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(1)

ノモンハン紀行

̶ホロンバイル平原を旅する̶

A Nomonhan Travelogue:

Traveling the Hurunbuir Plains

Hideo Kobayashi

はじめに 話は,今から70年前の1939年にさかのぼり,場所も中国の西北,モンゴル人民共和国との国境 線へと飛ぶ。ここで,日本軍とソ連軍は激しい死闘を繰り広げた。直接戦闘に参加した日本軍将兵の 数は,およそ1万5千人。対するソ連軍の将兵もほぼ同数の1万人。後方支援の軍人や日本軍のバッ クアップで作られた満洲国軍と称された満洲国の軍人やソ連軍とともに戦ったモンゴル人民共和国の 兵員を合わせれば敵味方合計でその数倍近い将兵がこの戦争に参加した。そして日本側は,約1万2 千人の,ソ連側もほぼ同数の1万人強の戦傷者を出した。地図の上では点でしか表現されない人口希 薄な不毛な大地の争奪戦を日本側は,ノモンハン事件と称し,ソ連やモンゴル側は,これをハルハ河 戦争と称した。 日本・ソ連・モンゴルの多くの将兵の血を吸い込んだこの戦争はなぜ起きたのか,そして,どんな 影響を各国に与えたのか。こうした問いに関しては,事件発生後からこれまでの70年の間に多くの 研究者が問い続け,そして現在も問い続けている。筆者も2009年に『ノモンハン事件』平凡社を上 梓した。したがって事件の詳細は拙著を参照願いたいが,ここでは,戦争が起きた戦場を巡りながら, 現場にたたずんで,この事件を再考してみることとしよう。

1.

 ノモンハン事件概況 ノモンハン事件の現場を訪れてこの事件について考えるにしても,まずもってこの事件に関する概 要を頭に入れておく必要がある。だからごく簡単にこの事件の推移を地図をまじえて解説しておく必 要があろう(地図参照)。 ハイラル まず,ノモンハン事件を語る際には満洲国西北の軍都ハイラルを除くことは出来ない。ここは西北 の防衛と攻撃の拠点として重要な意味を持ったからである。事実,ハイラルはノモンハン事件の際の

紀行文

早稲田大学大学院アジア太平洋研究科教授

(2)

関東軍主力を成した第23師団の司令部所在地だった。満洲事変以前からハイラルは,西方の砦とし て重きを成していたのである。満洲国成立当初は,ハイラルは西方の重要都市ではあったが,満洲国 防衛の主力は東方沿海州方面に置かれていて,西方戦線は,副次的であった。当初は,ハイラルには 2個旅団からなる騎兵旅団が駐屯していたに過ぎない。しかし1936年暮れに日独防共協定が締結さ れ,ソ満国境が緊張し始めると,それまで手薄だった西部国境に対する防衛の必要性が高まり,軍備 が増強されるに伴い,ハイラルの重要性もうなぎのぼりに急上昇を開始した。37年に日中戦争が勃 発し,日本軍がチャハル,綾遠両省を手中に収めると,モンゴルへの日本軍の侵攻の動きは,西部か らだけでなく南部からも強化され,国境の緊張は極度に先鋭になっていった。ハイラルは,いやがう えにもその緊張と重要性を増してきたのである。38年7月には,ハイラル駐屯の騎兵旅団が中国戦 線へと転出し,それに代わって第23師団が新設された。第23師団は,歩兵第64, 71, 72の3連隊を 基幹に捜索隊,野砲兵第13連隊,工兵第23連隊,輜重兵第23連隊から構成され,師団長には小松 原道太郎中将が,参謀長には大内孜大佐が就任した。4連隊編制が通常な師団編制で,1連隊少ない ノモンハン周辺図

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小ぶりな師団ではあったが,これがハイラル以西の防衛を担当したのである。 事件の発端 この事件は1939年5月11日に起きた。満洲とモンゴルの国境線で,満洲国側が主張する国境線 のハルハ河をモンゴル軍の騎兵が越境したというのである。モンゴル側は,ハルハ河を越えた東岸も 自領だと思っているから,越境したという感覚はない。早速満洲国軍が発砲,戦闘となった。満洲国 側は,この地域の防御に責任をもつハイラルに師団本部をもつ第23師団長の小笠原道太郎中将が東 八百蔵中佐に追撃を命じ,さらに軽爆撃機5機を出動させた。そして撤退する彼らをハルハ河を超え て追撃,爆撃を加えた。ことの起こりは,こんなことから始まった。5月14日の「東京朝日新聞」 が小さく囲み記事で「外蒙兵百名越境 満洲国軍交戦撃退す」と報じているだけだし,地元の「満洲 日日新聞」も,同じ日に「外蒙兵3百名 ノモンハン西南満領に越境射撃 国軍監視兵応戦撃退」と 短く報じているだけだ。これらの記事を見る限り,誰もが大事件に発展するとは思ってもいなかった に相違ない。 第一次ノモンハン事件へ もっとも,敵を追って日本軍の爆撃機が自分たちが国境と考えているハルハ河すら越えて相手側を 爆撃したのだから,ことは重大である。日本側は,最初から領空侵犯を犯したわけである。 モンゴル人民共和国と軍事同盟を結んでいたソ連は,日本軍のこの越境攻撃を重視し,ソ蒙軍が主 張する国境線の防衛のため,ハルハ,ホルスティン河の川又地点に架橋して補給路を確保し,軍をハ ルハ河東岸に進めて陣地の構築を開始した。小笠原師団長は,これを駆逐するために,再度山縣光武 大佐を長に,先の東八百蔵中佐の討伐隊を含む総勢1000名の部隊をハルハ河東岸に派遣した。 しかしソ蒙軍は,兵力こそ劣るものの100両を超える戦車や装甲車からなる有力な機甲部隊をもっ てこれを迎え撃ち,西岸の高台に布陣した重砲部隊の砲撃と合わせて,火力の貧困な日本軍に打撃を 与えた。とりわけ敵軍撤退中という誤報に惑わされてハルハ河近くまで深追いした東中佐率いる捜索 隊は,山縣大佐率いる本隊から孤立,ソ蒙軍の戦車隊の包囲のなかで,東中佐は戦死,捜索隊は,戦 傷者80%という全滅に近い打撃を受けた。5月30日に山縣本隊は,東捜索隊の戦死者を収容して撤 収した。 事件の拡大 6月から7月にかけて関東軍は,本格的準備を整えて大規模な反撃を開始した。6月19日にソ連 軍の爆撃機が,突如満洲国西部の関東軍兵站基地のカンジャル廟とハロウアルシャンを空爆した。そ れに対して,6月27日今度は関東軍機百余機がモンゴルのソ蒙軍の航空基地のタムスクとサンベー スを空爆した。この攻撃は,本国の大本営の了解を得ることなく関東軍の独断で実行されたため,そ の後両者の間で感情的対立を生む契機となった。 そして7月初頭から日本軍地上部隊が攻撃を開始した。参加した兵力は,主力の第27師団に第7 師団の一部,第1戦車師団,第2飛行集団が加わり,総兵力は,歩兵13大隊,砲113門,戦車80両, 航空機180機であった。

