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宗派化論
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ヨーロッパ近世史のキーコンセプト
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踊
共
二
目次 はじめに 一、シリング=ラインハルト説の枠組み (一)宗派化の定義 (二)時代区分 (三)宗派という訳語 (四)コンフェッションとデノミネーション (五)宗派化か宗派体制化か 二、宗派化概念の再構成 (一)宗派の成立条件 (二)宗派化概念の多義性と認識の溝 (三) 「多宗派化」の視点 三、研究の展望 (一)宗派国家とその制度 (二)中間権力と共同体 (三)エリートの世界 (四)民衆の世界 (五)単一宗派地域・多宗派地域と亡命者のネットワーク (六)越境する改宗者たち (七)寛容と不寛容 (八)異宗派と異宗教 (九)個人のゆくえ おわりに(110) 229
はじめに
宗 派 化( Konfessionalisierung/ confessionalization ) と い う 概 念 は、 宗 教 改 革 と 市 民 革 命 に は さ ま れ た 近 世 ( Frühneuzeit ) と い う 時 代 を 特 徴 づ け る キ ー コ ン セ プ ト の ひ と つ で あ る。 本 稿 は、 宗 派 化 の 概 念 と 理 論 に 関 連 す る主要な先行研究を紹介しながら、近世ヨーロッパ社会の全体像を内外の歴史家たちがどう描いてきたか、また描 こうとしているか、その方向性を確かめ、筆者なりの展望を示す試みである。 周知のようにヨーロッパ近世は、中央集権化の進行、官僚と常備軍に支えられた絶対主義国家の誕生、均質的な 被支配者(臣民)層の形成の時代として、また人口増、階層分裂、共同体的一体性の喪失、寒冷化、飢饉、国際戦 争、内乱、流民の増加、そして魔女狩りに特徴づけられる危機の時代と見なされてき た (1 ( 。この時代認識はおおむね 受け入れられているであろう。ただし絶対主義の概念については、当時の国家と社会を正しく表現するものではな い と の 批 判 が 行 わ れ て 久 し い。 一 九 六 〇 年 代 に ゲ ル ハ ル ト・ エ ス ト ラ イ ヒ は、 絶 対 主 義 よ り も 社 会 的 規 律 化 ( Sozialdisziplinierung ) と い う 概 念 を 用 い る こ と を 提 唱 し、 こ の 規 律 化 の 波 が 宮 廷・ 官 僚 組 織・ 軍 隊 か ら 都 市 社 会・ 村 落 社 会 ま で 全 面 的 に 飲 み 込 む の が 近 世 で あ る と 論 じ、 こ れ を 近 世 の「 根 本 過 程 」( Fundamentalvorgang ) と呼んだ。それは上から下に、中央から地方に向かう放射的な運動と捉えられているが、そこには荒廃した社会の 改良を求める臣民層の要請も同時に働いていたとエストライヒは考えた。なお彼は、この規律化の過程がなければ 近代国家も民主主義も成立しえなかったと確信していた。また彼は、マックス・ウェーバーのいう「合理化」やノ ルベルト・エリアスのいう「文明化」も規律化の結果であるとみてい た (2 ( 。 一九八〇年代にハインツ・シリングは、エストライヒの近世史像を「国家主義的」と批判し、宗教の果たした役(111) 222 割に目を向けることを提案した。シリングの近世像は、宗教改革後に分立したプロテスタントとカトリックの宗派 教 会 が そ れ ぞ れ 国 家 権 力( 初 期 近 代 国 家 ) と 結 び つ き、 領 域 国 家 化・ 中 央 集 権 化 を 助 け、 自 宗 派 の 教 義・ 世 界 観・ 人間観・道徳観に従って信徒大衆の日常生活に深く介入し、個人的差異や地域的偏差を平均化し、中央統制に服す る同質的な臣民社会の形成を推し進めたというものである。これがシリングの宗派化論の骨格であり、彼にとって はそれこそが近世の「根本過程」である。なおヴォルフガング・ラインハルトも、シリング説の展開とほぼ同じ時 期に内容的に近い議論を展開しており、宗派化論はシリング=ラインハルト説と見なしてよ い (3 ( 。 な お こ の 理 論 は、 プ ロ テ ス タ ン テ ィ ズ ム だ け に 近 代 化 と 合 理 化 の 推 進 力 を み る ウ ェ ー バ ー へ の 批 判 を 含 ん で お り、近世カトリックにも類似した歴史的形成力があったとするのが特徴である。そして古い歴史叙述のなかで使わ れ て き た「 反 宗 教 改 革 」( Gegenreformation ) と い う 表 現 は、 宗 派 化 論 者 た ち の 研 究 に お い て は、 「 ル タ ー 派 の 宗 派 化 」( lutherische Konfessionalisierung )、 「 改 革 派 の 宗 派 化 」( reformierte Konfessionalisierung ) の 並 行 現 象 と し て の「 カ ト リ ッ ク の 宗 派 化 」( katholische Konfessionalisierung ) に 置 き か え ら れ て い っ た (4 ( 。 こ の 動 向 は ド イ ツ 以外の近世史学にも影響を与え、たとえばイタリアではすでに一九九〇年代に宗派化論の紹介と個別研究が行われ ている。パオロ・プローディが教会規律と社会的規律を主題とする編著にラインハルトとシリングの論文をイタリ ア語で掲載したのは一九九四年であり、オスカル・ディ・シンプリーチオがシエナにおける宗派化の過程を検証し たのは一九九七年のことであ る (( ( 。 宗派化論は近世の国制史および統治構造論の研究者たちの目を宗教世界に向けさせ、かつプロテスタント宗教改 革の研究者たちの目をカトリック世界に向けさせることになった。またカトリシズムの研究に携わる者が比較の材 料をプロテスタント世界に求める傾向も強まる。これらの点で宗派化論は近世史の研究に新しい地平を開くもので
(112) 222 あったと言うことができる。以下まずこの理論の基本的な枠組みを確認することから始めたい。
一、シリング=ラインハルト説の枠組み
(一)宗派化の定義 シリングも賛同するラインハルトの整理によれば、宗派化とは、カトリック圏とプロテスタント圏を問わず、教 会と国家が支配領域の宗派的統一性(均質性)を確立するために以下の七つの主要な方法を用いて推進した運動な い し 政 策 の こ と で あ る。 す な わ ち、 第 一 に、 公 式 の 教 義 を 確 立 し、 そ れ を 信 仰 告 白( Konfession ) に 定 式 化( 文 書 化)し、これによって異宗派との相違を明確化すること。第二に、聖職者・教師・世俗の官吏・産婆などに宣誓等 の手段をもって信仰告白を受容させ、上から教義の浸透を図ること。第三に、教理問答教育や説教や各種の宗教行 事をつうじて能動的な宣教を行い、印刷物を活用して自派の教えを拡大し、また異宗派の言論活動を検閲等によっ て抑圧すること。第四に、教育機関とくに大学を創設し、宗派的規範の継承と内面化を推進すること。第五に、民 衆 世 界 に 宗 派 的 均 質 性 を も た ら す た め に 巡 察、 各 種 の 取 締 り、 教 会 訓 練 を 実 施 し、 異 分 子 を 排 除 す る こ と。 第 六 に、異宗派の礼拝や洗礼式、結婚式などへの参加を規制すること。第七に、子どもの命名など、言語面・用語面で の宗派的統制を行うことであ る (2 ( 。 シリングとラインハルトの宗派化論は、すでに述べたように、初期近代国家による臣民支配の強化、命令と服従 の 秩 序 の 形 成、 上 か ら の 社 会 的 規 律 化 の 理 論 と 結 び つ い て お り、 古 い タ イ プ の 近 代 化 論、 合 理 化 論、 脱 魔 術 化 論、 文明化論、世俗化論などと通底する要素をもっている。シリングによれば、国家的な宗派化政策は教会人だけでな(113) 222 く 君 主 や 官 僚 を 担 い 手 と し て お り、 「 現 世 内 的 な 支 配 」( innerweltliche Herrschaft ) を 指 向 す る も の で あ る た め、 不 可 避 的 に「 世 俗 化 」( Säkularisierung ) を 加 速 す る 要 因 と な っ た。 