忖度、改竄、修正主義
――アーレントとパレスチナ問題
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小
森
謙一郎
批判意識は、その標的たる現実の社会や世界の一部であり、 また当の意識が住まう言葉という身体の一部なのであって、 いずれにせよ断じてそこから逃れるものではない。 (エドワード・ W・サイード『世界・テクスト・批評家』 ) 一 再び問う パレスチナ問題について 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 、 アーレントはどのよ 0 0 0 0 0 0 0 0 0 うに考えていたのか 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ? エ リ ザ ベ ス・ ヤ ン グ = ブ ル ー エ ル『 ハ ン ナ・ ア ー レ ン ト── 世 界 へ の 愛 の た め に 』 第 二 版( 二 〇 〇 四 年 ) に は、 次のように書かれている。武蔵大学人文学会雑誌 第 51 巻第 1 号 一九六七年の〔第三次〕中東戦争の間、ハンナ・アーレントはイスラエルの勝利を情熱的に誇りとした。普段 はイスラエルの政策に批判的だったのに、 友人の一人が述べるところによれば、 「戦争花嫁のように」振る舞った。 軍事的関与について、 アーレントは攻撃的なものと防衛的なものとを截然と区別し、 一九五六年の〔第二次中東〕 戦 争 は 愚 か し い も の だ っ た が、 一 九 六 七 年 の 戦 争 は 理 に 適 う も の だ と 考 え た。 一 九 六 七 年 一 〇 月〔 sic 〕 の 六 日 間戦争を振り返りながら、 彼女はメアリー ・ マッカーシーにこう書いている。 「イスラエルに真の破局が訪れれば、 他 の ほ と ん ど 何 よ り も、 私 の 心 を 深 く 揺 さ ぶ る で し ょ う 」。 一 九 七 三 年、 エ ジ プ ト と シ リ ア が 贖 ヨ ム ・ キ プ ー ル い の 日 に イ ス ラ エルの領土に侵攻したとき、破局は差し迫っているように見えた。そして今回はイスラエルが破壊されるかもし れ な い、 と ア ー レ ン ト は 恐 れ た。 〔 第 四 次 中 東 〕 戦 争 は 一 〇 月 六 日 に 始 ま っ た。 そ れ は ア ー レ ン ト が フ ラ ン ス・ テ レ ヴ ィ ジ ョ ン の た め に ロ ジ ェ・ エ レ ー ラ と の 一 週 間 に わ た る イ ン タ ヴ ュ ー を 始 め た 日 だ っ た〔 sic 〕。 イ ン タ ヴ ュ ー の 書 き 起 こ し は、 彼 女 の 心 を 占 め て い た 思 い を 反 映 し て い る。 「 ユ ダ ヤ 人 は イ ス ラ エ ル で は 一 つ に な っ て います」と彼女は言った。そしてさらに進んで、 ユダヤ教は 国民 0 0 宗教です、 と何の批判もなく説明した。ロジェ ・ エ レ ー ラ は ス フ ァ ル デ ィ 系 ユ ダ ヤ 人 で、 パ リ の カ ル マ ン = レ ヴ ィ 出 版 社 の 叢 書「 デ ィ ア ス ポ ラ 」 の 編 者 だ っ た。 二人は一緒にコロンビア大学のロースクールで開かれた会議に行ったが、そこではイスラエルの大義を援助する ためのさまざまな提案が検討された。アーレントは一九六七年にしたのと同じように、全国ユダヤ運動に寄付を し た。 ま た 戦 争 が テ ル = ア ヴ ィ ヴ に い る 親 戚 の 安 全 を 脅 か し た 場 合 に は、 す ば や く 財 政 援 助 が で き る よ う 準 備 を整えた。一〇月の第二週に戦闘の形勢が変わると、彼女は〔 『精神の生活』第二部〕 「意思」の草稿に再び着手 し よ う と し た。 「 私 は 仕 事 に 戻 る の に ち ょ っ と 支 障 が あ る の で す が、 そ れ は も ち ろ ん 主 と し て 予 期 し え な か っ た
今回の「歴史」の勃発のせいです」と彼女はメアリー・マッカーシーに書い た ( 1 ) 。 ヤング = ブルーエルの伝記におけるこの一節は、 パレスチナ問題に関するアーレントの考えを検討するにあたって、 依然として避けることができない。 第一版(一九八二年の第一刷)との異同は、二点ある。第一に、第四次中東戦争の開始日が「一〇月九日」から訂 正 さ れ た こ と。 第 二 に、 「 ア ー レ ン ト は 一 九 六 七 年 に し た の と 同 じ よ う に 全 国 ユ ダ ヤ 運 動 に 寄 付 を し た 」 と い う 一 文 において、寄付先の組織が「ユダヤ防衛同盟」から訂正されたこと。後者はエドワード・サイードの一九八五年の論 文「差異のイデオロギー」で指摘された内容を踏まえている。前者もその際に気づいてあわせて訂正したものかもし れない。 だ が、 第 一 の 訂 正 の 結 果、 「 ロ ジ ェ・ エ レ ー ラ と の 一 週 間 に わ た る イ ン タ ヴ ュ ー を 始 め た 日 」 が 変 わ っ て し ま っ て い る。 ヤ ン グ = ブ ル ー エ ル は こ の 点 に つ い て は 何 も 述 べ て い な い。 の み な ら ず、 最 初 に〔 sic 〕 と し た 第 三 次 中 東 戦 争の時期に関しては、訂正されることなく第一版からずっと間違ってい る ( 2 ) 。 こうした状況からすると、 もしサイードの論文がなければ、 訂正された二点もそのままだった可能性が考えられる。 ここから容易に予想されるのは、さらに詳しく調べてみるなら、もっと多くの誤りが見つかるかもしれない、という 事 態 で あ る。 そ し て、 ヤ ン グ = ブ ル ー エ ル の 伝 記 が 今 日 な お 権 威 あ る 文 献 と し て 流 通 し て い る 以 上、 そ の よ う な 検 証作業に着手してみる意義は十分あることになるだろう。実際、この一節は 一文一文が 0 0 0 0 0 精査に価する。あらかじめ述 べておくなら、もろもろの誤りは一著者の単なる偶然的なミスに起因するのではなく、現在に至るまでイスラエルと アメリカを──したがって多かれ少なかれ「世界」そのものを──支配しているイデオロギーに基づくのである。そ
