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創立60周年に寄せて 「創立60周年に寄せて : 教育学部は教育者としての学びの原点」

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Academic year: 2021

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19 18 英語研究室での英語劇(本人は一番右) ESS部活動 ミシガンからの来客と一緒  このたび滋賀大学が創立60周年を迎えられましたこと を心からお慶び申し上げますとともに、今まで大学の充実 発展に努めてこられました歴代の学長様はじめ役員の 方々並びに教員の皆様のご尽力に対しまして、深く敬意 を表するところでございます。  私は、昭和41年4月から昭和45年3月まで滋賀大学 教育学部中学校教員養成課程英語研究室で学ばせて いただきました。また、現職教員で昭和63年度には教育 学部教育専攻科で1年間学校現場を離れて研修の機会 を与えられました。それぞれに教育に関わる貴重な学び をさせていただいたと思っております。  まず大学時代ですが、平津の学舎で一般教養のほかに 教育学、教育哲学、教育心理学、児童心理学、青年心理学 等々教育に関わる専門内容を多く受講したことが、教員 としての資質基盤形成に大いに役立ったと考えています。 当時はそのような重要性に気づいておりませんでした が、何十年と教育に携わってきてから認識いたしました。 英語研究室では、教科教育、英米文学、言語学、英文法、 英会話、英語史等学びましたが、何といっても自主的な 活動として英語研究室の機関誌ペガサスの発行や英語 劇の上演が毎年の恒例となっていて、私たち学生の関心 事でした。セリフの暗記や準備に忙しく、また人間関係も 深まりました。更に当時英会話に興味のある学生達で 初めてESSを組織し、実用的な生きた英語の練習に励み、 英会話練習や、リスニング練習、英語弁論大会等を行う ことに意欲的だったことをよく覚えています。このことが 基礎となって、英語の教師として、生徒にコミュニカテイブ な英語能力の育成を心がけるようになりました。コミュニ ケーション能力の育成が重視されるようになった少し前 の頃でした。当時大学紛争の嵐で少し影響を受けました が無事に卒業することができました。  次に滋賀大学専攻科で学ばせていただいた頃のこと です。当時は1年間でしたが、学校現場を離れて教育に ついて考える機会を与えられたことは、外から学校教育 を考え、それまでの実践を見直し、以後の教育実践を改善 するための貴重な体験となりました。教育行政学や、教育 哲学、生涯学習、教育心理学等学生時の学びより、一層 実感が伴う学びとなりました。私のここでの論文は、村田昇 先生のご指導により「青年前期における道徳性の育成に ついて」でした。書籍を読むことができたことは勿論現職 教員ばかりの集まりで、お互いに情報交換をしあって大変 有意義な1年間でした。貴重な充電期間となりました。  38年間教職生活を送り、今また教育に関わる職に就かせ ていただいておりますが、その基礎はやはり滋賀大学 教育学部で培ったということを今改めて認識しております。  今後も滋賀大学教育学部の教員養成学部としての 発展と、地域教育支援の推進により、学校現場の教育が 一層充実することを念願しております。 竜王町教育委員会 教育長 

岡谷 ふさ子

ことに意欲的だったことをよく覚えています。このことが 基礎となって、英語の教師として、生徒にコミュニカテイブ な英語能力の育成を心がけるようになりました。コミュニ ケーション能力の育成が重視されるようになった少し前