そ し て 宗 派 的 ア イ デ ン テ ィ テ ィ は ナ シ ョ ナ ル な ア イ デ ン テ ィ テ ィ に 変 質 し、 「 キ リ ス ト 教 ヨ ー ロ ッ パ 」 は「 諸 国 家 の ヨ ー ロ ッ パ 」 に 脱 皮 す る こ と に な る。 こ れ が宗派化の到達点に関するシリングの理解であ る (2 ( 。 (二)時代区分 宗派化の時代区分は、研究者によって、またその研究者が目を向ける地域によっても異なるが、ここではシリン グ に よ る 神 聖 ロ ー マ 帝 国 内 の 宗 派 化 に 関 す る 四 区 分 を 紹 介 し て お く。 第 一 段 階( 準 備 段 階 ) は 一 五 四 〇 年 代 か ら 七〇年代初頭までであり、それは宗教改革時代に生まれた諸宗派の信仰告白が定式化され、またアウクスブルク宗 教平和令(一五五五年)によって一時的な平和がもたらされるが、トレント改革とカルヴァン主義の浸透のなかで 宗派情勢がふたたび不安定化する時代である。第二段階(宗派対立への移行期)は一五七〇年代である。この時期 に は、 ル タ ー の 死 去( 一 五 四 六 年 ) の 後、 ル タ ー 派 内 部 に 争 い が 生 じ た も の の、 一 五 七 七 年 の『 和 協 信 条 』 ( Formula concordiae ) お よ び 一 五 八 〇 / 一 五 八 一 年 の『 和 協 書 』( Konkordienbuch ) に よ っ て 基 本 的 な 合 意 が 得 られ、正統主義が確立してカルヴァン主義との相違が明確になった。このことはプロテスタント諸侯にルター派か カ ル ヴ ァ ン 派 か の 明 確 な 選 択 を 迫 る こ と に つ な が り、 各 地 で 対 立 が 起 こ っ た。 第 三 段 階( 宗 派 化 の 絶 頂 期 ) は 一五八〇年代と一六二〇年代のあいだである。この時代には、カルヴァン派になる諸侯が現れた。カトリック領邦 ではトレント改革が進行した。政治問題と宗派問題は密接に結びついており、妥協を嫌う原理主義的な勢力が台頭 してしばしば不寛容な政策がとられた。グレゴリウス一三世による改暦(一五八二年)も諸領邦および諸都市に争
(114) 22( いの種を撒き、改暦に反対するプロテスタントは一六九九年/一七〇〇年まで旧暦(ユリウス暦)にとどまる。こ うして「時」までが宗派化されるにいたった。第四段階(宗派化の終焉)は一六二〇年年代から一六四八年までで ある。この時代に生きた人々は、三十年戦争の体験によって、宗派対立が破壊と衰退をもたらすことを深く認識す るようになった。そして宗派を相対化する思想や信徒個人の内面的信仰および実践を重視する敬虔主義などの新し い運動が起きることにな る (2 ( 。 こ の シ リ ン グ の 時 代 区 分 は 基 本 線 と し て は 正 し い と 思 わ れ る が、 一 八 世 紀 に な っ て も 強 硬 な 宗 派 化 政 策 が と ら れ、激しい宗派対立が起こった地域もある。そのためラインハルトは、ザルツブルク大司教領から三万人のプロテ スタントが追放された一七三一/一七三二年までを宗派化の時代に含めている。またヴュルテンベルクの諸身分の 宗派絡みの紛争を研究したガブリエレ ・ ハウク=モーリッツは、 一八世紀にも 「再宗派化」 ( Rekonfessionalisierung ) の現象がみられたと述べてい る (9 ( 。たしかに、フランスにおけるナント王令の廃止(一六八五年)やスイス最後の宗 派戦争(一七一二年) 、ポーランドにおける多宗派共存の終焉と議会(セイム)のカトリック独占化(一七一八年) の 時 期 な ど も 考 慮 す れ ば、 ヨ ー ロ ッ パ 全 体 と し て は、 一 八 世 紀 以 前 に 宗 派 化 と 宗 派 対 立 の 波 が 引 い た と は 言 え な い。シリングの時代区分には、ハウク=モーリッツ説を参考にした補強が必要であろ う (10 ( 。 (三)宗派という訳語 わが国の近世史研究者のなかには、 「宗派」という訳語を避け、 「教派」を用いる者もいる。現代のキリスト教会 の大多数が後者を使い、前者はおもに仏教界で用いられているからである。しかし西洋史研究者のあいだでは「宗 派」を採用する者が多数を占め、筆者もそれに従っている。そこで以下、この訳語の選択の妥当性について検討し
(11() 224 ておきたい。 第 二 次 大 戦 中 の 宗 教 団 体 法( 一 九 三 九 年 ) は、 「 本 法 に 於 て 宗 教 団 体 と は 神 道 教 派、 仏 教 宗 派 及 基 督 教 其 の 他 の 教団(以下単に教派、宗派、教団と称す)並に寺院及教会を謂ふ」と定めている。また終戦時の宗教法人令も同じ 枠 組 み を 継 承 し て い た。 こ の こ と か ら わ か る よ う に、 「 宗 派 」 を 仏 教 に、 「 教 派 」 を 神 道 諸 派( い わ ゆ る 教 派 神 道 ) に、 そ し て「 教 団 」 を キ リ ス ト 教 に 関 し て 用 い る 法 令 上 の 分 類 が 存 在 し て い た 時 代 が あ る。 そ れ が な く な る の は 一 九 五 一 年 の 宗 教 法 人 法 か ら で あ る。 な お、 制 定 に 至 ら な か っ た 明 治 の 宗 教 法 案( 一 八 九 九 年 ) で は「 教 派、 宗 派、 教 会 又 ハ 寺 」( 第 六 条 ) と さ れ て い る だ け で あ り、 対 応 関 係 は な い。 明 治 期 に は キ リ ス ト 教 の 各 派 を( 仏 教 用 語を借用して)宗派と呼ぶ者もいれば教派と呼ぶ者もおり、実情に合わせたのであろう。明治三九(一九〇六)年 の福音同盟会(プロテスタント諸派の協力組織)の会合において、当時の会長、小崎弘道(組合派)は次のように 演 説 し て い る。 「 た だ 信 徒 は 便 宜 上 自 己 の 導 か れ た る 宗 派 教 会 に 属 す る 」 と。 ま た 日 本 最 初 の プ ロ テ ス タ ン ト 教 会 [ 横 浜 公 会 ] の 設 立 を 伝 え る 一 八 七 三 年 の『 公 会 日 誌 』 に は「 吾 輩 ノ 公 会 ハ 他 ノ 諸 宗 派 ニ 係 ワ ラ ズ 実 ニ 主 耶 蘇 キ リ ストノ名ニ依リテ建テラレシモノナリ」とあ る (11 ( 。 しかし第二次大戦後のキリスト教諸派は、宗派よりも教派という表現を選ぶようになる(一九四八年創刊の『基 督 教 年 鑑 』 に は 両 方 の 用 語 が 混 在 し て い る )。 二 一 世 紀 の キ リ ス ト 教 界 に お い て は 宗 派 と い う 語 は ほ と ん ど 使 わ れ ておらず、カトリック教会もルーテル教会も聖公会も教派という用語で統一している。法令上の制約はもはや存在 しないから、この統一化は自発的な動きである。しかし学術の世界では個々の研究者の判断によってまちまちであ る。すでに述べたように宗派という用語を使う研究者のほうが全体としては多い。そこには、仏教諸派が宗派と呼 ばれ、またイスラーム諸派も宗派と呼ばれるなかではキリスト教諸派もそれらに合わせるほうが学術上の比較の観
(112) 223 点からは妥当であるとの判断も働いている。筆者もこの判断を共有している。なお現代日本の神学者・教会史家た ちも、歴史用語としては宗派という訳語を使っている。ここではトレルチ研究者グラーフの概説書を訳した野崎卓 道(牧師)の例だけをあげておこ う (12 ( 。 (四)コンフェッションとデノミネーション コッフェッションは告白(告解) 、信仰告白(信条) 、宗派の三つの意味をもっているが、そこから了解できるの は、信仰告白(信条)をもつ集団が宗派と呼ばれることである。そこではもちろん国家権力と結びついているかど うかは問題にならない。しかしシリングは宗派を国家とセットにして捉えている。シリングが宗派化の担い手と考 え た の は カ ト リ ッ ク、 ル タ ー 派、 改 革 派( カ ル ヴ ァ ン 派 )、 イ ギ リ ス 国 教 会 の 四 つ で あ り、 彼 は そ れ ら を 大 宗 派 ( Großkonfessionen ) と も 呼 ん で い る。 そ し て こ れ ら の 大 宗 派 と は 違 っ て 国 家 と 結 合 し な か っ た 宗 教 集 団 は「 宗 派 外 の デ ノ ミ ネ ー シ ョ ン 」( außerkonfessionelle Denomination ) と 表 現 し て い る。 そ の さ い シ リ ン グ が 例 示 し た の は、再洗礼派、心霊主義者、反三位一体派(ユニテリアン)などであ る (13 ( 。なおデノミネーションとは、一七世紀イ ギリスのピューリタンたちが使いはじめた表現で、一八世紀以降には北米にも伝わったが、けっきょくは大宗派も 含めたキリスト教諸集団を広く示す用語となってい る (14 ( 。そのためコンフェッションとデノミネーションの区別はあ くまで研究上のものである。それが妥当な区別であるのかどうか、またそれを日本語のレベルで適切に表現できる かどうかについては、次節で検討したいので、ここではシリング的な宗派化論の枠組みの一部として紹介するにと どめる。
