見受けられない。ただし、県全体としてのユダヤ人人口は増加し た。 「恥辱令」の第 7 条において、上述したように市議会と長老会の証明書に基づく県知事 の発効する許可状を持たなければユダヤ人は商業行為を営むことができなくなったのであ るが、これに基づき、1813 年、バ・ラン県は「非高利貸し証明書」リストを作成した。こ のリストは、証明書を交付されたユダヤ人の名前とその職業が郡ごとに記載されていると いうものである31 。ただし、このリストは完全ではなく、しかも証明書の交付が何を基準 にしているのか不明である32。したがって、詳細な分析は不可能であるが、それでもこの リストを検討したカタヌの研究によれば、ストラスブールにおいても農村部においても、 行商、仲買、家畜商といった、解放前からユダヤ人が従事していた伝統的な職業はなお続 けられていた。ただし、ストラスブールでは農村部に比較すると、職業範疇の幅が広く、 それまで彼らが従事することのなかった職業も出現するようになった。ストラスブール市 議会による 1806 年 8 月 16 日付の書簡によれば、ストラスブールにはラビ 1 人、宗務関係 者 24 人、卸売商 1 人、許可状を備えた代理商 3 人、許可状を備えた店舗持ち商人 16 人、 30 ADBR, 7M190. 31
ADBR, P143. ストラスブール市に関しては、AMS, 3° Police 71-402-20.
32
許可状を備えた手工業者(肉屋、製本職人、時計工など)14 人、年金受給軍人 1 人、軍資 調達従事者若干名、行商、仲買、金貸しに携わっている者が 53 人、と報告されている33。 その意味において、はやくも都市と農村との相違が現れるようになってくるが、どちらの 場合でも農業に携わるユダヤ人はいなかった。この時点では、ストラスブールで若干の職 業範疇の拡大が見られたとはいえ、全体的にはまだ目立った職業構成の変化は見られなか った。 第 3 節 19 世紀半ばにおけるバ・ラン県のユダヤ人 以上、第一帝政期のバ・ラン県のユダヤ人について述べてきたが、本節では、1815 年以 降その特徴に何らかの変化が見出されるようになったかどうかを検討する。 1843 年 6 月、内務大臣はバ・ラン県を含むいくつかの県に知事宛てでユダヤ人について の質問事項を通達として送付した。質問は 6 項目にわたり、内容は以下の通りである34 。 1. ユダヤ人の解放が彼らの公私両面の生活、諸関係、諸慣習、あり方に与えた影響はど のような事実あるいは評判によって確認されるか。 2. 彼らにおいて、罪や不正行為、特に高利貸しの罪の顕著な増加は認められるか。 3. 彼らは下劣な仲買行為に従事し続けているか。 4. 手工業や農業に生業として従事することになったのはどのくらいの数か、また彼らは 行商に専念し続けているのか。 5. 彼らは現在キリスト教徒住民を信頼しているのか。 6. 彼らの兵役参加は彼らの諸慣習やキリスト教徒との関係に影響を与えているか。 これに対し、バ・ラン県知事は具体的に詳しく回答している35。例えば、第 1 の質問事 項に対して、解放の影響はかなり大きいものであったとし、上層・中層のユダヤ人とキリ スト教徒との間の融和が進んでおり、下層のユダヤ人も改良が徐々に進んでいる、とした。 ただし、この現象は特に都市部で見られるものであり、農村部では「仲買人courtier d’affaire が多く、これはこの地方の真の禍」であり、「もっとも遅れた文明を持ち、伝統的な悪徳に 33
CATANE, M., Les Juifs du Bas-Rhin sous Napoléon 1er, leur situation démographique et économique, Thèse, Strasbourg, 1967, pp.166-169.
34
COHEN, D., « L’image du juif dans la société française en 1843, d’après les rapports des préfets », REJ, t.136, 1977, pp.163-169.
