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Title
社会変動と生活環境の変容―応用民俗学の試み
Author(s)
福島, 邦夫
Citation
長崎大学教養部創立30周年記念論文集, pp. 157-172, 1995
Issue Date
1995-03-27
URL
http://hdl.handle.net/10069/21912
Right
NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITE
社会変動と生活環境の変容一応用民俗学の試み
福 島 邦 夫
Social Change and Transformations in t:he Lliving Enviroment
An Attempt at Applied Folklore
Kunio FuKusHIMA
要 旨 本四は柳田国男の『民間伝承論』、『郷土生活の研究』、その他をもとに、民俗学の民俗資 料の分類の方法を検討し、それによりながら、昭和の生活の歴史とそれによる人々の心意 の変化を主に食生活、衣生活、住生活の変化にもとづきながら、考察を試みたものである。 キーワード:社会変動、生活の歴史、民俗資料の分類、心意、応用民俗学の試みはじめに
日本民俗学は名もない民衆の生活の跡を探り、そうし九ものもまた、歴史をかたち づくる貴重な資料であるとして、政治史中心の歴史ではなく、総体的な社会の歴史、 生活の歴史をとらえようとした。特に、自らを「内省の学」と規定して、日本人の無 意識の心のなかにひそむ「心意現象」を探ろうとしたことは、つとに良く知られてい る。しかし、柳田国男の生きた時代と異なり、今や人口の大部分が高度消費社会、都 市的環境に生活し、我々の生活環境の変化もはなはだしい。もはや、農、漁村につた わる「古い生活の痕跡」だけを求めていても、現在の日本人の姿はわからないといえ よう。柳田国男もそうしたことに気がついており、都市をふくめ、新しい時代の諸相 に注目し、『明治大正史世相編』を昭和六年(1931)た執筆している。しかし、その 後、民俗学者によっては、その流れをくむ論槁はあらわれなかった。わずかに歴史学 者の色川大吉氏が『昭和史世相編』を平成2年(1990)に執筆したことや、国立民族 学博物館のシンポジュウムをまとめた、石毛直道編『昭和の世相史』(1993)があるに 過ぎない。本槁では柳田国男の『明治大正史世相編』の理論的枠組みをたたき台にし ながら、色川大吉氏とはまた異なった視点で昭和の社会変動と生活環境の変容をとら158 福 島邦 夫 える試みをしてみたい。我々自身がその中を生きてきた昭和という時代を客観的に見 ることは難しい。しかし、戦後五十年を経た現在、、そろそろ高度成長期の生活文化に 関する冷静な評価がなされなければならない。もちろん、この課題は一人の論者にとっ てはやや大きすぎるテーマである。このテーマは歴史学、社会学、社会心理学、生活 科学、家政学などの諸科学が総合的に取り組むべき課題である。しかし、一方、今ま で総体的な社会の歴史、生活の歴史をとらえようどしてきた民俗学がそれにどζまで 取り組めるのか。応用民俗学の試みとして、本小論でそれを試みてみたい。 問題と方法、対象 まず、本論の方法と対象を明らかにしておかねばならない。 明治以降の近代化をとらえるには、さまざまな視点が可能である。たとえば、いま までのある種の歴史学のように、それを上からの近代化としてとらえ、政府のとった さまざな中央集権的な政策がいかに日本社会に浸透し、それらがいかに迅速な経済発 展をもたらしたか。また、その半面、農村社会を荒廃させ、二度の世界大戦と世界で もまれに見る国家神道および天皇制をもたらしたか。そのような視点で日本の近代化 をとらえることは、もちろん可能であってここで異論をはさむつもりはない。しかし、 それらはあくまでも、政治史、経済史中心の歴史であって、これからの21世紀の我々 の生活環境をとらえようとする場合、もう一つの、生活を中心とした歴史の必要性が 浮かび上がってくるのである。有限な地球環境の中で、限られた資源をもとに、いか に豊かな生活が今後可能であるか。そのためには近代化以前の生活をとらえ、そのな かで明治以降の近代化、工業化により、何がどのように変化したのか。それが現代の 生活に何をもたらし、何を喪失させたかを具体的な事物を対象として考察することが いま、必要とされていると考えるのである。それではその方法についてつぎにのべよ う。 柳田国男の民俗学は昭和九年(1934)の『民間伝承論』、および昭和十年(1935)の 『郷土生活の研究法』の二著(いずれも口述筆記)をもってほぼその体系化をおこなっ たと言ってよい。『明治大正史世相編』もこの二著を下敷きとしている。そこでここで はまず、その理論的枠組みの検討を行う。二戸は民俗資料の分類についての検討を行っ たものであるが、ただ資料の分類というだけでなく、そうした具体的資料を有機的に 積み重ねることにより、一地域の文化相、あるいは一時代の文化相を総体的にとらえ ることができるというインデックスとしての意味ももっている。そこでまず、この二 著にしたがって、民俗資料の分類を以下に示し、本槁もそれにしたがって、主に昭和 の文化相を総体的にとらえる方法をここで検討することにする。(ただ、限られた紙面