(112) 222 (五)宗派化か宗派体制化か Konfessionalisierung と い う ド イ ツ 語 は、 宗 派 化 と も 宗 派 体 制 化 と も 訳 さ れ て い る。 前 者 の 早 い 例 は、 社 会 学 者 の 澤 田 善 太 郎 の 著 書 に 見 ら れ る (1( ( 。 宗 派 化 と は、 シ リ ン グ に よ れ ば、 国 家 体 制 と 宗 派 教 会 の 結 合 過 程 の こ と で あ る が、それは同時に人間精神および日常生活を宗派的にする社会的過程であり、芸術や文化の領域にも及ぶ現象であ る。 そ う で あ る 以 上、 「 体 制 」 の 語 を つ け な い ほ う が、 持 続 的 な 内 面 的 働 き か け( 人 間 の 改 造 ) の 側 面 ま で 含 ん だ 概念の訳語としては妥当であろう。ところで佐久間弘展は三十年戦争期の新聞報道を扱った論文のなかで「メディ アの宗教化」という訳語を用いているが、これはカトリックとプロテスタントがあらゆるものを「宗教的」にしよ う と す る 試 み の 一 端 を 示 し た も の で あ り、 事 柄 の 本 質 を つ か ん だ 訳 で あ る (12 ( 。 た だ し「 宗 教 化 」 で は、 そ こ に 強 い 「 宗 派 性 」 な い し「 党 派 性 」 が あ る こ と が 表 現 し に く い で あ ろ う。 な お シ リ ン グ = ラ イ ン ハ ル ト 説 で は 前 述 の と お り宗派化と近世的な国家形成が不可分の過程と捉えられており、その点を重視して宗派体制化という訳の定着をは かったのは千葉徳夫であ る (12 ( 。国制史ないし統治構造論の観点から宗派を論じる場合は、この訳のほうが適切な場合 もある。ただし「体制化」の意味はかならずしも明確ではない。それは宗教組織自体の誕生と制度的確立過程を含 むのか、それとも国家体制との結合過程だけを意味しているのかが第一に問題となるであろう。ドイツの研究者た ち は 前 者 の 意 味 で も Konfessionalisierung の 概 念 を 使 っ て い る か ら、 当 然 そ れ も 含 ま れ る と 考 え る べ き で あ る。 と もあれ筆者が「体制」を外した宗派化という訳語を選ぶのは、本来の多義的意味内容を反映させるためであり、ま た以下に紹介する新しい研究状況に対応するためでもある。
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二、宗派化概念の再構成
(一)宗派の成立条件 すでに述べたようにシリングは、四つの国家的大宗派だけをコンフェッションと呼び、それ以外の非国教的なプ ロ テ ス タ ン ト 諸 派 を デ ノ ミ ネ ー シ ョ ン と 呼 ん で い る。 日 本 語 化 す れ ば 前 者 は「 宗 派 」、 後 者 は「 教 派 」 に な る で あ ろうか。しかし、この区分ないし定義は混乱をもたらす。というのも、すでに述べたように現代アメリカにおいて デノミネーションはカトリックにもルター派にも使われており、ヨーロッパ人研究者が使うコンフェッションとの 概念的区別は難しいからである。また、再洗礼派研究者ハンス=J・ゲルツは、国家体制と結びつかない集団もコ ン フ ェ ッ シ ョ ン と 呼 び、 「 再 洗 礼 派 の 宗 派 化 」( täuferische Konfessionalisierung ) と い う 表 現 も 用 い て い る (12 ( 。 な お ト レ ル チ の 宗 教 社 会 学 的 な 三 区 分 法( Kirche/Sekte/Mystik ) に 従 っ て 再 洗 礼 派 を セ ク ト( ゼ ク テ ) と 呼 ぶ こ と も 可能だが、同時代(近世)の史料ではセクトは徒党(反徒)の意味で使われている点に注意が必要であろう。また 近世のカトリック教会はルター派もセクト( secta lutherana )と呼んでおり、プロテスタント大宗派をカトリック と同じキルヘ(制度的教会)の類型に分類する社会学的発想と当時の人々の感覚は大きく異なっていることにも留 意した い (19 ( 。 筆者は、再洗礼派のような弱小集団であっても信仰告白文書やそれに類するもの作成し、会合を行い、構成員に 共通の信仰を求め、自派の教義と道徳観に従って持続的に宗教生活と日常生活を律しようとする人間集団はすべて 宗派(コンフェッション)と呼ぶべきであると考えている。このほうが、ある集団が時期によって非公認宗派(非 国家教会)であったり公認宗派(国家教会)であったりする場合、またある土地では迫害される少数派でありなが(119) 220 らそれと同時に別の土地では国家宗派でもあるような場合にも、論述の矛盾を避けることができる。なお、国家権 力との関係の変化はどの大宗派についても確認でき、後述するように再洗礼派や反三位一体派にもみられる。国家 と の 関 係 を 軸 に し て 宗 派 の 性 格 を 論 じ る 必 要 が あ る 場 合 は、 「 国 家 的 な 宗 派 」 と「 非 国 家 的 な 宗 派 」 に 区 分 す れ ば 十分であろう。いずれにしても、前者を宗派(コンフェッション)と呼び、後者を教派(デノミネーション)と呼 ぶことは概念的な混乱のもとになる。そもそも国家と結びついたケースだけをコンフェッションと名づけることに は「告白」という原義から考えても違和感がある。宗派の成立条件は、基本的には構成員によって共有される信仰 告白である。ただしその制定方法や内容的構成は多様であり、小集団の場合は口伝もありうる。 ところで最近の敬虔主義研究においては、マルクス・マティアスやジョナサン・ストロームのように、一八世紀 前 半 の 急 進 的 な 敬 虔 主 義 運 動 の な か に ル タ ー 派 教 会 の 枠 に 収 ま ら な い 新 た な 宗 派 化 を 見 よ う と す る 歴 史 家 も い る (20 ( 。 ただしそれが宗派内の多様性の枠内にとどまったか、それとも最終的に大宗派から完全に分離して独自の信仰告白 と教会組織をもつ小宗派に成長したかどうかについては精査が必要であろう。 (二)宗派化概念の多義性と認識の溝 オ ラ ン ダ 近 世 史 の 研 究 者 ベ ン ジ ャ ミ ン・ カ プ ラ ン は 最 近 の 概 説 書 の な か で 次 の よ う に 述 べ て い る。 「 学 者 た ち は コンフェッショナリゼーション(オリジナルはドイツ語のコンフェッショナリジールング)という用語をそれぞれ 違った仕方で使うことによって混乱をもたらしている。この概念を最初に提唱したヴォルフガング・ラインハルト やハインツ・シリングのように、宗教的改革と国家形成と社会的規律化のコンビネーションを言い表すために用い る 人 た ち が い る 一 方、 エ ル ン ス ト・ W・ ツ ェ ー デ ン が 宗 派 形 成 Konfessionsbildung や 宗 派 主 義 の 台 頭 rise of
