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中学校英語科の目標に関する偽りの二重構造 : Notional-Functional Syllabusとヨーロッパにおける外国語教育の特徴の分析から

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(1)

中学校英語科 の 目標 に関す る偽 りの二重構造

Notional―

Functional Syllabusと ョーロ ッパ にお イ

ナる

外国語教育の特徴 の分析か ら一

英語科教育研究室 一立

1.新

教 育 目標 と目標 に まつ わ る論 争 時代が昭和か ら平成に移行 して間 も無 く

,文

部省 は小

,中,高

等学校 の新 しい学習指導要領(案) を公表 した。中学校関係では,「個性を生かす教育」の推進を中心に教育の充実を図るということだ が

,外

国語については目標が次のように改められている。 外国語を理解 し

,外

国で表現する基礎的な能力を養 うとともに,言語 にたいする関心を深め

,外

国 の人々の生活や ものの見方などについて基礎的な理解を得させる。 外国語を理解 し

,外

国語で表現する基礎的な能力を養い

,外

国語で積極的にコミュニケーションを 図ろうとする態度 を育てるとともに,言語や文化に対する関心 を深め,国際理解の基礎 を培 う。 この新 しい指導要領 の公布 によ り

,い

よいよコ ミュニケーションが我が国の英語教育 において正規 の目標 として認知 され ることになるのだが

,で

は日標 に関す る問題 はこれで終わ りか とい うと

,決

してそうで はないように思われ る。 新旧の指導要領 を士ヒ較す ると一 目瞭然 だが

,コ

ミュニケーション能力 の育成 は今回の改訂 のずっ と以前か ら教育 に関わる人達 に とっては当然 の こととして受 け止め られて きたI。 これ は

,新

指導要 領 にも謳われている,「国際理解 の基礎 を培 う」必要性が教育現場で は早 くか ら痛感 されていたか ら に外な らないのだが

,今

回の改訂 は「国際化 の進展 に対応 して

,コ

ミュニケー ション能力 を一層育 成する」2ために打ち出された もの といえよう。 このように,「国際理解」だ とか,「国際化」 といっ た言葉が普 く社会 に浸透 してい る現代 における英語教育では,「学習者 の人間性 を尊重 し,コ ミュニ ケーションを重視 した目標設定 にな らざるを得 ない ことは多言 を要 しない」(米山・佐野

1984:4)

という考 え方 は

,以

前か らかな り支配的だった と言 ってよか ろう。 しか し現代 はまた,「分裂」の時代で もある。 この分裂 は

,時

には「理想 の目標」(コ ミュニケー ション

)対

「現実の目標」(入試等 のため

)と

い う図式で表わされることもあれば,『英語教育大論 争』(1975)に集約 されているように,「実用主義」(平泉案

)対

「教養主義」(渡部案

)と

い う対 脈 点か らの論争 とい う形 を取 ることもある。いずれにせ よ

,現

代 の我が国の英語教育 の現状 は一種 の 二重構造の狭間で揺れ動いてお り,日標 もまたそのような構造 により束縛 されてい るといってよい。 美 不日 足 (新)

(2)

このためた とえコ ミュニケーシ ョンを重視 した目標 を設定 して も

,こ

の二重構造 による呪縛が解か れないか ぎり

,せ

っか くの新教育 目標 も我が国には本当の意味で定着 しえないので はなか ろうか。 そ こで まず検討 されなければな らない幾つかの問題がでて くる。その問題 の一つ とは

,先

の『英 語教育大論争』 に窺 えるような異 なる立場か らの主張 を考慮 し

,い

ずれが本 当に我が国にお ける英 語教育 の目標足 りうるか をとことん論 じあい決定す ることである。政治 に携 わ る人

,教

育 を職 とす る人

,あ

るいはそれ を取 り巻 く人や学習者 自身 をも巻 き込んだこのような論争 は大 いに歓迎 され る べ きである。か えって,「世界 はます ます狭 くなっている。故 に

,日

本での英語教育 の目標 はコミュ ニケーシ ョンしかない。Q.E.D.」 とぃ う軽々 しい即断 こそ

,学

習者 ばか りか教授者 の個性 をも無視 し た ものであ り

,こ

のような「右向 け

,右

」式の発想で は新指導要領 に明示 してある「個性 を生かす 教育」 という大 きな目的 を達成 す ることはおぼつかない。 ところで

,こ

の『英語教育大論争』 は今 で は絶版 となって しまっている との ことだが

,こ

の ような本が絶版 になること自体

,コ

ミュニケー ションー本槍 とす る考 え方が

,そ

の意味が十分 に吟味 され ることのない ままに相当に浸透 して しま っている証左 とも受 け取れ

,こ

の ことは逆 に現代 の英語教育 の抱 えている問題 の深刻 さを裏づ けて いるように思 えるのである。 ただ

,今

上で言及 したように,『英語教育大論争』の中のような論争が実 を結ぶためにも

,お

互 い が擁護 しようとしている目標 は

,正

確 に定義 され十三分 に理解 されていなければな らない。 ここで は新指導要領中の「 コ ミュニケー ション能力」 に焦点 を絞 って議論 を進 めてゆ くが

,平

泉氏 はこれ を次のように定義 している。 さてここで

,私

の試案にいう

,外

国語の「実用能力」ということの意味を明 らかにしておきたい。これ は英語でいうウワーキング・ ノウレッヂということである。つまり

,使

えるか,よんで

,書

いて,はな して,き く, という

,人

間のコミュニケーションの手段 としての言語の使い方を一応 こなせるという能 力である。(p.62) コ ミュニ ケー シ ョン能力 (平泉氏 の言葉 で は「実 用能 力」)自体 の この定義 づ け は

,わ

ざわ ざ言語学 な どの大家 による同能力 の解釈 を引 き合 い にだす まで もな く

,穏

当な もので あ る とみ なす こ とに異 論 は無 い と思 われ る3。 特 に,「 読 む」,「 書 く」,「 話 す」,「 聞 く」とい う

,い

わ ゆ る四技能 を公平 に扱 ってい る ところに

,同

氏 の考 え方 の健全 さが よ く窺 える。 この ように

,平

泉 氏 の定 義 だ けなが めて い るぶ んに は,専 門的 に もまた常識 的 に も全 く問題 は無 さそ うなのだが,し か しこの考 え方 に基 づ い た英語教育改革案 は,「現状 分析 か ら結論 に至 る まで,す べて誤解 と誤診 か ら成 り立 ってい る」(p.20) 甚 だ しい短見で ある とい う手厳 しい批判 を受 ける。同書 の中の平泉氏 の論 争相手 で あ る渡部氏 は「 ル サ ンテ ィマ ン」(「恨 み」 とか「怨恨」 とい う意味 だそ うで あ る

)と

い う言葉 か ら論 を起 こし

,夏

目 漱石

,荻

生往体 の弟子

,山

井某

,そ

してつい に聖徳太子 まで総動員 して批判 を展 開 し

,コ

ミュニ ケ ー シ ョンを目指 す英語教育改革試案 を「亡 国」の試案 と結論 づ けてい る。(p.13-47)これ は,「 目的 論 に関す る分裂」 (米 山・佐野 ψ.εオ

:2)な

ど とい う生易 しい もので はな く

,は

っ き り言 って全 面戦争 で あ る。 で はなぜ,コ ミュニ ケー シ ョンにつ い て の一見妥 当 な定義 に基づいた教育案 がか くも激 し く攻撃 さ れね ばな らない の だ ろ うか。平泉

