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(1)

儒者と開国 : 廣瀬淡窓

著者名(日)

小池 喜明

雑誌名

井上円了センター年報

14

ページ

133-176

発行年

2005-09-20

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00002763/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

(2)

儒者と開国

廣瀬淡窓

小池喜明喜喜§

はじめに  ペリー来航と米国国書への対応を問われた廣瀬淡窓は、 その上書中で言う。  交易ノ道ヲ絶タントナラバ、⋮⋮我邦ノ標民アリトモ、決シテ送リ来ルコトナカレト、如レ此二伝へ置        ヘ へみなごろしヘ ヘ       ヘ へとりこヘ ヘ キ、尚モ其命二従ハズバ、我兵ヲ出シテ之ヲ塵ニシ、或ハ之ヲ摘ニシテ、⋮⋮若交易ヲ通ゼントナラバ、 ⋮⋮若又彼交易二托シテ、禍心ヲ包ミ害ヲナスコトアランニハ、殺毅スベシ﹂︵﹃論語三言解﹄、﹃淡窓全集﹄中 巻所収。以下同︶。  交易拒否の場合はもちろんのこと、交易許可の場合にも﹁国王の書信音物持チ来ルコトナカレ﹂というのだか ら、共に﹁国書﹂による国家間の信義・友誼とは無縁の発想である。広瀬淡窓といえば、近世後期有数の儒者・ 詩人・徳行家として知られ、後世諸家の評また然りと思われる。だが右の一文の趣旨には、いかにもこれらの世 評と馴染み難いものがある。以下に検討する︵−︶。 133 儒者と開国

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一 ﹃続徳川実紀﹄︵慎徳院殿御実紀巻十七︶嘉永六年七月三日の項に、次のような記載がある。

1

亜 墨 利 加よ り 差出 し た る 書 翰 和 解

を 宿 老よ り 下 附

9

国家の一大事たるを以て、群臣の意見を諮詞  この公儀諮詞に応じた﹁群臣﹂のうちには、旗本・御家人はもちろんのこと、儒者・医師・浪人までもが含ま れ、﹁上書﹂総数は八百余通の多きを数えたという。勝麟太郎の名が公儀中枢から注目されたのも、この折であ る。公儀諮詞の日から約七ヶ月後の嘉永七年一月、豊後日田の民間儒者広瀬淡窓︵天明二ー安政三年、一七八二ー 一八五六︶が府内藩主に提出した上書︵実際はその記録︶﹃論語三言解﹄︵以下﹃三言解﹄と略記︶もこうした潮流 のうちに位置する。  近時辺防ニツキ、博ク下言ヲ求メ玉フニヨリ、霜二微衷ヲ表ス。固ヨリ愚賎ノ及ブベキニ非ス。且良謀奇       しゃく      けんせん 策、既二充満セシニ、日月燭火︵たいまつ︶ノ恐レ少カラスト錐モ、幸二無諌ノ時二当リ、献芹ノ情已ム ベカラザルニ因テ、如レ是ノミ。︵序言︶  ﹁献芹﹂の語は、通常﹁芹献﹂と書き、人への贈物をへり下っていう言葉だが、元来は﹁列子﹂楊朱篇中の、 芹をもらって食べた人が口がにがく腹痛になったという寓話にもとつく。たしかに同書中で展開される為政者批 134

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判は鋭く、腹痛にいたりかねぬ苦味を含む。  此書ハ、諸侯ノ問二答ヘシ言ヲ録スルナリ。国事ニツキ下問アリシカトモ、書生事務二達セズ、唯其所レ       ママ  学ニョリ、経文ノ三言ヲ敷演シテ答トス。故二題シテ論語三言解ト云フ。  近年蛮夷頻二来ッテ彊ヲ窺フニヨリ、大府︵徳川公儀︶命アリ。列侯諸臣ヲシテ、各其見ル所ヲ言ハシメ 玉フ。予不肖ナリト錐モ、親藩ノ末二列ス。別ケテ、国ト憂ヲ同クスベキ者ナリ。故二愚衷ヲ尽スノミナラ ズ、広ク人言ヲ求メ、有益ノ説アラバ、上二薦メテ忠節ヲ致スベキナリ。願ハクハ博古ノ士ノ高論ヲ聴カ ン。︵本文︶  先の﹁序言﹂中の﹁博ク下言ヲ求メ玉フ﹂の語、および右文中の傍点部は、﹃三言解﹄がまさに前述のペリー 国書とそれへの対応を﹁群臣﹂に問うた公儀諮詞の射程内にあることを明らかにしている。旗本・御家人以外で、 自主的に上書した最大の存在の一人が儒者大橋訥蓄であり、その上書がいわゆる﹁嘉永上書﹂であるが、右の淡 窓のように﹁諸侯﹂から﹁博ク下言ヲ求メ﹂られていた陪臣たちも少くなかった。たとえば平戸藩主松浦壱岐守 ︵曜︶は、藩士たちにアメリカ国書の訳文︵﹁和解﹂︶を示し、﹁為心得拝見被仰付候間、若心附之品も有之候       ヘ   ヘ   ヘ   ヘ      ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ ハぶ、無遠慮早々申出候様﹂︵﹁平戸藩史料﹂︶にと命じていた。﹁亜墨利加、彼ノ方ノ国書ヲ見タリ。交易叶ハス ハ、大軍ヲ引テ来ルベシト云ヘリ。是我ヲ劫カスナリ﹂という淡窓の場合もこれと同様に、府内藩十代藩・王松平 チカヨシ 近説より米国国書﹁和解﹂を見せられて、﹁下言﹂を求められていたのである。  三方を山に囲まれ、三隈川ほかの河川により水運の利に恵まれた豊後日田は、早くから長崎・博多さらには大 135 儒者と開国

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      ひ だがね 坂に通じた九州有数の経済の中心地であり、周知の日田金︵高利貸∀で財を成した富商たちが居を構えていた。 徳川公儀は同地の永山に代官所を設置︵寛永十六年︶、九州一円の天領の八割、約十三万石の支配にあたらせた。 代官所と富商たちとの関係の濃密化は想像に難くない。  家業︵農作・蝋油・上方交易︶のほか掛屋として公儀預り銀を運用し、近隣諸藩︵竹田・杵築・府内・蓮池・大村・ 対馬等︶の御用達を勤める広瀬家は、中でも豪商であった。五世三郎右衛門︵桃秋︶の長男淡窓は、早くに家業 を弟久兵衛︵南咳︶に譲り、学問︵儒学︶に志した。のち福岡在の亀井南冥・昭陽父子に師事し、郷里日田に私塾 威宜園を説立し幾多の俊才の教育にあたったことは周く知られていよう。一方、弟久兵衛は商人の身でありなが ら、天保十一年︵一八四〇。五十歳、淡窓五十九歳︶からの十年間、府内藩の財政改革に従事している。藩の公金 出納担当たる掛屋として、伯父・父以来の府内藩との付合の故である。 136  予力伯父、初メテ用達ノ業ヲ開キ玉ヒシ時、府内侯ヨリ月俸ヲ賜ワレリ。是ヲ先考︵父︶二伝工、次二南 咳︵弟︶二及セリ。今二至ツテ七八十年、俸モ始メハニ三ロナリシ由、南咳二及ンテ、大二増益アリ。余カ       ヘ  ヘ  ヘ  ヘ      ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ 召サル、時、数世恩沢ノ中二生育セシコトナレハ、臣民モ同様ナリ。大村ニテノ礼遇ハ、敢テ望ム所二非ス ト云フコト、南咳ヲ以テ申シ達セシナリ。然レトモ彼方ニハ、其処二拘リ玉ハサル由ナリ。因ツテ憶フニ、 予区、ノ処士ヲ以テ、邦君ト抗礼︵対等の礼、交際︶スルコト、寵栄ナリ。況ンヤ恩顧ノ・王二於テヲヤ。若 シ伯父先考ヲシテ今二存セシメハ、如何ホトカ歓躍二及ハセ玉フ可キヤ。是孝養ノ一端二当ツ可キ者ナリ。 因ツテ其ノコトヲ神位二告ケ、涙ノ之二従フヲ覚エス。︵﹃懐奮楼筆記﹄、全集上巻、六九八頁︶