(120) 2(9 confessionalism と 呼 ぶ 過 程 の 同 義 語 と し て 用 い る 人 た ち も い る か ら で あ る。 後 者 は、 よ り 純 粋 な 宗 教 的 過 程 の こ と で あ り、 そ の 主 要 な 側 面 を あ げ れ ば、 教 会 の 教 え の 内 面 化、 異 宗 派 と の 相 違 の 明 確 化、 統 一 性 の 追 求 な ど で あ る。 [・・・] ラ イ ン ハ ル ト や シ リ ン グ の コ ン フ ェ ッ シ ョ ナ リ ゼ ー シ ョ ン 概 念 は、 当 然 受 け る べ き 批 判 に さ ら さ れ ている。上述のような宗教世界の動向は国家の支援とエリートの関与に依存していたと主張する点が批判されてい るのである」 と (21 ( 。 ラ イ ン ハ ル ト や シ リ ン グ の 理 論 を 受 容 し て コ ン フ ェ ッ シ ョ ナ リ ゼ ー シ ョ ン を 宗 派 体 制 化 と 訳 す 日 本 の 研 究 者 は、 宗 派 教 会 と 一 体 化 し た 国 家 形 成 な い し 集 権 的 な 政 治 体 制 の 構 築 に 関 心 を 集 中 さ せ て い る が、 そ こ で は コ ン フ ェ ッ ションという概念の政治化が起こっていると言える。宗派教会の教えの内面化 ( Verinnerlichung/ internalization ) は、その教えを記した信仰告白や教理問答書の朗読、解説、教育、独自の賛美歌(聖歌)の詠唱といった宗教活動 の な か で 起 き る が、 そ れ は 国 家 権 力 の 介 在 を 必 要 条 件 と し て は い な い。 官 許 を 受 け ら れ ず 迫 害 に さ ら さ れ た カ ル ヴァン派や再洗礼派においても、ツェーデンが言うような意味での宗派化は起こりえた。その過程が国家権力の支 援 を 受 け て 行 わ れ る 場 合 に は、 国 家 な い し 国 家 教 会 に よ る 宗 派 化 政 策( Konfessionalisierungspolitik ) と 呼 べ ば よ い。ドイツの多くの研究者がそうしている。あるいはこうしたケースに限定して「宗派体制化」の語を用いてもよ いと思われる。筆者はこの訳語を全面的に排除するつもりはない。ただしコンフェッショナリゼーションの意味内 容を政治体制の宗派化だけの意味で用いるのは上述のとおり一面的であり、近年の研究の裾野の広がりにも対応で きない。再洗礼派研究者ゲルツが「再洗礼派の宗派化」という表現を用いて非国家的な宗派化のあり方を論じたこ とは先に述べたが、ユダヤ教研究者ラウアーは「ユダヤ教の宗派化」というタームさえ使っている。ディアスポラ のユダヤ人が西欧社会で国家宗教になるはずがないから、この表現はそういう意味で使われているのではない。そ
(121) 2(2 れはキリスト教内部の宗派形成と類似したユダヤ教内の宗派形成という意味であ る (22 ( 。 Konfessionalisierung/ confessionalization の 概 念 と 用 法 は 多 様 で あ り、 個 別 的 な 制 度 や 文 化 現 象、 芸 術 な ど の 宗 派化(宗教化)を示す場合にも使われている。たとえばヴォルフラム・ハウアーはテュービンゲンに関して「学校 制 度 の 宗 派 化 」( Konfessionalisierung des Schulwesens ) を 論 じ、 ト ー マ ス・ M・ サ フ レ ー は ア ウ ク ス ブ ル ク に お ける「慈善の宗派化」 ( Confessionalization of Charity )について研究してい る (23 ( 。文化史の領域では、たとえばアル ノ・ シ ュ ト ロ ー マ イ ヤ ー が「 歴 史 の 宗 派 化 」( Konfessionalisierung der Geschichte ) を 論 じ て い る (24 ( 。 マ テ ィ ア ス・ ポ ー リ ヒ も「 歴 史 叙 述 の 宗 派 化 」( Konfessionalisierung der Geschichtsschreibung ) と い う 表 現 で 同 じ 問 題 に と り くんでい る (2( ( 。他方、ウヴェ・コルデスは「宗派化された学問」 ( konfessionalisierte Wissenschaft )について論じて い る (22 ( 。 ペ ー タ ー・ ブ ル シ ェ ル は 近 世 に お け る「 受 難 の 宗 派 化 」( Konfessionalisierung des Leidens ) と い う 表 現 を 用 い て 受 難( 殉 教 ) に 関 す る 宗 派 的 解 釈 の 発 生 に つ い て 分 析 し、 ま た「 他 者 の 認 識 形 式 お よ び 表 現 形 式 の 宗 派 化 」 ( Konfessionnalisierung der Wahrnehmungs- und Darstellungsmuster des Anderen )について論じてい る (22 ( 。ジー ク フ リ ー ト・ ミ ュ ラ ー は 日 常 生 活 に 目 を 向 け「 宗 派 化 さ れ た 民 族 衣 裳 」( konfessionalisierte Volkstracht ) に つ い て 考 察 し て い る (22 ( 。 な お シ リ ン グ は 一 九 九 五 年 に「 教 会 と 国 家 と 社 会 の 宗 派 化 」( Konfessionalisierung von Kirche, Staat und Gesellschaft ) と い う 論 文 を 書 い て い る が、 そ も そ も こ れ を「 教 会 と 国 家 と 社 会 の 宗 派 体 制 化 」 と は 訳 し に く い で あ ろ う。 シ リ ン グ 自 身、 Konfessionalisierung を「 宗 派 国 家 体 制 の 形 成 」 の 意 味 で 使 う こ と も あ れ ば、 何かある目的物を「宗派的にすること」という意味でも使っているのである。さらに彼は、文化・芸術面での宗派 化の諸相を明らかにする研究の必要性も説いてい る (29 ( 。
(122) 2(2 (三) 「多宗派化」の視点 アルノ・ヘルツィヒは、複数の宗派が公認されていた地域の存在を考慮して、唯一の真の宗教を奉じる国家がそ の 領 域 か ら 異 宗 派 を 排 除 し よ う と す る ケ ー ス を「 単 一 宗 派 化 」( Monokonfessionalisierung ) と 呼 ん で い る (30 ( 。 ま た フ ラ ン ツ・ ブ レ ン ド レ は、 「 単 一 宗 派 性 」( Monokonfessionalität ) と「 多 宗 派 性 」( Mehrkonfessionalität ) と い う 用語を使い、宗派化のあり方の違いを表現しようとしている。とくに彼が注目しているのは複数の宗派が併存した 諸地域であ る (31 ( 。後述するように、 「単一宗派化」が起こらず、複数の宗派が混在した地域はヨーロッパ各地にある。 公認宗派が複数存在した場所もあれば、公認宗派は形式上ひとつであっても複数の非公認宗派の存在が黙認ないし 寛容(やむをえない容認)の対象となっていた地域もある。そうした状況をドイツに関して総合的に知るには、永 田 諒 一 の 研 究 が 役 立 つ (32 ( 。 宗 派 化 運 動 の 競 合 は、 一 時 的 な い し 永 続 的 な「 多 宗 派 化 」( Multikonfessionalisierung ) を 引 き 起 こ し た。 「 多 宗 派 化 」 は い や お う な く 価 値 観 の 多 元 化 を 促 し、 異 な る 価 値 観 の 共 存 な い し 相 互 的 な 寛 容 の 問 題 を 人 々 に つ き つ け る こ と に な る。 ト ー マ ス・ カ ウ フ マ ン は 近 世 に お け る「 宗 派 間 の 関 係 と 越 境、 宗 派 内 の 多 元 性 」( Interkonfessionalität, Transkonfessionalität, binnenkonfessionelle Pluralität ) に 目 を 向 け る こ と を 提 案 し、 宗派化論の再構成を呼びかけてい る (33 ( 。 以上、宗派化の概念には宗派それ自体の形成という意味と国家制度を含む各種の目的物の宗派化という意味があ ること、近世ヨーロッパにおける宗派化の過程には国家的なものと非国家的なものがあること、宗派化の研究にお いては国家制度だけでなく芸術や歴史認識などの文化的領域も対象になりうること、そして「単一宗派化」だけで なく「多宗派化」の事実も注目されていることが確認できた。 宗派化の概念は、その多義性ゆえに扱いが難しい面もあるが、作業仮設としては有益であり、新しい研究の成果