,渡

部 両氏 の間 にあ る極端 な意 見 の対 立 を考 えれ ば考 えるほ ど, 二人 の論争 の根底 にあ るコ ミュニ ケー シ ョンの定義 について再度検討 す る余 地 は十分 にあ る ように 思 えるので あ る。

(3)

鳥取大学教育学部研究報告 人文・ 社会科学 第40巻 第

1号

(1989) 17

2.コ

ミュニケー シ ョン能力育成 を目指 した教授法

平泉氏 の唱 えてい るような意味 での コ ミュニ ケー シ ョン能力 の育成 を前面 に打 ち出 してい るのが Notional一Functional Syllabus(以 下

,N一

Fシ

ラバ ス

)4で

ぁ り, この シラバ スの理念 に立脚 した 教授法 は一般 にCOmmunicative language teachingと かcommunicative approachと 呼 ばれ てい

る。

N一

Fシ

ラバ ス の有効 性 を主張 す る一人 で あ る ヨール デ ン (Yalden,J.1987)は コ ミュニ ケー

シ ョン能力 を,

When he assumes the active role of speaker or、 vriter,the individual has to choose somethillg that is appropriate to the context,and whid■ will serve his purposes at the tillle of utterance lt is this

sort of skill together with the ability to manipulate lnguistic forms we may now refer to as Fcommunicat e competence' _ (p.41) と定義 しているが

,こ

れ は平泉氏 の考 え方 を幾分一般的な表現 を用いて述べているだけで

,本

質的 には同義である。 さて上 のような意味でのコ ミュニケーシ ョン能力 の育成 を目指す このヨーロッパ生れの

N一

Fシ

ラバスの理論的背景並びに具体的提案 はウイルキ ンズ (Wilkins,D.A.1976)に 詳 しいが

,コ

ミュニ ケーション能力の育成 を目指 している我が国で も当然大 きく取 り上 げられている。た とえば,『英語 教育』1983年 10月号 は,「英語教育 は変わ るか一― ノー ショナル・シラバス と英語教育」 と銘打 った 特集 を組 んでいる。この中で は

,都

合八名の専門家が それぞれの立場か ら意見 を述べているのだが, この特集が出された時点での評価 はおお よそ次のような ものである。

印象に残った発言として,nOtiOnal functional syllabusは クラスルームでも真に「機能」するシラバス

であるのかどうか,いま一度その本質が「再審理」されねばならないというのがあった。再審の結果を

得るまで今すこし時間がかかると思われるが

,学

,現

場教師による審理の過程に注目したいと思う。

(田中氏 p.■)

GS[文法中心のシラバス]を 捨てて,NS[Notional Syllabus一 N一Fシ ラバス]に 走るという大変革

はとうてい考えられない。抽象的ではあるが

,従

来のGSに

NSを

力日味した,Brumfit(1982:82)のい

ダgrammatical functional syllabuぎを目ざすことによって

,教

材の作成ないし見方,さ らには

,指

形態の偏 りを是正していくことが,学習目標のCOmmunicationへ 近づ く現実的な行 き方であろう。(伊 藤氏 p14) 田中氏 の慎重論 は当然 として

,後

の人 々 の意見 もだいたい伊藤氏 の もの と似 た り寄 つた りで

,N一

Fシ

ラバ ス は「魅力 的 な可能性 を秘 めてい る」1/Jヽ篠 氏

p.25)も

のの「 わが国 の英語教育 にその ま ま適 用 で きる もので はない」(上屋氏

p.22)と

い うふ うに要約 で きよう。

N―

Fシ

ラバ スが その ままの形 で は我 が国で は通 用 しえない理 由 は

,そ

れが生 まれ た ヨー ロ ッパ と日本 の国情 の差 で あ る こ とは明 らか だが

,い

ず れ にせ よ何 らか の修正 を加 えな けれ ばな らない と い うのが大方 の一致 した見解 で ある。す る と

,日

標 に関 して は ヨー ロ ッパ で あれ 日本 で あれ 同 じコ ミュニ ケー シ ョン能力 の育成 を掲 げるのだが

,し

か しその一方で特 にその目標 を達成 す るた め に考 案 され た教 授 法 (それが Syllabusと 呼 ばれ ようがapprOachと 呼 ばれ よ うが

,こ

の際関係 が ない)

(4)

について は

,日

本で は少 な くとも一部修正 を受 けざるを得ない とい うことになる。

もともとこの

N―

Fシ

ラバ ス とい うのは一人 の学者が単独で開発 した ものではな く

,ヨ

ーロ ッパ

協議会 (the council of Europe)の the Counc』 of Europe Modern Language PrOiect(1971)に

参力Hしたウイルキンズ

,ヴ

ァン。エ ック(Van Ek), リヒター リッチ(Richterich), トリム (Trim), アレクサ ンダー (Alexander),モ ロー

(MorrOw),ジ

ョンソン (JohnSon)といった人々 を中心 と した専門家グループの共 同研究 の所産 なのである。C/Jヽ笠原 乃″

:6

並びにフィノキアー ロ・ブ ラムフィッ ト

1987:

X)こ のように何人 もの専門家が協議 を重ねた結果出来あがった具体案 の中 に,コ ミュニケーション能力育成 にとっては無駄 な exerciseが 混入 していた り

,無

用の項 目につい ての解説 などが紛れ込んでいるとは考 えに くい。言い換 えると

,N―

Fシ

ラバスはコ ミュニケーシ ョン能力 の育成が最 も効率 よ く

,し

か も効果的 に達成で きるように構成 されているはずである。だ か ら

,ス

ター ン

(Stem)や

リブァース (R ers)と いったヨーロッパ以外の国の英語教育の泰斗 ら もこの共同研究 を高 く評価 しているし(小笠原 んε.ιゲ洗

),ィ

ギ リスな どでは

N一

Fシ

ラバスの原理 に基づいた教材が数多 く出版 されているのだ。(伊藤治己

1984:39)

しか し前述 のように

,我

が国の専門家の多 くはこのシラバスの手直 しの必要性 を強調 している。 特 に

,先

の特集 中の小篠氏 の場合 は,「飛行機の設計理論 の最 もよい検討方法 はその理論 に基づいて 飛行機 をつ くり

,実

際 に飛 ばしてみることである」(p.23)と い う至極 もっともな考 え方か ら

,中

学 校

3年

生 の復習教材 とい うことを想定 して

,実

際 に

N―

Fシ

ラバ ス教材 を作成 している。その結果, 純粋 な

N―

Fシ

ラバ スには, 一般概念に基づいた教材の作成は

,初

級英語 コースとしてはきわめて難 しい。 特定概念 シラバスは,特に初級段階では,文法 シラバスに従属する位置づけしか与 えられない。 特定概念が どの程度学習者の表現欲求を満たしたか疑問が残る。 (p.25) とい う幾つかの改善 の余地 のあることを報告 している。 これは単なる思いつきによる結論ではな く 実践 を経て得 られた ものであるだけに

,説

得力がある と認 めざるをえない。 す る とここで一つ考 えてみなければな らない ことが起 こって くる。 というのは

,ヨ

ーロッパで考 案 され高い評価 を受 けた

N―

Fシ

ラバ ス とい う設計 図 も我が国に引 き移す場合 には

,理

由はどうあ れ一部手直 しをしなければな らない訳だが,ではその修正 を加 えられた設計図に基づいた飛行機 は, 修正 を受 けていない もの と同 じ目的地 に着 くことが出来 るのだ ろうか