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まず第1戦車団と歩兵1個連隊からなる安岡支隊(安岡正臣中将指揮)が,東岸のソ蒙軍陣地の攻撃 を開始した。また歩兵3個連隊,砲兵1個連隊からなる主力は,ハルハ河を渡河して西岸台地を攻撃, トラック乗車隊(須見新一郎中佐指揮)は後方に迂回して東岸のソ蒙軍の退路を断つ作戦を展開した。 しかし作戦は最初から遅滞した。ハルハ河渡河のための資材が不足し,架橋作業に時間がかかり, 押し合いへし合い,怒号飛び交うなかでの渡河は混乱を生み,一部の部隊のみが西岸に進出した。渡 河した日本軍が体制を整える暇もなく,ソ蒙軍機甲部隊の戦車300余両が急襲をかけた。日本軍は, 速射砲と火炎瓶,対戦車地雷で対抗,多数の戦車や装甲車を撃破したが,圧倒的多数の戦車隊の前に 陣地は蹂躙され,分断された。小笠原師団長と矢野,服部,辻らの関東軍参謀たちは急遽事態を検討 し,東岸への撤退を決定,孤立した部隊を夜襲で救出,700余名の将兵の犠牲を出して5日に東岸に 撤収した。この混乱のなかで参謀長の大内孜大佐は戦死した。最後に東岸に撤退した須見部隊は,敵 襲の前に架橋が爆破されたため,部隊の一部は西岸に取り残される事態も生じた。彼らは,自力で激 流を渡るか,踏みとどまって死すまで戦うかの道しかなかった。 東岸のソ蒙軍陣地を攻撃した安岡支隊も7月2日から攻撃を開始したが,ソ蒙軍の堅陣を突破でき なかった。闇の中での戦闘は,歩兵,砲兵との連携を欠くなかで,戦車隊が突出するかたちとなり, ソ蒙軍が敷設したピアノ線にキャタピラが絡めとられて動かなくなった日本の戦車隊は,ソ蒙軍の十 字砲火を浴びて損害が続出,戦車連隊長の吉丸清武大佐も戦死した。7日東岸に撤収した部隊も加 わってソ蒙軍への攻撃が継続されたが,堅陣は突破できず,日本軍の航空部隊もソ蒙軍の補給路の川 又橋を空爆で破壊できなかった。 7月16日,逆にソ連軍機が斉斉哈爾(チチハル)近郊の富拉爾基(フランキ)のノン江鉄橋を爆撃, 関東軍が満洲国全土に戦時防空令を発令,全面戦争の緊張が満洲全土に走った。17日の五相会談は, 外交交渉の開始を決定し,参謀本部も関東軍の磯谷廉介参謀長を呼んで事件の処理を説得したが,磯 谷はこれに応ぜず,作戦拡大の方向へと動いた。7月23日から関東軍は,日本から野戦重砲兵3個 連隊の増援を得て総攻撃を開始した。しかし彼我の火力差は,隔絶したものがあり,日本の重砲部隊 は,ソ蒙軍の猛射のまえに沈黙を余儀なくされた。 ソ蒙軍は,日本に数倍する輸送距離にもかかわらず,戦車,装甲車,大砲及び武器弾薬に至るまで, 大量に輸送,備蓄し日本に数倍する物量で対抗した。 日本軍は反撃に失敗し,8月10日,荻州立兵中将を司令官とする第6軍を新設,戦線の統一を図っ たが,虎の子の関東軍第1戦車団は全滅を恐れて原隊に帰還するしまつで,軍の新設に当たっては, 僅かに1個旅団が増加されただけであった。 決戦 7月後半からソ蒙軍は,着々と反撃の準備を整え始めていた。ソ蒙軍は,そうした決戦に向けての 準備を日本側にさとられないようにするため,さまざまな工夫を凝らし始めていた。持久戦に備えて 陣地建設作業を行っているかのように思わせるために,大きなスピーカーでそれらしい擬音を流した り,決戦に備えて部隊を配置するのに偽装を徹底させて日本側に感知されないように工夫したり,逆 に解読可能な偽電報や偽電信を送って日本側の情報網のかく乱を図ったりした。この陽動作戦に引っ かかった日本側は,持久戦を想定した作戦を立てていた。

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8月20日ソ蒙軍は,いっせいに攻撃に転じた。この日は日曜日で,関東軍の主だった幹部は,休 暇をとって前線を離れていたものが多く,隙をついたソ蒙軍の攻撃の前に関東軍陣地は混乱,火炎瓶 攻撃に耐える中型の燃えにくいヂィーゼルエンジン戦車を投入,火炎放射戦車で日本軍陣地を焼き尽 くすなど,新手の攻撃方法で日本軍を圧倒した。23日から日本軍は反撃に転じたが,時すでに遅く 29日には小松原師団の司令部は包囲された。彼等は,翌日かろうじて重囲を突破して帰還した。小 松原師団の死傷率は7割に達し,全滅に近い打撃を受けた。ソ蒙軍は,ハルハ河東岸の彼らが主張す る国境線で停止し,日本軍と対峙して防御陣地を構築した。 停戦 敗北を喫した関東軍は,再度の攻勢を試みるため,新たに2個師団を増派し,対戦車装備を整えて 来期決戦の準備を主張した。しかし関東軍の意気込みとはともかく,国際環境と陸軍中央はそれを許 容しなかった。8月23日,突如として独ソ不可侵条約の締結が発表され,世界を驚かせたのである。 独ソ両首脳が現実的に判断した結果であれ,コミュニズムとファシズムとの握手は,いずれの陣営に 組するものにも不同意と驚愕,そして混乱を生み出していった。 時の平沼内閣は,8月28日「欧州情勢は複雑怪奇」の言葉を残して総辞職し,30日には阿部内閣 が誕生した。9月1日にはドイツ軍がポーランドに侵攻し,3日には英仏がドイツに宣戦を布告し, 第二次世界大戦が始まった。独ソ不可侵条約が締結された後,関東軍の面子と意地を除けば,これ以 上ノモンハンで戦闘を繰り広げる積極的理由はなくなった。9月9日ソ連モロトフ外務人民委員と日 本の東郷大使の間で休戦交渉が開始され,9月16日日満軍とソ蒙軍の間で停戦協定が成立し,両軍 は矛を収めることとなる。ジューコフ指揮するソ連軍は,停戦と同時に陣地を固め,予備隊を残した 後,主力は撤収,西部戦線の戦開へと参加した。第二次世界大戦が始まったのである。 ノモンハン事件はどう処理されたのか では,この事件はどう処理されたのか。1939年11月から12月にかけて,「ノモンハン事件研究委 員会」が陸軍内に設置された。参謀総長の監督下で委員会が組織され,調査委員が渡満して関係者へ の事情聴取を実施した。その項目は,戦略戦術,動員,防衛,通信,兵器,ソ連情報など多岐にわたっ た。そうしたなかで報告書は,火力の強化,機動力の強化の必要性を記録している。 しかし,指摘こそすれ,この点が対策に生かされることはなく,「優秀な赤軍の火力に対し勝ちを 占める要道は一に奇襲戦法にある」と結論づけて,日露戦争の銃剣突撃の戦法を強調することに終 わったのである。 責任者の処罰も曖昧なうちに終わった。つまり,トップはお咎めなしだったのである。第六軍司令 官だった荻洲立兵,関東軍司令官植田健吉,参謀長の磯谷廉介はいずれも予備役編入に,作戦課長の 寺田雅雄は参謀本部付から千葉陸軍戦車学校付となっている。現場の第一線にいた関東軍参謀で作戦 主任だった服部卓四郎は,陸軍歩兵学校付に,その下にいた 政信は第十一軍司令部付となって転出 した。彼らはお咎めを受けたことは間違いないが,植田を筆頭に,犯した誤りと比較すればすこぶる 軽微であった。 彼らと比較すると前線指揮官へのお咎めは厳しかった。状況の如何を問わず,命令が出ないのに撤

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退した前線指揮官は,階級,戦闘能力の如何を問わず厳しく処罰された。山縣,伊勢の両大佐が,ソ 蒙軍に包囲されて自決したことは前述したが,傷ついて後送された歩兵第七十二連隊長酒井美喜雄大 佐,捜索第二十三連隊長井置栄一中佐,第八国境守備隊支隊長長谷部理叡中佐も自決を余儀なくされ た。井置の場合,フイ高地にあって押し寄せるソ蒙軍の猛攻に耐えて奮戦,酒井もまたソ蒙軍の猛攻 を食い止め奮闘,敵将ジューコフをして,「敵ながらあっぱれ」と言わしめたが,衆寡敵せず,司令 部との連絡がつかぬまま部下を励まし撤収したにもかかわらず,無断撤退の廉で自決を強要されて, 果てた(はるか東方の空に恨みを込めて散った酒井,井置,長谷部,そして部下の多くの将兵。安ん じて静かに眠れ。後世の史家たちは君たちにしかるべく位置を与え,その姿を描くことにやぶかさで はない)。 激戦のすえに この戦争は誰かが責任を取らなければならなかったのである。どんな小さなミスでも,それを必要 以上に拡大してでも「生贄」を作りだす必要があった。前線指揮者の死によって,事態の真相を語る ものが消え,さらに上司に累が及ぶことなく「責任」の所在があいまいになったのである。 逆にその後出世を遂げたものもいる。その筆頭は,服部卓四郎と 政信だった。服部は,参謀本部 作戦課長に返り咲き, もそのもとで参謀本部作戦課兵站班長として現役に復帰した。両者は,アジ ア太平洋戦争を緒戦から指揮し,ガタルカナル島占領作戦を展開して,多くの将兵を飢餓のなかに追 い込んでいった。「上」にやさしく「現場」に厳しい日本社会の責任追及体制は今でも綿々として続 き,今日に至っている。 では,この戦争の損害状況を検討しておこう。日本側の損害は,死傷者数17,364名。戦闘参加者 との比率でいうと29.5パーセントを占める。これは日露戦争の激戦地だった旅順攻防戦で日本側が うけた被害にほぼ匹敵する。いかにノモンハンが激戦だったかがわかる。なかでも日本側の中核師団 だった第二十三師団の死傷者の参加者との比率は70.3パーセントに達する。ほぼ全滅といってよい だろう。 対するにソ蒙軍だが,これまでその全貌は不明だったが,次第に資料が公開され明らかになりつつ ある。ロシア軍事史公文書館蔵の記録によれば,39年5月19日から8月30日までの死傷者数は 13,243名にのぼり,日本の17,364名と比較してもさほどの差はない。しかも同公文書館蔵の別の資 料によれば,23,926名という数値もあり,はっきりしない。しかし,ソ連軍もまたこの戦闘で大き な犠牲を払ったのである。 最後になるが,この戦争にはモンゴル軍が参戦している。その犠牲者数を含めてまだその実態解明 は進んでいない。今後の課題であろう。

