本稿托昨年度海上保険講義の原稿に多少の改訂滑稽ななしたるものでぁる。玄に掲載して本年度講義り補充ミサろ。若 L海上保険に輿憾右枠たれ′ろ一般讃者に研究上何等かの参考ミもなろミ:ろあらば望外の光栄でぁろ。 ※ 脆上保険の制度は絶ての保障制度巾故も早く畿連tねものであるが、その起淑に戯ては塑者の所詮︳克しない。 山部の単著はその起淑を共同海技の制度に基かしめる。嬉して然らば、組元前数行年悪のロード海法︵﹁ex Rh〇・ d叫ad盈actu︶制定の希膿時代に、之を求めることが出来る。然し海上保険の制度を共同海抜の制度匿由乗せしめる ことは、今日単著の多く探らざるところである9他の叫部の塾考は胃除貸借︵FOeコuSコauticuヨ︶の制度に淵源せ しめる。果して然らば、辣店時代に之を求めることが出来るけれども、冒険貸借の制度観以て直ち鱒今日の海上 保険と何純するは亦屏計である。今日の通詮峠希臓羅娼時代に海上保険の存在を認めない。漸く中世紀に至って 冒険貸借より進化したるものとなす。両も飼、その時期を或は十二世紀なりと云ひ、或は十三世紀若くは十四華 持上保険¢沿革及文献
海上保険の沿革及文献
ー ノ ︵こ九三︶ 三九武 三
適紀なりとなす。
蒜の箪者、殊に歓洲中世時代の擬革慣習法を蒐集着通したる有名名なる革者クレーラックは、伊太利の歴史
繋ぎaコ言aコiの云ふせころを引用して、海上保険の創案者は扮太人なり。彼等が軸十八二年ph≡甘ぎ篭tuSにょり、仰研から追放せられ仰太利に避難する際、保険の方法によつて彼等の財産の海上危険を保障したりと云ひ、
之をべ芸やフP−レンス等の北部仰太利商人が目撃して之を搾川し、普及せしめたりとなす ︵Cle賢去se什 C。。どヨ。S詠−e言﹁も。urdeauxこ登・P・N︼00︶。米問の革賓アユアーは、この樽詮の眞償は這問超であるけれども 解史家Gぎu≡aコiの生存中眈に海上保僚の制度が存在したるを想像するに見るペく、彼は三国八年高紛豪 以て犯したるを以て、恐らく聖二七〇年と三八〇年の憫に於て渥1保険の制度生れたるものなるべしと云っ てゐる︵ロuer主ar吉e−コSu−aコne、P・Nβ。ゼノア高等商業車校数授BeコNaの考誇に依っても、今日現存する世界政市の海上保険類似の誇券は二は酔腰保険にして千三苗十老十月二十言附、他は積荷保険にセキ三琵
十八年方十五目附である。されば通詮は海上保険の制度は、是等保険符券に於ける作成日附以前に於て存在し
たるを想像せざるペからすとなす。然れどもベンザの蔑見したる二秤の保険誇券は、何れも伊太利に於ける公潜
入役場に於て作成せられたるものにして、、未だ純然たる拭審填補む糾したるものにあらす。之を保険詐券と見る
よりも、寧ろ欒態冒険貸借契約書と見るを以て穏常とすべし。従て常時行はれたる海上接審墳師の制度は、未だ
胃除貸借の戯を脱せざるものであつて、之を保険と比るは早計である。精々保険貸借︵<ers各eruコ鼠aユehコ︶、 簡二怨 第三兢 ︵こ九囲︶ 四〇若くは準保険︵PuasTぎsuraコCe︶とでも名付ガ縛るのみ。 海上損宰唄抑の契約書が冒険貸借詮苔の形式より全く酔脱するに至つたのは、尚それ以後のことである。而し て今日までに教見せられたる苫文書の中ピサに於て作成せられたる千三百八十和年六月十山日附のものに於て、 漸く海上伽除誇界の形式を完泰に典へてゐる。