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 弘化元年二八四四︶九月一日、府内藩ヨリ藩主への講義︵﹃論語﹄、﹃左伝﹄︶、藩校設立の相談のため、府内 ︵現、大分市︶へ招聰された折の感慨である。時に六十三歳。既に前々年︵天保十三年︶、同様の趣旨で肥前大村        すみよし 藩︵十代藩主大村純昌︶より招かれていたが、その時とはまた格別の感激ぶりである。けだし、伯父・父・弟と歴 代﹁月俸ヲ賜﹂い、﹁臣民モ同様﹂の﹁恩顧ノ主﹂府内藩・王に拝謁し講義までしたのだから。先には日田代官の ﹁家臣ノ列﹂︵後述︶に入り、今また府内侯と﹁臣民モ同様﹂、と。こうして淡窓は徐々に自身を徳川封建体制の うちに組みこんでゆく。その挙句に、﹁予不肖ナリト錐モ、親藩ノ末二列ス﹂︵﹁序言﹂︶と言うのである。  府内藩大給松平家は、松平親忠の二男乗元が三河国加茂郡大給に居住したことに始まる大給系松平家︵他に西 尾大給・岩村大給・田野口大給︶の一門で、直接的には乗元の孫親清を祖とする松平諸家の一であるから、僅か二万 千二百石の小禄とはいえ﹁親藩﹂にはちがいない。しかしその君公に拝謁し講義をしただけで、待講に採用され たわけでもない淡窓が、﹁親藩ノ末二列ス﹂とはまことに仰々しい。掛屋出自の、身分意識である。  この点に関わって特記すべきは、右の大村・府内への出張講義の中間の天保十三年︵一八四二。六十一歳︶十二 月十七日の、公儀からの﹁永世苗字帯刀﹂の﹁公許﹂をめぐる騒動である。﹃懐旧楼筆記﹄︵以下、﹃懐旧﹄と略 記︶より引用する。﹃懐旧﹄について﹃全集﹄例言はいう、﹁此書は子孫に示し其戒めと為さんが為め、十二部門 に分ちて、先生日常の動静より、師友門人親戚知人の来往、及見聞の雑事に渉り、其真実に因つて詳細に叙述し たる懐旧録にして、また自叙伝たり﹂、と。すなわち﹃懐旧﹄は、淡窓の人生と心情を知る上での絶好の資料と いってよい。 137 儒者と開国

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予三十八歳、己卯ノ歳二当リ、塩谷明府︵日田代官︶ノ命ニヨリテ、彼方家臣ノ列二入レリ。⋮⋮明府仰セ ケルハ、海内ノ儒ヲ業トスル者、万ヲ以テ数フヘシ。誰力苗字帯刀セサル者アランヤ。儒ハ君子ノ業ナリ、 ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ      ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ       ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   へ 農商ト列ヲ同ウスヘカラスト。⋮⋮且処士ニシテ、官府ノ臣籍二入ルコト、権勢ヲ借ルニ似テ、高○ノ嘲リ ヲ免レス。⋮⋮故二帯刀ノコト、官府出入ノ時ト、旅行ノ時ノミ、之ヲ用ヒテ、平日ハ用ヒス。  ﹁明府﹂とは唐代の県令の意であるが、淡窓は常にこれを以て天領日田の代官を称する。﹁大府﹂︵徳川将軍︶ の語に準じての用法である。また日田代官所を﹁官府﹂と呼称する。いかにも、小宇宙である。右のいうところ は、自分はかねてから日田代官の家臣の資格を得て﹁帯刀﹂を許され、﹁農商﹂とは身分を異にしていた、とい うのである。だがそれは、代官の﹁私﹂的許可にすぎず、それに対し今回の﹁永世苗字帯刀﹂は﹁大府﹂︵将軍︶ からのもので本質的に異なる、というのが次の一文である。  当県初ハ諸侯ノ国ナリシカ、後二公領トナリテ、已二二百年二近シ。支配ノ地、時二増減アリ、多キ時ハ 十七八万石二及ヘリ。其内ニテ、土人二苗字帯刀永ク御免ノコト、嘗テ旧例ナシ。⋮⋮︵大体は︶皆私二用 フル所ニシテ、公許アルニハ非ス。⋮⋮処士帯刀ノコト、公廷ニテハ至ツテ重キコトナリ。百年前、京都ニ テ浪人ノ双刀ヲ帯フル者、伊藤仁斎ノ一家二止マルコト、閑散除録二見エタリ。  これらの記述に先立って淡窓は、閣老水野越前守忠邦・勘定奉行井上備前守秀英の名による﹁公許﹂状を転記 しているが、それには書式が全く原物通りであるだけでなく、用紙・包み方・掛紙・ツケ紙の種類・状態までも 138

(8)

詳細に記録されている。そしてその感激は、関係者への感謝の辞・報恩の志の開陳へと続けられる。 恩命ノ挙、近ク云フ時ハ、今ノ明府ノカニヨレリ。我姓名都下二達スト難モ、地頭ノ手ヲ経ルニ非レハ、柳  カノ褒賞トテモ下ルヘキニ非ス。⋮⋮命ノ下ルコト閣老ヨリシ、閣老ノ聴二達スルコト、全ク羽公︵羽倉  簡堂︶ノ吹嘘ニヨレリ。抑首相︵水野越前守︶学ヲ好ミ賢ヲ求ムルノ意ナクンハ、羽公モ亦ロヲ開キ玉フ  コト能ハス。首相ソノ人アリテモ、大君︵徳川家慶︶文教ヲ敷キ玉フノ時二当ラスンハ、其議亦行ハル・        ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ      ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ     ヘ  コトヲ得ス。我力後タル者、上ハ公朝ノ大恩ヲ思ヒ、下ハ諸君ノ厚情ヲ忘レス、万一二報答スルノ念、片  時モ忘ルヘカラサル者ナリ。 恩命ノ挙、我力身二於テハ、誠二分外ノ幸ナリ。古ヨリ今二及フマテ、篤学篤行ノ名儒、挙ケテ数フヘカラ  ヘ       ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ       ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ  ス。其能ク台聴二達スル者、幾クアリヤ。余力庸劣ヲ以テ、此福二当ルコト、全ク祖先ノ餓慶ニヨレリ。  高祖浄貞君始メテ我家ヲ基シ玉ヒシヨリ、我先考二至ルマテ、世﹀徳ヲ積ミ、善ヲ積ネ、厚ク積ンテ薄ク  発シ玉フ其鹸慶我身二鍾マルモノナリ。此篇除慶鍾身ヲ以テ、題号トスルコト、此意ヲ表スルモノナリ。  ︵﹃全集﹄上巻、六五〇ー三頁︶  続けて淡窓は、﹁此時余詩アリ﹂として、この﹁恩命﹂がもたらした感動を一詩に託す。詩中に曰く、﹁国家恩        ヘ   ヘ  ヘ   ヘ  ヘ  ヘ  ヘ       へ 聖人恩。儒戸錐微名分。農工商外独称尊﹂。﹁国家﹂とはもちろん徳川公儀。淡窓の意識は﹁農工商外﹂にある。  当時、日田に広瀬淡窓ありといわれ、知る人ぞ知る存在であったらしい。淡窓自身、己にかかわる世評のほど を克明に記録している。たとえば右の﹁恩命﹂︵帯刀一件︶の四年前、天保九年、当時大坂に滞在中の弟謙吉︵旭 139儲と開国

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荘︶から送られてきた﹃天保三十六家絶句﹄という書の中に、﹁予モ其一人二選ハレタリ﹂︵五月十四日︶とあり、 その翌月十四日の項には、﹁謙吉力書来ル。遠思楼詩鋤︵淡窓の詩集︶、始メテ官允ヲ得タルコトヲ告ケタリ。又 日ハク、詩紗大二世上二流行ス。近年詩集ノ世二行ハル・者、菅茶山二如クハナシ。遠思楼ハ遠ク其上二出タ リ。山陽力集杯、行ハル・ト錐モ、不レ及コト遠シトソ﹂、とある。淡窓はこれに続けて、﹁顧フニ、予何ノ徳ア ツテ此虚誉ヲ得ルヤ﹂︵同右五二七頁︶と述べているが、九州僻遠の地、日田に在住し、三都はおろか近在の福岡 の地までしか踏んだことのない彼が、己が文業の中央における月旦・評価に=旦三憂する心情は、充分に理解出 来よう。  だがしかし、﹁帯刀﹂身分への拘泥となるといささか事情は異なろう。﹁古ヨリ今二及フマテ、篤学篤行ノ名 儒、挙ケテ数フヘカラス、其能ク台聴二達スル者、幾クアリヤ﹂として、﹁百年前、京都ニテ浪人ノ双刀ヲ帯フ ル者、伊藤仁斎ノ 家二止マル﹂と言うのを聞けば、この篤学篤行の儒者・詩人として令名ある淡窓の精神の軸 足は奈辺にありやとの疑念を禁じ得まい。だが淡窓の現実は、﹁台聴二達﹂し、﹁土人﹂にして﹁双刀ヲ帯フル﹂ ことを無上の光栄とすることのうちにあった。  ﹁台聴二達スル﹂とは、端的に閣老水野忠邦の耳にその名が達したということである。かっての日田代官にし て今は御納戸頭に転じている羽倉簡堂からの、﹁当時首相水野侯学ヲ好ミ賢ヲ礼シ、極メテ政務二心ヲ尽サル、 故二先生︵淡窓︶及ヒ旭荘力学術行事ヲモ、野生︵簡堂︶ヨリ委シク申達セシニ、甚タ渇望セラル趣ナリト﹂と の趣旨の書簡を引用しての記述である。この結果の﹁恩典﹂︵﹁永世苗字帯刀﹂︶だとして、以後、﹁︵先の︶首相﹂ 水野忠邦はもとよりのこと、﹁大君文教ヲ敷キ玉フノ時﹂として十二代将軍家慶にいたるまでの、徳川公儀にた いする謝辞がつらねられることになる︵旦。この﹁恩典﹂一件は、淡窓にとって、徳川公儀への忠誠を確固なら 140

