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「教育」概念の明晰化における鍵概念としての「教える」の再考

― 大村はまの言説および実践記録における「必然性」概念の分析に基づいて ―

畠 山   大

 本稿は、教育学において極めて重要な位置を占める「教育」概念の明晰化のために、教育者が行 う教育的行為を指示する「教える」という語の意味を再解釈し、再概念化を試みることを目的とし ている。具体的には次の手順を採っている。まず、今日的な「教える」という概念の理解を、「教 える」教育と「教えない」教育という二項図式的な言説体系に沿って明晰化する。この作業を踏ま え、次に、大村はまの言説および実践記録に基づいて、異なる様式としての「教える」という概念 の析出を行う。大村による自身の実践の「語り」を通して示される「教えるということ」は、従来 の「教える」という概念を再吟味するための重要な要素を含意している。本稿ではその点に焦点化 し、大村の言説および実践記録を読み解いていく。以上の議論を踏まえ、新たな「教える」という 概念が「教育」概念の明晰化においてどのような理論的示唆を与えるのかを論じ、結論とする。 キーワード:教える、教育、大村はま、論理的必然性、傾向的必然性

1.はじめに―本研究の目的と方法

 本稿は、教育学において極めて重要な位置を占める「教育」概念の明晰化のために、教育者が行 う教育的行為を指示する「教える」という語の意味を再解釈し、再概念化を試みることを目的とし ている。  「教育」という語は、そもそも、表意文字「教」と「育」との合成語として理解されている。こ の理解に基づくならば、「教育」という概念を理解する上では、「『教える』とは何か」、「『育てる』 とは何か」という問いを問うことに、その一つの基盤を求めることができる。  例えば、この「『教える』とは何か」を問うという視点から「教育」概念の明晰化を目指した研 究に、俵木浩太郎のものがある。俵木によれば、「教育をふくめておよそ教の文字を使用して成立 している熟語は、あらかじめ教がなんらかの概念を示していることを前提し、それぞれのしかたで その概念をわけもつべく構成され」1)ているという。そしてさらに、ヲシフという読みをする語が、 歴史的には「教」以外にも「訓」や「学」などと複数あることから、「教」概念は「和語ヲシフと も厳密には一対一に対応しえない」2)という。そこで、俵木は、「教え育てること」は教育を構成  教育学研究科 博士課程後期

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する必要条件のうちの一つであるとした上で、「(ヲシフとしての)教が意味していると暗に想定さ れている意味合をとり出すことができれば」3)、それに基づいて、「日常的に教育という語がはた している役割をよりよく解明できる」4)と述べている。このように、俵木の分析は、「教える」と 「教育」との間にある構造的な概念的相違に着目し、「『教える』(ヲシフとしての教)とは何か」 を問うことから、表意文字「教」を含み持つ「教育」概念の明晰化を目指したものと理解できる。  また、「教える」と「教育」との間にある構造的な概念的相違に着目した研究として、h.シェフ ラーの研究も示唆的である。シェフラーは、英語文化圏における「教育」(education/educating)と 「教えること」(teaching)の概念的関係について分析を行う中で、「教えること」を、「教育」より も「より活動志向的または役割記述的」5)な概念であるとし、そしてさらに「より方法上の制限が ある」6)ものとして規定している。この分析の背景には、「教育」が「教えること」を含めた「様 々な活動や過程を包括する傘のような言葉」7)であるとする、シェフラーの両概念の関係に関する 認識がある。この様々な活動や過程には、例えば育児という活動や人間発達という過程、そして教 化(indoctrination)という非合理的な活動までもが含まれる。つまり、「教えること」はあくまで 「教育」に含まれる一つの方法であり、それ故に、「教育」という事象の成立をもってそこで必然 的に「教える」という合理的な(reasonable)活動がなされたと見なすことはできないということ である。  興味深いことに、日本語と英語という異なる文字文化を背景としながらも、俵木とシェフラーの 研究には一つの共通点を見出すことができる。すなわち、「『教える』(teaching)とは何か」という 探究を抜きにして「教育」(education)概念を問うた場合、それは必ずしも「教える」(teaching) ことによって成立する意味での「教育」(education)の意味を分析したことにはならない可能性が あるということを指摘している点である。人間のある種の行為を「教える」という語や“teaching” という語で指示し、その行為を必要条件の一つとして成立する事象を「教育」ないし“education” という語で指示する以上、「教育」概念をより十全に理解するためには、その内に含まれる「教え る」(teaching)という概念の理解が重要な教育学的課題となるということである。そこで、本稿で はこの問題意識に基づいて、「教育」概念の明晰化を支える理論的基盤となる、日本語における 「教える」という概念の問い直しを行う。具体的には、次の手順で議論を進める。  まず、今日的な「教える」という概念の捉え方を、「教える」教育と「教えない」教育という二 項図式的な言説体系に沿って明晰化する。ここで明晰化される「教える」という概念は、本稿にお いては問い直されるべき対象としてのものである。  この作業を踏まえ、次に、教育実践家大村はまの言説および実践記録に基づいて、異なる様式と しての「教える」という概念の析出を行う。大村は、50年以上にもおよぶ自身の実践の中で、「教 えるということ」を常に問い続けてきた実践家である8)。たしかに、彼女の「語り」は、明示的に 「教えるとは○○のことである」という命題形式で述べられた言説ではない。さらには、「教える」 という語を直接的に用いて言明する箇所さえ非常に限定的である。しかしそれでもなお、彼女によ る彼女自身の実践の「語り」を通して示される「教えるということ」は、従来の「教える」という

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概念を再吟味するための重要な要素を含意している。本稿ではその点に焦点化し、大村の言説およ び実践記録を読み解いていく。  以上の議論を踏まえ、新たに提示される「教える」という概念が、「教育」概念の明晰化にどの ような示唆を与えるのかを論じ、本稿の結論とする。

2.

