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HOKUGA: 故宮博物院所蔵の完全なる馬吊牌(上)

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タイトル

故宮博物院所蔵の完全なる馬吊牌(上)

著者

大谷, 通順; OTANI, Michiyori

引用

北海学園大学学園論集(159): 1-45

発行日

2014-03-25

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故宮博物院所蔵の完全なる馬吊 (上)

論文梗概 はじめに 第1章 故宮博物院の収蔵品 具 に関する基本情報 第1節 象牙 の概容 第2節 籌馬 の概容 第2章 馬吊 関連文字資料との比較対照 第1節 象牙 の数量・構成・寸法・材料 1. の合計枚数 2.40枚の の構成 3. の寸法 4. の材質 第2節 水滸人物の配当状況 1. 五十万貫 に配当された花和尚魯智深 2. 二十万貫 に配当された一 青 三娘 3. 古譜 と 今譜

つなぎのダーシは間違いです

本文中,2行どり 15Qの見出しの前1行アキ無しです

★★全欧文,全露文の時は,柱は欧文になります★★

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4. 水滸人物対照表 から見える故宮収蔵品の位置 5. 水滸人物対照表 で用いた文献 第3節 籌馬と馬吊 の関連

は じ め に

2012年9月,故宮博物院 資料信息中心 (資料情報センター)のデータベースを用いて宝物庫内 の 博用具を調査する過程で,1セットの完全な 馬吊 を発見した。馬吊 とは1セットが 40枚からなる遊戯法カードで,それを用いた代表的なゲームが 馬吊 である。明・清の士大夫 たちがそれを酷愛したことは,文献上にさまざまな形で記録され,また馬吊に関する専門の指南 書や論 が明・清の間に多数発表されたこと自体にも彼らの熱中の度合いが表れている。しかし その後,清代末年に入って,馬吊から派生したと えられる後継のカードゲームが文献上の記載 をほぼ占めるようになり,またそのカードの外形的特徴がとりわけ外国人の注目を浴びて,蒐集・ 整理・記録されるなかで,馬吊 は遊戯関係文字資料・実物資料のいずれからも忽然と姿を消し てしまった。民国時期には少なくともまだ2セットの実物資料が残っていたという記録がある が ,それらのゆくえも杳として知れない。大谷(1989)が どうやら馬掉 の実物は現代に伝わっ ていない可能性が強いようである と述べたのはそのような理由からである。このたび小論に おいてその誤 を訂正できることをたいへん喜ばしく思う 。 小論は上記の故宮収蔵品に対し,まず文字資料との対比を通して鑑定を行ない,それが真正の 馬吊 であることを証明する。しかるのち,収蔵品に描かれた精緻な図像から,これまで文字資 料だけではよくわからなかった明代馬吊 の諸相を明らかにしていく。具体的にいえば,第1に, 明代のルールブックにある 突 という語の意味。第2に, 空没文 に描かれていたという 波 斯進宝 の図像。第3に, 百万貫 に描かれていたという 小五 の真の姿。以上の3点で ある。

第1章 故宮博物院の収蔵品

具 に関する基本情報

小論が馬吊 と認定しようとしている故宮収蔵品 故 00181029 は,現在,博物院側から 具 と名づけられている。その 具 には, 象牙 および 籌馬 と名づけられた2種類の 品目が属する。しかしデータベース上で上記の登録番号を検索しても,すべての物品をまとめて 撮影した写真がわずかに1点登録されているのみで,ほかにいかなる情報もない。そこで博物院 に依頼し,両品目に属する物品をひとつひとつ鑑定できるように,鮮明な写真をあらためて複数 撮影していただいた。本章ではそれらの収蔵品について基本的な情報を提示する。

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第1節 象牙 の概容 まず 象牙 と名づけられた物品について,その外形的特徴を以下に記す。故宮博物院のご 厚意により発表を許可された,モノクロ図版(図1-①∼ )およびカラー図版(図4-①∼ ・図5) を篇末に掲載したので参照されたい。 なお,いずれも図像をより鮮明に示すために, の周縁にある余白をトリミングした。実際の 象牙 の寸法は,たて 5.5cm,よこ 2.4cm である。収蔵品をじかに目で見ることはできなかっ たため,この数値は博物院に計測をお願いして得た結果である。周縁の余白を含まない図像どう しを並べて測ると,実物はモノクロ図版の 72%,カラー図版の半 あまりの大きさに相当する。 その小さな面積のなかにこれほど精緻な図像が描かれていることになる。材質はその名が示すと おり象牙であり,枚数は合計 40枚ある。 40枚の は,その主たる図像,文様,銘文,および印跡から,以下の4グループに大きく か れる。 ⑴ 図1-①∼ わく内に人物の上半身が描かれ,かたわらに 水滸伝 の登場人物の氏名あるいはあだ名が記 されている。わく内の上端には銭を数える単位が記されている。このグループには 万万貫 ・ 千 万貫 ・ 百万貫 の3枚(すなわち額面が, 十万 を 比とする等比数列状にならぶ )と, 九十万貫 から 二十万貫 までの8枚(すなわち額面が, 十万 を 差とする等差数列状にならぶ ),あわせて 11 枚がある。 百万貫 はこの等比数列と等差数列をつなぐ結節点となる。 ⑵ 図1- ∼ 上記の⑴と同じ体裁で, 九万貫 から 一万貫 までの9枚(すなわち額面が, 一万 を 差とす る等差数列状にならぶ )がある。 ⑶ 図1- ∼ わく内に 銭 ,すなわちひもを通して連ねた銭が描かれ,かたわらに 水滸伝 の登場人物 の氏名あるいはあだ名が記されている。 銭が9本描かれたものから1本描かれたものまで合計 9枚ある。 ⑷ 図1- ∼ わく内に主として あき銭が描かれ,かたわらに 水滸伝 の登場人物の氏名あるいはあだ名 が記されている。銭が1個のものから9個のものまで9枚,それに一部欠けた銭1個を描いたも の(図1- )が1枚,さらに大きな を頭上にかかげたヒゲ面の人物の全身像を描いたもの (図1-。 にのせられた札の文字 空没文 ,すなわち ガランとして何もない 〔 空没 〕文がその の額面になる) が1枚,あわせて 11枚ある。

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また,すべての の背面には卍字錦の文様が描かれている。図5を参照。製作当初は表側の図 像が透けて見えるのを防ぐことが期待されていたのであろう。ちなみに現在の中国に普及する 紙 (馬吊 から派生したと目されるもの)では,管見の及ぶ範囲で,透過防止のために背面にほどこさ れた文様のなかに卍字錦はない。しかし,少し早い時期の記録に残された図像にはそのような処 理が散見される 。故宮収蔵品もその伝統の流れのなかに位置すると理解される。 上記⑴から⑷の図像,文様,銘文,そして背面の卍字錦はすべて墨一色であるが,それに加え て朱色で以下のような文様,銘文および印が記されている。 ア.梅の枝花・ 百子 の2文字が入ったひょうたん形の印・ざくろの実 この1セットの文様・印は, 万万貫 (図4-①), 九万貫 (図4-⑥),9本の 銭 (図4-⑨), そして例のヒゲ面の人物の全身像が描かれた 空没文 (図4- )の計4枚に描かれる。 イ.梅の枝花 この文様は, 千万貫 (図4-②), 八万貫 (図4-⑦),8本の 銭 (図4-⑩),そして欠けた 錢 (図4- )の計4枚に描かれる。そのうえに, 千万貫 の上わく外には 奨風旗 の4文 字, 八万貫 の上わく外には 庚午季製 の金文まじりの篆字4文字が,それぞれ記されている。 ウ.小さな花飾り 人物像ならば頭部, 銭 や 銭 であればその最上部に描かれる。この文様は, 九十万貫 (図4-④), 二十万貫 (図4-⑤), 一万貫 (図4-⑧),1本の 銭 (図4- ),そして9個の 銭 (図4- )の計5枚に描かれる。 エ.梅の枝花・ 百子 の2文字が入ったひょうたん形の印・小さな花飾り2個 この1セットの文様・印は 百万貫 (図4-③)にのみ描かれる。そのうえ 百万貫 の枠内の 人物は,胸の上に 満懐 の篆字2字の印が押されている。 ただし,上記の文様および印は同形のものであっても,その配置によって区別がつくようになっ ている。すなわち梅の枝花は, ア では左右のわく外の下部, イ では右わく外の上部, エ では左右のわく外の上部に,それぞれ場所を違えて配置してある。ひょうたん形の印は, ア で は上わくの両端に各1個, エ では上下のわくの上に各1個配されている。 これらの文様や文字の意味については順次解明していくが,あらかじめこの段階で指摘してお きたいのは,上記の植物がそれぞれ象徴する意味である。梅の枝花は単独で,あるいは他の事物 との組合せで,伝統的な吉祥文様を形成してきた。なぜかといえば,梅の枝は冬の寒さに耐えて 花をまっ先に咲かせるため,困難を克服して形成される高尚な人格や,春の報せに代表される吉 兆を象徴すると えられてきたからである 。また葉が出る前の生命感のない枝から直接に花が 開くことから,不老長生の象徴ともなり,さらに五つの花弁には五福(福・禄・寿・財・喜)の意味