されば渥上保険の制度も漸くその常時に至つて、冒険貸借ょり生 れmたものであぇ。尤も板碑に観察するならば、常時行はれたる梅上保険は箪に渥上損害喋如の契約に過ぎざる ものであつて、今日常人の見る如き合珊的保険料を以て経常せられる保険ではなかった。されば単著は原始的保 険てふ雷以て骨置の保険を呼び現代的炭の保険から荒する︵㌶鍋疲欄頑轡。 海上保険の制度豪中世伊太利の地に淵源し、伊太別人に依って歓洲諸都市に倖播せられたものなることは1常 時北部伊太利のベニスやフP−レンス等の郡市が、商菜の中心であつたことに概しても想像せられる。蓋し十二 三世紀の頃に於ては、南政の商業は普通ロンバード人と耶せられる北部伊太利人に依って営まれて居った。栢し て彼等は歓洲到るところに柚民して代珊店を宥し、倫敦、ルーアン及びブルージ等はその主なる租民地である。 のみならす彼等は平和の手段に依って、或は陸路により、或は海路により攻及、ペルシャ、印度、さては文郵にま でも遠征して、その物産を伊太利、酉班牙、俳蘭酉、英富利、ブランダース、さて・はパルチックまでも翻し、鹿 西交通の商藤㌃二手に絞って居った。この状態は十六世紀の初めまで臓摸したるが、一﹂囲九二年には壷米利加大 陸の蟄見あり、史に二四九七年には葡萄牙人は希望峯を迂回して、印度、文郵及び日本への航路を畿見し、商業 海上保険の沿革及装弾 ︵二九五︶ 四一
こ 梅上保険に翻する故苫の法令として箪者闇に知られたものはん四三五年バー 瞼の歴史的研究に殆ど畢生の心血を傾注したる塾者Rea什Nは、二三ハ七年乃至叫三八三年に於ける葡萄牙王フエ ルヂナンドの法令を撃げる。また海上保険を共同海損に淵源せしめるならば、之を紀元前教育年皆のロード海浜 ︵﹁exRh。diadejactu︶に求むべく日陰貸借に淵渡せしめるならば、之を紀元後垂二三年のジュステイ一石ン皇帝の 布皆︵C。dexLusti⊃iaヱに求むペきものであるけれげも、今日の通診ではない。碕叉、十世紀乃至十四世紐の問に於て 地中梅ぬ岸に行はれたる渥法に脚する慣例を編聯せるコンソラト一法典︵nOコSO−旨de︼三are︶や、.十二世紀乃至 十四世紀頃のオレロン法︵﹁esLu駕ヨeコ︷s◆。uR。訂sd.〇−erOコ︶一、並に十二三世紀頃の北海の慣例に基くところのウ ィスビ一法︵↓heraws。巾Wisbuy︶中吟は∵共同淑損に就ては柁詳細なる規定を存するけれども、具腰的に海上 保険に闘するものなし。1是等温市債督法の内容に就ては∩一e許∫Us戊∩。utu∃eSJela穿こ軍Lust厨ロ○▲ ヨi。i。。色︷h。S。≡。d一S。。トaws﹂りN舎↓w訝BlackB。。k し0 バーセロ芸蕃に次でスペイン︵鎧讐騨㌃鞘八︶言−レンス︵㌔ニ三︶ブラツセル盃聖鋳いハ㌫六︶ 筋二怨 ′ 欝三兢 の蜜舵も次第に仰太利より四班牙や葡萄牙の方へ移るに至った。 ︵二九六︶ 四二
アント㌣ス裏表又ぜの雷が髪。讐各牒令豊とし蒜窟除鼠する富的躇係む規定し
