その周辺部 の地変 について
西 田 良 平 黒 川泰キ1 赤 木 二 郎・2 (平成 5年 6月30日受理) 1 . は じめに 1943年9月10日に鳥取 を震央 とす るマグニチュー ド7.2の鳥取地震が起 った。 この地震では
,死
者 1083名,家
屋全壊7485戸,半
壊6158戸 という大被害 を出 し,地
割れや断層,土
地の隆起や沈降な ど の地変 を生 じた。 この時 に形成 された地震断層が,吉
岡・ 鹿野断層である。 吉岡・ 鹿野断層 に関 しては,津
屋(1944)が地質学的な観点か ら報告 している。 この報告では,吉
岡断層 は長 さ約4.5km,変位 は断層の北側が南側 に対 して相対的 に最大50cm,全般的には10∼40cm沈 下 し,東
方へ最大90cln,全般的には10∼ 40cm移動 した としている。鹿野断層 は,東
西約8km,断
層の 西南西翼では北側が南側 に対 して最大75cm全般的 には10∼35cal沈下 し,東
方へ最大150cm,全 般的に は60cm以下の水平移動 をしている。一方,東
北東翼では南側が相対的 に最大50cm全般的には25cl■程 度沈下 し,西
方へわずかに水平移動 していると報告 している(図 1)。 この断層 については他 に築地 (1948)が地理学的な立場で まとめている。 その後何人かの研究者 の発表がなされている。 また,当
時の体験者の見聞 をまとめた もの も断片的にみ られ る。 ここでは10年前 に行 った再調査 と,津
屋 と 築地の論文 を基 にこれ までの研究 をまとめた ものを示す。 鳥取地震の震源断層 は,金
森(1972)に よって求 め られている。三角測量 による水平変位成分・ 余 震の震源分布 。発震機構 。地震波形記録(京都大学阿武山地震観測所)から求 め られた震源断層 は全 長33km,深さ 0-131all,走 行北80° 東,相
対的なずれの変位 は2.5mと
推定 されてい る(図2)。 この 震源断層のモデル は,お
もに三角測量の結果 と地震波形 の解析か ら推定 されているので,地
表面の 吉岡・鹿野断層 と,変
位 の方向 。位置な どが類似 しているが,震
源断層が その まま吉岡断層・ 鹿野 断層 として地表へ現れてい るとは考 えられない。 *1倉吉市立河北中学校・*2教育学部地学教室含 雨 膨
188
西田良平・ 黒川 泰・ 赤木二郎 第1図 吉岡・ 鹿野地震断層線 図 (津屋弘達,1944)と
周辺部 の地形 m は 1沖
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o 2nd Order ,,___ Assum(・ 3rd Order X h/1ain Shock l rn
京都大学防災研究所地震予知研究セ ンター鳥取観測所 により
,断
層周辺の微小地震活動が精度 よ く観測 されている。鳥取地震か ら50年 を経た今で も震源断層沿いに微小地震が数多 く発生 している。 微小地震 を解析す ることで,地
下の震源断層 と吉岡・鹿野断層 との関係 を捉 えることが可能 になる。 1983年に筆者 ら(主に黒川)によ り再調査 した範囲は,東
西 は千代川左岸 よ り鹿野町鷲峰山付近 ま での約17km。 南北 は,鷲
峰山 よ り浜村 までの約10kmである。鳥取地震 によって生 じた地変 を出来 る 限 り現地で確認 し,収
録 して地図に記載 した。特 に吉岡断層・鹿野断層沿いの地変 は今 までの研究 成果 を示す と共 に地表面の断層分布 を示 した。 表1
本調査地域 の地 質層序表 年 代 層 序 分 布 備 考 新 生 代 第 四 紀 多九 新 世 沖積層 扇状地堆積物 崖錘堆積物 吉岡,松
原 倉沢 吉 岡温泉 吉 岡断層,鹿
野 聯層 更 新 世 火 山灰層 段丘堆積物 (中位段丘,下
位段丘) 福 井, 東 方, 岡 士 四 津 畑 〓 一 大 姶良火 山灰 (AT) 大 山倉吉軽 石 (DKP) 断層地形,深
層風化 第 新 第 二 紀 三朝層群 (人形 峠累層) (三徳 累層) 鳥取層群 (河原累層) 調査地 の山頂部 鷲峰 山西麓 酒 の津,日
光池 584±0,15Ma
白兎 円礫 層 (宝木亜炭層) 非変質 変質 してい る 糸己 古 第 二 紀 吉 岡花 向岩 (文象斑岩・ 花 闇斑 岩) 鹿野東方 に広 く分 布 吉 岡南方 に広 く分 布 木地 山火 山岩類 を貫 く 周縁部 はグ ラノ フ ァイアー 中 生 代 白 亜 紀 鳥取南部火山岩類 (流紋岩質火山岩類) 鳥取花南岩 (小鴨花蘭岩 。人形峠花開岩) 広木,下
光 宝木 の谷奥 浜村,鹿
野 Rb―Sr,K一Ar
59 64MA
中粒 ―粗粒 黒 雲母 花 南岩190 西田良平・黒川 泰・赤木三郎
2
吉岡・ 鹿野断層周辺部の概況 この地域の地形 の特徴 は,南
側 に鷲峰山(920m),毛
無 山 (570m)の1000∼500mク
ラスの高地があ り,北
ない し北東 には200m以
下の丘陵地が存在す る。鷲峰山・毛無 山か ら丘陵地帯へ は数条の谷が 発達 している。鷲峰 山麓の鹿野か ら,北
方へ下原 。浜村・ 宝木へ向か う三本 の谷があ り,
また毛無 山付近か ら吉岡・ 口細見・野坂の谷へ向か う北東方向の谷がある。 吉岡断層以北の山稜 は海抜200m以
下であるのに対 して,鹿
野断層 と吉岡断層 にはさまれている ほぼ平坦な地域 は,200か ら300m程
度 になってお り,吉 岡断層以南では,300m以
上 に高 まっている。 すなわち,吉
岡 。鹿野断層 を境 にして南北 に高度差があ り,1943年
の鳥取地震以前か らこの地域が 断層活動 によ り変動 してきた地域であることを示 している。 また,全
体的には河谷 は南北及び南西∼北東方向に走 り,吉
岡・ 鹿野断層 はこれ らを切 ってお り 並行ではない。 これ は南部の鷲峰山・ 毛無 山な どの中国山地 の大地形の形成以後 に谷 を形成 し,そ
の後 に断層活動があったため と考 えられ る(図 1)。 この地域の地質 は,下
位か ら中生代 白亜紀 の逆入 になる鳥取花聞岩,中
生代火山岩類 の鳥取南部 火山岩類,新
生代 の古第二紀の逆入 になる吉岡花蘭岩,新
第二系の鳥取層群,三
朝層群,第
四系の 更新層 と完新層 に大別で きる(表1)。3.鳥
取地震時の吉岡・鹿野断層 と周辺部の地変 鳥取地震時 に地表面 に現れた地変の位置 を番号で示 し,各地点での説明 は調査地点(NO.),位
置, 聴取事項,聴
取者,観
察事項,従
来の研究 。その他 の順で記述す る。従来の研究があれ ば,原
文 を その まま引用 した。調査地点の番号 と位置等 は図3に示す。 さらに,主
要な地域 については詳細図 を示 した。図中の断層分布 は今回の調査で まとめた ものである。 また,文
末 に示す写真・ スケ ッチ の番号 は調査地点の番号 と同一である。NO.4, 5, 6, 7, 8, 9,10
位置 :鳥 取市吉岡温泉町新町 位置 :鳥 取市吉岡温泉町670 〈聴取事項 聴取者 :那 和惣一氏〉 吉岡温泉新町の水田及び道路 には,鳥
取地震の ときの断層 に よって大 きな地変がみ られた。図Aの
4の那和氏宅 の西側20m地
点 に大 きな地割れが出来 た。 また, 5の位置 には地面が30cm程度盛 り上がっていた。懸樋建築事務所東側の道路 には食 い違 いが出来 て いた。道路上 には30側程度の右ずれの移動 を起 こしていた。垂直方向の変位 はあったか どうか覚 え ていない。7の地点 はこれ より北東へ約40mほ
ど行 った ところの水 田が,断
層の北落 ちのため二枚上 下
耐
蝙
菌