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ふけっている」ように、双方の間の格差が大きいことも付け加えている。第 2、第 3、第 4 の質問事項に関連して、職業については、古物商、肉屋、家畜商、兵役代理斡旋商agent de remplacementを代表的な職業として列挙しており、そのほかに「行商は常に主要な職業」 であり、手工業者はユダヤ人人口の約 20 分の 1 しかいないと答えている。また、農業に従 事する者はいないとしている。しかしながら、ユダヤ人の慣習が変化して高利貸しは大幅 に減少し、さらに 1825 年にストラスブールに設立された「バ・ランのユダヤ人貧民のため の労働奨励協会」(第 3 章で詳述)が農村のユダヤ人子弟に職業教育をしていることから、 近い将来手工業に就く者が多くなるのではないかという期待が述べられている。第 5 の質 問事項については、ユダヤ人に対する偏見のより強い農村でも、ユダヤ人の子供たちはす でにキリスト教徒が通う学校に通っているので、近いうちに互いの信頼関係が築き上げら れるだろう、と述べている。第 6 の質問事項については、「ユダヤ人の参加は満足する結果 を残していない。富裕層はた易く代理人を出す特権を行使し、貧困層はその虚弱体質のた めに兵役に適した者はほとんどいない」として、不満を訴えている36 。 この県知事の回答をまとめてみると、農村のユダヤ人の生活状況に対する伝統的な偏見 は残存しつつも、フランス国民への同化が一定程度進展しているとする見解が見て取れ、 1806 年の県知事の回答と比較すると、ニュアンスの違いは明らかである。また、1843 年の アンケート調査の質問内容からは、当局側にとっては常にユダヤ人がどれだけフランス国 民に同化しているのか、という点がもっとも重要であることがうかがえる。 さて、バ・ラン県のユダヤ人人口は、第一帝政後、どのように変化していったのか。こ れを検討するための史料としての人口調査であるが、ユダヤ人に関しては大きく分けて 2 種類存在する。すなわち、長老会によって実施されたユダヤ人だけを対象にした人口調査 と、政府によって実施された一般的な人口調査である。 前者について、復古王政下では、ユダヤ人についての人口調査は行われなかったようで あるが37、七月王政に入り、1831 年にラビが国家から俸給を受けるようになったとき、宗 36 この背景には、当然ながら兵役中のシャバットやコシェールの食事などの実行が困難で あることと関連している。1868 年のバ・ラン県の徴兵記録によれば、153 人の徴兵対象者 のうち、徴兵に応じたのは 70 人であり、残りの内訳は健康上の理由で免除された者が 22 人、その他の理由で免除された者が 18 人、兵役代理人を購入した者が 20 人、残りの 23 人は徴兵検査そのものに応じなかった。その大半が合衆国へ移住したという。DALTROFF, J., « Les conscrits juifs du Bas-Rhin », AJ, t.28, 1995, pp.85-86.
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務大臣は中央長老会に人口調査の実施を要請した38。さらに、1833 年、宗務大臣は各県知 事にユダヤ人人口についての報告をするように要請した39。その後も 1840 年と 1861 年に、 ラビの俸給額を確定するためにユダヤ人の人口調査が各地方長老会ごとに実施されている 40。 後者について、一般人口調査は 1821 年から 5 年ごとに実施された。これは、市町村ご とに実施され、性別、職業、国籍、年齢などが記載されて一覧表としてまとめられたもの である。そのうち、1841 年、1846 年、1851 年、1866 年については所属する宗教も記載さ れた。ただし、1841 年と 1846 年の調査においては、市町村によっては宗教が記載されな いなど、まだ不完全なものであり、本格的な調査結果がまとめられるようになったのは、 1851 年以降だという41。それでも、19 世紀半ばのユダヤ人人口については、このように 2 種類の人口調査がまとめられているので、それらに基づいて人口推移を検討していく。 表 2-1 は、バ・ラン県のユダヤ人人口の推移をまとめたものである。これによると、ユ ダヤ人は 1846 年までは増加を続けるが、その後は横ばい状態である。これをフランス全体 のユダヤ人人口と比較してみると、バ・ラン県の相対的な比率は下がり続けていることが わかる。すなわち、県のユダヤ人の重要度がそれだけ低くなっているということである。 バ・ラン県のユダヤ人は小規模な共同体を形成して数多くの農村に散住している形態をと っていたが、都市化が進むにつれ移住が盛んになっていき、彼らはストラスブールやさら にはパリやリヨンなど国内の他の都市へ移っていったため、そのような結果が生じている と考えられる。この点については第 5 章で再び考察する。 このことをさらに確認するために、ストラスブールのユダヤ人人口の推移を見てみると、 それは一貫して増加を続けている(表 2-2 参照)。これは、バ・ラン県全体のユダヤ人の人 口推移とは明らかに異なった現象を示している。また、バ・ラン県のユダヤ人の半数以上 が 2,000 人以上の住民を抱えている都市に居住していた、ということも特徴的である(表 2-3 参照)。 このように、ユダヤ人は都市に居住する傾向が非ユダヤ人と比較すると強いということ が言えるのであるが、それでも引き続きバ・ラン県のユダヤ人は小規模な共同体を形成し 38