2.

 ノモンハンの戦場へ

2.1

 ハイラル行 夜行列車 満洲国西方の要衝だったハイラルへの旅は,私の夢の一つだった。

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長春発1301次 海拉弥(ハイラル) 2009年3月14日 02 : 13開 03車015号下補 224.00元 新空調硬座快臥 「ハイラルまで旅行したいのですが……」 旅行会社が立ててくれた計画のスタートは実に乱暴なものだった。冬の真夜中の早朝2時13分に 長春発満洲里行きの列車に乗ってのハイラル行きだったからだ。これだとホテルを夜中の午前1時に 出て駅へ向かわねばならない。3月の中国東北の外は凍てつくような寒さだ。寒気が,オーバーを通 して肌を突き,寒さを通り越して痛い。 名古屋の中部国際空港を出発したのが前日の午後1時半。長春行きのCZ692便。機内は比較的空 いている。両隣に客が居ないというのは,気分的に楽だ。機内の窓から見下ろす眼下の中国東北の荒 野は白一色,時折道路か水路と思しき黒い線が横切るが,すぐに寒々とした広い平原に戻る。午後4 時長春空港に到着する。イミグレーションの後,そのまま吉林大学へ直行する。2時間ほど大学ス タッフと打ち合わせを行い,その他の機関のスタッフと会食を済ませたあと,ホテルで,シャワーを 浴びるだけで旅装を解く暇もなくわずかな仮眠の後,再び駅へと出発する強行軍だ。 夜中の1時,タクシーでホテルを後に駅へと出発する。真夜中の駅は,さすがに昼間の喧騒はなく, ネオンと夕闇の中を駅へ入る。通り一遍のセンサーを使った荷物検査。こんなもので,不審物の摘発 など出来るのか。夜中の1時なのに,駅の改札口には人の列が出来て,ボードに表示される発着列車 の情報に乗客たちが群がっている。遅れて到着するとの情報が電光板に流れる。だから改札は,時間 が来ても始まらないとのこと。言葉がわからず,割れた構内アナウンスの聞き取れぬ声に動揺しつつ 不安の中で待つこと二十数分,やっと私が乗る予定の2時13分発満洲里行きは,25分遅れで到着す る。皆がいっせいに改札口へと殺到し,押し合いへしあい狭い改札口を通りホームへと走る。各車両 の入り口には車掌が立っていて切符をチェックするが,私の乗る予定の車両は先頭に近く,重い旅行 かばんを引いての走りはきつく,歩幅は乱れ,目的の車両になかなかたどり着かない。 午前2時40分頃に汽車は,何の前触れもなく静かに長春駅を離れた。押し合いへしあいの改札口 をやっと越えて,走ったものの,目的車両にたどり着かず,入り口の車掌の了解を得て6号車に飛び 乗る。通路伝いに3号車まで行こうとするが,手前で通路のドアがロックされて行けず,発車後10 分ほど待つ。私が発車直前に飛び乗るように乗車したことを考えると,乗り遅れたものもいるのでは ないか,そんな想いが一瞬頭の脇をよぎる。〈中国人ならそんなとんまなことはしないか……〉 中国の列車は,片側が窓に沿った狭い通路で,反対側の窓に向かい,お互いに向かい合うようにし て蚕棚のような三段ベットが並んでいる。北京発の車内はすでにベットに入り休んでいるものや暗が りも中で通路の横に突き出た折りたたみの椅子に掛けて暗闇の窓を見つめているものもいる。通路の 脇に一定間隔で置かれた湯茶用の大きな魔法瓶を倒さない,また通路に佇む人をうまく避けながら重 い旅行かばんを曳いて自分のベッドを探す。急に零下15度の外から暖かい車中に来たためか,めが ねがくもって先が見えない。やっとの思いで自分の寝台を見つけホッとする。 荷物をまとめて身支度して寝台に横たわるが,向かいの下の連中が,大声で議論していて目が覚め る。うつらうつらしながら腕時計を見ると午前3時半だ。彼らが飲み干した缶ビールの空き缶の山を

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あきれて眺めながら,いつの間にか再び眠りに就く。狭いベッドで,パスポートと現金とカードが内ポ ケットにしまわれた上着を抱きしめながらの就寝だ。色気はおろか飾り気もない。狭い吊り棚式の簡 易ベットに身を横たえながら,かつて助手時代に所属していた山岳部での山行のビバークを思い出す。 大興安嶺からホロンバイル平原へ 朝6時頃,静かに流れる音楽のメロディで目を覚ます。日本のカラオケで一昔前に流行したような 耳慣れた音調の歌が流され,朝の到来を乗客に伝える。カーテンを開けると朝のまぶしい陽光を浴び て白銀の世界が目に飛び込んでくる。 沿線に石油採取のドンキーが動く(大慶) 朝の7時頃大慶を通過する。ハルビンは夜中にすでに通過したようだ。沿線には石油採取用のドン キーと称する井戸汲みのやぐらがいたるところに立てられ,静かに動いている。この大慶油田が,「満 洲国」時代に発見されていたら,南方地域の石油を強奪する必要もなく,日本は対英米戦争に踏み切 ることはなかっただろうという論者もいるほどである。地下1千メートルから採油されていることを 大興安嶺を走る列車の車窓から

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考えると,常識的には発見困難な油田ではないといわれる。満洲国時代に必死に探したが,発見され なかったというが,当時の日本は十分な検査器具を持たず,外国の技術を導入することに,関東軍は 賛成しなかった結果,発見できずに終わったという説もある。 向かいの寝台がハイラル出身の若夫婦だと分かる。退屈ししのぎなのか,愛情の確認なのかは知ら ぬが,組み合ってじゃれながら飲み食いしていたかと思えば,急にトランプを始めて大騒ぎをしてい る。が,新婚早々とあれば止むを得まい。聞けば大連からの帰りだという。話し合ってみると意外と 親切で,あれこれいろいろ話しかけてくる。ベットの間にしつらえられた小テーブルに盛られた缶 ビールやおつまみを取り出し,これを飲め,あれを食えといろいろ親切に薦めてくれる。日本の東北 の田舎列車に乗ったときの親切な地元の人にあった感じに似ている。こちらが中国語をよく理解しな いためだろうが,半分も分からない。しかし底抜けの親切さだけは確実に伝わってくる。65歳を越 えてこんなところに来るなんて偉いと親指を突き出してほめてくれる。なかなかの社交家だ。頃合い をみはからって「これは 偽満洲国 時代の地図だ」といって,東3省の図を見せながらハイラルか らノモンハンまでの道のりを聞くが,ハイラル生まれなのに激戦地ノモンハンのことはまったく知ら ない。カンジャル廟,将軍廟といってもピンと来ない様子だ。たぶん現在では名前が変わってしまっ たのか,それとも現存していても当時の面影はないのかもしれない。しかし2人で首をつき合わせて しきりに地図を見,指で距離を測りながら,ハイラルから将軍廟までは,車で4時間くらいではない かという。聞かれたらなんとしても答えなければすまないといった感じだ。 そんな会話を交わしてるうちに列車は次第に登り勾配に入る。なだらかな北満の平原を走ってきた 列車は,満洲北西の山岳地帯である大興安嶺に差し掛かったようだ。かつては,対ソ戦の西の守りの 要衝と言われた大興安嶺は,嶺というよりは,緩やかに続く丘陵地帯といった感じだ。しかし幾重に も連なる山並みは,緩やかとはいえ,そのスケールは,日本の比ではなく,ズバ抜けて大きく,かつ 長い。扎兰屯という駅に停車する。近くに巨大な採石場。削った荒々しい跡が岩肌を見せる採石場の 横をゆっくり汽車は登る。狭い牧場が点在する。巴林に停車。大興安嶺の中腹の町だというが,ぱっ 喇嘛山駅周辺,喇嘛山駅周辺に奇岩