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踊 田 則 器 ω 国 削 叫 洋 オ e ゆ 卦 国 ︵ 野 荊 謝 図 再 ゛ 回 e 蒲 鍬 詳 細 膏 弊 d ︶ 洋 升 螂 中 鮮 鞘 菌 図 > ︱ ス ё 甫 副 叫 抑 帯阿
嬬
口 ” ヨ て い ③ 2192
西日良平・黒川 泰・赤木二郎 田になっていた。8の
地点 は,地
割れが出来てお り,地
割れは山の方向へ向かっていた。 〈観察事項〉 那和氏宅西側 に出来 ていた地割れは,現
在観察で きない。 しか し,那
和氏の示 した 断層の走 向は北80°東方向であった。6の位置では県道の拡幅工事 によって断層の痕跡 は残 っていな い。7の地点では断層 により,一
枚 の水 田の南側が相対的に上昇 した ことによ り二枚 田になってい る。 この二枚 の水 田の垂直方向の差 は40cmで南側が高 くなっている。 しか し,水
田の改良な どが行 われたために,この数字が直接断層 の変位量 を現 しているか判 らない。10の地点 は,畦の斜面 になっ ていて,さ らに雑草が繁 つているために変位量が計れなかった。9の地点では二枚 田が観察で きた。 しか し,水
田を直 してあるので,垂
直方向の変位量 は約50側 で北落 ちであるが断層の走向は計測 は 出来 なかった(1983年当時)。 (従来の研究 。その他〉 津屋(1944)は論文中に次の ように記述 している。「吉岡町か ら新町方面 に 通ず る南50°方向の直線的な新道上の6の地点 は吉岡断層が最初 に確認 された ところで,この道路の 水平並 に垂直変動が明 らかに認 め られ る。 この地点の道路 は幅約5mに
互 って北85°東方向に平行 に走 る数条の割れ 日に依 って横断 され,そ
の北側 は反対側 に対 して東方に最大40cmの水平移動 と15 C14の沈下 とを示す。 この地点の道路の左右一帯 は幅約300mの
間 に互 って吉 岡の谷 を深 く埋 める廣 闊な沖積平地で,大 部分 は稲 田である。稲 の穂先 は6の地点 を通 って北85°東方向に走 る一線 を境 とし て北落 ち及び北側 の東方移動の食 い違 いを成 し,あ
るいは稲株 はこの一線 に沿 って激 し く乱れ,地
震断層が同線 の方向に谷 を横切 ることを示す。谷 を過 ぎて吉岡町東南側 の山地 に入 って後,地
震断 層 は同方向に続 き,吉
岡神社境 内の裏山を経て次の7の地点 に現れ る。この間の地震断層は一点一点 は追跡 されなかったが,多
くの地割れの他 に山崩れ として も現れてお り,山
地の尾根寄 りの花蘭岩 と山麓側 の第二紀層 とを境 とす る地質的断層 に従 っているものの様 である。」 また,筑
地(1948)は次の ように論述 している。「吉岡の南側 は緩傾斜 を持 って山際 に達 し,山
脚末 端 には二,三
の小 さなKernbutを
認 めた。Kernbutの
前端 は断層で切 られ崩れ落 ち赤土の地肌 を露 出 している。 この断層 は墓地記号のある山脚では北側が10c14ほ ど落ち,墓
地では三,四
本の墓石が 南 に倒れていた。山脚上では南へ登 る道路上 に甚だ しい地割れが基盤の花闇岩 を切 っている。西が 少 し落 ちていたが地滑 りであろうか。 この北方山麓水 田中に も谷 の入 日か ら北へ向か う食 い違 いが あるが,こ
の南北方向の もの も注意 を要す る。西側 の2個
のKerncolは明瞭 な断層の後が見 あた ら ぬが,新
町北端 よ り北80°東 の走行 を以 て東 に延 びる断層 は このKerncolを切 るはずである。或 は Kerncol前端へでるか もしれぬが雁行 している様 に思われ る。」 く考察〉 図のAの
4, 5, 67 7に
同一の断層が通 っていることは確実である。 この断層 は那和 氏の北側 より水田に入 り懸樋建築事務所の少 し南側 を通 り,北80°東程度で東の方向へ伸びていた と 考 えられ る。 その変位量 は,垂
直方向に15cm∼ 40側で相対的 に北落 ち,水
平方向では右ずれで40∽ 程度である。 また,
この断層の北 よ りの8, 9,10に
も断層 と思われ る地形 の段差が見 られ る。仮中柱舛中
学一ヤ一
1 110m
A図 鳥取市吉岡温泉町新 町(6:懸
樋建 築事務所 前) I留\
B図 鳥取市三 山口 (13:原氏 旧宅,14:有
四氏宅)形
∈ 骰N
牛
! 1!o 240m K図 鳥取市吉岡温泉町 (×印 は倒壊 家屋)194
西田良平・黒川 泰・赤木三郎 に断層であると仮定すると,先
の断層 と6の西方50mの
あた りで交わ る。垂直方向の変位量50cm程 度で相対的に北側が落ちているが,水平方向の変位量 は不明である。また,坂本末子氏(吉岡温泉324) は「吉岡グラン ドホテルに多 くの地割れが生 じた。 ほぼ北東南西方向の ものだった。」と言 っている。 これは(図Kの 1lA)の
位置 に当た り,断
層の延長線上 にあたる。 (聴取事項 聴取者 :中 川元就〉 吉岡温泉秋葉山の尾根沿 いに,多
くの地割れが入 っていた。段 差な どはなかった ようである。中川氏が住職 をしている宝泉寺では門や本堂が壊れ,境
内にはほぼ 南北方向の地割れが入 っていた。吉 岡で壊れた家 は図Kで
示す通 りである。特 に図中の教蓮寺 は全 壊 した。吉岡温泉では地震直後温泉がでな くなったが, 2∼
3日 で もとどお りになった。地震の前 日か ら,当
日にかけて海が光 っていた。 〈観察事項〉 宝泉寺や教蓮寺では門や本堂が壊れたが,す
でに修復 されている。秋葉 山の地割れ も,風
化 によってな くなっていて観察で きなかった。 〈従来の研究 。その他〉 築地(1948)は次 のように書いている。「吉岡部落内における被害状況 は南 半分の温泉付近 に集中し,二 ,三の倒壊家屋 と多 くの歪 んだ家屋が 目に附いた。吉岡 よ り西 に向かっ て山稜 を横切 る道路では山稜西側の坂道の中途 の水田中に水平垂直移動の跡が現れ,走
向北70°西, 北側が西へ移動 し,か
つ少 し落 ちている。水平移動方向が吉岡南側の断層 とは逆であるところか ら 両断層間に一個 の地塊が在 るのではなか ろうか。 この吉岡の西の断層 は東へ延 ばす と温泉の辺 りに 来 るらしい。 また,こ
の断層 は前記坂道 の下で数力所 に少量 の砂 を噴出 してお り,そ
れ によ り西 は 不明瞭 となる。更 に西方の堤見北側 に東西方向に現れ るようにも思われ るが確かで はない。」 〈考察〉 築地 の報告 している吉岡温泉町西側の断層 は確認で きなかった。 しか し,築
地 の論 旨か ら,断
層が存在す ることは間違 いない と考 えられる。吉岡温泉町の街 には家が倒れた ときに死者が4∼
5名でているが断層線上の ものではなかった。 このため温泉街の中では断層 はで きなかった と 考 える。秋葉 山に地害Jれが多 く入 っていた。 これの延長が宝泉寺の境内に現れてい る と見 られ る。 これが単 なる地割れか,断
層上の動 きか は判 らない。しか し,この地点 より西へ約2.5km離 れた地点 には73の露頭があ り,露
頭中の断層の延長方向に当 り,こ
の断層の何 らかの続 きで はないか と推定 され る。NO.14,14A
位置 :鳥取市三 山口296 〈聴取事項 聴取者 :有 田鴨義氏〉 鳥取地震の時,玄
関前 を断層が横切 り,地
面が波 うち,断
層 は地面が波 うつ と同 じように口を開けた り,閉
じた りしていた。 さらに電柱 な どが大 き く揺れてい た。揺れがおさまった後,地
面 は波状 に凸凹になっていた。地震前 には,家
に密接 していた松が, 右ずれの断層 によ りlm程
度離れた。この断層 は吉岡方面へ向かっていた。また,家