「教える」教育と「教えない」教育

 現在、日本の教育界において、「教える」という言葉は二つの文脈において用いられている。一 つは「教える」教育という文脈であり、いま一つは「教えない」教育という文脈である。例えば、 歴史的な観点から「教えない」教育の可能性を論じる山本正身は、その議論の過程で、「教える」 教育と「教えない」教育という二項図式を用いて日本の(学校)教育の展開を説明している。山本 によれば、戦後日本の教育は、「Ÿ「教える教育」への批判(1947年∼52年。新教育の発足と展開)、  「教える教育」の推進(1952年∼77年。教育の量的拡大と質的整備)、¡「教える教育」の見直 し(1977年∼。「ゆとり」や「生きる力」の尊重)、という」9)形で推移してきたとした上で、2005 年以降、今一度「「教える」教育の見直し」という路線が再考されていると述べている。こうした 歴史的展開を、山本は、「主流としての『教える教育』とその反動としての『教えない教育』との 間をいわば振り子のように行きつ戻りつするだけのものであった」10)と見ている。  しかし、この「教える教育」と「教えない教育」という振り子運動の背後には、より根本的な基 盤として「教育」をめぐる日本特有の文化的背景がある。村井実によれば、明治期以降、欧米から “education”という語が導入され、それに「教育」という訳語が当てられる以前から、日本特有の 教育という現象の捉え方があったとされている。そして村井は、その捉え方を、第一に、何が「善 い」かを定めて、それを子どもたちに「教える」という、もっぱら「教え」ること、あるいは「訓 へる」ことによって子どもたちを「善く」しようとする方向(例えば、教化、教導、教授、教訓等)、 第二に、子どもたち自身の「学ぶ」という働きを認めて、その働きを「奨める」「諭す」等、もっ ぱら子ども自身の働きを促進することによって子どもたちを「善く」しようとする方向(例えば、 勧学、奨学、奨導等)、そして第三に、子どもたち自身の「学ぶ」という働きに着目して、その働 きを「学問」「学習」等と呼び、もっぱらその指導や援助を工夫するという方向、の三つに区分し ている11)  この議論を踏まえると、村井自身は明示的に述べてはいないが、「教える」教育という言説を支 える認識の様式は、明らかに第一の文化的背景である。山本がこの「教える」教育を巧妙にも「主 流」と論じているように、日本の学校教育は、もっぱらこの第一の認識に基づく「教える」という 概念の理解によって支えられてきた。その結果として、あらかじめ規定される教育内容をいかに効 率よく明示的な方法で学習者に伝達できるか、という形で「教える」ということを問うことが、教 育学における重要な命題となっている。現代的な状況に置き換えて言えば、教育内容として規定さ れる実・体・的・な・・知識・(・事・項・)・や・手・続・き・的・な・技・能・を、合理的な方法で、明示的かつ段階的に学習者に伝 達していくことこそが、学校教育における「教える」という行為であるという理解の様式である。

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その結果として、仮に「教える」教育を肯定的に論じるならば、それは、専ら知識(事項)や技能 を伝達することを肯定的に主張するものとして位置づくことになる12)  これを裏付けるかのように、「教えない」教育という言説においては、上記の「教える」という 概念の理解を、今度は批判すべき対象としてより明確に示している。例えば、邦楽教育の領域にお ける「教えない」教育の意義に着目した梅本堯夫の研究を見てみよう。梅本によれば、邦楽の教育 では「単・な・る・技・術・の・伝・達・よ・り・は・曲の真髄の理解を通して邦楽の精神を体得させること」13)に目的 が置かれており、そのような高次の学びにおいては、教える側が「一・方・的・に・説・明・しても学習が進行 するものではない」14)という。それ故に、学び手が「能動的積極的に自分の必要なものを師から 奪いとるという強い求道的精神を養うものとして“教えない”ということが言われている」15) いう。これはまさに、「教える」ということを知識事項や技能の伝達として位置づけた上で、それ によっては意義ある学びが生じないことを指摘するものである。  また、学校教育において「教授のない教育」というラディカルな原理を提起する田中智志は、既 存の「教授(教える)」の意味を、「定められた知識É技能を、相手の情況にかかわりなく、一方的 に伝達し受容させる行為」16)として規定している。田中は、こうした教師É生徒間関係という上 下関係の支えが無ければ成立し得ない一方向的な伝達の行為、すなわち「教授(教える)」を放棄 することで、教育主体を従来の教師から、教師と子どもとのコミュニケーションという情況に転換 させ、教育関係の再構築を目論んでいる。  このように、「教えない」教育における「教える」ということの理解は、教えな・い・という否定の 論理構造を持つが故に、既存の「教える」という概念をより強固なものとしていることがわかる。 さらに言えば、真の意味での学びを学び手に引き起こすには、「教える」という行為では不十分で あり、そのため、教えることに代わる何らかの別の手段を構想する以外にないことになる。  しかし、果たして「教える」ということを、知識事項や技能を伝達する行為としてのみ規定する ことは妥当な理解なのか。「教える」教育という言説、そして「教えない」教育という言説の両者 に見られるこの理解は、具体的な教育実践における「教える」という営みを看過し、あくまで表層 的な部分を捉えて概念化したものではないか。この問いに答えるべく、以下では大村はまの言説お よび実践記録の分析を行う。

3.大村はま実践に示される「教えるということ」

3.1. 「論理に基づく学習」のオルタナティブとしての「言語生活」 3.1.1. 分析視座の転換―「単元学習」から「言語生活」へ  大村はま(1906-2005)は、戦前É戦後を通して独自の国語教育実践を展開してきた。そのため、 これまで国語科教育論の文脈で、氏の言説および実践記録は数多く取り上げられている17)。こうし た研究の多くは、大村の教育実践を取り上げる際、国語科における「単元学習」の典型的事例とし て位置づけている18)。しかし本稿では、あらかじめ大村の実践を「単元学習」として位置づけ、そ の単元論的な特質や内実を解明するという手法は採らない。なぜなら、大村が展開した国語教育実

