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市場社会主義論批判

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市場社会主義論批判

福 田 敏 浩

1 はじめに

 20世紀は社会主義実験の時代である。杜会主 義の実験の直接の契機となったのは戦争と革命 であった。第1次大戦とロシア革命はソ連型社 会主義を生み出した。第1次大戦はまた敗戦国 ドイツにおいて民主社会主義を台頭させたが, その実験は短命に終わり,世界経済恐慌の襲来 とともにナチズム(Na七ionalsozialismus)と いう名の国家社会主義が出現した。黒い全体主 義ともいうべきナチズムは第2次大戦の敗北で 崩壊した。第2次大戦と人民民主主義革命は東 欧にソ連型社会主義を登場せしめた。東欧の一 員となった東ドイツは黒い全体主義から赤い全 体主義へ移行した。EI中戦争と国共内戦と中国 革命は中国社会主義を生み出した。  1940年代後半にはソ連・東欧に広大なソ連型 社会主義圏が成立したが,その結束は長続きし なかった。1948年半は早くもユーゴスラヴィア がソ連圏を離脱し,1951年から労働者自主管理 を核とする市場社会主義の制度化に乗り出した。 1950年代半ばにはポーランドとハンガリーがソ 連圏を離脱する動きを見せたが,結局ソ連の圧 力によって両国の民主化運動は頓挫した。次に 転機が訪れたのは1960年代半ばである。ソ連型 社会主義が成長の壁にぶつかり,ソ連・東欧諸 国は経済改革を実施せざるをえなくなった。ソ 連や東ドイツなどはソ連型社会主義のマイナー・ チェンジの道を選択し,チェコスロヴァキアと ハンガリーは市場社会主義の道を選択した。マ イナー・チェンジの実験は成果を上げることな く挫折した。チェコスロヴァキアの実験は政治 体制の民主化をも射程に入れていたためにソ連 の介入を受けわずか1年で頓挫した。ハンガリー の実験は政治改革を回避したために比較的長期 にわたって展開されたが,結局は失敗し,1990 年代に入るとハンガリーは資本主義への移行を 開始した。  1980年代になるとポーランドとソ連で市場社 会主義の実験が始められた。ポーランドではヤ ルゼルスキ(W.Jaruzelski)統一労働者党書記 長指導の下で1982年初ら市場社会主義の建設が 行われたが,その制度化は難航し,結局はショー

ティジフレーションを招いただけに終

わってしまった。ソ連ではゴルバチョフ(M. Gorbachev)の登場とともに1980年代後半に市 場社会主義への移行が行われたが,これもまた 失敗し1991年末のソ連邦解体を誘発した。筆者 の考えではポーランドとソ連における経済体制 改革はハンガリーの市場社会主義をモデルにし       ユう たものであった。  社会主義の最後の切り札として登場した市場 社会主義は,その実験場となったユーゴスラヴィ ア,ハンガリー,ポーランドおよびソ連のいず れにおいても挫折した。労働者自主管理という 経済民主主義にウエイトを置いたユーゴスラヴィ ア型にせよ,国有制で効率に力点を置いたハン ガリー型にせよ,市場社会主義は効率という冷 厳な経済原則のテストにパスできなかったので ある。1989年の東欧革命と1991年のソ連邦の解 体を招いたゆえんである。  以上の現実の動きとともにひところ政策実践 1)詳しくは福田〔9〕を参照されたい。

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一2一 滋賀大学経済学部研究年報Vol.1 1994 の指針としての地位を不動のものとしていた市 場社会主義論も次第に影響力を失い始め,最近 のロシアや中欧・東欧諸国では市場社会主義を 口にする政治家や行政官はほとんどいなくなっ た。しかし,市場社会主義論はまったく姿を消 したわけではない。ごく少数ではあるが,現存 社会主義のカタストロフィ運動に危機意識を抱 いた学者の中に市場社会主義を提唱する者が散 見される。その代表はユーゴスラヴィアのホル バート(B.Horvat)とチェコのシク(0.Sik)で ある。かれらは東側諸国の経験をもとにした市 場社会主義論を提唱している。  資本主義諸国においても市場社会主義論は姿 を消したわけではない。むしろ近年,市場社会 主義論のルネサンスともいうべきひとつの思想 的高まりが見られる。その拠点となっているの はアングロ・アメリカ圏である。イギリスでは フェビアン・ソーシャリズムの流れを汲む市場 社会主義論が1980年代後半に台頭した。ル・グ ラン(J.Le Grand)やエストリン(S.Estrin)        の やミラー(S.Miller)がその代表的論者である。 もう一つの中心はアメリカの分析的マルクス主 義(Analytical Marxism)である。この派も理 想的経済体制として市場社会主義を提唱してい る。本稿は1980年代以降に登場した市場社会主 義論を批判しようとするものである。ここでは       の 新マルクス主義を代表するホルバートおよびシ クの説と分析的マルクス主義者の説を取り上げ てみたい。これらの説は単なる机上論ではなく 制度化をめざした政策志向的(policy−oriented) な説だからである。筆者はこれまで機会あるこ        のとに市場社会主義論を批判的に検討してきたが, 本稿はそうした作業に一区切りをつけ,筆者の 見解を集成することをめざしている。

H 市場社会主義論の系譜

 本論に先立って市場社会主義論の展開史を簡 単に振り返っておこう。  市場社会主義とは通常,生産手段の公的所有 と市場経済の組み合わせから成る経済体制と理 解されている。スティール(D.R.Steele)によ ればこのような経済体制を志向する説はすでに 19世紀に登場しており,たとえばブルードン (P.J.Proudhon)にそのような考えの萌芽が見   のられる。経済学的に体系的な市場社会主義論が 台頭するのは20世紀になってからである。その 直接の契機となったのは新自由主義の祖ミーゼ ス(L.v.Mises)による社会主義批判であった。 ミ一会スは1920年に,生産手段の公有と中央政 府の計画の組み合わせから成る社会主義のもと では競争市場と市場価格が欠如しているために 合理的経済計算は不可能である,と主張した。 このような挑戦に最初に応えたのはドイツ語圏 の社会主義者であった。ハイマン(E.Heimann) やポラニー(K.Polanyi)やランダウァー(C. Landauer)は市場を活用すれば社会主義のも とでも合理的経済計算は可能であると応戦した。 市場社会主義(Marktsezialismus)という言葉       を最初に使ったのはハイマンであるが,1920年 代のドイツ語圏ではこの言葉が市民権を得てミ一 週ス反批判が高まりを見せた。  1930年代になると,ナチズムの台頭によって 市場社会主義論の舞台はドイツ語圏から英語圏 に移った。テイラー(F.M.Taylor)やディッ キンソン(H.D.Dickinson)やランゲ(0.Lange) 2) Le Grand, Estrin (25), Miller (26] 3)新マルクス主義とは反マルクス=レーニン主義 のスタンスを取るマルクス主義思想を総称したも のである。詳しくは福田〔8〕第6章を参照され たい。 4)福田〔10〕,福田〔11〕,福田〔12〕,福田〔14〕, 福田〔15〕,福田〔17〕 5) Steele (33] p.37. 6)Nuti〔27〕p,20.市場社会主義の同義語は社会 主義的市場経済(sozialistische Marktwirt− schaft)であるが,チコーシュ・ナジによればこ の言葉を初めて使ったのはアルフレート・ウェー バー(Alfred Weber)であった。1950年のこと である。Csik6s−Nagy〔7〕S.387.

