と記憶
著者 生駒 佳也
雑誌名 社会科学
巻 46
号 2
ページ 31‑44
発行年 2016‑08‑25
権利 同志社大学人文科学研究所
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000014622
《研究ノート》
「開拓」と「移民」の空間
─ 童仙房における記録と記憶 ─
生 駒 佳 也
童仙房は京都府南山城村の高原に位置し,幕臣の多かった京都市中の事情により,成 立したばかりの明治政府によって,士族授産のために最も早期に設定された開拓村で ある。京都南部における中心地として企図された村は,明治末までには入植者の約 7 割が離村することにつながり,従来の研究においては開拓の「失敗」事例として位置 づけられてきた。しかし,同地区は,戦後においても,第二次入植,第三次入植を繰 り返し,隣接する村々とは対照的な個性を形成してきた。本稿では,戦中から戦後に かけて童仙房に移住した三家族の軌跡を辿り,近代開拓村が,帝国日本の解体と,戦 後日本の政策を受容してきた重層的な空間となった姿を紹介する。
1 はじめに
京都府南山城村童仙房地区は,京都府最南端の高原にあり,三重県,奈良県,滋賀県 にも隣接する近代開拓村である。現在人口約 200 人の小さな集落であるにも関わらず,開 拓の歴史をもつことから,多くの注目を集めてきた。同地区は,既に 1920 年代から研究 の対象となるが,戦前においては黒正厳「京都府下童仙房の開拓」に代表されるように,
開拓事業としての成否を問う経済史的観点が中心となったことが特徴である。戦後に出 された織田武雄・谷岡武雄の論考もこの延長にあり,開拓帰農を敗戦後の日本に投影し ようとしている1)。これらは黒正が「最初の意図とは異なり大なる成果を収め得たとはい へない」,織田・谷岡が「如何に衰退するにいたったかを考察した」と開拓村としての失 敗と位置付けていることに共通点がみられる。また,1970 年代に行われた京都府立大学 が中心となった研究では,「過疎」の代表として童仙房を見ようとしていた。これは,過 疎を「社会病理」としてとらえ,その処方箋を導き出そうとする極めて現実的な視点を もっていた2)。
ここでは,このような「失敗」「病理」の事例としてではなく,今まで,ふれられてこ
なかった戦後開拓者家族の記憶をもとに,童仙房地区の来歴をときおこし,重層的に移 住者を受け入れてきた空間の事例として紹介したい。
2 童仙房の成立と変遷
2.1 童仙房の起源
童仙房には,地区名にも通じる「道宣」などの 20 の小字が存在する。しかし,一般的には一番から九 番までの番号が通称地名として使われており,これ らはその地域が開拓された順番,また京都の方角か らの順番とも言われ,村の入植の歴史を現している。
この地の開拓は,幕府と新政府が戦っている戊辰 戦争の最中 1868(明治元)年,京都の商人が,誕生 したばかりの京都府(京都市中と北山城を中心とし た領域)に対し,請願書を提出したことに始まった。
これは「無住の地」であった「堂仙坊山」を「国益」
のために開墾するとの計画であった。童仙房域は藤堂藩,柳生藩,禁裏御料に接し,周 辺の村落,近世諸権力の緩衝地として長い間「無住」の空間だった。
しかし,この請願を京都府は受け付けず,翌年,府直営事業として開拓を行うことを 表明する。当初開拓を担ったのは黒鍬とよばれた日雇の工夫であった。やがて 1869(明 治 2)から翌年にかけて 141 戸が入植し,各戸に田 4 反,畑 8 反,山林 2 町が分配,さら に 1872(明治 5)年には綴喜・相楽二郡の支庁が置かれ,京都府南部の中心地として村 づくりが行われた。しかし,その 7 年後には,「通行の便」などから早くも支庁は木津に 移転し,入植者の約 7 割が離村することにつながった。1911(明治 44)年時点では,残っ た農家 47 戸中,自作 17 戸・自小作 10 戸・小作 20 戸と,均等分配から始まった村は,短 期間のうちに激しい階層分化を生じていた。大規模に土地を集積したのは奈良県を含め た村外の地主であった。
全国でも最も早期に計画された童仙房開拓は,特に幕臣の多かった京都の事情による。