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が重ね合わされることもある 。 一方,ざくろは実が割れると多数の種( 子 )を飛び出させるので,子孫繁栄の象徴となる 。 上の図案は,まさに実の割れた状態を描いた典型的な吉祥文様, 榴開百子 である 。 上に 捺印されたひょうたん内に 百子 の二文字があるのも,ざくろの比喩に呼応している。また, ひょうたんはそれ自体も 百子 を生むものとされ,さらにその実はツル( 蔓帯 )状に連なるの で, 万代 との諧音により伝統的な吉祥文様, 子孫万代 を形成する 。その他の要素につい ては後述するが,このように故宮収蔵品はめでたい意匠が各所にちりばめられたカードとなって いるのである。 第2節 籌馬 の概容 籌馬 とは 博において金銭の代わりにやり取りされるもので,点数計算棒ともいうべきもの である。西洋トランプで用いられるポーカーチップ,丁半ばくちで用いられる駒,マージャンで 用いられる 点棒 (その名も 籌馬 )などに類する。故宮収蔵品 故 00181029 に含まれる籌馬は 以下の4タイプに かれる。 ⑴ 万 の字を含むもの 図6-①の右側の4本を参照。たて 7.4cm,よこ 0.8cm,厚さ 0.1cm の象牙製。 万寿無 疆 ・ 万物咸亨 ・ 万国衣冠 ・ 万井笙歌 の4本がある。 ⑵ 五 の字を含むもの 図6-①の中央の8本を参照。たて 7.4cm,よこ 0.4cm,厚さ 0.1cm の象牙製。 五陵侠 ・ 五柳庄 ・ 五子言 ・ 五車書 ・ 五花 ・ 五嶺春 ・ 五斗粟 ・ 五湖客 の 8本がある。 ⑶ 千 の字を含むもの。 図6-①の左側の一群を参照。たて 7.4cm,よこ 0.4cm,厚さ 0.1cm の象牙製。 千登 ・ 千 坐 ・ 千里 ・ 千尺 ・ 千年 ・ 千秋 ・ 千畝 ・ 千門 ・ 千巻 ・ 千官 ・ 千鐘 ・ 千祥 の 12本がある。 ⑷ 百 の字を含むもの 図6-②の右側の一群を参照。たて 7.4cm,よこ 0.4cm,厚さ 0.1cm の黒檀製。 百乗 ・ 百 世 ・ 百和 ・ 百姓 ・ 百家 ・ 百味 ・ 百福 ・ 百草 ・ 百子 ・ 百尺 ・ 百篇 ・ 百美 ・ 百葉 ・ 百花 ・ 百順 ・ 百年 ・ 百工 ・ 百忍 ・ 百合 ・ 百畝 の 20本がある。 ⑸ 無銘のもの 図6-②の左側の一群を参照。長さ 7.4cm,直径 0.1cm のツゲ製。37本ある。

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籌馬 に隷書体で記された銘文は,点数計算棒というその本来的な機能からいって, 万 ・ 千 ・ 五 ・ 百 という数字のみがゲーム上で最低限必要な情報である。上記⑴の 万 ,⑶の 千 ,および⑷の 百 は,それぞれ点数の単位であるとただちに判断できる。一方,籌馬の大 小・材質に基づく序列を 慮に入れ,たったいま推測した記数体系の足りない部 を補うように えると,⑵の 五 は 五千 ,⑸の無銘のものは 十 もしくは 一 を表現すると推測され る。銘文のうち,数字以外の部 は,ゲームには不必要な情報であり,競技者たちの文人的な趣 向に応えたものと えられる。 万 ・ 千 ・ 百 はもとより数の多いことを示す修辞的な機能を もっているので,それを冠した 上の銘文は,おおむね豊かさやめでたさを示す固定表現,吉祥 語になっている。一方, 五 の場合は,いわゆる 名数 優れた同類項を特定の数(この場合 は五つ)まとめたもの なので,詩文で修辞的に頻用され,人口に膾炙したものが並んでいる。 清代の 博遊戯について詳細な記述を残した金学詩 牧 閑話 は, 籌馬 一般について次の ように述べている(標点符号および傍点は筆者。以下同)。 (籌馬は象牙でつくる。箸を半 にしたような形で,その四角く広いほうを い,表と裏の両面に文様を描く ことができる。象牙がなければ,竹を割ったもので代用することもできる。博徒が 場に入るとき,胴元は先 に籌馬を渡して銭の代わりとする。その形は大小さまざまで,千文・百文・十文などの値にそれぞれ該当し, 随意に けたり,あるいは取り替えることができる。ゲームが終わり,勝ち負けがついたら,籌馬のプラスと マイナスを比較し,銭に換算して受け取ったり,あるいは支払う。) 上記故宮収蔵品の⑴から⑸に 類される 籌馬 と対比して,形態・材質・大小・換算単位など 大まかな点で類似していることがわかる。 以上が故宮収蔵品 故 00181029 の 具 を構成する 象牙 と 籌馬 の基本的な情報 である。次章で,それが馬吊 関連の文字資料とどのように一致するか見ていくことにしよう。

第2章 馬吊 関連文字資料との比較対照

本章では馬吊 に関する文字資料と故宮収蔵品を照らし合わせ,故宮収蔵品がはたして真に馬 吊 としての資格をもっているのか確かめることにする。 第1節 象牙 の数量・構成・寸法・材料 文献との比較対照作業をすすめるにあたり,まず故宮収蔵品 象牙 の数量・構成・寸法・

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材料の4点を確認しておく。 1. の合計枚数 故宮収蔵品 象牙 は合計で 40枚あり,文献上に残された馬吊 の枚数も,唯一の例外を除 くとすべて 40枚で,両者は一致する。唯一の例外とは,馬吊 とおぼしき遊戯用カードの内訳に ついて書かれた最古の記録,15世紀後半の陸容 園雑記 の一段である 。そのカードについ て陸容は 馬吊 ならぬ, 闘葉子 の名を用いてはいるが,合計が 38枚で,しかも足りない2 枚を除くとその内訳が他の馬吊 に関する記録とかなりの程度一致するのである。そうなると, この 闘葉子 が馬吊 と完全に無縁の存在というわけにはいかない。なぜ2枚の差異が発生し たのか,はたまた 38枚と 40枚ではいずれが本源となる姿なのか,今のところそれらの問いに答 えるすべはない。 ただ,17世紀前半になるが,黎遂球 運掌経 にもやはり 38枚の馬吊 でゲームを行なったと いう記述がある。同書は馬吊 の原理について占筮や五行など諸方面から説明を試みたもので, 当時の伝統的知識人によく見られる牽強附会の説が多い一方, 田忌賽馬 の比喩でゲームの原理 を表現するなど ,遊戯法に精通した著者でなければ書けない部 があることは確かである。そ こで 吾 人之闘,必去其二而不用(われわれ広東人 著者は広東の の人 がゲームをする際には, 必ずその2枚を取り除いてしまい,用いない)と述べていることからわかるように,広東人がゲームで用 いる 38枚は,1組 40枚の馬吊 から2枚の を除いた一つのバリエーションであるという,明 確な認識が黎遂球にはあった。 陸容の記録はあくまでも 運掌経 の時代から 100年以上を る,江蘇地方の崑山についての ものであって,黎遂球の広東とは時間と空間を異にし,また馬吊 よりも少ない2枚の につい ても,それが崑山と広東とで必ずしも同じものであるとは限らない 。しかし地方的なルールに よって,本来1セット 40枚の馬吊 を 38枚にして用いるという現象が存在していたことを 運 掌経 は明示しており, 園雑記 の 闘葉子 が 38枚であることへの一つの説明となる可能 性はある。ともかく, 園雑記 以降,すべての指南書が1セット 40枚の馬吊 を前提として いるので,小論でも陸容の記述は例外的なケースとして取り扱うことにする。 2.40枚の の構成 40枚の の構成に関して明・清には多数の記録が残っており,それらをまとめると表1のよう になる。

