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一江戸後期から昭和初期の史料から得られた情報-Kno
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ニホンザリガニ Cambaroidesjaponicus (De Haan, 1841)は,北海道と青森の全域,そして秋田県と岩 手県の北部だけに分布が限られている日本固有種で
あり,希少な種に指定されている (Kawai& Labay, 2011). これまでニホンザリカ。ニの博物学的な知見 は数多く報告されており,ニホンザリカ。ニは江戸時 代から昭和時代初期にかけて肺病等の薬として盛ん に 利 用 さ れ て い た ( 山 口 , 2001 ; Yamaguchi& Ho1thuis, 2001). ニホンザリガニの胃の中には,脱 皮時に胃石が形成される.この胃石は,江戸時代当 時はヲクリカンキリまたはオクリカンキリと呼ば れ,乳白色で球形を呈する径数ミリの主成分が炭酸 カルシウムの結石で,薬として利用され輸出もされ ていた (Kawai& Fitzpatrick, 2004). ヲクリカンキ リは,江戸時代には貴重で高価な薬品であり,重要 な産物であった
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井・白漬, 2013).また江戸時 代の史料に基づき当時の名称や名前の由来などが明 らかにされている(J11井・ 自演, 2009,2011,2013). 1北海道大学大学院文学研究科 干06ふー0810北海道札幌市北区北10条西 7丁目 Graduate School of Letters, Hokkaido University, Kita10, Nishi 7, Kita-ku, Sapporo, Hokkaido 060-】0810,Japan E-mail:itanaka@let.hokudai.ac.jp 2稚内水産試験場 干097--0001 稚内市末広4-5-15 Wakkanai Fisheries Institute, 4-5-15, Suehiro, Wakkanai, Hokkaido 097--0001, Japan E-mail: kawai-tadashi@hro.orj.p 本報告では江戸時代後期から昭和初期の史料におい て,江戸幕府の蝦夷地調査の際に記録されたヲクリ カンキリの解説や写生図, ヲクリカンキリが松前藩 から江戸幕府への献上品の一つであったことを示す 年閣の員数帳簿,蝦夷地産物のーっとして江戸時代 末期に書かれた見聞による解説,明治時代初期の札 幌開墾作業時の日誌に記述されたヲクリカンキリと 写生図,大正時代末期に子供の遊びとして記述され た史料が見つかったので,これまでの博物学的な知 見を付加的に補強する. . 材 料 と 方 法 史料調査 2010年から2014年に国立国会図書館,北海道立 図書館,函館市中央図書館,及び北海道大学附属図 書館にて所蔵されていたザリガニ関係の史料を調査 した.調査した資料は以下の通り. (国立国会図書館デジタルコレクション) ・『東蝦夷物産志J
(請求記号:特1-2990) (北海道立図書館北方資料室).
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蝦夷物産志/河野常吉資料263 旧記蝦夷物産 志J(請求記号 :094/K0/224).
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北 役 日 誌/河野常吉資料497 明治以降稿本』 (請求記号:0941K0/417) ・『愛孫丹羽太郎J
(請求記号:289別I)2
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井唯史 (函館市中央図書館デジタル資料室).
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東夷物産誌Jl (請求記号 :K600トウ5001).
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年中献上品風待日限定並献上御配其外被下品 頁数調書/嘱崎織人控Jl (請求番号:K08キム 5036) (:jヒ海道大学附属図書館北方資料室).
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蝦夷物産誌lJ(請求記号・ 旧記0196 北方資料 データベース).
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東夷物産昔、lJ(請求記号:旧記0431 北方資料 データベース).