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としない田舎駅という感じだ。なんでこんな駅に停車するのだ。喇嘛山駅を通過する。丘のいたると ころに奇怪な岩がニョキニョキ頭を突き出している。双子岩のように微妙なバランスで山の頂上に鎮 座した岩山は,落下せずに,しかし風の吹き具合でゆれるのだ,とくだんのハイラル出身の若夫婦は 説明する。本当か? 確かめてみたい気もするが,列車の中では如何ともしがたい。博克图を経て興 安嶺駅に着き,ここで嶺は頂上に達し,後はハイラルがあるホロンバイル平原へと下り降りて行くの だ。緩やかだが,確実な落差で降りて行く。途中,いかにも岩山をくり抜いたようなごつごつした切 り通しを列車はすり抜ける。改めて今から1世紀以上前の1890年代にロシア人が東方への勢力拡大 と不凍港を求めてがむしゃらに中国東北への勢力浸透を図った意気込みのようなものを,100年たっ ても今でも変わらぬその荒々しい岩肌に感ずる。大興安嶺をうねるように走る鉄道は,かつてのロシ ア人の経営する東支鉄道であり,沿線に残る男性的荒々しさは,ロシア人の感性そのものである。免 渡河停車。続いて牙克石停車。この駅は,古い歴史を持つ駅らしく駅舎はロシア風,その周りの建物 もすべてロシア風で,しばらくギリシャ正教の教会風の建物が汽車の車窓に飛び込んでくる。この駅 はホロンバイル平原を東西に走る浜洲線とそこから北行する牙林線の交差点になっている。ロシア風 の建物が残るのも交通の要衝だったからであろう。 駅からしばらく走ったホロンバイル平原は,ビッチリと白い雪で覆われ,3月も半ばだというのに, 春の気配は何も感じられない。白 銀に黒い線を引いたように一本の 道路が線路に平行して走ってい る。くだんの若夫婦に聞けば,チ チハルから満洲里に向かう国道だ と言う。濃い空色をしたトラック が路肩を踏み外し横転している姿 を見つける。それも一台だけでは ない。 拉尔に着くまで,車窓か ら少なくとも三回のトラック転倒 事故を目撃した。いかに深い雪の 中での運転が難しいかうかがい知 れる。 ハイラルへ ホロンバイルに思いを馳せて車窓を眺めているうちに午後3時45分,汽車はハイラル駅に滑り込 む。外は零下10数度だというが,感ずる寒さは意外と暖かい。10年前中国東北で調達した綿入風 オーバーは,異常なほど暖かく,その分ズボンを通して下半身に入ってくる寒風は刺すように痛い。 長い汽車の旅。夜中の2時半から午後3時45分まで,約13時間。寝台に寝そべりながら,飲みた いときに飲み,食べたいときに食べる,東京では絶対味わえぬ気ままで怠惰な旅。しかし,御つまみ 付の個人宴会もこれで終わりだ。ハイラル駅は意外とケバイ感じだ。 雪に覆われたホロンバイル平原

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駅前からの道はしっかりと舗装され近代的な町並みが並ぶ。かつて1930年代には,埃っぽい道を 駱駝が横切り,牛や馬や羊が行き交っていたと記述した書物もあったが,現在街中に関しては,その 面影は微塵もない。 タクシーで駅を後にして伊敏河に架かった橋を渡りホロンバイルホテルに向かう。ハイラル在住 30年だという中国人のJさんのお奨めだけにしっかりした風格のあるホテルだ。この町は,国境に 近いからか,店の看板も中国語とモンゴル語とロシア語が混ざっている。Jさんの紹介でハイラルか ら中国モンゴル国境までの計画を相談するが,答えは否定的だ。国境地帯は,軍の許可が必要だとい うのだ。許可をとるのに時間はかかるという。しかもカンジャル廟や将軍廟に行くには雪が深くて今 は無理だという。4月にならないと入れないし,それもお天気次第で確約は出来ないと念を押す。話 しているうちに,いや5月も危ない,できれば6月なら確実に大丈夫だと変える。一体いつなら良い んだ,と聞きたい心境になる。ハイラル出身の若夫婦は雪が深いとは言っていなかったが。しかし, ハイラルに来る途中で自動車の転倒事故をいくつか見てきただけに,彼の迷いは納得が行く話だ。 ハイラル再び 7月に再訪したハイラルは3月のときとは全く異なる姿を見せていた。雪がないということがこん なに街の姿を変えるものか。街を行きかう人々の表情もなぜかゆったりしているし,何にも増して寒 風がないのがありがたい。ホロンバイルの平原を駆け抜ける風は,湿気がない分,さわやかで快適で ある。町の中心を流れる伊敏河も凍っていないし,橋を渡る人々の服装も軽快で心地よい。夏の午 後,強い日差しを避けながら,暇つぶしに街を散歩して道端の露店で,わけの分からぬ雑貨品や古本 を売っているおじさん相手に2時間ほど粘る。お前の中国語はうまいと歯の浮くようなお世辞をい う。中国人は誰もが根っからの商人だ。もの造り専門の日本人は,こうした時間を無駄と考えるだろ 拉尔駅

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うが,商売を旨とする中国人は,こうした時間を無駄とは定義しないのだ。それにしてもよっぽど暇 なのか,変な日本人がいるというので,お年寄りと思しき中国人が数人寄って来て私を取り囲んで話 しかけてくる。「汝の国はどこか?」「ほう,日本の東京」「東京は物価が高いそうだが」「あなたは幾 つ」「50歳だろう」。またまた歯が浮くというより歯が抜けそうなお世辞が続く……終わりのない雑 談。会話が途切れれば,展示されたガラクタとおぼしき売り物に目を転ずると直ぐに別の話題が発生 し,会話に途切れることがない。あとはこのガラクタ屋の前の電気屋兼カメラ屋に飛び込み,容量が 満杯なので撮った写真のメモリーへの移転を頼む。5元だという。店の子供に日本語を教えながら30分 ほど待つ。東京では絶対に味わえない最高の贅沢な時間の使い方。そして毎日こんな遊びを繰り返す, 短いとはいえ充実した日々。こんなこともハイラルの夏ならではのことだ。冬なら凍えこんでしまう。 改めて,1943年に作成された地図を頼りにハイラルの街を徘徊する。アルツハイマーの年寄りの ように,一日中同じ街を行きつ,戻りつして時間をつぶすのだ。朝あった人と夕方またばったり別の 場所で出会うホロンバイルの夏。

2.2

 ハイラルの戦跡

2.2.1

 残る戦跡 ハイラル要塞 ハイラルに残る戦跡の筆頭は戦争博物館であろう。博物館は,ハイラルから車で15分ほど,ハイ ラルの北方,町を一望できる高台の北山にある。正式な名称は,「反ファシズム戦争ハイラル記念館」。 なだらかな坂を上りきったところに入り口があるが,坂に沿って稜線にソ連軍の戦車や兵士の模型が 置かれている。歴史的考証はなく,置かれている戦車も兵器も戦後のもので,当時の姿を忠実に復元 するという意味では問題を含んでいる。 当時,ハイラルの街を囲むように5つの区隊が置かれていたが,ハイラル河を背に三河道に面して 第一地区隊が防備していたが,そこには安保山陣地が設営されていた。この跡が現在の北山の戦争記 念館に変っているのである。この地区には,地下壕が地下15から20メートルに作られ,ぺトン(セ メント)で固められた地下道が通じていた(『ああハイラル』)。満洲国時代に関東軍は,ソ満国境を 地下トンネル