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40枚の は四つのグループ( 門 )に かれ, 門 に言及した最古の記録である 之恒 葉子譜 によれば,それぞれ 十字 ・ 万字 ・ 索子 ・ 文銭 と名づけられる。各 門 内の は,表 の上から下に向かう序列に従って,上位のものが下位のものを打ち負かす。ただしその関係はグ ループ内にのみ限定され,他のグループには及ばない。そこにゲームの妙味があり,戦術の基本 がある。各競技者が毎回1枚ずつ を出して序列を争う,その勝ち負けの回数が,一定のルール のもとで得点化されるのに加え,その勝負の過程で獲得した のうち,特定のもの( 紅 )に特 別の価値が与えられている。紅 とは下線を付した 13枚の で,各グループで最上位の ( 賞 ) および次点の ( 肩 ),そして最下位の ( 極 あるいは 趣 )の合計 12枚(3枚×4グループ)に, その原則とはまったく無関係な特別の , 百万貫 1枚が加わったものである。 ここで故宮収蔵品に目をうつすと,第1章 第1節の⑴のグループは表1の 十字門 ,⑵の グループは 万字門 ,⑶のグループは 索子門 ,そして⑷のグループは 文銭門 にそれぞれ 該当することがわかる。さらに 紅 についてはどうであろうか。第1章 第1節で ア に 類した文様つきの は,すべて表1の 賞 に, イ に 類した文様つきの は 肩 に, エ に 類した文様つきの 百万貫 は, 百万貫 そのものに,それぞれ該当することがわか る。 ウ に 類した文様つきの は,1枚の例外を除いてすべて 極 に該当する。その1枚の 例外は 九十万貫 である。しかし,これについても清代の馬吊 の指南書 弔譜大全 によっ て,次のような説明がつく。それは同書の 開宗七則 という七つの基本解説のうち, の構成 に関する 目 という解説に加えられた注である。 表 1 馬吊 の構成 十字門(十万貫門) 万字門 (万貫門・貫門・万門) 索子門(索門) 文銭門(銭門・餅門) 万万(万万貫・紅万・王万) 【賞】 九万(九万貫) 【賞】 九索(九百) 【賞】 空没文(空一文・没文銭・空文・空湯) 【賞】 千万(千万貫・千僧) 【肩】 八万(八万貫) 【肩】 八索(八百) 【肩】 半文銭(一枝花・ 客・半銭・半枝花・半枝) 【肩】 百万(百万貫・百子・百老) 七万(七万貫) 七索(七百) 一銭(一文銭・一 ) 九十(九十子・九十万貫) 六万(六万貫) 六索(六百) 二銭(二文銭・二 ) 八十(八十子・八十万貫) 五万(五万貫) 五索(五百) 三銭(三文銭・三 ) 七十(七十子・七十万貫) 四万(四万貫) 四索(四百) 四銭(四文銭・四 ) 六十(六十子・六十万貫) 三万(三万貫) 三索(三百) 五銭(五文銭・五 ) 五十(五十子・五十万貫) 二万(二万貫) 二索(二百) 六銭(六文銭・六 ) 四十(四十子・四十万貫) 一万(一万貫) 【極(趣)】 一索(一百) 【極(趣)】 七銭(七文銭・七 ) 三十(三十子・三十万貫) 八銭(八文銭・八 ) 二十(二十子・二十万貫) 【極(趣)】 九銭(九文銭・九 ) 【極(趣)】

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( は 40枚で, 万万貫 ・ 千万貫 ・ 百万貫 ・ 二十万貫 ・ 九万貫 ・ 八万貫 ・ 一万貫 ・ 九索 ・ 八 索 ・ 一索 ・ 空没文 ・ 半文銭 ・ 九文銭 の 13枚は,すべて赤色の装飾がしてある。 成色 得点と なる組合せを形成すること ができるからである。 九十万貫 にも赤色の装飾を加えるのは,それが 万 万貫 ・ 千万貫 ・ 百万貫 の 陞代 をするからであり,この一例についてのみ例外的にその功績をたたえ たにすぎない。) 馬吊 ではだれが最初の を出すのかが勝負のカギなので, を十 に混ぜあわせたあと(西洋ト ランプと同様にシャッフルとカットの2段階の操作をへる),底部にある 1枚を見て,その数によって最 初の を出す競技者を決定する。そこで見た はそれ以降ゲーム内では 用できなくなるので, 万一, 万万貫 ・ 千万貫 ・ 百万貫 のいずれかであった場合, 九十万貫 を昇格させてその 代理とするというルール, 陞( 昇 と同じ意味)代 がある。このように 九十万貫 には一部の 紅 の代理をつとめるという特別な役割があるので,他の得点対象となる 紅 と同様に赤 色の装飾をほどこすというのである。 以上で,故宮収蔵品 象牙 がその構成上で馬吊 と完全に一致することが明らかになった。 3. の寸法 故宮収蔵品は上記のように 5.5×2.4cm(たて・よこの比率は 2.3)の大きさであった。歴代の文字 資料はどうなっているだろうか。先ほど用いた明の黎遂球 運掌経 には 大可一寸,高倍出之 (よこは 3.3cm,たてはその2倍あまり)とある。また,先ほど用いた清の金学詩 牧 閑話 では, 紙 については 長二寸許,横広不及半 (たては 6.6cm ほど,よこはその半 に及ばない)とし, 馬 弔 については 較紙 横縦幅倶稍広 (紙 にくらべて,たて・よこ共にやや広い)と述べている。 既述のように 紙 とは馬吊 から派生したもので,1セット 40枚の馬吊 のうち 十字門 に属する 10枚を除いた 30枚を基本とし,各 を複数にするという操作のすえ,合計枚数が最大 で 150枚(5×30枚)に及ぶようになったものである。金学詩の時代には1セット 60枚(2×30枚) が標準であった 。明と清を代表する両文献に記された馬吊 の寸法と比較すると,故宮収蔵品 の寸法は,たて・よこ共に7割あまりになる。 ところが,管見にふれた限りではあるが,現在の中国で入手できる紙 には,故宮収蔵品ほど 短い ものはない。筆者が所蔵する紙 中で,最大なのは東北地方で 用されているもので,12× 3cm(たて・よこの比率4)もあり,最小でも内蒙古から出たものが 7.5×2.6cm(たて・よこの比率 2.9) ある。それらに比べて故宮収蔵品は小さく,とりわけたての寸がつまっている。 ただし海外に目を向けると,故宮収蔵品に近い寸法のものがある。中国の遊戯について貴重な 記録を残した文化人類学者キューリンが, Lut chi と記録した ,ブルックリン博物館所蔵の

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19世紀広東地方の遊戯用カード(先述のように,馬吊 の構成から2枚の を除いて1セット 38枚としたも の)は 6.5×3cm(たて・よこの比率 2.2)ある 。また南洋華僑によって東南アジアに定着した紙 チェキ (上記,金学詩の紙 と同じ1セット 60枚のもの)は,筆者所蔵のものを測定すると 5.5×2.7 cm(たて・よこの比率2)ある。要するに,現代中国に現存する 紙 の実物資料と比較すると, 故宮収蔵品の寸法は特異に見えるかもしれないが,海外に残る比較的早い時期の実物資料と比較 すれば,大きさ,そして特にたて・よこの比率はそれほど異ならないのである。それにしても古 今東西にある中国式遊戯用カードで,故宮収蔵品ほどたて寸(2.4cm)のつまったものは見当たら ない。あるいは,この が実際のゲームでは用いられず,むしろ鑑賞・愛玩の対象であったこと を,この寸法が示唆しているのかもしれない。 4. の材質 材質に関する最古の記録である明の龍子猶 馬吊脚例 は,次のように述べている( >内は 割り注)。 ( のスタイルはみやびで美しくなければならない。太倉の衛前,崑山の司馬橋,蘇州の桃花 はいずれもよ い の集まるところとして有名である。青みをおびた純粋な綿紙を上等なものと見なす。細かに描いたものを 妓女 とよぶ。狭くて小さいものを かごかき とよぶ たとえば蘇州の 門 のたぐい>。ずんぐ り太くて粗雑なものを 老人施設 とよぶ たとえば蘇州の 唐家 のたぐい>。墨書きがぼんやりして 見 けにくいものを 幽霊 という 江西地方で多く われる>。これらはどれも ってはいけない。) 道具の質に対する士大夫たちの追求が並々ならぬものであったことを示す一段である。そのこだ わりは清代に入っても継承され,たとえば凌山道人 集雅 規 (1700年の序)には手本とすべき馬 吊 用具を列挙する 美器 の章があり,そこで 真桃花 崑葉 (ほんものの桃花 製の崑山式カー ド)をあげている。また志穏堂 南北譜 (1804年の重 )に収められた 馬弔全譜 中の 凡例 は次のように述べている。 ( は藍染めの棉紙製を用い, 二十 が白髪になったら,いつも新しいセットに取り替えるべき。なぜなら汚 れがたまっているだろうから)。 二十 とは表1に示すように 二十万貫 のことで,しかも次節で述べるように,その には