食る転過ぎない。その法的関係を和組織的に記述したるものはギドン法︵。⊆。。。。e−a弄︶を以て晴夫とする。 ギドン法は何時H来たか明かでないけれども、恐らく土ハせ紀なるペぐ、ルーアン市の二人の豪商にて伐つ起草 甘られヾその地の領事紗判鱒ために用ゐら打たもの∵∼様である。綻て常時、之は法として公布せられたものでは なかったが、∵六〇七年及びγ六相克年の開庶ルーアン於て公刊せられ、〓ハ四七年以後はボルドー及びルーア ン桐汚その他で公闘宿られ豊洲記クレーラグクげ著書中に掲載せられ他の政洲諮郡苗にも汎で知られるに至った 次竿二大八﹁年には、ルイセ囲せの溢強勅令︵OrdOコaコCede︼a三ariコe㌫望︶の畿布薮見た。この勅令は宰相コ ルベール主串のやに、俳問共他諸国の暫法令並に慣習法を参酌し、常時の法曹家及蜜務家の意見を徹して海上保 険のみなちす隣ぐ海公淡及び海私法の全般に通じ、組織的に編纂せられたものであつて、その海上保険に囲して は前記クレーラックの著書匿療観うギドン法に負ふところ甚だ多きものである。バラン′・・!くalぎぎuくeau nOヨ ヨeコtairesu二dr旨註コCe de﹂凱3arぎe′duヨ〇仰sdがu〓琵Tはこの勅令を註録し、ポチエ′POth啓.↓raitedu︹○コtra叶d訂su−一a昇eノPar Estraコ皿i訂ン蒜︼q﹂及びエメリゴン ー Emeri笥コ二﹁ra譜des訝suraコCe e什des︹OntratSa
lagr訂訝︼滅鱒トーはその海上保険の部を詳論してゐる。その後仰問に於ては二八〇しし年ナポレオン法血ハの編纂
を見たけれどもその晦商法垢の如きは全くルイの勅令を躇襲したるのみならす峡洲諸団の渥商法中俳法系に屈す
るものは素より、英淡及び弼法系のものと細も?この勅令に負ふところ甚だ多し。
海士保険の沿革及文献
弟二聡 弟三携
︵二九人︶ 四四 併固に於て海上保険のみを論じたる著書は多くないけれども、梅肉法巾に於て之む詳論したるものに至つては 甚だ多い。その代表的なるものは先の如し。 ロes甘rdぎs.↓raite詠ロrO⋮t COヨヨerC致‡ar≡ヨe∵透当100p <監rO笥r−ロrOit3ar≡ヨeこ缶切﹁醗. ロaコ首コ、↓†aite de DrO−t三賢≡ヨe∵芯岩丁︼の. 垂pert、ロrOit苫ar≡ヨe﹂冶NJNu● 白図には左の名著がある。 LacObs,ロrOit三aritiヨeBe−笥﹂∞∽u−望● SヨeeS訂rs.ロrOit3arit⋮ヨe e叶ロrO蒜Fl亡く訂1.1讐l−ふN 梅法に関する判決、論文、其他重安なる事項七掲載したる程期刊行物としては、先のものが故も有名である。 コutauraコ.Reくueぎterコ監iOコa−muロrOit苫ar≡ヨe.︼缶切−︼∞拐et−00拐ト︼宍寧 DOr、ReくuedeロrO蒜≧ar迂ヨe nOヨPare、︼りNl■−︼冶可. 三 ㌣ムバトド人が南欣に放て活躍しっ1ある際、北欧に於てはリウベツク及びハムブルクの鮪人が勢力を絶てつた。而して彼等は丁扶及び瑞此ハ、其他パルチック渥を抱擁する諮問の海族の危険に僻ふる篤め、一二掴﹂年同 盟を結び﹂その後聞もなく、他の猫逸及び泉ザーランドに於ける八十の多き諸郡市を之に加盟せしめ、所謂ハン ザ同盟を作るに至った。かくて彼等はブルージに於てロムバード人と接偶し、倫敦に於ても相知るに至った楼で ある0 一部の聾者、殊に﹁ロイドの鮭史﹂の著者マルチンは、海上促除を胃除貸借に淵渡せしめ、冒険貸借に関する規 定が地中海のオレロン法やコンゾラト一法胤ハになく、北海のウイスピー法にあるを珊由として、線上保険の出生 地を地中梅酒岸なりとせす、却てパルチック沿岸なりと主張するけれども︵3artぎ〓註Ory。