リヴァプール財政改革協会について
−「国民予算」から1860年代末頃まで−
西 山 一
郎 I はじめに.。II LFR A とマンチェスクー派。ⅠⅠI 「国民予算」。ⅠⅤ“「国民予算」と世論。 Ⅴ「国民予算」 の帰結。 ⅤⅠ『財政改革論集』の概観。 ⅥⅠ.『財政改革 論集』の分析(その1)。 ⅥII『財政改革論集』の分析(そ の2)。ⅠⅩ『財政改革論集』の分析(その3)。 Ⅹ.『財 政改革論集』の分析(その4)。 ⅢLFRA.とバ・−ミソ ガム所得税改革協会。 Ⅶ‖直接税と間接税。 ⅦⅠむすび −リグァプ・−ル派の提唱−。 Ⅰ 小論ほ,さきの拙稿1)をうけて,1848年以降のリグァプ・−ル財政改革協会(TheLiver■pOOIFinancialReformAssociation)一
以下,LFりR…A。,または単に「協会」と称する−の活動を叙述するものである。
ⅠI 1848年4月20日に成立した2)LいF、.R.A.は,週2回(月曜日と木曜日)ないし 1)拙稿「リグァプール財政改革協会について−その成立まで−」,香川大学経済学部 『研究年報』20,1980年。 2)LF RA成立50周年を記念して刊行された小冊子,〔JWS.Cal1ie?〕,771eRhancidl 尺め円形Assoc由′わ〝J朗β−J部将(超勤1胤椚=嘲れ紗βC′),nd.〔1898〕,p.2,は,協会 が設立されたのは「4月19日」という。しかし,協会刊行の論集等は,自らの設立を「4 月20日」としているので,小論も「4月20日」説をとる。なお,r和Cね〆娩βエわ′βゆβOJ E7nancialRめ乃乃Association〔以下,Old Sk7iesと略称〕,1851,London,No。3,〔p 16〕;昂乃α乃C血7月めナ邪7「和C怨,助郷Sβわ抜s〔以下,〃ぬ出動祓弘 と略称〕,〔February, 1852〕,NoI,〔p2〕,もみよ。ーJ46− 香川大学経済学部 研究年報 22 ノクβ2 それ以上の評議会をもつとともに,月1向(第3水曜日)の月例集会3)を開催し, 『■財政改革論集』を大体1カ月に1冊の割合で刊行した。4)1849年3月にほ,コ ブデンの「財政改革」の動議が庶民院で否決されたのに関連して2つの声明を 発表した。5)同年,全国議会・財政改革協会の書記ペッグズ(Thomas BeggS) を講師にたて,オックスフオ、−ド,ヨーク,ブリストレ等において,協会の財 政改革の主張を講演してまわらせた。6)1851年2月には,相続税(Probateand Legacyduties)の早急な改正を含む税制全体の改革せ求める請願7)を庶民院に 提出した。以上のような状況,特に月例集会と『財政改革論集』の刊行状況か ら判断して,協会は,1852年末頃まで活発な運動を展開したようである。 1849年4月18日に第1回の年次大会が開催されたが,そこでのブロドリッブ の報告によれは,過去1年間に.全国各地で少なくとも36の財政改革協会が結成 された。8)それを地域別にみると,ロンドンでほマラボソ(Marylebone)他7つ, ロンドン以外のイングランドにおいてはマンチェスター他17,スコットランド においてはエディンバラ他9つであった。しかし,これら36の財政改革協会が すべて財政改革のみを目標に.していたわけではなかった。ブロドリッブが「こ 3)月例集会は1852年12月を最後に中断した。そして,それが再開されたのは1857年1月で あった。 4)『論集』‘旧シ1)−ズ’の最終号(No“35)が刊行されたのは1851年7月であったが,引 きつづいて‘新シリ・−ズ’の刊行が開始され,第ⅠⅤ号(1852年10月刊)までは順調に発行 された。なお,‘旧シリーズ’の発行部数は,1850年4月の時点で,20万部以上であった (AnnualR@071diheLive坤001nnancialRdbrmAssociation,18thApril,1850,p 1)。定期購読者リストが,去∂まd,pp。4−16,にある。
5)AddYt?SS dthe Liveゆ001FinancialRめrm Associbtion,March5,1849,in Old 5βわβS,No35,pp13−14;乃βCoα乃dJ〆娩βエダぴgゆ00Jダど乃α乃(衰Jβめ珊Aざ50Cゐ−
tionio the77mant・hmwYSd’ihe thdted戯n8dom,nhd,inibid.,No16,pp.12−14 6)Edward Brodribb,AnnwIR@07iin OhiSbrieちNo.16,p.11;The肋nchesおr
EmmineY;NovemberI24,1849なお,1849年5月に,オコソナー(FeargusO’Connor■) ケも「われわれは貧しく十分な手当てを支払うことができないので,多くの熱心なチャー チィストたちは〔手当てのよい〕財政改革の講師に志願している」(7Ⅵβ肋γ娩β用Sぉち May26,1849)と書いている。これから判断するとチャ1−テイストたちも財政改革の教 義普及に一・役かっていたのであろう。 7)Co乃ゐ紹Sβ♂ Ⅵ孤′扉■」町乃α乃C血7月めクⅦ,0γ娩β斤eJ査〆扉’血血sfγγノね研 こ乃毎弘Sf 7おiibn,FebrIuary16,1851,in OLdSeries,No‖35,pp。15−16 8)Brodribb,PPcitり,phll
−J47− リグァプー・ル財政改革協会について
れら協会の多くは,議会改革の問題を財政改革のそれと関連させることが必要
であると考えております。この点において彼らはわれわれをはるかに抜いてお
ります。」9)と言っているように,財政改革のみを目標にかかげるL.F..RいA.の
ようなものは,その数において少数派であったことが推測される。
各地の財政改革協会の活動については私ははとんど知らないが,たまたま手
許にある『エディンバラ財政改革協会論集』10〉をみると,この協会は,1848年12
月27日,エディンバラ 市長ウイッガム(JohnWigham)の呼びかけで開かれた集会において設立された。会長は,チェインバズ(William Chambers)。協会
の目的は,経費の削減,税制・会計制度の改革を通じる「国家財政の全面的改
革」11)であった。したがって,この協会は,名実ともにL−F。RリAいと同様に財政
改革を課題とする団体であったといえよう。この協会の活動の詳細は不明であ
るが,『論集』は,L.F..RいAいの『論集』を素材に用いてはいるが,自らの文章
で12)陸海軍費,植民地経費,民事費等を分析し,年間1000万ポンドの経費の削
減が可能であると主張する。1さ〉税制改革については,「現行の租税体系はその負
担が不平等であり,産業(Tr・ade)を救済するにはかなり大幅な修正を必要とす
る」14)というにとどまっている。なお,エディンバラ財政改革協会は,当初から,
会計制度の改革を主張している点が注目される。15)
ところで,L.F.RA,.の初期の活動において注目すべきほ,なんといってもコ
ブデソ,ブライトらのマンチェスター派が展開した「国民予算」の運動を支援
したことであろう。コブデソは,反穀物法同盟の解散後1846年8月から1年余り大陸各地を漫遊
9)乃よd 10)77tlCtS〆theE城nbuナghFinancialRめ7mASSOCiation,Edinburgh,1849 11)乃揖,〔p2〕 12)たとえば,マンチェスター財政・議会改革協会が会員に配布した町財政論集』と比較せ よ。それはL.FRAの『論集』の表紙だけをとりかえたものである。乃”α乃C衰J7元cよS PJV5川おd わ 爪先/〉血,等 〆 伽 AねJ汀毎sナビ′ 凡JJ〃JJC由/のJd 鞄タ了由桝g〃由JI・斤所)用J Associdtion,Manchester,June,1850,をみよ。なお,エディンバラ財政改革協会の『論 集』には,‘WC’というイニシアルがあるが,会長自ら執筆したものであろうか。 13)7ねcね〆■娩βE成乃∂〟曙ゐ苅わα循C払J皮めγ例A−S・SクC由Jわ形,No・ⅠⅤ,p小24 14)乃揖,NoI,〔p2〕 15)乃昆,p3;No“ⅠⅤ,p.23−J4β− 香川大学経済学部 研究年報 22 ノクβ2 した。そして,1847年10月に帰国すると,「自由貿易の帰結としての財政改革と 経費節約」16)にとりくむ決心をする。しかし,彼が具体的行動をおこしたのは, 翌年の4月になってからであった。