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らが市場社会主義の理論モデルを提唱したが, その中で傑出していたのはうンゲの説である。 ランゲは1936年に,公有のもとで中央当局が消 費財市場・生産財市場・労働市場の価格を試行 錯誤の方法で操作することによって各市場での 需給の均衡を達成できる,と主張した。ランゲ 説の要点は,自由市場経済で価格によって自動 的に実現される需給均衡と同じことを中央当局 に意識的に行わせようとしたところにあった。 このランゲ説は市場社会主義論の範型としての 地位を獲得し,後続の市場社会主義論に大きな 影響を与えた。  1950年代になると,新しい動きが生じた。ヴィ ジョンや理論のレベルに留まっていた市場社会 主義論が,経済政策実践の青写真の色彩を強め るようになったのである。しかも1920年代と 1930年代の市場社会主義論が主としてドイツ語 圏と英語圏の非マルクス主義者によって主張さ れたのに対し,1950年代以降の説は主として東 欧のマルクス主義者によって提唱されるように なった。  その先陣を切ったのはユーゴスラヴィアのチ トー主義である。チトー主義の基本思想は反官 僚主義,国家退場論,自主管理思想である。ユー ゴスラヴィアではこのようなチトー主義をベー スにして生産手段の社会有,企業の労働者自主 管理,市場経済および共産党独裁の組み合わせ から成る市場社会主義が,党の理論家カルデリ (E.Kardelj)らによってデザインされ,1951年 から実践に移された。市場社会主義が実験の時 代を迎えたのである。  1950年代にはハンガリーにおいても市場社会 主義への関心が高まり,ペーター(G,Peter) やコルナイ(J,Kornai)やチコーシュ・ナジ (B.Csik6s−Nagy)らがソ連型社会主義の代案 としての市場社会主義を構想した。かれらの案 はただちに実現するには至らなかったが,10年 後の経済改革論議に影響を与え,カーダール主 義と称されるハンガリー社会主義労働者党の公 式の理論の下地となった。カーダール主義の市 場社会主義構想は党の開明派理論家ニエルシュ (R.Nyers)らによって作成されたが,それは 国有,市場経済および一党独裁の組み合わせか ら成っていた。ハンガリーではこの構想は1968 年から実践に移されたが,結局は失敗し,現在 では資本主義への移行をめざした体制転換政策 が行われている。  1960年代の経済改革の時代を迎えると,チェ コスロヴァキアでも市場社会主義への関心が高 まり,共産党の改革派の中核を占めた移住プラ   の        ハ学派に属するシク(0.Sik)やセルツキー(R. Selcky)やコスタ(J.Kosta)らが,社会的所 有,企業の労働者自主管理,市場経済および西 欧型民主主義政治システムを柱とする市場社会 主義を構想した。この案は1968年に実践に移さ れたが,実験はソ連の介入にあって1年で挫折 した。  1980年代になると,ポーランドおよびソ連に おいて市場社会主義の制度化が行われた。その 構想は両国の共産党のテクノクラートやエコノ ミストによってデザインされたが,その内容は 基本においてハンガリー型モデルと同様であっ た。両国はハンガリーの後を追ったのである。  以上のようにソ連・東欧諸国における市場社 会主義論の特徴は,政権党の経済政策構想の形 で展開されたところにある。市場社会主義論は 政策志向の実践論だったのである。その背景に は一ソ連とのイデオロギー的・外交的対立のゆえ に市場社会主義を選択したユーゴスラヴィアを別と して一経済の不振という現実があった。如上 の国々の政権党は経済回復のための窮余の策と して市場経済の導入に踏み切ったのであるが, その目論みも功を奏さなかった。公的所有を温 存したままで市場経済を利用しようとしたから である。これまでの経験から公的所有は市場経 7)移住プラハ学派の名称は筆者が命名したもので ある。詳しくは福田〔8〕153ページを参照された い。なおシクは1990年に亡命先のスイスからチェ コに帰り,バベル(V.Havel)大統領の経済顧 問に就任した。

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一4一 滋賀大学経済学部研究年報Vol.1 1994 済の機能にとってブレーキとなることが分かっ た。社会主義の最後の砦ともいうべき市場社会 主義の実験は失敗し,旧ソ連・東欧諸国は一斉 に資本主義への移行を開始した。  1950年代以降の市場社会主義論は,以上のよ うに,主として東側諸国を舞台にして展開され ていたのだが,その間西側の英語圏でも労働者 自主管理モデルの議論が展開されていたことを 忘れてはならない。1950年些末から1970年代に かけてウォード(B,Ward)やドーマー(E. Domer)やヴァネク(J.Vanek)やミード(J.E. Meade)らによって労働者所有協同組合におけ る一人当たり付加価値最大化のモデルに彫琢が 加えられていたのである。もっともこの種の議 論は政策志向的でなく抽象理論の域を出なかっ たため実践へのインパクトをほとんどもたなかっ た。  市場社会主義論に次の転機が訪れたのは1980 年代後半である。その直接の契機となったのは ソ連・東欧における現存社会主義の全般的危機 であった。とりわけペレストロイカの失敗の与 えた衝撃は大きい。現存社会主義のカタストロ フィ運動に危機感を募らせた東西の左翼の思想 家たちは社会主義の生き残りのための代案作り を余儀なくされたのである。東では新マルクス 主義を代表するホルバートとシクが労働者自主 管理を基調にした市場社会主義構想を提示した。 西ではル・グランやエストリンやミラーに代表 されるフェビアン・ソー一一シャリストが,伝統的 な協同組合思想をベースにした自主管理論を展 開した。もっともかれらの説は実践志向ではな く目の粗いヴィジョンのレベルに留まっており, 現実変革の説得力という点で物足りなさを感じ る。本稿で取り上げなかったゆえんである。近 年急速に台頭してきたのはアメリカの分析的マ ルクス主義の説である。この派の魅力は,アメ リカのメイン・ストリームの経済学を応用しつ つ政策志向の強い市場社会主義論を展開してい るところにある。本論に進もう。

皿 新マルクス主義の市場社会主義論

1.ホルバート説  ホルバートはユーゴスラヴィアのザグレブ大 学に在職した経歴をもつ。ザグレブ大学はかつ ては新マルクス主義の拠点であった。この大学 にはプラクシス・グループと呼ばれる急進的な          おう 思想家グループがいた。プラクシス・グループ は人間学的マルクス主義の立場に立ち,人間を 世界変革の実践主体として捉え,この角度から 人びとの社会諸領域への積極的参加や自治を強 調した。このグループはチトー主義よりもラジ カルであり,現実の労働者自主管理制度の不徹 底さを批判した。このためプラクシス・グルー プは政府によって弾圧され,1975年に活動停止 を余儀なくされた。ホルバートがプラクシス・ グループの一員であったという確証はないが, チトー主義よりも徹底して参加や自治を強調す るかれのスタンスから推測すると,プラクシス・ グループの影響を受けているように思われる。  ホルバートは社会主義を理想と考える。といっ てもこれはソ連・東欧に実在した経済体制では ない。かれによればこの現存の体制は,一党独 裁,行政的計画,国家的所有および政治的・経 済的ヒエラルキーの組み合わせから成る国家主          ラ 義(etatism)である。国家主義は「国家がす べての資本を所有し,労働者を雇い,私的資本       ユの 家と同じやり口で剰余価値を絞り取る」体制で ある。  ホルバートのいう社会主義は本来の社会主義 の価値に即した体制である。ホルバートは何よ りも平等が社会主義を支える価値と見る。この 平等は,人びとが「基本的な社会主義的役割の        ユユ  すべてを行うことにおいて平等」という意味に 解されている。社会主義的役割とは,生産者, 8)詳しくは福田〔8〕154ページを参照されたい。 9) Horvat (19) p.233, Horvat (20) p.236. 10) Horvat C18) p.47. 11) Horvat C18) p.229, Horvat [20) p.234.