武蔵大学人文学会雑誌 第 51 巻第 1 号 こには 根本的な問題 0 0 0 0 0 0 があり、極東の全体主義も「 世 グローバリゼー シ ョン 界 化 」に分かち難く結びついている。私たちがパレスチナ問 題と向き合う理由──あるいはむしろ向き合わなければならない責任──もそこにある。 しかしながら、検証できる範囲には限りがある。たとえば「友人の一人が述べるところによれば」という箇所に関 して、当の「友人」が誰だったのかを突き止めるのは至難の業だし、彼ないし彼女がいつ・どこで・なぜそう述べた のかを確定することは不可能に近い。というより、そのような「友人」がそもそも本当に存在したのか、仮に存在し た と し て ア ー レ ン ト に と っ て 実 際 に「 友 人 」 と 呼 べ る よ う な 人 物 だ っ た の か、 確 認 す る 術 も な い。 同 様 に、 ヤ ン グ = ブルーエルが出典をあげていなかったり、具体的な証拠なしに記述している箇所については、検証できないことも多 い。 それゆえ、確実に検証できる箇所から作業を始めよう。それはアーレント自身の言葉が引用されている箇所にほか な ら ず、 こ こ で は 全 部 で 三 つ あ る。 ヤ ン グ = ブ ル ー エ ル は 三 箇 所 す べ て に 注 を 付 し、 そ れ ぞ れ 出 典 を 示 し て い る。 したがって出典にあたりさえすれば、アーレントがどのようなコンテクストで当の言葉を発していたのかを確認でき る は ず で あ り、 ま た そ の 内 容 を ヤ ン グ = ブ ル ー エ ル が 語 る 地 の 文 と 照 ら し 合 わ せ て み れ ば、 事 柄 の 多 く が 検 証 で き るはずである。特別な方法は不要であり、三つの注を順に確認していくだけだ。 にもかかわらず、作業は最初からつまづくことを避けられない。 二 忖度の起源 というのも、 最初の引用「イスラエルに真の破局が訪れれば、 他のほとんど何よりも、 私の心を深く揺さぶるでしょ う 」 と い う 箇 所 に 付 さ れ た 注 に は、 「 ア ー レ ン ト か ら マ ッ カ ー シ ー 宛、 一 九 六 八 年 一 二 月 二 一 日 」 と あ る も の の ( 3 ) 、 示
された手紙に当の言葉は ない 0 0 からである。つまり、 出典自体にまず誤りがある 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 のだ(こうした杜撰さにもはやいちい ち驚いたり呆れたりしないようにしよう) 。 実 際 に は、 当 の 言 葉 は 一 九 六 九 年 一 〇 月 一 七 日 付 の 手 紙 に あ る( 時 間 差 は 小 さ く な い )。 さ ら に 文 脈 に 沿 っ て 読 む なら、アーレントがこの手紙を「六日間戦争を振り返りながら」書いたわけではないことが明らかになる。直前と直 後の文章を含めて確認しよう。 ユダヤ人はこう考えているのです。帝国や政府や国家は起こっては消える、だがユダヤ民族は残る、と。この情 熱 に は 何 か 壮 大 な も の、 そ し て 何 か 卑 し い も の が あ り ま す。 私 自 身 は こ れ を 共 有 し て は い な い と 思 っ て い ま す。 ですが、そんな私でもわかっていることですが、イスラエルに真の破局が訪れれば、他のほとんど何よりも、私 の心を深く揺さぶるでしょう。ナタリーの同胞意識は素朴かつ幼稚なもので、その話しぶりは反省のないユダヤ 人そのままです。けれども、ほとんど過剰なまでに自分自身のことを思案しながら、ユダヤ人としての自分につ いては全然検討せずにいるというのは、いかにも特徴的で す ( 4 ) 。 「 ナ タ リ ー」 と は、 ナ タ リ ー・ サ ロ ー ト、 ロ シ ア 出 身 の 作 家 で あ る。 ユ ダ ヤ 人 の 両 親 の も と に 生 ま れ た も の の、 離 婚に伴い幼少時にフランスに移住、戦後いわゆるヌーヴォー・ロマンの旗手の一人となっ た ( 5 ) 。当時パリに住んでいた マッカーシーは、この作家としばしば会っていたらしい。一ヶ月前、アーレントに宛てた一九六九年九月二三日付の 手 紙 に は、 こ う 書 か れ て い る。 「 イ ス ラ エ ル に つ い て の 彼 女 の 見 方 は 普 通 で は あ り ま せ ん。 彼 女 は イ ス ラ エ ル を 自 分 の よ く 知 っ て い る ソ 連 と 比 べ つ づ け、 そ の コ ン テ ク ス ト で は 当 然 イ ス ラ エ ル が 優 れ て い る こ と に な る の で す。 〔 …〕
武蔵大学人文学会雑誌 第 51 巻第 1 号 こ ん な に 興 奮 し、 こ ん な に 彼 女 ら し く な い 彼 女 は、 見 た こ と が あ り ま せ ん〔 …〕 。 ま る で 愛 す る 人 が 危 篤 状 態 に あ る かのように、イスラエルの 生き残り 0 0 0 0 に取り憑かれていま す ( 6 ) 」。 一九六七年六月の戦争で大勝利を収めたイスラエルは、エジプト、シリア、ヨルダンから、それぞれシナイ半島と ガザ地区、ゴラン高原、ヨルダン川西岸地区を奪った。アラブ諸国はもちろんこれに反発、和平交渉はせず、戦前と 同様イスラエルを承認することも拒否した。同年一一月に全会一致で承認された国連安保理決議二四二号は、イスラ エルによる占領を無効とし、各国の主権や領土保全の尊重を明記している。しかし、イスラエルもアラブ諸国もこれ を 受 け 入 れ ず、 対 立 は 続 く こ と に な っ た。 パ レ ス チ ナ 側 で も、 ヤ セ ル・ ア ラ フ ァ ト 率 い る フ ァ タ ハ が P L O に 加 入、 本格的な抵抗運動がはじまっていた。こうして六〇年代末には、国家の滅亡とホロコーストの再来に対する不安とと も に、 「 イ ス ラ エ ル の 生 き 残 り 」 を 主 張 す る 風 潮 が── 第 三 次 中 東 戦 争 で 勝 利 し た か ら こ そ 余 計 に── 強 ま る こ と に なったのである(付け加えるなら、そこから出てきた最も過激なグループが「ユダヤ防衛同盟」だったことになるだ ろう) 。 し か し こ う し た 心 理、 つ ま り マ ッ カ ー シ ー の 手 紙 に よ れ ば、 「 ま る で 愛 す る 人 が 危 篤 状 態 に あ る か の よ う に 」 訴 え るサロートの「興奮」を、当時のアーレントは必ずしも共有していなかった。むしろ「ナタリーの同胞意識」を指摘 し、彼女を「反省のないユダヤ人」と呼ぶことで、アーレントはナショナリズムに対する 批判精神 0 0 0 0 を示しているよう に 思 わ れ る。 そ れ は「 ユ ダ ヤ 民 族 は 残 る 」 と い う「 情 熱 」 に「 何 か 卑 し い も の 」 を 見 て と る 眼 差 し と 通 底 し て お り、 一九六九年一〇月一七日の手紙の基調もこの点にあると言えるだろう。こうした連関は、マッカーシーが出した手紙 と当時の状況を踏まえることで、はじめて理解できるのである。 だからこそ、 コンテクストを無視して都合のよい一文だけを切り取って引用しているヤング = ブルーエルの記述を、