屋が南側 の地 面に対 して相対的に約10cm低下 した。地震後,15の
付近で断層 に沿 って水が湧出す る ところがあった(図の
B参
照)。 (観察事項〉 現在,有
田氏宅で直接断層 を見 い出す ことはで きなかった。 しか し,移
動 した松 な どが確認で きた。これは地震前母屋 にほぼ近接 していたが,現
在 は約lmほ
ど離れてお り,右
ずれ 断層の変位 を示 している。さらに聴取か ら,断
層の走行が ほぼ北70°西の方向であることが半Jった。 これを延長す ると隣の公民館の床下 を通 り道路 を横切 っている。公民館(14A)は土台 と建物 とが食 い違 ったそうだが確認で きなかった。 しか し,断
層が道路 を横切 った と思われ る付近では,道
路北 側の側溝 の下部 の石垣が飛び出 しているのが確認で きた(1983年当時)。 (従来の研究 。その他〉 津屋(1944)の論文中に,有
田氏宅 の被害状況が記述 してある。「有田鴨義 氏宅の母屋の南西隅か ら庭先 を北75°西方向に横切 り,納
屋下 を通 る直線的の地割れが生 じ,そ
の北 側 は南側 に対 し東方 に最大90cm移動 し,約
15cm沈下 してい る。」「地割れ は殆 ど連続的であるのみで な く,有
田氏宅東側 の石垣 を割 って,更
に東方へ伸 びて平家瓦葺の部落会場の床下 を斜めに返 り, その軒先 を通ず る道路及 び小川 を北84°西方向に横切 り,ついで稲 田及 び畠に一旦出た後東西方向に 走 る谷の南側 の山地 に掛 つて居 り,明
らかに地震断層 の現れ と認 め られ るものである。」 〈考察〉 有 田氏宅前 を通 る断層 は,相
対的に北落 ちした断層である。断層の走向な どか らして こ の断層 は大塚の塚谷氏宅の床下 を通 った もの と同一の断層であると推定 され る。 NO。13,15
位置 :鳥 取市三山口・ 原俊英氏旧宅 〈聴取事項 聴取者 :原 俊英氏〉 鳥取地震の時 に,原
俊英氏 旧宅 を横切 る断層が入 った。 これ は母屋の西側 をかすめるように通 った。このため,家 の中にあった便所がlm程
度西側 に移動 した。 また,北
側が相対的に下がったが,そ
の量 は憶 えていない(13)。 また,裏
山には吉岡の方向へ地割 れが数多 く見 られた。断層沿いには砂 を伴 う水の湧出がみ られた。その場所では30cmく らいの砂 の 山がで きていた。水 の湧出は現在で も見 られ,そ
の付近 は湿 っている(15)。 (観察事項〉 現在,原
氏 は地震の時の場所ではな く別 の所 に居住 しているために,原
氏旧宅 とい う言葉 を用いた。原氏旧宅 は,現
在 は土蔵 と石垣があ るのみで,畑
になっている。 この石垣 に右ず れ断層 と思われ る食 い違いが残 っている。南側が西方向,20cm程
度変位 している。 しか し,垂
直方 向の変位量 は不明であるが,走
向については測定がで きなかった(1983年)。 〈従来の研究 。その他〉 津屋(1944)は次のように書 いている。「原俊英氏宅の床下 に北80°西方向に 地割れが生 じ,そ
の南側 は反対側 に対 して約10cm盛 り上が り,西
方へ約20cm移動 し,上
台の石組 に 垂直及 び水平 の食 い違いが認 め られる。建物 自体 は瓦葺平家で大 して痛 まず傾 いて もいない。」 〈考察〉 原氏 旧宅 に出ている断層 は走行・ 変位量 な どか ら有 田氏宅 の床下 を通 った断層 と同一 の ものである。 この断層 は吉岡方面へ伸びている。断層 に沿 って水 の湧出が見 られているが,
この原 因は地下の水脈 の変化 によるものであると推定 され る。196 西田良平・ 黒川 泰・ 赤木二郎
NO.19
位置:鳥取市大塚 〈聴取事項 聴取者 :塚谷一美氏〉 鳥取地震 の時,大
塚 の塚谷氏宅 の母屋 の下 に断層が入 った (19)。 その方向 はほば東西方向であ り,断
層の割れ 目の北側 は南側 に対 して東方向へ75cln程度移動 した。 また,垂
直方向の変位 は,北
側が相対的に落 ち,変
位量 はわずかであった。 また断層 は野坂 の南側 を通 り,立
見の方向へ走 っているが,野
坂川 を越 えたか どうかは言己憶 にない。 また,こ
の付 近 は井戸水が出な くな り,20年
程度経てか ら再 び出始 めた。 (観察事項〉 塚谷氏 の母屋 は新 し くな り,断
層が どこに入 ったか は判断で きない。 しか し,修
理 はしてあるが,家
の回 りの石がわずかに動 いているのが残 っている。地震の変位量 はわか らないが, 変位の方向はほぼ北80°西である(1983年当時)。 (従来 の研究 。その他〉 津屋(1944)は次のように論述 している。「大塚部落 に下 る峠付近か ら東方 に開 く谷 に入 って,地震断層 は谷間の田畑上 を南70°東方向に連続す る直線的な地割れ として現れ, その北側 は南側 に対 して最大約35cm沈下 しているが,測
定可能の水平移動 を示 さない。そして同断 層は谷 の出口にあたる塚谷一美氏宅 の床下 に北80°西方向に走 る幅約50cmの地割れを生ぜ しめ,こ の 割れ日の北側 は南側 に対 して東方に70cm移動 し,僅
か に沈下す る。同氏宅 は草葺で,そ
のままで は とうてい住むに耐 えないほ ど傾斜 しかつ痛み,地
割れの北側 に跨 ったその1部
は地面の沈下 と水平 移動のために上着石か らまった く外れて浮いていた。 この地震断層 は塚谷氏宅地の北東隅か ら更 に東方へ続 き,稲
田に入 り,野
坂川一帯 に発達す る廣 闊な沖積平地上 を野坂部落南端近 くまで明瞭 に追跡 され る。 この間,大
塚部落か ら野坂 にいた る道 路 を横切 る地点 にお いては,北
80°西方向に地割れが現れ,そ
の北側 は南側 に対 して約13cm沈下 し, 僅かに東方 に移動 している。道路の左右の稲 田上 にお いては,断
層線 に沿 って稲穂の列,畦
等が, 上下及び左右 の食 い違 いを示す。野坂部落 に近 い野坂川左岸 の稲 田の畦 を横切 る断層割れ 日は,北
85°西方向に走 り,そ
の北側 は南側 に対 して約15cm沈下 し,東
方 に10cm移動 している。」 〈考察〉 津屋(1944)の論文 において も塚谷氏宅の記述 は筆者等の聴取や観察結果 と一致 してお り, ここの断層 は西へ は三 山回の14,15な
どに現れた断層 とつなが り,東
へ は21の地点 まで延長で きる と考 える。NO.22,23
位置 :鳥 取市野坂221 〈聴取事項 聴取者 :山 本安雄氏 。大久保尚義氏〉 野坂 の南側(22)に位置す る山本安雄氏宅 に, ほぼ東西方向の断層が入 っていた。 この断層 は山本氏宅 の玄関の上間 を横切 り,南
側が相対的 に上 昇 した。 その変位量 は,約
50cmほ どであった。 また,水
平方向のずれは記憶 にない(図 C)。 野坂橋 東岸 には,大
きな段差が出来ていた。垂直方向の変位量が約40cntあり,橋
桁が相対的に上昇 してい た(23)。 地震時の野坂の被害 は非常 に大 きく,多
くの家屋が倒れた。野坂の小学校(現トヨ ミエ業)も倒れた。島・ 徳尾な どの地域で は
,湧
水・ 噴砂 を多 く見か けた。 〈観察事項〉 山本安雄氏か ら聞いた もので現在確認で きるものはなかった。断層が通 った と思わ れる山本安雄氏宅 は家 を新築 してあ り,野
坂橋 も道路 の拡幅工事 などで確認で きない。 (従来 の研究 。その他〉 津屋(1944)は論文 に次 のように論述 している。「野坂部落 に近 い野坂川左 岸の稲 田の畦 を横切 る断層割れ 目は北85°西方向に走 り,そ
の北側 は南側 に対 して約15cm沈下 し,東