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14地区に分けて陣地軍を構築し防衛陣地を構築していた。そのなかでもハイラルの第8国境守備隊 は,ウラジオストックを突く攻撃の要衝・半載河の第3国境守備隊と並ぶ重要地区で,兵員規模も1 万名を超えて最大規模を誇っていた。ハイラルでは1936年から対ソ戦用の要塞の構築が開始された。 博物館の入り口正面に1931‒1945と記されたモニュメントがあり,日本侵略史が展示されている が,ノモンハン事件は,そのなかの核の一つである。当時の作戦展開図,関連写真,日ソ両軍の装備 一式,戦争絵巻とも言うべきパノラマ図が展示されている。その見学の後,戦時中のハイラル要塞の 内部に入る。ハイラル市を囲むように5つの要塞が作られていたというが,これは,その一つだ。20 メートルほど曲がりくねった階段を地下に下りると旧日本軍の地下要塞に繋がる。長いトンネルの途 中には,通風施設,医療室,士官室,通信室,下士官・兵の居住地区,弾薬庫などが蜘蛛の巣のよう に伸びている。壁を見るとかすれてはいるが,日本語での表記が読み取れる。そこを抜けて再び狭い 上がり階段を登ると,博物館の入り口の横に出られるようになっている。こんな要塞を作って対ソ戦 に備えていたというわけだ。これ以外にもハイラルには要塞の跡が残されているが,北山の要塞は, 比較的保存状態が良いものである。この要塞を作るにあたっては,多くの中国人苦力が動員され使役 されたことがこの展示の中では示されている。 しかし実際にソ連軍が進攻した時この要塞は無用の長物と化した。なぜならソ連軍はこの要塞を迂 回して進撃したからである。かつて第二次世界大戦開始時にフランスが誇るマジノ要塞がドイツ機甲 部隊の迂回作戦で撃破されたように,ソ連軍戦車隊は,日本軍がこもるハイラル要塞を避けてチチハ ルに向けて進撃した。しかもハイラル市内に侵攻した部隊も日本軍が準備していたハイラル要塞群を 正面攻撃するのを避けて,防備が薄い背後から回り込む形で攻撃した。それを阻止するためハイラル 防衛の日本軍は南に架けられていた橋梁の爆破を行なったのである。 ソ連軍が侵攻したときハイラルの守備隊は,武器らしい武器はすべて南方戦線に送られていて,迫 撃砲と機関銃と小銃が僅かに残されていたに過ぎなかった。したがって,ソ連軍の進攻を防ぐため伊 敏河に架かっていた市の南端の橋を爆破してその侵攻の阻止を図った。今でも,橋の両側が爆破され てなくなり川中の橋と橋げただけが残された,爆破跡を見ることができる。その横に現在の新しい橋 日本軍に破壊された橋

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が作られており,爆破されたその橋は,当然のことながら現在は使われていない。この橋は,日本軍 の爆破現場として記念品として残されている。 ハイラル神社跡 ハイラルにはハイラル神社の跡が残されている。現在は,コンクリート製の手洗い場所が残されて いるだけだ。 文化大革命のときは,破壊の対象となった。今でも毛沢東万歳,偉大なる中国,といった落書きが 支柱に残されている。きれいに刈り込まれた庭園風の公園のなかにコンクリートの屋根だけが残され た神社跡は,空洞化した日本の植民地支配を象徴する姿を残してひっそりとたたずんでいる。

2.2.2

 消えた戦跡 寺田公園 寺田公園は戦前の地図に載っている公園名で,今の地図にはない。現在は「ソ連紅軍烈士記念碑」 と名称を変更して,ハイラルの目抜き通りの一角を占めている。中国東北地域を日本の支配から開放 した将兵たちを記念して高い塔が建てられているが,ここは,かつては寺田公園と称されていた。こ の公園には,戦前はノモンハン事件の戦利品である装甲車輌や各種武器類が陳列されていた。 この寺田公園というのはハイラルの特務機関長をしていた寺田利光大佐の業績をたたえて命名され たもので,ここには寺田大佐の像が建てられていた。寺田は,1927年から身分を隠し,商人として ハイラルで生活し,スパイ活動をしていたといわれる。そして32年にハイラルが関東軍の支配に入 ると,彼は陸軍中佐としてハイラル特務機関の機関長として活動を開始する。しかし,37年にハイ ラルで病死している。彼は,満洲国軍のウルジン将軍と親交が厚く彼の顧問を務め「ホロンバイルの 父」と別称されていた。進攻したソ連軍は,寺田像を破壊すると日本軍捕虜を使って「ソ連紅軍烈士 記念碑」を設立したのである。 ハイラル神社

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23

師団司令部跡 せっかくハイラルにきたのだから,ノモンハン事件に関係した施設を見て行ったらどうか,とJさ んは言う。かねがね見たいと思っていたのは,ノモンハン事件のはじめから終わりまで終始日本側の 戦闘主力となった第二十三師団の司令部跡である。司令部跡は,今は市政府の建物に変わっている が,ハイラル郊外の西安街の角に立つ3階だてのがっちりした建屋は戦前から変わっていない。 第二十三師団の司令部が,ここハイラルに置かれたのは,全面的に拡大した日中戦争が対峙段階に 移らざるを得なくなる1938年7月だった。当時満洲国の北方の対ソ戦の護りは,ウラジオストック を突く東部戦線,シベリア鉄道を横腹から攻撃する北部戦線,そしてモンゴル方面からシベリア鉄道 奥深く攻撃する西部戦線から構成されていたが,ハイラルの第二十三師団は,この西部戦線を担当す る基幹師団となったのである。 新設の第二十三師団は,3連隊構成で,兵隊は中国地方や九州地方出身者から構成されていた。司 令官は小笠原道太郎中将で,モスクワ駐在武官を経験したソ連通だったという。確かにハイラルで, ソ連作戦を練るというのは,ソ連,モンゴル国境が近い分,臨場感が出ていて真剣みをおびる。

2.2.3

 凌升事件 現在の地図には載っていない寺田公園との関連で,これまた歴史から消されたある人物を紹介して おかねばならない。その名は凌升で,彼の名前を冠して凌升事件とよばれる。彼は,満洲国時代は興 安北省の省長であり,満洲国とモンゴル国との国境紛争の処理をめぐって開催された満洲里会議の首 席代表であった。その彼が通ソ罪で1936年4月に逮捕されたのである。 1936年4月23日の「満洲日日新聞」は突然「通ソ元凶ら4名に死刑の判決下る 元興安北省々長 らの大罪 懲治叛徒法違反」という見出しで,次のような内容を発表した。「元興安北省々長凌升等 ソ連紅軍烈士記念碑

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一味に関する通ソ事件に関し満洲国高等軍法会審は4月20日左の如き判決を下した。判決 元興安 北省々長凌升(51)死刑に処す 元興安北省警務庁長春徳(42)死刑に処す 元興安第1警備軍参 謀長陸軍騎兵上校福齢(47)死刑に処す 元興安北省々庁秘書官華霖泰(39)死刑に処す」 さらに「凌,部下を操って日満の軍状を通報 悪むべき犯罪事実」は,彼ら4名の罪状を細かく紹 介する。凌は1929年ソ支紛争のおりハイラルに駐屯していたソ連軍司令官のオストリソフと連携して ソ連のモンゴル独立運動支援の見返りに各種情報を提供し,ソ連軍撤退後は一時中断したが,満洲事変 後は秘書官を通じて連絡をはかり,35年6月満洲里で開催された満洲国とモンゴルの国境問題討論会 が開催されると満洲国側代表として出席したことを機会にモンゴル側代表のサンバオ,ダンバらと情報 の交換を密約したというのである。他の3名も凌の指示の下で通ソ活動を展開したというのだ。 以上が公式に新聞に発表された事件の概要である。つまり簡単に言えば,国境交渉にかこつけてソ 連に対するスパイ活動をしていたというわけである。たしかに1935年以降満洲国とモンゴルとの国 境線で紛争が多発化しており,この解決のため満洲国とモンゴルの当事者たちが満洲里で会議を開い たことは事実である。結果は,双方物別れに終わったのだが,モンゴル人どうしが自主的に国境問題 解決に乗り出した点は,宗主国を任じていたソ連にとっても日本にとっても無視できない大きな衝撃 だったに相違ない。モンゴル側代表のサンバオ,ダンバは1936年から始まるスターリンの粛清で死 刑の判決を受け刑場の露と消えたし,満洲国代表の凌升ら4名も同様で死刑判決を受けて刑場の露と 消えた。彼らの墓を探したが消息無しである。

3.

