ボルネオ島ダナムバレー森林保護地域における
野生オランウータン調査地
金森朝子・久世濃子 東京工業大学生命理工学研究科 オランウータンの生息数の減少 オランウータンは,ボルネオ島とスマトラ 島にのみ生息しているが,その数は年々減少 を続けている。1960 年代には二島で合計 10 万 頭以上が生息していたと言われているが,現 在の生息数は 63,500 頭(スマトラ島に約 7,500 頭,ボルネオ島に約 56,000 頭)と推定されて いる(IUCN PHVA 2004)。 オランウータンの減少を引き起こしている 主な要因は,生息地である熱帯雨林の破壊で ある。合法的な商業伐採や自然保護区内で行 われている違法伐採,大規模アブラヤシ農園 の開発,居住地や農地としての開墾事業など による破壊に加え,1980 年代から多発してい る森林火災によっても広大な熱帯雨林が焼失 している(熱帯林行動ネットワーク,2001)。 森林火災が増加したのは,過度な伐採やエル ニーニョなどの異常気象による熱帯雨林の乾 燥化,農園や人工林を作るための人為的な火 入れなどによって火災が起きやすくなってい るためだと言われている(Shimizu, 2002)。そ の他の要因としては,ペットにすることを目 的とした密猟・密輸などがあり,特にインド ネシアでは今も盛んに行われている(Nijman, 2005)。 オランウータン調査地の現状 チンパンジー,ボノボ,ゴリラなど他の大 型類人猿と比較すると,野生オランウータン の研究は遅れている。その主な理由としては, オランウータンは発見が難しく,他の大型類 人猿のように数 m の距離まで接近して行動の 詳細を観察することが難しいことが挙げられ る。オランウータンは他の大型類人猿と違っ て単独性が強く,通常は単独もしくは母子で 行動している。さらに,ほぼ完全な樹上生活 者であるため,高さ 20 ~ 60 m の樹上で生活し, 地面に降りて来ることはほとんどないからで ある。また現在,多くの野生オランウータン 調査地が政情不安などによって,研究の継続 が困難になっていることも研究の遅れの理由 の一つとなっている。 こ れ ま で, 野 生 オ ラ ン ウ ー タ ン の 長 期 調 査 は 主 に イ ン ド ネ シ ア の 5 ヶ 所 の 調 査 地 で 行 わ れ て き た。 し か し 現 在, イ ン ド ネ シ ア の 調 査 地 は い ず れ も 多 く の 問 題 を 抱 え て い る。 た と え ば ボ ル ネ オ 島 に あ る 3 ヶ 所 の 調 査 地,Tanjung Putting(Galdikas, 1971), Gunung Palung(Knott, 1998), Mentoko/Kutai (Rodman,1973; Suzuki, 1989)では,盗伐や森 林火災から調査地を守るべく保全活動を行っ 2005 年 12 月 30 日受付,2006 年 3 月 23 日受理 e-mail: [email protected] 51 情報 ・ 話題て い る(Tanjung Putting:http://www.orangutan. org/, Gunung Palung:http://www.fas.harvard. edu/~gporang/index.html, Kutai:http://orangutan. ld.infoseek.co.jp/)。スマトラ島北部のオラン ウータン生息地では, 反政府運動の影響で外 国人の入境が厳しく規制されている。そのた め,Ketambe(Rijksen et. al, 1971)では,地元 民のアシスタントだけがオランウータンの追 跡を行っている。さらに,Suaq Balimbing(van Schaik,1999)は軍の作戦地域になったため, 現在は閉鎖されている(2005 年 7 月現在, van Schaik 博士より私信)。 このような状況の中,政情が安定し良好な 一次林が保全されている地域に,長期の野生 オランウータン研究が可能な,新たな調査地 を設定することは非常に重要であると考えた。 予備調査の結果,ボルネオ島マレーシア領サ バ州は,政情が安定しており,環境保全に対 する意識も高いため,良好な森林が残されて おり,野生生物の調査地としては有望な場所 であることが明らかになった。 サ バ 州 で の 野 生 オ ラ ン ウ ー タ ン 研 究 は, 1960 年 代 後 半 にMackinnon(1974) が Ulu Segama で,1970 年代に Horr(1972, 1975)が Lokan でそれぞれ調査して以来,しばらく途 絶えていた。