方に10cm移動 している。野坂川の右岸の沖積平地 には,上
記断層線 の東方延長 にあって,田
畑及び 道路上 に割れ日,地
盤沈下等が多い。 また,そ
の東側 の花聞岩及び第二紀層か らなる丘陵及 び この 丘陵 と千代川左岸 との間 にひろが る,同
断層の延長 にあって,同様 の地盤変動が所々に認 められる。 然 し,そ
れ らは震央地域 内の地震断層線か ら距た る部分 に見出される種類 の もので,野
坂以西 にお て認 め られ る如 き系統だつた配列方向,形
状,及
び変位 を示 さない。従 って地形的 には吉岡断層 は 野坂か らその東側の丘陵 を真東 に横切 って鳥取市南郊 の千代川河岸平地 に通ず るようにも見 られる が,吉
岡地震断層の東翼,少
な くとも表面的には野坂 に止 まり,そ
れ よ り東方 には現れていない も の と考 えられる。」 築地(1948)は次のように論述 している。「野坂付近 に目を転ず ると,こ の辺 りには断層 に沿 って幅2∼
30m位
の間一帯 に砂 を噴出せ る跡が多数点在する。一箇所 よ りの砂 の噴出量 は少な く,50甑
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C図 鳥取市野坂 (22:山 本安雄氏宅,23:野
坂橋東岸)198
西田良平・黒川 泰・ 赤木三郎 方位 よりも小 さい低平な砂 の跡が時 には噴出国の小 さな窪みを残 していた。配列 も明確でな く,地
割れ 自体が細 くて在 るか無 いか判 らぬ程度の ものが多い。砂 は薄い表上の下 に在 る河砂である。 鷲峰・ 吉岡両断層 は野坂東南 の水 田中にお て交叉す る筈である。鷲峰断層 には下段 の西方県道の 西側 に上記の如 く砂 を噴出 した割れ 目が多数 あ り,斜
目に県道 を切 って野坂の南 に至 り再 び砂 を多 く噴出 していた。最大の移動量 は水平 に40cm,垂
直 に70cm,東
南側落 ちで西方へ移動 している。野 坂部落内の被害 は甚大で,完
全 な家屋 は殆 ど一軒 も見当た らなかった。野坂 の東方の山際 にも断層 が現れ,避
病院記号 より東へ向か って小 さなKernbutが
数個列 んで,Kernbut列
の前面 にも水 田中 に喰い違 いが現れていた。」 く考察〉 山本安雄氏宅の床下の断層 は,ほ
ば東西方向の走向を示 してお り,
これ を東 に延長す る と野坂橋東岸 に現れ る。走向,位
置 な どか ら考 えて,山
本安雄宅 の床下の断層 と,野
坂橋東岸の地 変 とは同一の断層であると言 える。山本安雄氏宅 の断層 は,北
側が相対的 に落 ちたのに対 して,野
坂橋東岸 では南側が相対的に降下す るとい う逆の現象が起 こっている。 この付近 は沖積層で地下の 変化がその ままの形では現れていない場合であると推定 され る。 この断層 は西へ は追跡することは で きないが,塚
谷一美氏宅 を横切 った断層 と雁行 しているのではないか と推定 され る。野坂の被害 が大 きかったのは,こ
の断層が野坂の中央 を通 ったか らだ と考 えられ る。NO.24
位置 :鳥 取市宮谷268 〈聴取事項 聴取者 :縄田源太郎氏〉 宮谷のほぼ中央 に断層が走 った。 これ は北側が相対的に落 ち込み,そ
の変位量 は20cm程度であった。 しか し水平方向の動 きは憶 えていない。 この断層 は縄 田 氏宅の玄関の土間を通 り,本
高方向へ伸 びていた。宮谷での被害 は北側の方が大 き く,数
軒の家が つぶれた。 また,地
震直後 に古海で は水の湧出が起 こっていた。野坂の被害が大 きかった(図 D)。 〈観察事項〉 宮谷の縄 田氏の居宅 は山際 に建 て られている。 このため,道
路 よ り2mほ
ど石段 を 上が らなければな らない。 この石段 の左横0と側)には石垣 に段差がついている。 これ は,ほ
ぼ10cm ほど南側がでていた。 しか し,こ
れが直接断層 に結び付 くか どうかは判 らない。縄 田氏宅 の玄関内 の上間は,真
ん中か ら北側 に落 ち込 むように傾 いてお り,傾
き始 めるところには亀裂 の跡の ような ものが残 っている。 これはすでに埋 まって しまっているが,地
震直後 には大 き く地が割れていた と 思われ る。 また,現
在 この家 の上台 を見 ると,家
の北側では柱 と上台の間 に厚 さ3 cmのコンク リー トが入れてあった。ただ どの くらい落 ち込 んだか ということは,家
を全体的に調査 しなければな ら ず,こ
の調査 を行 っていないために不明である。この地割れの走向は北55°西の方向で,こ
れ を延長 す ると本高方面へ伸びて行 くことがわか る(1983年)。 (従来の研究・ その他〉 この地点の断層の状況 については,ど
の論文 に も書かかれていない。 〈考察〉 ここで観察 されている断層 は,宮
谷のほぼ中央 を通 っているもので,北
側が相対的に落ち込んでいる。 その変位量 は約20cmであった。 しか し
,水
平方向の変位量 は縄田氏 も憶 えていず, 不明である。ただ,玄
関へ上がる階段の左手 にあった石垣 の段差が地震の断層 によるものだ とすれ ば,こ
の地点の転移量 はほぼ10cmの右横ずれであろう。東へ は本高へ追跡できるが,西
へ は野坂川 を越 えて続 くか どうか不明である。ただ この断層の走向は今 までにわかっている断層 とは別 な もの である。NO.25
位置 :鳥 取市本高135 〈聴取事項 聴取者 :河原茂輔氏〉 河原茂輔氏宅 よ り北西の方向で20m程
先 にある松本嘉宏氏宅 の前の道 よ り,河
原茂輔氏宅 の方向に断層があった。 その断層 は段差が30cmく らいで北が相対 的 に 落ちていた。水平の動 きはわか らない。 この断層 は菖蒲 の方へ伸びていた。方向は座光寺 の方向で あった(図 E)。 (従来 の研究 。その他〉 従来の研究(津屋1944・ 築地1948)には,こ
の付近の記述 はない。 〈考察〉 本高の河原茂輔氏宅 はすでに修理 してあるために,断
層 を実際に確認す ることはで きな かった。しか し,本
高の この位置 は野坂 と菖蒲 との中間点 に当た り,走
行 は北80°∼85°東の方向であ る。 このため,宮
谷か ら続 く断層 と推定 され る。N026,27
位置 :鳥 取市菖蒲 ,′B
\ャ
叫
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︲ ≡⋮脇
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_」
、 D図 鳥取市宮谷 (24:縄田源太郎 氏宅) E図 鳥取市本高 (25:河原茂輔氏 宅)200
西田良平・ 黒川 泰・ 赤木二郎 〈聴取事項 聴取者 :澤田時春氏 三澤謙二郎氏〉 「鳥取市菖蒲の平野英雄氏宅 に大 きな地割れ が入 った(27)。 その地割れ は高低差が,ほ
ば20cmぐ らいで北側が落 ちていた。地割れの方向は鳥取 市吉成方向であった。 しか し,千
代川 を越 えて鳥取市街地 の中へ は追跡で きない。 また,旧
大正小 学校 の西側の上手が約lmほ
ど陥没 していた。」以上が澤田時春氏か ら聞いた ことである。また,菖
蒲の三澤謙二郎氏か らは,「菖蒲山の麓の座光寺付近か ら菖蒲へい く途 中で,ほ ぼ20∼30mく
らいに 亘 ってほぼ東西方向の段差がついていた(26)。 その段差 の高低差 は20cmぐ らいであ り,南
側が落 ち ていた との ことである。 また,
この付近 には多 くの地割れが入 りその地割れか ら砂が吹 き上 げ られ ていた。 そして地震 と共 に千代川の水が少 な くな り, 2・ 3日してか らもとどお りになった。」 と聞 いた(図 F)。 (観察事項〉 澤田時春氏及び三澤謙二郎氏か ら聞いた事象 は現在では確認で きない。 また,断