周知のように,1848年は「2月革命」を起 点とする政治的動乱の年であったが,それはイギリスにおいてはロンドンにお ける4月10日のチャーチィストの大詰願集会で頂点に達した。コブデソは,ま ず議会改革にとりくむ。彼は,4月13日にロソドンで発足した「小憲章」運動 の代表者の1人となり,同月末マンチェスターに赴き反穀物法同盟のかつての 指導者たちに「小憲章」の支持をうったえた。17) L小F。R。A.は1848年4月20日に発足したが,翌月コブデソほ,リグァプ・−ルの ワイリー(Alexander’Wylie)あての手紙において「私は,すくなくとも1000 万ポンドの経費を削減し,それを消費税と関税の減税にあてることに賛成いた します。」18)と書く。したがって,彼は,同年末に発表する「国民予算」の構想 をその頃すでにもっていたのであろう。そして,財政改革運動推進の担い手と して彼が期待をかけたのがL、.FいR、A.であった。19) したがって,コプデソは活動を再開した当初から議会改革と財政改革の双方 に関心をもち両方の運動に関係していたと思われる。しかし,これまでの通説 は,コブデンは財政改革のみを重視したとする。この説の代表者はリード氏で あるが,氏は「ブライトが議会改革を第一・に.かかげたことは正しかった。コブ デソほ,1848年以降数年間にわたり財政改革が議会改革をおこなわずに達成で きるという誤った考えをもっていた。」20)という。コブデソは議会改革の方法に
16)Letter from Cobden to W R Grey,May15,1848,inJMorley,771e L的 qf 居室cゐαナガCわ∂滋乃,London,1896,VolⅠⅠ,p23
17)しかし,ヒュームの提出した「小憲章」の動議は,同年7月,庶民院において圧倒的多 数で否決された。3月加Sαナ戌C,226.Tuly6,1848,をみよ。
18)Letter fromCobdento AWylie,May13,1848,inWNhCalkins,‘A Victorian FreeTradeLobby,,771eEconomicLhioryReview,SecondSeries,VolⅩIII,No,1, 1960,p.99,fn3 19)コプデソは,ブライトあての1848年末の手紙において「人と金の帝では現在十分とはい えないでしょうが,それ〔LFRAけ〕ほ〔反穀物法〕同盟が結成きれた1年後と同じ位 有望であります。それはわれわれが3年間運動して達成したよりもはるかに深く世論を 掌握しております。」(LetterfromCobdentoBright,December’23,1848,inMorley, 砂Cよg,p38.)と書き,LFRAの将来を嘱望している。 20)DonaldRead,CobdenandByiihi,London,1967,pp”152,153
リグァプ・−ル財政改革協会について −J49− ついてのちにブライトと論争するようになるが,私のみるところ,彼は当初か ら財政改革と議会改革を結合していたのである。その理由の第1は,コブデソ の具体的行動である。彼ほすでに.みたようにL.F小R、.A.の運動に注目する以前 にヒュ・−ムらの「小憲章」の運動に参画していた。そして,議会改革の具体的 戦術である,彼の持論の40シリング自由土地保有運動が「国民予算」とともに, 1849年1月のマンチェスタ、−・大会において提示されている。この時には,コブ デソとブライトほともに壇上に立ち,共同歩調をとることを誓ったのである。 第2に,1849年4月13日のり、−ズの演説会に・おいてコブデソは,有権者になるに はカウソティにおける40シリング自由土地保有者になるのが近道であることを 力説し,これこそ財政改革成功の条件であると言っていることがあげられる。 「彼〔コブデソ〕は財政改革/を支持するとともに,議会改革をも支持した。そ して,この両者を達成する手段として彼が熱心に推奨したのほ.,この両者を支 持する決議をおこなって満足してはいけないのであって,大衆が非常に実行し
やすいと思われる手段−40シリング自由土地保有−を用いること(大
きな歓声)」21)であった。なお,ブライトについて一・言すれば,彼も財政改革に 大いに興味を示すとともに,「これまでの〔政府の〕政策は,できるだけ財政支 出を切り詰めるというのではなく,収入をすべて使うというやり方でした。こ れは,納税者が議会を構成していないところから生じる当然の帰結であります。 わが国の代議制度はごまかしであり,それを変革せずに政府の浪費を是正する ことができるかどうかは疑問であります。」22〉とのべ,財政改革の条件として議 会改革が不可欠であることを強調した。後に頗在化した議会改革をめくやる2人 の見解のくいちがいは,議会改革が40シリング自由土地保有の拡大を通じて達 成できるか否かということをめぐっでであったのである。23) ところが,L、F.RいA‖は,発足当初の「目的」にも明示しているように政治的 21)‘FinanCialReform,Mr CobdeninLeeds’,771e肋ibTNews,April14,1849 22)これは,1848年12月20日開催のL F.RAの月例集会において披露されたブライトの 手紙の一・節である(0揖5βタ克ちNo.6,p‖7.)。なお,この集会においてコプデソの「国民 予算」が発表された。 23)GM。Trevelyan,77wLifbd.hhnByighちLondon,1913,p185;Morley,(砂CiL, pp“53,56−57−J50− 香川大学経済学部 研究年報 22 ノク♂2 には中立の立場を保持し,議会改革の運動に加担することを拒否した。1849年 4月の第1回年次大会において,ブロドリッブはいう。「これら〔財政改革〕協 会の多くは議会改革の問題を財政改革のそれと関連させることが必要であると 考えております。この点において彼らはわれわれをはるかに扱いております。 …・しかし,この協会ほ財政改革のみを目的に結成されましたので,評議会は, ……・当初の決定にのっとり現時点においては綱領の変更を会員諸氏に求めるこ とはいたしません。」24)また,同年11月の集会において議長をつとめたイェーツ (Richard VいYates)は,「1つお伝えしなければならないことは,国民の福祉を 監視サーるために設立された他のいくつかの団体,特にロンドン財政・議会改革
協会(LondonFinancialReform and Par・1iamentary Reform Association)
から共同行動をとることを求められているということであります。われわれは, この団体の成功を心からいのります。しかし,わが評議員諸君は財政改革のみ を推進するために任命されましたので,……当初の計画を堅持することが賢明 であると考えます。」25)といっている。なぜL.F.R爪A.がこのようにがんこに議 会改革の運動に参画することをこばんだのか。この点について私自身明確な答 えを現在もってはいないが,はっきりしていることは,彼らも,1832年以降も 政治権力が地主階級の手中にあり,「〔政治〕体制自体ほ変わっていないのであ ります。」26〉といっていることである。それでもなお自らの運動を財政改革にの み限定した理由の第1は,議会改革という先鏡な政治課題をかかげることによ り組織自体が混乱あるいは分裂することを避けようとしたこと,第2は,彼ら の究極の目的は財政改革を通じる「自由貿易」の実現という経済問題にあった のであり,政治権力の奪取をねらう運動ではなかったということ,第3は,自 らの利害を政界に反映するチャンネルとして,ウィリアム・グラッドストソ,
24)‘AnnualReport,,OldSeries,No16,pp“1l−12
25)・MeetingoftheFinancialReformAssociation,,77wManchesier肋mineY;No−