しかし近年,NGO「HUTAN」の Ancrenaz 博士夫妻が Sukau 村にオランウータ ン調査基地を開設し,Kinabatangan 川沿いの 二次林に生息する個体群を対象とした研究で, 成 果 を あ げ つ つ あ る(Ancrenaz et al., 2004a; Ancrenaz et al., 2004b; Goossens et al., 2004; 2005; van Schaik et al. 2004)。Ancrenaz 博 士 夫 妻は,二次林に生息するオランウータンの生 態や行動は,一次林と異なることを報告して いる。例えばSukau のオランウータンは,休 息の時間が長く,食物に占める果実の割合が 小さい(Ancrenaz, 1999)。 そこで我々は,オランウータンの本来の生 息環境である一次林が多く残されているダナ ムバレーに新しい調査地を設定し,研究を開 始することにした。本研究が軌道にのれば, 野生オランウータンの調査地としてはサバ州 では 2 つ目,一次林での野生オランウータン 研究としては,唯一の調査地になる。 ダナムバレー森林保護地域の歴史と現状 サバ州北東部に位置するダナムバレーは州 第 4 の都市Lahad Datu から西へ約 82km,車で 2 時間の場所にある(北緯 5 度 12 分東経 117 度 44 分)。ダナムバレー森林保護地域(Danum Valley Conservation Area)は,Segama 川源流域 に広がる面積 438.0km2の低地混交フタバガキ
林である(図 1)。
サバ州には現在 13,000 頭のオランウータン が生息するが,そのうちダナムバレーには 657 頭(州全体の 5%)が生息すると推定されて いる (Proceeding of the international workshop on Orangutan in Sabah,2003)。サバ州のオランウー タンの調査と保護の現状については久世によ る詳しい報告がある(久世, 2004)。
ダナムバレーの年平均気温は 28 度,年間平 均降水量は 2,825 mm である(Royal Society SE Asia Rainforest Research Program 提供データよ り)。明確な乾季と雨季はないが,降水量は 4 月~ 10 月に少なく,11 月~ 3 月に比較的多い。 ダナムバレーでは,125 種の哺乳類が記録 されている(安間, 2002)。大型哺乳類ではボ ルネオゾウ(Elephas maximus borneensis),マ
レーグマ(Helarctos malayanus),霊長類では オ ラ ン ウ ー タ ン(Pongo pygmaeus), ミ ュ ー ラーテナガザル(Hylobates muelleri),クリイ ロ リ ー フ モ ン キ ー(Presbytis rubicunda), ブ タオザル(Macaca nemestrina),カニクイザル (Macaca fascicularis),スローロリス(Nycticebus coucang),ニシメガネザル(Tarsius bancanus), その他オオマメジカ(Tragulus napu),ヒゲイ ノシシ(Sus barbatus),ジャコウネコ(Viverra tangalunga)なども頻繁に見られる。さらに, 鳥類 275 種,爬虫類 72 種,両生類 56 種,魚 類 37 種が記録されている(安間, 2002)。 サバ州では,州政府の下部組織である州立 公園局や野生生物局,森林局が州立公園や野 生生物保全区,森林保護区などを管理してい る。しかしダナムバレーは,サバ財団(Yayasan Sabah; http://www.ysnet.org.my/) と い う 第 三 セクターが管理している。サバ財団は州南西 部の約 98 万ha の森林の伐採権を持ち,伐採 で得た収益をもとに教育や社会資本の整備を 行っている。ダナムバレーは当初,伐採予定 地に含まれていたが,1963 年から学術研究・ 環境教育・観光を目的として保護されること に な っ た。 こ れ はLondon Royal Society が 財 団に対して「生物多様性と生態系の継続研究 のために,原生林の保存が必要」という提言 を行い,これを受けて財団が伐採計画を変更 したことによる。現在,サバ財団は伐採事業 だけでなく, マリアウベイスン(http://www. ysnet.org.my/Maliau/public/maliau/arial.html) な どダナムバレー以外の自然保護地域も管理運 営し,エコツーリズムや学術研究の支援も行っ ている。 