(123) 2(2 をとりいれて再定義したうえでなら近世ヨーロッパ全域で進行していた諸変化の過程を見きわめる手がかりとなる であろう。もちろん、その射程は非常に広いため、一定の全体像を描くには、国制史的・統治構造論的な視点によ る 研 究 成 果 と、 思 想 史 的、 社 会 史 的、 文 化 史 的 な 視 点 に よ る 研 究 成 果 の 総 合 が 必 要 で あ る。 ま た 当 然 の こ と な が ら、ドイツ史やフランス史、イギリス史、スペイン史、地中海史、東中欧史やロシア史などの研究者の協働が求め られている。次節では、宗派化論への種々の批判を考慮しながら、研究の深化が望まれるテーマについて展望して みたい。
三、研究の展望
(一)宗派国家とその制度 ある宗派が国家権力や都市権力と結びつき、どのような制度を築いたかを確かめる作業は、言うまでもなく宗派 化研究の重要な課題である。このテーマについては、ドイツに関する研究を例示すれば、わが国では中村賢二郎の 書物が手引きとなる。中村はザクセン選帝侯領の宗務局すなわち官庁化した教会統治機関の編成や巡察制度につい て調べ、教会規定(一五八〇年)による領邦教会の法制化、没収修道院財産の使途について詳述するなど、宗派国 家の具体像を描き出してい る (34 ( 。一九世紀のトリーアを対象に民衆宗教の世界を論じた下田淳の研究も、一六世紀以 来の領邦教会体制に関する展望を含んでい る (3( ( 。ただし全体として宗派国家の実証研究は少なく、今後の研究の深化 が望まれる。なお坂本宏は、フェリーぺ二世時代のスペインにはシリング説が適用できると述べて王室主導の教会 改 革 に 言 及 し、 公 職 や 各 種 の 団 体 を 異 教 徒 の 血 の 混 じ っ て い な い 生 粋 の キ リ ス ト 教 徒 以 外 に は 閉 ざ す「 血 の 純 潔 」(124) 2(( 規約について詳しい研究を行ってい る (32 ( 。 個々の政治制度や社会制度の宗派化の具体相を明らかにする研究も重要である。教育制度については比較的研究 が進んでいる。たとえば猪刈由紀と高津秀之が翻訳したアンドレアス・ルッツのアーヘン、ケルン、ニュルンベル クの学校政策に関する研究や、ポーランドを扱った小山哲の研究が参考にな る (32 ( 。ルター派世界(ヴィッテンベルク など)の貧民救済については中村賢二郎の研究、改革派世界(チューリヒ)については出村彰による施与規定の邦 訳と解説が参考になる。またカトリック圏の慈善制度については高橋友子や櫻井美幸の研究が手引きとな る (32 ( 。 (二)中間権力と共同体 シリングはかつてエストライヒの研究を「国家主義的」と批判したが、その後ハインリヒ・R・シュミットが同 じ 言 葉 を 使 っ て シ リ ン グ の 研 究 を 批 判 し て い る。 シ ュ ミ ッ ト の よ う に ス イ ス( ベ ル ン ) を 拠 点 と す る 研 究 者 は、 ペ ー タ ー・ ブ リ ッ ク レ の「 共 同 体 宗 教 改 革 」( Gemeindereformation ) 論 の 影 響 も あ っ て「 共 同 体 に よ る 宗 派 化 」 ( Gemeindekonfessionalisierung ) を 強 調 す る 傾 向 が 強 い (39 ( 。 一 方、 ル イ ー ゼ・ シ ョ ル ン = シ ュ ッ テ は、 近 世 の 歴 史 的変化として重要なのは中央集権国家の形成とその力の増大よりも中間的諸権力による君主権の制限であったとい う見通しをたて、宗派勢力と地方権力の結びつきを検証する必要性を説いてい る (40 ( 。こうした方向性をもった研究は す で に 数 多 く 行 わ れ て い る が、 な か で も 一 六 世 紀 後 半 の フ ラ ン ス の ブ ル ゴ ー ニ ュ 地 方 の 都 市 デ ィ ジ ョ ン に 関 す る マック・ホルトの研究は興味深い。ホルトはディジョンの地方権力がプロテスタント寛容政策に傾く国王の政策を しり目に、プロテスタントたちに罪の告白と旧教会への復帰を求めるカトリックの宗派化運動を推進し、従わない 者の投獄や財産の没収を行っていたことを明らかにしているが、その担い手は地方の聖職者と都市権力であり、反
(12() 2(4 プロテスタント的性格の強い手工業者層(とくにブドウ酒製造業者)の要求も背景にあったという。この宗派化過 程は地方的レベルのものであり、寛容政策に傾きつつあった王権からみれば下からの不寛容な突きあげであったと 言え る (41 ( 。望月秀人がとりくんでいるクレーフェ公領の領邦都市ヴェーゼルに関する研究も示唆的である。この都市 では一六世紀半ばから一七世紀初頭にかけてカルヴァン派がカトリック、ルター派、再洗礼派などと競り合いなが ら公認宗派の地位を獲得する過程が進んだが、それは領邦君主(クレーフェ公)の上からの政策とは一致しない市 参事会主導の自律的な運動であった。なおヴェーゼルではカルヴァン公認後もその他の宗派の存在と私的礼拝が容 認されているから、ここで起こったことは事実上の「多宗派化」であったと言え る (42 ( 。 王権と中間権力、中央と地方の関係を考慮しつつ、宗派化の推進力がどこにあったのかを確かめる研究の進展が 今後も求められている。教区民たちが下から求め、担い手となった共同体的な宗派化運動もあれば、地方貴族や地 方都市(ドイツの場合は領邦都市)の当局者が指導する宗派化政策もあったであろう。それらの事例をヨーロッパ 全域にわたって集めれば、いわゆる初期絶対主義国家の実態と限界もいっそう明らかになるであろ う (43 ( 。なお鍵和田 賢は、近世カトリック世界の新しい兄弟団の成立を扱った論文のなかで、権力者と民衆の結節点であった兄弟団が 上からの指導を受けるだけでなく下から宗派化運動を担った側面に注目してい る (44 ( 。近世の宗派教会傘下の信徒諸団 体や自発的集会の動向は、同じ視点からプロテスタント世界についても探ってみる必要がある。 (三)エリートの世界 宗派時代の宮廷社会、官僚機構、軍隊のなかで生きたエリートたちの内面がどの程度まで宗派化されていたかを 探る研究も重要である。一七世紀前半のバイエルン宮廷に関する皆川卓の研究は、奨学金の獲得や立身出世のため
(122) 2(3 にルター派からカトリックに改宗するエリートたちの姿を確認しており、宗派化が形式にとどまっていた可能性を 示唆している。なお皆川は、非合理的情念を抑制する哲学として近世の統治者たちに受容されていたとされる新ス トア主義(とくにユストゥス・リプシウスの思想)の浸透度に関してもバイエルンについては否定的な結論を出し て い る (4( ( 。 一 六 世 紀 後 半 の ハ プ ス ブ ル ク 宮 廷 に つ い て 調 査 し た 河 野 淳 に よ れ ば、 当 時 の 有 力 な 法 律 顧 問 ツ ァ ジ ウ ス は、皇帝の意向に関わりなく自分の判断でプロテスタント諸侯との親密な関係を保ち、情報交換を行い、帝国の安 定のために働いたという。この帝国のエリートは宗派主義を相対化していたと言え る (42 ( 。ただし近世のエリート層は かならずしも世俗的であっとは言えない。山本大丙は、新ストア主義の哲学を広めたリプシウスについて、彼は心 霊主義と終末思想を特徴とするオランダ起源の宗教集団「愛の家」の影響を強く受けていたと指摘してい る (42 ( 。近世 のエリートについては相当に詳しい人物誌的研究が可能であり、筆者もイェルク・イェナチュという三十年戦争時 代のグラウビュンデンの軍人(元牧師)が宗派主義者から調停者に転身していく過程を追う研究を試み た (42 ( 。 とくに多宗派地域については、貴族や市民の家門の宗派分裂や宗派的純化に関する研究も有益であろう。筆者は か つ て、 ス イ ス の 門 閥 の 家 系 が カ ト リ ッ ク と 改 革 派 に 分 裂 し た 後 に も 一 族 の ネ ッ ト ワ ー ク が 保 た れ、 そ の ネ ッ ト ワ ー ク を つ う じ て 改 宗 と 亡 命 の 手 助 け が 行 わ れ た ケ ー ス が あ る こ と を グ レ ー ベ ル 家 な ど に つ い て 調 べ た こ と が あ る (49 ( 。一方、栂香央里は、フッガー家の研究にとりくむなかで、一六世紀半ばに同家の一部にプロテスタント改宗や 異宗派婚が起こったこと、そしてその後ハンス・ヤーコプ・フッガーがイエズス会の援助や神学院の設立のための 寄進といったカトリック宗派化運動をアウクスブルクで担う一五六〇年代以降には家門の再カトリック化が試みら れたことなどに言及してい る ((0 ( 。こうした家門研究は宗派化の社会史的検証として有益であるから、いっそうの進展 が望まれる。