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しめたものとして看過し難い意味をもつものと言ってよい。  当初、その﹁用達﹂業により﹁府内侯ヨリ月俸ヲ賜ワ﹂り﹁臣民モ同様﹂の広瀬家に人となった淡窓は、三十 八歳、代官︵二年後、西国郡代︶塩谷大四郎の用人格として﹁家臣ノ列二入﹂り、六十一歳、﹁永世苗字帯刀﹂、 その翌年には府内侯の招聰を受け講義、ここに少くとも淡窓の意識においては、名実ともに﹁親藩ノ末二列﹂ し、徳川公儀体制の末端につらなったことになる。だが、当時の勘定奉行川路聖誤は、その﹃長崎日記﹄中の淡 窓との面会記事において、彼を﹁日田の百姓広瀬求馬﹂と記している。  川路聖誤は、日田︵永山︶代官所属吏内藤吉兵衛歳由︵淡窓は内藤類右衛門と記す︶と同代官所手付高橋小太夫 ますたね 誠種の女との間に生まれた︵川路貞夫﹃川路聖誤﹄︶。聖誤は四歳の時、先に単身出府していた父のあとを追い一 家で上京し、のち御家人︵小普請組︶川路三左衛門光房の養子に入り、極貧の最下層から勘定奉行にまで累進、 プチャーチンとの日露交渉のため筒井政憲とともに長崎に来ていた。淡窓が、四歳で日田を去った聖誤のことを 知る由もないが、自分より二歳上の彼の母親のことは知っているという二川路君母没。・⋮−故高橋小太夫長女。嫁 二内藤類右衛門一。生一一川路君一。年七十五。童幼所レ識﹂︶。長崎よりの帰途、肥前田代に立寄った川路の希望で、両人 の会見︵実態は謁見に近い︶が実現した。おそらく川路は竹馬の友羽倉簡堂︵斎宮︶から淡窓の噂を聞いていたも のと思われる。もちろん淡窓もこの会見のことを日記︵﹃甲寅新暦﹄︶中で特記しているが、いまは川路の日記 (『キ崎日記・下田日記﹄平凡社東洋文庫、一一八頁︶より引用する。  ﹁⋮⋮日田の百姓広瀬求馬、井に同人伜・孫共召連れ来る。今般の御用済を悦び候て、当人井に弟子共までよ り、詩一篇を贈る。求馬は当時、詩も文章も宜しく、行跡も宜しく候。老儒は、此求馬壱人なるべし。生国の        ヘ   ヘ    ヘ   ヘ   ヘ    ヘ   ヘ   ヘ        ヘ   ヘ   ヘ    ヘ   ヘ   ヘ    ヘ   ヘ   ヘ   へ 外、下ノ関迄も行きたることはなく、諸侯の抱を辞して、御料所の百姓たること、実に別段也。⋮⋮求馬来りた 141 儒者と開国

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りとて、復太郎など大に驚き、召連れ候蘭学者箕作元︵玩︶甫共に彼旅宿へ行きて逢い、其高徳に感じ帰りた り﹂。この文中の、傍点を付した部分は、先に辿った淡窓自身記すところの事実とかなり相異するが、いまはこ の点の詮策には立入らない。  右の川路の文には、二種類の淡窓が描出されている。すなわち、川路にも敬愛され、また川路が今回の対露交 渉に学術顧問として同道していた当時有数の蘭学者箕作玩甫がわざわざ対面を希望するほどの﹁老儒﹂淡窓と、 豪農広瀬家出身の﹁御料所の百姓﹂広瀬求馬の両面である。少くともその前月の十二月︵嘉永六年︶に、役務 ︵長崎警備︶上のこととはいえ福岡藩・王黒田斉薄・佐賀藩主鍋島直正二人の国持大名が、直々にその宿を訪ねた ほどの当時の要人川路聖誤の眼には、﹁永世苗字帯刀﹂の肩書などなにほどのものでもなかったらしい。  一般に諸侯・旗本・御家人等の﹁上書﹂においては、前段で米国国書の内容および使節ペリーの非礼を難詰し、 過激な﹁打払ひ﹂を説くものの、漸次的に諸般の事由を挙げて、穏便な措置たとえば期限︵五年・十年︶付き交易 許可に落着、というのが少くない。そしてほぼ確実に、文中に借越・無学菲才等の卑屈なまでの恭謙の辞が記さ れている。淡窓の場合も、形式的にはこの例に洩れない。だが恭謙といっても、﹁狂﹂となるとその例︵たとえ ば吉田松陰︶は限られる。﹃三言解﹄﹁序言﹂末尾における、﹁書生兵事二習ハス。唯其学ブ所二就テ説ヲナスナ リ。若狂妄ノ言。忌誰に触ル・コトアランニハ。仁恕ヲ垂レ玉ハンコトヲ願フノミ﹂の言がそれである。  極端な階層社会における公儀あるいは藩主宛﹁上書﹂である以上、恭謙の辞が過度にわたることは当然だろ う。それにしても武門ならざる淡窓における﹁塵﹂・﹁殺裁﹂論、および徳行の儒者淡窓における﹁狂妄﹂という 自己定位のうちに見られる情動のほどは注目に値する。あるいはその一つの心理的背景として、右に見た、﹁農   ヘ      へ 工商外独尊﹂︵後述︶として﹁永世苗字帯刀﹂の﹁恩典﹂に酔いながらも、﹁農工商外﹂の武家社会にあっては依 142

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然として﹁御料所の百姓﹂に止まる淡窓︵求馬︶の自意識の乖離を見ることが出来るかもしれない。  淡窓の生涯を辿る試みは容易にこうした推論に誘いがちであるが、いまはただ事実として、彼の出自と環境の うちに交易︵商い︶への関心と順応性を、またそれらと有機的に関連するものとして、彼の徳川公儀体制への 並々ならぬ鴫近性のうちに皇国思想からの距離の可能性を確認するに止めたい。けだし華夷弁別思想の日本的形 態たる皇国思想こそ、時局柄、﹁神聖の道﹂対﹁戎秋の道﹂の図式に拠る排外思想の論理的母胎・温床として、 ﹁異国﹂交易への最大の障害と考えられるからである。 二  淡窓の日記は年代毎に数種類あり、 は、次のような記述が見えている。 ペリーが来航し国書を提出した嘉永六年度の﹁再修録﹂八月七日の項に 蛮・七 船・日 o 之・魚町賀南咳︵弟久兵衛︶帰。供レ飯。範治︵養子青邨︶同座。 亜墨利加船。国書言下求一交易一事L。水侯書。言防禦之方一。 読蛮船国書訳。及水戸侯上書一。  淡窓は当時米国国書とともに、水戸前藩主徳川斉昭の老中宛書簡たる﹁海防愚存﹂いわゆる﹁十条五事建議 書﹂にも目を通していたのである。﹁海防愚存﹂の日付は七月十日、そしてそれから一月後にはその写しが淡窓 の目に触れている。おそらく﹁親藩﹂府内藩主の特志によるものと思われるが、その情報伝達の迅速さには一驚 を禁じ得まい。 143 儒者と開国

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 前述の公儀諮詞書︵七月三日︶には、﹁亜墨利加より差出したる書翰和解写二冊を宿老より下附し、⋮⋮群臣 の意見を諮詞す﹂とあったが、この﹁二冊﹂とは、一冊は徳川将軍に宛てて使節ペリー派遣と彼への全権委任の 旨を認めた大統領フィルモーアの書簡、他の一冊は渡来の趣意を委しく述べた。ペリー自身の書簡のことである と考えられる。浦賀奉行による両書簡の受領は、六月九日。﹃大日本古文書﹄︵幕末外国関係文書之↓。以下、﹃大 日本﹄と略記︶には、右両書簡それぞれの英文・漢文本書・漢文和解・蘭文和解が収められている。淡窓が見たの がこの両和解のうちのいずれかは判然としないが、ペリー書簡中にはたしかに刺戟的な部分無しとはしない。た とえば、﹁日本へ存問せんが為の大軍艦数隻、未だ此海に到着せず、某等徒らにこれを待のみ、某今柳其友愛の 情を表せんが為に、四小舶を以て貴国に至れり、明春当に事体に応して、尚数隻を増加し、再ひ航し来るべし﹂ (「抹カ和解﹂、二六四頁︶などの部分である。とりわけ右の後半部分は﹁漢文和解﹂では、﹁もし和約之儀御承知 無御座候ハ・、来年大軍船を取揃ひ、早速渡来可致候﹂︵同右、二六〇頁︶となっている。  これに対し、淡窓は言う、﹁亜墨利加、彼ノ方ノ書信ノ写シヲ見タリ。交易叶ハスハ、大軍ヲ引テ来ルベシト        おびや  云ヘリ。是我ヲ劫カスナリ。其請ヲ肯セバ、弱ヲ示ス理ニテ、国体ヲ損ス﹂。﹁彼兵ヲ以テ我ヲ劫シ、我敵スル コト能ハズシテ、其求二応ゼバ恥ナリ。若礼ヲ以テ来ラバ、其求二応ジタリトモ、恥トスルコトハ有マジ﹂。大 統領任命の使節ペリーに﹁礼﹂なし、アメリカの所為は桐喝なり、というのである。淡窓ならずとも、当然の反 応であろう。  ﹁特異かつ半野蛮の国︵日本︶を文明諸国の仲間に迎えようというわれわれの企て﹂と述べるペリーの尊大な 信念が、﹁排他的にふるまい、気むずかしい人物を演じれば演じるほど、この形式と礼儀を重んじる人々︵日本 人︶は、こちらを、ひいてはこちらの目的を尊重するようになるだろう﹂︵﹃ペリー提督日本遠征日記﹄小学館、六 144