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践は、単純に「単元学習」に関する理論を受容し、それを具現することによってのみ構成されたも のとは言い難く、むしろ独自の展開をたどることによって、結果として「単元学習」との共通性を 示していると捉える方が、より実態に即した理解であるからである。事実、大村は、戦後の実践を 生み出す過程を振り返る中で、「自分のしていることが単元学習であってもなくてもよいと思って いた」19)とし、「強いて名づけて言わなければならないときは『効果的な学習』と言っていた」20) と述べている。たしかに、後年、大村は自らの実践を「単元学習」という言葉を用いて説明してい るが、それはあくまで「簡単に言うために、ことばとして使いやすい」21)ためであり、「学問上の 単元論にどこが合致しているかなどと言われても、それはちょっと研究が ママ していない」22)と述べ ている。こうした経緯を裏付けるように、野地潤家は、大村実践を巧妙にも「単元的©展開」と呼び、 直接的に「単元学習」という言葉を用いることを避けている23)。そしてむしろ、野地の研究から見 るべきことは、大村の実践が「単元的」であること以上に、戦前から存在する「言語生活」という 概念によって構成されていることである24) 3.1.2. 「傾向的必然性」が生み出される「言語生活」  この「言語生活」概念は、大村が芦田恵之助の国語教育論から得たものである。大村は、芦田か ら「戦後の学習指導の方向の一つとして、聞く、話す、読む、書く言語活動を深く関係しあった、 一つの言語生活として経験させていく」25)ということを学んだと述べている。これは後年、大村 自身によって、「話すために聞くために書くために読む、読んで話し合い聞き合い書く、書いたこ とを読み合い話し合う、書くために聞き読み話す、ことばの活動はつながりあっているものだ、離 れ離れでは生・き・た・力はつかない」26)という形で言い換えられる。大村は、こうした「聞くÉ話す É読むÉ書く」という一続きの言語活動という「言語生活」概念を基にして、自身の教育実践を構 成しているのである。  しかし、大村はなぜ「言語生活」概念に基づいて自らの実践を構成しようとするのか。第一の理 由としては、日常的な営みにおいて「聞くこと」や「話すこと」、「書くこと」、「読むこと」は、細 切れに細分化される実体的な知識や手続き的な技能には還元し得ないことが挙げられる。むしろ大 村は、「実際の生活の中で、ことばの働きというものは、みな、つながりがあります」27)と述べ、 日常的な言語使用における一つの包括的行為として「言語生活」という営みを規定している。  さらに大村は、この点に関連させて第二の理由を挙げている。それは「論理に基づく学習」が有 する問題の指摘である。以下の言明を見てみたい。   生活の実態É生活の中から取材した、そういう単元学習の展開のなかで学び得たものが、あま り手数を経ないでその人の実力になると思うのです。そうではなくてŸ論理から出発したこ とで、たとえば、これは必要なことだから段落のきり方を知っていることは大切なんだ、 そ ういうふうに出発したことですと、 段落を切って考えなければいけない文章があります時 に、こちらで学んだことを何回転かして自分で応用して生活の中で使うというように手数がか

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かる と思うのです28)  この言明に見られるように、「論理に基づく学び」は、手続き的には二つの区切りからなる段階 論である。引用文中の波線部Ÿは、学問的前提をもとにした論理的段階における「基礎」である。 ここでの文脈に即して述べるならば、文章を読解する際の基礎である。そして、引用文中の波線部  は、基礎に対応する「応用」ないし「より高次の学習」である。大村が「手数がかかる」として 退けている「論理に基づく学習」は、実は日常的な学校空間で当然のこととして展開されている学 習活動である。先に見たように、日本においては、「教える」ということが「実体的な知識や手続 き的な技能の伝達」として捉えられている。それ故に、常に問題とされるのは、いかにして学問的 背景に基づく知識や技能を段階的に秩序立て、「基礎」から「応用」ないしは「より高次の学習」 へと至る形式的段階を設定するか、ということになる。そして、学習において第一に重要となるの は、「基礎」として位置づけられる実体的な知識や手続き的な技能を、どの程度頭の中に保有した のか、ということになる。  宮崎清孝は、こうした段階説の典型を1960年代のi.ブルーナーの議論に見ている。一般的には 「螺旋形カリキュラム」として理解されているこのブルーナーの初期の理論は、宮崎によれば、各 知識領域(学問領域)の中核的(基礎的)知識である「構造」(structure)を、異なる発達段階にお いて異なる仕方で学び深めていく過程として理解されている29)。たしかにブルーナーは、個別的で 瑣末な知識の理解ではなく、学問領域の中核にある基礎的な「構造」を理解することが、学習後の 知識事項の社会的変化に対応し、学習し直すことのできる能力を養成すると考えていた。そのため、 学問領域が持つ論理的段階性の設定、すなわち基礎的原理としての「構造」を析出し、学問領域を 「学習内容として体系化」することを目指した。この際、「段階性」は二重の意味を持つ。一つは 学問領域における「構造」から生じる知識事項の段階性であり、いま一つは学習する側の発達段階 という段階性である。事実、ブルーナーの議論は、当時興隆しつつあったピアジェ流の個人構成主 義的な発達心理学の影響を色濃く受けていた30)。ブルーナーの影響力が1960年代と比較して相対的 に弱まっている今日においても、基礎から応用へ、基礎からより高次な学習へ、という「論理に基 づく学習」の思考様式は、学習の効率性を高めるものとして学校学習を基礎づけている。  では、大村はなぜ「論理に基づく学び」を「手数がかかる」として退けたのか。この問題を考え るためには、大村が述べる「手数がかかる」という言明を、単純に字義的に、子どもが応用する際 の手続き的な「効率」の問題として捉えるだけでは十分でないことが見えてくる。そもそも、大村 にとっては、ここで言う「応用」こそが日常的な「言語生活」である。つまり、日常的な「言語生 活」においては、実体化される明示的な段階的「基礎」は存在しないのである。言い換えるならば、 この基礎は、あくまで教育的な必要性、さらに言えば、授業者にとっての「伝達の容易さ」に応じ て学校の学習活動に設定されているに過ぎない。それ故に、「論理に基づく学習」においては、応 用としての日常的な言語生活との関係で見たときに、子どもの側には応用へと至る「基礎」の学習 活動の必然性が見えにくいのである。とするならば、「基礎」を「基礎」として、実体的な知識や