vemberI24,1849.なお,「ロソドソ財政・議会改革協会」とは,のちにみるように同年1 月に発足し,ウォームズリー(SirJWalmsly)を会長にいただく「首都財政改革協会」 の後身である「首都議会・財政改革協会」(MetropolitanParliamentaTyandFinancial ReformAssociation)をさすものと思われる。 26)1849年11月22日に開催された上記の集会におけるプロドリップの発言(0〟 5β痴s′ No22,p11.)。リグァプール財政改革協会について −J5ユー ローレンス・へイワース等の代議士を擁していたことがあげられるであろう。27) 要するに,L.F‖RいAは,改革の基本戦略においてマンチェスター派とことな っていたのである。しかし,コブデソはLリF一.R.A∴を議会改革運動にあえて引き ずりこもうとはせず,最初からもっぱら「国民予算」叫・本やりでL.F‖R.A.に接 近したのである。 ⅠⅠⅠ コブデソほ,「国民予算」28)を1848年11月に作成し29),それをもって12月7日 にリグァプールに行った。そして,そこでロバートソソ・グラッドストンをは じめL.F・R。A…の評議会の面々と会いその支持をとりつけるとともに,「国民予 算」をL.F.RけA.の会長であるダラッドストソあての書簡の形で発表すること に同意した。30)1朗8年12月18日付ロンドン発,グラッドストンあての手紙ほ,リ 27) L.FRAと似た路線をとるものに『エコノミスト』があった。同誌は自らの立場をコ ブデソ,ヒュームらの「新しい改革運動」と対比して,「われわれは行政改革(administra・ tivereforms)を直疲めかち幼時た要求するのにたいして,彼らはそれを選挙権の拡大と 代議制度の変更を通じて実現しようとする。」(771eEtonomisちMay27,1848,p.589傍 点は原文イタリック。以下においても,特にことわらないかぎり同じ)という。なぜ『エ コノミス†』は議会改革運動に加担しないのか。その理由の第1は,面白いことに,コブ デソが率いた反穀物法同盟に.範をとったということである。「彼らの目的は現実的な経済 改革であった。それ〔同盟〕はチャーチィストの諸要求にかかわり合うのを拒否した。そ れはすべての党派と距離をたもったのである。」(∠∂嶽,p5抑)そして,「穀物法の廃止 がそれ〔選挙権の問題〕ぬきに達成されたのなら,植民地や陸海軍経費の削減,そしてあ らゆる部門の財政改革(fiscalreform)がそれぬきにおこなわれないことほなおきらない であろう。」(よ∂よd)第2の理由ほ,「小憲章」の実効にたいする疑問である。「選挙権改 革論老が明示する4項目のどれがどのように実際に作用するのか予測がつかない。われ われには結末がまったくわからない。」(オ∂査d,p591)そして,「最後に,それは大衆に 幻想をふりまくからわれわれは選挙制度の運動に反対するのである。」(路辺.) このような『エコノミス†』の主張がL.FRAのそれとまったく同じであるのかどう かはなお検討を要するが,『エコノミスト』の挙げる理由がL“FRA.の改革路線を理解 するのに参考になるであろうことは確かである。 28)なぜ「国民予算」と称するのか。「これはもう−・方が大臣の予算(MinistrialBudget) とよはれるのにたいして国民の予算(NationalBudget)とよはれる。後者は国民の運命 に関係するのにたいして,前者は大臣たちの運命に関係する。」(OJ♂滋毎払No。6,p.1) 29)LetterfromCobdentoBright,November6,1848,inMor・1ey,PPcit,pp.34−35 30)LetterfromCobdentoMrsCobden,December8,1848,inibid,pp.31−32
香川大学経済学部 研究年報 22 −J52− ノ紺2 ヴァプールのコンサート・ホールで開催されたL.F、R.A小の月例集会(同月20 日)においてグラッドストソ自身によって朗読された。 コブデソは,書簡の冒頭においてL.F、R、A小のかかげる二大目的,すなわち間 接税を直接税にとってかえること,ならびに.国家経費の節約のうち前者はリグ ァプールその他の若干の大商業都市以外には支持する世論がすくなく実現は困 難だとしてしりぞけ,それとは別に消費税と関税の減税1148万ポンドを提案す る。そして,この減税のための財源を捻出するために,1848年の経費5460万ポ ンドを1000万ポンド削減し1835年の水準に引き下げる。紺1000万ポンドの経費 削減のうち,850万ポンドは軍事費の削減によるが,このような大幅な軍事費の 削減は,まず第1に,外交において「外国の紛争に介入しないという原則」32)を とること,第2に,現行のような植民地保護の政策をすて植民地に自治をあた え「彼ら自身の民事ならびに軍事の施設の経費はすべて負担」33)させること,第 3に,銃剣によって国内の治安を維持する体制をとらないことによって達成さ れるとする。なお,残りの150万ポンドは徴税費の削減等によっておこなう。コ ブデソは1000万ポンドの経費の削減の他に,これまで動産のみに適用されてい
た相続税(probateandlegacyduty)を貴族,地主の所有する土地等の不動産
にも課税し150万ポンドの増収をはかり,1150万ポンドの財源をうる。34) 経費削減と増税によってえたものを財源として,第1に,茶関税の減税,木材関税の廃止等の関税の減税一
総額346万ポンドーを実施し,第2に,
消費税の減税をおこなう。その第1は麦芽税の廃止(426万ポンド),第2はホ ップ税の廃止(42万ポンド)である。これらは,「借地農との連帯を確保する」35) ためにおこなわれる。第3に,石鹸税の廃止(85万ポンド),第4に,紙税の廃 31)コブデソは,1835年度が目標とされたのはその年度の経費が最低水準だったからであ るという(5柳Jβ椚g乃fわ肋β此花Cゐβざおγ政雄椚∠捌γα那仁乃一別eS,JanuaIy13,1849)。 771eEconomist,13January,1849;77w77mes,March4,1850,もみよ。 32)0んブ滋わぉ,No.6,p.11 33)乃揖,p12 34)一・覧表の「国民予算」においては,経費の削減が「1050万ポンド」,相続税の増税が「100 万ポンド」となっているが(よ∂査d.,p.10‖),これはミス・プリであろう。 35)乃よ♂−ヱ丘ヲー リグァプ・−ル財政改革協会について 止(72万ポンド)をおこなう。これら4つの消費税の減税総額は625万ポンド。 その他にり 窓税,広告税を廃止し,減税合計額は1148万ポンドとなる。以上が コプデンの「国民予算」の骨子である。 「国民予算」の特徴の第1は,国家経費を2割ちかくも削減し13年前の水準 に引きもどすということである。しかし,これを実現するには外交政策や植民 地政策の大幅な変更が必要であり,一・朝一・夕に.は実現されないであろうことは 容易に.想像される。マグレガ、−の財政改革36)を支持するフィッブスは,コブデ ソの経費削減論を現状を無視ないし忘却した粗雑な−・般論ときめつける。なぜ なら,それは「13年もへだたった2つの時期の経費を,人口の変化のみならず 議会の了承のもとに地方団体から国家に移された経費項目の変更にもすこしの 考慮を払うことなく単純に比較するという,大帝国の財政をみるにはあまりに. も狭陰な視点」37)にもとづくからである。コブデンの経費削減論とマグレガ、− のそれほその論拠においてはとんど同じであるが,削減の金額は前者が後老の ほぼ2倍であった。それほどの経費の削減を提案しようというのに.,コブデソ の場合その計算は腰だめ式であり,緻密であるとはいいがたい。コブデソほ1835 年の水準に経費を削減できる見通しを本当にもっていたのであろうか。実は彼 は,1849年4月11日のウェイクフィールドの演説において,「思い切って申しま すと,私は,1835年の水準に経費を削減する意見は決して多数派にはならないと 考えております。」38)と言っている。 これほ彼の「財政改革」の動議が庶民院で 否決された後の発言であるが,それが本心であれば,コブデンは「国民予算」 の実現をめざすというよりほ,それを一つの運動として位置づけていたといえ るのではなかろうか。 第2の特徴は彼の減税政策にみられる。これは,第1に,LF.RいA.の税制改 革の基本戦略とくいちがうものであるということ,第2に,その内容も「社会
36)JohnMacGregor,nnancialRdbrm.1AL,etterio the Citizens d−GhlSgOW,.如m ルゐ乃肋cGタ聯れ〟P…・,London,1849
37)Edmund Phipps,A」鞄w Wbrds on the 77me Amieur Budgets d Cobden, MacGYqOrandⅥ毎on,London,1849,p。8
ーJ54− 香川大学経済学部 研究年報 22 J。クβ2
のすべての階級,利害関係者の支持」39)をうるように作成されているというこ