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十ー六 頁︶という傲岸不遜な役割意識と相挨って惹起した、あらずもがなの軋礫と拒否反応と言ってよい。そ してとりわけ、米国﹁国書﹂にたいするこの拒否反応を決定づけた端的事例の一つが、周知の﹁白旗﹂一件であ ったと思われる。六月九日頃︵?︶ペリーが公儀政府に送った、いわゆる﹁白旗﹂差出書簡とは次のようなもの であった。  ﹁先年以来各国より通商之願有之候所、国法を以違背に及ふ。元より天理にそむくの至罪莫大なり。然ば蘭船 より申達候通り、諸方の通商是非に希に非ず、不承知に候ハ・、干文を以天理に背くの罪を糺し候二付、其方も 国法を立て防戦いたすべし、左候ハ・防戦の時二臨み、必勝は我等に有之、其方敵対成兼可申、若其節に至り和 睦を乞度ハ、此度贈り置候所之白旗を押立べし。然ば此方の炮を止メ、艦を退テ和睦いたすべし、⋮⋮﹂︵﹃大日       ママ  本﹄、二六九頁︶。それが﹁和睦﹂の意であれ降伏の意であれ、﹁白旗二流﹂を送りつけてきたこともさることな がら、より重大なことは、﹁我合衆国と日本とハ、宜く互に親睦し、且ツ交易すべき﹂︵大統領書簡︶とする相手 国の﹁国法﹂を、﹁天理に背くの至罪莫大なり﹂と極め付け、﹁干文︵武器︶を以天理に背くの罪を糺﹂さん、す なわち武力による﹁半野蛮の国﹂贋懲こそ我使命とする夜郎自大的感覚にある。これこそ文明を侍み、文化の意 義に想到し得ぬ﹁特異かつ半野蛮﹂人の発想であると言うべきだろう。  かつて頼山陽は、承久の変を論じて次のように述べた。﹁吾れ上皇︵後島羽︶を以て、志ありて謀なしとなす なり。⋮⋮この時に当り、朝廷をして智謀の士あらしめば、その詰旨を改め、関係を滅ぼすと日はずして、源氏 を復すと日﹂うべし︵﹃日本政記﹄日本思想大系四九、三〇七頁。原漢文︶、と。鎌倉幕府内における北条氏と反北 条勢力との分断作戦の謂である。いまこの蟹に倣えば、ペリーには﹁志ありて謀なし﹂。﹁半野蛮の国﹂日本観の 為せる業と言ってよい。かりに淡窓の言うように、ペリーが﹁礼﹂を以て終始したとしても、﹁形式と礼儀﹂︵ぺ 145 儒者と開国

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リー︶だけに堕した徳川公儀体制︵淡窓はこの形式性を痛烈に批判する︶がアメリカ側の要請に十全に応え得たか 否かは大いに疑わしい。だが、少数の積極的撰夷派の鋭鋒をほんの少しだけそぎ、その分だけ少数の穏健な開国 容認派︵含、期限付開国容認︶の障害を取除く、ということにはいささかの効果なしとはしなかったろうと考え られる。  そもそも先の二通の﹁国書﹂においては、日本の﹁国法﹂︵鎖国︶に一定の時代的・状況的意義を認めつつ、 ﹁世界中時勢の変換﹂︵フィルモア︶、﹁昔と今と時勢同しからず、御善政にても、古例之御掟に準ずべからざる 儀﹂︵ペリ←として、一気の完全開国が無理ならば試験的・暫定的開国︵﹁古来の定律を、全く廃棄するを欲せざる ときハ、五年或は十年を限りて允準し﹂フィルモア︶を勧めるという穏健な柔軟性が骨子をなしていた。したがっ て大名たちの中には、この試験的・暫定案に積極的な関心を示す者、少しとはしなかった。たとえば、伊予吉田 藩主、伊達若狭守宗孝︵﹃大日本﹄六七八頁︶。これに対し、貴国の﹁国法﹂は﹁天理に背くの罪莫大なり﹂とし て﹁白旗﹂を送りつけるのは、撰夷派の火に油を注ぐというものだろう︹3︶。  或いはひとあって言おう、ペリーが﹁天理に背くの罪﹂と言ったのは、難波船・漂流船等への薪水供与.漂民 救助に関わっての反人道的﹁罪﹂の謂であろう、と。だが、これに対しては日本側からの明快な反論が見られ る。老中諮詞に応じての﹁三奉行上申書﹂中に、以下の文が見出される。﹁漂民撫郵之義は、去ル寅年被仰出候 趣も有之候間、右様之義申立候は、畢寛彼方願意押貫キ候手段迄二、⋮⋮仕寄を附候計策﹂︵同右、六〇六頁︶。 要するに当該事態に関しては、﹁寅年﹂︵壬寅、天保十三年七月、一八四二︶の薪水供与令の公布により解決済みで あり、アメリカ側の言い分は桐喝のための誰弁だというのである。﹁半野蛮の国﹂にもいささかの見識少しとは しないのである。或いはまた、論者あって言おう。﹁天理に背くの罪﹂というが、それは訳文にすぎないではな 146

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いか、と。現在、右の原文は確認されていないが、原文の有無や右の語の原語如何は問題になるまい。公儀有志 の眼にふれたのは﹁和解﹂だけなのだから。こうしてペリー書簡の趣旨は客観化され、確実に日本側に伝えられ ることになる。﹁必勝は我等に有之、⋮⋮和睦を乞度ハ、此度贈り置候之白旗を押立べし﹂との趣旨が、である。  このペリーの言い分、﹁白旗﹂に最も早くかつ過激に反応したのが徳川斉昭︵﹁十条五事建議書﹂︶であり、騙し 討ちにしてペリを刺殺せよ、と言う。売り言葉に買い言葉である。﹁十条五事建議書﹂冒頭に曰く、﹁此度渡来の アメリカ夷、重き御制禁を心得ながら、浦賀へ乗入、和睦合図の白旗差出し、推て願書を奉り、⋮⋮其驕傲無礼 の始末言語道断にて、実に開闘以来の国恥とも可申候﹂。この無礼に、如何に対処するか。﹁仮令ば彼が船に乗 入、対談いたし候様に款待なし、船将を突殺し、又﹂板の上に居て、打寄出る処を、長刀・太刀等にて切殺し、 云々﹂︵日本思想大系五六﹃幕末政治論集﹄所収︶。その荒唐無稽なることあたかも壇の浦の源平合戦の如し。いか に斉昭とて、﹁万々一戦に相成候節は、当時の有様にては、如何共被レ遊様無レ之候﹂、すなわち必敗との認識に は事欠かなかったから、右の発言が、周知の﹁和の一字﹂を封じこめんがための国内向けの政治的陽動作戦の一 環であったろうことは言を侯たない。  だが本稿の問題関心から注目すべきは、右に見た斉昭の発言の荒唐無稽性・政治性ではなく、それが以下のよ うな一部人士の反応と通底し、呼応し合う状況的可能性を秘めていた点にある。米艦来航への対応を問うての公 儀諮詞に応じた﹁群臣﹂中の、ある公儀御家人は言う。米側の文書には、﹁皇国之近海にて、夷賊之船台風に逢 候節は、 吾邦より助力之船差出呉候様相願候由﹂だが、﹁所謂神風にて、 吾邦にては、難有台風に御座候、 此後賊船渡来之節、何卒台風吹起り、近海之洲へ吹上ケ候ハ・、賊船悉く焼討に致し、賊船を皆殺に仕候て、重 て渡来不仕様いたし度御事にて、此台風も一廉の御要害二御座候﹂︵﹁小普請組井上三郎右衛門上書﹂、﹃大日本﹄七 147 儒者と開国

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四一頁︶。また、六月六日浦賀に到着した吉田松陰は、眼前にした黒船や久里浜での﹁国書﹂受理の様子を報し        ママ  た宮部鼎蔵宛書簡中で言う、﹁九日浦賀の隣津栗浜にて両奉行出張、夷の図書受取の次第僕細かに之れを見る。       ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   へ 誰れか之れが為泣慎せざらんや。⋮⋮唯だ待つ所は春秋冬間又来るよし、此の時こそ一当にて日本刀の切れ味を ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   へ 見せ度きものなり。此の度の事列藩の士及び策士論者、打払に決する者十に七八。臆、惜しいかな﹂︵﹃吉田松陰 全集﹄大和書房第七巻、一六五頁∀。  本稿冒頭に掲げた、淡窓の﹁交易ノ道ヲ絶タントナラバ、⋮⋮我兵ヲ出シテ之ヲ塵ニシ、或ハ之ヲ檎ニシテ﹂ 等の文中に見られた過激な表現は、右のような歴史的・状況的文脈のうちにある。﹁水戸侯上書﹂の閲読が三三口 解﹄に及ぼした影響のほどには無視し難いものがあると言い得よう。  尚、﹃三言解﹄と﹁水戸侯上書﹂との関連は右に止まらない。そもそも淡窓の﹃論語三言解﹄という書名は、 ﹁論語二。子貢政ヲスルコトヲ問フ。子日。足レ兵。足レ食。民信レ之 ト。此数言今時ノ要務ヲ尽セリト覚ユル ナリ﹂︵﹁序言﹂︶という趣旨に因んで名付けられている。﹁兵ヲ足ストハ、合戦二出ツル者ノ多キナリ。⋮⋮足レ 食トハ。兵糧ヲ多ク蓄フルナリ。⋮⋮民信レ之トハ。君臣上下。心ヲ同シクシ。カヲ併セ。一致シテ事ヲナスコ トナリ。昇平久シク。武ヲ用フルコトナキ故。兵備弛ミテ兵足ラズ。昇平奢靡二募ル故。貧窮ニシテ食足ラス。 昇平久シク。上下ノ間懸隔シテ。恩信相結バズ。和漢倶二太平久シケレバ。必ズ如レ是。今時我邦ト錐モ免レザ      ヘ   ヘ   ヘ      ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ      ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ      ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ      ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ ル所ナリ。此処二、御心ヲ用ピサセ玉ハバ。仮令異国ノ患アリトモ。深ク慮ルニ足ラズ。平日其処二意ナクシ テ。敵兵境二臨ム時二及ンデ。之ヲ慮ルトモ及ブ可カラズ﹂。すなわち三三口解﹄の趣意は、﹁異船﹂への対応を 契機としての辺防論・経世論にある。  この限り﹃三言解﹄が、対外交易の可否については許可・不許可の両案を並記、その決断は公儀の手に委ね、 148