そのまま受け入れるわけにはいかない。出典が間違っているのみならず、アーレントが「六日間戦争を振り返りなが ら」手紙を書いたというのは言い過ぎである。戦争 後 0 の状況が踏まえられているのは事実だとしても、戦争そのもの を顧みているとは言い難い。また「イスラエルに真の破局が訪れれば……」というアーレントの言葉も、彼女の批判 精神を あわせて 0 0 0 0 考察してこそ意義があるのであり、こうした 両 アンビヴァレンツ 義 性 についてはあらためて考え直す必要があるだろ う。 に も か か わ ら ず、 「 普 段 は イ ス ラ エ ル の 政 策 に 批 判 的 だ っ た 」 ア ー レ ン ト の 姿 勢 が、 第 三 次 中 東 戦 争 以 降 ま っ た く失われてしまったかのように伝えているこの一節は、学術的には客観性に欠けており、政治的には偏りがあると言 わざるをえない。 そ し て 同 じ 偏 向 が、 次 な る 一 文 を も 導 い て い る よ う に 思 わ れ る。 「 一 九 七 三 年、 エ ジ プ ト と シ リ ア が 贖 ヨ ム ・ キ プ ー ル い の 日 に イ ス ラ エ ル の 領 土 に 侵 攻 し た 」。 こ の 一 文 に 関 し て サ イ ー ド が 二 度 に わ た っ て 指 摘 し た「 誤 り 」 に つ い て は、 も は や 振 り返えらな い ( 7 ) 。ここで確認しておくべきは、 偏向はただ個々人のうちにだけあるのではない 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ということだ。事実、別 の と こ ろ── た と え ば『 イ ス ラ ム 報 道 』( 一 九 八 一 年 )── で サ イ ー ド が 論 じ て い る よ う に、 イ ス ラ エ ル を 中 東 唯 一 の民主主義国家とみなす一方、侵略行為はおしなべてイスラム世界に結びつけるという傾向は、とりわけ合衆国のメ デ ィ ア に お い て 顕 著 だ っ た ( 8 ) 。 著 者 ヤ ン グ = ブ ル ー エ ル の み な ら ず、 伝 記 の 読 者 た ち も 多 か れ 少 な か れ 同 じ 図 式 を─ ─あるいはむしろ同じイデオロギーを──共有していたからこそ、今まで誰もこの一節に疑念を抱かなかったのかも しれない(この点はもちろん合衆国に限った話ではない) 。 だが、 忖度 0 0 はそうした偏向から生じる。実際、次の一文──「今回はイスラエルが破壊されるかもしれないとアー レントは恐れた」 ──の客観的な証拠は、 一体どこにあるのか? 「〔第四次中東戦争が勃発したとき〕 破局は差し迫っ ているように見えた」というのは、もっぱら親イスラエル的な人々を念頭に置いているのでなければ、一体誰にとっ
武蔵大学人文学会雑誌 第 51 巻第 1 号 て真実味があるのか? ナタリー ・ サロートのような人物がそうした恐怖や不安を抱いたのなら理解できるとしても、 この作家の心理を「素朴かつ幼稚」と形容するアーレントが、なぜ同じ懸念を抱かなければならないのか? そして 「 一 〇 月 六 日 に 」 攻 撃 を 受 け た の は 占 領 地 域 で あ っ て、 国 際 社 会 の 理 解 か ら す れ ば 決 し て「 イ ス ラ エ ル の 領 土 」 で は なかったという認識を、アーレントは本当に持っていなかったのだろうか? 三 改竄と国民 こ う し て 伝 記 に お け る 二 つ 目 の 引 用 に 先 立 つ 地 の 文 に 対 し て も、 疑 問 符 を 付 け ざ る を え な く な る。 「 イ ン タ ヴ ュ ー の 書 き 起 こ し は、 彼 女 の 心 を 占 め て い た 思 い を 反 映 し て い る 」 と ヤ ン グ = ブ ル ー エ ル は 言 う。 だ が、 こ こ ま で 見 て きたように、当の「思い」はすでに脚色されており、また「ロジェ・エレーラとの一週間にわたるインタヴューを始 めた日」 も、 ひそかに変えられてしまっている (こちらは第一版第一刷の記述通り 「一〇月九日」 だったはずである) 。 これらの点を確認した上で、二つ目の引用を見てみよう。 「ユダヤ人はイスラエルでは一つになっています」と彼女〔アーレント〕は言った。 この箇所に付された注を確認する と ( 9 ) 、まず「インタヴューの抜粋は一九七八年一〇月二六日発行の『ニューヨーク ・ レヴュー・オブ・ブックス』一八頁に掲載された」とある。だが、そこに掲載されているのは、正確には「抜粋」で はない。雑誌では「インタヴューのあいだになされたコメント」とされており、実際に放映されたインタヴューの内 容 と も 異 な っ て い る )(1 ( 。 次 に「 書 き 起 こ し の 全 文 は フ ラ ン ス・ テ レ ビ ジ ョ ン の 所 有 」 と あ る。 だ が、 書 き 起 こ し は
一 九 九 九 年 に( つ ま り 伝 記 の 第 二 版 よ り 前 に )『 ハ ン ナ・ ア ー レ ン ト・ ニ ュ ー ス レ タ ー』 第 二 号 で( つ ま り ヤ ン グ = ブルーエルや専門的研究者たちも知っていたはずの媒体で)公表されている。以来、 出典の検証は可能になっており、 前後の文脈も含めて再び確認すると次のようになる。 エ レ ー ラ 〔 …〕 イ ス ラ エ ル の 存 在 は、 世 界 に 生 き て い る ユ ダ ヤ 人 た ち の 政 治 的 心 理 的 コ ン テ ク ス ト を、 ど の よ うな仕方で変えたのでしょうか? アーレント あらゆることを変えたと思います。今日のユダヤ人はイスラエルの背後で実際に一つにされていま す。自分たちには国家がある、と彼らは感じているのです。アイルランド人、イギリス人、フランス人などと同 じように、政治的代表者がいるということです。 郷 ホームランド 土 のみならず、 国 ネー シ ョン・ステート 民 国 家 があるのです。そしてアラブ人 に対する彼らの全体的態度は、もちろんかなりの程度、こうした一体感に基づいています。中欧出身のユダヤ人 たちがほとんど本能的に作り上げた一体感です。そこには反省がありません。国家はともかく国民国家でなけれ ばならない、というわけで す )(( ( 。 最 初 に 指 摘 し て お か な け れ ば な ら な い の は、 ヤ ン グ = ブ ル ー エ ル に よ る 改 竄 0 0 で あ る。 つ ま り ア ー レ ン ト は「 イ ス ラ エ ル の 背 後 で 0 0 0 0 behind Israel 」 と 言 っ て い る の に、 ヤ ン グ = ブ ル ー エ ル は「 イ ス ラ エ ル で は 0 0 in Israel 」 と 書 き 換 え ているのである。前置詞ひとつの書き換えは、些細なことに見えるかもしれない。しかし、アーレントがイスラエル という「国家」の制度を説明しているのに対して、改竄はそれを「彼女の心を占めていた思い」に変えてしまう。よ り 詳 し く 見 る な ら ば、 「 今 日 の ユ ダ ヤ 人 は イ ス ラ エ ル の 背 後 で 0 0 0 0 実 際 に 一 つ に さ れ て い ま す The Jewish people today