BENSIMON-DONATH, D., « Mutations socio-démographiques des Juifs aux XIXe et XXe siècles », H-Histoire, t.3, 1979, p.186. 39 ただし、バ・ラン県については、県内の 4 つの郡のうち、ストラスブール郡とセレスタ 郡についてしか調査結果が残っていない。ADBR, 7M208. 40 AN F19, 11024. 41
ながら生活していたことも事実である。1851 年の段階で 500 人以上のユダヤ人を抱える市 町村は 3 つしかなく、逆にユダヤ人を抱えている市町村のうち 200 人以下のユダヤ人住民 しかいない市町村は、71.5%にも達する(表 2-4 参照)。 ユダヤ人については、結婚記録、出生記録、遺産目録などを分析するのは非常に困難で あるので42、婚姻率や出生率、死亡率などについて述べることはできないが、次に、一般 人口調査結果を使って、不完全ではあるが各市町村に居住していたユダヤ人家族の復原を 試みる。 ストラスブールと農村部の世帯構成を見てみると(表 2-5 参照)、どちらも核家族の占 める割合が高くなっているが、拡大家族の数も無視できない。これはユダヤ人における親 族間の紐帯の強さを裏付けるものであろう43。ただし、ストラスブールに特徴的な点とし て、単身世帯の多さが挙げられる。これは大学に通うためや仕事をするために、農村から 単身でストラスブールにやってきた者が少なくなかっただけでなく、キリスト教徒の家に 徒弟や家内奉公人として住み込む者も多かったという事実を反映している。特に、農村に 住む貧困な家庭出身の女性にとっては、結婚持参金の問題は大きな悩みであった44。その ため、都会の富裕な家庭で住み込み女中として何年か働くことによって、持参金を準備し たのである。実際、1846 年のストラスブールの家内奉公人として働く女性の出身地はほと んどが近郊農村である45。また、ストラスブールに居住するユダヤ人のおよそ 3 分の 1 が 家内奉公人を抱えていたということ(表 2-6 参照)で、都市部と農村部との生活水準の格 差の大きさがここでもうかがえる。他方、富裕なユダヤ人家庭に住み込みとして働いてい たキリスト教徒が存在していたことは興味深い。たとえば、極端な例であるが銀行家とし て財を成し、バ・ラン県長老会の長でもあったラティスボンヌAdolphe Ratisbonneの世帯で は、二人の息子と一人の娘のほかに、ユダヤ人女中一人、カトリックの下僕一人、プロテ 42 人口調査を除けば、ユダヤ人と非ユダヤ人とを区別した史料記録は原則的に存在しない ので、ユダヤ人だけをピックアップして統計を取ることはほぼ不可能である。ハイマンは それでもそれらの史料を分析しているが、彼女はユダヤ人であるがゆえにある程度名前か らユダヤ人であるかどうかを類推できるようである。HYMAN, The Emancipation of the Jews, pp.50-85; HYMAN, P. E., « The Social Contexts of Assimilation : Village Jews and City Jews in Alsace », in FRANKEL, J. and ZIPPERSTEIN, S. J. (ed.), The Jews in Nineteenth-century Europe, Cambridge, 1992, pp.110-129.
43
CATANE, Les Juifs du Bas-Rhin, p.98 ; CATANE, M., « La composition des familles dans le Bas-Rhin au début du XIXe siècle », Almanach du KKL, 1968, pp.150-151.
44
RAPHAEL, F., « Le mariage juif dans la campagne alsacienne dans la deuxième moitié du XIXe siècle », Studies in Marriage Customs, t.4, 1974, p.182.