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消費者および市民の三つである。社会主義では これらの役割の点ですべての人びとに平等が保 証される。  生産者としての平等の中核は人びとの社会的 資本へのアクセスの平等である。ホルバートは これから資本の社会有(social ownership)と 労働者自主管理を導出する。社会有とは資本の 所有者が社会であることを意味する。つまり, 各人は等しく所有者であって,同時に誰も所有       の 者ではないような所有方式である。いわゆる θverybody=nobodyの原則であるが,この考 えに立てば特定の所有階級は存在不可能となり, 万人は生産者つまり労働者になるのだから,他 人労働に対する搾取および不労所得の余地はな くなる。このことによって財産所得は排除され, 各人は自分の労働からのみ所得を獲得すること になり,労働に応じた分配が実現する。  社会有のもとではすべての労働者は所有者た          ユのる社会の代理人となる。社会的資本の使用はプ リンシパルたる社会からエイジェントたる労働

者に委ねられ,労働者集団は集団的企業家

(collective entrepreneuer)として立ち現れる。 かくて生産現場たる企業は労働者の自治によっ て運営されることになる。労働者自主管理企業 の組織は,労働者総会一労働者評議会一監査委 員会一基層労働集団から編成される。このよう な労働者自主管理は,ホルバートが述べている   ユ   ように,ユーゴスラヴィアで制度化された労働 者自主管理企業の組織に似通っている。  消費者としての平等の実現のためには労働に 応じた分配が必要である。労働所得は賃金と利 潤参加分から成る。労働に応じた分配の実現の ためには労働者にスタートの平等を保証する社 会的計画が不可欠である。  生産者(労働者)の平等および消費者の平等 を達成するのにもつとも効率的な手段は市場で   の ある。市場は生産者の自治(労働者自主管理)と 消費者主権を保証する。市場はレッセ・フェー ルではなく社会的計画(social planning) 生 産単位の活動の事前的調整およびマクロ経済のプロ ポーションの達成などをめざす政府計画一によっ て規制された市場である。つまり市場は社会的        ユの計画の手段であり,両者は補完の関係にある。  市民としての平等にとって必要なのは政治的 自治と政治的自由である。政治的自治と政治的 自由の実現のためには権力の平等な配分(分権) と政治的決定への参加が不可欠となる。政治シ ステムはエリート主義ではなく下からの参加を ベースにした民主主義の形を取り,政党は廃止   ユの される。国制は連邦制(コミューンー州一連邦)         ラ が考えられている。  以上からしてホルバートの提唱する社会主義 は,社会有,労働者自主管理,市場,社会的計 画および参加民主主義の組み合わせから成る市 場社会主義であることが知られる。ホルバート の市場社会主義はチトー主義を一層徹底したも のといえる。  ホルバートの市場社会主義は理想の経済体制 として提示されているが,それは同時に「ユー       トピアの夢ではなく実現可能なプロジェクト」 と考えられている。ホルバートは,市場社会主 義は国家主義の倒壊以後の現在のロシアや中欧・ 東欧諸国で実現可能と確信しているのである。 これらの国々では現在,国有企業の私有化政策 が展開されているが,ホルバートはこれに非を 唱え,私有化よりも社会有企業への転換の方が 効率的に望ましいとみている。その根拠として ホルバートは,ヒエラルキー的な私企業よりも 民主的な社会有企業の方が効率的であること, テクノロジーの発展はチームワーク,注文生産 および小規模組織を要求しているが,これらを 12) Horvat C18) p.236. 13) Horvat (18) p.264. 14) Horvat [18) p.248. 15) Horvat [18) p.231. 16) Horvat (18) p.332, p.502. i7) Horvat C18) p.32e. 18) Horvat (18) p.302. 19) Horvat {18] p.174.

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一6一 滋賀大学経済学部研究年報 Vol.1 1994 満たすには労働者自主管理企業しかないこと,        を挙げている。  社会有企業は私企業よりも効率的と言えるだ ろうか。少なくともユーゴスラヴィアの経験に 徴する限り,労働者自主管理の社会面企業はリ スク・テイカーの不在,イノベーターの不在お よびモラル・ハザードの蔓延のゆえに低効率に 悩まされた。その程度は国有企業に劣らぬほど であった。ホルバート説にはこれらの問題解決 についての具体的提案はない。説得力に乏しい 説といわざるをえない。  ホルバート説に欠けているのはコーポレート・ ガバナンス(corporate governance)の視点で ある。この視点からすれば,社会有企業の所有 権は社会が保有し,企業の管理権(つまり意思 決定権)と所得権(つまり残余請求権)は当該企 業の労働者が保有する。プリンシパルは社会で 労働者がそのエイジェントということになる。 プリンシパルたる社会は何を意味するのだろう か。ホルバートのいうようにそれが社会一般と いう抽象的存在だとすれば,プリンシパルとし て企業活動を有効にコントロールしえず,労働 者は社会の利益のためにではなく,自利のため に一たとえば労働者一人当たりの所得の最大化を めざして一行動するようになろう。  社会有はeverybody ・nobodyの所有方式と いうのはレトリックとしては面白いが,制度化 をめざす政策志向の説の定義としては不十分で ある。社会有企業を実際に制度化するにはその 所有権者を具体的に特定しておかねばならない。 ユーゴスラヴィアのばあい社会有企業の所有権 は結局は国家に帰属した。ホルバート説のばあ いもそうなりはしないだろうか。実際問題とし て所有権者を特定する段になると,社会主義に おける国家は社会の利益を代表するのだから社 会有はすなわち国家所有であるという論理に頼 らざるをえなくなるのである。もしも社会有= 国家所有ということにでもなれば,ホルバート が嫌悪する官僚支配という国家主義的要素が前 面に出てこざるをえない。国家官僚がプリンシ パルとしての権利を行使して企業活動に介入し, 自主管理を有名無実化する恐れがある。官僚統 制の低効率は国有企業での自主管理を試みたハ ンガリーの1980年代後半の実験で証明済みであ る。ホルバートには社会有企業の所有権者は具 体的には誰かという問いに答える義務がある。  労働者自主管理の効率上の難点のひとつは, モニタリングにある。ユーゴスラヴィアの労働 者自主管理の失敗の根因はマネジャーの規律化 に成功しなかったことにある。一般にマネジャー・ のモニタリングには外部モニタリングと内部モ ニタリングがある。前者の代表は市場(とりわ けファイナンス市場)であり,後者の代表は監査 役会である。ユーゴスラヴィアのばあいには要 素市場たる資本市場は制度化されておらず,自 主管理企業のマネジャーは株主や債権者からコ ントロールされることがなかった。企業内部に も資本主義の私企業の監査役会に相当する機関 はなかった。ホルバート説のばあいはどうだろ うか。ホルバートには外部モニタリングに関す る議論はない。そもそもファイナンス市場とい う要素市場が想定されていないのである。内部 モニタリングについては監査役会(supervi一        り sonary committee)が考えられている。ところ が,監査役は労働者の選挙で選ばれることになっ ている。監査役は人気取りのため労働者の利益

一一

l当たり所得の最大化  に奉仕せざるを えず,マネジャーに対して収益最大化や費用最 小化の規律を強制しえないであろう。ホルバーー ト説は効率面でユーゴスラヴィアの自主管理企 業を越えているとは思えない。  次に搾取の問題を指摘しておきたい。社会有 のもとでは特定の所有階級が存在しないのだか ら,所有者による他人労働の搾取はなくなる, というのがホルバートの考えである。これに対 し社会有でも搾取はなくならないということを 20) Horvat (21) p.90. 21) Horvat (18) p.246.