fu。yd〆p・e今日 の通説でなく、却て今自盤上保険設券の意味を衷はす英語のP。l茸、彿語のP01ice、猫語のPOl訂e、酉譜のP。美江 てふ語が、伊語のP。ニNaに山水するを思はゞ、その主張の探るに足らざる番を知り得る、されば海上保険の制度 はパルチック海より地中海に鰭播したるものとせず、ブルージ又は倫敦に於て、ハンザ病人と。ンバード人とが 楼閣す.る中、後者より之を数はり、かくてバルチック渥沿岸に普及するに至りたるものと僻するを以て、穏常と する。 田 地中渥沿岸に於ては、十せ紀乃至十相性紀の血に放て、コンゾラト一法典並にオレ亘ン法を有したると同様に 鞍上保険り噂畢及文献 ︵二光九︶ 四五
第二巷 軍事城
三ロ○︶ 四六 パルチック沿岸に於ては、三三耽紀の警イスピー誓有した。ウイスビ!市はゴーランド島に撃/るを以て ゴト云/ンド水上法とも云ふ。差嘉九右に警は、ハン蒜郡市の代表者リユウペック喧脅合してハンザ法 令︵エ当S2a斉h20r計㌢コN︶姦布する雷。叫六叫嬰には、更に之に修華軍師む加へてゐる。然し是等の法典は仰単に共同溢損並に冒険貸借を規定したるに止まり、海上保険に闘しては具膿的に規定するところなし。′∫戸
是等の法血ハの内容に警はす笥b2声ぎ畳コ写uberdかSHa喜r昔heScトiff−IuコdS2e=Rech:書.を参 照せられ牢し?∼然れどもこれよサ発き、嘉至年ハンザの植民地たるアントワープに於てフィリップこ訟 ゎ布潜tたるものには明かに保険に翻して規志するところあつて、驚くほこの法令がパルチック沿岸に警も 朽/はれたるものならんか。︵Ou2−・亭仙コe訂uraコne●P.ムN.︶十七八世紀に入つては、弼逸ハンザ諸都市た於て数多の溢法に柑すろ布告を見雪が、その中泥土保険に躇し
孟基苦るもの竺七⋮年の淡違令︵H豊u−昔日eぎkur2コ2=uコdHa<er2夏コuコ冨昌岩喜べ く、慧背固に於ては、∵七大六年梅上保険澄共同海技に紺する法令あり。∴七九四年には潜函音速 ︵Laコ瓜 reCh什く。コ右岸︶の護布あつて、途に現行海商法の基礎をなすに至つ・食。剛八六二年の猶逸哲商法 ︵空笥∃eヨeS 晋︷sc書評n賢管2tN貫h︶は之を締とし、後述する朔の﹂八草二年通還芋泥土保険定則草案を経として編纂せ 渇れ潅るやの陀とせ、′天七〇年以来猫麺聯邦全館に公布せられ挺。盛竺九〇〇年には、偽淡の改iEを見たる澤海商前に於ては殆ど修馨られると主なく、漸く∴九〇八年に於ノて、その海上保険の部紅多少の惨苦見
猫逸転於て畔上保険を、.法律及び耗臍の弼方南より論じたる著書政友の如し。 ⊇左eseコ.D訂SeeくerS首her亡コ苧︼008● L訂bi撃ロ⋮eSee<erS首heruコ∽−望P 法律的方面毅詳論したるものとしては、擬商法ぬ蘭する著書に伐たねばならん。その代表的なるもの左の如し Wa篭Ⅷ7勺app2コheぎ、Haコdb宍h desSee−eCh什sこ00璧T⊥望示 WOyeコStreWis一Dasロeu巾snheSeerecht・︼∞増−︼8︼・ Snhaps−Das DeutscheSeerechtこ治︼・ 海上保険に胸する判決例を掲載したる定期刊行物としては、HaコSeat訂nheGerinhtsNeituコ仏を以て白眉とすべく また市名なる革者の論文は、多くG〇一dsnユヨ岳.Ne訝chr山f〓ぎ二登Saヨteコエaコdeis=reChtuコdKOコkursrecht中に掲 載せられる。 五 上述の如く昭逸に於ては十八世紀より二十世紀にかけて、屡々海上保険に踊する法血ハの輩布修正増補薮見たる が、∴ムブルグ た。 慢上保険の浩夏草及献 ︵三〇一︶ 四七