(122) 2(2 宗派化論への批判のひとつに、人文主義者たちの多くは宗派主義を相対化しており、宗派を超えた学問的交流が あったとするものがある。たとえばヴァルター・ツィーグラーの包括的な宗派化論批判のなかでもこの点が強調さ れ て い る ((1 ( 。 他 方、 エ リ カ・ ラ メ ル は、 ド イ ツ の 人 文 主 義 者 た ち が ル タ ー 派 と カ ト リ ッ ク の 宗 派 化 政 策 に 動 員 さ れ、 引き裂かれていた状況を明らかにする研究を行ってい る ((2 ( 。人文主義と宗派化をめぐる問題については、連帯と分裂 の両面からの研究とその総合が望まれる。なおドイツの人文主義にはそもそもイタリアへの憧れと反発の両方がみ られたが、宗教改革が一部のフマニストたちを反イタリア的・反ラテン的なドイツ愛国主義に導いたことは明らか であり、この点については根占献一の論考が展望を与えてくれ る ((3 ( 。 (四)民衆の世界 宗派国家がどの程度まで民衆の内面と日常生活を宗派化できたかについては、たとえばシュミットのベルン農村 教区に関する研究のように、道徳裁判所の史料などをつうじて考察することができ る ((4 ( 。宗派教会が行った地方教会 ( 教 区 ) へ の 巡 察 記 録 も 活 用 さ れ ね ば な ら な い。 こ の 分 野 で は バ イ エ ル ン に つ い て の 小 野 善 彦 の 研 究 が と く に 注 目 される。小野は一六世紀後半の巡察記録から農村のカトリック司祭の生活ぶり、たとえば事実婚、収入を補うため の農業労働、居酒屋通い、教区民との友誼や争いの諸相を克明に再現している。こうした状況は言うまでもなく宗 派化政策にとって大きな障害であり、その後に改善されたかどうかはわからな い ((( ( 。他方、山本信太郎は、メアリ一 世のカトリック復帰(一五五〇年代)を挟んで三度にわたって宗教政策上の激変が起きたミッド・チューダー期の イングランドに関して、教会巡察記録を駆使した研究を行っている。この研究においては、たとえば聖画像の撤去 や再導入といった朝令暮改の宗派化政策にも少なくとも形式面では「即応」する教区教会の姿が描かれ、かつ「無
(122) 2(1 関心層」の存在にも分析にメスが入れられてい る ((2 ( 。なお一七世紀まで展望すればイングランドにおいて上からの宗 派化政策が成功を収めたとは言いがたい。国教会はたしかに制度的に確立したが、ピューリタンをはじめとする分 離派の叢生によって事実上の「多宗派化」が起きるからであ る ((2 ( 。 ところで宗派化の研究は道徳規律の問題と関わるため、犯罪史・刑罰史にも目を向ける必要があり、これらの分 野で得られた知見の活用も求められている。ここではその一例として、近世の中部ドイツ・南ドイツに関する若曽 根健治の犯罪取締り史の研究と池田利昭によるリッペ伯領の婚前交渉規制に関する研究をあげておきた い ((2 ( 。 裁判記録や審問記録は、非公認宗派の信徒の内面的宗派化の度合いを推測する史料になりうる。たとえば、一七 世紀末、上オーストリアのシュヴァーネンシュタットで秘密礼拝を行っていたルター派小集団に属する靴製造工の 審 問 記 録 に は、 「 聖 母 や 聖 人 の 崇 敬 を 行 っ て い る か ど う か 」「 煉 獄 を 認 め る か ど う か 」「 善 き 業 は 救 い に 必 要 か ど う か」 「サクラメントはいくつあるか」 「どのような聖書や書物を使っているか」といった具体的な質問項目に対する 回答が記されており、被疑者の内面にルター主義が根づいていたかどうか、つまり宗派化されていたかどうかがわ かる。もちろん誘導尋問や調書内容の捏造の可能性もあるため、こうした史料の扱いには慎重でなければならない が、質問項目が単純であれば、ある程度は信頼でき る ((9 ( 。 ところで、近世の宗派教会が試みた民衆的習俗の取締りと規律化の対象を例示すれば、産婆による死産児の緊急 洗 礼( Nottaufe ) が あ る。 そ の 残 存 状 況、 教 会 と の 摩 擦 は、 宗 派 化 政 策 の 成 否 を 確 か め る 材 料 に な る で あ ろ う。 緊 急洗礼にさいしては死産児の一時的な蘇生が試みられたが、蘇生のさいの「生命の兆候」はしばしば教会によって 疑問視された。それでもこの習俗が近代までなくならなかったのは、カトリック教会においては未洗礼児は教会の 墓地に埋葬できなかったからである。恩寵による死産児の救い、人の手によらない霊的洗礼を説いたルター派の場
(129) 2(0 合、死産児も教会の墓地に葬ることができ、緊急洗礼や蘇生はカトリック世界よりも厳しく禁じられていた。しか し 残 存 例 も あ る と い う。 な お 改 革 派 教 会 も ル タ ー 派 と ほ ぼ 同 じ 姿 勢 を と り、 産 婆 に よ る 緊 急 洗 礼 を 禁 止 し て い た (20 ( 。 この問題についてはフランス(アルザス・ロレーヌ地方)の事例に関して長谷川まゆ帆が研究を行っており、共同 体による産婆の選出という興味深い事例にも論及している。このことはすでに述べた王権・中間権力・共同体の関 係 を め ぐ る 近 世 史 上 の 大 き な テ ー マ と 関 わ っ て い る (21 ( 。 と こ ろ で ス イ ス の ベ ル ン 領 の 巡 礼 地 オ ー バ ー ビ ュ ー レ ン で は、一五世紀から死産児の蘇生と洗礼が行われており、遠方からも多くの父母たちが子どもの亡きがらを抱いて奇 跡を起こす聖母のもとに連れてきていたが、宗教改革の過程で禁止され、教会も聖母像も破壊されてしまった。こ うしたケースでは古い習俗の存続は困難であったと考えられる。なお、この地の発掘調査では二〇〇体以上の死産 児の遺骨が見つかってい る (22 ( 。 民衆の信仰世界を統制し、上から宗派化する政策の成功と失敗について考察するさいには、神話的世界観や異教 的伝説の残存状況に関する研究も重要である。たとえばスイス民俗学の父と呼ばれる一六世紀ルツェルンの書記官 レンヴァルト・ツィザートが各地で採取して記録した森の妖精、小びと、ドラゴン、怪し火、死者の軍勢などに関 する口承や民間信仰は、宗派化政策の限界と困難を示してい る (23 ( 。ただし、こうした民間信仰の残存は、伝統的価値 観や行動様式のすべてが不変であった証拠にはならない。 (五)単一宗派地域・多宗派地域と亡命者のネットワーク フランツ・ブレンドレは、最近の概説書のなかで、西欧・北欧世界に顕著な「単一宗派性」と東中欧世界に広く みられる「多宗派性」を対照的に描き出しているが、そこにはヨーロッパ規模の比較史的研究への展望が含まれて
(130) 249 いる。ブレンドレによれば単一宗派国家の形成に一定の成功を収めた国の代表例はカトリックのスペイン、ルター 派の北欧諸国、国教会のイギリスであるが、言うまでもなく西欧にはオランダのような多宗派地域もあり、フラン スのように少数派(ユグノー)が存在しつづけ、寛容時代と不寛容時代の両方を経験した国もある。なおブレンド レは、カトリックの純度の高い地域にも存在した異質な少数派に言及している。たとえばイベリア半島ではセビー リャとバリャドリードの少数派であ る (24 ( 。この集団についてはかつてアーサー・ゴードン・キンダーが調査を行って い る (2( ( 。ただし彼らがプロテスタントであったか中世にさかのぼる異端派であったかは、よくわかっていない。しか しその発見と弾圧のあり方は、スペインにおける宗派化政策の具体例となる。他方、イタリアについては、ルッカ の福音派とその亡命について高津美和が詳細な研究を行っており、迫害された少数派がどのようにしてイタリアを 抜け出し、アルプスを越えてスイスに、また東中欧に亡命を試みたかがわかる。それはプロテスタントたちのヨー ロッパ規模のネットワークの形成とも関わってい る (22 ( 。領域国家の境界を超えた宗派のネットワークは近世的な現象 であり、研究の進展が望まれる。そのさいには、一七世紀ピエモンテのヴァルド派の迫害・亡命・帰還をテーマに プロテスタントのネットワークを描いた西川杉子の研究が手引きとなる。また二〇〇九年に西川が中心になってま とめた論集も、ユグノーやジャコバイト(名誉革命に反対したイングランドやスコットランド・アイルランドのカ トリック勢力)の亡命ネットワークや、亡命地・中継地にして国境を越える思想形成の基地にもなったオランダや スイスの役割を知るうえで役に立 つ (22 ( 。 ところで、わが国では西欧諸地域の宗派化の研究は進んでいるが、東中欧・ロシアについてはいまだ未開拓の部 分が残されている。前述のブレンドレが提案している東中欧の多宗派地域への視野の拡大は、今後のわが国の近世 研究にとって重要であると思われる。ブレンドレは、カトリックの宗派化政策以前のポーランドの寛容体制や、ハ