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東夷物産誌lJ(請求記号:旧記0122 北大農学 部宮部文庫本) ・『東蝦夷物産誌Jl(請求記号:旧記0510 北方資 料データベース) ・『蝦夷採薬草木図(二)lJ(請求記号:I日記0076) 園 語 果 と 考 察 史料調査は,年代順に示した. 『蝦夷採薬草木図lJ(エゾサイヤクソウモクズ) 寛 政11年 (1799年)に成立し,著者は北海道大 学附属図書館の目録説明において,幕府の採薬師渋 江長伯 (1760~1830) 一行による東蝦夷地調査に絵 師として同行した谷元旦(文啓),(1778~1840) と なっている.本書は草木写生図で写本である.後に 植物学者の宮部金吾 (1860~195,] 万延元年 (1860 年)に江戸に生まれ,明治10年 (1877年)17歳に して北海道に渡り,札幌農学校(現在の北海道大 学)の第二期生(新渡戸稲造と同期生)として卒業 後,東京大学で植物学を学び,米国留学を経て札幌 農学校教授として北海道全域や千島の菌類,植物を 幅広く研究の対象とした) (川嶋,2007))により学 名が書き入れられている.最終頁に宮部金吾のメモ があり 「白井光太郎(横物病理学者,本草学者,植 物学者,菌類学者, 1863~1932) 所蔵の写本より予 科生の原因三夫をして複写せしむ」とある.また, 本書表紙裏の東北帝国大学農科大学(現北海道大 学)図書館印の脇に渋江長伯著,写生は谷元旦文啓 画と添え書きがある.谷元E
は,幕府の奥詰医師で 巣鴨を始め各所の薬園を管理する渋江長伯を隊長と 30I
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15) した薬園勤務者や本草家などが属する34名の採薬 調査団に連なったと あ る (山下, 2012).その使命 は現在の北海道南部に位置する松前から北海道東部 の厚岸までの道中における,地理風土や植物・動物 相などを記録することであった (谷,1799;佐藤, 1973).蝦夷地での派遣で現在,谷元Eの手になる と推定される著書や図画等は,自筆本や写本を含め て多数確認されている. 本写生図は植物を中心に貝類や虫獣類も含まれた 254丁からなる図鑑で写生図に名称が書き込まれて いる (山下,2012).調査した写生図は白黒であり, 元図の色合いについては不明であるが,前述の宮部 金吾によって学名が書き入れられていることから, 対象物の形は実物と見比べても的確に描かれている ことが推察される.ニホンザリガニに関しては, 本 写生図の最終ページに描かれている(図1)が,第 4,第5歩脚の先端に注目すると本来肢節は一つで あるものが二股となっている.また,腹部の節は本 図1.r
蝦夷採薬草木 図 (二)JI(北海道大学附属図 書館所蔵)著書内のニホンザリガニ写生図.来6節であるものが9節描かれている.これらの描 写は,写本であるため写した時点で誤ったのか,原 本の時点で既に誤っていたのかは不明である.本書 の正確性に関しては,今後の調査を考えている.ニ ホンザリガニの当時の名称について,谷元旦は紀行 文の 『蝦夷紀行』で,
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サル蟹」 を使用している.本写生図では,i
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松前方 言イサリガニ」が記述されている.ともにカタカナ 名で記述されている 「サリカニj,i
ヲクリカンキ」 は,草本図全体に記載されている字体の類似性から 白井光太郎により書き入れられたものに間違いない だろう. 『東夷物産誌J
(卜ウイブッサンシ) 寛政11年 (1799年)に成立し,著者は土岐新甫 (生年没年不明)である.土岐新甫は,前述の 『蝦 夷採薬草木図』で幕府の東蝦夷地調査に絵師として 同行した谷元E
と同じく,渋江長伯を隊長とした 34名の採薬調査団に加わった草本家ある.本誌は 蝦夷地産物の動植物や鉱物などについて 485種程の 項目をアイヌ語で記述し,それぞれ解説している. 自筆本の所在は不明だが,写本が複数あり,ニホン ザリガ、ニに関する項目名が異なる.なお,ニホンザ リガニの解説内容は同一である.本報告では北海道 大学問属図書館所蔵本の写本を中心に注目した.写 本の請求記号:旧記 0431(北方資料室)は,ニホ ンザリガニの項目名を 「テクンへコルベj(アイヌ 諮で手甲を持つ者の意味)で記述されているのに対 して,請求記号:旧記 0122(北大農学部宮部文庫 本,北方資料)では,i
ヲクリカンキリ」で記述さ れている (図 2). なお,ヲクリカンキリ以外の項 目はアイヌ語で表現されている.宮部文庫本の説明 として,i