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水滸伝 の人物で,梁山泊随一の美女である 三娘が配当されていた。要するに美女の黒髪が白 髪になるほど い古したら, 換時期がきたと えるべきであるというのである。いずれにせよ, これほど品質にこだわりつつも,馬吊 は紙製であるのが大前提であり,故宮収蔵品のように象 牙を用いる例は空前といってよいであろう。当然ながら,それは 用者もしくは所有者の特殊な 地位や条件を示すものであろうし,それと同時に,その製作の目的が実際のゲームで 用するこ とではなく,鑑賞・愛玩にあったことを示す可能性をもっている。 第2節 水滸人物の配当状況 馬吊 に 水滸伝 に登場する人物が配当されることについても,多くの文献でふれられてい る。それは単に装飾や興趣のためだけではなく,少なくとも清代の指南書に記された遊戯法を見 る限り,ゲームの内容にも一定の影響を及ぼすのである。 1. 五十万貫 に配当された花和尚魯智深 第1節の2にて述べたように,獲得した のうちで,得点に関係する組合せを形成するものと して,13枚の 紅 には朱で特別な文様が描き込まれていた。じつはこれ以外にも,得点に関 係する組合せを形成する がいくつかあり,その代表的な例として 五十万貫 魯智深があげら れる。清代の一部の指南書 に記されたルールによれば,それを 千万貫 武 と連続して獲得 すると得点をあげることができ,その組合せを 二仏談経 と称する。破戒坊主とはいえ, 水滸 伝 の魯智深は戦いの日々をへたのち,銭 江のほとり,六和塔のもとで悟りをひらき寂滅する。 武 も最初は逃走のために僧形に身をやつし,あだ名を 行者 と称したが,魯智深が亡くなっ たあと,やはり六和塔で本心から出家をこころざす。この二人を仏に見立てて経典について議論 をかわさせるのがこの組合せの趣向である。 また同じ指南書で, 五十万貫 と 半文銭 を連続して獲得すると, 借花献仏 (花を借りて仏 に献ずる,すなわち 借りもので責めをふさぐ という決まり文句)という組合せを形成し,得点をあげる ことができる。僧形の魯智深と,表1に示すように 一枝花 ・ 半枝花 ・ 半枝 の別称をもつ 半文銭 とを組み合わせた趣向である。 2. 二十万貫 に配当された一 青 三娘 そのほか 五十万貫 は, 二十万貫 三娘と連続して獲得された場合に 小参禅 という組 合せを形成し,得点をあげることができる。 水滸伝 には 三娘が仏道に入ったというエピソー ドはないが,おそらく元曲 月明和尚度柳翠 の故事,すなわち,もと観音菩薩の浄瓶中にあっ た楊柳の枝が罰をうけて人間界で妓女に身をやつしていたのを,月明尊者という羅漢の説教に よって解脱させるというエピソードに基づくものであろう。これは僧侶と美女のやりとりが見ど ころの演目で,その後 大頭和尚 という仮装パレードに形式をかえて民間で大いに人気を博し

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た。 ちなみに 二十万貫 と 千万貫 武 を連続して獲得すると,こちらは 大参禅 という組 合せを形成することができる。これも同趣旨で,やはり僧形の行者武 と美女とを組合わせたも のであり,額面の大きい武 は 大 ,小さい魯智深は 小 と区別したまでにすぎない。 表1に示したように, 二十万貫 が 趣(極) という位置づけから, 紅 として得点対象 になるのは当然としても,梁山泊随一の美女, 三娘という具体的な人物像がなければ,上記の 小参禅 や 大参禅 という見立ては形成できなかった。 このほかにも 二十万貫 は, 空没文 王英と 夫婦団円 (夫婦円満)という組合せを形成す る。それは美女の 三娘と醜悪な小男の王英が 水滸伝 中で連れ添わされるというエピソード に基づくからである。以上のように, 三娘は荒くれ者の集まる梁山泊において女性でかつ美貌 という特徴をもつため,彼女が配当された である 二十万貫 と他の との組合せに,特別な 意味が付与されているのである。第3章では図像との関連で同趣向の組合せにふれることになる が,類例は枚挙にいとまがない。 3. 古譜 と 今譜 ところで,特定の (そのなかには,上記のように配当された水滸人物が理由となるものも含まれる)を連 続して獲得することに価値を見出すゲームのあり方について,馬吊 を愛好する清の士大夫たち のあいだに意見の対立があった。一方はそれを味わい深い趣向として楽しむ立場,もう一方はそ れをゲームの本質を見失わせる煩瑣なルールとして嫌う立場である。李汝珍の〝才学" 小説 鏡 花縁 第七十三回において,馬吊 について わされる議論の一つがその問題を取り扱っている ことは,大谷(1989)がすでに指摘したとおりである 。そこでは,馬吊 の指南書のうち,細 かな組合せを認めるものを 古譜 ,認めないものを 今譜 とよび,新旧の対立として捉えてい た。以下,当時の指南書に表われた,それら議論の跡を示しておく。 に描かれた水滸人物がテーマとなる, 大参禅 ・ 小参禅 ・ 夫婦団円 という上記3種の組 合せを認める一群の指南書が存在する。刻本としては,すでにふれた凌山道人 集雅 規 ・且漁 軒 弔譜補遺 (1736∼1795年 )・志穏堂 南北譜 (1804年 ),鈔本としては石登峨 弔譜増 (1717年の序)・ 霞居士 馬吊持平譜 (1720年の叙)・朱氏椒花 舫 弔譜 (1729∼1781年 )・無名 氏 弔譜補遺 (1779年の序)・ 園散人 掉譜集覧 (1811年の序),そして著者・出版年未詳の 妥 園弔譜 および 弔譜大全 などがある。 それらに対し,上記3種の組合せを認めない指南書も複数存在する。そのうち明確に理由を述 べたもの4種を以下に引用する。第1は王国祉の刻本 掉譜合参 (1693年の序)である。同書は明 以来,何十篇にも及ぶ指南書が編まれるなかで,中国の南北に差異が生じ,簡潔なものと煩瑣な ものがまちまちに併存する状況を憂い,諸本を折衷して妥当な線を追い求めたものである(ただし 著者は山東の田舎者を自認しており,見方が北方に偏っている気味もある)。そのうち, 巧闘賀例 (獲得した

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がたまたま巧妙な組合せになった場合のルール)の章末で,次のように述べている。 (古くは 大参禅 ・ 小参禅 ・ 百後趣 ・ 趣後百 ・ 美人 簾 などの項目があったが,煩瑣で嫌気がさす。 京本 ではとうの昔に削ってしまっているので,ここでもそれに従う。) 傍点を付したのは, に配当された水滸人物がカギとなる,前述の組合せである。 百後趣 は, 百万貫 に続いて 趣 (各門の最下位の )を獲得すること, 趣後百 はその逆である。 大参禅 ・ 小参禅 ・ 百後趣 ・ 趣後百 の4種類の組合せについては, 鏡花縁 のなかでも作中人物が, 古譜 に属する煩瑣なルールとして削除すべきと主張していた。 簾 は下から上へ簾を巻き あげるように,最下位の に続いて,同門の最上位の を獲得することである。 美人 の名が冠 せられているので,最下位の が 二十万貫 三娘で,最上位の は 万万貫 であると推測 される 。 京本 という呼称は馬吊 関連の文献で他に用例がないが,王国祉が上に述べている ように,清代に入って馬吊 のルールに地方差が発生し,また他の文献からも,歴 の古い江蘇 のものと,歴 の浅い北京を中心とする北方のものに 化したことがわかっているので ,おそ らく後者のいずれかの指南本,もしくは一派を指すものであろう。 第2は,出版年未詳の刻本,片玉居主人 馬弔譜 である。清代馬吊 の指南本には必ず,上 記のように偶然に形成される巧妙な組合せについて,専用のルールが設けてある。同書にも 巧 闘賀例 という章があり,その末尾に次のように記されている。 (以上のような,小規模な組合せの妙で得点となるものとして, に 孫対坐 祖 と孫が対座する ・ 美女参禅 美女が參禅する ・ 夫婦団円 ・ 百後趣 ・ 趣後百 などの項目があるが,ここではすべ て削除する。) 孫対坐 は,二つの門について,同門の最上位の と最下位の を獲得すること。 美女参 禅 は 二十万貫 三娘と 千万貫 武 を連続して獲得することで,上記の 大参禅 の別 名である。それ以外はすべてすでに見たものである。 第3は,玉岑主人の鈔本 指南京弔 (1718年の序)である。その 巧闘賀例 の冒頭には次のよ うにある。 (かつては得点対象の組合せがかなり多く,ひどくおかしなものまであった。ここでは 京吊 に従い,残し たのはわずかである。)