 ハイラルから阿爾山へ

3.1

 阿爾山へ ハイラルからアルシャンへと向かう。ノモンハン事件の時の北の兵站基地がハイラルだとすれば, 南の兵站基地がアルシャンだった。白温線の終点だったアルシャンからノモンハンの戦場までは,約 110キロ。ここは第二次ノモンハン事件の時に参加した第7師団の兵站基地となった場所であり,か つソ連軍の爆撃を受けた場所でもある。ハイラルから高速道路で一路南下してしばらくすると両側は 広々とした草原地帯に変わり,地平線まで広がる草原に牧場が点在する典型的なホロンバイル平原の 風景に変わる。行けども行けども尽きない草原の海。それは地平線まで続いている。夏の空は青く, 薄い雲がたなびくように広がり,所々に入道雲のような塊が出来ている。藤田画伯が,「ハルハ河畔 之戦闘」で描いたあの景色が,夏のこの地域の空である。一直線に伸びる道路。アップダウンはある が,ハンドルを切る必要がない直線道路。眠くなるような単調で変化のない緑の草原。はるかかなた の小高い場所に,時折オーボーが見える。オーボーというのは,石を積み重ね,そのてっぺんに木を 立てたもので,平坦な草原では標識になるし,信仰の対象でもある。 行き交う対向車もないままに,ここで気をつけなければならないのは,時折道を横切る放牧の牛や 羊の群れである。緑の草原に白い塊があるな,と思うとそれは羊の群れである。緑のなかに何か見え るというと,白であれば羊,黒であれば牛か馬だ。彼らが道路を横切る時は,こちらは止まって待た ねばならない。ハイラルから阿爾山までに数回そんなことがあった。 巴日園林場を過ぎたところを右に曲がればノモンハンだが,そこを左に行くとアルシャンとなる。 国境警備隊のゲートを抜けてアルシャンに向かう道すがら右側にハルハ河の支流が現れる。さらにそ

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こを先に進むとアルシャンに着く。ハイラルを出発したのが午前8時で着いたのが3時だから,ゆっ くり行っても優に5時間はかかる距離である。アルシャンは温泉地だが,観光地らしくこぎれいな町 並みを残した静かなただずまいである。空気は澄んで,朝は乾燥しているためかすがすがしい。日本 で言えば,静かな湯治場といったところかも知れない。ここが,今から70年前,ノモンハン事件の 最前線だったとは信じられないくらいだ。

3.1

 残る戦跡 アルシャン駅 アルシャンは,温泉の町で知られている。もっとも日本の温泉を想像すると間違いで,みんな水着 をきてプールに入るといったほうがこの場の状況を的確に表現している。 もっとも,1930年代頃のアルシャン温泉は,純日本風だったようだ。1939年9月に『協和』に掲載 された「皇軍将兵並前線社員慰問使随行記」に依れば,「(アルシャンの)露天風呂を見る。花崗岩に囲 まれた湯壷は44個もあり,各湯には効能書がつけられてある。冷やりとする万病診察用,なまぬるい 5体用,さては婦人用,食欲増進用等手も入られぬ熱いものまで様々なものがある。温度の低いのには 小魚が無数に遊泳している」(『協和』249号,1939年9月15日)と記している。1939年時点では, ここからノモンハンの戦場へ向かう将兵たちも,この温泉でしばしの休暇を楽しんだのか。あるいは戦 場から休暇で戻った将兵が,つかの間の休養を取ったのか。はたまた負傷した兵士たちが傷を癒すため の湯治場となったのか。今は確かめようもないが,いまでも旧日本軍のトーチカが駅を囲む山腹に残さ ノモンハンの平野

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れている。あれが,旧日本軍のトーチカだよ,と街の人に言われたが,そう指摘されないと気がつかな いほど,今でも見事にカモフラージュされた山腹の陣地。駅から眺めると点にしか見えないが,よく見 ると僅かながらぺトンで固めた砲台と思しきものが確認できる。 山のふもとに位置する今日のアルシャン駅は新装なって山小屋別荘風のモダンな建物だが,原型の 建物はノモンハン事件2年前の1937年に建設されたという。花崗岩で基礎と1階部分の壁を固め, 2階以上を木枠とコンクリートで作り上げた堅牢な建物である。 その対面に満洲国時代の建物が使用されないままに残されている。茶色の倉庫風の建物がそれだ。 一昔前の日本の貨物駅にはこの手のタイプの駅舎が普通に見られた。この駅舎の前に3本ほどの貨物 用の引込み線が引かれて,それが今でも使用されている。ここがソ連軍機の爆撃の対象となったわけ である。 このアルシャン駅は,ノモンハン時にはソ連軍の空爆の被害を受けた。当時の新聞や雑誌に依れば その状況は以下の通りである。 「爆撃のとき,私は丁度機関区から駅舎の方へやって来ていました。その日の構内の引込線には爆弾 を積んだ貨車がそのまま置いてあったのですが,敵の焼夷弾の一つが偶然その貨車の上におっこちて シュウシュウやりだしたのです。さ あ大変だ,あれが爆発したらえらい ことになる。と思ったトタンもう無 我夢中に貨車にとびついていました。 憲兵の人と2人で,安全な貨車を切 り離す,機関車に飛び込む,走り出 す。背中の貨車では,火がシュウシュ ウ燃えて,段々ひろがって行くのが, 全身でみえるように感じられるんで す。未だ安全だ,未だ大丈夫だ,つ てんで1キロ半ばかりとばして,そ れから機関車を切り離して逃げ出し た の で す」(『協 和』248号,1939年 アルシャン駅(上)とアルシャン駅前の倉庫(下)

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9月1日)。爆発が始まったのは,機関車を切り離した直後のことだった。「ホーム上の駅名板を見れ ば,弾片が『阿爾山』の文字を,或る処はむしりとり,或る部分は歪めていた」(同上)というから,ホー ムを直接空襲したのだろう。 アルシャンの中心街

3.2

 消えた戦跡 爆撃の跡 ハロルアルシャンでソ連軍機の爆撃の対象となったもう一つの建物は,満鉄の独身寮だったという。 「あの時は丁度西の山の端から八機編隊で,エンジンを止めて矢のように爆弾を落としながらやっ て来たんだネ。私は丁度ここ(独身寮)にいたんだが,ドカンドカンパッと来たので逃げようとした が,防空壕まで行くひまがない。その内寮の前に落ちた奴で家鳴り振動し,ガラスというガラスはみ な破けて仕舞う……いや驚いたのなんのつたら」「私は駅舎の二階の事務所にいたんですから階段を どうすべりおちたか解らなかった」「私は食堂で飯を食っていたが,気がついた時は箸を持ったまま 卓子の下に頭だけ突っ込んでいた」(『協和』248号,1939年9月1日) この記事に登場する満鉄宿舎がどこにあったのか,アルシャン駅近くを捜し歩いたが,現存している ことを確認することは出来なかった。たしかにソ連軍の巨大な爆撃機が超低空で山を越えて急にアル シャン駅を攻撃したことは,ここに来てみるとよく理解できる。駅は低い山のくぼみに位置して作られ ているからである。攻撃を受けた側から見れば,突然何の前触れもなく山を越えて敵機の空襲を受けた という感じになるのであろう。座談会の満鉄社員の証言は,この盆地状の場所に来てみると理解できる。 ハルハ河上流 ハルハ河を一度は見てみたいというのが,ノモンハン事件研究をやりながらいつも心に抱いていた ことだった。しかし,なかなかその機会は到来しなかった。ハルハ河は,モンゴル領に属しており,