武蔵大学人文学会雑誌 第 51 巻第 1 号 are really united behind Israel 」というアーレントの発言は、一九五〇年の帰還法以来、世界中のユダヤ人にイスラ エ ル へ 移 住 す る 権 利 を 認 め て き た 国 家 体 制 を 念 頭 に 置 い た も の だ ろ う。 し か し、 ヤ ン グ = ブ ル ー エ ル は こ れ を「 ユ ダヤ人はイスラエル では 0 0 一つになっています The Jewish people are united in Israel 」と改変することで、一九七三 年の戦争勃発に接したアーレントの「同胞意識」にすり替えてしまっているのであ る )(1 ( 。 もっとも、 エレーラの質問が 「政治的心理的コンテクスト」 を問題にしているだけに、 ヤング = ブルーエルがちょっ とした誤解をしたにすぎないと考えることもできるかもしれない。しかし、通常の読解力さえ持ち合わせているなら ば、 今 や ユ ダ ヤ 人 に も「 政 治 的 代 表 者 が い る 」 と い う の が「 政 治 的 コ ン テ ク ス ト 」 で あ り、 「 心 理 的 コ ン テ ク ス ト 」 については「中欧出身のユダヤ人たちがほとんど本能的に作り上げた一体感」をアーレントが指摘していることは明 らかだろう。のみならず、ここで「アラブ人に対する 彼らの 0 0 0 全体的態度」という言い方がなされている点に注意しな ければならない。つまり「自分たちには国家があると 彼らは 0 0 0 感じている」のであって、しかも「そこには反省があり ません」 。そして後者のこの文言が、先ほど見たナタリー・サロートに関する評言と一致することは言うまでもない。 かくして、 あらためて問わなければならない。第四次中東戦争に際して、 アーレントは本当に「イスラエルの大義」 を 信 じ て い た の だ ろ う か? そ の よ う に 思 わ せ た い ら し い ヤ ン グ = ブ ル ー エ ル の 伝 記 に 反 し て、 イ ン タ ヴ ュ ー の つ づきで彼女はこう述べている。 こうして今では、 離 ディアスポラ 散 とイスラエルの関係全体が、あるいはかつてあったパレスチナが、変わってしまいま した。イスラエルはもはやポーランドの負け犬たちの単なる避難所ではないからです。ポーランドでシオニスト といえば、富裕なユダヤ人から金銭を得て貧乏なユダヤ人に与えようとする者のことでした。しかし今日のイス
ラエルは実際に、世界中のユダヤ人の代表機関です。このことを私たちが好むかどうかは別問題ですが……。だ からといって、 離 ディアスポラ 散 ユダヤ人がイスラエル政府とつねに同じ見解を抱かなければならないというわけではあり ません。問題なのは政府ではなく国家です。そして国家が存在する限り、これはもちろん私たちを代表するもの として世界の目に映るので す )(1 ( 。 言葉遣いに再び着目しよう。 「今日のイスラエルは実際に世界中のユダヤ人の代表機関です」という一文は、 「今日 のユダヤ人はイスラエル の背後で 0 0 0 0 実際に一つにされています」という先述の一文と同義である。そしてポーランド出 身 の ベ ン = グ リ オ ン に よ る 独 立 宣 言 以 後、 「 国 家 が 存 在 す る 限 り、 こ れ は も ち ろ ん 私 た ち 0 0 0 を 代 表 す る も の と し て 世 界 の目に映るのです」 。 だが、ここで「 私たち 0 0 0 」とは誰なのか? 文脈からすれば、 「自分たちには国家があると感じている」 「 彼ら 0 0 」とは 異なるはずだろう。だからこそ、ユダヤ人国家が現実に存在するということを「 私たち 0 0 0 が好むかどうかは別問題」な のであり、 「 国 ネー シ ョン・ステート 民 国 家 がある」という「一体感」は、 あくまでも「 彼ら 0 0 」のものなのだ。そう考えるなら、 「 私たち 0 0 0 」 とは文字通り「 私 0 」ことアーレント自身を含む人々を指すことになる。つまりイスラエルには住んでいない「 離 ディアスポラ 散 ユ ダ ヤ 人 」 と し て の「 私 た ち 0 0 0 」、 と は い え「 国 家 は と も か く 国 民 国 家 で な け れ ば な ら な い 」 と は 考 え て い な い 0 0 0 点 で、 必ずしも「同胞意識」は持たない「 私たち 0 0 0 」。そしてこの「 私たち 0 0 0 」は、 「アラブ人に対する 彼らの 0 0 0 全体的態度」も共 有 し て い な い は ず で あ り、 だ か ら こ そ 戦 争 が 勃 発 し た 直 後 で あ っ て も、 「 イ ス ラ エ ル 政 府 と つ ね に 同 じ 見 解 を 抱 か な ければならないというわけではありません」と明言することができるのである。 し た が っ て、 改 竄 さ れ た 引 用 文 の 直 後 に ヤ ン グ = ブ ル ー エ ル が 間 接 話 法 で 書 い て い る 次 の 一 文 も、 よ り 注 意 深 い
武蔵大学人文学会雑誌 第 51 巻第 1 号 眼差しをもって読まなければならないことになるだろう。 そしてさらに進んで、ユダヤ教は 国民 0 0 宗教です、と何の批判もなく〔アーレントは〕説明した。 national religion と い う 強 調 は、 ヤ ン グ = ブ ル ー エ ル 自 身 に よ る。 ま た「 国 民 0 0 宗 教 」 と い う 訳 語 は、 既 存 の 邦 訳 を あえて踏襲している。伝記を導くイデオロギーの方向性を考えれば、 邦訳者たちが national を「国民」とした背景は 理解できる。だが、アーレントが本当にイスラエルの「国民宗教」としてユダヤ教を捉えていたわけでは ない 0 0 という ことは、 インタヴューに立ち返ればすぐにわかる。彼女は先祖伝来の宗教を「 民族 0 0 宗教」とみなしていたのであって、 それ以上でもそれ以下でもない。仮にユダヤ教を「国民宗教」として説明していたのなら、二級市民として扱われて きたパレスチナ人の存在と信仰をアーレントもまた完全に無視していたことになるだろう。しかし、彼女が語ってい るのはあくまでも「民族」であって、 「国民」ではないのだ。 アーレント あなた〔エレーラ〕が宗教と仰るとき、もちろんキリスト教のことが念頭にあるのだと思います が、これは信条であり信仰です。ユダヤ人の宗教は、まったくそうではありません。こちらは実際のところ、民 族と宗教が一体となった民族宗教なのです。ご存知のように、例えばユダヤ人は洗礼を認めません。そのような ものはなかったかのように済ませています。ユダヤ法にしたがえば、ユダヤ人はユダヤ人であることを決してや め な い の で す。 ユ ダ ヤ 人 の 母 か ら 生 ま れ た 以 上── 父 を 探 す こ と は 禁 じ ら れ て い ま す la recherche de la paternité est interdite ── ユ ダ ヤ 人 で す。 宗 教 な る も の に つ い て 抱 か れ て い る 観 念 と は、 ま っ た く 異 な っ て い