,ま

たそうす るべ きなのだ ろ うか

,

とい う問題である。 そ して もし

,同

じ目的地 に到達で きると答 える専門家がいるのな らば, 次に求 めなければな らないのは

,そ

の保証である。結論が出揃 うまでに時間のかか る実践報告 はと もか く

,そ

の改造 を施 された飛行機 に乗客が安心 して乗れ るためには

,少

な くとも理論上 の保証位 は必要か と思われ る。 『英語教育』誌上で特集が組 まれた時点では

N―

Fシ

ラバ スについての実践報告 はお ろか

,上

記 の理論上 の疑間点 について も納得のい くまで論議 されている訳ではない。 これは一つには

,N―

F

シラバ スが我が国に紹介 されて以来 まだ日も浅 く

,そ

のような時 にもう修正案の方の理論的根拠 を 求めることは余 りにも時期 尚早 とい う事情があったのか もしれない。 そこで以下では

,実

,理

論 の両面で比較的明 らかにされているオ リジナルな方の

N―

Fシ

ラバスについて検討 してみることに する。

(5)

鳥取大学教育学部研究報告 人文・社会科学 第40巻 第

1号 (1989) 19

まず実践 に係 る面 を例 を挙 げて検討 してみ るが

,こ

こで

N―

Fシ

ラバ スが一番重視 してい るのが 学習者 のneeds analysisと呼 ばれ る もので あ る。 F一Nアプローチが強調 しているの は,教授 プログラムの中心 は生徒 であ り,生徒 の伝達 目的 こそが, その核心でなけれ ばな らない とい うことであ り,こ こに

,F―

Nアプローチが学習者 に及 ぼす驚異的な メ リッ トがある。 すべての局面 にわたって,このプログラムの言語文化的内容 の基礎 となるのは,学習 者が,学問研究上

,社

会生活上,また職業上

,現

在 あるい は予想 しうる将来 に, どの ようなニーズをも っているか とい うことである5。 (フィノキアーロ 。ブラムフィッ ト ψ θ拡:22) 学習者が どんな学習ニーズを持 っているのかを調べるのがneedS―analysisということになるのだが, かみ砕 いて言 うとこれ は一種 のアンケー ト調査である。 このアンケー ト調査 には普通次のような項 目が含 まれるとされ る。 1.O Przttοsワカ イ紗カゲιカ カ管冴 力箔 孵解 λ ″?クゲκブ

1l C'ぉ

s力cα″οη

lll

□ OCCupational i pre― or post一experience

l12

□ Educational:discipline――or school subieCt

l.13 □ General lnterest lf yOu have checked:11.1 0θ θタク,″ο物

'′

,fill in:1 2 only

lf you have checked: 1.12E″ ″σ,ケ

'o%,′

:fi■ in: 1 3 only

lf you have checked i l 1 3 Gヮ η¢И2′ rηサ。r6チ :fill in:1 4 only

l.2 03的ρ″Oη '′ Cιtts"cα ″οη l.2.l Type of Worker □ manual □ Cに C』 [] teChnical □ managerial [] prOfessional □ OfiCer [] Creative artist/athlete l.2.2 Field of Work □ COmmercettndustry □ publiC administration □ prOfessiOn(mediCine,law,teaching,etc) □ SdenCe □ armed fOrce □ entertainment/arts □ uilities □ Other (Yalden 9ク θ力:163) 上 の ア ンケー トは実際 に は もう少 し長 いのだが

,い

ずれ にせ よ こ こで尋 ね てい る こ とは

,該

当の 外国語 を学習 す る こ とに よって「何 が」 したいのか

,あ

るい は「何 のために」 その外 国語 を学習す るのか とい うこ とで あ り

,こ

れ を学習者一人一人 について精査 してい る訳 で あ る。 こうして集 め ら れ たデー タ を拠所 として教授 内容 を選定 した上 で授業 を行 な う と,「 驚異 的なメ リッ ト」が学習者 に

(6)

及 ぼ され る とい うので あ る。しか し,この表現 は些 かオーバ ーだ といわ ざるをえない。とい うの も, needs analysisは

N―

Fシ

ラバ ス全体 の うちで

,お

もに実践面 に関す る考案 にす ぎず

,も

う一方 の 理論的 な裏づ け と統合 して初 めてす ば らしい効 果が期待 で きる

,

と考 えなけれ ばな らないか らであ る。 で は ここで

,N―

Fシ

ラバ スの理論面 について考察 してみ る こ とにす る。

N一

Fシ

ラバ ス は

,従

来 か らの文 法 中心 主義 のアプローチな どに対 す る批判 とい うもの をその出 発 点 としてい る。前 出 の ウイル キ ンズ (1976)は文 法 中心主義 の アプ ローチの欠点 を次 の ように指 摘 してい る。

One of the maiOr reaSOns for questiOning the adequacy of grammatical syHabuses lies in the fact that even、 vhen、ve have described the grammatical(and lexical)meaning of a sentence we have not accounted for the way in which it is used as an utterance(p 10)

また

,N一

Fシ

ラバ ス に賛 同す る人 々か ら見 た文 法 中心主義 のアプ ローチ は

,下

の よ うな図で示す こ とがで きる。 Sentence form Imperative 上図に示 されているように

,文

法中心主義 のアプローチは

,余

りにも文法形式 に重点 を置 きす ぎて いるために,(a)∼(e)のように表面上 は同 じ命令文であって も

,各

文 の背後 にある異なった機能 につ いて十分学習者 に提示す ることがで きない

,

とい うことになる。 これ は

,コ

ミュニケーション能力 を,`文法形式の操作

+適

切 な機能 の選別' 台ヒカであるどす る

N―

Fシ

ラバスか らみると,当然の結 論 といえる。このような批半J並びにコ ミュニケーシ ョン観 に基づいて

,N―

Fシ

ラバ スで は次のよう な代案 を提案 している。

Realization

(a)Give me some water (b)Release me now

(C)Buy Canada Saving Bonds

(d)Don't go in there

(e)「Fry this one on

Function Ordering Pleading Advlsing Warning Suggesting (Yalden 9ク.σ力 :40)

Function Sentence FOrms

(a)Imperative (b)Conditional (C)Infinitive (d)Modal (e)Participial Realization

Please finiSh that letter,

Mitt Jones

Perhaps it、 vould be best if you finished that letter We do expect you to finisll

that letter

YOu must finish that

letter,I'rn afraid.

You ttould have no

difficulty in finiShing that letter

(7)

鳥取大学教育学部研究報告 人文・ 社会科学 第 40巻 第

1号 (1989) 21

(Allen,1977 in Yaldenん ι.θオ)

つまり

N―

Fシ

ラバ スにおいては

,文

法中心主義で は文型式 の背後 に隠 されがちであった機能 (上

図で は「命令」とい う機能)を中心 に据 え,それに形式 を従属 させ ようとする。この結果,“The learning material derived froln a notional synabus 、vill, therefore, allnost inevitably lnguisticany heterogeneous."(wilkins砂.じ″

.:19)に

なって しまうのだが

,そ

れ は先程 のneeds analy.sisで予

め調べておいたデータを参考 に,教えるべ き項 目を絞 り込 んでい くことがで きるとい うことになる。 このように

N一

Fシ

ラバ スで は

,実

践 と理論 とが うま くかみ合 っているようにみえるのである。 だが

,こ

こで少々問題が起 こって くる。 それ は言語 の機能 と言語の形式 に関す るもので

,い

わば

N一 Fシ

ラバス とい う飛行機のエ ンジン部分 に関す るもの といえよう。 このことを検討す る前 に, まず

N―

Fシ

ラバ スに準拠 した具体例 を一つ挙 げてお こう。 一 死 単   I 機能

人物 緊急事態 患者 への対応 親族 情況報告 医師 治療 に関 する質問 看護婦 と応答 場面設定 診察室 病院の緊急 処置室 主題

伝 達表 現/具現形 病 気 か Where's hospital... 事故 What's wrongP

Ten me、vhere you feel the pain.