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京吊 とは北京を中心とする北方の馬吊 ルールで,同名の指南本も複数存在する。おかしな 組合せをわずかしか残さなかったと述べている,その言葉どおり,上記,第1・第2の文献で削 除するとした組合せのうち,この 指南京弔 に残されているのは 美人 簾 に類似した 倒 (ただし, 美人 簾 のように 二十万貫 のような特定の に限るのではなく,すべて同門の最下位の に 続いて最高位の を獲得するという,より普遍的なルールになっている)のみで,もちろん 大参禅 ・ 小参 禅 ・ 夫婦団円 の三者は影も形もない。 第4は,遂 逸叟の鈔本 遂耕堂増 京吊譜 (1792年の序)である。同書は上記の王国祉 掉譜 合参 と同様に,当時乱立していたルールの一本化をはかり,先行する 12種の指南書を比較衡量 したものである。その 凡例 において次のように述べている。 (旧譜は得点となる組合せがはなはだ多かった。たとえば 大参禅 ・ 小参禅 ・ 夫婦団円 ・ 領孫 祖 が孫を連れる など。その趣向は悪くないが,時代の流れで久しく見向きもされないので,ここではもっ ぱら 京吊 に従い,すべて削除する。) 領孫 は,同門の最上位の に続いて最下位の を獲得すること。上記の 倒 の逆であ る。著者はそれらの組合せに対してむしろ好意的であるが,やはり時流となった 京吊 に従っ てルールの簡素化をはかり,例の三者もすべて削るという判断をしている。 最後に,逆にこれらの組合せが削られてしまったのを惜しむ意見を一つ示すが,しかしそれに より,やはり時代の流れでそれらの組合せが取りあげられなくなっていたという現実がより鮮明 になる。それは退 居士の刻本 弔譜集成 (1793年の凡例)である。これも既存の 12種の指南書 を比較衡量して,最良のルールブックを編集しようとした試みである。その 凡例 において, 12種の指南書の一つ, 王譜 に収録されていた組合せについて次のように述べている。 ( 領孫 ・ 夫婦団円 ・ 大参禅 ・ 小参禅 の各項目でさえも,なかなか優れていた。惜しいかな,時代の 流行からはずれること久しい。ここでは他の得点対象となる組合せの後に特に加えておく。もし読者に同じ思 いがあれば,協力して振興しようではないか。) 以上のように,同じ馬吊 の遊戯法でも時代と地方によって相違の発生していたことが,清代 指南書の諸本を比較するとわかる。そのうち,繁瑣を理由として削られた組合せのなかに, に 配当された水滸人物を知らなければ興趣を感じとれないタイプのものが含まれることには注意が

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必要である。だからこそ,故宮収蔵品の各 にいかなる人物が配当されているのかは検討しなけ ればならないのである。 4. 水滸人物対照表 から見える故宮収蔵品の位置 筆者の管見にふれた,のべ 50種あまりの馬吊 関連文献のうち, に配当された水滸人物を詳 細かつ網羅的に記述したものとしては,次の7点がある。明代では陸容 園雑記 と 之恒 葉 子譜 の2点,清代では遂 逸叟 遂耕堂増 京吊譜 (以下 京吊譜 )・ 香居士 無声落葉譜例 ・ 園散人 掉譜集覧 ・ 弔譜 椒花 舫鈔本・無名氏 弔譜大全 の5点がそれである。さらに 一種の骨董品となった馬吊 を観察して,その外形的特徴について記録した民国時期の資料があ る。袁寒雲 葉子新書 および杜亜泉 博 の2点がそれである。これら合計9点の文字資料 を用いて,故宮収蔵品との対比作業を進めた。 その結果は, 水滸人物対照表 と名づけた表2-①∼⑧に示した。同表の各文献欄の構成は以 下のとおりである。 ⑴ 名(左列):それぞれの の 類上の名称で,基本的には銭を数える単位となっている。 ⑵ 水滸人物名(中列):それぞれの に配当された, 水滸伝 の登場人物の名称である。氏名, あだ名,星名,それらの混淆したものなど,統一されていない。 ⑶ の図像・文様に関する描写(右列) なお,文献に該当する記述がまったくない場合はその列を設けず,また一部だけ記述がない場合 は該当わくに斜線を引いた。 資料の配列の順序は,年代の判明しているものについては古いものほど左へ,新しいものほど 右になるようにした。年代の判明していないものについては,それぞれの に配当された水滸人 物の一致に基づき,同じ記述のものが隣接するように配列した。したがってこの表は全体として 左から右へと,馬吊 に配当された水滸人物の時代的変遷を示すと同時に,それぞれの と水滸 人物を結ぶ 伝承 の系譜をも示す機能をもつ。 また文献間の一致・不一致を明示するために,次の原則に従って各欄に色をつけた。 ア.文字情報が複数の文献で一致するものは,明代資料を基準にして,古いものを青色,新しい ものを黄色とした。さらに遅れて出現した例は黄土色とした。 イ.同一事項について新旧の情報を併記しているもの(後述)は,どちらを主,どちらを従として 記載しているかにより色 けをした。すなわち旧情報を主としているものは濃い緑色,新情 報を主としているものは黄緑色というようにである。 ウ.赤色は孤立した例である。 エ.水色は文字情報ではなく,画像情報の一致あるいは類似を示す。

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オ.桃色は文字情報ではなく,画像情報上で孤立した例を示す。 用した各文献の詳細については次項( 5 )で説明するとして,結論を先に述べよう。故宮収 蔵品の 40枚の が,馬吊 に関する文字資料と完全に同一の構成をもつことは,すでに第1節の 2で述べたとおりである。それでは, に配当された水滸人物はどうであろうか。孤立例の目立 つH 弔譜大全 を除けば,大多数の文献資料に残された記録は,故宮収蔵品とかなりの程度で 一致するのである。具体的に,表2-①∼②の 十字門 から確認を開始しよう。明代のB 葉子 譜 から清代のC 京吊譜 ・D 無声落葉譜例 ・F 掉譜集覧 四冊本 まで,すべての人物 がE故宮博物院と一致する。表2-③∼④の 万字門 も同様で,やはりそれらのすべてにおいて 人物が一致する。対比の範囲をF 掉譜集覧 二冊本・静嘉堂本・G 弔譜 の3種に拡大して も, 十字門 と 万字門 でE故宮博物院と人物の一致しない部 を見ると, 八十万貫 の索 超と 八万貫 の朱仝のあいだ,および 四十万貫 の楊志と 三十万貫 の李 とのあいだに 替が発生したにすぎない(ただし 弔譜 だけは情報の欠損が多いため,あくまでも残された記録の範囲か ら推測した結果である)。ちなみにI 葉子新書 にはE故宮博物院と異なる点が散見されるが,次章 で述べるように,それも著者袁寒雲の誤認によってもたらされたものであると判断でき,その誤 認を正すとむしろE故宮博物院と大差のない構成になるのである。以上が,人物像の描かれた に配当された水滸人物の合致状況である。 次に表2-⑤∼⑥の 索子門 について見ると,明代のA 園雑記 ・B 葉子譜 は水滸人 物名を付さない。したがって清代資料のみとの比較になるが,ここでもC 京吊譜 ・F 掉譜集 覧 四冊本は完全に一致する。その一方で,全体的な状況として 七索 ・ 六索 ・ 五索 ・ 四 索 の4枚については別系統の人物(すなわち金大堅・孫二娘・李立・朱富)を配当する,もう一本の 伝承がはっきりと見える。 F 掉譜集覧 は,管見の限りで少なくとも3種の鈔本において記述がそれぞれ微妙に異なる。 宜上,それらを 四冊本 (中国国家図書館蔵), 二冊本 (中国国家図書館蔵), 静嘉堂本 (静嘉堂 文庫蔵の四冊本)と区別した。それらの記す水滸人物は,版本によって〝主従"が入れ替わる。たと えば表2-②の 四十(万貫)の をご覧いただきたい。四冊本では 黒旋風李 を〝主"とし, 一作楊志青面獣 ( 楊志青面獣 とするものもある)という形で 青面獣楊志 を〝従" とする。二 冊本ではそれが逆転し,静嘉堂本ではついに 青面獣楊志 だけを記録する。 掉譜集覧 の域を 出て,もっと広い範囲を眺めれば,表2-①が示すように,明代のB 葉子譜 では逆に 黒旋風 李 だけを記録し,C 京吊譜 ・D 無声落葉譜例 ・E故宮博物院などは,むしろそちらに 追随するのである。 その系譜のつながりを示すために,年代上で先行することが明らかな明のB 葉子譜 の李 に青色をほどこし,それに遅れることが明らかな楊志に黄色をほどこして,そのどちらを主たる 図像とするかによって青色に近いほうを濃い緑色,黄色に近いほうを黄緑色に着色したのである。