とである。この点ほ当時周知のことであったらしい。『エディンバラ評論』は,
「西ライディソグ選出の議員〔コブデソ〕は,複数の釣り針で魚をつろうとして
いる。」40)と皮肉っている。したがって,コブデソの減税案には政治的配慮がき
わめて濃厚であったということである。第3に,コプデソはすでにのべた理由にもとづき「国民予算」においては議
会改革をおくびにも出していないということがいえる。
要するに,「国民予算」ほマンチェスター派唯一・の財政改革案であったが,41〉
それに.は理論的な粗雑さ,詰めの甘さがみられるとともに.,政治的配慮が優先
していたように思われる。ところで,L、F.R‖A‖の月例集会は,「国民予算」の実現にむけて全力をつく
すという決議を採択した。
明けて1849年の1月10日,今度はマンチェスタ・−の自由貿易ホ、−ルで8500人
の聴衆を集め,財政改革をめざサー・大決起集会が開催された。42)リヴァプ1−ル
からはL.F.R.A小の評議員の1人のファーラl−(RichardFarrer)他1名が出
席していたことが確認される。議長ウィルソソ(GeorgeWillson)の挨拶のあと,コブデソが立ち上がり,
「この集会はリグァプール財政改革協会やその他の団体と協力して,国家経費
39)0ね「ふ汁ねS,No6,p9コプデソ自身1848年11月16日何のブライトあての手紙でつぎ のようにいう。「茶〔の減税〕は,商人と田舎の老婦人すべてを引きつけることができま す。同様に木材は造船業者を,麦芽とホップは借地農を,紙と石鹸はスコットラソドの消 費税反対派の人々を,窓税はロンドンやバースなどの富商(Shopocracy)を,広告は新 聞を,です。」(MorIley,砂Cit,ph35) 40)Anon,‘FinancialProspects,1849’,772e.吉成一nbu7gh Review,April,1849,VoI LXXXIX,No・CLXXX,ph531,議会においても,保守党のドラモソド(Henry Drum・ mond)議員ほ,「お土産をもってくる敵は信じてほならない。」という諺を引用して,コ ブデンやブライトの甘言にのらないように警告している(3助乃紛吻CJI,1299Feb・ ruary26,1849).41)Francis WHirst ed,ダねe 7ねde and Other魚ndamenおIDoctrihes qf.ihe ManchesterSchooL NewYor・k(Kelley),1968,PartIV,をみよ。
42)‘FinanciaiReform and Retrenchment’,拗kment to the此花Chesier助miわer
and Times,January13,1849‘FinancialReformh GreatMeetinginManchester’, 了Ⅵβ罰肌βS,.JanuaTyll,1849,もみよ。
−J55− リグァプ・−/レ財政改革協会について をすくなくとも1835年の水準に削減するとともにより一層平等で徴税費のかか らない租税体系を実現することを決議する。」という決議案を提案した。彼は演 説の大部分を軍事費と植民地経費の削減に費やした。したがって,それは,翌 月の庶民院における「財政改革」に関する演説の予行演習のようなものであっ た。コブデソの提案ほ,南ランカシャ1一選出の国会議員ヘンリ1−(Alexander Henry)が支持して,異議なく可決された。しかし,この集会はこれで終わらな かった。つづいてギブソン(Thomas Milner・Gibson)議員が立ち,「全国民の 一・致協力した努力により課税の大幅な軽減に成功するであろうが,経験の示す ところによると,代議制度の改革によって庶民院にたいする直接的で完全な支 配を納税者が獲得するまでは,経費節約が政府の慣行とはならず,また,運動 を継続する必要もなくならないであろう。」という決議案を提出し,議会改革の 遂行が財政改革成功の条件であることを強調した。そして,第3番目に,ブラ イトが立ち,貴族の支配する政府を改革し,「民主的要素」を議会と政府に注入 するために,反穀物法同盟がおこなったのと同様の方法,すなわち「40シリン グ自由土地保有者の獲得による有権者の増大ならびにバラとカウソティにおけ る〔有権者の〕登録にあたっては十分に注意すること」という決議案を提出し た。そして,ギブソソとブライトの決議案もそれぞれ可決された。したがって, この大会においてはマンチェスター派の三羽烏コブデソ,ギブソン,ブライト がそろい踏みをし,「国民予算」の実現とそれを可能にする議会改革,つまり40 シリング自由土地保有者の増大を決議したのである。 さらに,コプデソやウォ、−ムズリ・−(SirIJoshuaWalmsley)らの要請をう け,1月29日,ロ:/ドンにおける急進主義者の長老で80才になんなんとするプ レイス(Francis Place)が召集した集会において,首都財政改革協会(Metro・
politanFinancialReformAssociation)が発足した。宣言文ほ,「その目的は,
財政のあらゆる分野にみられる悪弊の除去を援助することであるが,その課題 を暴力によってではなく理性によって達成しようとするものである。」4き)とい う。当日採択された諸決議をみると,経費の節約をおこなうこと,そのために43)MetropolitanFinancialReform Association,AddYeSS and Dech2YUtion;Ruねs α乃d O,1ね循;度合so加ゎ乃.S,London,〔1849〕,〔p3〕
ーJβ6− 香川大学経済学部 研究年報 22 ノダ♂2 は庶民院が改革されなければならないこと,具体的にはカウソティにおける40 シリソグ自由土地保有者の増大,バラ等における有権者の完全な登録をおこな うことであった。したがって,この協会の路線はマンチェ・スタ・一大会の再版で あったといえよう。44)なお,協会の会長にはウォームズリ、−・が就任したが,この 協会の後身である首都財政・議会改革協会の評議員にはコブデソとブライトが 含まれていた。45) かくて,コプデソは,リグァプ・−ル,マンチェスタ・−,ロンドンを駆けめく小 り,「国民予算」実現のための世論の糾合に努力をかたむけたあと,1849年2月 26日,庶民院に「財政改革(FinancialReform)」の動議を提案した。46)彼は演 説の大部分を,国家経費を「可及的すみやかに」47)1835年の水準に削減するには どのようにしたらよいかにあてた。削減される経費の中心は軍事費であり,そ の根拠は「国民予算」においてすでに.のべたものの繰り返しであるが,あえて 再説すればつぎの通りである。第1は,イギリスが不干渉政策をとれば今日ほ ど外交関係の安定した時代はないということ。「もしイギリスが島国の利点を いかし,自らの事柄のみに関心を限定し他国との不必要かつ無分別な紛争にま きこまれないならば,今日ほど戦争のおそれのない時代はありません。外交面 のわが国の現在の政治状況は止水のように平静であるといえましょう。」48)第 2は植民地政策の変更である。コブデソほ,植民地における文官や武官の地位 が貴族の子弟のかっこうの就職口となっている現状を批判し,「わが国の大多数 の人々は,通商という手段によってでなければ植民地から利益をうけることが できません。冗職や任官によって利益をうける人々はごく少数です。」49)とい
44)NicholasCEdsau,‘A Failed NationalMovement:the Parliamentary and Fi− nancialReform Association,1848−54’,Bulletin qf’ihelnstitute(げmsbricalRe− seanh,Vol.XLIX,Nol19,May1976,p113
45)1849年5月2日付のMetropolitan Financialand Parliamentary Reform Associa− tionのビラをみよ。 46)議会の演説でほ,コプデソは「国民予算」という言葉を一度も使っていない。 47)3肋nsaタ攻CII,1234February26,1849コプデソは1000万ポンドの経費の削減を 5年以内に実現したいと考えていた(LetterfromCobdentoGCombe,February8, 1849,inMorley,PPc盆,p.42)。 48)3肋乃ざαタ玖CII,1226 49)乃∠dリ1228