ます。それは宗教というより生活様式であって、キリスト教が宗教であるという意味においては、その固有性な いし特殊性を持っていないので す )(1 ( 。 ここでアーレントがユダヤ教について説明している内容は、ごく一般的なものに思われる。ただ、こうした説明を 第 四 次 中 東 戦 争 に 結 び つ け る ヤ ン グ = ブ ル ー エ ル の 恣 意 的 な 記 述 に は、 あ ら た め て 注 意 す る 必 要 が あ る。 と り た て て疑問のない事柄について「何の批判もなく」説明するのは当然だし、アーレントのこの発言を進行中の戦争に関連 させるのはあまりにも強引だろう。ここにもイスラエル国家に対する 忖度 0 0 があると言えるかもしれない。 と も あ れ、 「 民 族 と 宗 教 が 一 体 と な っ た 民 族 宗 教 」 に 戻 ろ う。 そ し て こ れ が キ リ ス ト 教 と の 比 較 の 上 で な さ れ た 発 言 で あ る こ と に 注 意 し よ う。 実 際 の と こ ろ、 「 民 族 と 宗 教 が 一 体 と な っ た 」 と い っ て も、 ユ ダ ヤ 人 の「 民 族 と 宗 教 」 は一枚岩的ではない。少なくともスファラディーム、アシュケナジーム、ミズラヒームという周知の区分がある。そ れぞれの「 離 ディアスポラ 散 ユダヤ人」の歴史的経験は異なっており、確定された唯一の「民族宗教」が不変不動のものとして あるわけでもない。しかし、これをまさに 国民と宗教が一体となった国民宗教 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 にすることがユダヤ人国家としてのイ ス ラ エ ル の 基 本 方 針 に ほ か な ら ず、 だ か ら こ そ 建 国 以 来「 離 デ ィ ア ス ポ ラ 散 と イ ス ラ エ ル の 関 係 全 体 が 変 わ っ て し ま い ま し た 」 と ア ー レ ン ト は 述 べ て い る の で あ る。 に も か か わ ら ず、 ヤ ン グ = ブ ル ー エ ル の 記 述 は イ ス ラ エ ル 国 家 の そ う し た 同 化方針にアーレントを事後的に従わせ、彼女の思考を歪曲して伝えているのだ。 四 政治神学的修正主義 こ う し た 観 点 か ら す る と、 伝 記 の な か の 次 な る 一 文、 す な わ ち「 ロ ジ ェ・ エ レ ー ラ は ス フ ァ ル デ ィ 系 ユ ダ ヤ 人 で、
武蔵大学人文学会雑誌 第 51 巻第 1 号 パ リ の カ ル マ ン = レ ヴ ィ 出 版 社 の 叢 書「 デ ィ ア ス ポ ラ 」 の 編 者 だ っ た 」 と い う 事 実 確 認 的 陳 述 文 が、 ま っ た く 別 の 角度から意味を持ちはじめることになる。 というのも、アーレントはまさにその叢書「ディアスポラ」から『全体主義の起源』第一部「反ユダヤ主義」のフ ランス語版を出しているからであ る )(1 ( 。編集に携わったのはもちろんエレーラで、彼は一九六六年に『エルサレムのア イヒマン』のフランス語訳が刊行されたとき、その内容に関して肯定的な書評を発表し た )(1 ( 。これを機にアーレントと 親 交 を 結 ん だ エ レ ー ラ は、 『 反 ユ ダ ヤ 主 義 に つ い て 』 を 出 版 し た の と 同 じ 一 九 七 三 年 に、 単 独 イ ン タ ヴ ュ ー を 実 現 さ せたのである。 そこで、 フランス語版 『反ユダヤ主義について』 を開いてみよう。 すると、 扉に 「クルト ・ ブルーメンフェルト (一八八三 - 一 九 六 三 年 ) の 思 い 出 に 」 と い う 献 辞 が あ る こ と に 気 づ く。 ブ ル ー メ ン フ ェ ル ト は 若 き 日 の ア ー レ ン ト を シ オ ニ ズ ムに導いた人物で、 ドイツ ・ シオニスト連合( ZVfD )の会長を務めていた。一九三三年、 ナチス体制の確立を受けて、 パレスチナに移住している。献辞は当初一九五五年刊行の『全体主義の起源』ドイツ語版に、彼の生誕七〇年を記念 す る 形 で 組 み 込 ま れ た( 六 二 年 の 再 版 に も 残 さ れ て い る )。 し か し 英 語 版 に は 一 貫 し て 記 載 さ れ て お ら ず、 ア ー レ ン ト自身は「忘れていた」と述べているものの、何か思うところもあったのかもしれない。いずれにせよ、刊行間際に なってフランス語版にブルーメンフェルトの名を入れようと思った背景には、それなりの考えがあったはず だ )(1 ( 。 というのも、献辞はまさに「 離 ディアスポラ 散 ユダヤ人」の歴史的経験に関わっているからである。この点をもっとも簡潔に 説明するのは十年前、アイヒマン論争が本格化するなか、ゲルショム・ショーレムに対してアーレントが書いた手紙 (一九六三年七月二四日付)の一節だろう。
ブ ル ー メ ン フ ェ ル ト を 追 悼 す る 文 章 の な か で、 ベ ン = グ リ オ ン は ブ ル ー メ ン フ ェ ル ト が イ ス ラ エ ル で 改 名 し な かったことに遺憾の意を示しています。しかし、ブルーメンフェルトがそうしなかったのは、若い頃にシオニス トになったのとまったく同じ信念からでし た )(1 ( シ ョ ー レ ム は「 ゲ ア ハ ル ト 」 に 加 え「 ゲ ル シ ョ ム 」 と 名 乗 る よ う に な っ た。 若 く し て パ レ ス チ ナ に 移 住 し た と き、 ド イ ツ 語 式 の 名 と と も に ヘ ブ ラ イ 語 式 の 名 も 用 い る こ と に し た の で あ る。 ベ ン = グ リ オ ン も パ レ ス チ ナ に 移 っ た 後、 生 来 の「 グ リ ュ ー ン 」 と い う 姓 を 改 め て い る。 そ こ に は も ち ろ ん、 自 分 た ち の 土 地 で 0 0 0 0 0 0 0 0 、 自 分 た ち の 言 語 で 0 0 0 0 0 0 0 0 生 活 す る、 という意識があったにちがいない。 そ し て ブ ル ー メ ン フ ェ ル ト も ま た 前 述 の よ う に「 郷 ホ ー ム ・ ラ ン ド 土 」 に 渡 っ た。 