であり、試論と言う性格上、すべての項目にふれることはできないことをあらかじめ、 お断りしておかなければならない。) 柳田は項目をまず、大きく三部にわける。ひとつは「有形文化」である。生活外形、 生活技術史、生活諸相ともいわれる。まず、柳田は目に見える「物質的なもの」から 入っていくべきだとして、以下のものをあげる。 第1部 有形文化(物質文化) 1.住居 2.衣服(ハレとケに分けて考える。ハレは改まった生活の場面。ケは毎日の生 活。) 3.食物(これもハレとケに分けて考える。) 4.[生活]資料取得方法(自然採集、漁、林業、狩猟、農業などに加え、交易と 市など。) 5.交通(交通に関する地形の名称、運搬方法、旅人の為の機関、船の交通など。) 6.労働(労働組織、種類:、労働者の身分および名義(名前)、給与方法と分配、 休みなど。) 7.村(村の構成分子、村の土地利用法とその配当、村の連合。) 8.連合(村内部の集団、青年団、さまざまな講。) 9.家・親族 10.婚姻(村落内の婚姻から、村落をこえた婚姻への変化。) 11.誕生(産屋、誕生をめぐる通過儀礼など。) 12.厄(人生儀礼、それを通らなければ、先に行けない人生の関門。) 13.葬式(墓場の組織、葬式の方法など。) 14.年中行事(ハレの行事、盆、正月など。) 15.神祭(祭礼、春の祭りと秋の収穫祭、夏の祭りなど。神地。神屋。神態。神 供。祭日などについて。) 16.占法、呪法(祭りのときにおこなわれる。虫除けや風よけの札。) 17.舞踊(神祭にともなっておこなわれる。) 18.競技(神祭や年中行事にともなっておこなわれるもの。) 19.童戯と玩具(もともと大人がおこなっていた行事を子供がまねたもの) 以上の項目をあげる。特に、十五、以下は第三部の信仰と関係するという。(項目名 は柳田の用語のまま。括弧内は柳田の解説を筆者が要約、補足したものである。以下 同。) 次に、そうした生活の外形に関する解説、有形文化を浅く見るだけでなく、さらに その根底にあるものを探ろうとする。そうするともう少しそれについて語られたもの
160 福 島邦夫 の検討が必要となる。第一部が目によって得られた知識であり、通りがかりの旅人に よる知識とすれば、第二部は目と耳により得られる知識であり、そこに少しはとどまっ たもの、すなわち寄寓者による採集知識であると柳田は言う。、)それらは以下のように 解説されている。 第2部 言語芸術(口頭伝承) 1.新語作成(その土地だけに使われているような言葉、方言など、新たな観念や 事物に対して、「命令や文人の発意によってでた」と言うより、「群の感じをおぼ ゆるに敏なる者が、代表して総員の言はうとする所を言った」、)ものである。) 2.新文句(その土地だけ使われているような独特な文句、地口、それを使う人の 生活環境に拠る、例えば、海や山で働く場合のように、ある距離をおいて話さね ばならぬ者たちの問で使われる文句は、できるだけ無駄を省いた簡略なものを選 ばなければならなかったし、それとは反対に、女のよって話す場合や、雪国の冬 籠もりの囲炉裏ばたなどでは、言葉はできるだけ修飾を加えられ、文句の言いま わしも複雑になっていった。) 3.ことわざ(日本の話術では相手を納得させるために、多くの言葉を費やすより は、手短でしかも物事の機微にふれた文句で、相手をへこます者が話し上手と言 われた。ことわざは一種、言葉争いの武器ともなる。3)) 4.謎(「比較的意味のとりにくいコトワザの終りに、「何ぞ」という語を添えて、 人に問うとした形であった。そうしてもとは信仰に付随した修業、即ち、わざと 分からなく言って、考えさせる一種の修業であったのが、後には一般に機知を試 す手段となってしまったのである。」4)) 5.唱えごと(神や神霊に対して言われる言葉、呪文が個人の秘伝に属するもので あるのに対し、群の共有の言葉。) 6.童言葉(古くは大人の使っていた行事に関する言葉をまねたものである。例え ばカゴメ、カゴメなど「以前は大人が半分は真面目なものとし、半分はスポーツ の気持ちから一人の人を真ん中にひざまっかして、そのぐるりをぐるぐるまわり、 なかの者を失神状態にしてこれにものを渇いた」ものである。,)) 7.歌謡(長短二通りある。短いものは本来労働を統一するためにおこったもの。 長いものは「口説き」といわれ、作業歌、盆踊り歌などにふくまれる。踊りと共 に歌われるもので、踊り手全員が言いたいことを含んでいる、「口説き」過去の歴 史や事件や人物の話などを歌い込む場合もある。子守歌、田植え歌、草刈り歌な どの作業歌また酒盛り歌、盆踊り歌などがふくまれる。6)) 8.語り物と昔話と伝説(古くは三者が共通の、もとは信仰に由来する神話から分 かれたもの。語り物は七五調などのリズムを元に語られたもの。昔話は昔、昔と
いう言葉ではじめられる形式を持つもので、特定の場所や時や人物などに結びっ かない、人がそれを信じなくてもよい話であるが、一方、伝説は特定の場所や時 や人物などに結びつき、本当にあったこととして人に信じられるものとして語ら れる話。7))以上が第二部である。 さて、最後に第三部に分類される「心意現象」であるが、柳田自身もこの章をまと めるのは自分には荷が重いとし、不十分なことは認めている。しかし、柳田は「実は これこそ我々の学問の目的であって、あとの一部と二部の二つは、いわばこれに達す るための、途中の階段のように考えているのである。」と述べ、もっとも重要視してい る。8「部と二部は第三部と有機的関係にある。「心意現象」について、新しい理論に よって、新分類を構成することは可能であると思うが、日本の事例に即して、書かれ たものは今のところ、私は寡聞にしてまだ知らない。