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手続き的な技能に還元して伝達する「教える」という行為では、子どもの側にとっては、それを学 ばなければならないという必・然・性・の・認・識・が持ちにくいということになる。大村はこの子どもの必然 性の認識を軽視した「教育的な必要性」、すなわち基礎とされる実体的な知識や手続き的な技能の 「伝達の容易さ」という、教・師・の・論・理・・に基・づ・く・「・教・え・る・」・と・い・う・行・為・の・認・識・を排除するために、基 礎から応用へと至る学習過程を「手数がかかる」として排斥したのである。そして、それに代わる 「教える」という行為を、大村は以下のように提示している。   たとえばある文章を読むにしても、 一つの言語生活のなかで必・然・的・に・それを読む意味がある ようにする 。ただ、よい文章だから読む、読解力をつけるために役に立つと思われるから読 む、というのではなく、 それがその場で読まれる必・然・性・、成・り・ゆ・き・があって読む。 その結果、 よい文章を味わうことになったり、読解力がねられたりすることになる―そのようにしようと した31) 「聞き、話し、読み、書く」力は、「聞き、話し、読み、書く」経験をすることによって伸び ることを思えば、これらの経験の場を、 いかに、む・り・の・な・い・・必然・の・す・が・た・で、いかにゆたか に設けることができるか がたいせつな点である32)  この言明を見ていくと、大村の「教えるということ」の理解を支える重要な鍵概念が潜在してい ることがわかる。それは、「必然性、成りゆき」という概念である。引用文を見るとわかるように、 大村はこの「必然性」と「成りゆき」を同義のものとして理解している。この「必然性(成りゆき)」 とは、大村にとって何を意味するのか。一般的な理解に基づけば、この「必然性」は、蓋然性や偶 然性の反意語として極めて論理的な因果関係を連想させる言葉である。しかし、ここでの「必然性」 概念は、そのような「論理的必然性」(logical necessity)としては解釈できない。なぜなら、先に 見たように、「基礎から応用へ」と至る学問的な論理的必然性を、大村は自らの実践の原理を語る 言葉としては排除しているからである。むしろここでは、「一つの言語生活」という状況的な全体 性を踏まえ、然るべき条件の下でそうせざるを得ないという一種の認識の状態、すなわち「傾向的 必然性」(dispositional necessity)の認識に基づいていると言うことができる。 3.2. 「言語生活」という状況性に基づく「傾向的必然性」 3.2.1. 「傾向的必然性」概念の意味とは何か  「傾向的必然性」とは何か。大村の言明に即してこの問題を考える前に、まずは「傾向性」 (dis-position)概念について検討する。この傾向性概念は、ギルバートÉライルによって分析的に捉え られたものである。ライルは、従来のデカルト的な心身二元論に立つ知識観を批判し、人間の知識 を“knowing”概念の下で一元的に捉える試みを行っている。その中で、論理的区分として設けた “knowing that”(命題的知識)に対する“knowing how”(技能的知識)に見られる特徴として、 ライルは傾向性概念に着目している33)。以下の言明を見てみよう。

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  ある傾向性をもつということはある特定の状態にあるということでもなく、またある特定の変 化を受けるということでもない。 それはむしろ、ある特定の条件が実現された場合にはある 特定の状態にならざるをえない ということであり、また その状態になりがちである というこ とである。あるいはまた その場合にある特定の変化を受けざるをえない ということであり、 また 変化を受けがちである ということなのである34)  ライルが述べている「ある特定の条件が実現された場合にはある特定の状態にならざるをえな い」、「その状態になりがちである」ということは、どういうことなのか。この点に関して、「愛煙 家」の例を検討している。ライルによれば、「愛煙家である」という言明は、単に「ある特定の瞬 間にタバコを吸っている」という事・実・を・表・明・す・・るも・の・で・は・な・い・。「愛煙家である」ということは 「然・る・べ・き・条・件・の・下・で・は・パイプをタバコの葉で満たし、火をつけ、口にくわえざ・る・を・え・な・い・、ある いはそうし・が・ち・で・あ・る・ということにほかならない」35)のである。つまり、「愛煙家である」という ことは、例えば、「灰皿が目の前にある」や「仕事が一段落する」、「タバコ好きの仲間と一緒にい る」などの条件が揃ったときに、必・然・的・に・タ・バ・コ・を・吸・っ・て・し・ま・う・という行動のある種のパターンな のである。ただし、傾向性として捉えられる行為は常にこの愛煙家の例のような単純な形として現 れるわけではない。ライルによれば、実際のところ、「傾向性の現実化が広範でおそらくは無制限 に多様な形をとりうるような例は少なくな」36)いという。この点についてライルは、以下の例に 言及している。   たとえばある物体が固いと記述される場合、 そこではたんに変形を受けにくいということの みが意味されているわけではない 。たとえば、それは叩けば鋭い音を発するであろう、その 鋭利な角に接触すればわれわれは痛みを感ずるであろう、弾性体はその上で弾むであろう、等 々、のことも不確定のままに意味されているのである37)  この例を踏まえ、ライルは、人間の傾向性も「一般には単一な傾向性ではなく、むしろそれはき わめて多様で異質な形において現れる」38)ものであるとし、それを「高次の傾向性」39)と概念化 する。  この議論を踏まえたとき、大村の言明に見られる「傾向的必然性」は、この「高次の傾向性」に 支えられていることがわかる。なぜなら、日常的な言語生活における聞く、話す、読む、書くとい う諸行為は、様々な条件の下での然るべき行為として、実に多様な形態として現れ得るからである。 それ故に大村は、自身の実践において、絶えずこの四様式の行為(聞く、話す、読む、書く)が、 傾向的必然性に基づいて多様な形態として求められる場を構成していく。換言すれば、「傾向的必 然性に基づく学び」が発現する多様な条件を、教室という教育空間に生みだすことが、大村にとっ ての「教える」という行為の意味なのである。  この点をより詳細に見ていこう。大村は、子どもに「書く練習をさせる」という事例を基にして、