明治15年 8月宮部金吾が若年の頃,松浦 武四郎翁所蔵本を借りて写したもの」とある.国立 国会図書館にも写本の 『東蝦夷物産志(別タイト ル:東夷物産志)J(請求記号・特 1-2990,著者は渋 江長伯他)があり,ニホンザリガニの項目名が抜け 解説のみが記述されており,解説は北海道大学附属 図書館所蔵のものと同様である.写本としては他 に , 函 館 市 中 央 図 書 館 ( 請 求 記 号 :K600トウ 5001),北海道大学附属図書館に 「東蝦夷物産誌 (東夷物産誌と閉じもの)j(請求記号:I
日記 0510):
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図2. ~東夷物産誌J (北海道大学附属図書館所蔵) 著書内のヲクリカンキリに関する記述. があるが,ニホンザリガニに関する項目名 ・解説と も抜けている.写本が数点存在していることは,そ こに記されていた蝦夷地の物産に関する情報を多く の人が必要としていたと推察される. 『年中献上品風待日限定弁献上御配其外被下品員数 調書 /煩 崎 織 人 控J
(ネンチュウ ケンジョウヒ ン カゼマチ ヒギリ サダメ ナ ラ ビ ニ ケ ン ジ ョ ウ オクノてリ ソノホカ クダサレヒン イン ズウ チョウショ/カキザキオリンド ヒカエ) 天保13年 (1842年)に成立し,著者は嘱崎織人 (広常),(生年没年不明)である.本員数調書は松 前藩役人の煩崎織人が毎年,将軍家,老中,若年寄 その他へ献上する煎海胤(ナマコ),干飽,椎茸, 牡嫡,熊胆,鮭塩引,昆布,数子,青玉,鷲尾,猟 加 僻2
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(画館中央図書 館所蔵)著書内のヲクリカンキリ献上に関 する記述. 虎皮(ラッコ皮),腫納憐(オットセイ)などの船 積み日,送付先,数量を忘れないように書きとめた 帳簿である.この江戸への献上品の中に「ヲクリカ ンキリ」が記述されている(図 3). 記述内容は, 子,寅,辰,午,申,成の隔年に 「ヲクリカンキ リJ
(ニホンザリガニの胃石)正味で六拾目を御用 で献上とあり,日時は十月十日頃に風待とある.一 目は 3.75gであるから六拾目で 225gということに なる.胃石を 225g集めるということは,著者の手 持ちの成体胃石([直径6 mm前後)1個の乾燥重量 が約0.1gであることを考えると 2,250個が必要とな る. 1個体に 2個ずつ胃石が形成されることから少 なくとも 1,000個体以上の脱皮前後のニホンザリガ ニが使われたと思われる.現在では, 筆者の経験上 一人が100個体のニホンザリガニを採集するには数 時間以上を要し,更にその中の脱皮前後の個体は脱 皮の最盛期でも 10%程である. 1,000個体以上の脱 皮前後のザリガニを採取することは,当時としても 容易なことではなく,それゆえに隔年毎の献上に 32I
Cancer 24 (2015) なったと考えられ,かなり貴重なものだったことが うかがえる. 『蝦夷物産志J
(エゾブッサンシ) 嘉永7年頃 (1854年頃)に成立し,著者は嘉永 7 年に幕府が蝦夷地の状況を把握するために掘利照 (織部)(1818~1860) , 村垣範正(与三郎) (1813~ 1880)に蝦夷地を巡見させた際に付随した長州藩士 (氏名不明)である.堀利照は江戸時代末期の幕臣 で,嘉永 7年 (1854年)に箱館奉行となり樺太や蝦 夷地の調査や巡回を行った.その時の同行者に後述 の村垣範正がいる.安政5年 (1854年)に外国奉行 となり,神奈川奉行も兼任し諸外国との交渉や横浜 開港に尽力した人物である(日本歴史学会,1981; 国史大辞典編集委員会, 1991).村垣範正は堀と同 じく江戸時代末期の幕臣で,安政 3年 (1856年)に 箱館奉行となり,先任の堀とともに蝦夷地の調査お よび、移民の奨励や開拓事業に尽力した.また堀と同 様に外国奉行,神奈川奉行も兼任し諸外国との交渉 に活躍した人物である(日本歴史学会, 1981;国史 大辞典編集委員会, 1992). 本史料は,蝦夷地の動植物(上巻は草部 49種, 下巻は鳥獣虫の之部29種)について諸書からの抜 粋を掲げ,次に自らの見聞による解説を添付してい る.当時の蝦夷地における生物の名称の出典を考証 し産地の概況を示しているが,内容の多くは嘉永元 年 (1848年)の淡粛如水(たんさいじょすい,日IJ 名は姥子吉蔵,箱館の町入学者,生年没年不明)の 『松前方言考』の引用である.本史料の中でニホン ザリガニに関しては,I
サリカニ」夷名(蝦夷名) テクンべコルベで記述され,オクリカンキリ(胃 石),生息場所,サリカニ名の由来,味噌を使用し た取り方, シャコとの違いなどを紹介している (図4).川井・自演 (2009)は, 1692年に刊行され た「本朝食鑑』の中で,当時ニホンザリガニは,そ の胃石「オク リカンキリ」だけが認識され,江戸に も分布するシャコOratosquillaoratoriaが産すると誤 認されていたことを報告している.この理由とし て,当時は北海道(当時の蝦夷地)の情報が江戸の 住民にとって,極端に不足していたためと考えられ る.その後,約 200年を経過して江戸幕府が蝦夷地 の資源開発やロシアの脅威に対する防衛等を主な目11│