How did it happenP Could I.…

I'rn sorry.You have. .

1'd like to call .

Nurse,please prepare the patient HoⅥ/1ong before l can moveP

Get this prescription filied. Take these pllls three tilnes a day.

(フ ィノキアーロ・ プラム フィッ ト ψ.'チ :97) さて上の表で は,「緊急事態への対応」,「情況報告」

,そ

れ に「治療 に関す る質問 と応答」 とい う 二つの機能 に対 して

,合

計14の言語形式が与 えられている。(最後 の二つの例が空 白にしてあること については後述。)こ こで肝心なのは,なぜ二つの機能 に対 して14もの具現形があるのかで はな くて, なぜたったの14しかないのか とい うことである。これ はneedS―analysisで適切 と思われ る項 目を取 捨選別す る以前の問題 なのだが

,た

とえば患者 と医師 とが隣人同士だった場合 には

,上

記 と同 じ機 能 を果たす にして も幾つかの他 の異なった伝達表現が可能 になって こよう。 この ことをさらに突 き 詰 めてい くと

,前

出の伊藤治己氏の示唆 に行 き当る。伊藤氏 はBreen(1983)な どを援用 しなが ら, 言葉の機能 とその形態 を安易 に結びつ けることへの批判が高 まって きていることを指摘 し

,機

能 と 形態 との関係 はもともと予測不可能であ り

,そ

の決定 は人間関係 とか情況 に依存す る

,

と述べてい る。 (p.34)伊藤氏 の批判 を日本語の簡便 な例 を引いて補足す ると

,た

とえば「命令」 とい う機能 を 表わすには,

(8)

形式 「灰皿 を持 って きて くれ。」 「 そ こ↓ゝらに灰皿力ゞない力うね。」 「 この部屋 に灰皿があった と思 ったんだが.中●」 「吸 って もいいかね。」 「 あれ くれ,アレッr」 「 ア レッr」 とい うような形式が考 えられ る。 これ らの例文 中

,上

か ら二番 目と四番 目は「質問」 の機能 を表わ す とも受 け取れ るが

,例

えば会社 の社長が平社員 に向かって発 した といった情況 を想定す る と

,た

ち どころに「命令」の機能 を帯 びて くる。 また最後 の,「アレッ/」 の場合 も夫婦 のような人間関係 を考 えると

,起

こる可能性 は十分 にあるといえよう。 このように「命令」 とい う機能一つ取 り上 げ て も

,そ

れを表わす ことので きる言語形式 のブァリエーシ ョンは無限なのである。 確かに従来 の文法中心主義 な どにおいて は

,言

葉の機能面が看過 されがちであった ことは否 めな い。 この点に関 して はウイルキンズ等の指摘 は的を射ている。 しかし

,N一

Fシ

ラバ ス は機能 を出 発点 とした理論 を構築するにあたって

,ブ

リー ンの言 う,「機能 と形式 との関係 は本来予測不可能で ある」 という言語の本質 を見落 として しまっている。 これ は

,N一

Fシ

ラバ スの理論 の中心部分 に 関す るだけに

,こ

とのほか重大な欠陥 といわざるをえない。 さらに

N一

Fシ

ラバスは文法中心主義 ばか りで はな く

,場

面中心主義 (Situational approach)に 対する批半Jもその出発点 としている。場面中心主義 の典型的な例 は

,観

光旅行 な どで海外 に出かけ る際によ く携帯 され るphrase booksで,「空港で」とか「 ホテルのロビーで」とぃ う場面 ごとに役 に 立 ちそうな文や語旬が整理 されているものである。

N一

Fシ

ラバ スの課題 の一つ はいか にして場面 中心主義 のアプローチの限界 を越 えるか とい うことにあったようだが

,ま

N一

Fシ

ラバスか ら見 た場面中心主義の限界 とはどのような ものであったのかを述べてお く。

ウイルキンズ自身が用いている例 を使 うと,場面中心主義 のアプローチで は,“at the post office"

といったような具体的な情況 を設定 し

,そ

こか ら言語材料 の取捨選択 を行 なってい く。 そこで郵便 局なら郵便局で行 なわれる可能性の一番高 そうな表現例 (切手の買い方

,等 )が

網羅 され ることに なる。 ウイルキンズはこの「可能性」 を槍玉 に上 げる。

I rnay have gone into the post Office,not to buy stamps,but to complain about the non― arrival of a

parcel,to change some money so that l can make a ttlephone ca■ or to ask a friend of mine who works behind the counter wllether he wants to come to a football match on Saturday afternoon Making c9mplaints is not(should nOt beり ヽvhat one typically goes tO a post office for (p.17)

「郵便局で」 とい う場面一つ取 り上 げて も

,そ

こで どのようなや り取 りが行 なわれ るのか まった く 予想で きない訳であるか ら

,具

体的な情況 だけか ら自然 な言語使用を規定 しようとす ることは無理 である

,と

い うのが ウイルキンズの主張なのである。

具体的な情況 を基準 とした場合 のこの限界 を克服す るために

N一

Fシ

ラバスが提案す る基準がそ の名 にもなっている「 ノー ション」(「時間」,「空間」,「場所」な どに分類 され うる抽象的概念

)で

(9)

鳥取大学教育学部研究報告 人文・ 社会科学 第 40巻 第

1号

(1989) 23

あ り,「ファンクシ ョン」(「判断」,「譲歩」,「感情表現」といった機能)なのである

6。 ここで

N一

F

アプローチが取 った方法 とは

,場

面中心主義アプローチの基準であつた「具体 的情況」の「具体的」 の部分 を「抽象的」 レベルにまで昇華 させ るとい うものであった。 とい うの も

,全

ての具体的な情 況の背後 とこは, `the rnaking of requests,the seeking ofinformaion,the expression Of agreement

and disagreemenば

'(Wilkinsみ

ε.εゲ九)とぃった概念 な り機能が存在す るか らである。

ウイルキンズの考 える とお り

,抽

象的な概念・ 機能 はその性質上

,ほ

とん ど全 ての具体的情況 に 普遍的に内在す るのか もしれない。 しか しそのような抽象的な基準 を拠所 にしたシラバスであって も実際に学習者 に教材 として提示す る際 には

,そ

のままの抽象的な形で は意味がな く

,必

ず具体的 な情況 を伴 った ものでなければな らない。 とす ると

,N―

Fシ

ラバスで は

,シ

ラバ ス作成 の時点 に おいては個々の具体的情況か ら概念・ 機能 を抽出す る一方で

,教

材作成 の段階で は再び具体 のレベ ルに下降 して くることになる。 この際

,場

面中心主義 のアプローチに沿 って作成 された教材が不特 定多数の読者や旅行者 をただ漠然 と対象 としているのに対 し

,N一

Fアプローチでは先のneeds analysis を経由す ることによ り

,特

定 の学習者一人一人 に見合 つた教材が作成で きるとす るのである。 しか しこれは果 た して

,本

当だ ろうか。 このことを確認 してみるため

,N―

Fア

プローチに準拠 して作 られた教材 と場面中心主義 の もの とを比較 してみよう。

Does it hurt when l touch you hereP

Can you breathe easily when you're lying in bedP Well have to put you in a plaster cast

lt's a sharp pain and is a little bit reheved when l press the right shoulder

can mein a、veek or before if the pain gets worse.