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詳細にわたって論証したのはアーノルド(N.S. Arnold)である。かれはコース(R.H.Coase) の取引費用の理論やアルチャン(A.A/chain) の経済組織に関するevolutionary theoryに依 拠しつつ搾取の存在証明を行っている。その要 点を簡単に紹介しておくと次のごとくである。  アーノルドによれば搾取の必要条件は,アク ターが貢献に応じた所得を獲得できないこと,        および他に行き場がないことの二つである。労 働者自主管理企業システムにはこれらの条件が 存在する。自主管理企業ではモニタリングが有 効に機能しないのでチーム生産に携わっている 労働者の問で怠業(shirking)というモラル・ ハザードが発生する。チーム生産のばあいには 労働者は互いに他人がどれだけの貢献をしたか が分からないから作i業の手を抜くという機会主 義(opportunism)の行動を取る者が出てくる のである。しかも労働者は等しく企業の純所得 つまり残余に対する最終請求者であり,それゆ え残余の分配に対して平等一平等の利潤参加, 具体的には一人当たり所得の最大化一を主張する からなおさら機会主義の行動が横行することに なる。その結果,熟練労働者よりも非熟練労働 者の方が貢献以上の所得を獲得し,この意味で 熟練労働者が非熟練労働者によって搾取される          の ことになるのである。これに不満をもつ熟練労 働者が所有形態の違う他の企業に転出できるよ うなシステムが制度化されるならばこのような 搾取の問題は解決されるが,市場社会主義のも とではそれも不可能である。なぜなら市場社会 主義ではわずかの例外を除き社会有企業しか認 められないからである。ちなみにホルバート説 のばあいにはファミリービジネスの私企業が例        外的に認められているにすぎない。熟練労働者 は他に行き場がない。ゆえに労働者が労働者を         搾取することにならざるをえないのである。同 様の理由でマネジャーも搾取を免れない。  ホルバート説における労働者自主管理の深刻 な問題はイノベーションである。企業家的才能 を持つマネジャーが新製品の開発やプロセス・ イノベーションで実績をあげたとしてもその利 益は労働者と分けあわねばならない。このよう な制度のもとではマネジャーは労働者によって 搾取されるので資本主義の企業家やイノベーター に匹敵するマネジャーは育たないであろう。ま た,新しい企業の設立も困難となろう。企業家 の才能を持つ人物がビジネス・チャンスを捉え て企業を設立したとしてもその利益は労働者と        ラ 分け合わねばならないからである。ホルバート 説はイノベーションの面で資本主義の私企業シ ステムよりも優れているとは思えない。 2。シク説

 シクの理想と考える経済体制は第3の道

(Dritter Weg)である。つまり,現存の資本主 義と現存の社会主義を超えた第3の経済体制で ある。シクの言葉を借りれば「社会主義の欠陥 (低効率,低品質,イノベーションの立ち遅れ,供給 の需要への不適合)を除き,資本主義の欠陥(失        の 業,インフレーション)を予防する」と同時に, 平等やヒューマニズム(人間解放や民主主義)な どの社会主義的価値を実現する経済体制である。

シクはこれを人間的経済民主主義(Humane

      ラ Wirtschaftsdemokratie)と呼ぶ。人問的経済 民主主義は混合所有,市場メカニズムおよび政 府のマクロ経済政策の組み合わせから成る。  混合所有は私有と公有の混合であり,具体的 には私企業,協同組合,混合企業および国有企 業から成る。企業管理については小規模の私企 業を除いてすべての形態の企業において全従業 員による資本参加,共同決定および利潤参加が 制度化される。これらの参加の実現のため企業 22) Arnold (2) p.155. 23) Arnold (2) p.176−178. 24) Horvat (18] p.239. 25) Arnold (2) p.177. 26) Arnold (2) p.182, p.186. 27)Sik〔32〕S.14.()内は筆者の挿入。 28) Sik C30), Sik (32) S.30, S.36−37.

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一8一 滋賀大学経済学部研究年報Vol.1 1994 は一種の従業員持ち株会社に転換される。シク はこの企業形態を従業員会社(Mitarbeiterges一          ラ ellschaft)と呼ぶ。この会社の発行する株式の 多くは全従業員によって保有され,一部が外部 の資本市場に売りに出される。従業員会社では 従業員は所有者兼労働者となるから,資本主義 の私企業の宿弊である資本関心と賃金関心の対 立(資本家対労働者の対立)およびこれから生じ てくるインフレーション(賃金・物価スパイラル) と失業は解決される。同時に従業員による企業 の自主管理が可能となり,生産現場での民主主 義が実現されることになる。  次に市場メカニズムであるが,シクがこれを 選択したのは高効率を実現するのは市場メカニ ズムのほかにないという理由による。市場形態 は競争市場,価格は自由価格が考えられている。 市場の種類としては商品市場,労働市場および ファイナンス市場(金融・資本市場)が想定され ている。  最後に政府のマクロ経済政策であるが,その 中核を成すのはマクロ分配政策である。インフ レーションの防止と失業の予防が最優先の経済 政策目的である。これらの目的の実現手段とし てシクが提案しているのは,いわゆる協調的所 得政策である。政府が国民各層の代表の参加の もとで民主的に平均賃金上昇率を計画し,それ に基づいて賃金額を決定するやり方である。こ のような所得政策によって現存資本主義に見ら れるような賃金・物価スパイラルと賃金上昇に 伴う失業が予防される。  以上がシク説の概要だが,これをホルバート 説と比較するとシク説はよりプラグマティック であることが分かる。ホルバートが新マルクス 主義の原則論の立場に立ち,社会有とそのもと での労働者自主管理に固執するのに対し,最近 のシクは所有形式にはこだわらず一といって も公的所有の優勢を暗黙のうちに想定しているよう に思えるが一一私企業であれ,国有企業であれ, 企業内部で自主管理が実現されさえずればよい       と考えている。自主管理を実現する企業形態と して従業員会社が考案されたのである。この会 社の従業員は資本所有権,管理権および所得権 を保有することになる。  シク説は政策志向的である。シクは,1968年 の「プラハの春」の体制改革を指導したことか らも知られるように,もともと政策実践への関 心が強く,その市場社会主義論は最初から経済 政策構想の性質を帯びていた。上にみた最近の 説もそうであり,東欧革命以後の中欧・東欧諸 国の体制転換政策を意識した提案となっている。 このことは,たとえば従業員の株式所有の提案 に示されている。このようなインサイダー所有       きのはすでに中欧諸国で実施されてきたものである。 シク説はこのような実践の影響を受けているよ うに思われる。シクの人間的民主主義は,中欧・ 東欧諸国に対する,直接にはチェコ・スロヴァ キア政府に対する政策提案なのである。  シク説にもホルバート説と同様にコーポレー ト・ガバナンスの視点が欠けている。現実の市 場社会主義の実験の失敗は効率上の失敗だった。 実現可能性のある市場社会主義論を提示するに はこのような経験に学ぶ必要がある。効率上の 難点を克服するとすれば,資本主義の私企業シ ステムに制度化されているコーポレート・ガバ ナンスよりもより有効なものを提案しなければ ならない。シク説はこのようなテストにパスし ていない。内部モニタリングに関する議論はまっ たくない。外部モニタリングについてはファイ ナンス市場が考えられていることから,理論的 には外部株主や外部債権者からのコーポレート・ コントロールが可能となる条件が整えられては いるが,その有効性となるとはなはだ疑わしい。 というのは従業員会社の株式の多くは当該企業 29) Sik (32) S.32. 30)以前のシクは共同所有を重視しており,従業員  会社の所有権をその従業員に持ち分証書の形で与  えることを主張していた。Sik〔30〕S.396−453,  Sik {31) S.64−77. 31)詳しくは福田〔16〕を参照されたい。