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許可・不許可のいずれの場合にも対応し得べき国力増強の論に意を傾注していることはまことに当然のことであ った。﹁当時ノ急務ハ。戦士と軍糧ト武器トナリ。此三ツニ心ヲ用フルコト。上二対シテ忠節ノ第一トス﹂とし て、﹁養兵﹂に加えて﹁農兵﹂︵﹁武士二非ズトモ。気逞シク力強キ者ハ。之ヲ用フベシ﹂︶の活用を説き、﹁社倉﹂に よる糧米の備蓄を提案し、さらには兵備の近代化︵西洋化。﹁今時ハ先蛮国ノ制二傲ツテ大船と大砲トヲ作ルベシ﹂︶ を急務としているのは、この為である。  ﹁水戸侯上書﹂も、これと同じく前段に開国不可の論、後に辺防論・国力増強論をおくという構成をとる。先に 淡窓が日記﹁再修録﹂中に、﹁水侯書。言防禦之方﹂と記していたのはこの謂である。この構成自体はほとん どの大名の上書に共通するもので、﹃三言解﹄とのその類似自体は普遍的なものと言ってよいが、徳川斉昭と広 瀬淡窓両者の説く辺防論︵﹁防禦之方﹂︶にかなりの共通点が見出されることは興味深い事実である。いま一、二 の例を挙げれば、西洋製大船購入案と﹁農兵﹂論がある。この両案自体も各上書中に珍らしいものではないが、 注目したいのは両人の説くその根拠の一致である。       もた  たとえば、淡窓の﹁一切ノ武器。彼方二便利ノ品多カルベシ。蘭船二命ジテ。其書ヲ齎ラシ来ラセ。此方二之 ヲ作ルベシ。スヘテ。日本ノ人ハ。物ヲ始ムルニ拙クシテ。依リ傲フニ巧ナリ。其製必彼二勝ルベシ﹂の語は、 斉昭のコ体夷秋は新工夫に長じ、扱右細工を見取候て製造いたし候事は、神国の所レ長に候間、蒸気船杯も 追々彼に勝候製造出来可レ申﹂との語に照応する。そして両人共に各大名への大船建造解禁・推進、その大船利 用による参勤交代の費用軽減の経済効果を併せ説く。また但棟流の武士土着論と並用して説かれる淡窓の﹁農 兵﹂活用論には、斉昭の﹁土地の漁師等を組分いたし、⋮⋮平生厚く申含置候はさ、筋骨丈夫、殊に海上鍛練の 者共故、あっぱれの働致し候者も可レ有レ之﹂の語が照応する。そして、﹁新二兵ヲ募ラバ。其者ニモ禄ヲ与フ可 14g 儒者と開国

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シ﹂という淡窓の主張の背景には、国費・戦費の補充策として説かれる富商への献金命令に即しての三献金にた いする︶恩賞二階級ヲ設ケ。金イカ程ヲ出セバ 苗字御免。イカ程ハ格ヲ賜ハル。イカ程ハ御目見ナドト。次第 ヲ分ツベシ﹂という格式利用論の発想があり、いまこの両者を合すれば、それは次のような斉昭の実用・王義とほ ぼ合致する。﹁扱右屯戌の制度、士兵の組立を始、或は格式を与へ、或は双刀を許し、或は扶持を与へ、或は夫 役を免じ候類、⋮⋮詰る所は実用を主とし、永続の手当あらまほしく候﹂。  だが翻えって考えれば、右の西洋製大船論は時代の主潮ともいうべく、その他の主張も淡窓積年のものとし て、既に早く三三口解﹄に先立つこと十四年の﹃迂言﹄中に十全に展開されていたものにほかならない。両者の 影響関係如何という点からすれば、或いは万一そうした関係があったとすれば、これら辺防論に関しては、﹃迂 言﹄が﹁水戸侯上書﹂に与えた影響の方にこそ注目すべきかもしれない。既述のように当時における﹃迂言﹄の 評価は高く、それは先の日田︵永山︶代官にして淡窓旧知の羽倉簡堂︵斎宮︶の手を介して﹁首相﹂水野忠邦の 目にもふれていた以上、いかなる経路によってか水戸の関係者にも知られていた可能性少しとしないからであ る。  そうした事情の有無はともかくとして、﹁水戸侯上書﹂と三三口解﹄との内容上の連関には、別途、関心を禁 じ得ない。九州僻遠の地に住し、﹁永世苗字帯刀﹂・﹁親藩ノ末二列﹂なるとの自意識濃厚な淡窓が、﹁親藩﹂中最 高位の格式により中央政界に餐立する烈公徳川斉昭による老中宛直書と、己が積年の信条︵﹃迂言﹄︶との内容上 の類似に心震わせた様は想像に難くない。淡窓が、﹁彼が船に乗入、⋮⋮船将︵ペリー︶を突殺し﹂という斉昭 の矯激性に轟惑・鼓舞されてか、﹁塵﹂・﹁殺毅﹂論を展開した心理的背景として無視し難い要因と言うべきだろう。  だがしかし、﹃三言解﹄と﹁水戸侯上書﹂には、決定的な相異が存する。﹁交易﹂絶対拒否の斉昭と、青眼を以 150

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て﹁交易﹂に接し、その許可をも選択肢の一つとする淡窓との相異である。 三  生涯九州の地を離れず、それも福岡城下までしか遠出したことがないという淡窓だが、時局柄とはいえ、思い のほか、彼は当時の﹁異船﹂に関心を示している。その背景の一つには、弟久兵衛︵南咳︶を中心とする掛屋広 瀬家の情報網の存在が想定されるが、今はこれを措いて、先ずは淡窓の日記中に﹁異船﹂への関心のほどを探っ てみることにする。尚、嘉永六年︵癸丑・七十二歳︶は﹃再修録﹄、同七年は﹃甲寅新暦﹄に拠る。便宜上、通し 番号を付す。

厳嘉

゜永

人六

心年

淘六

々月

云二

゜十

①三

 日

聞=蛮船至一浦賀。伝云。         もたボし ヘ ヘ ヘ ヘ  ヘ ヘ へ 亜米利加大船数艘。齎・国王書一至。乞一交易。

七月二十二日聞異船至長崎。除唐蘭二船。皆称’異船・。②

八月七日  :読二蛮書国書訳。 禦之方・。︵略︶③ 九月十三日 警備極 及水戸侯上書.。蛮船。亜米利加船。国書言下求一交易事﹂。水侯書。言二防 −是日聞 先大君誼二慎徳院一。又聞一高島四郎太夫赦一レ罪。奮為二幽囚一。今免レ囚。為江川 151 儒者と開国

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太郎左衛門属。江川氏本受砲術於秋帆一。故請レ上云。④ 152 十一月三日 聞三 大府放一宮女四百人。未レ審一信否一。以三其為二美政一。不レ堪二驚宣二。且以記レ此。○先レ

      ヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘへしょうち

是亜墨利加船至浦賀。今魯西亜船在長崎。蓋以通信互市’為レ名。意在凱繭。廟議棟警。建・特糧治レ 兵之策一。倹令既降。今有一此挙一。事果出二於実意。即逢レ災而罹。能転レ禍而為レ福也。故姑記レ之。以侯二 後事。⋮⋮聞魯西亜船去レ崎。舟人多病レ疫者。故去云。庶亘ハ不再来耳。⑤ 同十一日⋮−始読海防彙議・。塩田順庵所レ纂。凡二十七冊。府内侯秘府之蔵。特借レ予使レ観。⑥       オロシヤ  同十八日 長崎信至。郡羅船。情実難レ測。府内執事。請       いかる 不レ待レ報去。似レ有レ所レ盆。後事難レ測云。⑦ 予諸山本。春。二子’。而得レ報。○蛮船已発。       オロス       ママ      しげまさ 同十二月二十七日  ⋮郡羅斯使船。暫去長崎。既而復来。大府遣・・筒井。河路。荒尾︵土佐守成允。目 付︶三使君。及古賀博士︵増、謹↓郎。儒者二至レ崎。贈一大府報書﹁。且與二使人一応対。来使之意。朝議秘レ 之。故下無識者・。蓋意在通信。我意不’必従レ之。亦不必拒・。蓋不レ欲レ結レ信。亦不レ欲レ結レ仇。此事 未レ可レ必云。⑧ ﹃再修録﹄︵嘉永六年︶に関しては、大体以上であるが、たとえば﹁万善簿﹂に見られるように性来几帳面な淡