リグァプール財政改革協会について −J57− う。植民地との交易を促進する自由貿易体制をとる今日,植民地に軍隊を駐屯 させる必要はない。したがって,現在の軍隊の3分の2ほ削減しうる。「自由貿 易こそが経費を1835年の水準以下に削減できるようにすると私は考えます。」50)
ただし,コブデソがいう「植民地」は,ジブラルタルやマルタではなく,オー
ストラリア,ニュー・ジ1−ランド等の移住植民地であることに注意する必要があ る。第3にほ,国内の治安を維持するために.も軍隊や警察は必要ではないとい うことである。なぜなら,「国民は政府にたいする敵対的行動を慎み,完全な忠 誠と秩序順守の態度を示している。」51)からである。 コブデソの「財政改革」の動議をうけて答弁をおこなった閣僚は,ウッド(SiT Char・1esWood)蔵相であった。彼ほ,自分はど経費の削減に関心をもっている 者はいないけれども52),コブデソの提案は受け入れるわけにほゆかないとい う。「国内における国民の生命と財産の保護と,わが国のような一天帝国の農業, エ業および商業の全面的発展にとって必要と考えられる海外における通商の保 護とに十分な注意を払うならば,尊敬する紳士〔コブデソ〕が提案した規模の 経費の削減を,1年や2年で実施することはできない。」S3)なぜなら,イギリス の海軍の増弓垂は,1835年以降における中国との交易の拡大やニュ∴−・ジーラン ドのような新たな植民地の領有によるからである。「その年〔1835年〕には東半 球においてわが海軍を配置する領域は存在しなかった。その時の中国との交易 は主として東インド会社がおこなっていた。しかし,今日,中国との交易を保 護するためにその地域の5港それぞれに海軍を配置しなければならない。また, ニュー・ ジーランドがわが領有する植民地となった。したがって,自由貿易こ そが植民地保護の要請にたいする回答になると考える尊敬する紳士(コプデソ 氏)に賛成することはできません。私(蔵相)が思うには,わが通商が拡大す 50)乃∠dリ1229 51)乃去d,1230 52)ウッドによれば,昨年度に此し今年度は予算額において海軍費で73万ポンド,陸軍費で 38万ポソド,軍需費で34万ボンtr,合計145万ポンドが減額された。民事費は本年度は削 減されなかったが,昨年度は228万ポンドも減額された。彼は,「これこそ政府が経費削減 に無関心でない証拠である」(査∂よd,1248−1249)という。 53)乃諺,1237香川大学経済学部 研究年報 22 ノダβ2 −J5β−
ればするはど−
イギリスの産業によって領有される地点の数が増大すれば するほど一 世界のどの地域にいるかにかかわらず,イギリス臣民にたいす る保護の要求が増大します。もちろん同様な議論が海軍のみならず陸軍の増大 にもあてほまります。」54〉なぜならイギリス陸軍の勤務条件ほ諸外国と比較し て特に厳しいからである。「部隊はある時はカナダの森林の中にいるかと思う と,つぎは西インド諸島の熱帯の炎熱にさらされ,また,アジアのむせかえる 平原にいる。年々歳々彼らは酷寒から炎暑へと移動して任務をはたしているの である。」55)したがって,「イギリスの兵士に十分な休養をあたえるためにも陸 軍の増加は必要であった。」56)コブデンは,自由貿易体制のもとで通商をおこな うには軍隊は不必要と主張サーるのにたいして,ウッドほ,自由貿易が発展すれ ばするほどそれを保護するために陸海軍は増強されなければならないと反論す る。ウッドは,植民地−
カナダやニュー・ジ・− ランドをさす一 についても, イギリスの過剰人口の移住先として重要であるとともに,「原料の一・大供給地で あるとともに製品の山大需要先」57)としても必要であるとする。 コブデソは国内の治安維持には軍隊は不用であるとしたが,ウッドはその見 解も批判する。「私(蔵相)が思うに,生命の保護と同様にあらゆる種類の財産 と資本の保護を確保したいのなら必要な経費をおしんでほならない。製造業界 (manufacturinginterests)に結びついている紳士諸君は,暴動や略奪によって 最初に被害をこうむるのは自分たちであるということを知らなければならな 54)乃云d,1239−40。ほぼ同じ論旨であるが,『ブラックウッド・エディンバラ雑凱の匿名氏 も,「地球上の広大な領土を保有しているのに,それを少額の経費や少人数の兵士では防 衛できない。」(Anon,‘MrCobden on the NationalDefences’,BhlCkwoodなEdin−bu7ghMLmZine,VolLXIII,No・CCCLXXXIX,March,1848,p272)とのべ,コプデ
ソの国防論を手厳しく批判する。 55)3月ぉ粥SαγdC玖1242 56)乃諺 57)撤d,1240植民地駐屯軍は原料獲得のためであるというウッドの主張を批判して,ブ ライトは,「兵士を駐屯させているからわれわれは多くの羊毛を入手しているのか○アメ リカの沿岸に艦隊を派遣していないと原綿を多く入手できないのだろうか。海外に軍艦 を配置していないと世界の各地から穀物がこの国に入ってこないのだろうか。それは誤 った考えである。」(左∂Zdリ1296)という。−J59− リグァプール財政改革協会について
い。また,労働者たちも,暴動的行為によ、つて産業に加えられた全般的打撃や
工場の焼きうちによって被害をこうむる最初の人間に入るであろう。」58)この
ことほ実際に昨年経験したところであり,軍隊の保護により労働者が失業する
のをまぬがれたとする。以上のようにウッド蔵相は,経費削減を要求するコブデソの3つの論拠をそ
れぞれ批判し,自由貿易体制をとる今日といえども軍事費の削減は基本的に・は
不可能だとしたのである。ところで,コブデソは「国民予算」に.おいて経費の削減によってういた財源
を用いて減税を実施しようとした。しかし,彼は,議会においては具体的な減
税にはとんど言及せず,「農業であろうと工業であろうと労働と資本の全面的利
用と発展にとって障害となるすべてのものをできるかぎり除きたい。」59)とい
うだけであった。しかし,ウッドは,コブデソやL..F・R‘A.の減税要求にたいし
ても反論をくわえる。第1。過去20年間に2000万ポンド近い減税がおこなわれ
たのにたいして増税は同じ期間に980万ポンドであった。したがって,実質減税
は1000万ポンド以上に達する。したがって,「私は,今日,どういう論拠で全国
の各種の団体があたかもはじめてのように途方もない租税負担が存在すると主張するのか理解できません。」60)第2。所得にしめる税負担の割合をみるとイギ
リスの方がフランスよりも軽い。「この国の個人の所得とフランスの個人の所得
をみると,この国の所得にたいする租税の比率はフランスのそれより低いと私
は信じております。」61)要するに,ウッドは,実質減税においても相対的税負担
においてもイギリスの租税が重いというコブデソらの主張はあたらないという わけである。このウッドの反論にヒュ、−・ムは反批判を加えるが,それは税収の絶対額が増
大したということにつきる。すなわち,1837年の税収は5060万ポンドであった
が,その後それは漸増して1848年には5800万ポンドとなった。「毎年人々のポケ