1986 年には, サバ財団,サバ州森林局,州 立サバ大学, London Royal Society が共同で運 営 す る 研 究 者 用 宿 泊 施 設Danum Valley Field Center(以下 DVFC) が保護地域内に開設され た。ここには,実験室,図書室,衛星による インターネット接続,調査路,観察用タワー などが完備されており,現地スタッフによる 調査アシスタント,フェノロジー調査など充 実した研究支援を受けることもできる(http:// danum.swan.ac.uk/)。 その後 1995 年にサバ財団の事業の一環と し て, 観 光 客 用 宿 泊 施 設Borneo Rainforest Lodge (http://www.borneorainforestlodge.com/) が開業された。宿泊客には必ずガイドが付き 添い,ガイドと共に一日 4 回,ロッジ周辺で 野生動植物を観察する,というエコツアーが 行われている。 ダナムバレーで調査研究許可を申請する場 合には,Research Permission Section, Economic Planning Unit(EPU;連邦政府経済企画庁調査 研究許可課 http://www.epu.jpm.my/)で調査許 可書の取得手続きを取ると同時に, サバ財団 に別途調査許可を申請しなければならない。
Borneo Rainforest Lodge 周辺における調査 我々の調査地は,保護地域の境界線付近に あ るBorneo Rainforest Lodge( 以 下 BRL) と いう観光用ロッジの周辺 2 km2である。この 地域では,サバがイギリス統治下にあった 60 年ほど前に,先住民が全てLahad Datu の町近 くに強制移住させられたため,現在もBRL の 従業員およびその家族以外には住民はいない。 したがって,森林伐採や密猟などはほとんど 行われていない。また,BRL 周辺で見かける オランウータンは比較的人慣れしており,調 査当初から直接観察が可能だったが,これは おそらく観光客の存在によるものと考えられ る。 そもそもBRL 周辺は観光用地とみなされて おり,学術研究は原則的にはDVFC 周辺で行 うことになっていた。しかし我々はDVFC と BRL でのオランウータンの目撃頻度やネスト (巣)の分布状況から,BRL の方がオランウー タンの観察がより容易であり,調査地として 適していると判断した。そこで保護地域代表 者と交渉した結果,調査を行うことが特別に 許可された。また,研究者とアシスタントの 宿泊用にBRL の社員寮の二部屋を利用させて
もらえることになった。 この調査地周辺では, BRL 建設前の 1991 年 ~ 1994 年にGhaffar 氏がオランウータンの調 査を行っている(Ghaffar, 1994)。Ghaffar 氏に よる 3 年間の調査では,探索日数合計 512 日 間中,平均遭遇頻度は 0.10 回/日(10 日に一度, 0.46 ~ 0 回/日)であった。この報告書には, オランウータンの採食品目やネスト(巣)セ ンサスの結果などの情報が記載されているが, 識別個体の頭数や詳細な行動に関する記録は ない。 我 々 は 2005 年 末 ま で に 3 回( 計 約 11 ヶ 月),この調査地で野生オランウータンの調査 を行ってきた。調査では,まずBRL 周辺でオ ランウータンを探索し,発見したオランウー タンを早朝から夕方までできる限り追跡しな がら,直接観察による行動の記録及び全地球 測位システム(GPS)を用いた利用場所,移 動ルートの記録などを行っている。またオラ ンウータンが採食した植物は,採食部位(果 実,樹皮など),採食樹の胸高直径(DBH)や 樹高等を記録する他,サンプルを持ち帰り, DVFC に依頼して種名を同定している。その 他,調査地内の果実生産量を把握するために, 全調査路を歩いて地面に落ちている果実を収 集・記録する落下果実センサス調査(Furuichi et al., 2001a)を毎月行っている。また,オラ ンウータンの生息数を把握するために,ネス トセンサスによる個体群密度調査(Furuichi et al., 2001b)も毎月行っている。 これまでの調査で,オランウータンを計 28 頭識別した。その構成は,成熟オス 10 頭(フ ランジ・オス 3 頭, アンフランジ・オス 7 頭), 青年オス 2 頭,成熟メスと乳児 12 頭/ 6 組, 青 年 メ ス 2 頭,コドモ 2 頭である。