層 が通 った と言われ る平野英雄氏宅 は家屋 を新築 されたために地変 を観察で きなかった。菖蒲山か ら 菖蒲への途中に出来た水田の中の段差 は,耕
地整理のために確認で きなかった(1983年)。 く従来の研究 。その他〉 津屋(1944)・ 築地(1949)の論文中では自蒲地域 に言及 していない。 (考察〉 この菖蒲 に生 じた と推定 される断層 は,変
位量がほぼ20∼ 30cmぐ らいの ものである。 し か し,水
田の中に出来た段差がほぼ20cmほ ど北側が上昇 しているのに対 して,平
野英雄氏宅 は南側 が相対的 に上昇 している。この2つの地点での断層の走 向がそれぞれ北70°∼80°東であ り,しか も位 /11
卜
ざ
0 100rni l
N
牛
勅
F図 鳥取市菖蒲 (27:平野 英雄 氏宅)置か らみて もこれ らは同一の断層 と考 えられ る。すなわち
,菖
蒲 山か ら菖蒲 に入 るまでは沖積層で あることか ら,地
下の変化が現れない場合 もあると推定 され る。 この場合,地
下で北側が相対的に 上昇 したのが,地
表で はなん らかの原因で逆の形で現れた と考 える。NO.35,37,39,40,49
位置 :鳥 取市法楽寺・末用 〈聴取事項 聴取者 :兵 主勝美氏〉 鳥取地震 によって,自
宅の母屋 に断層が入 った。 このため母 屋 は大 きく傷 んだ。 また,前
の小ナIIを断層が横切 ったため,川
が曲が った。 ここでは北側が相対的 に落 ち込んだ ようであった。断層の方向は,赤
坂峠方向へ伸 びていた(39)。 末用川 を断層が横切 っ たために,こ
の川の護岸が割れていた(図 G)。 (図4,写
真1, 2参
照) 〈観察事項〉 兵主氏宅前 を流れ る小川が断層のため大 き く食 い違 っている。走向は北80°東,北
側 が南側 に対 して相対的に東へ移動 し,そ
の水平方向の変位量 は46側あるいは56c14程度である。 しか し水路 はこの地点,南
北10m程
度 にもわたって食 い違いが出来てお り,水
路の この部分だけで水平 方向の変位量 は言 えない。また兵主氏宅 は改築 されているが,屋
敷の縁石が地震当時の ままである。 末用川の護岸 も修理 されて,地
震断層 に関す る形跡 はなかった。 (従来 の研究 。その他〉 津屋(1944)に よれば,「前記の小丘 を東方 に横切 る同断層 は直 ちに鹿野断 層に面 して20の地点 に,前
後 に並ぶ2戸
の人家(兵主氏宅)の床下 を北70°東方向に貫 く。2棟
共 に草 G図 鹿野町末用・ 法楽寺 (39:兵主氏宅前用水路)202
西 田良平・ 黒川 泰・ 赤木二郎 0 [2 3 456 7 8 9 10 11 12
第4図 鹿野町末用・ 兵主氏宅前用水路 (39地点)付
近 の詳細 図 と用水路底 の垂 直高度分布 の断面 図 葺家で,一
見殆 ど完全のようであるが,い
ずれ も倒壊 の恐れある程度 に曲が りなおかつ傾斜 し,戸
障子,床
等 はひ どく痛んでいる。両家 を貫 く地震断層の形跡 は示 さないが,裏
の家ではコンク リー ト固めの上間に大 きい割れ 目として残 る。末用の前記人家 を買 く地震断層 は……南北 に通ず る鹿野 断層及び道 そばの川 を北75°東方向に横切 って,法
楽寺川の稲 田の中にはい る。同断層 はこの地点 に おいて,標
式的に現われ最初 に確認 された ものであって,元
来 ほ とん ど平坦かつ直線的であつた と 思われ る川の左岸堤防上 の鹿野街道 は断層 を境 として上下及び左右 に曲が り,道
側 の玉石い リコン ク リー ト固めの護岸壁 は鱒(ひび)割れている。すなわち道床 は既 に修理 され,断
層上の変位 を正確 に測 り得 る状態 を とどめていないが,北
側の南側 にたいす る沈下 と東方移動 とは明 らかに認 め られ る。川の右岸の堤防 を通 る断層の形跡 は左岸 と同様 の玉石雑 リコンク リー ト固めの護岸壁及 び堤防物
上 に毅然たる鱒割れ と水平並 に上下の喰い違い として現われて居 り
,断
層の北側 は南側 に対 して約 35cmの沈下 と約150cmの東方移動 とを示す。護岸壁の面上 に見 られ る亀裂 は北方 に70°内外 の傾斜 を 示すので,亀
裂が断層 自体 の表れであるとすれば,断
層面 は北方 にこの程度 に傾斜す る もの と考 え られ る。」 〈考察〉 法楽寺,末
用 において,現
在 の こる断層の痕跡 は,兵
主氏宅前 にある小川 の喰 い違 いを 残すだ けである。 しか し,こ
の部分が断層 による変位量 を正確 に現わ しているとは言 えない。 これ は,こ
の刈WIIの食 い違 った部分 を中心 にして南北,ほ
ぼ10mに
渡 って緩やかに曲が ってい るためで ある(図4)。 このため,こ
の付近の変位量 を正確 に確認す ることはで きない。 しか し,津
屋 は未用 川右岸 の堤防上 に,断層 による喰 い違 いを確認 してお り,円ヒ側が南側 に対 して約35cmの沈下 と約150 clalの東方移動 を示す」 と書いている。 これが この末用・法楽寺付近 の変位量である。 また,末
用の 原田寿美氏宅南側 の谷(37)に断層が入 ってお り,こ
の断層 は(35)の神社南側へ向か った もの と思わ れ る。49地点で も水 田の所有者 に面接 し,断
層の位置 を確認 した。NO.52,53
位置 :県 道妙徳寺・ 鹿野線 の赤坂峠南側 〈聴取事項〉 な し く観察事項〉 県道妙徳寺・鹿野線 の赤坂峠南側 の道路西側 に断層の露頭がある。露頭向か って右 手が ほぼ北側,左
手がほば南側である。 この露頭 は,三
本の断層 と四本の小断層が認 め られ る。露 頭右手 の白兎礫層 は,風
化 した直径10∼ 30帥程度 の亜角礫 か らなっている。 この部分の 白兎層 は, 左手の黒雲母花闇岩 と正断層 によって接 している。 しか し,ネ
ッ トが張ってあるため,そ
れ以上 の 観察 は出来 ない。右か ら2本
の断層 に挟 まれた花蘭岩 の上部 は白兎層 と不整合 によって接 している。 この部分 と左側の黒雲母花聞岩 との間には正断層がある。この断層 は幅3cmの断層粘土帯 を持 ってお り,走
向・傾斜 は北80°東・80°北落 ちである。不整合の付近 には, 4本
の小断層が確認 され る。 そ し て,不
整合部分の断層の左側約lmの
ところにも幅約2側
の断層粘上 を伴 う正断層があ り,走
向・ 傾斜 は北65°∼72°東・70°北落ちである。 しか し,変
位量 は不明である(53)。 赤坂峠の露頭 の裏側(西 側)の山頂付近 には崖崩れがみ られ る。直接の原因 は鳥取地震 によるものでは無 さそうであ るが断層 によ り弱化 した ものが崩れた と推定 され る(52)(図5)。 〈論文 。その他〉 岡田 。安藤・佃 の論文(1981年 )には,次
の ように書かれている。「法楽寺東方約 l kmの道路西側(県道妙徳寺・鹿野線 の赤坂峠南側)には,鹿
野断層 と思われる露頭がみ られ る。北 側 の白兎層 は火山山麓扇状地層 と推定 され る鮮新統で,こ
こでは巨礫岩層 と南側 の花 開岩類 が,北
70°∼75°東 。65°∼78°北落 ちの断層面Fl―
Aで
接 している。これに沿 って断層粘上(破砕度Vi流
径 0.2null以下の細粒物質が90%以
上で占め られ る部分)は幅約l cmぁ り,さ らに破砕度Ⅳ(細粒物質が粒 径0.2mm以上の粗粒物質 より多い部分)が約10c14認め られ る。この断層の南側約lmに
も北80°東・78°204
西田良平・黒川 泰・赤木三郎N
FAULT?