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スタントのその妻、カトリックの彼らの息子、カトリック女中一人が同じ屋根の下で暮ら していた46。これは、単にユダヤ人とキリスト教徒との融合が進んでいただけでなく、富 裕になり高い社会的地位を獲得したユダヤ人が、自らをユダヤ人というよりむしろ一般の フランス人として意識し始めるようになったことの表れではないかと思われる。 ユダヤ人についてしばしば指摘される特徴の一つに、早婚と多産性という「悪弊」があ る。もちろん、結婚時の年齢47 や乳児死亡率も詳細に検討しなければならないが、人口調 査結果から見る限り、非ユダヤ人との違いはそれほど大きいものではなく、早婚と多産性 という指摘はユダヤ人に当てはまらない(表 2-7 参照)。ただし、結婚に関して述べるので あれば、持参金の問題と関連して、夫婦の年齢差の大きな事例が少なくないことを指摘し ておきたい(表 2-8 参照)。特に、夫が 60 歳以上の場合、妻との年齢差が 11 歳以上に開い ているのが全体の 45%にも達している。これは、夫が妻をなくすと若い独身女性と再婚す る傾向があった結果であると考えられるのだが、一方、女性の側でも貧しいがために多額 の持参金を用意できず、寡夫としか結婚できない、という事情があったと思われる。 最後に、職業分布について検討する。ユダヤ人の解放について論じられていた頃から、 非ユダヤ人にとって、下劣な職業である高利貸しや行商に従事している彼らをいかに「有 益な職業」、すなわち農業や手工業に就かせるか、という問題は討議された。なぜなら、そ のことが彼らの同化あるいは「再生 régénération」を可能にすると考えられていたからであ る。第 1 節で見たように、第一帝政下において、1808 年 3 月の法令のなかでユダヤ人を「有 益な職業」に従事させることが長老会の役割の一つとして規定されたのは、ある意味当然 のことであった。 先に述べた 1843 年の内務大臣へ宛てた県知事の回答では、主要な職業として、行商の ほかに古物商、肉屋、家畜商、兵役代理斡旋商が挙げられており、手工業者は 20 人に 1 人の割合でしか存在せず、農業に従事する者はいない、とされていた。人口調査結果によ って県知事の報告を確認してみる(表 2-9、2-10 参照)。 この 2 つの表から見る限り、状況は県知事の報告とある程度一致していることがわかる。 県知事が「主要な職業」とした行商に従事している者はそれほど多くないが、大多数のユ ダヤ人がさまざまな商業活動を行っている。農村部においては、1846 年と 1866 年との間 46 ADBR, 7M726. 47 ラファエルによれば、19 世紀のアルザス・ユダヤ人の平均結婚年齢は、男性が 30-32 歳、女性が 25 歳であった。RAPHAEL, « Le mariage juif », p.183.
の職業構成にたいした変化は見られない。土地所有の自由が彼らに認められ、「有益な職業」 の一つである農業に従事させようとする試みが長老会を中心として何度か行われたものの (第 3 章で詳述)、農業を営むユダヤ人はほとんどいなかった。先に述べたように、農村の ユダヤ人人口は 1846 年以降むしろ減少していることから、新しい職業に就く者は村から出 て行き、一方残った者は従来の仕事を続けた、ということであろう。実際、19 世紀に入っ ても、数としては減少し店舗を構える者が出現してきたとはいえ、農村部のユダヤ人行商 人の活動は活発であり、引き続きアルザス農民からは重宝がられた48。 バ・ラン第一の都市ストラスブールについては、1866 年の統計結果が残存していないの で、農村部と同様の分析はできないが、1846 年の統計結果から、急増したユダヤ人はどの ような職業に従事したのかを概観する。ストラスブールでは彼らの従事した職業の種類は 農村部に比して当然ながら多彩であった。まず、手工業に従事している者の多さが目立っ ている。具体的には、仕立て業や皮革製造業などが多いのであるが、職人的な技術を必要 とする職業、例えば時計製造や金銀細工に携わる者も存在している。ストラスブールは出 版の中心地でもあったので、印刷工や石版工として働くユダヤ人もいた。次に、都市に典 型的な職業である弁護士、医師、教師、作曲家などいわゆる知的自由業に就いている者も 少なくなかった。そして、19 世紀都市ユダヤ人の代名詞的な職業である卸売商などの大規 模商業、銀行業や保険業などの金融業に従事するユダヤ人は、ストラスブールでも多く見 出される。家内奉公人の多さも特筆すべきであるが、これは上述したように、結婚前の女 性にとって重要な職業であり、その多くは近郊農村からやってきて富裕層のユダヤ人の住 宅に住み込んで生活していた。1850 年以降になると、ストラスブール市助役、市会議員や、 レジオン・ドヌール勲章佩用者など、いわゆる名望家と呼ばれるユダヤ人が登場するよう になった49。 以上のような職業に従事したユダヤ人は、ストラスブールの非ユダヤ人の職業分布とさ ほど大きな違いは見られなくなっていた50。ストラスブールは、工業都市としてはオ・ラ ン県のミュルーズにはるかに及ばず、革なめし業やビール醸造業などの以前から行われて いた手工業が手広く行われていた。その一方で、ローヌ・ライン間(1834 年)、マルヌ・ ライン間の運河の開通(1853 年)、ストラスブール・バーゼル間(1845 年)、パリ・ストラ 48
RAPHAEL et WEYL, Regards nouveaux, pp.230-231.
49
LIVET, G., et RAPP, F.(dir.), Histoire de Strasbourg des origines à nos jours, t.IV, Strasbourg, 1981, pp.144-145.