江戸・京都合わせて約 2 万人といわれた幕臣とその家来に対し,「江戸窮民」に対しては 小金原と佐倉(共に旧幕府の放牧地)が用意された。しかし,童仙房では士族募集に応 じる者も少なく,また,華族に対して茶園開拓への資本を求めたが,投資はすぐに引き
表 1 童仙房の通称・小字・組
通称 小字名 組
一番 一本松,稲千穂
1 二番 長野,小金原
三番 大岩,参会石 四番 道宣 2
五番 永谷,三郷田,蛭池 3
六番 長谷,東長谷 4
七番 小玉,葭屋 5
八番 手洗,簀子橋 九番 牛場 6
出典:前野雅彦(2006)より引用。
上げられている。
京都,千葉の他,福島,北海道などが後続の開拓地となったが,士族授産のもうひと つの目的は基幹産業である農業の停滞と無産士族がもたらす社会不安の除去にあった。
政策の推進者であった大久保利通暗殺後,計画は縮小され,資金回収だけでなく開墾実 績からも「失敗」とこの政策は位置付けられてきたが,民権運動から政治的主導力をも つ士族を遠ざける役割を果たし,歳出抑制の松方財政下において各地で殖産事業を展開 する手段ともなった3)。これらのことから,明治初期の開拓政策は,社会構造の変化に伴 う人口移動を補完する役割を果たしたと考えられる。この意味で,童仙房開拓は,町人 請負の形をとらせることなく,「官」が主導する必要があったといえよう。
2.2 開拓百年
1969(昭和 44)年,童仙房は開拓百年を 337 人 69 戸で迎えることになった。この中で,
明治当初に入植した家族の子孫は分家も含めて 42 戸にあたる。これを期に童仙房開拓農 業協同組合は解散した。「いつまでも,開拓の村という意識を持っては遅れてしまう」と の理由であった。この時,最初に小学校が設置された泥䈥寺に全家族が集まり,開拓の 苦労をしのび合い「村中総泣きという光景」になったという。しかし,周辺村落との差 が少なくなったこの時点でも,一世帯あたりの平均田地所有面積は,村内各地区の最下 位であり,隣接する野殿の半分にも満たなかった。
このことが示すように開拓百年の歴史は文字 通り苦難の歴史であった。京都南部の中心地と して計画された理想的開拓村は,わずか 7 年で 支庁をはじめ主な公共機関が移転し,多くの 人々は山を下り,残された住民は零細な農業で どうにか生計をたててきた。やがて,農業を補 完し,昭和に入るとやがてこれをも凌駕して いったのは木炭であった。大河原炭は京都市内 でも良炭として高値で取引され,その多くが童 仙房から搬出された。戦争中の 1943(昭和 18)
年には隣接する高山村で亜炭層が発見され,大 河原駅が拡張,道路が整備される中,人口は急 増し,戦争末期には疎開人口も加わった。
写真 1 開拓百年記念碑
(筆者撮影)
こうして戦後を迎えることになる。燃料のない時代の木炭景気によって,既に 20 数年 前に野殿まで引かれていた電灯がやっと童仙房にも届くようになった。しかし,この地 はさらに入植の歴史を引き継ぐことを要請される。童仙房にとって「第二次入植」にあ たる開拓は,敗戦後すぐに始まった。
2.3 戦後の開拓
童仙房への戦後入植は高度経済成長期の 1959(昭和 34)年まで続いた。このうち 1955
(昭和 30)年からは「新農山漁村建設選定村」に指定され「第三次入植」者を迎えたが,
記録からは 25 年間の入植者 44 戸に対し,離農者は 24 戸と明治期同様,多くの入植者が 童仙房を離れていったことが判明する。この間,京都府全体の離農率との差が童仙房開 拓の厳しさを物語っている(表 2 参照)。
第二次入植は 1945(昭和 20)年 11 月に決定された「緊急開拓事業実施要綱」に基づ いていた。この政策は,「終戦後の食糧事情及び復員に伴う新農村建設の要請に即応し,
大規模なる理想,干拓及び土地改良事業を実施し以て食糧の自給化を図ると共に離職せ る工員,軍人その他の者の帰農を促進」するために 5 ヵ年間で「155 万町歩の開墾と 10 万町歩の干拓」「100 万戸の帰農者の入植」を行うことを謳っていた。さらに受け皿とし て各地で開拓帰農組合が作られ,やがてこれが開拓農協となった。しかし,この「緊急 開拓」は,あまりにも壮大で離農者を続出させた。このため 1947(昭和 22)年 10 月,「34 万 6 千戸の入植実施」に縮小された「開拓事業要綱」が出されることとなった。