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次のように述べている。   書く練習をするときは、「書く練習をしなさい。」と言うようなことではとてもだめなのです。 ほんとに書かせなくては、だめなのです。それも、書くこと、書きたいことが胸にないとい う状態では、書く練習はできないわけです。 …… 書くことが胸からあふれそうな、そういう 状態を子どもにつくって、思・わ・ず・そ・れ・を・書・き・た・く・な・る・ように、それからそれへと展開していく ようにさせなければならない でしょう40)  大村が述べる「言語生活」の意味を考慮したときに、ここで述べられる、「書くこと、書きたい こと」を子どもの「胸からあふれ」させる、ということの意味が見えてくる。すなわち、それは、 「書くこと」を持つために、「書くこと」を胸からあふれさせるために、子どもは他の言語活動 「聞くÉ話すÉ読む」を行うということである。大村の視点から言えば、書こうとする具体的内容 を持たせるために、子どもを、人から話を聞いたり、人に話したり、本を読んだりという全体的な 状況としての言語生活に置くということである。こうした言語生活という状況性を条件とするから こそ、子どもは「思わずそれを書きたくなる」という高次の傾向性を発現するのである。  同様の事実を別の観点から見てみよう。以下の大村の言明は、「読書のしかた」という単元的展 開を仮定し、この「聞く、話す、読む、書く」という四様式の行為が具体的にどのような学びとし て立ち現われるのかを述べたものである。   四つの言語活動が孤立しないようにということは、たとえば 「読書のしかた」という単元で も読むことだけをせず、どんな本を読むのがよいかということについて、面接して他の人の意 見を聞くとか、ラジオの読書案内を聞くとか、友だちと話しあうとか、また、読んだことをま とめて書いたり、感想を書いたり、それらを集めて「新聞」や「雑誌」の一部分を作ったりす るというふうにして「聞く、話す、読む、書く」ことが偏らずしぜんに、含まれるようにする ことです41)  ここで示されている「読書のしかた」という学びでも、大村は、四様式の行為が一つの「言語生 活」という包括的行為として発現する状況性を、教室空間に創り出すことを意図している。そうす ることによって大村は、「読書せざるを得ない」、「『読書』のために聞くことや話すこと、書くこと を学ばざるを得ない、行わざるを得ない」という傾向的必然性の認識を、個々の子どもに生じさせ るように意図的に働きかけるのである。  大村の実践における子ども(学び手)の学びは、このように傾向的必然性を生みだす条件として の「状況」に埋め込まれている。この「状況に埋め込まれている」という意味は、単純に、学びと いう営みが、特定の時間や空間といった実体的な諸条件に位置づけられているということではない。 むしろここでの「状況」は、i.レイヴとd.ウェンガーが理論的に規定した「状況性」を意味して

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いる。以下の言明を見てみよう。   状況に埋め込まれているという性質(つまり、状況性)は、……知識や学習がそれぞれ関係的 であること、意味が交渉(negotiation)でつくられること、さらに学習活動が、それに関与し た人々にとって関心を持たれた(のめり込んだ、ディレンマに動かされた)ものであることな どについての主張の基礎となるものである42)  大村実践における子どもの学びでは、聞くことも話すことも読むことも書くことも、一つの連続 的な関係を持つ包括的行為として現れる。それ故に、そこで学ばれること、すなわち、学びつ・つ・表 出されることは、単純に実体的な細切れの知識や技能には還元し得ない。むしろそれは、子ども自 身が行った活動と密接な関係を持ちつつ生み出される、状況依存的な全体性を持つ行為である。だ からこそ、レイヴやウェンガーが述べる「のめり込み」(engaged)や「ディレンマに動かされた」 (dilemma-driven)という傾向性を表す語(disposition words)43)で表現し得る学び、すなわち「傾 向的必然性に基づく学び」が発現するのである。 3.2.2. 動態的な状況としての「読書の教室」  大村のこうした「教える」という行為の様式をさらに詳細に分析するために、ここでは、この 「読書のしかた」に関わって実際に行われた単元的展開の実践を検討する。この実践は、1953年に 東京都の公立中学校で行われたものであり、後に大村自身によって記述的に整理され、「読書の教 室」と呼ばれている実践である44)。この実践は、「読書をめぐるいろいろの問題、どういう本があ るかということから、本の選び方、探し方、本の読み方、記録のしかたなどまで、指導のいること がいろいろある。それを読書新聞によって指導しようと思った」45)という大村の意図から構成さ れている。つまり、この実践は、「読むこと」から始まり結果として読書新聞を「書くこと」に至 るまでの包括的な言語行為を含むものである。実際、大村はこの実践を展開することで、次頁の表 に書かれている学びを包括的な状況の中で発現させようと意図していた。  表に見て取ることができるように、この大村の実践では、「聞く、話す、読む、書く」という四 様式に関わる学びが実に多様な活動として包摂されている。大村はこの学びの契機を「言語経 験」47)と呼び、「読書の教室」という包括的な状況の中で、子どもたちにとって、その「言語経験」 が多様な形で要求される状況性を生み出していく。  この表が示唆的なのは、「傾向的必然性に基づく『教える』(『学び』)」という原理が、「論理的必 然性に基づく『伝達』(『学習』)」における学習事・項・ないし学習活・動・を包摂していることが確認でき る点である。この表の中に一つひとつ書かれている「言語経験」は、「論理的必然性に基づく『伝 達』(『学習』)」においても、実体的な知識事項や手続き的な技能として細切れにされ、学問的そし て発達的な段階性に応じて扱われてきたことである。例えば、「辞書を使う」や「要点の箇条書き をする」、「グループで話し合う」といったことは、それぞれが独立した学習事項ないし学習活動と