し か し 彼 は 姓 名 を 変 え ず、 ド イ ツ 語 の 名 前 を保持した。その理由は「若い頃にシオニストになったのとまったく同じ」と述べるアーレントは、別のところで次 のように書いている。 「彼 〔ブルーメンフェルト〕 はいつも言っていました、 私がシオニストなのはゲーテのおかげだ。 あるいはこうです、シオニズムはユダヤ人に対するドイツからの贈り物 だ )(1 ( 」。 ドイツからの贈与によってシオニストである以上、自分の名前においてドイツ語を保持することは、むしろシオニ ストであることの証明である。逆に、ヘブライ語名に変えてしまった瞬間から、自分がユダヤ人であることの根拠は 失われてしまう。自分はあくまでもドイツ・ユダヤ人なのであり、 「 郷 ホーム・ランド 土 」で生活するからといって、必ずしもヘ ブライ語で名乗らなければならないわけではない──。 ブルーメンフェルト自身がそう明言しているわけではないが、アーレントの解釈はおそらくこのようなものだった はずだろう。つまり ひとつの土地にひとつの言語 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 である必要はなく、そうした画一化こそが国民国家の 癌 0 なのだ。そ
武蔵大学人文学会雑誌 第 51 巻第 1 号 れは多様性と複数性、この文脈で言うならば、 離 ディアスポラ 散 性を失わせる。ブルーメンフェルトはドイツ・ユダヤ人にとど まったのであり、新たなイスラエル人になろうとはしなかった。だからこそ、彼の名はアーレントにとって「 離 ディアスポラ 散 ユダヤ人」の象徴にほかならず、これを「ディアスポラ」という叢書の一冊に入れることは、まさに適切な言語行為 だということになるだろう。しかも「スファルディ系ユダヤ人」の編者のもと──ブルーメンフェルトもアーレント もアシュケナージ系である──、ドイツ語ではなくフランス語の本に献辞を加えたことで、 離 ディアスポラ 散 性はより強調され る結果となった。 そのようなわけで、伝記のなかの次なる一文、すなわち「二人〔アーレントとエレーラ〕は一緒にコロンビア大学 のロースクールで開かれた会議に行ったが、そこではイスラエルの大義を援助するためのさまざまな提案が検討され た」という一文が問題になる。仮に書かれた通りの事実があったとしても(だがここにも何らかの誤りが含まれてい る 可 能 性 は あ る )、 彼 ら が「 イ ス ラ エ ル の 大 義 」 に 賛 成 だ っ た と い う 証 明 に は な ら な い。 ヤ ン グ = ブ ル ー エ ル が そ う 信じさせようとしているように、両者が 離 ディアスポラ 散 性を「一緒に」放棄し、イスラエルのために「一つになって」いたと 想定することは、コンテクストからして無理があるだろう。そもそもどのような会議であれ、検討されている事案に 違和感を持つことは一般的にありうるし、 参加する動機や理由もそれぞれ異なったものでありうる。にもかかわらず、 ここでは「会議に行った」という行為自体がすでに親イスラエル的であるかのように、 それらしく見える仕方で脚色 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 されている 0 0 0 0 0 のである。 単なる事実の意味をこのようにひそかに一義的に規定する記述の仕方は、強固なイデオロギー的言説、近年ではと くに歴史修正主義的言説を想起させる。ただ、ここではホロコーストや南京大虐殺、あるいはガス室や従軍慰安婦の 存在が否定されているのではなく、パレスチナ人の存在とこれに対する民族浄化政策が 無 オ ー ヴ ァ ー ラ イ ド 視=看過 されているのであ
る )11 ( 。「イスラエルの大義」が自明であるかのように記述することで、 「アラブ人に対する彼らの全体的態度」を批判的 に捉えていたアーレントの姿勢も──最初からなかったかのように──掻き消されてしまう。 しかも、こうしたイスラエル=アメリカ的修正主義は、ドイツや日本のそれに 名実ともに 0 0 0 0 0 先立っている。それはテ オドール・ヘルツル『ユダヤ人国家』以来の政治路線に立ち戻るべく、ウラジーミル・ジャボティンスキーによって 提唱され、その後メナヘム・ベギンに受け継がれた修正主義、すなわちアラブ人を排除してヨルダン川両岸に純粋な ユダヤ人国家を築こうとする政治的シオニズムと軌を一にしているのである。イスラエルはもともとユダヤ人の土地 で あ り、 あ た か も パ レ ス チ ナ 人 な ど 存 在 し な か っ た か の よ う に「 彼 ら 」 は 考 え る。 し た が っ て、 ヤ ン グ = ブ ル ー エ ルの伝記──その第一版はベギン首相のもとレバノンに侵攻したイスラエル軍がベイルートのパレスチナ研究所を破 壊したのと同じ一九八二年に出版され、翌年に全米ユダヤ図書賞歴史部門にノミネートされたのだった──を導くの は、イスラエル建国前後から今日に至るまで連綿と続いてきた狂信的かつ排他的なイデオロギー、つまり政治や歴史 のみならず、宗教、経済、軍事、学問、メディアなど、すべてを貫く修正主義なのである。 いいかえれば、それは本来的な修正主義、あるいはむしろ政治神学的修正主義であり、この観点からすると、八〇 年 代 の ド イ ツ や 九 〇 年 代 の 日 本 で 顕 著 に な っ た 歴 史 修 正 主 義 は、 時 期 的 に も 構 造 的 に も 二 次 的 な も の に 見 え て く る。 とはいえ、その行き着く先がいずれも全体主義にほかならず、またその欲望が今日なお衰えないどころか、ますます 強力になって回帰している現実は、どこにおいても変わらない。大文字の〈歴史〉は個々の「歴史」のなかで反復さ れ る の で あ り、 そ れ ゆ え 身 近 な と こ ろ で ││ 企 業、 大 学、 官 庁 等 々 で ││ 増 殖 す る 権 力 志 向 の 迎 合 的 な 統 リ ー ダ ー 率 者 = 指 フ ュ ー ラ ー 導者 たちを日々の生活のなかで打倒することが、来たるべき民主主義の基礎になるだろう。