その作成は我々に課せられた大 きな課題でもあろう。さて、以下にやや長くなるが述べよう。柳田は次の三つの細目 に分ける。その有機的関係とは「まず、人は何のために生きているかという目標、即 ち『生活目的』というか、あるいは人生の究極の目的と言うか、これが一つある。」(こ れをひとまず脇におくとして)、第一に「そのあとを『知識』即ちただ知ることだけの こと」(これに)、「これを基として何とかして生活目的に達しようとする『手段と方法』 とを第二におく。つまりこれを言い換えれば、第一と第二はサイエンスとアートであ るが、こう分けておいて、最初の『なにを欲するか』(『生活目的』)ということを最後 においてみる。(中略)我々の生活をふりかえってみても、無意識のあいだにこの三つ は誰もが持っているようだ。子供でも、婆さんでも、なにかしらこうしたいという目 的は、心の一隅に持っている。例えその考え方の線は、はっきりしなくとも、必ず持っ てはいるものである。このあとは知っているだけのことと(『知識』)、どうしたら自分 の欲するところに達しられるかという方法とである。(『手段と方法』)」,)それについて 以下に述べる。 第3部心意現象(民族心理) 1.知識(柳田はこれを「推論的知識」と「批評的」あるいは「批判的」知識の二 つに大きく分ける。前者は「なぜ」という事象の因果関連についての知識であり、 後者は「良い。悪い。」といった倫理的判断、あるいは美的判断についての知識で ある。柳田は「推論的知識」には主なものとして、「兆」と「応」があるという。 「兆」とは将来起こるであろう事柄を事前に予想する知識である。これには現代 の人間から見ても自然科学的な裏付けを持つような知識と、まったくの迷信に属 するような知識があり、両者がまったく同等に混在していた。例えば、「朝虹に川 渡るな」というのは、自然科学的にも根拠の見出だせるものであるが、「いたちが 道を横切ると願い事が叶わぬ」というのは迷信に属するような知識である。知識
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福 島邦夫
の中には普通の意識のときにもたらされるものと、普段とは異なる意識のときに もたらされるものある。それが夢やト占によってもたらされる知識であり、そう したもの発展して神の知識、すなわち宗教が生まれたという。過去において、神 の存在はよほど身近なものであったという。「応」とは問題があらわれ、結果が出 たのちに、結果のほうから遡って、その原因を推理した知識である。例えば、「親 が死んだ」とか、「稲に虫がついた」とかいった事件があると道理であの時間、な んだかカラスの鳴きが悪かったなどというものである。、。) 後者の「批評的」、あるいは「批判的」知識とは柳田によれば好悪愛憎趣味という ものが全部ふくまれる。、、)一般に善とか美とかいうものはナショナルなもので あって、真のみがインターナショナルなものあるという。、2) 「一概に『よい人』といっても、その概念の基礎が同じであるどうかは容易にい えない。或いは地方ごとに異なっているかも知れず、また時代ごとに変化してい るかもしれない。(中略)今日は利口さとか知恵とかを尊敬するが、以前は神に選 ばれ、神から付与された一人一人の特性、自分ではどうにもできないものが尊ば れたのである。」、3)その例として、「農民のこころ動き、女や無口の人々が、年久し くそこに持ち伝えて、しかも多数の生活方針を指導しているもの、今日の国の政 治を特色づけている義理またはりクツというもの、男らしさだの世間並だのと名 づけている生活の理想、破れば必ず制裁を受ける道義律の根本箇条、それから個 人の立場でいふ幸不幸の標準、それを選りわけて行く暗黙の技術、その技術の力 のみでは動かし難いと認められている外部の力と法則、こういう幾つかの大切な ものに対する考へかたなど。(後略)」、4)) 2.生活技術(これは、一の知識をもとに三の生活目的に達するための方法でその主 な内容として柳田は「呪」と「禁」をあげる。「呪」とはある事態の兆侯があり、 それを防ごうとするものと、すでに起こったことを処置するものがある。例えば 虫送りのように稲の虫の害を防ぐように行事を集団で行うものなどである。「禁」 はいわゆるタブーで、ある事をしてはいけないという禁止事項を設け、それによっ て災厄を防ごうとするものである。これには例えば、「北向きに寝てはいけない。」 「夜爪を切ると親の死に目に会えぬ。」などその原因が分からなくなっているもの がある。しかし、そのことに制裁の伴うものも多いという。最近、注目されてい る民間療法などもここにはいる。柳田は「この禁こそは一番に、郷土研究の必要 な部分である。どうしても郷土人自身の研究にまたねばならぬ部分、といったの は実はこれだったのである。いくら国が同じだといっても、これだけはその郷土 以外の者にはわからない。なぜなら、これはしないことだから。(中略)したがっ て外部の者には目にもっかねば耳にも入らず、また万一外形に現れることがあるにしても、外来者にはその理由はわからないのである。」、5)) 3.生活目的(これは人は「何のために生きているのか」といった人生の究極の目的 である。しかし、柳田はこれについて、詳しく述べてはいない。「その生活の目的 にはなおその奥になにか大きなものがあったかもしらぬが、だいだいに人は幸福 とか家を絶やさぬといったようなことを、目あてに生活したのではなかろうか。」 とぼんやりと述べるにすぎない。