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表:「読書の教室」における言語経験46) して、学校教育の中に位置づいている。その意味において、大村の述べる「言語経験」は、細分化 された言語学習活動と呼ぶことができる。  しかし決定的に異なるのは、これらの学びが、子どもにとっての必然性の認識、すなわち「傾向 的必然性の認識」によって支えられているか否か、にある。大村実践においては、そこに包摂され る諸活動が、然るべき状況の下で「行わずにはおれない」という意味での「せざるを得ない」とい う必然的認識の構造の中に位置づいている。先に見たレイヴやウェンガーの言葉を借りるならば、 その意味で「状況に埋め込まれている」のである。  この点を別の視点から詳細に見ておこう。この表の上欄を見ると、「図書室」、「読書力テスト室」、 「編集室」、「談話室」という場の区分が記入されていることが読みとれる。実はこの点にこそ、大

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村の実践に見られる重要な特徴がある。それは、教室という物理的空間を、学びの形態に合わせて 可変的に用いているという点である。大村は、教室という物理的空間を、以下の図のように、廊下 までを一つの学びの場として取り込むことで、合わせてRつの学びの空間として再創出している。 図:「読書の教室」における教室空間48)  図を見るとわかるように、教室は、読書をする「読書室」(前述の「図書室」および「読書力テ スト室」)へと変容している。この「読書室」は図書館さながら静寂を保つ場になっており、指導 者である大村でさえもここで声を出すことはしなかったという。ここは生徒が「読みひたる」49) ための部屋であり、前掲の表に記載されている「読む」ことを中心として「聞き」、「話し」、「書く」 ことに関わる様々な言語経験を実際に行う場なのである。また、教室外の廊下には、読んだ本につ いて話し合う「談話室」と、読んだ本について書き、新聞の形としてまとめる「読書新聞編集室」 (以下「編集室」と略記する)が設けられている。生徒たちは適宜「読書室」で読書をし、自身が 読んだ本について話し合いたくなったり、また大村が指導の必要性を見たときに呼び出されたりし て「談話室」に行き、そうして得たものを最終的に「編集室」で新聞にする。この一連の過程が、 傾向的必然性の認識を生み出す状況として作用している。  このようにして構成されている大村の「読書の教室」を見ると、教室が単純な物理的空間として ではなく、動態的な学びの場に変容していることがわかる。つまり、固定的な教室空間に「教える (学ぶ)」という行為を従属させるのではなく、「教える(学ぶ)」という行為のあり方に応じて状 況依存的に教室空間を変容させているのである。大村は、こうした動態的な教育空間を構成すると いう状況創出を行うことによって、学び手に「傾向的必然性に基づく学び」を発現させ得るような 多様な条件としての「状況性」を生み出すのである。

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 大村は、この傾向的必然性に基づいた言語生活が営まれる可変的な学びの場を「国語教室」50) という言葉で概念化している。この言語使用に見られる大村の認識は、国語「教室」という教育空 間を固定的なものとしてではなく、上述のような「傾向的必然性に基づく「教える」(「学ぶ」)」が 展開される動態的な状況性を持つ場として再定義することを示唆している。その結果として、大村 実践に見られる「教える」という行為の様式は、学び手の「傾向的必然性に基づく学び」の発現を 意図した「国語教室という動態的な状況」を生み出す行為として捉えることができるのである。