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の従業員が保有し,その一部だけが株式市場に 公開されるにすぎないからである。現代の資本 主義世界では金融機関もコーポレート・ガバナ ンスの面で重要な役割を演じているが,シク説 では金融機関による外部モニタリングも不問に 付されている。  従業員会社の資本調達力はおそらく低いもの となろう。少なくとも資本主義における私的株 式会社の資本調達力を上回ることはないだろう。 従業員会社の発行株式のうち一部しか資本市場 に公開しないからである。このことによって従 業員会社の成長は資本主義の私的株式会社のそ れを下回ることになろう。成長率を高めようと すれば,売りに出す株式を増加しなければなら ないが,そうなると外部からの支配の可能性が 高まり自主管理が破綻する恐れが出てくる。自 主管理の原則を堅持するとすれば低成長に甘ん じざるをえないであろう。  内部モニタリングおよび外部モニタリングの 欠如またはその低効力のもとでは搾取の問題も 解決できない。ホルーバート説について指摘し た,機会主義の行動やモラル・ハザードや従業 員による従業員の搾取や従業員によるマネジャー の搾取やイノベーションの立ち遅れなどの問題 点はシク説にもそのままあてはまる。 IV 分析的マルクス主義の市場社会主義論  労働者自主管理という民主主義にウエイトを 置いた市場社会主義論の難点は,上に示したよ うに,従来から指摘されてきた低効率の問題に 対して納得のいく解答を与えていないところに ある。このような難点の克服を意識してコーポ レート・ガバナンスの視点から市場社会主義論 を展開しようとしているのが分析的マルクス主 義者である。  チルコット(E.B.Chilcote&R.H.Chilcote)    ヨの によれば,分析的マルクス主義は社会科学への 32)Chilcote〔6〕邦訳261ページ。 実証主義的アプローチの立場を取り,とりわけ 新古典派経済学と同様の個人の合理的選択のパ ラダイムをベースにして理論を構成している。 この派はアメリカを中心にして社会学や歴史学 や哲学や経済学の分野で精力的に文筆活動を展 開している。経済学に限っていえば,分析的マ ルクス主義は,個人の合理的選択および合理的 意思決定を分析のパラダイムとし,数学や統計 学を分析のトゥールとして活用していること, 資産分配の不平等を搾取の問題として捉え,そ の平等な分配を主張すること,をもって特徴づ      けられる。この派の経済学者は,このような視 点と方法をもって市場社会主義を提唱している。 以下,バーダン(P,KBardhan),ローマー(J. E.Roemer),ワイスコフ(T.E.Weisskopf)お よびユンカー(J.A.Yunker)の説を検討して みよう。 1.バーダン説  バーダンは,ファイナンス市場が十分に発達 していない経済にもっともよく適合する市場社 会主義の青写真を描こうとしている。その市場 社会主義は公的所有,競争市場および競争的政 治システムの組み合わせから成る。公的所有に ついては説明がないので具体的に何をさすかを 分からないが,それによって分配の平等つまり 企業利潤の市民への平等な分配が実現される。 効率的資源配分は競争的市場によって実現され る。  バーダン説の核心をなすのは公有企業に対す るモニタリングの提案である。これに関して注 目すべきは日本の企業集団たる系列に注意が向       けられていることである。公有企業のマネジャー の行動を監視するシステムとして日本流のメイ ン・バンクを中心にした企業グループが考えら れている。 系列に所属する公有企業は株式会社の形態を 33)Chilcote〔6〕邦訳261.266ページ。 34)Bardhan〔3〕pユ07, Bardhan〔4〕p。147.

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一10一 滋賀大学経済学部研究年報Vol.1 1994 取り,株式の一部は当該企業の従業員が所有し, その主要部分は系列内の他の公有企業が保有す る。いわゆる株式の持ち合いである。株式の一 部はグループ外の年金基金や金融機関や地方政 府によって保有される。公有企業は利潤最大化 で行動し,系列内の各企業は互いに他が利潤最       ヨ  大化で行動するよう監視する。  公有企業のファイナンスはメイン・バンクに よって行われる。メイン・バンクは株式会社で あり,株式の多くは国家が所有する。メイン・ バンクの主要任務は公有企業のモニタリングで あり,系列内の企業の業績が悪化した時にはそ の株式を買い取り,役員を派遣してその再建を 行う。  以上の系列内の相互監視システムはインサイ       ダー・モニタリング・システムと呼ばれるが, これは大企業に適用される。小企業については 私的所有が認められ,その経営はいわゆる所有 者兼企業家によって行われる。私企業の規模が 大きくなり,所有と経営の分離が:進み,プリン シパルーエイジェントの問題が前面に出てくる ようになると,当該企業について乗っ取りが行        ヨわわれ,公有企業への転換が行われる。  バーダン説の概要は以上の通りであるが,そ の特徴はインサイダー・モニタリング・システ ムによって公有企業の効率的行動を実現しよう とするところにある。系列内でのいわば内部市 場で公有企業のコーポレート・ガバナンスを行 うという提案である。バーダン説では産業民主 主義の視点は消え,もっぱら公有企業の効率化 が議論の野上に上っている。  インサイダー・モニタリング・システムでは 系列内の企業が互いに他を監視することになる ので,相互監視のコストは相対的に高くつくこ とになろう。日本の企業系列の経験によれば, 株式の相互持ち合いはパターナリズムを生み出 35) Bardhan (3) p.108, Bardhan C4) p.147. 36) Bardhan (4) p.147. 37) Bardhan [3] p.108,Bardhan (4) pp.147−148. す。他の企業グループとの競争に対抗するため に各企業グループは結束を強化する必要に迫ら れるからである。経営不振の企業へのメイン・ バンクによる金融支援によってその予算制約が ソフト化し,清算されるべき企業が生き残るこ とも稀ではない。バーダン説の弱点は企業系列 相互間の分析を欠いているところにある。日本 の系列型モニタリングは私企業システムとセッ トとなっている。バーダンはそうしたモニタリ ングを私企業システムから切り離し,それを公 有企業システムに接合しているが,この組合わ せがはたして有効に機能するようになるかどう か疑問なしとしない。 2.ローマー説  ローマーの市場社会主義論は株式市場が十分 に発達した経済への適用を意図している。市場 社会主義には労働者自主管理タイプと経営者タ イプがあるが,かれが選択したのは後者つまり 経営者市場社会主義である。その選択根拠は効 率である。ユーゴスラヴィアの経験が示すよう に,労働者自主管理はモラル・ハザードやイノ ベターの不在やリスク負担の回避などのために 低効率に悩まされた。ローマーは経営効率の面 では資本主義的経営者に頼らざるをえないと考 える。チトー主義にしてもカ∼ダール主義にし ても新マルクス主義にしても労働者自主管理に 生産現場での民主主義の実現を託したのだが, ローマーにはそうした民主主義からの発想はな い。効率重視の市場社会主義論である。  といっても社会主義本来の価値である平等が 軽視されているのではない。むしろ,ローマー は社会主義の最重要の価値は平等にあると見る。 この平等は機会の均等という意味に解され,自 己実現と豊かに生きる機会,社会的ステータス への機会,政治への影響の機会を万人に対して 平等に保証することが社会主義の使命と考えら     うれている。経済体制たる市場社会主義はとりわ 38) Roemer (29) p.11.