58)乃云d,1243−44 59)臓軋1231 60)乃≠d,1250−51 61)乃よd,1250香川大学経済学部 研究年報 22 一J6リー ブタβ2 ットからとられる〔税〕収入は増加し,彼らの負担は重くなっている。」62)した がって,ヒュームの反批判はウッドにたいしては的はずれであったといえよう。 ブライトによれば,コブデソの意図は「われわれがフランスより租税負担が 重いとか軽いとかを証明しようとするものではない」63)という。察するに.,マン チェスター派は相対的租税負担論を意識的に回避ないし理解しようとしなかっ たと言えるのではなかろうか。 さて,保守党のある議員は,マンチェ・スタ、−・派の経費削減論をつぎのように 批判する。「マンチェスター派の経費節約論はユ・−トピア的性格の−・般論に根拠 をおいています。」64)たしかに彼らの外交論,平和論にはそういう側面があるこ とは否定できない。自由貿易体制の発展により各国が経済的交渉の網の目で結 ばれると,平和がもたらされるという。65)これはブルジョア的楽観論のように もみえるが,マソチェスタ一派のギブソソ議員によると彼らの貴意ほつぎのよ うなものであった。「私の意見では,財政力こそ陸軍や海軍の空虚なパレ・−ドよ りいったん緩急の時にはより重要であります。」66)今日イギリスは8億ポンド の国債をかかえ,再び戦争を遂行できそうにない。「……‥それ故,平時に財源を 扶養すること,すなわち国民のポケットにできるだけ多くの貨幣を残して増殖 できるようにするのが賢明でしょう。この効果は,貿易(tr・ade)を拡大し,商 船の数をふやし,したがって将来海軍に供給される水兵を増大し,必要ならば 戦艦をつくる工場や技師を増大させることにあります。もし平時に国民のエネ ルギ、−が消耗してしまえば,戦時に大規模かつ長期にわたる底力を発揮する余 62)乃よdリ1261 63)乃査♂リ1294 64)Ibid,128&ア1−カーr(Urqunart)の発言。 65)JudithB.Williams,BYitishCommeYCialR)肋yand7ねdbE*ansion1750−1850, London,1972,p。394.コブデソは,1849年1月のマンチェスター集会において,「われわ れが10bo万ポンドの軍事費を削減したからといって,他の国々がわれわれを攻撃するこ とはないであろう。むしろ逆に他の国々がわが国の例にならうと確信しております。」 (拗Iementio theManchesierBh2minerand77mes,January13,1849l)といって いるが,フランスやアメリカがイギリスに呼応して軍縮に応じるという確信はどこに根 拠をおいていたのであろうか。なお,Anon.,‘Mr.CobdenontheNationalDefences’, q夕.cれpp小269,274,をみよ。 66)3助乃Sαク或CII,1286
一J6ユー リグァプ・−ル財政改革協会について 地がなくなりま
和論は非戦論ではない。彼らは,帝国の利益と安全を守るのに必要な軍備まで
削輝しようとはしない。私のみるところ,ウッドの外交論は,いわゆる「自由
貿易帝国主義」の卒直な表明であるといえるが,マンチェスター派のそれも「世
界の工場」となったイギリスの経済力を背景とする「自由貿易帝国主義」の別の側面を示しているといえよう。比喩的にいえば,登山道はことなるが,とも
に1つの山の頂上をめざしている2つの/く、−ティといえよう。いうまでもなく,
彼らのめざす山頂は,イギリス帝国の守護ということである。
コブデンの動議は即日採決に付され,反対275票,賛成78票で否決された。賛
成した議員にはブライト,ギブソソ,ブラウソ(W.Brown),ユl−アト(W
Ewart),へイワース,マグt/ガー,ウオ・−ムズリl−,それにチャー・テイストのオコソナー(F.0,ConnoT)らがいた。68)
ⅠⅤさて,マンチェスター派が推進し,L..F.R.A.が支援した「国民予算」(ある
いは「財政改革」)は大いに世間の注目をあつめたようで,種々の論評がおこな
われた。69)そこで,私が読むことができたニ,三の新聞,雑誌の評論を紹介し,
当時の評価をさぐってみたい。 67)乃諺,1286−87 68)リグァプ1−ル選出の2名の議員,か−ドゥェル(Edward Cardwell)とバ、−チ(Sir ThomasB.Birch)は反対票を投じた。これほコプデソの予想に反したことであったらし く,彼は「異変(“astrangeanomaly”)」とよぶ(77w T首mes,April12,1849)。 69)国際的にも注目された。たとえば,マルクスが編集長をしていた『新ライン新聞止は, 1848年12月27日の紙上で「国民予算」の紹介の記事をのせた(〃g〝β虎ゐe∠■乃ゐc鮎ゑよぉ喝, K6ln,den27Dezember,1848‖)。わが国でほこの記事は,『マルクス=エンゲルス全 集』(改造社版),第16巻,1931年,351−354ページ,においてマルクスの執筆になるもの (Ⅰ・ドゥラーソの『マルクス・ビブリオグラフィー』による)とされて以来,アドラッ キー版全集を底本とした㌻マルクス=エンゲルス選集』大月睾店,第6巻,1953年,6− 12べ−・ジ,においても同様な取り扱いをされたが,『マルクス=エンゲルス全集』大月書 店,第6巻,1961年,には収録されていない。香川大学経済学部 研究年報 22 −J成Z− J夕β2 (単位ポンド) 第1表 シュデコh」−ル別の課税所得の推移 シェアエールA シェアュれルB シュチュールC シェアエールD シェチュールE 合 計
壬…壬提) 60,130,330 38,396,143 31,121,525 35,886,439 13,642,162 179,176,600
壬…芸諾) 94,810,599 43,145,786 27,577,439 64,344,835 10,495,410 240,374,069
〔注〕各シェデュールの課税所得は両年の平均である。 〔.出所〕Anon,‘FinancialProspects,1849:77wEdinbu7ghReview,April,1849,VolLXXXlX NoCLXXX,p520 まず最初にホイッグ系の『エディンバラ評論』の匿名論文70)をみる。匿名氏はノーマン(GeorgeW.Norman)ではないかと推測されるが,租税負担を論
じるさいの正しい観点は所得と税額との比較だという。「唯一Lの其の比較は,賦 課された税額とそれを負担する財産(property)との関係である。それ以外の すべて〔の比較〕は観念的で根拠がない。われわれほ,イギリスの税負担が重いという通説がこの基準で判断した場合妥当性をもつのかどうか疑問に思
う。」71)もし税負担が過重であればイギリスの産業は発展しないはずであるの に,所得税が課税されるシェデュ・−/レごとの所得ほ.,第1表のように明らかに 増加しているのである。 軍事費に.ついて匿名氏は,「経費の増大を不可避にする改善があらゆる方面で おこなわれている。」72)とのべて,軍事費の膨脹を擁護するとともに,経費削減 を理由に植民地の放棄を主張する論者に反論する。「しかしながら,われわれは 富裕だからぜいたくすべきであるとか,不必要な税を課したり,俸給が過大で 仕事もない軍人や役人を養うことがいつまでも許されるとかいうのは,まった く誤っている。しかし,節約は慎重におこなわれるべきで,急いてほ↓、けな い。」73)「われわれは,リグァプール協会の諸決議や,2200万ポンドの経費のう ち800万ないし1000万ポンドの節約を即座に実行するという人々の性急な公約70)Anon“,‘FinancialProspects,1849’,772e Edinbu7gh Revibw,Apri1,1849,VoI LXXXIX,No.CLXXX
71)乃磨d,p519 72)乃諺,p524 73)乃去d,p520
−J63− リグァプ・一ル財政改革協会について よりは,誠実な政府の努力と任務の遂行に熱心な議会をより信頼したい。」74)か くして,匿名氏は,ラッセル政府を全面的に支持するのである。 穏健,保守を看板とする『タイムズ』75)もコブデソが主張する軍事費の大幅削 減に反対する。そして,「将官や提督の割合があまりにも多い,すなわちすくな くとも今日の必要度や緊急度にたいしてあまりにも多いということは真実であ る。しかし,これはヨーロッパ大戦の遺産の一つである。」として現状を擁護す る。コブデンは植民地に自治をあたえることにより植民地経費を削減できると するが,これにたいしても『タイムズ』は,「自治体で訓練をうけ,憲法の知識 をもち,政党の形態やル・−ルに通暁した人は,明らかに,世界のどこにおいて も自らを治めることほできる。しかし,コブデソ民は,カナダやケ仙プ,オ■− ストラリアに移住したイギリスの植民地人の多くがこの種の人間と考えている のであろうか。アイルランドの移住者が貿明かつ安全に自らを治めることがで きると信じているのであろうか。」とのべ,植民地人には自治能力がないことを 示唆する。 「自由貿易」を標模し産業階級の利害を代弁する『エコノミスト』は,早く から国家経費の「其の節約」76)を主張するとともに,財政改革運動を支持した。 たとえば,L¶F.R.A.の第1の目的については,「『適正な効率』が実際なにを意 味しどのような内容をなすかについては意見の相違があるであろうが,この目 的に関してほこの協会とくいちがう者ほないであろう。」77)また,第2の目的に ついても「この目的を実現する方法の中で最良のものはなにかについては見解
が大いにちがうであろうが,この目的自体については……誰も否定できな