4.おわりに―「教育」概念の明晰化へ向けて

 以上に見てきたように、大村はまの国語教育実践は、「教える」という概念を再吟味する契機を 有している。大村実践における「教える」ということは、教室という物理的な空間に「傾向的必然 性に基づく学び」を発現させるための多様な条件を生成し得る、状況論的な状況性を生み出すこと であった。この認識は、「教える」教育および「教えない」教育という二つの言説における「教え る」という概念の捉え方とは明確に異なるものである。  以上の議論から、大村の言説および実践記録が示唆する重要な点は、次の二点として整理できる。  第一に、既存の「知識や技能の伝達」という、言語表現上、極めて静的に記述される「教える」 という行為の理解を、大村の実践はより動態的なものへと変容させる可能性を有している点である。 大村が示した「教えるということ」の理解は、単純に学習事項(知識事項や手続き的な技能)を学 び手に一方向的に伝達することには限られていなかった。むしろ、伝達される事柄が、学び手の必 然的認識に支えられることによって特定の状況の中に意味づけられ、価値づけられ、そのことによ って学び手は、「学ばずにはおれない」、「学ばざるを得ない」という傾向的必然性という原理に基 づいた「学ぶ」という行為をとるのである。そして、大村の理解する「教える」ということは、そ のための状況創出を行う行為となる。その意味において、大村の「教える」ということは、学び手 との関係論的な動態性を持つ行為であると言える。  そして、この点を踏まえると第二の要点が見えてくる。それは、大村が示す「教える(学ぶ)」 を原理的に規定している「傾向的必然性」概念が、旧来の「論理的必然性」概念に基づく「伝達 (学習)」モデルとしての「教える(学ぶ)」の理解を、さらには、それに基づく「教育」概念の理 解を、今一度再考に付す契機を有している点である。そもそも、この「論理的必然性」概念に基づ く「伝達(学習)」モデルとしての教育は、学習内容の系統的段階性および人間の発達論的段階性 という二重の段階性によって担保されていた。この段階性の重要性は認めるとしても、大村にとっ てそれはあくまで「教師の側の教育的必要性」に過ぎず、それだけで自身の「教える」という行為 を構想し得るものではなかった。大村の言説および実践記録が示唆することは、学び手には学び手 としての「必然性」の認識があり、その点に配慮しつつ理解される「傾向的必然性」こそが、教育 を規定する原理なのである。とするならば、長らく「教育」概念を支えてきたこの「論理的必然性」 概念は、本稿で試みた「教える」という概念の再定義によって、今一度再考を迫られることになる。 そしてその作業は、必然的に「教育」概念そのものの明晰化へとつながるであろう。

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 この点をより詳細に議論するには、大村の実践に示されている「傾向的必然性」概念のさらなる 分析が必要である。この点を今後の課題とする。 【註】 P)俵木浩太郎「『教』意向」教育哲学会編『教育哲学研究』第38号、1978年、P-Q頁。 Q)同上、Q頁。 R)同上、Q頁。 S)同上、Q頁。引用文中の括弧内の語句は、引用者によるものである。

T)Scheffler, I., The Concept of the Educated Person, in: Howard V. A. and Scheffler, I. (eds.)Work, Education & Leadership: Essay in the Philosophy of Education, Peter Lang Publishing, 1995, p. 81.

U)ibid., p. 81. V)ibid., p. 81. W)例えば、大村はま『教えるということ』共文社、1974年。また、大村はまÉ苅谷剛彦É苅谷夏子『教える ことの復権』ちくま新書、2003年など。 X)山本正身「『教えない教育』を考える ― 教育の進化論的基盤の意味」田中克佳(編)『「教育」を問う教育 学 ― 教育への視角とアプローチ』慶応義塾大学出版会、2006年、96頁。なお、引用文中の年数に関しては、 本来の漢数字から、本稿の形式に合わせてアラビア数字に変換している。 10)同上、89頁。 11)村井実『教育思想』(下)、東洋館出版社、1993年、179-180頁を参照。 12)例えば、近年盛んに主張されている「教えて考えさせる授業」というスローガンを挙げることができる。 (市川伸一『「教えて考えさせる授業」を創る』図書文化社、2008年、参照。) 13)梅本堯夫「邦楽の伝統的教育方法」同É他編『アプサラスF長広敏雄先生喜寿記念論文集』音楽之友社、 1985年、181-182頁。引用文中の傍点は引用者によるものである。 14)同上、182頁。引用文中の傍点は引用者によるものである。 15)同上、182頁。 16)田中智志『他者の喪失から感受へ ― 近代の教育装置を超えて』勁草書房、2002年、103-104頁。 17)例えば、野地潤家『大村はま国語教室の探究』共文社、1993年、萬屋秀雄『大村はま「国語単元学習」か ら何を学ぶか ― 大村はま「国語単元学習」の徹底的分析 ―』溪水社、1996年、田近洵一『戦後国語教育問 題史』(増補版)大修館書店、1999年、橋本暢夫『大村はま「国語教室」に学ぶ ― 新しい創造のために』溪 水社、2001年、日本国語教育学会監修『国語単元学習の創造 Û理論編』東洋館出版社、2010年、等がある。 18)例えば、前掲の『大村はま「国語単元学習」から何を学ぶか ― 大村はま「国語単元学習」の徹底的分析 ―』等が挙げられる。 19)大村はま『大村はま国語教室 ― 国語単元学習の生成と深化』(第1巻)、筑摩書房、1982年、W頁。 20)同上、W頁。 21)同上、347頁。 22)同上、348頁。

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23)前掲、『大村はま国語教室の探究』、46頁。 24)同上、38-44頁を参照。なお、この「言語生活」概念は、教科教育史的に見るならば、極めて論争的な概念 であった。国語科教育の展開過程において、この概念は西尾実による「言語生活主義」に基づく国語教育論 によって用いられ、それが時枝誠紀の「言語能力主義」との間に論争を引き起こしたからである。しかし、 本稿の目的に照らして、ここではその問題には踏み込まない。次の文献を参照。前掲、『戦後国語教育問題史』、 および、今井康雄「メディアとしての「国語」」『メディアの教育学』東京大学出版会、2004年、219-238頁。 25)大村はま「芦田先生に学んだもの」『回想の芦田恵之助』実践社、1957年、285頁。 26)前掲、『大村はま国語教室 ― 国語単元学習の生成と深化』(第P巻)、X頁。引用文中の傍点は引用者によ るものである。 27)同上、68頁。 28)同上、348頁。引用文中の番号および波線は、引用者によるものである。 29)宮崎清孝『子どもの学び 教師の学び』一莖書房、2009年、93-95頁、および220-221頁を参照。なお、ブルー ナーの議論における「構造」概念に関しては、Bruner, J., The Process ofE ducation, Harvard University Press, 1960, pp. 17-32.(邦訳F『教育の過程』(新装版)、鈴木祥蔵É佐藤三郎(訳)、岩波書店、1986年、 第Q章)を参照。