16)これについては、柳田の『先祖の話』や『明治 大正史世相編』を我々は参照せざるを得ない。「日本人の志としては、たとへ肉体 は朽ちて跡はなくなってしまはうとも、なほ此の国土との縁は断たず、毎年、日 を定めて子孫の家と行き通ひ幼い者の段々世に出て働く様子を見たいと思ってい た。」、7) 「我々の祖霊が血すじの子孫からの供養を期待していたように、以前は生きた我々 もその事を当然の権利と思っていた。死んで自分の血を分けた者から祭られねば、 死後の幸福は得られないという考え方が、何時の昔からともなく我々の親達に抱 かれていた。」、8)いわゆる「家の永続を願う心」が柳田が頭に描いていた日本人の 多くに抱かれていた人生の目的(のひとつ)であったのである。) さて、柳田のインデックスの概要を原文を引用しながら見てきた。この項目の優れ た点は全体が有機的に関連していることである。「第三部は興味深い部門ではあるが、 分かった部分のみしか説くことはできない。しかし、第二部の言語芸術は表れたもの ばかりでなく、其背後には内的なもの(第三部に属する)を多く持っているだけに面 白い。英国では食物のことは、それとほかのものとの関連を問題にしてはいないが、 経済や政治上ばかりでなく、実に信仰とも深い関係を持っている。実際食物は飢えて 食ふのではなく、精神の上の拘束の下にかくかくの態度で、かくかくの形によって食 ふのである。従うて俗信を伴ひ、世間に支配され、しきたりや僅諺を背負うている。 即ち、食物の背後には第二門第三門の分類に属するものが影の形に添ふ如くにくっつ いているのである。」と柳田は述べている。1g) 以上述べた項目は単なるインデックスであるのみならず、柳田においては文化相を 見ていくための方法論ともなっている。本論も以上の方法に従い、昭和の文化相を検 討していこう。ただし、試論という性格上、すべてのインデックスをそのままの順番 で網羅することはこの小論では意図してはいない。ここでは紙数が限られているので、 衣食住のみに関連した変化を追ってみたい。その他のインデックスについてはいずれ 機会を改めて、そうした試みを行ってみたいと思う。
164 福 島 邦 夫 昭和の食生活の変化 日本の近代の始まりは、いうまでもなく明治維新である。しかし、それは政治や経 済といった社会体制の転換点ではあっても、庶民の暮らし(衣食住)に一挙に転換が 起きたわけではなかった。昭和の初期には江戸時代とほぼ変わらぬ自給自足の食生活 が全国で行われていた。長崎を例にとろう。たとえば、『聞き書き 長崎県の食事』に 記載された諌早、西砂彼杵の食(冬)をみると、朝ははっちゃん(さつまいも)入り の麦飯に、しし貝のみそしる、高菜の漬物を食べている。昼は大根、人参、いもなど を入れた雑炊に賢いわしなどである。夜はやはり、麦飯にぬっべい(野菜に甘藷のく ずを入れた煮汁)、ぐち(魚)と大根の煮付け、たくわんなど食べた。2。)長崎県の米作 地帯であると考えられる諌早地方でさえ、白米は毎日の食事に登場してはいない。全 国的にみてもこの食事は魚貝類が比較的豊富であり、むしろ豊かなほうであろう。味 噌や豆腐は自家製であった。これは長崎県に限ったことではないが、食事の場所はい ろりで、耳順が決まっており、小さな子供以外はめいめいの膳(箱膳)に配られたも のを食べた。食事のあとは自分の食器に湯茶をそそいで洗い、箱膳の中にしまったも のであるという。、、)柳田は『明治大正史世相編』で現代にも通ずる食文化のいくつかの 変化をあげている。その第一は「食物の個人自由」と言うことである。22)かつては同じ 火、同じ器によって調理されたものを共同で食べることが大切にされた。食べ物を分 配する道具である「しゃもじ」が主婦権の象徴とされたように、分配を司ったのは主 婦の仕事であった。家長から順に配られた食事は下のものが食べる時には冷たい場合 が多く、そして、自分で自分用に小鍋をたてて食事をすることははじめは嫌われたが、 あたたかい食事の魅力に勝てず、順次、行われるようになり、やがて進む『個食化』 の芽となったのである。第二は「米大切」ということである。農村では白米が作られ てはいたが、商品用として節約し、長いあいだ自分たち自身では食べられなかった。 そのことはいわゆる「米食希求民族」として、現在まで米食を重視する食生活をつづ ける所以ともなっている。第三にはあたたかいもの、柔らかいもの、甘いものの増加 である。第四には外食化の進行であり、それによる食物の種類の増加である。農村で はこうした変化の進行は遅かったが、石毛直道らの研究によれば、食生活に大きな変 化が起きたのは、まず大都市においてであった。正確な調査は今後の課題としながら も、石毛は家庭におけるチャブ台(長崎のシッボク料理から生まれたという)の使用 は東京において、明治の終り頃から始まり、大正期に全国の都市に普及し、ついで農 山村に広まったと考えている。23)これには地域差があり、昭和の二十年代になっても箱 膳が残ったところもある。石毛によれば関東大震災後の東京で外食の店の形態が変 わった。いっそうの洋風化が進み、椅子とテーブルで食べさせる店が増えたのである。