第こ森 井三紙
︵三〇二︶ 四入 やとなし、別に彼等のmに渥上保険取扱規則なるものを設けてゐる。即ち六〇〇年には、前記壱≡年漢盤 淡今に準接して、﹁八〇〇年革案︵ロerPlaコく。コー∞8︶と糾せられてゐるL一般定則を作り、∵ハ四七年及び六 五二年之に修正を加へ、∵八六七年には海上保険二股定則.︵空想ヨeiコ2S2eくe−S昏e−uコ管ediコ篭笥<○コ忘S︶なるものを制定してゐる。この定則は天六二年制定の昭逸曹商法海上保険の部をも、掛酌して作られたもので
ぁっ・て、弼逸各地忙於ける海上保険取扱規則の流言封らんとしたものである。然れどもこの定則制定後、ブレー
メンに於けるお上牧除倉肛は、別に叫八七五年ブレーメン極上保険定則ハくersぎ21uコ嘗ed言uコ笥derBreヨ宣eコ See<erSich㌢コ選eSeニsn卜a¶teコ︶を制定したるを以て、その日的を達しなかった。その後、山九〇八牛には商法海上保険の部に於て修正あり、海運業の欒遷にも應じ、叉ハムブルグとブレーメ
ンに於る淑上保険取扱規則の放言も計らんがために、㌻九∵○年、漠塔商業合議桝に多くの保険業者保険仲立
人、船舶朋有者、運送取扱業者、その他の闘係業者を集めて、十五回の多き倉議を開いて協議し、弼逸海上保険仙
般定則革案︵Eコどu−fal官m2merJ2亡tSCトerSe2壱S昏er亡コ嘗edぎコ笥VOヨ2三〇︶なるものを作り、更に二九∴柑雇ブレーメン商業合議所、及び閥際運迭保険発着同盟代表者の意見を概して、之を修正し、途に売電年猫逸海
上保険議定則︵⊇官ヨe≡eロeutsche訂くerSieheruコ甥‖Bed首uコ已を泉城した。然るに之が葦施に発ちて欺洲大哉の勃蟄を鬼、その賊軍中に於で葡修正すべき多くの個桝を護見したれば、克叫八年の脅誠に於て、完這
年光則を修正し、叫九大年定則を以て之に代え、.この新定則竺九二〇年叫月山日から葦施せられてゐる。従て礪逸に於ける海上保険の蜜務を知るには、惑等の定則を研究することが故も肝要である。
右記猫逸に於ける各棟の握上保険取扱規則の内容を知る佗は、左記著苔を見るべく、
Bruck・ヨa賢aニeコNudeコ空笥ヨ2ぎeコロ2utSCh2コS22くe−S昏2−uコ也S=Bed言竃慧コこ室戸山八六七年海上保険二版定則を商法と封照して註鐸したる著書としては、左のものあり。
そ。igTSeeb。hヨ■Da朋deutMCheSeeくerSicherコu氾S=Rechtこ鍔㍗山九叫八年弼逸海上保険叫般定則を証繹したるものとしては、左のものあり。
R迂erTDasRech什derS22くe訪icheuコ㌘︼将NINム●六
ハンザ商人及び。ムバード人が、何時頃英国に精良したのであるかは充分明かでないけれども、前者は十仰せ
紀の中琴後者は十三せ紀より植民し始めた賜のゝ様である。而してハンザ病人はスチールヤードに居を構えて