フラン ジ・オスとは二次性徴である顔ヒダが発達し た優位なオス,アンフランジ・オスとは顔ヒ ダの発達が抑制された劣位オスである(Kuze, 2005)。これまでの調査では毎月のように新し い個体が見つかっているので,今後も識別個 体数は増加すると思われる。平均遭遇頻度は 0.45 回/日(2 日に一度)であり,Ghaffar 氏 の調査時に比べて 4 倍以上の高い頻度でオラ ンウータンを発見できている。表 1 に本調査 地と他の調査地の面積,調査期間,識別個体数, 定住個体数と非定住個体数を示した。この表 から調査地の面積や調査期間の違いを考慮す ると,本調査地のオランウータンの生息数は, かなり多いと考えられる。 本調査地で生息密度が高い要因はまだ不明 表1 各調査地による比較
で あ る が, 可 能 性 の 一 つ と し て は, オ ラ ン ウータンの主な食物である果実が多いことが 考えられる。現在まだデータを収集中である が,少なくとも果実はBRL 調査地周辺の方が DVFC 周辺より多いようである。これまでの 調査で,オランウータンの採食品目はすでに 424 サ ン プ ル(39 科 59 属 100 種,64 サ ン プ ルは同定不能)を収集した。これまでに報告 されている調査地 12 ヶ所の採食品目(107 科 316 属 831 種)と比較すると,BRL で採集さ れたサンプルの 25%(5 科 8 属 51 種)が新品 目(他の調査地から報告のないもの)であっ た。特に最も顕著なのは果実で,29 種が新品 目であった。果実量とオランウータンの生息 密度や分布様式との関係に関しては,今後さ らに定量的な分析をする予定である。その他 の要因としては,BRL 周辺や林道沿いにはパ イオニア植物がたくさん生えているため,そ れを食べにオランウータンが集まっているこ とも考えられる。さらに,この調査地の北東 20 km2付近で商業的な伐採が行われていたの で,そこから多くの個体が調査地周辺に逃げ 込んできている可能性も検討する必要がある。 サバ州では農地開発などで生息地を追われた オランウータンを,保護区に移送する事業が 行われているため(久世, 2004),当初その影 響も考慮すべきかと考えたが,これまでのと ころ,他の場所から移送されたオランウータ ンがダナムバレーで放されたという記録は無 かった。 野生オランウータン調査地としての有望性 本調査地では,オランウータンは比較的人 慣れしており,平均遭遇頻度も高く,直接観 察を長期間行うことができる。したがって, 行動や採食に関する精度の高い定量的なデー タを収集することが可能である。また本調査 地の調査結果を,環境条件の異なる他の調査 地の結果と比較することによって,オランウー タンの生態や社会行動に関して,新たな知見 が得られるものと考えている。たとえば,ス マトラではボルネオに比べてオランウータン の生息密度が高く,平均パーティーサイズも 大きいことが報告されており,その違いの主 な原因は,スマトラの方が,食物資源が豊か なことであると言われている。(Delgado & van Schaik, 2000)。本調査地は北ボルネオに位置し ているにも関わらず,調査地の面積に対する 識別個体数が多いという点がスマトラと類似 している(表 1)。ところが現在までの観察に よると,平均パーティーサイズはスマトラほ ど大きくないようである。このような違いを 手がかりにして,彼らの生態や行動を明らか にしてゆきたい。 また本調査地には,オランウータン以外の 霊長類(ミューラーテナガザル,クリイロリー フモンキー,ブタオザル,カニクイザル)も 豊富で,オランウータン同様非常に人慣れし ている。将来的にはそれぞれの種の一次林で の生態を詳しく調べることや,大型類人猿も 含めた霊長類の種間関係の調査なども研究 テーマに取り入れていきたいと考えている。 謝 辞 本研究は日本学術振興会先端研究拠点事 業JSPS-HOPE による助成を受けました。以 下の方々に深く感謝を申し上げます。京都大 学霊長類研究所の松沢哲郎教授には,多大な ご 支 援 を 頂 き ま し た。 東 京 工 業 大 学 の 幸 島 司郎助教授には適切な指導と助言を頂きまし た。マレーシア・サバ州野生生物局(Wildlife Department)の Titol Peter Malim 氏,サバ大学 (Universiti Malaysia Sabah)の Henry Bernard 博 士他,多くの関係者の方々に多大なご支援と 協力を頂きました。
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