武蔵大学人文学会雑誌 第 51 巻第 1 号 五 振り出しへ かくして私たちは、伝記における三つ目の引用にたどり着く。検証してきた一節の最後の一文である。 「 私 は 仕 事 に 戻 る の に ち ょ っ と 支 障 が あ る の で す が、 そ れ は も ち ろ ん 主 と し て 予 期 し え な か っ た 今 回 の「 歴 史 」 の勃発のせいです」と彼女〔アーレント〕はメアリー・マッカーシーに書いた。 注には「アーレントからマッカーシー宛、一九七三年一〇月一六日」とあ る )1( ( 。三つ目の引用にしてはじめて出典に 誤りがない。手紙は第四次中東戦争の勃発から十日後、インタビューを終えた翌週頭に書かれてい る )11 ( 。だが、この事 実を踏まえると、先立つ一文の矛盾点が浮かび上がる。 「一〇月の第二週に戦闘の形勢が変わると、彼女は〔 『精神の 生活』第二部〕 「意思」の草稿に再び着手しようとした」 。 不意を突かれたイスラエルが反撃に転じたのは、 たしかに「一〇月の第二週」だった。しかし、 それはちょうどアー レントがインタビューを受けていた期間にほかならず、彼女はようやく一〇月の第 三 0 週になって、 「草稿に再び着手」 で き る よ う に な っ た の で あ る。 ヤ ン グ = ブ ル ー エ ル は「 戦 闘 の 形 勢 」 が イ ス ラ エ ル 側 に 傾 い た こ と を 執 筆 作 業 の 再 開に結びつけたいようだが、 厳密に言ってそこに関連はない。むしろ 「「歴史」 の勃発のせいで」 「仕事に戻るのにちょっ と 支 障 が あ る 」 と ア ー レ ン ト 自 身 が 述 べ て い る 以 上、 彼 女 に と っ て は ま さ に「 歴 史 history 」 が 問 題 に な っ て い た は ずだろう。第四次中東戦争のみならず、 中東戦争全体の 「歴史」 、したがって少なくともイスラエル建国以来の 「歴史」 、 それゆえまた帝国主義と植民地主義の「歴史」である。 しかし、忖度と改竄を伴うヤング=ブルーエルの修正主義的記述は、そのような「歴史」を矮小化してしまう。伝
記はここで第三次中東戦争しか念頭に置いていないのだ。 ア ー レ ン ト は 一 九 六 七 年 に し た の と 同 じ よ う に、 全 国 ユ ダ ヤ 運 動 に 寄 付 を し た。 ま た 戦 争 が テ ル = ア ヴ ィ ヴ に いる親戚の安全を脅かした場合には、すばやく財政援助ができるよう準備を整えた。 だが、緊急事態に備えてイスラエル在住の親族に対する金銭的援助の用意を整えることが、アーレントの政治性に 関わる行為だとは必ずしも言えないだろう。誰もがなしうる私的行為に特定の政治信念を見出すのは難しい。そもそ も、そのような「準備」が本当になされたのかどうか、確認する術もない。 に も か か わ ら ず、 こ れ に 先 立 つ 一 文、 「 ア ー レ ン ト は 一 九 六 七 年 に し た の と 同 じ よ う に、 全 国 ユ ダ ヤ 運 動 に 寄 付 を した」という一文でもって、 伝記はすべてのニュアンスを規定してしまう。つまり、 アーレントは親イスラエル的だっ た、イスラエル在住の「親戚の安全」を懸念していた、と読者に印象づけるのである。前述のように、彼女が「寄付 をした」組織は、最も過激な「ユダヤ防衛同盟」からより穏健な「全国ユダヤ運動」に訂正された。しかし、ヤング =ブルーエルは当の「寄付」の証拠をまったくあげておらず、 手がかりとなりうる情報も伝記のうちには見出せない。 こうして、私たちは振り出しに戻ることになる。アーレントは、一九七三年に実際に「全国ユダヤ運動に寄付をし た」 のだろうか? それ以前、 「一九六七年にした」 というのは事実なのか? 「一九五六年の戦争は愚かしいものだっ たが、一九六七年の戦争は理に適うものだと考えた」というのは、どこまでが本当なのか? 結局のところ、 パレス 0 0 0 チナ問題について 0 0 0 0 0 0 0 0 、 アーレントはどのように考えていたのか 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ? ただ一つ明らかなことは、こうした問いに取り組むにあたって、もはやヤング=ブルーエルの伝記をあてにするこ
武蔵大学人文学会雑誌 第 51 巻第 1 号 とはできない、ということだ。そして、この本を支配しているイデオロギーに左右されることなく、これまでとは別 の 仕 方 で 考 察 し な け れ ば な ら な い。 依 然 と し て 特 別 な 方 法 は 不 要 で あ る に せ よ、 「 何 か 卑 し い も の 」 を 感 じ 取 る 批 判 意 識── し た が っ て 何 も の に も と ら わ れ な い「 内 面 の 自 由 」── と そ の 名 に 恥 じ な い「 学 問 の 自 由 」 が 必 要 だ ろ う。 少なくとも伝記のサブタイトルとなっている「世界への愛」──ユダヤ=キリスト教的なそれ──を超えて、イスラ エル=アメリカ的ヘゲモニーの彼方で思考しなければならない。 な ぜ な ら、 今 日 に お け る 根 本 的 な 問 題 0 0 0 0 0 0 と は、 シ ャ テ ィ ー ラ を 目 に し た ジ ュ ネ が 書 い て い た よ う に、 「 世 界 の 死 」 だ からである。 ( 1) Elisabeth Young-Bruehl, Hannah Arendt: for Love of the World, 2nd ed., New Haven, Yale University Press, 2004, p. 455-456 (『ハ ンナ・アーレント伝』荒川幾男・原 一 ⼦・本間直⼦・宮内寿⼦訳、晶 文 社、 一 九九九年、六〇五 - 六〇六 頁 )。 ( 2) 以 上 に つ い て、 よ り 詳 し く は、 拙 論「 サ イ ー ド の た め に── ア ー レ ン ト と パ レ ス チ ナ 問 題 1」 、『 武 蔵 大 学 人 文 学 会 雑 誌 』 第 五 〇 巻 第一号、二〇一八年、三五 - 五四頁を参照。 ( 3)
Young-Bruehl, op. cit., p. 533, n. 39
(六八七頁、注三九) 。 ( 4) Hannah Arendt and Mary McCarthy, Between Friends: The Correspondence of Hannah Arendt and Mary McCarthy, 1949-1975,
edited and with an introduction by Carol Brightman, 1st ed., N
ew York, Harcourt Brace, 1995, p. 249
(『アーレント゠マッカーシー 往復書簡──知的生活のスカウトたち』佐藤佐智 ⼦ 訳、法政大学出版局、一九九九年、四四五頁) 。 ( 5) ア イ ヒ マ ン 論 争 が 続 く な か、 ア ー レ ン ト は サ ロ ー ト 作 品 の 書 評 を 発 表 し て い る。 “Nathalie Sarraute, The Golden Fruits”, in The New York Review of Books, March 5, 1964, p. 5-6; reprinted in Hannah Arendt, Reflections on Literature and Culture, edited and
with an introduction by Susannah Young-ah Gottlieb, Stanford,
Calif., Stanford University Press, 2007, p. 214-222.