貿易に従事し、英飼海外貿易の基礎を作り、ロムバード人はロムバード稗にあつて、自耳鼓、俳蘭巧其の他諸
国との貿易に従事し、金融業及び保険業を輸入したものゝ様である。而して何時頃保障制度を倫敦に輸入したか
は明かではないが、遅くも十六世紀なるべく、今日べ⋮に存する古文書は眈竺畢二年に於て、英曽刺及び
常時伊太利領なりしクリート島闘の、海上危険略保の契約を記録してゐる。また今日努でに倫故に於て叢見せら
海上保線¢沿革及文献 ︵三〇三︶ 四九︵三〇四︶ 蔑○ 第二巻 第三、覗 れたる故請の海上保険詮券は、一五四七牛丸月二十日附▼であつ∵て、ノその二軍又句は伊太利語にて認められ、署名 共他記入事項は英語.である。 ロムバード人及びハンザ商人僧、十七世紀の初めまで、海外貿易並甚溢道義、及び保牌業の贋禦警手に擾つ セ居ったが、蓬に其団人の嫉妬藍月ふ肥撃て 叫九九七年エリザべス女王の法令に依り、彼等の特枕を奪ばれ固 外に追放せられるに至つた。かくて保険業ほ以後英国人に依って潜まれることゝなり、眈に十七世紀末よりは。 イド保険者︵﹁豆d−s彗de舅iters︶なる名粥が、海上保険界に次第に蚤きをなすに至つた£ロイドは初めテムズ河 畔の仙蜘排店であつたが、或は渥事に糾する新聞、1この新聞は〓ハ九六年八月以来叫週三回畿行せられ敢初 ト\ 之訝戸首d︼s2ewsと呼びしが、故あつて鹿刊となり、叫七二六年後活せられて﹁首d.s﹁落と改糾せられ、今日に 至るヂーーを蛮行⊥、歳は船名錐︵﹁豆dHs労音ter︶を編纂して、保険料測定の基礎材料を提供した。ロイド保険 者は之に伐つ・て、・比較的鱒合錐的なる保険料を見出し得るに至り、保険事業ほ漸く碓蜜なる基礎の上に立つて経 営せられるの気運に向つた。 惟ふに十閤五世紀の頃、毎大利に畿芽して地中海や北海の沿岸に栄えた保険を始め、十八世紀以前に存七た保 険に於て蜂ハその保険料は保険潜と被保険者との交渉に依り、任意に定められた将今日恍除の総督上位も藍妥なり とせら郎各保険料の決定が†ノかくの如く令蛸的なる計算の基礎なくして行はれたるものなれば、常時の保険は必 保険と粥し、、現代的保険から踵則す 然的紅射伴的、▲胃除的性質を和した。㌧塾者はこの形態は於ほ各保険を原始的
る。魂代的保険に於ては、合班的計算の基礎を有し、保険料はこの合理的基礎即ち公算に基いて算定せられる。 縦ひ保険者及び被保険者問の懸引が加はることかるも、この合躁的基礎を無潤することを待ないものでむる。保 険がかくの如き発展階段灯達するに至って、保険事業には故早企業危険以外に、特別の射伴的冒険的性質を有し ない。かくの如き形態に於る保険こそ、屈の保険である。而して海上保険が中世時代の原始的状態より脱却して 現代的虞の保険に進化するに至つたその時朔は、十八世紀の初期寸甘イドに於て擬革報偽の蒐集、教理、並に船 名錬章行の事業が、和完全に行はれるに至ったときからである。殊に仙七二〇年、倫敦に於て設立せられたる伶 敦保険昏址、及びローヤルエクスチェンジ保険合祀の出現を以て、その具鰭的表象と見ることが出来る凋蓋しこ の.輌倉配は設立後暫時は、事業成績不振なりしが、荷よくロイド保険者等の有力なる競軍に耐えて、今日に至る まで春摸せるを見ても、常時既に海上保険事業は冒険事業たるの域を離脱したるものなることが、推知せられる ︵小袖開場欄媚桐︶ ロイドの滑草並に現状、及びロイド紡名錐に就ては左記の著書あり。