11l have the laboratory check this sputula tonight,Please call lne tomorrow morning.

上の例文中

, 3例

は先 のフィノキアーロ・ ブラムフィッ トの中で用い られていた もので

,残

りの3 例 は,『医学英会話 の実際』(1980)か らのものである。 この本 は,「.“。 また外国 に滞在 中あるい は旅行中の人が

,急

病 のため どうして も英語 を使 わなけれ ば困 る状況 におかれ ると

,よ

く耳 にしま す。 この ような観点か ら

,専

門家 ばか りでな く素人 の一般人 で もいちお う病気 についての英語表現 を知 ってお くことは

,ま

す ます国際化す る近代国家 の国民 として

,当

然の準備 といえるので はない で しょうか。」(p.1)と い う主 旨で書かれた ものであるか ら

,ウ

イルキンズの批半Jしている場面中心 主義の教材である。で は

,上

6例

,ど

れが

N一

Fシ

ラバ スか らの文例で

,そ

して どれが場面中 心の ものなのだ ろうか。少 な くとも

,こ

こで扱われている例文 はどれ も実質上全 く同 じで

,区

別 を することは不可能 なように思 えるのである7。 とぃ ぅことは

,N―

Fシ

ラバ スのように一旦抽象的な 項 目を立て

,そ

れか ら再 ぴ具体的な場面 を設定する とい う手間 を取 った もの と

,そ

うでない もの と の間には

,本

質的な違 いは無いので はないか とい うことになって くる。

さらに重要な ことは

,ウ

イルキンズは“at the post office"の例 の中で

,話

題 はどういう方向に動 いてい くのか予想がつかず

,そ

のために場面中心主義 には限界があるとしているのだが

,こ

の批半J は

N一

Fシ

ラバ スについて も当て はまるので はなか ろうか。確かに概念 とか機能 といった抽象的な 項 目は日常のほ とん どの情況 に該 当す るか もしれない。だが

,実

際 に学習者 に提示するのは具体的 な文 なのだか ら

,話

題 の変化 を予測 しえない以上

N一

Fシ

ラバスに準拠す る教材 の中に起 こりうる 可能性 のある文全てを予 め挿入 してお くこともまた出来ないのである。つ まり

,た

とえ普遍的な抽 象概念であって も話題 の予測能力 は無いのである。

(10)

以上のようにみて くる と

,コ

ミュニケーション能力の養成 を目標 とした

N―

Fシ

ラバスには理論 上の欠陥があるばか りか

,事

実上 はそれが批判す る場面 中心主義の教材 と同類であるとみなす こと がで きよう。 このようなシラバ スにい くら手直 しを加 えようとも

,果

た して我が国で用いることが 妥当なのか どうか疑間が残 る。 ましてや

,N―

Fシ

ラバ スの理論上のあいまいさゆえに

,そ

のシラ バスに則 つた COmmunicative language teachingが 新指導要領 に謳われている当初の目標 を達成す

ることは至難 の業か と思われ るのだが。 しか しここで一つ不思議 な ことがあることに注意 しておかねばな らない。 それ は上でみて きた

N

Fシ

ラバスの理論上 の矛盾や不備 に もかかわ らず

,当

シラバ スによる教授法 は学習者 に「驚異的 なメ リッ ト」 を及 ぼす ことがで きるとい うことである。 フィノキアーロ・ ブラム フィッ トによるこ の表現が単なる自画 自賛や誇大広告でない ことは

,前

出の伊藤治己氏 の報告か らも窺 えるところで ある。氏 は1982年よ リー年間

,ウ

イルキンズの所属する英国 レディング(Reading)大 学で研修 され,

N―

Fシ

ラバ スの現状 をつぶ さに見て こられた人 である。このような人 の言 になる,「実用面では

N

Sが

今なお高 く評価 され」 しか も「

NSの

原理 に基づ く教材が数多 く出版 されている」 という報告 の持つ意義 は大 きい。再 び小篠氏 の 'ヒ 喩 を借用す ると

,イ

ギ リス (ヨーロッパ

)で

,エ

ンジン部 分の設計 に重大 な欠陥のある飛行機がブンブン飛び回 り

,し

か も乗客 を無事 目的地 まで運 んでいっ ているということになる。なぜ このような不可解 な現象が起 こりうるのだろうか。 この謎 めいた現 象を理解するために

,次

N―

Fシ

ラバスを生んだヨー ロッパ における外国語教育 の特徴 を探 って みることにす る。

3.ヨ

ー ロッパにおける外国語教育の特徴

ヨーロッパでの外国語教育 について知 ろうとす ると

,ケ

リー (Kelly,L.G.1969)が便利である。 ケ リー はヨーロッパの外国語教育 を,ローマ時代か ら現代 に至 るまでおよそ1200の一次資料 (primary source)を駆使 して綿密 に分析 している。 ケ リーによるとヨーロッパ にお ける外国語教育 の目標 は大別 して

,文

学的(芸術上 の目的

),哲

学 的 (思考 の訓練

),そ

して現在我が国で問題 になっている社会的 目標 (コ ミュニケーション

)の

二つ に分類で きるとい う。 この二つの日標 がそれぞれの時代 の要請 に応 じて主役 の座 を演 じて きたのが ヨーロッパでの外国語教育の歴史 なのである。下 の表 はその変遷 の歴史 を幾分簡略化 して示 した も のである。 目標 時 代 文 学 哲 学 社 会 ローマ時代 + 十 十 中 世 + ル ネ ッサ ンス 十 18・

9世

紀 十 現 代 十 (ケリー

1969:394)

(11)

鳥取大学教育学部研究報告 人文・社会科学 第 40巻 第

1号

(1989) 25

上の表 において十 (プラス

)を

施 してある項 目がそれぞれの時代で外国語教育 の主 目標 と考 えられ たものだが

,こ

の資料か らヨーロッパ における外国語教育の特徴 を幾つか知 ることがで きる。 上の表 に窺 える顕著な特徴 の一つ は

,ロ

ーマ時代 にみ られ る文学

,哲

,社

会 とい う三 日標 の併 存である。 ケ リーの調査 によるとこの三つの目標 は

,ロ

ーマ時代 に限ってお互 いにバ ランスを保 っ て存在で きた とい うことになっている。 この ことをケ リーは同書の中で次のように述べている。

Durilag this period[claSSiCal Rome]all aims were in balance,one fiowing into the other from the

social needs Of the bililagual home and society,to the intellectual trials in the schOOls,tO the scholarly

and administrative requirements of the bilingual Roman in the Greek communities Of the Empire(p.