い。」78)とのべ,L.Fl.R.Auの財政改革の基本方針を支持する。 『エコノミスト』は,コブデソの提案した1000万ポンドの経費削減について3回にわたり(1848年1月13日,20日,27日)検討をくわえている。1835年と
74)肋dリp530 75)7協β77桝鍔,ApI・il16,1849 76)771eEconomist,JunelO,1848,p.646778eEtonomゐちMay27,1848,pl589,もみ よ。 77)7協eEconomist,December30,1848,p.1469 78)乃よd香川大学経済学部 研究年報 22 −J6J− ブタβ2 1鋸7年の経費を比較すると,たしかに1008万ポンドの膨脹がみられ,それは陸・ 海軍費,軍需費,雑費の4部門の経費増加に帰せられる。そして,これら4部 門の経費増加の実態を検討すると,1008万ポンドのうち601万ポンドは臨時的経 費か1835年以前にはなかった制度の新設かによって生じたものである。したが って経費削減の対象となるのほ1000万ポンドではなく407万ポンドである。79) そして,この経費増加の原田は主として陸海軍費にあり,それは植民地の守護 に関係している。『・エコノミスト』は,植民地守護は自由貿易の到来とともにそ の根拠を失ったとして,80)植民地に自治をあたえよという。 しかし,『エコノミスト』も植民地の放棄はいわない。「『君たちは植民地をは うり出すのか』という問いにたいして,われわれは植民地を解放するのであり, 放棄はしないと答える。われわれは自治のあらゆる要素を含む完全に自由な政 府を彼らに授けるであろう。」81)要するに,『エコノミスト』が考えていた経費の 削減は400万ポンド程度ということである。 最後に,「国民予算」にたいするチャー・テイストの反応を『北の星』によって み,労働者階級の動向を推測したい。1849年1月22日,ロンドンはノッティン グ・ヒルの‘プリンス・アルバート・タグァー・ソ’で財政改革に関する中産階級 の集会が開催された。そこにオコソナーが出席した。彼が中産階級の集会に出 席するのはこれがはじめでであった。彼ほ自らの出席の理由についていう。「こ の財政改革運動(financialcrusade)には単なる経費節約条項以上のものがあ ると私ほみている。それは縁故採用の撤廃,〔行政の〕腐敗に終止符をうつこと によりホイッグ支配(Whigger・y)の息の根をとめることである。」82〉ォコソナー があえて中産階級の財政改革運動に参加したのは,それが反政府の要素をもっ ているとみたからであった。すでに.みたように,同月10日のマンチェスタ・一大 会においてギブソソは議会改革を財政改革成功の不可欠の条件とする決議を掟 79)77wEconomまsちJanuary20,1849,p。60 80)771eEconomisちJanuary27,1849,p,87771eEtonomゐちJunelO,1848,pり647,も みよ。 81)乃嶽
82)‘FinancialReformImportant Meeting at Notting Hill’,771e Northem Sおち JanuaIy27,1849
−J65− リグァプール財政改革協会について
奏した。オコソナ1−は,1月15日に開催されたLiteraryandScientificInstitu−
tionの集会でいう。「マンチェスター・の動き,特にミルナ1−・ギブソソの提案し
た決議は大変よろこばしい。それは非常に価値がある。……
この新しいコブデソの動きを後押しせよ。」83)そして,彼は,コプデソやブライトのとなえる40シ
リング自由土地保有を「イングラソドの未来の偉大さの等身大のポ、−トレイ
ト」る4)と.よび,高く評価する。そして,「私はすべての階級の労働者にリチヤ、−
ド・コブデソと財政同盟(FinancialLeague)のこの運動に反対しないだけでなく,持っているあらゆる手段を使って支援することを要請する(大きな歓
声)。」85)とのべた。そして,オ・コソナーは,2月26日の庶民院においてコブデソ
の「財政改革」の動議に賛成の票を投じたのであった。
しかし,その直後から『北の星』はコブデソの財政改革を批判する側に転じ
る。オ コソナ・−は1000万ポンドの経費の削減が実現されたとしてもたいしたことはないという。「われわれが思うに,経費の削減が最終的にいくらになろうと
も,その恩恵は労働者階級にまでは届かないであろうということである。利益
の大部分は下方に流れてゆく途中で上流,中流階級や商業階級によって吸収さ
れてしまうであろう。」86)たとえば,茶税。現行のポンドあたり2シリング2÷
ペンスの茶税をコブデソの提案のように1シリングの比例税率にしたとしても,「この減税の利益の分布は非常に不平等である。」87)というのは,労働者の飲
む茶ほ原価がポンドあたり1シリング3ペンスするのにたいして,金持ちの飲
む高級品の工夫茶(Congous)や照春茶(Hysons)は原価が3シリング6ペン
スしたり4シリング6ペンスしたりするから,茶の減税によって恩恵を大きく
うけるのは金持ちであるからである。また,窓税が廃止されても,「労働者はこ
83)‘Public Meeting.The Late Chartist Trials.一Chartist Organization’,77w ∧わ〟ゐβγ柁5おれ.JanuaTy20,1849 84)乃査d 85)乃プd 86)‘Parliamentary Review’,771eNoYihemSお71March3,1849オコソナーは,また, 1000万ポンドの経費削減といっても,それを3000万人の国民に頭わりにすれば1人年間 6シリング8ペンス,1日1ファージソグにすぎないともいう(‘ThePeople’sCharter’, 乃β〃0γ娩gγ搾S由ちMay26,1849.) 87)‘ParliamentaryReview’,77wNo7ihemSla71March3,1849
香川大学経済学部 研究年報 22 Jクβ2 −ヱ66’−
の税のかかるような家には一腰的に言って住まない。」88)さらに,麦芽税やホッ
プ税が廃止されても都市においては,「減税〔の利益〕は彼ら〔大醸造業者〕の
ポケットや小売人のポケットに入るのである。」89)したがって,租税負担を労働
者階級が軽減しようとすれば,結局,政治的発言力を議会においてもつ以外に
はない。「貧民にたいする租税負担の大幅な,そして永続的な軽減は,現在代弁
されている他の利害と同様に労働の利害が議会において十分代弁されるまでは,実現されないであろうとわれわれは確信している。」90)したがって,チヤ・−
テイストは財政改革運動から身をひき,自らの運動の原点に立ち帰り,「人民憲
章」の実現にむけてすすむことが必要であった。
オコソナーほ,1849年5月26日何の『北の星』の冒萌の論説「わが同志へ」
において,財政改革運動に見切りをつける旨を宣言する。「私が減税問題を即座
に,そして今後とも実行をせまられている問題と考えていた間は,それを,腐
敗をなくし縁故採用に終止府をうつ手段として歓迎していた。しかし,それが
罠の餌であり,首相が適当と判断した時に実行に移されるべく彼の一存にゆだ
ねられていることが分かった時,私ほ.その実現の望みをすててしまった。諸君
はまやかしの運動に再び加担しているわけであり,その路線の結末,必然的帰
結は,諸君が財政改革のために憲章の原理せ放棄することになるであろうとい
うことである。」91)「罠の餌」とは4項目からなる「小憲章」のことであるが,
オコソナーは,5月23日,‘フェニックス・タグァーゾにおいて開かれたチヤ・−
テイストの集会においていう。「四足獣〔小憲章〕は財政の罠にしかけられた政
治的餌であります。唱導者たちは減税が実現されると,狐のように・…・『だま
れ,これ以上なにがほしいのか。われわれは財政改革実現のための政治力をは
しいと思ったにすぎない。今やそれがなくても成果〔減税〕は手中にした。こ
れ以上なにがはしいのかね。』というでありましょう(拍手と笑い)。」92)そして,
このようにしてチャ、−・テイストがだまされたのはごく最近では1841年であった