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水滸人物対照表 が時代的な変遷を軸としつつも,それと平行して水滸人物の配当に関する系譜 をも示す機能をもっているというのは,このことを指している。F 掉譜集覧 だけについても, 表2-②,④,⑥,⑧と縦覧すれば,四冊本が明代の伝統に近く,二冊本と静嘉堂本がそれとは異 なる流れに うということが一目瞭然である。そしてその異なる流れの先には,G 弔譜 が見 える。たとえば表2-② 八十(万貫) に 索超 ,表2-④ 八(万)貫 に 朱仝 ,表2-⑥ 七 索 に 金大堅 ,表2-⑧ 二(文)銭 に 施恩 , 九銭 に 楊春 を配当するという傾向が それである。 表2⑤∼⑥ 索子門 についての検討を続けよう。このようにC 京吊譜 を極点とする系統 と,G 弔譜 を極点とする別の系統とのあいだで,あたかも綱引きをするかのような模様がF 掉譜集覧 の各鈔本に表われているのである。一方,E故宮博物院においてC 京吊譜 ・F 掉 譜集覧 四冊本と異なる人物は2例あり,そのうちの 五索 李立はこの綱引きの一方の極に傾 いた結果である。いま一つは 九索 盧俊義であるが,これも孤立例ではなく,例外の多いH 弔 譜大全 と,偶然かどうかはわからないが,ともかく一致している。 最後に表2-⑦∼⑧の 文銭門 について見ると,明代の2点の資料はやはり水滸人物名を付さ ない。したがって清代資料のみとの比較になるが,ここでもC 京吊譜 ・D 無声落葉譜例 ・ F 掉譜集覧 四冊本は完全に一致する。一方,G 弔譜 に孤立例が2例見えるが,それ以外 は 二文銭 ・ 四文銭 ・ 五文銭 ・ 六文銭 ・ 七文銭 ・ 九文銭 の6枚の配当人物において, またもや別系統の伝承との綱引きが発生している。E故宮博物院において,C 京吊譜 ・D 無 声落葉譜例 ・F 掉譜集覧 四冊本と異なる人物は3例ある。そのうち 四文銭 凌振および 五 文銭 陳達は,上記の綱引きの一方の極に傾いた例である。いま一つは 一文銭 劉唐であるが, これも孤立例ではなく,またもやH 弔譜大全 の配当の仕方と一致する。 以上を要するに,故宮収蔵品 象牙 のそれぞれの には 水滸伝 の登場人物名が記され, その配当は,明のB 葉子譜 からの伝統を, 索子 ・ 文銭 の2門を除いて,忠実に継承して いると見なされる,清のC 京弔譜 およびD 無声落葉譜例 の記述内容とほぼ一致する。特 に に人物像の描かれた二つの門, 十字門 および 万字門 において,配当された人物は完全 に一致する。水滸人物名が人物像への注釈であるという本来的な意味において,それはきわめて 重要である。反面,人物像の描かれない二つの門, 索子門 および 文銭門 (ただし人物像の描か れる 空没文 のみを除く)について,明代の文献は水滸人物名を付さない。また清代の指南書にお いても,それらの に与えられた水滸人物名は, 十字門 および 万字門 とは異なり,ゲーム 上で何の機能も果たさない。したがってこれらの二つの門で発生した差異にはさほど大きな意味 はないと判断される。最後に一言加えると,明代の文献で水滸人物が配当されていない 索子門 および 文銭門 にも,故宮収蔵品において人物名が配当されているという特徴は,故宮収蔵品 が明代の遺物ではないことを強く示唆している。

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5. 水滸人物対照表 で用いた文献 文献の年代およびその配置について左から簡単に説明していく。 A. 園雑記 は著者陸容の生没年(1436∼1494)から,15世紀後半のものと判断される。例外 的な 38枚のセットではあるが,水滸人物との関連について具体的に記述した最古の資料なので, 全体の表の出発点としてここに軸を定めた。 B. 葉子譜 は, 刻画品 ( 上の識別マークに関する 察)という一章で,定稿の日付が 壬子 除夕 とされているので,おおよそ 1612年頃のものであろう。表に示した情報は, 門品 (グ ループ けに関する 察)および 図像品 (図像に関する 察)という,二つの章の記述に基づく。そ の注によれば, 之恒の記録は 崑山製 のセットに基づいたものであり,そのセットは当時も なお崑山の 馬橋で盛んに用いられていた。以上が明代の資料である。 C.鈔本 京吊譜 序 のなかで著者遂 逸叟は, 辛亥秋,浮浪西秦,客窓岑寂之下,検介 亭新譜一 (辛亥の秋,陝西地方をさすらい,旅の宿のさびしさに,介亭の 新譜 一 を読み)と述べ,最 後に執筆の日付を 壬子仲秋桂月之吉 としている。彼は介亭 新譜 を高く評価し,自著も多 くそれに依拠するため, 新譜 の 原序 も併載していて,その日付は 康煕歳在壬寅菊月 と なっている。それが 1722年であることは明らかなので, 京吊譜 はそれ以降に書かれたことに なる。 京吊譜 は,馬吊 40枚の図像をすべて挿図として本の中に書き込んであることから,他の 指南書とは別格の資料的価値を有する。モノクロ図版の図2-①∼ がそれである。そのうち図2-四文銭 の をご覧いただきたい。配当された水滸人物は 没遮 穆弘 であるが, 弘 の 字は乾隆帝の諱を避けて欠画になっている。それに対し,図2- 五索 に配当された水滸人物 鎗手徐寧 では, 寧 の字は道光帝の名を避けることをしていない。それを手がかりにすれば, 当該書は 1736年から 1820年のあいだに書かれたことになる。また雲 主人の嘉慶二十三年(1818) の署名がある,別の指南書 吊経集腋 には,各所で 京吊譜 の所説が, 遂耕逸叟 ・ 遂 逸 叟 ・ 遂 野叟 ・ 遂 堂 などの名のもとに引用されているので, 京吊譜 執筆時期の範囲は より狭まる。如上の諸条件から,序のなかで著者が旅をした 辛亥 は 1791年,序を書いた 壬 子 は 1792年と推定される。 D. 無声落葉譜例 は年代不詳の鈔本であるが,その巻末にある 名 に基づき,配当さ れた水滸人物を対比した結果,この位置を占めることになった。 E.故宮博物院の収蔵品は,モノクロ図版の図1- およびカラー図版の図4-⑦に見られるよ うに, 八万貫 の の上わく外に 庚午季製 とある。清代であれば 1690年・1750年・1810年・ 1870年が 庚午 に相当する。そのいずれなのか,まだ結論を出すことはできないが, に配当