397). このように外国語教育の点か らい うと

,ロ

ーマ時代 とい うのは一つの理想的な状態が出現 していた 時代 とい うことにな り

,当

時外国語教育 に携わっていた人 にとってはこの上 もない願 った り叶 った りの時代であった とい うことにな ろうか。 翻 って現代 はというと

,冒

頭で述べたように20世紀 とは「目的論 に関す る分裂」 を反映 し

,そ

の ことが「教授法の多様性の原因」となっているという混乱の時代である。(米山・佐野 ψ.じ″

.:2-3)こ

の辺 の事情 はアメ リカで も同 じらし く

,

リヴァース も現場での多様 な目的観 の錯綜 している 様 を次のように報告 している。 私たち参観者は少々途方にくれた感 じである。 4人 のベテラン教師の授業ぶりを参観した結果わかったこ とは,これら教師がそれぞれ別の組み合わせと,別の優先順で目標 というものを考えているということで ある。しかも,その目標 も, ことばでは一致しているようにみえても,その達成のための技術 となると, 非常に大きな開きがあることを目にしたのだ。(リ ヴァースψ.οゲチ.:7) 換言す る と

,二

つ の 目標 が調和 しつつ共存 していた といわれ るローマ時代 とは対 照 的 に

,現

代 は複 数 の 目標 が存在 す るが ゆえに逆 に混乱 が起 こってい る とい う情況 にな る。前掲 のケ リーの表 と比較 しなが ら考 えてみて ここで 自然 に涌 く疑 間 は

,な

ぜ ローマ人 と比 べ て現在外 国語教育 に従事 して い る人々 はこの ような割 を食 わね ばな らないのか とい う

,ぃ

ささか理不尽 な思 いで あ ろう。 ローマ時 代 に も複 数 の 目標 が追求 され ていたのだ とす る と

,ロ

ーマ人 にで きた こ とな ら現代人 にで きて も不 思議 はない

,

とい う論 も成 り立 って こよう。 さ らに

,ケ

リー の言葉 を額 面通 りに受 け取 る と

,現

代 の外国語教育 の抱 えてい る問題 は

,少

な くともその 目標 に関 して は

,ロ

ー マ時代 の教育法 を模範 に す る こ とに よ りある程度解 決 のめ どが たつ ので はなか ろうか とい う論理 も飛 び出 して くるか もしれ ない。 もっ とも

,数

あ る外 国語教育 の方法論 の中 に も未 だに「 ローマ方式」 な る もの は登場 した こ とが ない こ とか ら判 断 して

,ロ

ーマ時代 に は複 数 の 目標 を同時 に追求す る ことを可能 た らしめてい た何 か特別 な条件が揃 っていたのか

,そ

れ ともケ リー の論考 にお もわぬ見落 しが あ ったのかのいず れか とい う ことにな ろう。 確 か にケ リー の説 の中に は後者 の点 に関 して

,何

を して「外 国語教育 の 目標 」 とす るのか幾分 あ い まい さの感 じられ る箇所 が あ る。 た とえば

,ロ

ーマ時代 には当時 の外 国語で あったギ リシャ語 は

基本的 とこは, “Duttng childhood Greek was picked up thrOtlgh contact with bililagual tutors,

(12)

か く

,果

たして奴隷や遊 ぴ友達 との接触 まで「教育」 の一部 に含んで よいのか どうか若干の疑間が 残 る。

またケ リーの文中には

,最

初 の引用の“all aims were in balance,one flowing into he other..

.."の箇所 などにかすかに感 じ取れ るように,ロ ーマ時代 を美化する傾向がな きにしもあ らずだが, それで も一次資料 を豊富 に駆使 しているとい う点で他 に類 を見ない ものであることもまた確かであ る。 そこで ここで は,「教育」あるい は「教育 の目標」の厳密な定義づ けには拘泥せず に

,ケ

リーの 供す る資料 のみを検討 してい くと

,ヨ

ーロッパ にお ける外国語教育 の もうひ とつの特徴が浮 び上が って くる。 ここで再 びケ リーの表 を参照 して もらうと明 らかになることだが

,ヨ

ーロッパ における外国語教 育の中で一際 目を引 く特徴 とは

,今

回の指導要領 の改訂で我が国で は初 めて正式 に取 り組 む ことに なった社会的 目標 (すなわち外国語 によるコ ミュニケー ション能力の育成

)は

,ヨ

ーロッパで は古 くローマ時代 の昔か ら他の目標 と並んで ご く当然 の教育 目標 として位置づ けられていた

,

とい う事 実である。 これ は前掲のケ リーの引用 にも如実 に現われているように

,ヨ

ーロッパ はその地理的条 件のために本来バイ リンガルな土地柄 だか らこそ可能であった と思われ る。つ ま り

,ヨ

ーロッパ に は社会的 目標 の達成 に とって非常 に有利 であるこの条件が揃 っていたため,「時代 の要請」さえあれ ばいつで もこの目標 をその時代 の教育 目標 として掲 げられたのである。 この目標が国際化社会 とも 称 され る現代 において改めて脚光 を浴 びるようになる前 にもう一度

,や

はり国際化 の時代であつた ルネ ッサ ンスの頃にも主役の座 を務 めることがで きたの も,このような理 由による と思われ る。当然 なが ら,「時代 の要請」 に変化が起 きると

,そ

れに応 じて外国語教育 の目標 も

,文

学的・哲学的 (中 世

)と

,哲

学的 (18・

9世

)と

いった具合 に移 り変わってい く訳 だが

,そ

のためにはもと もと 対応で きる条件が整 っていなければな らない。 そして ヨーロッパには

,文

学的

,哲

学的 目標 同 様, 社会的 目標が可能 となる条件が「バ イ リンガルの風土」 という形でローマ時代 の音か ら揃 つて いた のである。 この ことこそケ リーの綿密 な調査が端的 に物語 っている

,ヨ

ーロッパでの外国語教 育 の 顕著な特徴であるといえよう。 ヨーロ ッパ において著 しい このような教育条件が備わつていると

,一

つの副産物 をも生み出す よ うである。 とい うのは

,自

国の言語 に加 えて

,同

時 に他国の言語 に接す ることので きる環境 に育 つ た人 に とっては

,さ

らにもう一つ別 の言語 を取 り入れ ることにも比較的抵抗が少 ないので はなか ろ うか とい うことである。た とえば

,ル

ネ ッサ ンス時代 には,

. . .it was unthinkable that an educated man could not speak Latin. Though they、 vere by noM/

1iterary vehicles of some stature,rnodern foreign languages were taken by the Renaissance gentlemen

as primarily social implements(Kelly,乃 ″.:397)

といった具合 に

,ヨ

ーロッパで は時代 の要請 に合わせて

,次

々に新 しい言語 を取 り入れてい くこと がで きた ようである。 さらに興味深い ことは

,ヨ

ーロッパで社会的 目標 のために学習 され る言語 はかな らず しもヨーロ ッパ言語 の一つである必要 はない とい うことである。 この ことは

,ヨ

ーロッパ (イ ギ リス

)に

おけ る日ヽ本語教育 の例 を見 ると良 くわか る。 大庭 (19弱

)に

よると

,戦

前 のイギ リスにおける日本語教育 は「まことに貧弱 な もの」

(p.7)で

あった らしい。下記の表 はその ことをよ く裏づ けているが

,こ

れ は1986年頃か ら1941年 頃迄 の

,当

(13)

鳥取大学教育学部研究報告 人文・社会科学 第 40巻 第

1号 (1989) 27

時イギ リスで日本語教育 を施 していた唯一つの大学 だつたロン ドン大学東洋学部 の日本語専攻生 の 推移 を表わ した ものである。 年 代 学生数

1936/37

12名

1937//38

17名

1938//39

15名

1939//40

6名

1940/41

5名

(大庭

1988:9)

ところが このような寂 しい状態 は

,1942年

を境 に急変す ることになる。 1942年という年代か らも想像がつ くように

,イ

ギ リスにおける日本語教育 に大 きな変化が起 こっ たのは

,第

二次世界大戦 を契機 としている。戦前 はいっこうに冴 えなかったロン ドン大学東洋学部 だが

,い

ったん 日本 との戦争 に突入 し

,日

本語 ので きる通訳や翻訳官の必要性 (当時の「時代 の要 請」

)を

感 じとると

,た

だちに本格的な日本語教育計画が開始 された。 この結果,「中産階級以上 の 裕福な家庭で

IQの

高い学生の集 まるグラマー・スクールの大学入学直前の学生で

,ラ

テン語

,ギ

リ シャ語

,ロ

シア語

,フ

ランス語 な どを学び

,よ

い成績 をとっているもの」(p.17)がロン ドン大学 の このコースに勧誘 された。 こうしてロン ドン大学で は

, 5年

後 の1947年にその幕 を閉 じるまで

,実

に648名もの青年 たちが この 日本語 コースで通訳や翻訳官 になる訓練 を受 けた ということである。イ ギ リスにおける日本語教育 は戦争 とい う異常な条件 の下でお こなわれた もので はあるが