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け物質的に豊かな生活の機会を万人に保証する という意図をもって構想されている。  かくて市場社会主義の課題は「平等と効率」 の実現ということになる。ローマーによれば平 等は所有権システムの問題であり,効率は経済       ヨのメカニズムの問題である。前者については社会 主義が,後者については市場経済(つまり資本 主義)が強みをもつ。平等は公的所有によって, 効率は市場メカニズムによってもっともよく実 現される。  平等は具体的には所得分配の問題となる。ロー マーはこの問題を総利潤の市民への平等な分配       のによって解決しようとする。その解決に与かる のが公的所有なのであるが,それが具体的に何 をさすかは明瞭でない。ローマーの叙述にしば しば登場するのは国有企業だが,他方でまた企 業の市民所有とも受け取れる文言もある。かれ         りの指摘するように,所有権システムの選択は手 段的な事柄であるとはいえ,公的所有の内容規 定をおろそかにしてよいというものでもないだ ろう。  社会的資本の所有権の所在ははっきりしない が,確かなことは一もっともローマー自身が明 言しているわけではないが一公有企業の管理権 は当該企業のマネジャーが保有し,所得権につ いては当該企業のマネジャーおよび従業員と市 民が保有するということである。  総利潤の市民への平等な分配の具体的方法と して提示されているのは,クーポン方式である。 クーポンは企業利潤に対する請求権である。そ のクーポンは成人市民に同額の形で支給され, 市民はこれを使って株式を取得し配当を受け取 る。そのさい市民は投資信託(mutual fund) ヘクーポンを投資し,投資信託の株式を取得し て配当を受け取るのである。株式をマネーで取 得することは禁止される。それを認めると,少 数の富者が多くの株式を買い占めることになる       う からである。クーポン保有者の死去のさいには そのクーポンは国庫に返却される。  このようなクーポン経済におけるアクターは 市民,投資信託および公有企業のマネジャーで ある。投資信託はプリンシパルたる市民のエイ ジェントとしての役割を演じ,信託されたクー ポンを株式市場で運用して最大の配当を実現す るように行動する。投資信託は企業に対しては プリンシパルとして行動し,企業マネジャーが 利潤最大化で行動するように監視する。投資信 託は外部モニターとしての役割を演じるのであ る。ローマーが投資信託にこのような役割を与 えたのは,多数の市民よりも少数の投資信託の 方が公有企業のモニタリングに効果があると考 えたからである。また,市民と企業との間に投 資信託というスクリーンを置くことで市民の企 業への直接投資に歯止めをかけ,投資の失敗に よる資産の喪失やその少数者への集中を防止す るということも意図されている。  公有企業はメイン・バンクを中心にした企業 グループに属する。この企業グループは,バー ダン説と同様に,日本の企業系列に着想をえて いる。メイン・バンクは公的所有であり,大銀 行は国家によって所有されるが,国家権力の介 入を避けるため憲法によってその独立が保証さ   う れる。銀行の役割は公有企業に対するファイナ ンスと公有企業のマネジャーの監視である。  以上のように公有企業のコーポレート・ガバ ナンスは資本市場とバンキング・システムで行 われる。企業業績が悪化し株価が低下すると, 投資信託は株式を売却する行動に出,メイン・ バンクは融資を控える。このような規律によっ て公有企業のマネジャーは合理的行動を強制さ れる。公有企業の取締役会には投資信託および メイン・バンクから代表が派遣され,当該企業 のマネジャーの行動はこの社外取締役によって 39) Roemer (29) p.2, p.20. 40) Roemer (28) pp.89−90. 41) Roemer [29] p.23. 42) Roemer (29) pp.49−50. 43) Roemer (29) p.76.

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一12一 滋賀大学経済学部研究年報Vol.1 1994         りもチェックされる。  ローマー説では公有企業が支配的な企業形態 であるが,そのほか小規模企業に限って私有が 認められている。私企業はいわゆる企業家によっ て所有され経営されるが,その企業家にはイノ ベーターとしての役割が期待されている。私企 業が成長して一定の規模に達すると,それは公          ヨ  有企業に転換される。つまり,政府が競売で公 有企業に売却したり,公有企業が直接買収した りするのである。私企業の公有企業への転換の 目的は,資本家階級の出現を防止するところに   ラ ある。  以上がローマ一説の概要であるが,その特徴 は所得分配の平等はクーポン方式で,効率はファ イナンス市場によるコーポレート・ガバナンス で実現しようとするところにある。クーポン方 式は,チェコ・スロヴァキアで私有化の一環と して実施されたバウチャー方式に着想をえてい るの る。チェコ・スロヴァキアでは1992年から成人 市民に対して国有企業の株式との引換券に相当 するバウチャーが配分され,国有企業の私有化 が開始された。これに伴い株式取引を仲介する 投資信託が民間によって設立され,1992年にそ       う の数は436にものぼった。ローマー説の投資信 託のアイディアはこのチェコ・スロヴァキアの 投資信託に拠っている。コーポレート・ガバナ ンスは,公有企業は低効率という批判に対する ローマーの回答である。とりわけ外部モニタリ ングによって公有企業の効率を少なくとも資本 主義の私企業と同等以上に改善できるというの がローマーの考えである。そのさいかれが念頭 に置いたのはアメリカで発達したコーポレート・ ガバナンスであるように思われる。アメリカで は1970年代に社外取締役によるモニタリングが, 44) Roemer (28) p.97. 45) Roemer (28) p.97, Roemer (29} p.78. 46) Roemer (29) p.79. 47)チェコ・スロヴァキアのバウチャー方式につい  ては福田〔16〕を参照されたい。 48>詳しくは福田〔16〕を参照されたい。 1980年代に企業買収(M&A)という形でのチェッ クが,近年では年金基金や保険会社などの機関 投資家・株主によるモニタリングが発達した。 ただ,アメリカのばあいにはこれらは私企業シ ステムのもとでいわば自生的に生成した。これ に対し,ローマー説ではそれらを私企業システ ムから切り離し,公有企業システムに人工的に 接合しようというのである。  企業利潤の市民への平等な分配がローマ一説 の柱をなしていることは既述の通りであるが, その背後には搾取および不労所得の排除という マルクス主義の伝統的な考えがある。クーポン 方式はこれらを排除できるだろうか。アーネソ       のン(R.」、Arneson)が鋭く指摘しているように, クーポン方式では多数が多数を搾取することに なる。資本主義では少数の資本家が多数の労働 者を搾取し不労所得を獲得する。これに対し市 場社会主義では直接労働に参加しない多数の市 民がクーポンによって利潤の分配を受け取るの だから多数の市民が多数の労働者を搾取するこ とにならざるをえない。  市民はクーポンを投資信託に投資し,その株 式を取得して配当を受けるというのがローマー の提案だが,この方式だと実質的な所得の平等 化は実現できない。投資信託の業績の優劣に応 じて配当に格差が生じるからである。  ローマ一説では公的所有の内容が曖昧である ことはすでに指摘した。ローマーは国有企業を かなり意識しているように思えるが,もしも国 有企業システムを念頭に置いているのであれば 効率の面で問題が出てくる。このシステムのも とでは企業は官僚統制に服さざるをえなくなる。 法律:によって国有企業の独立を保証するにして も企業の所有権を保有する行政機関の官僚は管 轄下の企業に対してコルナイのいう「間接の官 僚的調整」を行い,それによって官僚と企業マ ネジャーの問にパターナリズムが形成され,そ の結果国有企業の予算制約がソフト化すること 49) Arneson [1} p.287, p.289.