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された水滸人物の系譜の流れに従い,ここに配置した。 F.鈔本 掉譜集覧 は 自序 に 嘉慶歳次辛未閏三月二十有二日 とあるので,1811年の ものである。その 水滸人名 (四冊本), 附録水滸人名 (静嘉堂本), 水滸人名 讃>(二冊本) という各節に記された情報に基づき,表のように配置した。 G. 弔譜 は年代不詳の鈔本であるが,版心下端に 椒花 舫 の4文字,すなわち朱 の室 名( 椒花吟舫 )が見えることに加え,罫紙の色や形式,そして書写の筆跡から,朱 の鈔本として よいのではないかと筆者は える。すると生没年(1729∼1781)から 18世紀後半のものと推定され る。巻頭に各 の名称と,配当された水滸人物の一覧がある。ただし各所に紙を貼って修正した 跡や,また修正紙の脱落があり,水滸人物の配当は全体を網羅するものになっていない。これも 年代の前後ではなく,配当された水滸人物の一致状況によってここに位置を占めることになった。 H. 弔譜大全 は年代不詳の鈔本である。その 開宗七則 という章の 目 ( の構成と名称) および 署名 (水滸人物の配当)の記述に基づいて配列した。見てのとおり,配当される水滸人物 は他の指南書と異なるものが多く,孤立例を示す赤色が各所に現われる。 I. 葉子新書 は 1923年に袁寒雲(克文)が発表した馬吊 に関する 証である。骨董の蒐集 家として有名な著者が,所有する 明葉子 の外的特徴を明の 之恒 葉子譜 の記載と対比し, さらに 清葉子 (紙 ), 雀 (マージャン )へと変化する系統を明らかにしようとした意欲的 な論 である。ただしそこに列挙された文献は, 之恒 葉子譜 ・黎遂球 運掌経 ・龍子猶 馬弔 経 および 弔経集腋 の4点だけなので,はなはだ大づかみな議論にしかならない。 また肝心の 明葉子 はゆくえがわからず,図版も残されていないため,ただ著者の記述を通し てその姿を想像するほかないのだが, 明葉子 とは名づけられていても,それを明の遺物と見な す根拠はどこにもない。著者は,清代末年まで著わされつづけた大量の馬吊 指南書を十 に把 握できておらず,どうも馬吊 といえば明代のもので,清代には 清葉子 ,すなわち馬吊 の派 生形である 紙 に完全に移行したかのような,きわめて単純な系統図を想定している様子が うかがえる。 さらに同論 によると, 水滸人物対照表 の表2-②に3箇所,表2-④に2箇所,合計5箇所 の孤立例(赤色の部 )が出現するが,後述するように,それらは著者の誤認によって発生した可能 性が大である。それらを整理しなおせば,いわゆる 明葉子 は 京吊譜 の図版とよく似たも のになり,この表ではC 京吊譜 およびD 無声落葉譜例 と並ぶところに位置づけられるこ とになるのである。しかし今のところは,同論 表一 紀 化(変遷を記録する) および 表四 弁図象(図像を見 ける) の記載に基づいて,ここに配置しておく。なお図像に関する記述は 葉 子譜 の文字記録と相違点があった場合にのみなされ,相違がない場合には 同 と記されるの みである。

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J. 博 は 1933年に出版された,中国 博遊戯に関する画期的な研究書である。表はその 第十章 葉子戯与馬吊 (葉子戯と馬吊 )の記載に基づく。著者杜亜泉によれば,友人から1セッ トの馬吊 を借りて観察したらしく,ごく限られた範囲の について外形的特徴が記されている。 また 万万貫 ・ 千万貫 ・ 百万貫 の3枚だけは図版として収録されており,貴重な資料となっ ている。それらの の年代について 因 中霹靂火之暦,並不缺筆,知乾隆以前之物 ( のなかで 霹靂火 の 暦 が欠筆していないので,乾隆以前のものであるとわかる)と述べているが,その意味する ところがよくわからない。 霹靂火 は 水滸伝 中の人物,秦明のあだ名であるが,表2-③∼④ に示すように,すべての指南書において 七万貫 の には秦明が配当されている。著者が友人 から借りた馬吊 中にも秦明の配当されたものがあったのだろう。ただし 靂 のつくりは であって, ではないので,乾隆帝の諱 弘暦 を避ける必要がない。なんとか辻褄をあわせ て解釈するならば,本来ならば 霹靂火 と書くべきところ,友人の は当て字で 霹暦火 と してあり,その 暦 について欠筆をしていないということになろうが,原文の 霹靂火之暦 の5文字にそのような込みいった意味を担わせるのはかなり無理がある。どこかに錯誤があるよ うに思う。 それはともかく,以上が馬吊 について水滸人物の配当状況を詳細かつ網羅的に記した文字資 料であり,表2-①∼⑧ 水滸人物対照表 はそれらを用いて作成した。 第3節 籌馬と馬吊 の関連 最後に,点数計算棒たる 籌馬 について検討する。文字資料を見わたすと, 自体に関する 情報は籌馬のそれよりも圧倒的に多い。実際,ゲームで必要不可欠なのは のほうであり,それ についての規定は,当然ながら曖昧さを残さぬよう明確かつ念入りなものとなる。一方,籌馬は, ゲームそれ自体に関与することはなく,単に点数を記録・計算するための副次的な存在にすぎな い。その場の条件に従って臨機応変に変 できるものゆえ,形態や数量などについて明確な規定 もなされず,文献上ではどうしても漠然とした記述に傾く。 したがって結論から先に述べると, 故 00181029 の 籌馬 がはたして 象牙 とセットと なるべきものなのか,またその数量に欠損はないのかなど,筆者には解けない疑問が残る。しか しそれにしても,既存の文字資料を見る限り,馬吊 には籌馬が必要であり,上記の故宮収蔵品 の籌馬がその役割を十 にはたし得るということはまちがいない。馬吊 のゲームを進行する道 具として,点数計算棒( 籌馬 もしくは 籌 の語を用いる)に明確な言及をした文献としては次の4 点がある。 第1は,先に用いた凌山道人 集雅 規 である。その 美器 の章で,手本とすべき馬吊 用具を列挙するが, 真桃花 崑葉(ほんものの桃花 製の崑山式カード)・ 烏木文几(黒檀製の書きも の机)と並んで 牙籌 (象牙製の計算棒)をあげる。

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また競技者のモラルを論じた 論品 の章では,さまざまな不道徳行為に ∼品 という名称 をつけて 類しているが,そのなかに計算棒( 籌 )にかかわる 没品 (〝なくなる"品格)および 品 (〝ねだる"品格)という項目がある。前者は負けがこんで自 の計算棒がなくなりそうになると 姿をくらます不道徳,後者は他の競技者の反対にもかかわらず,ふつりあいなほど大量の計算棒 を ける不道徳である。 さらに,さまざまな違反行為に対する罰則を細かに定めた 罰例 の章では,点数計算棒に言 及したものが4項ある。一つ目は競技者どうしで計算棒を融通しあう違反行為で,それを 推籌 (計算棒を押しつける)とよぶ。二つ目は2人の競技者間で得点対象となる ( 紅 )をひそかに捨 て として譲りあう 伝紅 ( 紅 を手わたす)という違反行為で,それに対する罰則として関係 者2名の計算棒( 籌馬 )を被害者2名に け与えよと定められている。三つ目は,手持ちの計算 棒( 籌 )よりも多く ける違反行為で, 無籌超買 (計算棒がないのに,余計に ける)とよぶ。四つ 目は 量買 (はかって ける)とよぶ違反行為で,他人の手中に残った計算棒( 籌馬 )を盗み見て, 故意にそれを超える金額を けることである。 点数棒について明確な言及の見える第2の文献は,先に用いた志穏堂 南北譜 である。その 馬弔全譜 中の 凡例 において,手本となる馬吊 用具として次のように述べている。 (親〔 〕を示すマーカーは水晶や白料〔合成水晶〕を用いる。 面張 最初に を出す人をきめるため の が見やすいから。点数計算棒は象牙や檀木〔黒檀や紫檀など〕を用いる。) 他の多くの中国 博遊戯と同様に,馬吊の競技者は 替で親(椿)になり,その役割を示すマー カーを自 の前におく。馬吊では 40枚の を4人の競技者に伏せた状態で8枚ずつ 配し,残っ た8枚を1山にしたあと,底部( 面張 )が表向きになるように,ひっくり返して親のもとにおく。 その際に, 面張 より下の (あとで勝負の一環として用いる)が露出しないように先のマーカーで の山を圧しておく。そのマーカーが透明であれば, 面張 が見えて 利だというのである。 第3と第4の文献は年代不詳の清代鈔本, 弔譜大全 と 龍子猶馬弔経 である。前者は 規 矩 という章で 貴方,坐用四面,毎面置籌馬一副 ( のテーブルは四角形であるのが望ましく, 〔競技者は〕その四辺に座る。それぞれの辺には計算棒を1セットずつ置く)と述べ,後者は 吊規 という 章で 列坐:此戯例用四人,各拠 一面。籌馬既 …… (座り方:このゲームは通常4人で行ない,そ れぞれテーブルの一辺に座る。計算棒を 等に けたら……)と述べ,いずれも基本ルールを記述した章に おいて,ゲーム開始時に計算棒( 籌馬 )を各競技者に けると規定している。 上記4点の文献のように道具として明確な描写をしているわけではないが,その他の文献にお いても,親がゲーム開始時に決定する 金の金額( 籌数 ・ 籌価 ・ 籌 ),賞金や罰金の金額 ( 籌数 ),さらには特定の組合せに対して全員が支払う賞金( 賀籌 )に,すべて計算棒を意味