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窓は、その年の日記を了えるにあたり一年間の・王要事についてこれらを概括し摘記する。この嘉永六年に関して は、﹁癸丑提要﹂と題されて年度末尾にまとめられている。そこには、﹁塾生 入門六十三人。月旦最多二百四 人。⋮⋮﹂・﹁米価 白米一升自・九十銭至二百銭。塾価﹂・﹁暴雷 六月二十八日﹂等の事項が細々と列記されて いるが、その冒頭におかれているのが次の一条である。       おわる 国事 慎徳廟即レ世。家慶公。監撫襲レ位。家祥公。亜墨利加。郡羅斯舟来乞交易。 蕃。妖星現レ西。有下築砲台一事−。人心胸々。国修・武備・。二百年来稀有事。⑨ 諸侯設レ備。公使対レ  このあとに、﹁編著 論語三言解。⋮⋮﹂・﹁奇書 海防彙議二十七冊。亜墨利加国書﹂等の項目が続けられてい るのを見れば、淡窓の関心のありようが伺われよう。第一が幕政、第二が、この年の特記事項としての米船・露 船の来航である。公儀頭領の代替は、天領代官所と密接に関わる掛屋の人間として無関心ではいられまいし、そ の関心は普遍化・理論化されて﹃迂言﹄・﹃三言解﹄を貫流する政道論へと昇華されてゆくことになるが、今は米 船・露船への関心を追うこととする。以下の引用は、嘉永七年の日記﹃甲寅新暦﹄から。 一月八日 ⋮:観.郭羅斯来書訳。彼宰臣致書御老中。一求レ正境界。二求レ通交易・。 同十五日 :聞v郡羅斯船以一本月八日発ー。和好成否。官秘而未レ伝。 。⑪ 。⑩ 153 儒者ヒ開国

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 右の記事中の﹁朝議秘レ之﹂︵⑧︶・﹁官秘而未レ伝﹂︵⑪︶等の語は公儀による情報統制の厳しさのほどを偲ばせ るが、その割には、ロシア側の要求について﹁一求レ正’境界。二求レ通交易﹂︵⑩︶と正確な認識を示した り、ロシア船の退去につき﹁舟人多病レ疫者一。故去云﹂︵⑤︶・﹁︵蛮船︶不レ待レ報去。似レ有レ所レ分心﹂︵⑦︶等の伝 聞にふれたりと、淡窓は仲々の情報通である。この点に関しては、公儀の情報管理の甘さを論うよりは、掛屋特 有の情報網︵﹁長崎信至﹂⑦︶の整備と機能のほどに注目すべきだろう︹4︶。政局の動揺は経済体制の流動化へと 波及し、近隣諸藩の財政状態に関わること少なからぬ掛屋としては、﹁庶三其不二再来一耳﹂︵⑤︶とはけだし本音 であろう。的確な情報収集の如何は、掛屋商売の浮沈に関わる。  一方では、情報のもたらす事態に積極的に対処する淡窓が居る。﹁即逢レ災而擢。能転レ禍而為レ福﹂︵⑤︶とす る姿勢は、ペリー来航を徳川公儀体制の政治改革・財政改革の好契機と捉える、次のような﹃三言解﹄の基本的 命題に通ずる。﹁昇平二百鯨年。外ハ奢靡日二募リ。内ハ困窮日二逼ル。一大改革アル可キノ時ナランカ。異船 二付キ。其御定メアランニハ。転レ禍為レ福ノ術ニテ。俗二所レ謂雨フツテ地カタマルト云フ理ナリ﹂。  ﹃再修録﹄に散見した﹁大府︵十二代将軍家慶︶放二宮女四百人ことか、﹁倹︵約︶令既降﹂︵⑤︶等の語句中に 示されていた事態が、ここで﹁昇平二百鹸年﹂の﹁奢靡﹂・﹁困窮﹂などの語で示され二大改革﹂の対象として 指弾されているものにほかならない。﹁事果出二於実意’﹂︵⑤︶の語が効いている。公儀政道への批判的視線であ る。関心一方ならず、日記中に特記されている所以である。掛屋出身の﹁日田の百姓広瀬求馬﹂︵川路聖謹︶と は位相を異にする、儒者・経世論者淡窓の視点である。往々にしてその詩人・徳行家としての評価のうちに影を 薄くしがちな、淡窓におけるこの両視点を構成契機とする複眼的視座の存在には看過し難いものがある。  その出自に関わって培われ醸成された経済合理性・実用性を旨とするこの複合的視座こそが、当時の現実への 154

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彼の関心を活性化させ、蕃山・但練等の経世論への接近の触媒たり得たのだと考えられるからである。換言すれ ば、いかにみずからは﹁永世苗字帯刀﹂の﹁格﹂︵﹃迂言﹄︶に魅かれようとも︵或いはそれ故にこそ︶、徳川公儀封 建体制︵士農工商︶の底辺に位置づけられつつ、当時の経済情勢の傭撤に馴致したこの環境と視座こそ、出色の 経世論﹃迂言﹄執筆の・王要契機の一つと考えられる、ということである。ペリー来航に際して、米国側の目的は ただ﹁乞・交易’﹂︵①︶にありと速断し得たのも、かかる視座からの成果の一環と見てよい。そして、人道問題 ︵薪水・漂民︶・領土的野望等に先立って端的に﹁交易﹂に着眼する問題意識が、そのまま﹃三言解﹄に継承され ることになる。開巻壁頭に言う、﹁蛮船ノ来ルコト。大意交易ヲ求ムルニ過ギズ。先ヅ之ヲ許スト。許サザルト ノニツヲ。決スベキナリ﹂とは、この謂である。  淡窓日記は、そのうちに﹁除二唐蘭二船一。皆称一異船こ︵②︶等の当時の客観的事実についての記述を含む点 からも、興味深いものがある。たとえばこの記述は、福沢諭吉の﹁当時︵文久年間︶外国人のことを通俗一般に 唐人と云ふ﹂︵﹃福沢全集緒言﹄︶等のそれと並ぶ、歴史的証言の一環として史料的にも注目すべきものがある。し かし本稿の視角から最も興味深いのは、たとえば次のような情報だろう。﹁蓋︵ロシアの︶意在一通信’。我︵日本 の︶意不必従ジ之。亦不必拒。蓋不し欲レ結レ信。亦不レ欲し結レ仇。此事未レ可レ必云﹂︵⑧︶。この一文が﹁来使 之意。朝議秘レ之。故下無二識者一﹂の語に続くものであるからには、これもまた掛屋広瀬家の情報網によるもの と思われる。ここで淡窓が﹁結レ信﹂と記しているのは﹁和好﹂︵⑪︶と同義の、和親条約のことと考えられる。 右の日記記事中では他に﹁通信互市﹂の例があるのみで、他はすべて﹁交易﹂である。淡窓は明らかに﹁結レ 信﹂∴通信﹂︵国家間の和親︶と﹁交易﹂・﹁互市﹂︵民間の通商︶を弁別した上で記述しているものと見てよかろう。 ﹃三言解﹄冒頭の﹁蛮船ノ来ルコト。大意交易ヲ求ムルニ過ギズ﹂の語も、この弁別に立脚してのものと考えら 155 儒者と開国

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れる。彼は彼我の﹁交易﹂自体は少しも難事とは考えていないようである。  顧みるに、対外的問題に関わって、こうして﹁交易﹂を第一義的に考える淡窓の思惟様式は、儒者流としては かなり異色と言ってよい。周知のように、徳川公儀封建体制護持をその論の基軸に据えた儒者の中で、対西洋問 題に関して最も鋭角的な論理を展開した先縦としては、新井白石の例が挙げられる。当時声高に叫ばれていた西 洋烈強の政治的野望︵領土的野心︶とキリスト教との内在的連関を根拠無きものとして否認した白石は、その一 方でキリスト教理とわが封建倫理との間に存する構造的矛盾を指摘し、これを禁教・鎖国合理化論の骨子とした。 天主の観念が﹁家におゐての二尊・国におゐての二尊﹂を生み、孝・忠に対する叛逆の論理の母胎となる、とい うのである。  ﹁たとひその教とする所、父をなみし君をなみするの事に至らずとも、其流弊の甚しき、必らず其君を拭し、 其父を試するに至るとも、相かへり見る所あるべからず﹂︵﹃西洋紀聞﹄、﹁新井白石全集﹂四ノ七八一頁︶、﹁彼国の 人其法を諸国にひろめ候事、国をうばひ候謀略にては無之段々分明に候といへども、其法盛になり候へばおのつ から其国に反逆の臣子出来候事はまた必然之理勢にて候欺﹂︵﹃天主教大意﹄、同右七九四頁︶。﹁天・王﹂の観念と、 封建倫理の根幹たる﹁三綱﹂︵君は臣の綱、父は子の綱、夫は妻の綱︶との倫理的抵触が封建階層秩序におよぼす、 倫理的.政治的弊害の指摘である。後年、幕末水戸学の論客会沢安︵正志斎︶は白石の右の論を引用して、﹁筑州 ︵筑後守。白石︶ノ君父ヲ試スル事ヲモ顧ミスト論セシバ、実二卓見ト言ヘシ﹂︵で二眼余考﹄。平凡社東洋文庫﹃西 洋紀聞﹄所収、四〇八頁︶と嘆賞しているのもけだし当然の評というべき、卓見である︵5︶。  白石はともかくとして、会沢は淡窓より一歳年長の全くの同時代人である。その会沢の右の評語に徴すれば、 白石の指摘した事態は当時なお厳然たる有効性を有していたはずである。しかし淡窓には、この白石的・会沢的 156