ヨa−tぎH藍Ory O竹﹁lOyd−s賢dきariコe tコS弓aコCeこ∞声
Grey、UOyd正Yes叩erdayaコd TOday︼冶N●
諏ココa−s O慨uOyじ.S Re曾ster∼−∞望・
握上保険の沿革及文献
七 彿蘭画及び猫逸、共他の欣洲大陸諸因は、或は俳淡系に、或は猫法系に属する相違こそあれ、比較的早くより 皆海上保険に闘する成文法を希するけれども、弼り英閣にあつては近年に至るまで、之を有しなかつた。尤も一 六〇皿年、エリザべス女王の海上保険に闘する規定あれども、罫に裁判管轄に摘する公法規定たるに止まる。従 って渥上保険に囲する裁判事件は、十八世紀の中葉に至るまでは、外国の法令又は著書に依ったものである。即 ち前述のギドン法を初めとして、ルイ十囲世の海事勅令之に次ぎ、アントワープ︵二五六三年︶、アムステルダム ︵叫五九八年及∵六七三年︶、ロッテルダム︵二公二五年︶等の布告が参酌せられた。著書にあつては前記クレータ
ツク︵∩−eira︵∼Us e叶nOutu⋮2S de la王er●︼象−︶ ロカス︵刀OCnu仇b㍑Naくibus e叶フ訂ulOこ毀ロ︶、カサレヂス ︵nasare
一瞥s−ロiscursus re笥−esdeCOヨm佃﹁CiO∵;6︶クルガ︵Tar笥−POコderaN已コーSOPra la︹○コ[rattaN︼○コe三ariけ叫maこ$N︶
及びバラン︵<al菖言メリゴン︵Eヨe−i笥コ︶ポチ票PO苧2r︶等のものがその主なるものである。 その以後に於ては、慣習法に綻ひ、判決例に薫きを置いてゐる。殊に⋮七草ハ牛、マンスフィールド卿︵﹁。rd 三aコSf訂−d︶判官職に就くや、清々海上保険に囲する新規にして名判例を開き、⋮七八八年迄の在職中、六十徐件 を教判し英樹に放る渥上保険法の基礎を打ちたてた。著作に於ても友紀の名書出で√殊にアーノルド渥上保険法 諭は綺今日の樵威である。 第二 懸 第三兢 ︵三〇六︶ 五こ
P彗k︸﹁aWOfヨarぎelコSur当neこsted・︼り牒こ叶h ed・︼00︼﹂Last︵00芳︶2m・by〓y︼dyard︼00声 三arsha芸﹁awO〓コS弓aコneこsten・︼gN︺urd・ed・︼00Nい,﹁aSt︵舎h︶em●byShee−00芦 守計u−耳苫ar諸−コ∼ura宍2∴sted・−∞声u−d2m・︼沃のふ芋en・byヨac︼anト訂コ︼8﹂こlthed・byd2Har叶かSiヨ2y ︼uNふ. 英圃に於ても、漸く近年に至り成文法の必要を感じ、遽に叫八九四年より、海上保険に閲する法血ハの制定に着 手した。仙九〇六年議命の可決を見て、軍行放として英国渥上保険法の塾布を見た。The吉﹁iコe叫コSuraコne芽t 昆試之で透る。該法は起草者の明言せる如く必ずしも哀せる法理に準接して編纂せられたるものにはあらすし て、マンスフィールド卿以来二千件以上の判決例、並に英開塾者の意見を参酌して、制定せられたものである。 これ英問海上保険の嘗需によく過する桝以でもある。この海上保険法を、逐條的に誌絆したるものとしては、左 記著書及び澤苔がある。 nha↓mers如才chba−d:The3ariコe︻コSnぷコCeコ∩〓8仇.urd ed.−将N.