30)前掲のThe Process of Education.(邦訳F『教育の過程』)の第3章、および、三嶋唯義編訳『ピアジェと ブルーナー ― 発達と学習の心理学』誠文堂新光社、1976年を参照。

31)前掲、『大村はま国語教室 ― 国語単元学習の生成と深化』(第1巻)、309-310頁。引用文中の傍点および波 線は引用者によるものである。

32)同上、129頁。引用文中の傍点および波線は引用者によるものである。

33)Ryle, G., The Concept of Mind, Hutchinson, 1949, pp. 25-61.(邦訳F『心の概念』、坂本百大É他(訳)、 みすず書房、1987年、第Q章)を参照。 34)Ibid., p.43.(邦訳F同上、50頁。)引用文中の波線は引用者によるものである。 35)Ibid., p.43.(邦訳F同上、51頁。) 36)Ibid., p.44.(邦訳F同上、51頁。) 37)Ibid., p.44.(邦訳F同上、51頁。)引用文中の波線は引用者によるものである。 38)Ibid., p.44(邦訳F同上、51頁。) 39)Ibid., p.44(邦訳F同上、51頁。) 40)前掲、『教えるということ』、94-95頁。引用文中の波線および傍点は引用者によるものである。 41)前掲、『大村はま国語教室 ― 国語単元学習の生成と深化』(第1巻)、74頁。引用文中の波線は引用者による ものである。

42)Lave, J. and Wenger, E., Situated Learning: Legitimate Peripheral Participation, Cambridge University Press, 1991, p. 33.(邦訳F『状況に埋め込まれた学習―正統的周辺参加』、佐伯胖訳、産業図書、1993年、V

頁。)なお、レイヴとウェンガーがこの「状況性」概念の規定を行ったのは、徒弟制における学びを「正統的

周辺参加」として理論化する過程であった。本稿では、この「状況性」概念を大村実践の分析のために用い ているが、しかしそれは、大村実践が「正統的周辺参加」の一事例であることを主張するものではない。 43)この傾向性を表す語(disposition words)の分析については、前掲の The Concept of Mind(邦訳F『心の

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概念』)における第5章を参照。 44)同上、111-119頁。および、大村はま『大村はま国語教室 ― 読書生活指導の実際(一)』(第7巻)、筑摩書 房、1984年、381-384頁を参照。 45)前掲、『大村はま国語教室 ― 読書生活指導の実際(一)』(第7巻)、381頁。 46)前掲、『大村はま国語教室 ― 国語単元学習の生成と深化』(第P巻)、119頁。 47)同上、118頁。 48)前掲、『大村はま国語教室 ― 読書生活指導の実際(一)』(第V巻)、383頁。 49)前掲、『大村はま国語教室 ― 国語単元学習の生成と深化』(第P巻)、111頁。 50)大村は自身の実践を語る際に、この「国語教室」という言葉を用いている。例えば、大村が編集した全集 は、『大村はま国・語・教・室・』(全15巻、別巻P冊、資料編T冊、筑摩書房、1982-1985年。)という主題で構成さ れており、他にも『国語教・室・の実際』(共文社、1970年。)や、『大村はま 国・語・教・室・の実際』((上É下)溪水 社、2005年。)といった主題で自身の実践の特徴を論じている。

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Rethinking on“Teaching”as the Key Concept toward the

Clarification of the Concept of “Education”

: on the Basis of Analyzing the Concept of “Necessity” in Hama

Omura's Discourse and Records about her Educational Practice.

Dai Hatakeyama

(Graduate Student, Graduate School of Education, Tohoku University)

Key word: teaching, education, Hama Omura, logical necessity, dispositional necessity

  The purpose of this article is to reinterpret the meaning of “teaching” and to reformthe

concept of it toward the clarification of the concept of “education”. In my research, the follow­ ing three processes are adopted.

  Firstly, the word of “teaching”, which is used in two types of discourse in Japan: “teaching­needed education” and “teaching­needless education”, is dealt with and the mean­

ing of it is made clear. In these discourse, it means that the teacher explicitly and gradually transfers the substantial fragments of knowledge and the procedural skills to the learner with the reasonable method. “Teaching” as such is supported positively in the discourse of “teaching­ needed education”; On the other hand, it is criticized and discarded in the discourse of

“teaching­needless education”. The point of question that we have to ask here, however, is

how far the understanding of “teaching” as this meaning can be recognized as appropriate. In other words, it may be constructed by the failure to notice the pregnant implication in the educa­ tional practice.

  Secondly, according to this point, the another meaning of the word of “teaching” is made

clear by analyzing Hama Omura's discourse and records about her educational practice. By analyzing her discourse and records, it becomes clear that she emphasizes the concept of

“necessity” when she practices her action of “teaching”. The word of necessity generally

refers to a logical relation of cause and effect, that is, “logical necessity.” Especially in the context of education, “logical necessity” is recognized as the “stage” which is im plied in the phrase of “frombasic to application”. Furthermore, this “stage” is conditioned on two types of notion: the stage in matters for learning and the stage of human development. However, she didn't use the word of “necessity” as this meaning. She recognized it as “dispositional neces­

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sity” on the basis of the concept of “disposition.” The word of “disposition” means a sort of state of human's cognition which is to be bound to be in an appropriate situation. Actually, she understood the abilities of “reading, writing, listening and speaking” as inclusive action which was to be bound to act appropriately in an appropriate situation. Therefore, her word of “teach­ ing” means the activity to create the situation, in which above four abilities are expected to be bound to act appropriately, in a classroom.

  Finally, the following two conclusions are introduced. First, the new meaning of the word of “teaching” can transform the static concept of “teaching” as transmitting the knowledge and

the skills to the learner to the more dynamic concept of it. Second, the concept of “dispositional necessity” can bring an opportunity of rethinking on the concept of “logical necessity” as the principle of the present education.

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