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論旨への言及も関心も見出し得ない。﹃三言解﹄中における﹁天教﹂への言及は、ただ次の一ヶ所のみに止まる。 ﹁惣シテ。天草ノ乱ヨリ。天教ノ禁厳ニシテ。藩船ノ往来絶エタリ。今ハ其時ヲ去ルコトニ百年。人心全ク改マ リ愚夫愚婦ト錐モ。天教ノ邪説タルコト。知ラザルハナシ。仮令其教ヲ奉ズル国タリト。我国二厳禁アルコトヲ 喩シ。経像ノ類。持チ来ルコトヲ許サズバ。我民ヲ惑ス程ノコトハアルマジ﹂。会沢との認識の落差のほどには 歴然たるものがある。それと関連して、右文中に支配的な、当時の水準から見て親西洋ともいうべき楽天的気分 の揺曳には、後論に関わって注意を喚起しておきたい。  キリスト教問題をかくもさらりと片附けた﹃三言解﹄は、右一文に続けて﹁交易ヲ通ズルコト。止ムコト無ク ハ。何レノ国然ルベキヤ﹂との設問を立てる。もはや﹁交易﹂開始は自明の事態であるかのようである。﹁是万 国ノ地理ヲ知リ。国情ヲ察スルニ非レバ。言ヒガタシ。小生蛮学二通ゼズ。試二臆ヲ以テ言ハンニ﹂として、以 下のように述べる。﹁英夷﹂は清国の轍に徴して不可、﹁亜墨利加。彼ノ方ノ書信ノ写シヲ見タリ。交易叶ハス ハ。大軍ヲ引テ来ルベシト云ヘリ。是我ヲ劫カスナリ。其請ヲ肯セバ。弱ヲ示ス理ニテ。国体ヲ損ス﹂、故に、 不可。一方、この英・米二国に対しロシアにたいしてはかなり好意的である。  淡窓のロシアへの関心は先の日記中における﹁郡羅斯﹂への度々の言及、﹁一求レ正境界一。二求レ通一交易一﹂ ︵⑩︶という正確な認識のうちに伺われたが、これは必ずしも地理的事情︵米国の浦賀、ロシアの長崎︶に由るも のではないらしい。﹁︵ロシアは︶或ハ交ヲ通ズルノミニテ。外二求ムルコトナシトカ聞ケリ。⋮⋮先年松前ノ官 府ヲ乱妨セシハ。辺吏ノセシコトニテ。国王ノセシコトニアラズト聞ケリ。⋮⋮地勢ト虜情トヲ量リテ。大害ナ クバ。此国可ナランカ﹂。こうしたロシアへの相対的な親近感は橋本左内等にも見られ、後の明治期にまで影響 する親露観の一環といってよいが、当時において淡窓はさらに対露﹁交易﹂の可能性に言及する。仮にロシアに 157 儒者と開国

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﹁交易﹂を許可するとして、と彼は言う。﹁郡羅斯ハ大国ナリ。蘭人同様ノ取扱ニハナリガタキ事モアルベシ﹂、 ﹁銅鉄ノ類﹂は輸出禁止、と。裏返せば、銅鉄以外の﹁交易﹂許可ということになろう。ここでも武力的脅迫の 有無や国の大小︵﹁大国﹂︶は問われても、﹁邪教﹂如何が問題とされることはない。  いわゆる耶蘇邪教観とは、倫理的には先に見た白石的な﹁天主﹂の観念とわが封建倫理との抵触による封建秩 序の漸次的腐触、政治的には国土侵略の先兵としての人心収撹であるが、これらについての積極的関心は淡窓に は全く見当らない。淡窓とて、西洋列強の武力脅迫を難じ、それへの対策を説くこともちろんである。しかしそ れは﹁交易﹂を拒否した場合のことであり、西洋列強を無条件的な侵略国家群と見なす耶蘇邪教観とは一線を画 する。語を換えれば、耶蘇邪教観とは端的な西洋諸国への嫌悪・恐怖に他ならない。この点については後に、反 西洋教の使徒ともいうべき大橋訥蓄と対比して検討するとして、いまは、淡窓における西洋への関心のありよう を事実に即して見ておくこととする。  弘化二年︵淡窓は﹁天保十六年﹂と記す。一八四五年、六十四歳︶四月八日、淡窓は長崎に再遊し、唐・蘭二館を 訪問している。以下、﹃懐旧楼﹄に拠る。今回の長崎訪問の最大の目的は、この唐・蘭二館への訪問にあった。 ﹁長崎二再ヒ遊フコト。全ク両館ノ為メナリ。此遊已二遂ケタリ。此後又遊フノ期ナカラン。之ヲ思ヒテ。悲喜 交々生ス﹂との追憶のうちにその感懐は示されている。蘭館では加比丹の饗応︵﹁忍冬酒及菓子﹂︶を受けた。﹁年       ハママ  ハ四十餓ナルヘシ。少シク白髪アリ。髪縮ンテ申ビズ。但シ紅髪碧眼ト聞キシガ。必シモ然ラサルニ似タリ。鼻 邦人二比スレハ。少シク高シ。兼テ思ヒシ程二。異形ナルコトハナシ﹂・﹁蘭館ノ結構ハ。極メテ美麗ナリ。障子 皆硝子ヲ以テ是ヲ作ル。⋮⋮唐館ハ蕪雑ナリ。蘭館ノ精麗ナルニ及ハス﹂。  初めての西洋との出会いに子供のような好奇心を示す淡窓の姿が、如実に活写されている。儒者淡窓の﹁聖 158

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人﹂への念い、漢詩人淡窓の歴代中国詩人への想いを想起すれば、﹁唐館ハ蕪雑ナリ。蘭館ノ精麗ナルニ及ハス﹂ の一句の意味は軽くはあるまい。そして彼は、蘭館訪問の感慨を次の詩に托している。 西説未レ来六合灰。地傾一東南天西北。蘭書既至四維張。始覚郷術不荒唐 そしる   さとす        また 此言。我喩二後生一勿二復然.。紅髪碧瞳異類耳。宣比支那与レ我地詠本相通。 たくみ とり  ヘ ヘ  シ ヘ ヘ へ       しばらく 工。録レ長捨レ短論乃公。今宵我且借彼望遠鏡。一時看破広寒宮︵旦。 。蘭学行漢学鄙。 ヘ ヘ へかたちへおなじ 人心物態皆一軌。 磨牙反目互相 医術天文亦彼  概略、大意次の如し。西洋の学問が伝わる以前には、天地宇宙は神秘かつ幽玄なものであり、盤古神話に見ら れるように大地は東南に傾き、天は西北に傾くものとされていた。ところがオランダの書物が舶来されると、宇 宙は傾斜どころか四本の柱はきっちりと組み立てられ、ようやく戦国末の都術の説いた大九州の説が荒唐無稽の ものではないことが知られることになった。こうして蘭学は次第に盛んになり、漢学を学ぶ者は少くなった。両 者は互いに反目し合い相手をそしるが、私は後世の者にそんなことしていてはいけないと喩したい。紅毛碧眼と いえども民族が異るだけで同じ人間、どうして支那と日本が同じ地豚の上にあるといえようか。人心も物事もす べて同じものである。ただ医学・天文学は西洋に長がある。その長を取り短を捨て論ずれば公平となる。今宵私 はオランダの加比丹から望遠鏡を借りて見たが、古来月面にあるとされる広寒宮の存在など唯の神話伝説にすぎ ないことが分った、と。  淡窓最初の西洋体験︵﹁忍冬酒及菓子﹂・﹁望遠鏡﹂︶であり、西洋認識である。先の日記記事とこの詩の中には、 いかなる先入見にも毒されぬ彼の子供のような好奇心が、既述の複合的視座を介して見事な西洋認識へと昇化さ 159儒者と開国