y Z ■ = ︱I H P キ ー キ ー Z ﹃ 枷 門 あ り Z 辞 + 軟 o ′ + 4♀
1
そ
♀
m
第 5図 県道妙徳寺一鹿野線・赤坂峠南側の断層露頭 (53地点) 北落ちの断層があ り,幅
約2 cmの粘土帯 を伴 つている。断層Fl―
A以
南 の花闇岩類が破砕 を受 け, 破砕度H(細
粒物質 は10%以
下で,小
断層・節理等の割 れ 目が概 して10硼以下 の間隔で生 じてい る部 分)からI(細粒物質 は無 く,割
れ 目の間隔が10c14以上 の部分)が幅約数cm以上認 められ る。 白兎層兎基盤 をなす花 聞岩類(マサ化 しているが全体 としての破砕度I)とことま正断層状 を呈す る小 断層(落差数∼20cm)が6枚
ほ ど見 られ,い
ずれ も上述のA・B断
層 とは走 向が斜交 している。 なお,煮ヂ空嘔
乙
絶
tfザ
■ + 十第密
界
霧
沈
型
十
I oο ι弩
移
, 0D▼
b Oo 0ここでの不整合面 は北方が高 くなるのに
,高
度的に低い赤坂峠 には白兎層が露出 しているので,こ
の間にも断層が存在す る可能性 もあるが植生のため確認で きない。」 〈考察〉 この地点での断層 は3本
の大 きな断層 と4∼ 6本
の河ヽ断層 に分かれている。鳥取地震 に よって どの断層が動 いたかはこれだけではわか らない。 しか し,法
楽寺か らの断層が双六原へ向か う線上 に,こ
の露頭が位置 してお り,ま
た走向な ども一致す る。 よって,い
ずれかの断層が鳥取地 震によって動いた と結論 され る。NO.55
位置 :鳥 取市本洞谷 〈聴取事項 聴取者 :竹内正勝氏〉 竹 内正勝氏所有 の水 田が,地
震前 には1枚
であつた ものが, 地震断層によって二枚 田 となった(55B)。 これは水 田が北西の走 向で北側が落 ち込 んだ もので,そ
の変位量 は70cmぐ らいであった。水平方向のずれははっき りと記憶 していない。断層 は東西方向で 約lmの
地割れを ともなっていた。また,地震直後か らこの付近で は,川の水や井戸水がでな くなっ た。このため井戸 を掘 ったが成果 は上が らなかった。地震後,3∼
4年
たってか ら水が出始 めたが, 水量 は地震前の6∼ 7割
程度であった。地震前 と同程度 になったのは, 7∼ 8年
後 の ことである。 この付近の山の中は地割れが多 く出来た。 これには幅lm程
度の もの も見 られた(図H)。 (観察事項〉 竹 内氏所有の水田は本洞谷 の谷の上の方にある。 この水田は断層のために二枚 田に なった。 この二枚 田の走 向や,変
位量 は水田が直 されたために計測が不可能である。 しかし,竹
内 氏が指す方向を測 る と北74°東の方向であった。そ して北西側が落 ちていた。 (従来の研究 。その他〉 津屋(1944)に よれば,「洞谷の谷奥 に至 るこの地点付近 には垂直並びに水 平変位 の明瞭な断層の変位 は認 め られないが,谷
川の風化花聞岩 をきる割れ 日,谷
間の稲 田を囲む 畦及び石崖の崩れ等 は断層が北80°東方向を持 って東側 に尚続 く事 を示す。この地点付近 の花聞岩 に は前 に述べた ごとく古い小断層が多い。Jと
言及 している。 また築地(1948)によれば,「洞谷の西南約800mに
北70°東 の方向で谷 を斜 めに横切 る。移動最大量 は水平65c14,垂直40cm,洞
谷 を流れ る川 は観察前 日のかな りの降雨 にも拘 らず水量少 な く村民 に問 うて も地震後 に斯 く成 った と云 う。また,洞
谷の民家の深井戸(深さ不明)は地震後3日 目で まった く 渇水 し,そ
の後 は濁水が少量涌いた り渇れた りした と伝 う。」 〈考察〉 この水田に出来た食い違いは地震時の断層 によるもので,個
々で示 されている断層の走 向,落
差 などか ら考 えて,東
は双六原,西
は法楽寺・ 末用へ と伸 びるものである。NO.57,59,61,79
位置 :鳥 取市双六原 〈聴取事項 聴取者 :田 中愛雄氏〉 鳥取地震によって,双
六原 よ り500mほ
ど上流で,長
柄川の護 岸(57)が食 い違 っていた。食 い違いの方向は,北
側が東方向へずれて少 し相対的に落 ちていた。 ま206
西田良平・黒川 泰・ 赤木二郎 た,双
六原か ら矢矯へ向か う県道上 に,ほ
ぼ東西方向の地割れが出来 ていた(59)。 この地割れが水 平方向,あ
るいは垂直方向に動 いたかは定かでない。 また,田
中氏所有 の水 田(79)は,北
側が上昇 した。その変位量 は20側程度であった。水平方向のずれはわか らない。 この段差 の方向は,ほ
ぼ北 西方向9ヒ50°西)であった。しか し,田
中氏 の水 田の変化 は地震の翌年 まで気づかなかった というこ とであった。双六原の約200m南
東側(61)の地点 に地割れが出来ていた。これ は,ほ
ぼ北東方向に伸 びていた。変位量 は憶 えていない(図H)。 〈観察事項〉 護岸,県
道,田
中氏所有の水 田 ともに修理 されているために,位
置の確認だけしか できなかった。 また,山
中の地害 `れ は確認で きなかった。 〈従来の研究 。その他〉 津屋(1944)は,次
のように書いている。「・……27の地点 において,同
断層 は谷川の右岸 に設 けられている潅漑用水溝 のコンク リー ト壁 を北75°東方向に割 り,そ の割れ 目の北 方側 は相対的に約5 cm沈下 し,東
方 に60cm移動 している。 ここか ら次 の地点 にいたる間には谷間の 稲田に地割れが続 く。」 「双六原か ら矢矯 に通づ る道路上の この地点 において,断
層の形跡 は既 に踏 み荒 されたためかあ るいは道路の修理せ られたためか,判
然 としないが北75°東 に走 り,若
干南落 ちの変位 を示す。道路 東側 の花筒岩の丘 に同断層 を追跡す ると,潅木の密生す る薮の中の風化花 蘭岩の急斜面上 に北75°東 H図 鳥取市洞谷・ 双六原 (55:洞谷,57-61:双
六原)方向の深 い割れ 目があ り
,丘
の上 の芝地及 び畠には雁行状 の地割れがみ られ る。」 「上記の丘 の東側 の狭 い谷間 に当た るこの地点 にお いては,稲
田上 に北70°西方向の地割れが雁行 状 に北55°東方向に並び,そ
の南東側 は相対的 に約25clll沈下 し,南
西へ若干移動 している。 この地点 の東側 の尾根 に上が ると再 び花闘岩 の斜面上 に割れ 目が続 く。J 〈考察〉 双六原 にお ける断層の調査事項 は,津
屋の報告事項 の確認 になった。 しか し,田
中愛雄 氏所有の田は,地
震によって北側が20cm程度上昇 している。 この地点が断層であるとは断言で きな いが,鹿
野断層 に付随す る地変であると推定 され る。NO.62,63,64,81
位置 :鳥 取市 口細見 〈聴取事項 聴取者:谷口吉次氏〉 鳥取地震 によって谷 口氏所有の水田に大 きな断差がついた。 これ は水田の西側(上手)が下が り,そ
の変位量 はほぼ15cna程度であつた。段差の出来 た崖端 の方向 は,だ
いたい北西であった。また谷 口氏所有 の水田よ り東 に約30m離
れた ところにあった水路が約 20cm割 れた。割 れた方向はほば南北 の走 向で あった(81)。 地震 によ り,谷
口氏所有 の水 田 よ り約 70∼80m西
にある寺 の本堂前 に地割れが出来 ていた(64)。 また,口細見 より北方500m程