都市の台所も変化し、ガス、水道をとりいれた台所が東京式と呼ばれたという。都市 におけるこのような変化の背景には大正八年(1919)、日本の工業生産額が農業生産額 をこえるという日本の経済体制の変化があると石毛は指摘する。24)しかし、こうした変 化は、その後の十五年戦争によって、その芽をつみとられることになる。敗戦後の食 料難時代は質はともかく、食料の量の確保に躍起になっていた時代であり、食生活の 水準が戦前の水準にまで、回復するのはやっと昭和三十年になってからのことである。 この年に米の生産量がやっと戦前の水準にまで回復する。また、この年に経済の高度 成長がはじまり、食生活の大きな変化がおきた。いわゆる台所の革命がおこったので ある。昭和三十年には日本住宅公団が生まれ、翌々年には東京の光ヶ丘にマンモス団 地が建設される。これは住生活における変化であるのだが、食生活もそれによって大 きく変容したのである。2DKが人々の憧れとなる。いわゆるダイニングキッチンが 導入された。(公団ではダイニングテーブルを備品としてつけ、それまで、チャブ台の 食事しか知らなかった人達の啓蒙をはかったという。)北側の土間にあった台所が床と おなじ高さになり、明るい部屋の南側に設けられた。水道や都市ガス、プロパンガス が熱源となり、水や火に関する女性の労働が軽減された。ダイニングテーブルは一家 の団簗の中心になったのである。そして、昭和三十年代は電化ブームの時代だった。 さまざまな家庭電化製品が作られ、人々は争ってそれを手にいれようとした。まず始 めにブームをよんだのは電気洗濯機で、続いて白黒テレビ、ミキサー、電気冷蔵庫、 電気掃除機、電気釜などがそれに続いた。特に電気洗濯機、白黒テレビ、電気冷蔵庫 は「三種の神器」といわれ、多少、家計の上で無理があっても、人々は近代的生活の 象徴としてこれらを争って買い求めた。また、昭和三十一年にはインスタント食品の 草分けといわれるコンソメスープが売り出され、昭和三十三年にはインスタント・ラー メンが売りに出される。また、昭和三十五年には国産初のインスタント・コーヒーが 発売される。(これらは昭和三十年代の一千万人にも上ったという高度成長期の「出稼 ぎ」すなわち、農村から大都市への単身季節労働者の生活を背後から支えたものであ ると言う。25))昭和三十三年には神戸の三宮に日本初のスーパーマーケットが開店す る。つまり一週間分の食料を買いだめし、冷蔵庫に保存するいわゆるアメリカ的な食 生活のスタイルが可能になったのである。このことは女性の家事労働の負担をいっそ う大幅に軽減し、女性解放運動をもたらすことになったと色川は言う。26)昭和四十年代 に入ると、いよいよこんどは本格的に食事の内容に関して変化がおきはじめた。昭和 三十七年には米の一人あたり年間消費量が過去最大の107キロになった後、減少を続 け、昭和六十一年には71キロにまで下がった。これはパン食が増大したと言うより、 いわゆるおかずとして副食物を多様に摂取するようになったからだと石毛は言う。27) 戦前の食生活に比べて著しい変化をみせたのは肉、卵、乳製品の動物性食品と油脂の
166 福 島 邦 夫 消費量で、大正十一年、国民一人あたりの肉の消費量はわずか、3.75グラムにすぎな かったが現在では約75グ:ラムに達していると石毛は指摘している。28)また、油脂の消費 量の増加は洋風料理、中国風料理が日本人の食生活に普及してきていること示してい るという。しかし、それでも、なお日本人の米を主とした澱粉の摂取量は先進国の中 で非常に高く、肥満(過剰栄養)に悩む欧米先進国から、「日本型食生活」として高く 評価されているのである。昭和四十五年(1970)に初めてファミリーレストランがで きる。翌、昭和四十六年にはファーストフードの代名詞であるハンバーガーの店がで きる。メインキッチン(工場)で作られた食べ物を食べる時代がきた。食生活の外化 が進行していくのである。かつて、外での食事はハレの食事であったが、それが毎日 のケの食事になりつつある。これを色川は食生活におけるハレとケの転換と呼んでい る。2g)かつては肉料理などの洋食がハレの食事であったが、いまはむしろ、手づくりの 和食や郷土料理が高級なハレの食事として考えられている。しかし、昭和五十年半以 降、もっと大きな変化が起こり始めている。食事は家庭で作るものという習慣が急速 に崩れ始めたのである。(昭和三十九年、外食費は一世帯あたり、1万4千円だったも のが、昭和六十一年には15万1406円と十倍になったという。、。)) 昭和四十九年、二十四時間営業のコンビニエンスストアが開業する。昭和五十年目 ら現在にかけて、急速に進んでいるのが家族が一緒に食卓を囲まない「孤食」化や同 じ食卓にいても、別々の物を食べている「個食」化の進行である。また、柳田の指摘 した「軟食」化もさらに進行している。神奈川歯科大学の斎藤の調査によると、食事 時の咀囑回数は、戦前が1420回、戦後は620回であり、食事時間は戦前が22分、戦後は 11分であるという。このような変化は様々な身体面へ深刻な影響を与えており、下顎 の発育不良や肥満傾向をもたらしているという。3、)また、こうした食事様式の変化が家 族生活に与える精神的な影響ははかりしれないものがあろう。さらに昭和五十年冬以 降に起きていることは、石毛によれば食生活の国際化と情報化であり、「グルメブーム」 であると言う。そして家庭の食卓の中に社会(企業)がどれだけ入り込んでくるのか が懸念されている。32)そのようなことに加えて、食習慣の急速な変化が懸念される。今 後は、家族の問題も含めて、自覚的に新しい食習慣、食文化を見直していく努力が必 要であろう。このようにして、以上大雑把にではあったが、昭和の食文化をみてきた。 大きな変化があり、生活環境全体が有機的に相互関連し、またざっと見ただけでも、 我々の今後の課題がその中からおのずと見えてくるようすがわかるであろう。 昭和の衣生活の変化 江戸の中期になっておこった、「木綿の普及」は柳田によれば、明治に入っても進行