(131) 242 ン ガ リ ー、 ボ ヘ ミ ア、 ト ラ ン シ ル ヴ ァ ニ ア、 ク ロ ア チ ア、 ス ロ ヴ ェ ニ ア、 バ ル ト 諸 国 の 多 宗 派 性 に 注 目 し て い る。 またトランシルヴァニアで一六世紀後半に一時的に国家公認宗派の地位を得た反三位一体派(ユニテリアン)のよ うな少数派や、フス派の流れを汲むボヘミア兄弟団にも目を向けている。東中欧では一七世紀前半のボヘミアのよ うにハプスブルク家の政策によって多宗派の共存からカトリックの単一宗派化に舵が切られた地域も多いが、その 宗派化政策が新たな亡命の波を起こし、やがてはザクセン選帝公領内のツィンツェンドルフ伯の所領ヘルンフート のような寛容空間が生まれる契機となった事実は重要であ る (22 ( 。 ある地域における強権的な宗派化政策が亡命者を大規模に発生させ、別の地域の多宗派性に拍車をかける循環現 象は、一六八五年のフランスにおけるユグノー迫害(ナント王令の廃止)と諸外国への大量亡命の例をあげるまで もなく、ヨーロッパ近世史においてはしばしばみられる。なおナント王令下のフランスの二宗派共存の実態につい ては、和田光司が総合的な視野で研究を行ってい る (29 ( 。ブランデンブルク=プロイセンのユグノー受け入れについて は、宗派化論にも詳しい塚本栄美子が調査を行ってい る (20 ( 。 ところでブレンドレは、ルター派神学者たちが一六世紀後半に東方の正教世界の指導者たちに相互の協力を呼び かけていたことや、ボヘミア兄弟団の代表者ヤン・ロキータがモスクワにプロテスタント教会を建設すべくイヴァ ン雷帝に宗教討論を申し入れたことなどに触れ、東方への宗教改革・宗派問題の波及に注意を喚起してい る (21 ( 。プロ テスタントと東方正教会との交渉としては、一七世紀初頭のカンタベリ大主教アボットとアレキサンドリア総主教 キリル・ルカリスのあいだの文通と人的交流が那須敬の研究によって知られている。それはカトリック勢力が共通 の脅威であったために起こったことであ る (22 ( 。 ヨーロッパ近世の宗派問題の全体像を知るには、ロシア東欧世界内部で生じていた宗派化政策や宗派対立にも注
(132) 242 目しなければならない。とりわけ、ビザンツ皇帝ヨハネス八世がオスマン帝国の脅威を前にフェラーラ・フィレン ツ ェ 公 会 議( 一 四 三 八、 三 九 年 ) を へ て カ ト リ ッ ク 改 宗 を 敢 行 し、 東 西 教 会 合 同 宣 言 を 発 し た こ と、 こ れ に モ ス ク ワ大公が反発し、ロシア正教会が自立化したこと、他方ノヴゴロドにはカトリック勢力が深く浸透したことなどに 関 す る 諸 研 究 が 重 要 で あ る。 オ ス マ ン 帝 国 支 配 領 域 の ユ ダ ヤ 教 徒 や 正 教 徒 の 地 位、 ま た「 ギ リ シ ア・ カ ト リ ッ ク 」 の誕生などについての研究の成果も、西ヨーロッパにおける宗派化の研究とつき合わせる必要がある。上述の教会 合同宣言から独立ロシア正教会の誕生の時代については三浦清美による概観が手がかりとなり、オスマン帝国支配 下の諸宗教・諸宗派の実態については宮武志郎や黒木英充の論考が参考にな る (23 ( 。なお一七世紀ロシアにおける「古 儀式派」の正教批判と分離運動は、体制教会の上からの宗派化政策とそれに抵抗する人々の遠心的な独自の宗派化 運動のせめぎ合いと見なすことができるであろ う (24 ( 。 ただし非公認宗派の活動はつねに遠心的であるとは限らない。国家権力と教会の結びつきを原理的に否定する集 団は別として、国家公認宗派の地位を獲得する可能性をもった小宗派も随所に存在していた。たとえば前述のトラ ンシルヴァニアの反三位一体派がそうである。一六世紀前半の再洗礼派のなかにも、権力者と協力して独自の宗教 改革を試みた指導者がいる。出村彰の研究が示すとおりバルタザル・フープマイアーがその典型であり、彼はドイ ツの小都市ヴァルツフートを再洗礼派一色にし、モラヴィアのニコルスブルクにも領主公認の再洗礼派教会を樹立 し て い る (2( ( 。 な お 再 洗 礼 主 義 は 自 覚 的 信 仰 を も つ 受 洗 者 を 地 縁 的 な 制 度 的 教 会 か ら 切 断 す る 分 離 主 義 を 内 包 し て お り、宗教社会学的にはセクト類型に分類されるが、制度的教会の改革や小規模な単一宗派国家を形成する動きが再 洗礼派内部にあったことは事実として確認しておく必要がある。当然のことながら、社会学的類型はしばしば歴史 的現実とは異なっており、中間形態や混合物があちこちに見つかる。
(133) 242 (六)越境する改宗者たち 近 世 に お け る「 多 宗 派 化 」 は、 当 然 の こ と と し て 大 量 の 改 宗 現 象 を 伴 っ た。 宗 教 改 革 そ れ 自 体 が 改 宗 運 動 で あ り、ルターもツヴィングリもカトリック信徒として生まれながら、カトリック信仰を棄てた改宗者であった。こう した改革者のあとに続いた無数の人たちも同じである。なお、そもそも改宗は異宗教間の現象をさすと考える研究 者も多いが、カトリシズムとプロテスタンティズムは宗派対立の時代にはそれぞれ「真の宗教」の自覚をもち、互 いを異宗教として、それどころか「非宗教」として認識しており、信仰を棄てる者を背教者と見なしていた。なお そ れ ぞ れ の 宗 派 教 会 は、 上 か ら の 宗 派 化 政 策 の な か で 領 域 内 の 異 宗 派 に 対 し て 改 宗 を 強 制 す る こ と も し ば し ば で あった。改宗を拒んで投獄・処刑されたり、ガレー船に送られたりする者もいれば、みずから異郷の地に亡命する 者もいた。その一方で諸宗派は、新たな信徒(改宗者)の獲得を自派の教えの正しさの証明と見なし、いったん改 宗を決意した者に関しては物心両面において支援したため、宗教的確信による改宗だけでなく、生存ないし生活の ための改宗を誘発することになった。たしかに大宗派は権力と結びついて閉鎖的な宗派空間をつくりだそうとした が、たえずやって来る改宗志願者たちの存在ゆえに、その「密閉性」は高くはなかった。筆者はスイスの改宗事例 を 宗 教 改 革 か ら 一 八 世 紀 初 頭 ま で 調 べ た が、 そ れ は 聖 職 者・ 知 識 人 か ら 市 民・ 農 民、 女 性・ 年 少 者 ま で 及 ん で い た。再改宗もけっして珍しい現象ではない。深沢克己によれば、近年においてはフランスでも改宗者たちの人物誌 が掘り起こされているという。そうした研究のなかでは、一六世紀にはカトリックとプロテスタントの宗派主義に 順応しない人々が形成する「広大な中間地帯」が存在したことが明らかになりつつあり、一七世紀のジャンセニズ ムをその延長上に展望する議論も行われているとい う (22 ( 。 深沢がとりあげている改宗研究にディディエ・ボワソンのものがあるが、これはたしかに注目すべき人物誌的研
(134) 24( 究である。ボワソンは一六三一年から一七六〇年までのあいだにプロテスタントに転向した四五〇人ものカトリッ ク聖職者の改宗動機を調査している。ボワソンによれば、改宗の波はナント王令廃止後にもけっして収まることは なかったという。この研究は、フランス絶対王政の宗派化政策の限界を物語ってい る (22 ( 。キース・P・ルリアもフラ ンスの改宗者たち(一七世紀半ば)の事例を研究している。ルリアはカトリックから改革派に改宗してふたたびカ トリックに戻った人々の存在に注目し、その理由づけとして「良心」の呵責がしばしば用いられ、再改宗が受け入 れられていたことを発見してい る (22 ( 。これはもちろん法律的な意味での良心の自由の承認ではない。それは宗教的範 疇 の 良 心 論 で あ り、 「 過 誤 に 陥 っ た 良 心 」 の 矯 正 と「 正 し い 信 仰 」 の 強 制 と い う 中 世 的 思 想 か ら 解 放 さ れ て い た と は思えない。しかし「良心」への神の働きかけを論拠に「個人」の行動が正当化され、そして受容される頻度の高 さ は、 少 な く と も 共 同 体 的 信 仰 の 衰 え と 個 人 主 義 的 心 性 の 拡 大 の 現 れ と 捉 え る こ と が で き る で あ ろ う。 も ち ろ ん、 ここでいう個人主義は近代的人権思想に基づく個人主義ではない。 カ ル ヴ ァ ン の 町 ジ ュ ネ ー ヴ 出 身 の ジ ャ ン・ ジ ャ ッ ク・ ル ソ ー は、 寛 容 論 も 啓 蒙 主 義 も 知 ら な い 貧 し い 少 年 の こ ろ、 一 七 二 〇 年 代 に 家 出 し、 カ ト リ ッ ク 改 宗 者 と な っ て ト リ ー ノ の 教 護 院 に 滞 在 す る が、 後 に 書 い た『 告 白 』 に は、彼自身の内面だけでなく入所者たちの姿が生々しく記されている。その教護院でルソーはユダヤ教からの改宗 者とも接している。異宗派間の改宗と異宗教間の改宗は、同じ時代に同じ空間で起こっていたのである。一六七〇 年代にイスタンブールでユダヤ教からイスラーム教に改宗したサバタイ・ツヴィのメシア主義の信奉者たちがキリ スト教世界にも(カトリック改宗によって)出現したことも、近世の出来事として想起した い (29 ( 。 多宗派地域では、異宗派婚や結婚後の改宗によって宗派境界が家族の内側に引かれ、また引き直される事例もみ られた。筆者はその事例をスイスの宗派併存地帯で検証したが、最近カプランは一八世紀初頭のオランダ南部につ