度 にある山 では頂上付近 に,尾
根 と平行 に地割れが数多 くで きていた。 この付近では地震後,谷
水 な どの水のヽ
ヽ
し
テ
″
t:JL)│)
ス
I=て
メ
ロ _イ/疹
//欲
隕
/ r ∩ ヽ ヽ プ r ヽ ペ 〆/ I図 鳥取市 口細見 (63:断層露頭)208
西田良平・ 黒川 泰・ 赤木二郎 減少が著 しく,地
震後数年 を経てか ら,水
が出始 めた(図I参
照)。 (観察事項〉 口細見 には,津
屋(1944)が論文 中に書 いている露頭がある(63)。 この露頭 は断層角 礫帯が北85°東・54°北落 ちであ り,そ の両側 は黒雲母花開岩がある。この断層角礫帯が断層である(写 真3)。 露頭の西側 の小滝 にも2枚
の小断層があることを津屋 は報告 している。法華経祈濡所前庭 の 地割れ も風化 によ り不明であった(62)。 谷 口吉次氏の水田は耕地整理 により地震直後 の原形 を止 め てお らず,水路 も整備 されていた。このため,位置走 向な どは聴取 による確認 しかで きなか った(1983 年)。 (従来 の研究 。その他〉 津屋(1944)は論文 中に次の ように書 いてい る。「 口細見部落西方の法華経 祈濡所入 国の路傍 に断崖 をなして露出す る黒雲母花蘭岩 に断層が認 め られ る。同断層 は略東西の方 向の走 向 を示 し,北
方 に約60°傾斜 し,幅
約20cmの断層角礫岩 をはさんで同岩質の黒雲母花 蘭岩 を切 るものである。 その延長 は同所か ら西方に約100m距
た る祈濡所 の漠水 の掛 か る花蘭岩 の断崖 に も 顕著 な列 として現れている。最 も注意すべ き事実の1つは同地 にお てはこの花蘭岩 を切 る地質的断 層が鹿野断層の一部 として地震当時 にお ける変位 を実際 に示 していることで祈濡所入 口の花闇岩断 崖 は断層の近 くで著 しい崖崩れを起 こしているのみな らず,断
層の北側(上盤)は南側 に対 して東方 に数10cmだ け押 し出されている。J 「 この地点 は,口
細見部落西端 の法華経祈濤所で,そ
の前庭 に走向東西で南落 ちの地割 れが雁行 及び平行的に多数生 じ,ま
たその連続 として同所入 口の道路右側 の花闇岩に割れ目及び崩壊が生 じ ている。前 に述べた花闘岩 を切 る地質的断層が地震断層 と一致す るのは,こ
の地点である。」 「 この地点の道路上 に走 向東西の地割れが生 じ,そ
の南側 は約13側の沈下 を示す。 この地割れの 西方延長 は路傍 を流れ る谷川の岸壁の崖崩れ及び用水溝のコンク リー ト壁の割れ目として,
また東 方延長 は路の東側 に建 つ寺の前庭 に地割れ として現れ る。 この所 か ら東方 に約500m距
た る国細見 部落 内至 る間 には,同
方向の地割れが田畑,道
路,人
家の庭等 に追跡 されるが,同
部落か ら東方 に はその連続 らしい ものは見当た らない。」 岡田 。安藤・佃(1981)は論文中に次のように論述 している。「露頭中心部 に灰 白・ 淡黄・茶褐色 の 入 り交 じった断層角礫帯(東西走向,傾斜60°北落 ち)幅 20∼ 30cm見 られ るが明瞭な粘土帯 はほ とん ど 認め られず,幅
l cm以下の細脈がわずかに発達す る程度である。この破砕帯 は半固結 の状態 を呈 し, 風化 も進行 している。…… こうした破砕帯 は比較的小規模であ り,通
常の活断層調査では見落 す程 度である。 しか し,こ
のような断層 に沿 って鳥取地震時 に南落 ち約13cm,右
ずれ約10cmの動 きが確 認 されている(津屋1944)のは注 目すべ きであろう。 なお,こ の西側の小谷 にある小漠で も,2枚
の小断層(走向ほぼ東西傾斜65°∼70°北落 ち)がみ られ る(津屋1944)。 破砕帯Ⅲ以上の断層破砕帯 は認 め られず,そ
の幅 も数硼以内である。 これ らは鹿野 断層 に並走 した節理の少 し大 きい程度の副断層であ り鳥取地震時 には動かなかった らしい。」〈考察〉 津屋(1944)の報告 している祈濡所前の地割れ は現在残 っていない。 しか し
,祈
濡所の小 漠の岩 に割れ 日(走向北85°西,傾
斜70°北落ち)がみ られ る(62)。 これは,走
向・傾斜 ともに祈濡所入 口の道路の花蘭岩の断層の延長状 にあると考 えられるが,断
層粘土・ 断層角礫岩 もな く,鳥
取地震 に際す る断層運動 によって この割れ 目が出来たか どうかは不明である。祈濡所入 国の道路右側 にあ る大露頭が,鳥
取地震の時 に動 いた ことを津屋が報告 してい る。 その変位量 は断層の北側(上盤)が 南側 に対 して東方 に数10cm動いた と確認 されている。現在 この露頭 はネ ッ トで覆われているために 詳 しい調査が出来 ない。 また,谷
口氏 の述べた水田に断差がついた ことに関 しては,露
頭 にでている断層 と走向な どに大 きな差があ り,露
頭 の断層上の もの とは考 えられない。 また,水
田の食い違 いが この断層の副断層 であるか も不明である。 この水田よ り30m程
度東 にあった用水路が20cln程度割れていたのは,断
層 上 に水路があったか らであろう。 しか し,断
層 として追跡で きるのはここまでで,日
細見部落内に は何の地変 もみ られなかった。NO.69,70
位置 :鳥 取市瀬田蔵86 〈聴取事項 聴取者 :山 根義忠氏〉 鳥取地震の時に,鳥
取市瀬田蔵の山根義忠氏宅の床下 に断層 ができた(70)。 山根氏宅の南西 に位置す る露頭(69)か ら,断
層 は床下 を通 り妙義橋 に向かって伸 び ていた。 この断層の垂直方向の変位量 は,約
20clllで相対的 に北側が落 ちていた。 また山根氏宅の南 西 に位置する露頭で は,地
震時 に動いた場所 を山根氏 に指摘 して もらった(図」)。 (観察事項〉 この地点での露頭 は,向
かって右手が北,左
手が南である。向かって右手 には基盤 の黒雲母花聞岩があ り,こ
れの左手の白兎層 と不整合で接 している。 白兎層 は直径10∼ 50cm程度の 石英安 山岩質火山円礫岩か ら成 っている。 さらに白兎層 は左手 にある基盤 と断層 を境 にして接 して いる。断層面 は,北
60°∼70°東,70°南東落 ちである。左手の基盤 の上部 に白兎層がないためにはっき りと断定 は出来 ないが,断
層の南東側が相対的に上昇 し,全
体 のずれの量 は,2m以
上であると考 えられ る(写真4)。 山根氏宅で も玄関の礎石 と柱 の間 に約10c14の差が観察で き,こ
の柱 よ り露頭 に近 い柱 は,差
が5 C14,次の柱 はO cmとなっている。 この差 は柱 と基礎の間 に入れてある石の厚 さによって計 った。 (従来の研究 。その他〉 この地点 に関する報告 はなされていない。 しか し,築
地(1948)が妙義橋 付近 の記述で,
この断層の ことを示 している。築地の記述 は後 で引用す る。 〈考察〉 瀬田蔵の断層では,露
頭の断層の変位量が2m以
上であるのに対 して山根氏の談話 によ れば,20cm程
度であった。 これ は1回
の地震だけで これだけの変位量が得 られたのではな く,過
去 に何回 もの断層運動が この地点で起 こったために,露 頭(69)の断層の変位量が2mに
もなったのだ と推定 され る。210
西日良平・黒川 泰・ 赤木二郎‰
0 100 200rni l l