事 l u ー ← 図4. ~蝦夷物産志.1 (北海道立図書館所蔵)著書内のニホンザリガニに関する記述. 的として調査隊を派遣し,また奉行所を置いて統治 を行うようになった.そうした中で,蝦夷地を把握 するための書物として各種の「物産誌』が記述され るようになり,北海道の生物のうち物産となる生物 の正確な情報が入るようになったと考えられる.そ してシャコと混同されていたニホンザリカボニに関し て生物学的に正確な情報が紹介されるようになった と思われる. 『北役日誌.1 (ホクエキニッシ) 明治8年 (1875年)に成立し,著者は旧庄内士族 の堀三義 (生年没年不明)である.以下の記述は主 に倉持 (2010)を参考に作成した.明治4年 (1871) の廃藩置県後,職を失った士族に対して農業によっ て生計を立てさせる士族授産の開墾が全国で開始さ れ,各地において養蚕製糸(カイコによる糸を作成 する)事業と開墾によるカイコの餌となる桑の木を 植える桑園造成が構想された.明治5年 (1872)に 庄内士族約3,000人によって鶴岡郊外の荒れ地で あった松ヶ岡の開墾が着手され,見事に成功を納め るに至った.この成功に注目した北海道の開拓使 は,札幌における桑園開拓の開墾を庄内士族に要請 し , 230人程の庄内士族が札幌に派遣されることと なった.その一員として参加した堀三義の酒田出発 から帰着までを記録した史料が 『北役目誌』であ る. 本史料には多数の詩歌や挿絵を含んでいるため, 当時の札幌を始めとした北海道の様子や開墾作業を 知ることができる.その日誌の中に 「ヲクリカンキ リ」の表現と 「大小 2個体のニホンザリガニの図J
が描かれている(図 5).描かれている図は,本文 からニホンザリガニとわかるものの,歩脚肢節が全 て楕円形の団子状,第 4・
5歩脚先端の肢節が二股, 腹節や尾扇肢が4節など,過度に簡略化して描かれ ている.写生図が簡略化されているのは,細密な生 物の写生図が描けるほどに作画技術が高くはなかっ たか,挿し絵の様に描いたと考えられる. 『愛孫丹羽太郎.1 (アイソンニワタロウ) 昭和2年 (1927年)に成立し,著者は現在の北海 道せたな町丹羽地区を開村した丹羽五郎(1 852-1928)である. 丹羽五郎は,幕末の会津藩士であり明治期には東 京で警察官も務めたが,自身の壮大な夢であり, 曽c
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(北海道立図書館所蔵)著書内のニホンザリガニに関する記術. し,八寸角のコンクリ ート の 記 念 標 を 建 て た (図 6). コンクリート標柱には,丹羽五郎の筆によ る「太郎の猿蟹津」と五郎と親交が深かった会津若 松の画家・歌人である星暁村による悼歌 「在りし世 に,君めてまして,あさられし,ここそかたみの, 猿 蟹 の 津」と 記 し た 陶 札 が 埋 め 込 ま れ て い る (図7). この 「猿蟹」は."[猿蟹津の遺跡」の冒頭 に 「北海道の河川に猿蟹と称する海老と蟹の合いの 子の如きものあり」とあることから,ニホンザリガ ニであることは間違いない. また,丹羽八郎による悼詞の 「或る日のこと」に おける猿蟹に関する箇所の大意は,秋の末に太郎が 小さい古いバケツを提げて 「小父さん猿蟹捕って」 と言いながら遠くから嬉しそうに駆けてきた.太郎 は清水に手を入れ小石を起こし,這い出してきた蟹 を捕ってバケツに入れた.7.l<が濁るとしばらく待っ てまた捕った.この場所よりも向うの清水の方がい るからとそこに行き,苔の生えた石をめくって蟹を 捕まえた.このような場所にいると言って上手に 捕った. しばらくするとバケツの中には,赤い色, 薄黒い色,青みかかった色の蟹がウヨウヨ捕れた. 太郎に「もう帰ろう」と言っても 「もう少し…」と 図5. 祖父の会津藩領内の荒廃地の農業開拓事業の影響も あって."[北海道開拓の大事業」に転身するため 39 歳で長年勤めた警視庁の職を辞して,明治 2S年 (1892年)の 3月に渡道し,移民入植者の先頭に立 ち原始林を厳しい自然環境と戦いながら開拓した. 集落のために農事の改善や畜産に尽力するととも に,私財を投じて村の基本財産を造成し,公共事業 にも積極的に貢献して,小学校などの各種施設の建 設や整備を行うなど.["理想郷丹羽村」を出現させ ることに成功した人物である(佐藤.2009). 著書は,わずか 7歳にして病死した,愛して止ま なかった孫の丹羽太郎 (1919~1926) の死後一周年 にあたり,自身の太郎に対する遺る瀬なき哀情を慰 籍すべく,昭和 2年 2月に本著を纂輯し,知己,親 友392名へ贈ったとある(丹羽連合部落会.1991). 本報告では著書内に記述されている「猿蟹津の遺 跡」と太郎の一周忌に際して寄せられた悼詞の中の 丹羽八郎による,太郎との 「猿蟹」捕りの思い出を 綴った 「或る日のこと」に注目した. 「猿蟹津の遺跡」の項の大意は,太郎はよく近く の沢に出かけ猿蟹を捕まえるのを楽しみとしてい この場所を形見として 「太郎の猿蟹淳」と命名 た 34C