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する 籌 の語が伴う。また, 金を支払うことを 出籌 ,受け取ることを 贏籌 あるい は 得籌 と称する例はきわめて一般的である。そのうち 贏籌 の最早期の用例は,17世紀 の龍子猶 馬吊脚例 名目 の章に出現する。この書は馬吊 の遊戯法に関する最も古いルール ブックであり,早い時期から馬吊 にとって点数計算棒( 籌馬 )が必須のものであったことがこ こから了解できる。その形態や数量には明確な規定がないが,第1章 第2節で取りあげた金 学詩の籌馬全般についての一般的な解説,および上記の馬吊 用具としての描写から,故宮収蔵 品と矛盾する点は見受けられない。 以上,馬吊 に関する文字資料との比較対照の結果,故宮収蔵品 象牙 は完全な1セット の馬吊 であるという結論に至った。また,それと共に登録されている 籌馬 も,馬吊 の付 属品と見なされる資格が十 にあると筆者は判断する。

⑴ 馬吊 の 吊 の字は 掉 ・ 弔 ・ 釣 とも表記する。大谷(1989)では 葉子譜 を著わした 明の 之恒の用字に敬意を表して 掉 と表記したが,同程度に古い龍子猶 馬吊脚例 および 経十三篇 の用字 吊 を踏襲する資料が全体的に多いので,小論ではそれに従うことにした。 ⑵ 後述する袁寒雲(1923)および杜亜泉(1933)を参照。 ⑶ 113頁。 ⑷ 大谷(1989)には資料不足のみならず,ほかにも不注意からのミスが散見される。追々改めていき たい。 ⑸ たとえば Prunner(1969)では,45頁 の紙 (ビールフェルトのドイツカルタ博物館所蔵), 51頁 XVIII のマージャン紙 (同博物館所蔵),および 52頁 XIX のマージャン紙 (H.Harder, C. Foerster, Mah-Jongg, Hamburg, 1924より転載)を参照。

⑹ 劉錫誠・王文宝(1991) 梅 の項を参照。

⑺ Williams(1941)および Eberhard(1986)の plum の項を参照。 ⑻ Eberhard(1986)の pomegranate の項を参照。 ⑼ 野崎(1940)の 16 榴開百子 の項を参照。 ⑽ 野崎(1940)の 97 子孫万代 の項を参照。 帝王の長寿を祈願する決まり文句。 国家の財政が豊かで運営が順調であることを祈願する決まり文句。 世界中から朝貢に集まった 節。 民衆の家々がにぎやかに歌い騒ぐこと。 高級住宅街の 五陵 に住まう豪侠の少年たち。 陶淵明(五柳先生)が 帰りなんいざ と帰る荘園。 儒学を代表する5人の学者の名言。 大量の書物のたとえ。 帝王が臣下の親に位を贈る詔書。 いち早く花々が咲きほこる南方の五つの山に訪れた春。 陶淵明のことばなどにある薄俸のたとえ。 美女西施を伴って五湖に遊び,政権から身をひいた范 のこと。

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この問題については大谷(1989)128頁でふれたことがある。 戦略家の孫 が,斉の将軍である田忌に献策して,馬を上・中・下の3等級に けて競わせるレー スにおいて,味方の 上 は敵の 中 に,味方の 中 は敵の 下 に,味方の 下 は敵の 上 に,それぞれ当てて,2勝1敗で集団戦としての勝利をおさめさせた故事に,馬吊を喩えている。 黎遂球自身は除いた2枚の が何かを述べていない。したがってその記録と無条件で結びつけるこ とはできないのだが,広東では現在も1セット 38枚の遊戯用カードが販売されている。 のデザイン がかなり変貌しているが,それを馬吊 と比較すると,欠けた2枚は 万万貫 および 千万貫 と 判断される。一方,陸容が記録した1セット 38枚の 闘葉子 を馬吊 と比較すると,足りない2枚 は 空没文 および 半文銭 であり,現在の広東のものとは異なる。 葉子譜 については大谷(1989)111∼113頁を参照。 紙 の成立過程については大谷(1989)129∼136頁を参照。 Culin(1895)139∼140頁および大谷(1989)114頁を参照。 寸法については Hargrave(1930)9頁を参照。 チェキについては Mann(1983)と Amaro(1993)を参照。 馬吊脚例 については大谷(1989)146頁を参照。ただしそこで 説 続 に収められていないと いうのは,当時筆者が用いた 説 三種 (上海古籍出版社,1988)の版本についてである。 園散人 掉譜集覧 (1811年の自序)の 闘上色様賀例 と 弔譜大全 の 新増闘上色様 賛> を参照。 165∼171頁を参照。 孫殿起(1980)によると,乾隆年間の刊。 ただし同書は,暁江主人が長安で購入した書籍の残欠中から発見した 臨時譜 をはじめとする複 数の鈔本を集めて刊行したもの。 後述するように朱 の手写したものと推定した場合。 且漁軒の刊本との対照作業がまだできていないが,刊本は出版年が未詳であるのに対し,手写年が 明記されていることに意味があると え,ここにあげた。 別名 紅倒簾 という。 南北譜 はその南北の差異をそのままにして,前半は 南譜 ,後半は 北譜 と けて併述した もの。 馬弔京譜 も前半は北方のルール,後半の 妥園弔譜 は南方のルールとなっている。 龍子猶の著作にこれらの書名はない。おそらく 馬弔 経 は 馬吊脚例 , 弔経集腋 は 経 十三篇 の誤りであろう。このうち 弔経集腋 は実際に存在し,袁氏は気づいていないが,清代の ものである。後代の指南書は決まって龍子猶 経十三篇 を古典的戦略書として巻頭に掲載するの で,袁氏がそれを見誤った可能性もあるが,筆者が国家図書館と上海図書館で見た2種類の 弔経集 腋 にはいずれも 経十三篇 が含まれていなかった。ただし,国家図書館のものは 経十三篇 と 運掌経 をあわせた計3篇が合訂となった鈔本なので,あるいはこのようなものを袁氏は誤認し たのかもしれない。 清代鈔本 龍子猶馬弔経 吊規 を参照。 霞居士の鈔本 馬吊持平譜 (1720年の叙)に収められた,呉道栄 南譜 南譜麗句集 にある 法則門 中の 出注 の一段を参照。 石登峨の鈔本 弔譜増 (1717年の序)の 准縄 を参照。 王国祉の刻本 掉譜合参 (1693年の序)の 掉則名義 を参照。 鈔本 弔譜集腋 の 放倒賀例 および 罰例 を参照。 上掲の 弔譜集腋 の 闘出雑色賀例 を参照。 上掲の 掉譜合参 の 掉則名義 , 香居士の鈔本 無声落葉譜例 の 名目 , 園散人の鈔本 掉譜集覧 の 規条 ,揆南氏の鈔本 馬吊譜 (1803年?の題記) 凡例 の 名目 などを参照。 李 嗣 馬弔説 を参照。

図 2 | ⑥図 1 | ⑥図 2 | ⑦図 1 | ⑦図 2 | ⑧図 1 | ⑧図 1 | ⑨図 2 | ⑨図 2 | ⑩図 1 | ⑩上 の 列 は す べ て 故 宮 博 物 院 提 供
図 2 |図 1 |図 2 |図 1 |図 2 |図 1 |図 1 |図 2 |図 2 |図 1 |上 の 列 は す べ て 故 宮 博 物 院 提 供図3―④図3―③図3―②図3―①
図 2 |図 1 |図 2 |図 1 |図 2 |図 1 |図 1 |図 2 |図 2 |図 1 |上 の 列 は す べ て 故 宮 博 物 院 提 供図3―⑨図3―⑧図3―⑦図3―⑥ 図3―⑤
図 2 |図 1 |図 2 |図 1 |図 2 |図 1 |図 1 |図 2 |図 2 |図 1 |上 の 列 は す べ て 故 宮 博 物 院 提 供図3―図3―図3―図3― 図3―⑩
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