,こ

の例 は ヨーロッパ には時代の要請があれば

,何

語であれ

,ま

た何 の目的であれ学習で きるとい う伝統が ロ ーマ時代 か ら連綿 と続 いているとい うことを示 してい るといえよう。 また ここで

,前

述 の

N一

Fシ

ラバス との関連で注 目しなければな らない点 は

,こ

の日本語 コース のカ リキュラムである。 このカ リキュラムは前戦での軍事事情 の変化 によ り徐々に手直 しを受 ける のだが

,当

初 は次の4つのコースに分かれて行 なわれていた。 日本語一般の読み,書き

,会

話。卒業間近かになって,その適性 を見て,翻訳

,訊

間の 両班に分 け,軍隊用語等の教授 を行なった。 訊問官奏成のためのコエス。専 ら会話の特訓を行った。 翻訳官養成のためのコース。専 ら日本文の解読を訓練 した。 翻訳官を短期に養成するためのコース。 6ケ 月ないし9ケ 月間の間に文語体

,軍

隊用語 を叩 きこまれた。 このコースは 1年余 りで閉鎖された。 (a)コー ス (b)コー ス (C)コー ス (d)コー ス 上の4つのコースにカロえて

,後

に次の

5番

目のコースが付 け足 され る。

(14)

(e)コー ス 1944年2月の東南 アジアでの英軍 の反抗以来,翻訳 も通訳 も両方で きる者 の必要性 を痛

感 した前戦か らの強い要請 に応 えて,同年6月に新設 された「軍総合 コース (Ser ces

General Purpose Course)」 。

(大庭 ゲう″ :20-28) 以上の5つのコース は「前戦での要請」 に応 じて設 けられた ものである。するとここで窺 えるこ とは

,戦

争以前の ヨーロッパで は,「何語」を「何 のために」に学習す るのかを決定 していたの は前 述のように「時代 の要請」 とい う総括的な ものであったのに対 して

,戦

争 とい う非常事態 を迎 えた 際の決定要因 は,「前戦での要請」というかな り限定 された ものになって きているとい うことである。 これ は,「要請」の源が次第 に狭 め られてい くプロセスであるといって もよいか と思 う。 戦争が終結 し再 び平和が戻 り

,ま

た国際化 と呼 ばれ る時代 を迎 えた際に

,前

出のthe Council of Europe Modern Language Project(1971年

)に

参集 した外国語教育 の専門家たちの取 ったアプロ

ーチ とは

,こ

の限定 のプロセスをさらに押 し進 め

,そ

してそれ を社会 の最小構成単位

,つ

まり学習 者一人一人 にまで絞 り込 んでい くとい うものであった。 この結果生み出された ものが

,学

習者個人 が「何のために」該当の外国語 を学びたいのか を詳か にす るneeds―analysisな のである。 このよう に,needs analysisを前面 に打 ち出す

N―

Fア

プローチがアメ リカや 日本で はな く

,ヨ

ーロッパで 開発 され実践 されているとい うことには,それな りの歴史的な裏付 けがあるように思 えるのである。 また以上のような考察か ら

,な

ぜ ヨーロッパで は理論的 にみて相 当に無理のある

N一

Fシ

ラバ ス がある程度の成果 を上 げることがで きるのか も理解で きる。 ケ リーがいみ じ くも指摘 しているよう に

,ヨ

ー ロッパで は

N一

Fシ

ラバスが登場す る遥か以前か らコ ミュニケーシ ョン能力の育成 は当然 の教育 目標 の一つであ り

,時

代 の要請 さえあればその 目標 を何 の不 自然 さも伴わずに追求す ること がで き

,か

つ また達成す ることがで きたのである。 これがローマ時代 か ら続 いて きている

,ヨ

ーロ ッパ特有 のバ イ リンガルな背景 の賜物であることもケ リーの綿密な調査が教 えて くれ るところであ る。この特色 はヨーロッパで は科学技術 の進歩 と共 にます ます強め られてい くだ ろうと予想 され る。 た とえば

,今

の ところロン ドン

,パ

リ間 は連絡船経 由で

6時

間 もかか るが

,こ

れが90年代末 には, 現在建設 中の英仏海峡 トンネルに超特急新線が就航 し

,同

区間 はたったの

2時

間半で結 ばれ ること になるという8。 このような科学技術 の進歩のおかげで,ヨーロッパで はどこにいようとたえず

1言

語以上 に接す る機会 はさらに増加 し

,同

時 に外国語学習 の下地 も強化 され ることになるだ ろう。突 き詰 めてい うと

,こ

のヨーロッパのような環境 の下で は

,学

習者 の学習ニーズさえ特定で きれば, 平泉氏 のいう「 ウワーキング・ ノウレッジ」 を身 につ けさせ るのは比較的短期間に

,し

か も効率 よ く達成で きるのである。バイ リンガルな環境下で は

,学

習者 は日常の暮 らしのなかで該当の言語 に 接す る機会が豊富 にあるため

,授

業 と日常生活 の間で好 ましい相互作用が起 こりやす く

,学

習効果 も上が るのである。 これが

,フ

ィノキアーロ・ ブラム フィッ トの唱 える「

N―

Fア

プローチが学習 者 に及ぼす驚異的なメ リッ ト」の本 当の原因であるように思 える。逆 に言 うと

,平

泉氏が提案 して いるような意味でのコ ミュニケーション能力の養成が達成可能 な教育 目標 になるためには

,ヨ

ーロ ッパのようなバイ リンガルの風土が絶対条件 なのである。 この ことを忘れ

,コ

ミュニケー シ ョン能 力の育成 を目指 しているとい うだけで

,ま

った く教育条件 の異なる国 において開発 された教授法 を 我が国に持 ち込 もうとする と

,そ

こか ら生 じるものは混乱であって進歩で はない と予想 され る。

(15)

鳥取大学教育学部研究報告 人文・社会科学 第 40巻 第

1号

(1989) 29

4.

ま とめ 平泉氏が提唱 しているような意味でのコミュニケーション能力の育成 は

,長

期的 に見て確かに望 ましい教育 目標 には違 いない。 しか しなが ら本稿 においてお こなった

N一

Fシ

ラバ スの理論上の矛 盾点の指摘 と

,そ

のような欠陥 にもかかわ らず同シラバスがイギ リスな どで はかな りの成果 を上 げ ているとい う報告か ら,限られた期間内に コ ミュニケーション含ヒカ を培 うには,バイ リンガルな環境 が必要不可欠のように思 えるのである。一方

,我

が国の外国語 の教育条件 はヨーロッパ とは本質的 に異なっていることは言 うまで もない。 それに もかかわ らず

,日

本で は現在

,ヨ

ーロッパで追求 さ れているの とまった く同 じ目標 を同 じ方法論 を用いて達成 しようとしてお り

,そ

してそのために日 本における英語教育が大 き く歪 め られている。 この事情 は

,ヨ

ーロッパ生れの理論 にいささかの手 直 しを加 えて も

,変

るべ くもない ことのように思われ る。 また

,新

指導要領 の冒頭 を飾 っている目 標 について も

,バ

イ リンガルな伝統 も環境 も整 っていない我が国で は

,そ

の教育風土 に合 った独 自 の定義づ けが必要であろう。平泉試案が「亡国の案」 とまで断 じられたのは

,氏

が余 りに も一般的 すぎる定義 をそのまま鵜呑 みに し

,我

が国の教育条件 に見合 った定義づ けを怠った結果であるとい えよう9。 平泉氏 と論陣 を張って渡 り合 った渡部氏 の論考 にも無理があるように思われ る。 とい うの も