」図 鳥取市吉岡温泉町瀬田蔵・新町 (69:山 根氏宅裏の断層露頭)NO,71,83
位置:鳥取市妙徳寺 〈聴取事項 聴取者 :白 岩豊氏〉 妙徳寺 より東側 にある山の中腹 に大 きな段差がついてお り,そ
の落差 はlm程
度で西側が相対的に落 ちていた。妙徳寺 よ り北側 にある白岩氏所有 の水 田にも東西 方向の地割れが出来ていて,そ
れ は左ずれのようであった(71)(図J参
照)。 妙徳寺 よ り吉岡へ向か う途中の懸樋建築事務所の前 に断層が入 っていた。そして,そ
の付近の水田には約20cmの落差があ り,北
側が相対的に落 ちていた。 (観察事項〉 地震か ら時間が経過 しているために何 も観察で きなかった。 〈従来の研究 。その他〉 築地(1948)に よれば「吉岡南西水田中で は断層 に沿 って小 さな地割れが 多数雁行 していたが,そ
の割れ 日はいずれ も隆起 した南側 のみにある。新町南端の小 さな崖崩れ よ り東側 に向い北70°東 と北70°西の2断
層が あ り前者 は南側が落 ち東 は移動 している。新町∼瀬 田蔵 の道路が川 と山稜 とを同時 に切 る所で断層 は道路 と平行 して現れ北側が東へ移動 している。橋 のす ぐ南側では道路の東側 の崖が崩れ白色のFriction clay中の稜角のつぶれた角礫が多数混 じり,白
色粘土の最 も多い部分が 目立 っていて70°程度北 に傾 く薄層 をな している。」 〈考察〉 築地が述べている「新町∼瀬 田蔵の道路が川 と山稜 とを同時 に切 る辺 りで断層 は……J は,位
置・ 走向な どを考 え合わせ ると,瀬
田蔵の山根氏宅 の裏山の露頭 にでている断層 と同一の も濃
家
のであろう。 これ は白岩氏 も記憶 されていた。 また
,築
地 の論文中に「新町南端 の小 さな崖崩れ よ り東 に向い北70°東 と北70°西の2断
層があ り……」とある断層中の 円ヒ70°西」の方の断層 は白岩氏所 有の田を通 り,妙
徳寺東方の山に向か っている。 しか し「北70°東」の断層 は確認で きなかった。 白 岩氏 の言われた山の中腹 の断層 は,北
側 を調べて も確認が取れなかった。おそ らく,地
震 による崖 崩れであろうと思われ る。NO.74
位置 :鳥 取市三山ロー吉岡温泉町峠付近 く観察事項〉 鳥取市三山口よ り吉岡温泉町へ向か う農道の峠付近の左側 に,工
事 によって大 きな 露頭が出来ている。 この露頭 は,第
二系の河原火山岩層か らなるが,風
化 と破砕 のために変質・粘 土化が進 んでいる。露頭の中央部 にみ られ る白色の粘土が入 っている。露頭中には断層が2本
以上 入 っている。それぞれの走向は北40°∼60°西方向 と北80°北西である。変位量 な どは不明である。この 断層上部 には火山灰がないために,鳥
取地震 に際 して動 いたのか どうかは,こ
の露頭 を見た限 りで はわか らない。露頭の下部 の岩石 は安 山岩質火山砕層岩 と推定できるが,こ
れ も変質 と破砕 を受 け ているので確かでない。 (従来の研究 。その他〉 この地点 は今 まで論文 に掲載 されていない。 〈考察〉 この露頭 に関 しては,不
明な点が多いために何 も判断が下せ ない。 しか も,位
置か らも 吉岡断層の延長線上 にも当た らない。段層面の状態な どか ら吉岡断層 と関係 のない古期 の断層であ ろう。N075
位置 :鳥 取市三山口東 〈聴取事項 聴取者 :山 根貞義氏〉 鳥取市三山口の東 に位置す る(75)の地点で鳥取地震 による地 割れの方向は,ほ
ぼ東西である。 (観察事項 〉 この割れ 目は見れない。地割れの延長線上 に居住する三山口の山口毅氏 に聞いた け れ ども,地
割れ らしい ものは何 もなかった との ことである。地震の時,山
口氏宅前の養蚕場が倒れ 死者がでている。 (従来の研究 。その他〉 この地点の記述 はない。 (考察〉 三山口部落 には,鳥
取地震の時 に吉岡断層が横切 っている。 そして吉 岡断層の東 の延長 部 は,こ
の地点の南側 を通 っている。地割れ は直接断層 と結び付 くことはないが,吉
岡断層の活動 の副次的な現象であろうと推定 され る。NO.76
位置:気高郡鹿野町鹿野 〈聴取事項 聴取者:森村昭氏〉 鹿野町の森村氏宅前の道路 に鳥取地震 に際 して段差がついた。212
西田良平・黒川 泰・赤木三郎 方向は道路 にほぼ垂直方向であった。 この段差 は,東
側が相対的に上昇 したが,水
平方向のずれは ほ とん どなかった。段差 は約20から30mで
あ り,段
差がついた部分か らは鉄分 を含 んだ水が湧 き出 していた。 く観察事項〉 段差がついた位置 は確認 したが,既
に修理が行われた後であるために,段
差 その も のを観察することはできなかった。 〈従来の研究 。その他〉 この地点の記述 はない。 (考察〉 森村氏宅前の段差 のある部分 は,道
路 を中心 として前後20から30m程
度 の ものであ り, 水平方向の移動 はしていない。 しか し,段
差が20cm程度ついていることか らして,一
種 の断層であ るが鹿野断層 に結び付 くものではない。NO.77
位置 :鳥 取市洞谷453 〈聴取事項 聴取者 :坂口安治氏〉 鳥取地震の時,洞
谷部落の道路 を横切 って地割れが出来てい た。それ は墓地の付近 まで達 していた。また,谷
の下の旧道沿いには,深
さlm程
度 の穴が開いて いた(54付近)。 洞谷一帯 は水がでな くなったが,地
震後3∼ 4年
経てか ら少 し出始 めた。 〈観察事項〉 道路 の拡副工事や,風
化 によって地割れ は確認出来なかった。坂 口氏 の示す断層の 走 向を測 ると北70°西であった。 また,旧
道沿いの穴 も確認で きなかった(1983年)。 (従来の研究 。その他〉 津屋(1944)は次の ように書いている。「 この地点 にお いては,上
記 の峠か らの連続 として,北落 ち15∼ 40cm及び走向北80°東の地割れ(水平移動僅小)が南西か ら北東 に向か う 谷 を斜 めに横切 って稲田上 に現れ る。 そして,そ
の東方延長 は谷の東側 をなす花聞岩の尾根 に地割 れ,崖
崩れ等 として続 き,洞
谷部落南西方の谷間に再 び現れ る。」 〈考察〉 道路 を横切 る地割れは,南
側の尾根 を越 えた付近 にはでて こない ようである。 このため, この地割れが断層であるか どうかは判断が下せない。 また,旧
道沿いの穴 は,赤
坂峠の露頭(53)の 断層運動 に ともなって起 こった ものではないか と考 えられ る。NO.78
位置 :鳥 取市矢矯一洞谷の峠 〈観察事項〉 洞谷一矢矯間の道 の,峠
よ り約50m洞
谷側 に入 った ところで逆断層の露頭が観察で きる。写真 の78が この露頭である。向かって左手が東であ り,左
手が西 となる。露頭 の下部 は,石
英安 山岩質火山円礫岩か らなる白兎層で,そ の上位 に倉吉軽石層(DKP)が
あ り,,不 整合 の関係であ る。下部 の礫層 は,褐
色 に風化 し,直
径5∼30clllの角礫か らなっている。 この断層の走 向・傾斜 は北 42°東,60°北西落 ちである。水平方向の変位量 は不明であるが,垂直方向の変位量 は約lmの
逆断層 であ り,倉
吉軽石層 を切 っている。 (従来の研究 。その他〉 津屋(1944)は次 の ように論述 している。「……・洞谷 と矢矯 との谷 を距 てる尾根 を斜 めに横 断す る地震断層 は