(
6)
Arendt and Mary McCarthy, op. cit., p. 246
(四四〇頁)
。
(
7)拙論「サイードのために」
( 8) Edward W. Said, Covering Islam: How the Media and the Experts Determine How We See the Rest of the World ( 1981 ), Rev. ed., 1st Vintage Books ed., New York, Vintage, 1997 (『イスラム報道──ニュースはいかにつくられるか』浅井信雄・佐藤成文・岡真 理訳、みすず書房、増補版、二〇一八年)を参照。 ( 9)
Young-Bruehl, op. cit., p. 533, n. 40
(六八七頁、注四〇)
。
(
10)
Hannah Arendt: From an Interview, in The New York Review of B
ooks, October 26, 1978, p. 18. ( 11) Hannah Arendt, “The Last Interview: Interview by Rogger Errera, Un certain regard, ORTF TV, France, October 1973” ( 1999 ),
translated by Andrew Brown, in The Last Interview and Other Con
versations, Brooklyn, N. Y., Melville House, 2013, p. 125.
( 12)さらに述べておけば、フランスで実際に放映されたテレビ番組でも、この箇所の吹き替えは明確に derrière となっている。 ( 13) Ibid., p. 125-126. ( 14) Ibid., p. 128. ( 15)
Hannah Arendt, Sur l’antisémitisme, traduit de l’anglais par Mi
cheline Pouteau, Paris, Calmann-Lévy, coll. Diaspora, 1973.
(
16)
Roger Errera, « Une analyse du totalitarisme », in La Quinzaine
littéraire, 15 décembre 1966, p. 3-4. ( 17)アーレントからエレーラ宛の一九七二年一二月七日付の手紙を参照( The Hannah Arendt Papers at the Library of Congress, The
Digital Collection, Series: Correspondence File, 1938-1976, n.d
., General, 1938-1976, n.d.---Errera, Roger---1966-1972, Image
59 )。 ( 18) Han nah Ar endt und G er shom Scholem , Der Bri efwec hsel, herau sgegeben von Marie Luis e Knot t, unt er Mi tarbeit von David
Heredia, Berlin, Jüdischer Verlag, 2010, S. 439; “The Eichmann
Controversy: A Letter to Gershom Scholem”
( 1964 ), in The Jewish Writings, edited by Jerome Kohn and Ron H. Feldman, New York, Schocken Books, 2007, p. 466 (「アイヒマン論争──ゲルショ ム・ シ ョ ー レ ム へ の 書 簡 」 矢 野 久 美 ⼦ 訳、 『 ア イ ヒ マ ン 論 争── ユ ダ や 論 集 2』 齋 藤 純 一・ 山 田 正 行・ 金 慧・ 矢 野 久 美 ⼦ ・ 大 島 か お り訳、みすず書房、二〇一三年、三一七頁) 。 ( 19) Hannah Arendt und Karl Jaspers, Briefwechsel 1926-1969, herausgegeben von Lotte Köhler und Hans Saner, München, Piper, 1985 ( 1993 ), S. 234 (『 ア ー レ ン ト ゠ ヤ ス パ ー ス 往 復 書 簡 一 九 二 六 - 一 九 六 九( 1) 』、 大 島 か お り 訳、 み す ず 書 房、 二 〇 〇 四 年、 二 三 〇 頁 )。 な お、 ゲ ー テ と ブ ル ー メ ン フ ェ ル ト、 そ し て ド イ ツ・ ユ ダ ヤ 人 の 歴 史 に つ い て は、 拙 著『 ア ー レ ン ト 最 後 の 言 葉 』、 講談社選書メチエ、二〇一七年を参照。 ( 20) パ レ ス チ ナ 人 に ま つ わ る 記 憶 の 破 壊 が す で に 一 九 四 八 年 か ら 本 格 的 に 始 ま っ て い た 事 実 に つ い て は、 Ilan Pappé, The Ethnic Cleansing of Palestine, Oxford, Oneworld, 2006 (『パレスチナの民族浄化──イスラエル建国の暴力』田浪亜央江・早尾貴紀訳、法 政大学出版局、二〇一七年)を参照。
武蔵大学人文学会雑誌 第 51 巻第 1 号
(
21)
Young-Bruehl, op. cit., p. 533, n. 41
(六八七頁、注四一)
。
(
22)
Arendt and McCarthy, op. cit., p. 350
(六一一頁) 。 * 引 用 し た 文 献 の う ち 邦 訳 が あ る も の に つ い て は、 原 著 と 照 合 の 上 で 訳 文 を 適 宜 変 更 し た。 な お、 本 稿 は 二 〇 一 七 - 一 九 年 度 武 蔵 大 学 総 合研究プロジェクト及び JSPS 科研費 JP18K00111 の助成を受けている。