,本

,実

用主義 (コ ミュニケー シ ョン

)と

教養主義 とは水 と油 のような関係で はな く

,む

しろ表裏一 体であると考 えられるべ きである10。 まともな教養無 くして,ま ともなコ ミュニケーシ ョンが成立 し えないのは

,な

にも外国語 に限った ことで はない。 この「教養」 とい う言葉 を

,中

学校で扱 う程度 の「語彙」,「文法」,「文化知識」等 に置 き換 えて も

,両

者 の関係 の強 さが浮 き彫 りになるだけであ る。 この点 について

,

リブァース も同主 旨の ことを述べている。 言語の本質と使用を理解することが

,効

果的なコミュニケーションの技能を伸ばす方法論の基礎である。 その言語を話す人びとのもつ文化に対する理解が欠けていたり

,新

しい言語を通しての自己表現に自信が なかったりすると

,効

果的なコミュニケーションは妨害される。 (リ ゾァース ″.θ″.:■) 『英語教育大論争』 の中の激論 が

,そ

の深遠 な学識 や

,広

範 な経験 に もか かわ らず

,時

折不 毛 な論 争 の よ うに思 え るの は

,本

質 的 に は同 じ ものが あ えて違 うもの として取 り扱 わ れ て い るか らで はな か ろ うか。 しか しその ような違 い は

,両

氏 の立場

,見

解 の相 違 で あ り

,英

語教 育 の実態 とは無 縁 で あ る。 この ように,「 実用主義」 と「教養主義」とは現代 の英語教育 を分裂 に導 いてい る本 当の二重 構造 で はない と結論 づ ける こ とが で きよ う。本稿 で の考察 か ら明 らか な よ うに

,日

本 にお け る英語 教育 を金縛 りに してい る本 当 の二重構 造 は

,我

が 国 の教育事情 に見合 った コ ミュニ ケー シ ョン能力 の定義づ け と深 い関係 が あ る。今 回の新学習指導要領 の施行 に よ り

,い

まや全 ての中学生 が英語 に よるコ ミュニ ケー シ ョン能力 の育成 を要求 され る訳 だが

,せ

っか くの新 目標 を砂上 の楼 閣 に しない ため に も

,こ

の真 の二重構造 は一刻 も早 く解 明 され

,そ

して解消 されね ばな らないので あ る。

(16)

注〕

1.中学校英語科においては,昭和44年の中学校学習指導要領の改訂により「言語活動」が導入 されたが

,正

式 にはこれがコミュニケーション能力育成の先駆 けとなった。 2.『 内外教育』1989年2月14日 (p28) 3。 たとえば,大関

,他

(1983:99-102)では,ChOmsky(1965),HymeS(1972),Hartman(1972)に 言及 し,コ ミュニケーション能力並びにコミュニケーション活動 を定義 している。その主旨は,コ ミュニケーシ ョン能力 とは

,発

話文の文法的正確 さのみならず

,社

会的適切 さも判断で きる能力であ り,そしてコミュニ ケーション活動 とはそのような含ヒカ を用いて社会的行動 をすることである, というものである。 これは,平 泉氏や後述のヨールデンの考 えと機軸 を同じくするものである。

4. この理論は, Notional Synabus,Functional Synabus,Functional― Notional Syllabus,ある予ゝ

`よ

Functlonal Notional Curriculamと いったさまざまな呼び名で呼ばれているが,本稿ではNotional― Futtctional Syllabus

で統一する。 5。 このフィノキアーロ・ ブラムフィッ トの論理は些か矛盾 しているように思える。 というのは,ヨールデン等 の定義をコミュニケーション能力であるとし,社 会的適切さの判断能力 もその中に含めるとすると,「生徒の 伝達 目的」 という時には明 らかに

,対

人関係 とかコミュニケーションが とりおこなわれている「場」 といつ たような情況を前提 としてお り,そうすると生徒 はそのような情況の一要素ではあつて も中心ではな くなる か らである。 さらに,学習者 を中心 とするというときには,その学習者の認知スタイル (場独立型か場依存 型か,熟慮型か衝動型か,等)と か学習者の人格(自尊心,抑制,等)を 考慮 しなければならないはずだが, N一Fシ ラバスではこのような学習者の認知ならびに情意領域をどう取 り扱 うのか明らかにされていない。

6.N―

Fシ ラバスにはこの他

,様

態的カテゴリー,つまり話者の態度が表われる範疇 (Categories of modal meaning)も 設けられている。詳 しくはウイルキンズ (1976:38-54)参照。 7.ここでは,(lX3X「DlがN―Fシ ラバスか らの例文である。 8.『 朝 日新聞』1989年 3月10日

9.片

山,他 (1985:13)に も同様 の考 えが述べ られている。その中では,「外国語教育の目的 というと,実用的 目的 と教養的目的に大別 して論 じられることが多いが,二律背反的に考 えた り,美辞麗句で並べてその具体

的肉づけのないところにはあまり意味はない。`Culture'は`improving or refinement by education and training'

である。すなわち,trainingという実用を通 じての refinementがcultureであ り,い わば実用R「教養である。

実用対教養 という対比 より

,強

調点の置 き方の違い として認識すべ きである。」 と説明されている。 10。 平泉試案では

,英

語 は中学校では義務教育の対象 として残す ものの,高校では「厳密に志願者に対 してのみ 課す もの」(p ll)と している。 このような,いわばエ リー ト養成のための英語教育 という前提が,氏が「コ ミュニケーション能力」の定義 について十分吟味 しなかった遠因の一つか と思われる。

参考文献〕

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A Preliminary Study English Education 鳥取大学教育学部研究報告 人文 。社会科学 第 40巻 第

1号

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『英語教育』 VOIXx i n0 8 大修館。 1983 0CtOber

F内外教育』 第4010号 時事通信。 1989年 2月14日

on the False Concept of`Communicative Competence'― A New Teaching Obiect e in

Department of English

Division of Elaglisla Education

Adachi,Kazunli

Resume

This paper deals with the concept of the nelvly instaHed teaching objective in Englsh education: communicative competence in the target language

As a necessary,preHHlinary ground―clearilag,this paper first inustrates the current educational situation 都/hich has been claimed to be the victilm of tM′o opposing schools of thought in terms of the educational

ObieCtiVe:the formalist vs the activist Such a preHHュ inary survey entails a close analysis of an approach

and educational background a■ egedly related to language teaching fOr a communicative purpose ln the

process,the NOtiOnal―Functional SyHabuses,which have been advanced with a specific view to cultivating a communicative competence in the learner,have been proved to be tainted with flaM/s,both practical and

theOretical

Second, a survey on the educational backgound in Europe has yielded the result which underlines the

bilingual hentage as an inherent property for pOsiting coHllnunication― oriented ianguage education as a

viable teaching obiectiVe

Concludingly,this paper demonstrates that the current confusion pestering Englsh education in」 apan

results nOt fronュ the customary dichotomy between formalists and activists but froln infertile endeavor,

based on the false concept,to pursue the objective which could be feasible only with the bilingual teaching/

1earning ambience

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