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れている様が見てとれる。彼は、我蛮書・蛮学に通ぜず、異国事情に詳しからずと言うが、問題は知識の量より は認識の質、という端的事例と言ってよい。たとえば未尾の、﹁今宵我且借・彼望遠鏡’。一時看破広寒宮﹂の句 の意味するところがそれである。広寒宮とは月の中にあるとされる宮殿の名で、転じて月の都、月の世界を意味 する。従って右の句は、西洋科学技術の所産たる望遠鏡の威力をかりて、月面の実情を判然と認識した、広寒府 の伝承が虚偽だと知れた、との意に解される。  かって蘭学者杉田玄白は、淡窓の﹃三言解﹄に先立つこと八十年の﹃狂医之言﹄︵安永四年、一七七五︶中で、 前年上梓した﹃解体新書﹄訳業の成果を踏まえて﹁神農本経なるものあり、上品の薬一百二十種、⋮⋮いまだ一 人としてこれを服してその効ある者を聞かざれば、すなはち人を欺くの書﹂︵原漢文、以下同︶と断じ、中国伝統 医学の原理的否定の 楷梯とした。淡窓における望遠鏡による広寒宮否認の論理も、玄白のこの論と同質であ り、﹁医術天文彼亦工﹂と言われる所以である。﹁蘭学行漢学鄙﹂の語もこうした玄白以来の学術の推移に立脚 し、あるいは合わせて三浦梅園︵国東︶・麻田剛立︵杵筑︶・帆足万里︵日出︶等の豊後の実学的風土の影響あって のことかも知れぬが︵7︶、広寒宮一件に示された淡窓の認識能力には看過し難いものがある。知識の量よりは認 識の質、と評したのはこの故である。さらに言えば、周知のように右の玄白の論はすすんで中華思想︵華夷思 想︶の根幹を覆えすにいたるが︵8︶、淡窓にも華夷思想、﹁戎秋﹂観の痕跡は見られない。  さらに右の漢詩中で傍点を付した、﹁人心物態皆一軌。医術天文彼亦工。録長捨短論乃公﹂の語について言え ば、これらは、西洋学術導入の歴史に関わって、﹁天文地理の事に至ては企及ぶべしとも覚えず﹂︵﹃西洋紀聞﹄︶ という新井白石の西洋﹁形而下﹂学の評価、佐久間象山の﹁東洋道徳・西洋道徳﹂︵﹃省侃言録﹄︶、橋本左内の﹁仁 義之道.忠孝之道は吾より開き、器械之工・藝術之精は彼より取り﹂︵﹁安政四年書簡﹂︶等の語と並ぶべく、歴史的 160

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に評価して然るべき惹句であると考えられる。  さらに右詩中の﹁紅髪碧瞳異類耳。宣比支那与レ我地豚本相通﹂の句は、支那人とて異民族、我々は彼等から 多くを学んだではないか、と解される。この解釈の根拠の一つは、この詩の直前に並置されている唐館訪問の際 の感懐を記した詩の趣旨に関わる。﹁胡︵夷秋。満州民族︶変レ夏︵漢民族︶。⋮⋮夏変胡﹂を鍵概念とするこの詩 は、異民族同志の文化交流・相互影響︵﹁夏胡移奪既互有﹂︶を骨子とする。﹁胡﹂から﹁弁髪﹂の習俗が持ちこま れ、﹁夏﹂からは﹁周孔典刑﹂が取り入れられ清朝が成立し、その﹁清儒書﹂がわが日本に舶来された、と説く のである。かくては、﹁紅髪碧瞳﹂の民との交流に何の支障があろうか、けだし﹁人心物態皆一軌﹂なのだから、 というわけである。  だがここで注目すべきは、淡窓がこの文化交流・相互影響の核として﹁交易﹂を見ていることである。﹁君不聞 交易幾百年﹂、と。周知ようにかっての日本から中国への主要輸出品は昆布と銅であるが、これに代えて﹁広参 桂領﹂︵広州人参・桂州伏令︶等の薬品の輸入は可とするも、﹁蜀錦呉綾﹂等の贅沢品は高価で民に益無し。昆布は 無尽蔵ともいえるが、﹁紅銅有レ限休レ加レ額﹂すなわち銅輸出の増量は不可、と。﹁銅鉄ノ類。今時唐蘭二御渡シ ノ分モ。節約アルベシト云フ説アリ﹂として、ロシアへの銅鉄輸出禁止を説いた﹃三言解﹄に通ずる主張であ       しだいに る。﹁君不レ聞交易幾百年。国宝梢西遷。東渡舟舶知多少。彼邦喚作一買銅船一﹂。﹁国宝﹂とは銅・鉄、﹁西﹂は 中国、﹁東﹂は日本の意。中国では日本へ向う船を﹁買銅船﹂と称しているという。この一句を公儀の対外交易 の無策を難ずる儒者淡窓の憂国の至情の披渥と見るか、掛屋広瀬家出自の経済観念の所産と見るかは意見が分れ ようが、淡窓の﹁交易﹂への関心とその眼識のほどは明白であろう。  そしていま後者、すなわち唐館訪問の詩の趣旨を補助線として演繹すれば、前者すなわち蘭館訪問の詩の意味 161 儒者と開国

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する文化交流・相互影響︵﹁録レ長捨レ短論乃公﹂︶の論は、西洋諸国との交易の原理的承認を含意するものと言い得 よう。或いは論者あって云おう、蘭と英・米・露は歴史的にも質を異にする、と。おそらく淡窓の認識はこれと は異なる。唐・蘭との関係も﹁交易﹂のみ、現前する日米・日露の問題も、この唐・蘭二国の他に一国が加わる か否かにすぎぬ、と。経済・倫理を傭敵する複合的視座からの﹁人心物態皆一軌﹂の信条より発する、﹁蛮船ノ来 ルコト。大意交易ヲ求ムルニ過ギズ﹂︵﹃三言解﹄︶との認識、さらには﹁若礼ヲ以テ来ラバ。其求二応ジタリト モ。恥トスルコトハ有マジ﹂︵同右︶との断言の所以である。 162 四  ペリーの持参した合衆国大統領フィルモアの公儀宛親書︵﹁国書﹂︶の趣旨は、﹁日本とハ、宜く互に親睦し、 且ツ交易すべき﹂︵﹁蘭文和解﹂、﹃大日本﹄二四七頁︶を求め、もし日本が鎖国の国法の全廃を肯んじ得ぬ時は、試 に﹁五年或は十年を限りて允準し、以て其利害を察し﹂、自国に利なしと判断した時は﹁旧律﹂︵鎖国︶に復帰す ればよいではないか、というものであった。淡窓はこの提案に乗る。彼は﹁姑ク交易ヲ通ズルヲ中策﹂︵﹃三言 解﹄︶と言うが、上策は打払だから実質的上策である。  周知のように、先に見た会沢安・吉田松陰は後に、当初の徹底壌夷の姿勢をそれぞれに改める。会沢において は、﹃新論﹄︵文政三年、一八二五︶段階の撰夷論から﹃時務策﹄︵文久二年、一八六二︶の開国論への転向であり、 かって浦賀の地で黒船を眼前にし、再来の折にはコ当にて日本刀の切れ味を見せ度き﹂と息まいていた松陰 は、後に次のように述べて臨機応変の柔軟性を発揮する。﹁使を斬るの挙、これを癸丑︵喜永六年︶に施すは則 ち可なり、これを甲寅︵嘉永七年・安政元年︶に施すは則ち晩し、而れども尚ほ或は及ぶべし。乙卯︵安政二年︶

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を過ぎて今日︵同三年︶に至りては、則ち晩きの又晩きなり。大抵事機の去来するは、影の如く響の如し。往昔 の死例を執りて、以て今日の活変を制せんと欲す、難きかな。謂ふ所の思慮の粗浅とは是れなり﹂二久坂生の文 を評す﹂、﹁丙辰幽室文稿﹂所収。大和書房﹁全集﹂ニー四〇七︶。情理兼備した、転向論の白眉である。  こうした転向は淡窓には起こり得ない。年齢の故ではない。年齢をいえば、松陰はともかくとして会沢の﹃時 務策﹄は八十歳の折である。三三口解﹄における米国国書にたいする分心怒の表現は﹁水戸侯上書﹂に触発されて の、敢えて言えば借物だからである。そもそも淡窓の場合、その出自に由来する性来の交易への寛容性に加え て、ペリー来航時においても、多くの儒者において﹁神聖の道﹂対﹁戎秋の道﹂︵﹃新論﹄︶の図式として顕現す る華夷思想的発想は稀薄であり、﹁夷秋﹂観の痕跡はほとんど全く認められない。彼が﹁異国﹂との﹁交易﹂に 反対する理由は見当らない。借物と評した所以である。のみならず彼は或いは時流の一半を察してか、﹁水戸侯     しんい 上書﹂の瞑惑を借りて現前する危機を、国内三大改革﹂の好機と見る。﹃三言解﹄の過半を占める辺防論が、 実質的に、淡窓年来の経世論﹃迂言﹄のほぼ要約となっているのはこの為である。  今回の黒船騒動を﹁転レ禍為レ福﹂の﹁一大改革﹂の好機と見るというこの発想は、既に早く、﹃三言解﹄に十 四年先立つ﹃迂言﹄のうちに、﹁智者ノ事ヲ処スルハ、転レ禍為レ福、因レ敗成レ功﹂という﹃戦国策﹄︵燕︶中の語 に託して原理的に表明されていた︵日本思想大系﹃近世政道論﹄所収、三二六頁。︶。そこにおいて﹁禍﹂・﹁敗﹂の象 徴として﹁一大改革﹂の契機とも発条とも見られていたのは、当然ながら、﹁商質ノ金ヲ借リ一時ノ急ヲ救ヲ事 ト﹂しながら﹁人ノ物ヲ借リテ返サザル﹂諸侯の経済的困窮と君道の頽廃であり、当時の﹁風俗﹂であった。右 の語に端的に示されているように、﹃迂言﹄における歯に衣着せぬ政道批判は峻烈と評してよい。為に﹃迂言﹄       ひさ は﹁迂言六篇、撰者の姓名を載せず。人家鷲ぐところの故紙中にこれを得﹂として、匿名とされている。 163 儒者と開国

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