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図7.丹羽太郎の祖父(丹羽五郎)の 筆による「太郎の猿蟹津」と星 暁村による悼歌が記された陶 札が埋め込まれているコ ンク リート標柱.3
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図8.r
愛孫丹羽太郎J
(北海道立図書館所蔵)著書内の「或る日のことJ
(丹羽八郎著)
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の項でザリガニを捕っ て遊んだことが描写されている記述. 井, 2001;川井・白漬, 2001,2009,2011,2013;川 井・鬼丸, 2007; jll井・田中, 2012).そ し て 本 書 から大正末期の「子供の遊び」として,ニホンザリ ガニが存在していたことが示された. De Haan, W., 1841.Crustacea.ln: Ph. F.vonSiebold(1833 -1850), Fauna japonicas附 descriptioanimalium, quae in itinere per Japoniam, jussu et auspiciis superiorum, quisummwm in lndia Batava Imperium tenent, suscep -to, annis1823-1830collegit, notis, observationibus et 所 蔵 史 料 の 利 用 許 可 を い た だ い た 北 海 道 立 図 書 館,函館市中央図書館,北海道大学附属図書館 , 現 地調査においてご協力とご対応をいただいた,せた な町文化協会会長の佐藤信人氏,松前藩の船 積 み 献 上品に関する貴重な情報の提供やコメントをいただ いた北海道博物館(旧,北海道開拓記念館)の三 浦 泰 之氏に深く感謝いたします.圃ヨ涌文言ま
辞~蔚
一心に石をめくりながら熱心に捕り続けた.そして 家へ帰って「こんなに捕れたJ
と嬉しそうにお母さ んに話したとあり,夢中で楽しんでニホンザリガニ を取ったことが記述されている(図8). 著書は,満7歳で病死した太郎に対する悲しい気 持 ち を 記 し た も の で あ る が , 約 90年 前 の ニ ホ ン ザ リガニの生息場所とその場所で本種を採集した状況 を明確に記録されたものとなっている.ニホンザリ ヵーニがかつて生息していたことを標柱として残して いる場所は,おそらくこの場所以外にはないであろ う.なお,I
太郎 の 猿 蟹 津」の 標 住 下 を 流 れ る 小 河 川において,ニホンザリガ、ニが最も採集しやすい時 期 で あ る 2012年 6月16日 に 約 100mに亘 り 流程 を 踏査して生患調査を実施したが,生息は確認できな か っ た . そ の た め 当 場 所 のニ ホ ン ザ リ ガ ニ は 絶 滅 か,少なくとも大きく個体数の密度を低下させてい る可能性が高いと思われる.このことからニホンザ リガニが生息地を減らした希少種であることが改め て確かめられた. ニホンザリガニは江戸時代から昭和初期にかけて 食 材 , 教 育 材 料 と し て 扱 わ れ て い た (川 薬用品, 36Ca
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adumbrationibus illus回vit(Crustacea):トXUII,トXXXI, ix-xvi, 1-243, p1s. A-J, L-O, 1-55, circ. Tab.2 Kawai, T., & Fitzpatrick, Jr., 1. F., 2004. Redescription of Cambaroidesjaponicus (de Haan, 1841) (Crustacea: Decapoda: Cambaridae) with allocation of a typelocal -ity and month of collection of types. Proceedings of the 8io10gica1 Society ofWashington, 117: 23-34 Kawai, T.,& Labay, V. S., 20日.Supplemental information
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