していた。東北地方の一部や長崎県の対馬などでは昭和二十五年ぐらいまでも、麻布 の衣料が自給自足で作られていた。農民は平均して毎日着る働き着(モヨドーグ)を 二着とそのよそいきを一着、それに寝るときにきる長着物(ナガ)を一着しか持って いなかったという。いわば万葉の生活がその頃まで続いていたのである。33)食生活タり も、地方により、階層や年齢や性別により、変化の差が大きいのがこの衣生活である といえよう。関東大震災以後、都市では和装から洋装への変化がおこりはじめていた。 すでに指摘したように、工業化が進み、大正八年(1919)を境に産業構造が変換する。 都市では職業婦人が生まれる。その制服を中心に洋装化が進む。バスガールや丸ノ内 のオフィスに通勤した女性たちである。ただ、東京の銀座の洋装率を昭和八年の冬に 調査した今和次郎によれば、女学生をのぞく、一般婦人の洋装率は、わずか3%にす ぎなかった。34)既に、大正九年には文化服装学院が生まれ、大正十五年には杉野ドレス メーカーができ、洋裁学校のはしりとなっていた。ミシンが普及し、昭和の初めには 関西を中心にアッパッパ(夏の簡単服)の流行があったという。35)しかし、日本は十五 年戦争に突入し、衣生活は突然の停滞期を迎えることとなる。国家総動員法によって、 繊維産業の軍需統制、軍服、国民服、学童服が制定され、そうした面で洋装化がすす んだ。そうして、戦後の昭和二十一年は日本人の洋装への再出発点であった。多くの 日本人は、男は軍服、女はモンペにズックのスタイルであったが丸その中で、アメリ カのファッションに身を包んだパンパンガールの姿が目立ったという。女性の洋装へ の憧れは強く、洋裁学校は昭和二十二年には二百校、生徒数4.5万人であったものが、 昭和二十四年冬は学校数は二千校と一挙に十倍となり、生徒数は20万人、昭和三十年 には学校数は二千七百校、生徒数:は50万人となった。36)昭和二十六年の今和次郎の調査 によると、東京の銀座の洋装率は56%に達し、ついに洋装が和装を上回ったのであ る。37)やがて昭和三十年代に向かって、繊維の技術革新がおこる。昭和二十六年、東レ はアメリカのデュポン社から、ナイロンの技術を導入する。昭和二十八年、下着メー カーのワコールが誕生し、下着の新時代が始まる。繊維の革命はまず下着やストッキ ングを変えたのである。昭和三十二年、ポリエステルが登場する。翌年にはその技術 を応用したアクリル合成繊維、ボンネル、カシミロン、カネ拝島ンなどを一斉に各社 が売り出す。一方、繊維メーカーは新しい市場を目指して、キャンペーンを開始する。 昭和三十四年、東レはスキーのトニー・ザイラーを使って、ザイラールックを宣伝す るのである。これに端を発したキャンペーン・セールスは昭和三十七年、三十八年に は最高潮に達したという。東レは「くだものの色」、帝人は「フラワー一・モード」の色 彩キャンペーンが行われた。「消費は作り出される」を合言葉に繊維メーカー主導によ る、消費の創出、いわゆる高度消費時代が到来したのである。昭和三十六年にはすで に既製服のブームがあった。ファッション界はキャンペーンの名のもとに消費者の欲
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望を刺激して、毎シーズン、色を変え、形を変え、製品を陳腐化させて、生産の歯車 を回転させたのである。昭和四十年に入って、ミニ・スカートが流行する。柄ものの 靴下や、ブーツとのそろいで、トータルに完成するこのファッションは1960年代の既 製服発展の原動力になったという。38)60年代(昭和四十年代後半)はまた、学生運動の 非常に盛んになった時代であった。学園闘争のなかで、ジーンズが若者の問に流行し た。ジーンズにティー・シャツといったスタイルは服装のユニセックス化をもたらし た。これはまた、別な意味での女性の解放でもあった。性差別をなくす、フェミニズ ム運動がさかんになったのもこの頃である。普段着はカジュアル化し、男性にとって の禁色(赤や紫や緑を着ることへの忌避)がなくなった。39)昭和四十三年に日本の国民 総生産は世界第二位になっていた。「生活にゆとりのない状態では、欲望は基礎的な欲 求を満たすための購i入に追われる。が、所得の増大、平準化が進み、消費支出が高度 化してくると、(中略)消費者の商品意識がファッション化するということは、消費者 が商品の多様化を求めるということである。」と林邦雄は述べている。、。)繊維産業は ファッション産業となり、一品種大量生産から、多品種少量生産の時代に入ったので ある。しかも、「消費は美徳」という傾向にはいっそうの拍車がかけられた。色川は今 や和装がハレとなり、洋装がケとなったといい、ここでも、ハレとケの転換を説いて いる。しかし、いまやもうハレとケの違いというのは少なくなりつつあるのではない か。衣生活が、年齢からも性別からも社会的地位からも自由になりつつあるボーダー レス化を説く論者もいる。衣生活に関してもファッション産業に主体的な意思を奪わ れていく、こうした高度消費社会の中で、私たちはいかに主体的な意思をとりもどし ていくか、ということを考えなければならない時がきたと思う。限りある資源の中で、 自身の欲望を際限なく肥大化させていくことはもはやできないからである。 昭和の住生活の変化 柳田は日本人の家屋には大きくわけて、二種類あるとした。一一つは主屋であり、も う一つは小屋であった。日本人は両者を使い分けてきたという。