加藤正造繹英囲渥上保険法
英因擬上保険法は、右に運べたるが如く、判決例を基礎として制定せられたものなれぼ、その解鐸に苦っては、 その基礎たる判決例を研究するを姿する。殊に英圃に於ては、判決例が他の諸因に於けるよりも重要祀せられ、 叫慶大衆院の判決を見た以上は、その趣旨は容易た改臆せられない。判決例中著名なるむのゝ大様は、前記著書 浮上保険の椚畢及文献 ︵三〇セ︶ 五里北米合衆困に於ては、今日尚海上保険に翻する成文法なく、唯特殊の事項に就ては、州法に於て之を規窟せる ものあるのみ。姦し、十八世紀末に於て同園が弼立する迄は英因に於る判例及び箪訟に依針今日に於ても英法系 に属する。尤も、猫立前に於ても欧洲大陸の旧例、並に俳問に於ける三大家たるバラン、ポチエ及びエメリゴンの 著書に依り、若くはそれ以前の革詮を参画して判決せるものあり。また十九世紀に及んでは、何問内に於て左記 三大名著出で1、多くの判決は之に則り、勢英法より療ざかりたる瓢も亦なきにしもあらず。 Duer.苫ar≡e−コSuraコCe.︼00余. Phill首s−﹁aW O〓コSuraコCe﹀︼00彗.
Ke阜COヨヨentaries Oココヨer芥aコ﹁aW、︼会h edit訂コby GOU−d︼00署−
言一〇八︶ 五四
第こ巷 第三祝
殊にアーノルド海上伽除法論小に於て之を知Qを得ペく、特に判決奴としては左記のものあり。
CaヨPbeニーRu〓コ∽naSeS二各戸J X≡知Xlく。︼∞澄1︼00遥・
3spぎa−.三宅迂ヨe raW naSeS︸︼0081︼治飢
渇上保険に闇する時々の判決は、Sh宮iコ瓜GaNe什t及びFa言質等の渥軍に闘する新聞部蕊に摘我せられる
免 英米神岡に放る幾分初歩的名著としては、左記のものあり。ガウ及びテムブルマγ両氏の振上保険鋼婁は﹂一近 作坤の白眉であゃ、この両書に劃しては邦諜も出てゐる。またドーバー背振上保険提要並にじユブナー著海上保 ・険諭は各英国並に米国に於る握上保険の理論、及び葦汚を知る上に於て故も便利に剖衆てゐる。殊に後者には邦 繹もある。 ぬ BeコeCke,Priコnip−es O〓コdeヨコ茸iコ王arぎe−コSUraコCeこ00N声 3cコrthur.nOコtraC[○鴫苫ariコe FsuraコCe、︼00Ⅶ〇. GOW︸3arme−コSuraコne.︼ⅦOP
椎名箪士鐸 ガ ウ 臥 士 海 上 保瞼
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極上保険の清聴及文献
︼¢ 我国に於ては、海上保険の制度は明治時代まで之を存しなかった。尤も貞應、大正年間に於る海商に関する添 命中には、打荷に闘するものあり。徳川時代に於ては所謂浦始末に関する布告あり。然れども、是等のもαは何 れも、共同海損に関する法令と見るペきものである。海上保険に関しては、明泊二十三年牽布、三十一年驚施の 哲商法、並に明治四十二軍覆布同年六月より、前者に代って葦施せられたる現行商法中、海商編及商行為編単に 之を規定してゐる。哲蹄法は俳捗に依り、新商法は礪波た依ってゐる。然るに現今海運柴は撃げて英米の組緻に操 りて総督せられ、海上保険業は英圃保険者の後援を要する。法律規粟は大陸法を母法としてゐるものであるけれ ども、茸務は英国に倣ひ海上保障誇券の約款の如き殆どロイドのものを邦課せるものに 我図に於ては法律の適用、約款の解鐸上、大なる困難に遭遇する。英国風の保険柴を律するに大陸の制度を以て せんとするものなれぼ、その結英粒々なる難問を生ヰるは営然である。之に向つて適切なる解決を輿ふる窄めに は、英米術囲並に大陸の法律慣例を打って叫丸となし、之を稔明するの用意あるを聾する。即ち我国に於ては捲 土保険に関する比較法箪的研究が故も肝安である。この比較法塾的立場から、海上保険を研究したる著書として は左記のものあり。 村瀬保険金薬、海上保険講義嬰細 第こ 怨 第三抗 ︵三一〇︶ 五六