88)乃よd 89)乃まd 90)乃よd 91)‘TotheOldGuards’,771eNorihemSおY;May26,1849 92)‘ThePeople’sCharter’,7協eNorihemSお71May26,1849−ヱ6■7− リヴァプール財政改革協会について という。この集会においてクラーク(Thomas Clark)は,「この集会の意見は, 不公平な税負担や抑圧的収奪を排除するとともに,人民の庶民院という当初の 簡明な原理に復帰することをすべてが熱望しているというものである。」という 動議を提出し,なにはおいても納税者は有権者であるべきであるということを 強調した。したがって,憲章の基礎には税の問題が依然として存在はしていた のであるが,中産階級の運動とは−・線を画することになったのである。 要するに,チヤ・−テイストたちが「国民予算」推進の運動に加わったのは1849 年1月下旬から2月末までの,実質的には1カ月余りであったということであ る。 Ⅴ コブデソの「財政改革」の動議が1849年2月26日に庶民院で否決された直後, LいF.R.Aいは3月5日付で政府批判の声明を発表した。ウッド蔵相は議会にお いて,過去20年間消費財や原材料にたいする大幅な減税が実施されて−いるのに, なぜ財政改革協会は税負担が重いとさわぐのか理解に苦しむと発言したが,そ
れをとらえてL.F.R.A…は,1801年,1846,47,48年の関税,消費税,印紙税等
の税収額を示す第2表をかかげ,「富裕階級」の負担する「その他の税」はこの間にわずか7万9千ポンドしか増加していないのにたいして,「大衆(the
masses)」の負担する関税と消費税は同期間に1707万ポンドも増加していると (単位 ポンド) 第2表 税収の推移 1801年 1846年 1847年 1848年 関 税 と 消 費 税 19,330,867 36,339,150 37,290,461 35,575,314 印 紙 税 3,049,844 7,871,968 7,675,921 7,671,325そ の 他 の 税 (財産小所得税を含む) 9,857,134 9,624,394 10,018,144 10,165,516
〔出所〕0〟滋わgS,No35,p14ーヱ6β− 香川大学経済学部 研究年報 22 ノ夕β2
いう。93)しかし,この声明は,税の絶対額をとりあげそれが階級間に不平等に分
布しているということを指摘するにとどまり,ウッドの税負担論のもう一つの
柱である相対的負担論にはまったく言及していない。 コブデソは1847年7月にヨー・クシヤーの西ライディングから庶民院議貞に選出されたが,1849年4月に入り当選後初のお国入りをし,県都のウコこ1−クフイ
、−ルドや工業都市リーズを遊説してまわった。94)特にウニ1−クフィールドの歓
迎晩餐会は盛大であった。当夜,ウェークフイ・−ルドはもちろんハリファックスの市長までもが出席するとともに,ブライト,ブラウソ,トムブスソ(Colonel
Thompson)らの国会議員やかつての反穀物法同盟の議長ウイルソソも出席した。その夜コブデソは,議会における「財政改革」の動議の敗北についてつぎ
のように弁明する。「経費削減の私の動議はご存知の通りであります。……・残念
ながら私は少数派にとどまりました。しかし,特に御理解いただきたいことは
よき同調者をえたことであります。」g5)すなわち,ランカシヤ・一選出のブラウ
ソ,ヘンリー(AlexanderHenry),シティ選出の/<ティソソ(JamesPattison),
エディンバラ選出のコウワソ(CharlesCowan),ダラーズゴウ選出のマグレガー,へイスティ(AlexanderHastie)等が「財政改革」に賛成の票を投じてく
れた。「賢明な世論は,サー・R・ピ・−ルが穀物の自由貿易を承認する以前のヴ
ィリャ・−ズ氏の場合と.まったく同様に,私の動議を支持してくれたものといえ
るでありましょう。」96)とのべ,世論が味方であると意気盛んなようにみえた。
コプデソは,また,同月18日にリグァナー/レのコソサ・−・ト・ホールで開かれたLいFいR.A.の一周年記念集会にあてた,リーズからの手紙(4月12日何)でつぎ
のようにいう。「私ほどこにおいてもあなた方の主義のために働いております。
そして,財政改革の要求は各地において急速にたかまっておりますが,それは
93)A〟柁∬少㌦毎Cね胱よJ〆娩βエゴγβゆ007月■乃α乃C払J点(痴乃乃A.ssoc血fよb乃わ娩β7ね− ♪qye7Sqf’ihe thiiおdKi’ngdbm,Liverpool,Mar.ch5,1849,inOldSeYies,No35,p 14 94)771e77meちApril12and16,1849;了協e肋ib,News,Apri114,1849;77ieEtono− ∽怨ちApril14,1849 95)‘Dinner・atWakefieldtoMTCobden’,77w Times,Apr・il12,1849 96)乃よdリグァプーリレ財政改革協会について −ヱ69− 主としてリグァプ、−ル協会のたゆまない努力のおかげであります。」97)このよ うに彼は,L巾F‖RいA.の財政改革運動を支持する態度はかえていないが,再び財 政改革運動の先頭に立つことはなかったのである。 かくして,コブデソは,1848年から1849年にかけ,イングランド各地をかけ めぐり地方の財政改革運動を指導しそれを背景に庶民院に「財政改革」の動議 を提出したが,一・敗地にまみれたのである。しかし,彼の運動が若干の効果を
もったことは,第3表にみるように,国家経費が1849年鼠1850年度と漸減の
債向を示していることからわかる。この主たる原因は,第4表から明らかなよ うに,海軍費を中心とする軍事費の減少であった。1850年になると,『タイムズ』 は,論説において,「コブデソ氏の動議の後,経費の流れは退潮に転じた。それ 以来予算は常に縮小している。……この経費減少の功繚は,蔵相〔ウッド〕と コブデソ氏とで分かちあうべきものであろう。」98)とのべ,コブデソの財政改革 運動にもー・定の評価を与えている。そして,同年7月には,「われわれは,世界 を相手にした貿易に加えるに,独占,差別関税,航海条例に守られた植民地帝 国を築いた。そして,その守護のため,われわれは軍備とならんで民事部門を 大幅に.膨脹させた。しかし,最近われわれはこの膨脹の目的が誤っていたこと 第3表 経費の推移 (単位 ポンド) 年 度 予 算 決 算 1847 52,183,077 55,175,042 1848 54,161,256 53,287,111 1849 52,157,696 50,378,417 1850 50,763,582 49,882,322 1851 50,247,171 50,291,323 〔出所〕SirStaffordHNorthcote, d’FinancialEbh砂,London,1862,pp 381−385. 97)’FinanCialReformAssociation’,77w肋nchesierBh2mineYIAprIi121,1849 98)乃e耶桝¢ちMarch4,1850香川大学経済学部 研究年報 22 第4表1848年度と1850年度の経費の比較 (単位1000ポンド) ノダβ2 −プアり− 項 目 1848年度(A) 1850年度(B) (B)−(A) 国 債 費 28,489 28,090 △ 399 統 合 基 金 費 2,812 2,589 △ 223 陸 軍 賛 6,744 6,572 △172 海 軍 賛 7,962 6,401 △1,561 軍 需 賛 3,001 2,400 △ 601 民 事 費 3,889 3,823 △ 66 アイルランド救援費 390 △ 390 そ の 他 7 7 合 計 53,287 49,882 △3,405 〔注〕 経費は決算額である。 〔出所〕乃査d,pp.382,384 を発見し」,99)「イギリスは今や全世界を支配することはできないということを 知った。」100)とのべ,小イギリス主義に帰依したかのようにいう。 しかし,国家経費の縮小は一・時的現象であった。4年後にイギリスはクリミ ヤ戦争に参戦し,国家経費は軍事費を中心に大幅に膨脹することになるのであ る。L.FいR.A=ほマンチェスタ・一派にかわって財政改革運動を指導し,膨脹する 国家経費を規制する別の方法を模索しなければならなかった。 ⅤI LいFl.R.A、は,1848年から1858年において60篇からなる『財■政改革論集』を刊 行した。これは19世紀中葉における財政改革論の雄篇であるが,これまで本格 的に分析されたことがなかった。そこで,若干の整理をおこないながらその内 容をみ,LいF.R.A.の財政改革の構想がどのようなものであったかを明らかに 99)了協β罰一桝βも.Iuly29,1850 100)乃諺