後者は山の「出作り 小屋」や「田屋」など、何らかの所用のために、仮屋をたて、そこで一時の仮住まい をした。都市は一時的に故郷を離れた人々の仮小屋の集まりであった。江戸は独身の 下級武士や職人などの集住した、男性中心の都市であり、柳田はいまでいう外食産業 や娯楽産業が江戸に発達した遠因をここに求めている。狭い長屋ぐらしでは、気晴ら しの必要があったからである。いずれ、一旗挙げて故郷に帰るまでの一時の仮住まい が日本の都市であった。4、)その後、都市に家族を呼び寄せて、住むようになっても、仮 住まいの感覚はつづき、都市の「うさぎ小屋」生活を我々に強いているのである。また、柳田は住居の原型を寝間に求めた。「夜でなくても内を暗くすることが、家の効用 を達する唯一つの道であった。炉の火を高く焚けば家の中が明るくなり、それがまた 火の神の神聖の拝まれた由緒でもあったが…、(後略)」42)そのような、ただ、昼間の重 労働から帰って寝るだけの家の機能に、仕切りを作り、室内の明るさをもたらしたの は紙の効用であったという。貴重品であった紙がやっと庶民の手に入るようになった のは、実は明治に入ってからであった。室内に仕切り(障子)を作り、めいめいの明 り(火)のもとで暮らすようになった。かつて、囲炉裏は唯一の照明であったが、そ れがランプになり、電灯に変わっていった。居心地は良くなったが、柳田流に言えば 家族の心の分裂が始まった。・火の分裂は心の分裂をもたらした。プライバシーを尊重 する個人空間が生まれたわけである。43)また、畳は文字通り畳まれるもので、以前は座 敷や改まった空間にのみ敷かれていたにすぎない。畳はそんなに古くなく、家の中に すべて畳を敷くことは、明治になってから一般化したにすぎない。また、玄関や座敷 といったものを備えた家は武家や上層の農民だけであった。ふだんのつき合いは「デ イ」と呼ばれる縁側のような所ですませたのである。44)大きな変化のおきたのは関東大 震災以後であった。震災により、古い住宅は建て替えられ、東京を中心に、洋風化が 起こった。文化住宅、文化アパートとよばれるものが生まれた。応接間という洋間が 付属した住宅である。良質のアパートとして知られている、同潤会アパートも震災の 再掲金によってつくられたものであるという。45) また、この頃、私鉄の郊外沿線に宅地が開発される。すでに明治四十年、小林一三 が設立した箕面有馬電気鉄道(現阪急)があったが、大正七年には渋沢栄一により田 園都市公社がうまれ、理想の街として、田園調布がつくられる。そのころ、東京急行 電鉄、西武鉄道などが相次いで誕生する。この様にして、かつて、家は仕事場でもあっ たが、職と住は分離し、「近代的住居」が生まれたのである。 背景には都市化の問題がある。日本の三大都市の人口を見てみると明治十一年 (1878)に東京は、67万人、大阪、29万人、京都、23万人であったものが、大正九年(1920) には、東京、217万人、大阪、125万人、神戸、61万人(京都、59万人と順位が入れ替 わっている)と急激な都市化がおきているのである。46)全国の県庁所在地を中心にその 後も都市化が進んだことは言うまでもないことである。既に述べたように経済体制が 変化し、工場労働者やサラリーマンが登場したのである。その後、第二次大戦で多く の都市住宅が消失し、絶対的な住宅不足がおこった。焼け跡のバラック生活では必要 最小限の要求も満たせなかった。しかし、さらなる社会構造(産業構造)の変化はな んといっても、昭和三十年掛の高度成長期まで待たねばならなかった。昭和三十年、 高度成長がはじまると第一次産業従事者は昭和三十年に全体の41.1%であったものが、 昭和六十年には9.3%、にまで落ち込む。第二次産業従事者は昭和三十年に全体の
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23.8%から、昭和四十五年、34.1%まで増加するが、その後減少に転ずる。第三次産 業従事者は昭和三十年の全体の35.1%であったものが、昭和六十年には57.5%と増加 の一途をたどる。47)昭和三十年には、食生活の項で述べたように住宅公団が生まれ、食 寝分離の理論にもとづいて、ダイニングキッチンが生まれた。しかし、その標準的な 広さも2DKであり、空間的な貧しさは目を覆うべくもなかった。そして、シリンダー 錠のついた扉一枚で外界の公的空間とつながる団地生活が始まるのである。玄関とは 名ばかりの靴脱ぎ場に、すぐ私的空間であるダイニングキッチンがつながっている。 南向きの日当たりを設計の基準の中に含めたために、画一的な箱のような団地が次々 に生まれることになる。高度成長期のレジャーブームを、逆説的に今和次郎は機能堕 すぎる「住宅の機械化」が原因としている。48)単調な景色から逃げるために海や山に団 地の住人は向かったのである。しかし、このダイニングキッチンを中心に2DK、3 LDKといった住まいのスタイルはその後の住宅設計の基本的な考え方となった。昭 和四十年代に入ると、マンションのブームが来る。人々はそれまでの家賃ぐらしから 脱出しようとして、分譲マンションの購入に向かう。土地家屋を所有するのではなく、 いわば空間を所有するのである。一方、一戸建への希望も根強いものがあった。しか し、仮に一戸建を立てることができたとしても、大都市圏では職場から、相当に距離 の離れたものしか普通のサラリーマンは手に入れることができず、通勤時間の長さは、 父親が家族の他のメンバーと過ごす時間を少なくさせ、家族生活に深刻な影響を与え ている。