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スブール間の鉄道の開通(1852 年)によりフランス国内と連結されたこと、また、フラン ス銀行の支店が 1846 年に設置されたのを皮切りに、パリなどの銀行の支店が次々に設置さ れ、第二帝政末期には 31 の銀行が営業するようになったことで、商業都市として大いに発 展した51。また、県庁所在地、軍事都市、大学都市としての顔もあわせ持っている。この ような特徴を持つストラスブールは、ユダヤ人にとっても非ユダヤ人にとっても多くの就 業機会を提供する都市だったのである。そのなかで、上述した富裕ユダヤ人の代表格、ラ ティスボンヌ兄弟Auguste et Louis Ratisbonneに見られるような同化に「成功」したとみな
された者も出現しており52、彼らはユダヤ人の枠を超え53、ストラスブールを代表する都市 ブルジョワジーの一員としての活動を展開していたといえよう。 小括 以上、解放後のフランスのユダヤ人の法的改善について検討した後、政府によって実施 された一般人口調査の分析を中心にして、第一帝政期から 1860 年代におけるバ・ラン県の ユダヤ人の人口動態、職業構成などについて考察した。ここで、後者の考察結果について 簡単にまとめておきたい。 ユダヤ人の解放により居住の自由が認められたことで、バ・ラン県のユダヤ人人口は急 激に増加した。この傾向は特に都市部に強く、したがって、ストラスブールのユダヤ人人 口の増加は、ひときわ顕著に現れた。ところが、19 世紀半ば以降になると、ストラスブー ルでは引き続き増加傾向が認められるものの、農村部では横ばい、あるいは減少していっ た。この現象は次のような理由によって説明できよう。すなわち、それまで都市に居住で きなかったユダヤ人は、農村に住み、農民を相手に金貸しや行商など仲介的な役割を果た していた。これは第 1 章で見たとおりである。ところが、解放以降、彼らの一部が仕事の 規模を拡大するため、あるいは新しい仕事を求めて都市に移住するようになり、その傾向 51
DALTROFF, J., « Les Ratisbonne : notables et financiers strasbourgeois au XIXe siècle », REJ, t.159(3-4), 2000, p.465. 52兄弟は 1812 年に毛織物や絹織物などの販売業を営む「ラティスボンヌ兄弟会社」を興し た後、銀行業に進出し、弟のルイはストラスブール貯蓄銀行Caisse d’Epargne et de prévoyance de Strasbourgやフランス銀行の理事に就任するまでになった。さらに、彼は市会 議員、市助役も務めている。彼らの母親はセール・ベールと再婚しており、彼が兄弟の保 護者になったことがその後の経済的社会的進出に大きく関係している。 53 ただし、彼らはバ・ラン県長老会の長を務めたり、ユダヤ人向けの慈善病院を設立した りするなど、ユダヤ人共同体における活動も積極的に行った。
は 19 世紀を通じてさらに強まっていったということである。ユダヤ人の移住については、 第 5 章で再び触れる。ただし、農村部にとどまったユダヤ人は、近代的信用制度の本格的 普及はまだ先であったこともあって、引き続きアンシァン・レジーム期以来の伝統的な職 業に従事する者が多く、その結果都市部と農村部とでは職業構成の格差が拡大する結果と なり、むしろ農村部のユダヤ人の中には都市へ移ったユダヤ人に対し、「ユダヤ性を棄てた もの」と見なし、積極的に伝統的な活動や習俗、慣行を保持する者さえ出現するようになっ た54。 特に農村にとどまったアルザス・ユダヤ人に対しては、19 世紀半ばになってもフランス にまだ同化しておらず、彼らの「再生」は不可欠であるという見方が一般的であった。こ の見方は地方当局のみならず、同化を「達成」した一部のユダヤ人にも共有された。この ことは、長老会が中心として実行したさまざまな「再生」のためのプログラムに結実する。 次章ではこの点について考察する。 54
HYMAN, P. E., « Village Jews and Jewish Modernity : The Case of Alsace in the Nineteenth Century », in : DOTTERER, R. et als. (ed.), Jewish Settlement and Community in the Modern
Western World, Selinsgrove, 1991, p.22 ; HYMAN, P. E., « L’impact de la révolution sur l’identité
et la culture contemporaine des Juifs d’Alsace », dans : BIRNBAUM, P. (dir.), Histoire politique
des Juifs de France, pp.37-38. ハイマンによれば、このことは例えばシオニズムの主張がフ
ランスでは比較的冷淡に受けとめられたのに対し、アルザスではシオニズム思想に同調す るユダヤ人が少なくなかったことでも確かめられるとしている。