創立60周年に寄せて

∼教育学部は教育者としての学びの原点∼

 後発資本主義国であった明治大正時代に起因した昭和の金融恐 慌(1927)に続いてアメリカ発の世界恐慌(1929∼)に捲き込まれ、 片や大植民地を擁する英仏などのブロック経済政策に阻まれて、已 むなく日本は近隣アジアに市場拡大を図ろうとして先進国利害と衝 突し始めたが、企業人育成を国家目的とする彦根高商からは既に 1926年以来先輩方が次々と実業の世界に巣立って行かれた。  その時期、東京の三井物産は人造絹糸製造に着目し、東洋レーヨ ン(現・東レ)を設立、主力工場を水が豊富で、半農の安定した労働力 を確保出来る湖南の石山に建設した。  東海道五十三次の松並木が残る石山の町は当然に人口増加が進 み、また工場背後の丘陵地には整然たる計画を以って大規模な社宅 街が作られ、社長も助産婦も駐在巡査も其処に住み、膳所の御殿浜 からは湖水を引いて自前の上水道濾過池や水力発電装置を設置、放 射線科・伝染病隔離病棟を持つ総合病院をも開設した。併行して大津 市は工場の近くに新たに市立晴嵐尋常小学校を開校、1,000人の児 童が地元と社宅から通学したが、私の初等教育は此処から始まった。  この新設小学校に赴任して来られた滋賀師範出身の新進気鋭・意 気軒昂の先生方は素晴らしかった。全人格をまともにぶっつけて児童 を鍛え、躾けた本当の師範であった。  先年100歳を超えて他界した母も死ぬ間際までこの先生方への尊 崇の念を繰り返し語っていたが、小学校の授業参観・行事参加を通じ て受けた往時の児童教育現場の感銘は明治生れの女にとって生涯不 滅であったに違いない。  次いで、中等教育は膳所藩の藩校・遵義堂を継ぐ旧制膳所中学で あったが、戦局甚だ不芳、前記の工場への学徒動員、レーヨン製造な らぬ魚雷の組立て現場を確実に狙っての一発だけの爆弾投下が多 数の工員を殺傷、深夜の西方の空は大阪炎上で赤く染まり、昼間は名 古屋重工業地帯空爆に向かう爆撃機編隊が吐き出す白線の飛行雲 と空襲警報、そして敗戦。斯様な中学生5年間は1947年実施の新教 育制度への移行期を迎え、追い立てられる様にして卒業、漸く、緑陰 豊かな彦根に辿り着いた。  湖北の誇り高き井伊藩城下町は工場独特の匂い漂う石山とは空気 も家並みも全て異なるものであった。大津は京都疎水の取水口、何と なく都に従属の感があったのに対し、彦根は歴とした独立の城下町。 石山から東海道線上り列車で通学すると、冬季は近江八幡か安土辺 り上空の北半分は重々しい雲、南半分は青空と区切られ、これが太平 洋気候と日本海気候の境目かとも思った。  1年経って、小学校恩師の母校、滋賀師範と合同して国立大学に移 行した。  処で、この大学4年間、両学部の相互交流は経験したことがない。し かも、当初2年間の教養課程で選択必須に生物学があったのには尠 なからず違和感を覚えた。4年生になって都市銀行採用の内定があっ てから慌てて生物を履修、結果は勿論唯一の『可』であった。大学教育 はゼミ・研究実験・論文等を核として教授直々のご指導を受け高度の 知識・思考判断力を自ら努力して培う場であるものと、今でも思ってい るが、3年生でゼミが開始される迄の教室はそうではなかった。  ゼミ論文は裏付けの資料を採用内定銀行の先任行員を通じて取 材したが、入行後もその人達との関係は永く続き、それが職場での 自己啓発に繋がった。

1期生の初等・中等・大学教育時代

経済学部第1期(1953年)卒業生 

井上 輝重

昭和27年度の授業料等の納入告知 校舎全景  経専1年間を含む通算5年間は1953年旧制国立大学最終の卒業と 同じ時に終了するが、その間、占領軍GHQ主導で諸制度の変更が進み、 1ドル360円固定為替相場を決定して民間貿易を再開した。近隣は大韓 民国と朝鮮民主々義人民共和国、中華人民共和国が成立、台湾への国 民党政府移転、東南アジア諸国は続々と独立した。欧州ではベルリン封 鎖、東西ドイツが夫々成立、アイルランド共和国独立、NATO成立、EUの 母体となるECSC誕生に続いての欧州復興マーシャルプランが終了、中 東ではイスラエル建国に続く中東戦争が勃発、イランの石油国有化、ス エズ運河を英国が封鎖、エジプト共和国成立と続くが、その後60年間の 経過があっても今尚、紛糾を繰り返す構造は全世界に多々残っている。  然るに当時この平穏な城下町に居た学生にはそれらをテーマとして 議論した記憶が薄い。すべては卒業後働き始めてから勉強し直した。  初期の新制大学では通信情報手段脆弱、外国語は未熟、海外渡航 は制約多くて殆ど不可能であったが、60年経った今日の大学は外国 の大学との交流、内外企業インターン研修、産官学共同研究開発など 色々出来る時代に在り、活躍を大いに期待している。 Anniversary 創 立 特 集 周 年 に 寄 せ て

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