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は,ハンガリーの市場社会主義の経験が教える 通りである。パターナリズムの支配するところ にアメリカ流のコーポレート・ガバナンスを導 入しても意味がない。それはもともと私的所有 と市場経済の組み合わせを基本とする資本主義 のもとで生成したものである。それをこのよう な体制的枠組みから切り離し,国有システムに 接合しても有効に機能するはずがない。  公有企業の設立はどうなるのだろうか。ロー マー説にはこれについての説明はまったくない。 論理的にいえば公有企業は公的機関の所有にな るのだからその設置者は行政機関ということに なろう。行政機関が設置権限を占有すると,市 場での新規参入および退出(倒産)が著しく制 限されることはハンガリーの市場社会主義の実         うの 験で証明済みである。市場の現場から遠く離れ たところにいる行政官僚には市場の提供する利 潤チャンスに即応する能力もなければ,市場が 発信する企業業績の悪化の情報を的確に把握す る能力もない。市場の寡占化・独占化の傾向が 強まり,経済活動のダイナミズムが次第に衰退 するであろう。  私企業の設立はどうなるのだろうか。これに ついても一言の説明もない。私人に起業の自由 や営業の自由を保証するには少なくとも土地市 場を制度化し,土地取引の自由を認めておく必 要がある。土地も公的所有となれば私企業の設 立は官僚によって制限されることになる。市場 メカニズムが有効に機能するためには市場での 自由参入と自由退出を保証する所有方式の制度 化が不可欠である。ローマー説はこの点の考究 を欠いた説得力の乏しい説といわざるをえない。  ローマー説では私企業は一定の規模に到達す ると公有企業に転換されることになっているが, このような制度的強制の中で企業家タイプの人 物が自発的に企業を設立し,イノベーターとし ての役割を発揮するだろうか。これに関して聖心 マーは,アメリカでは企業家経営のベンチャー が頻繁に大企業に売却される事実を挙げて公有 シテムのもとでもアメリカ並の私企業の設立と       ライノベーションは可能である,と考えている。 しかし,資本主義アメリカでは大企業への売却 は企業家の裁量に委ねられている。公的セクター への売却が強制される市場社会主義でアメリカ 並の小私企業の創設率とイノベーションが達成 されるとはとうてい思えない。  ローマー説は一国社会主義論である。対外経 済関係に関する説明のない国民経済中心の閉鎖 的なモデルである。経済のグローバリゼーショ ンやボーダーレス化が進行し,国民経済中心の 経済学のパラダイムの見直しが要請されている 中で一国社会主義論は時代遅れの印象を受ける。 市場社会主義における対外経済関係がどうなる かを説得的に論じない限り,市場社会主義論は 生き残れないだろう。 3。ワイスコフ説  ワイスコフの関心は,社会主義の価値(平等, 民主主義連帯など)と経済効率の両立を可能に するような市場社会主義を構想することにある。 ワイスコフが採った方法は社会主義の価値は所 有権システムで,効率は市場で実現させるとい うものであった。  ワイスコフは所有権を企業マネジメントに対 するコントロール権と企業資産に対する所得権 に区別する。前者は資産の調達・使用および収 益の配分に対するコントロール権であり,後者 は企業資産に対する請求権である。ワイスコフ 説の特徴は,コントロール権を企業の労働者に 与え,所得権を市民に付与するところにある。  コントロール権が労働者に与えられると,労 働者自主管理が可能となる。ワイスコフはこれ を民主的自主管理(democratic self−manage一       う   ment)と呼ぶが,その基本の考えは新マルク ス主義と同様である。 50) Kornai (24) pp.54−55. 51) Roemer [28} pp.97. 52) Weisskopf (34] p.126.

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一14一 滋賀大学経済学部研究年報Vol.1 1994  市民には所得権が与えられ,このことによっ て市民は企業利潤の配分を請求できるようにな る。具体的にはローマー説と同様に市民に同額 の株式が配分される。市民と企業との闘に投資 信託が介在することも画一マー説と同様である。  コーポレート・ガバナンスについていうと, 企業マネジャーのモニタリングは外部からは投 資信託によって,内部では労働者によって行わ れる。所得権しかもたない投資信託は企業への 資本供与の条件を操作することによって企業マ ネジャーに圧力をかける。  ワイスコフ説の概要は以上の通りであるが, その特徴は新マルクス主義の自主管理思想とロー マー流のコーポレート・ガバナンスを接合させ ようとしたところにある。論理的にそれを可能 にしたのは所有権のコントロール権と所得権へ の区別であった。既に指摘したホルバート説お よびローマー説の問題点はそのままワイスコフ 説にもあてはまるが,企業マネジャーのモニタ リングの有効性の点ではローマー説よりも劣る といわねばならない。投資信託に企業活動のコ ントロール権を認めていないからである。  ワイスコフ説は単なる理論モデルではなく, ロシア・中欧・東欧諸国での実現をめざした政 策構想である。ワイスコフは,これらの国々で 自説の実現可能性がある理由として,当該地域 には資本主義のインフラストラクチュアが欠如 していること,平等・安全・安定の価値観が残 存していること,資本主義化に労働者が抵抗し       ていること,を挙げている。たしかに当該諸国 にはこれらの現象があるのは事実だが,しかし 現実動向を見る限り,遅速の差や程度の差はあっ ても,どの国も資本主義への体制転換をめざし ており,ワイスコフ型市場社会主義の出番の可 能性はほとんどないだろう。とりわけEUへ急 速に接近している中欧諸国ではその可能性はゼ         ラ ロに近いといえる。 53) Weisskopf (34) pp.136−137. 54)この点については福田〔10〕,福田〔14〕,福田  〔16〕を参照されたい。 4.ユンカー説  ユンカーが提唱するのは「プラグマティック な市場社会主義」(pragmatic market socialism) である。これは,相続や資産から発生する不労       らの所得を防ぎ,資産所得の分配の平等を実現する と同時に,現存資本主義の市場経済をコピーし        た市場経済によって高効率を達成するような経 済体制である。  不労資産所得の防止のため資産の私有は禁止 され,資本家階級は排除される。経済メカニズ ムの面では資本主義の制度が転用される。たと えば企業間競争,需給による価格決定,ファイ ナソシャル・インセンチィヴ,企業経営システ ム,消費者主権などである。資本主義の制度を そっくり利用しようというのだからプラグマティッ クという形容詞が付けられたのであろう。  大企業は公的に所有される。その目的は,大 企業の資産所得(配当,利子,キャピタルゲイン       など)を国民に平等に分配するところにある。 大企業の所有権は公有庁が保有する。したがっ て公有企業は国有企業ということになる。公有 庁は公有企業に対してプリンシパルの役割を演 じるとともに,公有企業の資産所得の分配機関 としての役割をも演じる。公有庁は公有企業の モニタリングを行い,業績不振のばあいには最 高経営責任者(CEO)の解任を行うが,企業の 経常活動へは介入できず,企業の独立は保証さ れる。公有企業は利潤最大化で行動し,市場で 競争し,業績不振のばあいには破産法の適用を 受ける。  小規模企業および企業家の経営する企業につ いては私有が認められる。その理由としては, 私有によって公有庁の管理負担が軽減されるこ と,私的企業家はダイナミックなパフォーマン スやイノベーションの面で良好な実績をあげう       ること,が挙げられている。企業家経営の企業 55) Yunker (35] p.29, p.68, p.277. 56) Yunker (35] p.29, p.50. 57) Yunker (35) pp.3−4. 58) Yunker (35) p.33.