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そこに行くにはウランバートルから空路か陸路で行かざるを得ないからである。空路で行こうと計画 したら,同僚でモンゴルに詳しい環境問題専門家の松岡俊二教授から「国内線は危険だからやめろ」 という親切な忠告を受け,さりとて陸路行くとなると優に2週間は予定しなければならないとあっ て,しばし凍結状況にあったのである。しかし上流でハルハ河が大きく中国領に入り込んでいる南の アルシャン近くに行けば見られるという情報を聞きつけて,さっそくアルシャン詣でをするついでに ハルハ河を覗いたというわけである。 ハイラルからくると天送喜を超えて阿爾山に入る手前で杜拉称河とハルハ河が合流するが,ここで ハルハ河の支流を見ることが出来る。橋の上からみるハルハ河の支流は,中州を造りながら左右に分 かれた川筋が橋を超えて一体になると水量を増して本流へと向かう。 河は,ここからさらに西に流れてモンゴル領に入ると北方に流れを変えてそのままノモンハンの戦 場を横切ってボイル湖へと注ぎ込むのである。もっともモンゴル領に入るあたりのハルハ河沿岸は湿 地帯で,今でもよっぽど強力なエンジンを備えたランドクルーザーでないとこの辺は走破できないと いう。ノモンハン事件の時にアロンアルシャンからこのルートで一挙にハルハ河西岸に出てソ蒙軍を 攻撃しようとした第7師団の須見部隊が,湿地帯ゆえにそのルートを断念したが,今でもこの地域に 分け入るのは困難である。 ここは,支流ということもあるのだろうが,川幅は約10メートルから15メートル程度で,決し て大きなものではない。しかし水量はたいしたもので,夏場ということもあろうが,満々と水をたた えて流れている。 日・ソ・モンゴル軍の多くの将兵を飲み込んだハルハ河に近づいて水をすくうと,澄んだ水が手に 残り,雪解けの冷たさを残す流れは,新鮮で濁りがない。主要な戦場となったノモンハンの平原は, これよりはるかに下流だから,おそらく本支流を合わせてこれに数倍する河幅に広がるのだろうが, それにしても大河という印象はない。現地の人に聞いたところ,「ハルハ河はたいした河じゃない。 ホロンバイル平原を代表する河は,なんと言ったって額称納河が最大だし,次はハイラル市内を流れ る伊敏河だ」といわれ,ハルハ河なんて問題にもしていない風情だった。 ハルハ河上流地点

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4.

 阿爾山からカンジャル廟へ

4.1

 カンジャル廟行 須見部隊の苦悩 阿爾山駅からカンジャル廟に向かう道は,同時に70年前にノモンハン事件のとき第7師団の将兵 が行進した道筋でもある。むろん当時は道路も今ほど舗装されていなかっただろうし,交通手段も今 ほど発達はしていなかっただろうから,当時とそのまま比較することには無理があるだろうが,大ま かな道筋をたどることは可能だろう。ただ当時の写真を見るとトラックが泥濘にはまり,キャタピラ 付きの装甲車輌にロープで曳いてもらっている状況から判断すると未舗装道路が雨でぬかり,或は湿 地にはまり込んで,輸送は難渋を極めたと想定される。したがって,当初は,阿爾山を出発した部隊 は,ハルハ河上流を東岸に渡り,北上してハルハ河東岸のソ蒙軍陣地を攻略する予定だったのを変更 ノモンハンの草木。地平線にみえる 塚はオーボー。

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し,そのまま西岸を北上して将軍廟に向ったというのである。その後第7師団の須見部隊は,今度は ハルハ河の下流を東岸へ渡河してソ蒙軍の猛攻を受けて1日にして西岸へ撤退している。その後さら に須見部隊は,西岸に布陣していたソ蒙軍の攻撃に参加しているのだ。東奔西走,いたるところでこ き使われた観が強い。須見部隊が,この作戦を指揮した第23師団長小松原道太郎中将の用兵に不満 を抱いたとしても無理はあるまい。 将軍廟まで ハイラルから阿爾山まで来た道を元に戻りながらしばらく行くとハイラルと将軍廟へ行く道が分か れる場所が現れる。ここからハイラルに戻るのではなく,一路将軍廟へと向かう。将軍廟は主戦場と なったハルハ河西岸の扇の要の位置にあって,日本軍の出撃基地がおかれていた拠点でもある。 ノモンハン事件の時は,7月はじめの日本軍の反撃の際には,ここ将軍廟から小林,山縣,酒井, 伊勢の主力部隊が出発したし,アロンアルシャンから長躯カンジャル廟まで続く道を走破してきた安 岡支隊主力の吉丸,玉田,宮尾の戦車隊,須見の乗車攻撃隊もここから東岸と西岸とに布陣していた ソ蒙軍を攻撃するために出発した。いわば将軍廟は,日本軍の最前線基地だったのだ。したがって, 8月20日からソ蒙軍の猛反撃が開始され,たちまち日本軍陣地が蹂躙されるとソ蒙軍主力は,将軍 廟近くまで押寄せてきた。もっとも彼らは,自国が国境線と主張するところで軍を止め,陣地を構築 したので,それより満洲国側にあった将軍廟は,かろうじてソ蒙軍の戦車の蹂躙から免れることが出 来たのである。 ここには現在若門刊戦役遺跡が建てられている。現在建設中ということもあるのだろうが,当時日 本軍とソ連軍が使用した兵器や勲章,写真や戦闘図,そして将兵が使用した飯盒,水筒,歯ブラシな どの生活用具などが展示されている。ノモンハン事件の初期,日本軍の戦車殺しの必殺の兵器となっ た火炎瓶も展示されているし,変わったところでは,当時日本軍兵士が読んでいたであろうと思われ る雑誌の一部が展示されている。おそらく戦場の塹壕から掘り出されたものではないかと思われる。 この若門刊戦役遺跡の前にはノモンハンの戦場跡が広がっている。どこまでも続く草原の波。地球 が丸いことを証明するには,ここに来るがいいと言わんばかりの天と地を明確に分ける緑と青の境界 線。それが何に遮られることなく私の周り360度を,直線ではなく,緩やかな楕円で取り巻いている。 すべてが緑の草原だけ。身を隠す木立もなければ,岩山もない。取り立てて言うほどの目立つ目標 のない。こんなところで戦争をしたら人工衛星を使って自らの位置を確定してもらう以外に方法がな いほど,位置の確定に戸惑う戦場である。事実ノモンハン事件では,行けども行けども同じ景色が広 がるので,距離感がつかめず,場所の間違いや方向を間違えて行方不明者になったものや敵陣に入り 込んだものなど,敵味方ともにとんでもない間違いが発生したという。実際何も目標がないので,今 でもそんな感覚に襲われることがある。 オーボーと羊の群れ そんな時に草原に立つオーボーは,確かに目立つ存在だ。阿爾山から将軍廟へ行く道すがら,はる か地平線にオーボーを確認したが,くっきりと浮かび上がるオーボーはたしかに道しるべとしては目 立つ存在だ。石を積み上げた上に楡の木を立てて,青や白の布地を巻きつけたオーボーは,高い位置