(13() 244 い て 調 査 を 行 い( 一 二 都 市 七 六 村 の 六 〇 〇 例 )、 異 宗 派 婚 を 行 っ た 男 女 が 自 分 の 宗 派 の 信 仰 を 守 り つ づ け た 数 多 く 事例や、改宗したものの、死別後、もとの宗派の男性と再婚して再改宗した女性の事例など、多種多様なパターン を 発 見 し て い る (20 ( 。 他 方、 ハ イ ケ・ ボ ッ ク は 一 七、 一 八 世 紀 に 改 宗 と 移 住 を 目 的 と し て チ ュ ー リ ヒ に や っ て 来 た 外 来 者たちが市当局に提出した受け入れの嘆願書を検討し、さまざまな動機を記して自己を語る個人たちの群れを見い だしてい る (21 ( 。 ヨーロッパ近世における異宗教間の改宗については、関哲行がイベリア半島でカトリックに改宗させられたユダ ヤ教徒(コンベルソ)やムスリム(モリスコ)に関する研究を行い、生存のための改宗、隠れた信仰の維持、再改 宗 な ど の 現 象 を 追 っ て い る (22 ( 。 改 宗 現 象 に 注 目 す る 近 世 史 研 究 者 は 近 年 と み に 増 え て お り、 二 〇 〇 七 年 に は ウ ー テ・ ロッツ=ホイマンらを中心とする約二〇の歴史家たちが論文集を編み、研究史的・概念史的整理を行ったうえでド イツ、フランス、東中欧、オランダ、スイス、アイルランドなどについて、君主から聖職者、少年少女にいたるま での事例研究を行い、かつ美術や演劇のテーマとしての改宗についても分析してい る (23 ( 。これらの研究はヨーロッパ 近世史に新しい知見をもたらしている。なお、ヨーロッパ人宣教師たちが非ヨーロッパ世界で行った改宗活動の研 究も、ヨーロッパ内の問題を考えるうえで有益な情報である。参照すべき研究は多くの地域について数多く存在す るが、ここでは斎藤晃および伊藤繁子の著書、川村信三の編著をあげておきた い (24 ( 。 (七)寛容と不寛容 すでに何度か触れた概説書のなかでブレンドレは、近世をつうじて多くの人々の関心事であった宗教的寛容の問 題、 個 人 の 良 心 の 問 題 と 宗 派 化 理 論 は ど う 関 係 す る の か、 シ リ ン グ や ラ イ ン ハ ル ト は 説 明 し て い な い と 批 判 し、
(132) 243 「 宗 教 的 多 元 性 の 受 容 」( Akzeptanz des religiösen Pluralismus ) の 歴 史 に も 目 を 向 け る べ き だ と 論 じ て い る (2( ( 。 以 下、この問題について一定の見通しをたててみたい。 一般に近世人の思考は共同体的であってコミューナリズムこそ社会の構成原理であり、魂の救済も共同体に依存 し、 個 人 の 罪 も 共 同 体 全 体 を 損 な い、 神 罰 さ え 引 き 起 こ す と い う 観 念 が あ っ た と 理 解 さ れ て い る (22 ( 。 そ う し た 観 念 は、 た し か に 都 市 や 農 村 の「 共 同 体 宗 教 改 革 」 の 前 提 で も あ っ た と 考 え ら れ る (22 ( 。 ま た 近 世 人 の 共 同 体 的 観 念 は、 人々を魔女狩りに駆りたてる民衆心理とも連結してい る (22 ( 。そうした観点に立てば、異宗派つまり誤った教えを信奉 する人間の存在も共同体に破壊的作用を与えることになり、異宗派の排除は共同体全体の課題となる。宗派化運動 の 下 か ら の 展 開 に は そ う し た メ カ ニ ズ ム が 働 い て い た と 考 え ら れ る。 し か し、 け っ き ょ く は 異 宗 派 を 排 除 で き ず、 不本意な共存、つまり近世的な意味でのトレランスが常態化した地域においては、同じ信仰をもつ信徒の救済共同 体を都市空間ないし村落空間と一致させることはできないがゆえに、それを地縁によらない人的結合体として把握 する傾向が次第に強まることになったであろう。そうした社会では、共同体内に異宗派の信仰を抱く個人や集団が 存在することが災厄を招くといった迷信的な意識は次第に克服されていったと考えられる。もちろん宗派的純化を 求める運動の揺り戻しはしばしばあったにしても、歴史の歯車は回りつづけた。カトリック世界有数の巡礼都市ケ ルンにも櫻井美幸の研究が示すとおりプロテスタント少数派がおり、カトリシズムの大海のなかで生き延びていた が、猪狩由紀によると一八世紀後半(一七八七年からの三年間)にケルン市内はプロテスタント教会の建設要求を め ぐ っ て 論 争 の 渦 と 化 し た。 啓 蒙 主 義 の 影 響 を 受 け た 市 参 事 会 員 た ち が 肯 定 論 の 先 頭 に 立 っ て い た と い う。 け っ きょく同意は得られなかったが、プロテスタントに私的空間での礼拝を認める旧来の黙認体制に異論を唱える者は いなかったとい う (29 ( 。この黙認体制の歴史的な意味を軽視することはできない。それは基本的に不寛容な宗派国家や
(132) 242 宗派都市が、個人の良心の自由・信教の自由を法的に承認する時代を迎える以前に、宗教的迫害や流血の衝突を抑 制するために選びとった機能的・実際的な解決策であったからである。 カプランによれば一七世紀オランダの諸都市は西欧でもっとも多宗派的な世界であり、公認宗派はカルヴァン派 であったとしても、カトリック礼拝は私的には認められ、再洗礼派系の少数派や宗派化には至らない小集団・小集 会がひしめき、数多くのユダヤ教徒も暮らしていた。アムステルダムのカトリック礼拝所のひとつである「屋根裏 教 会 」( Ons ' Lieve Heer op Solder ) は 現 在 も そ の 豪 華 な 礼 拝 空 間 に よ っ て 人 々 を ひ き つ け て い る が、 一 七 〇 〇 年 ごろのアムステルダムには諸派あわせて二〇もの礼拝所があった。メノー派は六つの礼拝所をもっていた。ユトレ ヒトの場合はカトリック一一、メノー派二、ルター派一、レモンストラント派一である。彼らの礼拝所は、内部は いくら壮麗であっても外観的にはただの「家」であった。さまざまな宗派や団体がオランダで存続しえたのは、彼 らが「公的」な教会であることを主張せず、家の内部で「私的」な礼拝を行うにとどめたからである。カプランに よれば「公私」の区別は宗派時代のヨーロッパにおいて明瞭な形をとるようになり、その境界線は「家」とその外 側の世界のあいだに引かれるようになったという。そのため公認宗派に属さないディセンターたちにも「家」のな か で は「 私 事 」 と し て 礼 拝 が 許 さ れ た の で あ る。 こ こ に は 信 仰 の「 私 事 化 」( Privatization ) が 見 て と れ る (90 ( 。 も ち ろんそれは公認宗派と黙認宗派の差別のなかで起こったことであり、それ自体は近代的な現象とは言えないが、中 世の統一的・共同体的キリスト教をひとつの極とすれば、変化の方向性は明らかであろ う (91 ( 。 近代的な寛容思想、つまり価値の多元性を承認して他者を他者のまま受容する思想や基本的人権としての個人の 良心の自由を宗派主義の時代に求めることはできない。しかしそうした近代的概念は真空のなかで生まれたのでは ない。一六世紀から一七世紀にかけての宗派化競争のなかで凄惨な迫害や戦争が起こり、和平ないし休戦のための