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が公有企業に転換されることがあるが,それは, ローマー説と違って,企業家の裁量に委ねられ る。  コーポレート・ガバナンスについては資本主 義と同様のものが考えられている。外部モニタ リング・システムとしては破産制度,競争,ファ イナンス市場などが,内部モニタリングとして は取締役会が指摘されている。公有企業に対し てはこれらのほかに公有庁によるモニタリング が加わる。公有庁は国民のエイジェントである が,公有企業のCEOに対してはプリンシパル として行動する。  公有庁は公有企業の資産所得を徴収し,これ を国民に分配する。具体的には,徴収額のうち 最大限5%を運営費として公有庁に残し,残り の95%以上を社会的配当所得(social d・vidend income)という形で国民に分配する。そのさ い就労者については各人の労働所得に応じて, 退職者については年金額に応じてという原則が       適用される。労働所得(賃金,給料)の分配に は貢献原則が適用される。  私的家計は労働所得と社会的配当所得を受け 取る。家計は不労所得の源泉となる金融資金を       の 保有できない。つまり資本市場には参入できな い。それへの参入が認められるのは保険会社や 年金基金などの公的金融機関だけである。私的 家計の預金に対する実質利子率の支払いも禁止 される。銀行や貯蓄組合は預金者に対し利子を 支払うが,その名目利子率は現行の物価上昇率 に等しく設定されるのである。私的家計の所得 に対する課税は廃止され,法人税と付加価値税 が税制の柱となる。  以上がユンカー説の概要であるが,それはも ともと先進資本主義国での実現を意図して設計 されたものである。より正確にいえば,資本主 義アメリカをプラグマティックな市場社会主義       アメリカにすることが意図されている。ユンカー は,このような体制転換はラジカルなものでは なくアメリカの現行の経済制度に公有化と公有 庁を付け加えるだけのことだから容易に実現で きる,と考えている。この意味で自分の提案は 保守的なもの(conservative)であると述べて   う いる。かれはまた,自分の案は資本主義の病の 治療であり,この治療で病状が一層悪化すれば 公有庁の廃止と再私有化を行って資本主義に復        らの 帰すべきであるとも述べている。ユンカーが自 分のモデルをプラグマティックと形容したのも 頷けようというものである。  ユンカー説の問題点は先に指摘したローマー 説のそれと重なり合う。国有企業システムに固 有の官僚支配,企業の設立の問題および国民経 済をベースにした閉鎖モデルがその主なもので ある。中でも官僚支配に対するワイスコフの認 識は楽観的すぎる。ワイスコフは公有化は官僚 的中央計画システムにはつながらないと考えて    う いるが,はたしてそういえるだろうか。国民は 資産所得を禁止されているのだから社会的配当 所得の最大化を望むであろう。ユンカーの想定 する欧米型民主主義の政治システムのもとでは 政府は人気取りのために社会的配当所得の額を 増やそうとするだろう。このため公有庁は企業 からできるだけ多くの資産所得を徴収しようと するだろう。ところが公有庁と企業との間には 情報の非対称性があるので公有庁は企業の資産 所得を正確に把握できない。そこで公有庁は結 局は企業の資産所得のコントロールだけでなく その産出や投入をも統制せざるをえなくなるだ ろう。統制が統制を呼ぶのである。かつてのソ 連や東欧諸国の経験が示すように,公有制では ミーゼスのいう統制波及の法則が貫徹する。  ユンカーはアメリカでプラグマティックな市 場社会主義の実験に失敗するならば資本主義へ 帰ればよいと考えているが,これはずいぶん乱 暴な議論である。アメリカのような大規模国家 59) Yunker (35) p.35, p.277. 60) Yunker (35] p.30. 61) Yunker [35) p.246, p.253. 62) Yunker (35) p.280. 63) Yunker C35) p.278, p.281. 64) Yunker C35] p.3.

(16)

一16一 滋賀大学経済学部研究年報Vol.1 1994 での体制転換のコストは計り知れないほど大き い。中欧の小規模国家で現在進行中の私有化政 策でさえ難航していることを思えばなおさらで ある。大企業を公有化して効果がなければもう 一度私有化すればよいというのはプラグマティ ズムなどではなく,コストを無視した暴論であ る。

V おわりに

 市場社会主義論者は社会主義的価値と経済効 率の同時実現をめざしてきた。そのさい社会主 義的価値は所有の問題として,経済効率は資源 配分の問題として捉えられた。本稿で取り上げ た新マルクス主義者も分析的マルクス主義者も このような伝統的な考えを踏襲していることは 前述の通りである。筆者はかねてよりこのよう な考えの背後にある立論方法に問題があること        を指摘してきた。市場社会主義論者の立論方法 は組み立て主義である。かれらは,所有方式と 資源配分方式をワンセットの形で考察するので はなく,両者を別’々に扱い,しかるのちにそれ ぞれの結果を組み合わせるという方法を採って きた。まず社会主義的価値(平等,連帯,民主主 義など)はもっぱら所有方式の問題として扱わ れ,最適の方式として公的所有が選択される。 ついで効率は資源配分の問題として扱われ,最 適の方式として市場経済が選び出される。そう して最後に,公的所有と市場経済が機械的に結 合されて市場社会主義が組み立てられるのであ る。  ユーゴスラヴィアとハンガリーにおける市場 社会主義の失敗は,結局は両国のデザイナーが このような組み立て主義の方法に依拠していた ことに起因する,というのが筆者の年来の主張 である。両国の経験は公的所有と市場経済は両 立しえず,前者は後者のブレーキとなることを 教えている。1968年から国有システムを堅持し 65)福田〔11〕,福田〔12〕,福田〔15〕,福田〔17〕 たままで市場経済の制度化を開始したハンガリー が,1980年代になると,市場経済の機能改善の ために私的セクターを拡大せざるをえなくなっ たことがこのことを雄弁に物語っている。市場 経済は私的所有を呼ぶのである。  組み立て主義の方法に対して早くから非を唱 えてきたのは新自由主義者であった。新オース トリア学派のミーゼスやハイエク(F.A.v.Hayek) およびフライブルク学派のオイケン(W.Eucken) らは,すでに50年以上も前に,経済体制の構成 諸要素は相互に依存しあっており,それらをラ ンダムに組み合わせることはできないと主張し た。最近ではかって市場社会主義を擁護してい たハンガリーのコルナイでさえも,ユーゴスラ ヴィアおよびハンガリーでの経験を踏まえて, 社会有と市場との間および国有と市場との問に は弱い結合(weak 1inkage)しか成立しなかっ たために市場社会主義の実験は挫折した,と述    さの べている。旧ソ連・東欧諸国の経済体制の動向 を冷静に観察してきた者なら誰しも新自由主義 者やコルナイの説に同調せざるをえないであろ う。筆者もそのうちの一人であり,市場社会主 義の失敗の根本の原因は公的所有と市場経済を 組み合わせたところにあったということを繰り         の 返し指摘してきた。  本稿で検討した新マルクス主義および分析的 マルクス主義の市場社会主義論では,公有企業 が支配的な所有形式であって,私企業は例外的 に認められているにすぎない。20世紀における 各種経済体制の実験は,法律によって公有企業 を強制すると一ユーゴスラヴィアやハンガリー がそうだが一,市場経済は有効に機能しない ということを示している。資本主義では特定の 所有形式を法律によって強制しなかったために さまざまの所有形式が制度化されたが,結果的 66) Kornai (22) pp.44−47, Kornai (23) p.574.  コルナイ説については福田〔13〕をも参照された  い。 67)福田〔10〕,福田〔11〕,福田〔12〕,福田〔14〕

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