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にあるだけに周辺からも見分けがつく。大学時代の院生から助手時代に山岳部にいた関係で,山行の 折,登山道に石を積み上げたケルンはなじみ深いが,それとやや似た存在なのかもしれない。もっと もオーボーは単なる道しるべ以上に信仰の対象となるからケルンと同じものということは出来ない。 オーボーを左周りで3回周り石を投げ入れれば再びそこを訪れることが出来ると聞いたが,一種の民 間信仰に当たるものなのだろう。 オーボーを見とれているうちに車は羊の群れに突っ込む。突然白い塊のように見えた羊の群れが道 路を横切りだして車はストップする。彼らが道路を渡りきるまで車をストップさせて待つにはインド 旅行以来のことだ。もっともあの時は都会のまんまん中で,しかも牛だったが。こちらでも放牧して いる牛の群れが道路を横切る時車はストップして彼らのお通りを待たねばならない。加えて放牧され ている馬がごく近くで群れを成して草を食んでいる景色もめずらしいことではない。 草原に立ちて 将軍廟の前に広がる草原は,ノモンハン事件の戦場そのものである。緑の絨毯を敷きしめたような 草原も実際にその場に立って仔細に眺めるとまばらな草が乾燥した地面にへばりつくように生えてい ることが分かる。乾燥した大地は,粘りがなくボロボロしているぶん塹壕を掘るのは,さほど難しく はない。ノモンハンの戦争では塹壕を掘るのは簡単だったが,頑強さに問題があり,ソ蒙軍の砲撃を 受けると簡単に崩れ,掘った塹壕に生き埋めになる者が続出したという。 夏の草原にはさまざまな花が咲いている。周りの花を思いつくままに写真で撮ってみた。草木には 詳しくないのでそれと思しき花を写真に収めた次第だ。が,ノモンハン事件を綴った手記の中にしば しば登場し,兵士の心を慰め,戦死した戦友の霊を慰めるために霊前に手向けたとする「ノモンハン 桜」なるものを見つけることは出来なかった。土地のものに「ノモンハン桜」なるものを聞いては見 たが,皆,首を捻るばかりだ。 ハエはやたらと多かったが,これまた両軍の兵士を悩ましたという。しかし,今回は蚊や虻にはお目 にかかれなかった。家畜の分厚い皮膚を食い破って血を吸う蚊や虻に襲撃された兵士たちは音を上げ たといわれるし,日本の将兵だけでなく,ソ連軍司令官だったジューコフですら,その回想録で蚊に悩 まされた話をあげていることから判断するとすさまじかったことが分かる。一度お目にかかろうと草 原を歩いてみたが,ついぞお目にかかれなかった。矢張り家畜と行動を共にしなければ無理な話だった のだろうか。 その分,突然ノモンハンを襲う夕立さながらの豪雨は,たっぷりと経験した。突然空が曇り,それ が広がると大粒の雨が降り始め,それが豪雨に変わるのだ。もっとも,10分もすればそれも止んで突 然太陽が顔を出し,一転雨上がりの好天気が現れ,美しい虹を見ることもある。ノモンハン事変に参 戦した関東軍の将兵にしてみれば,貴重な水と涼しさと美しさを提供してくれる恵みの雨だったに相 違ない。 カンジャル廟へ カンジャル廟は,ハイラルの南西約百キロの地点に位置し,ノモンハン事件当時の日本軍の兵站拠 点であった。将軍廟から2時間,ハイラルからだと車で約4時間の行程である。ノモンハン事件の時

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は北辺の防御地だった。 カンジャル廟は,240年の長い歴史をもつ由緒あるラマ教の廟で,清朝時代の1771年に建立され た。かつてはカンジャル廟という名の通り,オアシスのもと壮麗なラマ廟が建立され,祭りごとに 人々が集まり市が立ち大変な賑わいを見せていた場所だったという。1939年10月にカンジャル廟を 訪れた満洲国国立中央博物館の野田光雄は,「カンジャル廟に来てはじめてオアシスという気がした。 壮麗なラマ廟を中心にして,オボと,牛糞と,泥で固めた四角な感じのするわびしいラマ僧のうちと が『此処は蒙古』の感を深かからししめた」(『北孔』)と短く記している。また多田秀雅は,『ああハ イラル』の中で,1930年代後半のハイラルを回想しながらカンジャル廟にもふれ,「甘朱爾廟の祭り が思い出に残る」とした後で,「平素から数百人のラマ僧がいたといわれ,当区第一の大伽藍であっ た。その周辺にラマの住居はあったが,その他内地で見るような集落は全くなかった。年中1つの ルートをたどって放牧の生活をする蒙古民族にとって,甘朱爾廟は信仰の対象であり,8月中旬には 年に一回のお祭りが盛大に行われる。その日は一夜のうちに無人の草原が大都会となり,三日後祭り が終わると再びもとの静寂に帰ってしまう。祭りは,娯楽のない蒙古の人にとっては年に一度の楽し みであった。ここで1年間の生活物資が大部分調達されるのだ。蒙古角力の大会があり,年一回しか ない物々交換や,一部金銭による物資の購入が行われ,遠くから満洲人の商人が集まる。最も珍しい ものは蒙古の包を室内で4分割した娼妓宿(のようなもの)であった。演習という名で見学した私た ちは,蒙古人から数匹の羊を買うと,誠に手際よくそれを料理してくれ,その肉に舌つづみを打った」 と記している。 普段はわびしいラマ廟所在地のカンジャルだが,1939年夏のノモンハン事件の時は,日本軍兵士 が結集し,ここを拠点に前線に出撃した兵站基地だった。また負傷兵を後送する際にここに野戦病院 が設立され,多くの戦傷兵が,ハイラルの病院へ送られるのを待っていた。また軍の情報基地もここ カンジャル廟(私が訪れたときは,廟修理中で、さながら工事現場のようであった)

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カンジャル廟に設置されたという。 今でもカンジャル廟を取り囲むように日本軍のトーチカの跡が残されている。ここには第6軍及び 第23師団の情報部が活動していたという。ここが,兵站,情報基地であったがゆえに,このカンジャ ル廟は,ソ連軍の空爆の目標となった。ノモンハン事件では6月18, 19日と7月16日にソ連軍機の 空爆を受けている。当時の「満洲日日新聞」(1939年6月24日)によれば,「甘珠爾(カンジュアル) 廟上空壮烈の空中戦」と題して18日にソ連軍機の襲撃で「甘珠爾(カンジュアル)廟では,満人家 屋焼失1」を出し,19日にもソ連軍機9機の空襲があたったが,損害はなかったと報じている。 現在は,ラマ教の廟の再建が進んでいるが,かつての面影はない。この廟は,1939年のノモンハ ン事件で破壊され,さらに戦後は文化大革命の被害を受けて徹底的に破壊された。したがって,一時 は姿かたちを喪失して歴史上から姿を消したほどである。 そういわれてみれば,ハイラルを訪問する際,車中で当地出身の若夫婦にカンジャル廟の名前を聞 いたが,頼りない返事しか得られなかった理由もなんとなくわかるような気がする。人口僅かの村に 過ぎず,廟といってもラマ僧の住居と小さな祠が残っていただけだからである。ところが,2002年 に再建され,03年には開光され,09年8月には廟の再建もなって,新しい出発をする手はずを整え ている状況である。私がカンジャル廟を訪問したのは開光1ヶ月前のことであったが,廟の再建は 着々と進行しており,12歳から19歳までのラマ僧10人ほどが修行している現場に居合わせた。少 しづつだが,ラマ教の復活も進んでいるような印象を持った。 阿木古郎(アームコロ) ノモンハン事件の戦場となった場所は,現在の新巴爾虎左旗(旗は日本の県に該当する)の南西の 位置に当たる。その旗の政府が置かれている場所が阿木古郎である。モンゴル語の「太平」に語源を 阿木古都(アームコロ)の中心街通り。韓国,中国,ドイツ製の車が大半で,日本車にはお目にか かれなかった。

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発する。 当時は,カンジャル廟の方が有名で,アームコロは,どちらかといえば影は薄かった。当然脚光を 浴びたのはカンジャル廟のほうで,アームコロのほうは旗公署の所在地だったに過ぎない。カンジャ ル廟は,ハロンアルシャンから将軍廟を通ってカンジャル廟を抜けて満洲里に抜けるカンジャル街道 の要衝で,主要な街道はカンジャル廟に集まり,ここから各地に散っていった。アームコロは,カン ジャル街道の通りすがりの町であった。現在では,地方政府の所在地とあって,アームコロが中心で, ここが阿爾山から満洲里へ抜ける街道の要衝で,旗全体の政治,経済,文化の中心地となっている。 したがって,カンジャル廟は,アームコロから一本の道路で結ばれているに過ぎない。そしてカン ジャル廟で行き詰まりである。 旅を終えて ホロンバイル平原の旅は終わった。なぜ,こんな平坦なさしてとるに足らぬ場所をめぐって数万の 兵士が命のやり取りをしたのだろうか。考えれば考えるほどわけがわからなくなる。現地に来て,現 場を見てみて,なぞは解けるどころか,ますます深まるばかりである。戦争というものは,一つの契 機を上手に処理できないと,未処理の問題が,さらなる問題を生みだして,気がついてみると取り返 しがつかない大きな問題に拡大していくものだ,という点だけは肝に銘じておくべきだと思う。ノモ ンハン事件はそうした経緯をたどって日ソ両国が激突する状況を生み出したからだ。火事も戦争も同 じだが,小さいうちに始末するに限る。結論は単純だが,なぜか帰りの旅では割り切れないものが 残った。また時間があったら再び来てみよう,ホロンバイルの平坦な野に。 参考文献 小林英夫『ノモンハン事件』平凡社 2009年 小林英夫「なぜノモンハン事件は起きたのか」(歴史読本編集部『関東軍全史』新人物文庫 2012年)

参照

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