また、過酷な受験:戦争の中で、子供部屋が生まれる。子供部屋は一種の隔離 された空間となり、子供の成長に必ずしも良い影響をあたえないことは多くの建築家 もそれを指i写している。4g) こうした生活環境の変容は我々の心意にどのような影響をあたえているのか。この 小論では多くを述べることはことはできなかったが、なんといっても家族への影響が 考えられよう。食の面においても、住の面においても、「個人化」が進む中で、我々は 家族のみならず、さまざまな面で、バラバラになりつつある。人と人の間の新しい相 互関係の原理を打ち立てざるを得ない段階にもう来ている。その問題を考えるには産 業構造や、地域の社会関係や都市問題など、さまざまな問題群を考察することが必要 であろう。しかし、そういったいわば大所高所に立った、ものの見方だけでは、見え てこない問題もあるのである。我々の生活環境といった身近な視点からの考察が必要 であろう。最近になって、急に多くなりつつある子供の犯罪の増加を、通過儀礼の喪 失により、子供が大人に成熟すること失敗したことによると見る民俗学者もいる。こ の小論では衣食住という民俗文化のごく僅かな項目に不完全にふれたに過ぎなかった が、応用民俗学はそうした多くの社会問題を視野に入れなければならない。それらを 今後の課題とすることにして、とりあえずこの小論を終わることにしたい。注 1)柳田国男、『民間伝承論』、伝統と現代社、復刻版、1980年、p.7 2)同1)、p.163 3)柳田国男、『郷土生活の研究』、筑摩書房、復刻版、1967年、p.195 4)同3)、p.200 5)同3)、P.203 6)同3)、p.206−207 7)同3)、p.209−213 8)同3)、p.214 9)同3)、p.217、および川田稔、『柳田国男一「固有信仰の世界」』、未来社、1992年、 p. 33−34 なお、9)から19)までの考察に関して、特に「心意現象」の考察に関しては 同書の見方を参考した点が多い。ここに記して感謝したい。 10)同3)、p.229−300 11)同1)、P.223 12)同3)、p.232−233 13)同1)、p.230 14)同1)、p.224 15)同3)、p.239−240 16)同3)、p.243 17)柳田国男「先祖の話」『定本 柳田国男集 第10巻』、筑摩書房、p.50 18)柳田国男「明治大正史世相編」『定本 柳田国男集 第24巻』、筑摩書房、p.307 19)同1)、p.128−129 20)巨川雅夫編『聞き書き一長崎の食事』、農山漁村文化協会、1985年 p.14−74 21)もちろんこれについて柳田も述べている。神崎宣武『日本人は何を食べてきたか』、大 月書店、1987年 さらに具体的には、須藤功編『写真で見る日本生活図引 4 すま う』弘文堂、1988年など参照 22)柳田国男、同18)、p.160−186 23)石毛直道、「食卓の変化」、祖父江孝男他編『現代日本文化における伝統と変容1、暮 らしの美意識』、ドメス出版、1984年、p.33−53 24)石毛直道他編、『食の文化シンポジウム89、昭和の食』、ドメス出版、1989年、p.19 25)色川大吉、『昭和史世相編』、小学館、1990年、p.43 26)同25)、p45−47 27)同24)、p.24 28)同24)、p.25 ここでいう「現在」とは1989年のことである。 29)同25)、p.43 30)同24)、p.46 31)澤田壽麟太郎加斗、『たべることのいま、食生活を視る』、嵯峨野書院、1993年p.163 32)同24)、p.33−37 33)瀬川清子、『女のはたらき、衣生活の歴史』、未来社、1962年、p.172−174 34)今和次郎、「服装研究」『今和次郎集8』、ドメス出版、1972年、p.176 35)林邦雄「暗い谷間の昭和ファッション」、『昭和生活文化年代記1』、TOTO出版、1991 年、P.87 36)林邦雄「戦後ファッション盛衰史」『昭和生活文化年代記2』同上、p.95 37)同34)、p.177
172 福 島 邦 夫 38)林邦雄「戦後ファッション盛衰史」『昭和生活文化年代記4』同上、p.73 39)同25)、p.42 40)同38)、p.81 41)同18)、「家と住み心地」、p.187−211 42)同18)、p.194 43)柳田国男、「火の昔」、『定本 柳田国男集 第21巻』、筑摩書房、p.150−276 44)伺18)、p.202−204 45)鈴木鴻人、『近代日本の居住習俗』、泰流社、1980年、p.92 46)富永健一、『日本の近代化と社会変動』、講i談社学術文庫、1990年、p.307 47)同46)、p.245 48)今和次郎、「住居論」『今和次郎集4』、ドメス出版、1972年、p.2109 49)天野彰、『居住のソフトウエア』、講談社現代新書、1986年はか 追記 「はじめに」で述べていることに関して、若干の補足をしておきたい。今までに民俗 学の側からの現代への取組みは皆無であったというわけではない。例えば、宮田登氏らの 「都市民俗学」などがあり、また国立民族学博物館の特別研究プロジェクト、「現代日本文 化における伝統と変容」などもある。さらにさかのぼれば、民俗学の立場ではないが、桑 原武夫氏らによる「現代風俗研究会」による一連の成果、および「生活学会」の成果もあ げなければならない。本稿はそうしたものを参照しつつ、総合化への努力として、柳田民 俗学の立場を応用民俗学として展開したものであることをお断りしておきたい。 (1995年1月30日受理)