より具体的には,京都府下では代行開墾事業(国が行うものを府が代行)と,市町村 主体の開拓事業,また開拓農業協同組合実施の事業,さらには失業対策事業などにより 開拓が進められた。中心となる代行開墾事業は 18 地区が指定され,童仙房はその中の一 つに数えられる4)。この中で戦後の入植者の約半数が農業者であったが,ついで約 1/4 が 引揚者,さらに旧軍人,戦災者が多いことも目立っている。このことからも分かるよう に,戦後の開拓は帝国日本の解体と密接につながっていた。
表 2 京都府・童仙房における年次別入植・離農者数(( )内数字は昭和 35 〜 45 年の間)
(昭和) 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 計 離農率 入植戸数(京都府)
〃 (童仙房)
135 5
160 2
62 17
61 5
39 5
23 4
26 1
17 1
5
− 19
1 4 1
− 2
4
− 10
− 17
1 5
− 587
44 離農戸数(京都府)
〃 (童仙房)
48
− 87
5 12
1 18
2 7
− 8 4
1 1
− 2
1 1
1
− 1 2
−
−
−
−
−
− 1 1
−
(5)
185 24
31.5%
54.5%
出典:『かいたく 15 年のあゆみ』京都府 1962 年,『開拓のあゆみ』京都府 1971 年より作成。
敗戦時,「海外」に送り出していた「日本人」は約 700 万人とされる。これらの人々の 引揚げ計画は,1945(昭和 20)年 8 月 21 日から始まり,1949 年までに約 624 万人が「日 本」に還流してきた。一方,同様に「国内」において「日本人」とされなくなった朝鮮 人,台湾人,さらには沖縄人も一斉に「引揚げ」の対象となった。生産力が極度に低下 し,戦災者,失業者があふれる中,600 万人以上の引揚げ者を抱えた「内地」が「戦後開 拓史序幕の舞台装置」5)であった。このため先述した「緊急開拓事業実施要領」は,わず か 5 年間で 155 万町歩の開拓と 100 万戸の壮大な入植計画を掲げたのであった。
戦後開拓政策を道場親信は「「帝国」の崩壊に伴って生じる「難民」のうち,「国民」た るべき者に定住の地を与え,「帝国」から「国民国家」への転換を安定的に行うための社 会政策」6)ととらえている。「開拓」と「移民」はまさに「社会問題や経済問題の処方箋」
7)として機能したともいえる。童仙房は,国民国家の恣意を絶えず吸収し,社会的結合に 変えてきた空間でもあった8)。
3 戦後開拓者の来歴
3.1 子安潔氏
1947(昭和 22)年,子安潔氏は童仙房に入植した。その際,自らの「形見」にしたの が旧満州の捕虜収容所で付けていた腕章であった。この腕章には「中華民国三十五年三 月十二日」と日付が付され,「東北保安司令長官部日僑俘管理處 輿城県日僑俘管理所 姓名 子安潔」の墨字が確認できる。
子安氏の父伊三郎氏は,京都市上京区で 7 代続いた飴屋を経営していた。従業員 10 名 を抱え順調だった経営は,戦争の拡大に
より原材料が統制をうけ,急速に行き 詰っていった。そのため 1941(昭和 16)
年,商売に見切りをつけ一家で満州に 渡った。ハルピン市で食品会社を設立し,
開拓団から買いつけた原料で,水飴,羊 羹,菓子などを製造し,日本軍や地元商 社に納め,商売は拡大していった。潔氏 もセールスにあたり販路を広げ,会社は 従業員 30 人を雇うまでになった。今も童
写真 2 子安氏の捕虜収容所での腕章
(筆者撮影)
仙房の自宅には「大陸振興食品株式会社」と書かれた父子の名刺とハルピン時代の写真 が腕章とともに残されている。
しかし,敗戦の一週間位前から突然,日本兵が姿を消した。学校帰りの子どもが殺さ れたり,今まで「おとなしかった」中国人が敵意をむき出し「暴れだした」という。敗 戦により財産のすべてを失い,取り残された日本からの「移民」は,中国側の捕虜収容 所に入れられ,そこで二九八号と記された腕章を着けられた。収容所での生活は困窮を 極めた。栄養失調と病気によって家族は死線をさまよい,父伊三郎さんは「人間は百姓 や,土地や」と言い残し死んでいった。
1946(昭和 21)年,母親と姉との三人で「アメリカ軍の船」で帰国,一時収容所となっ ていた東本願寺に入り,そこで童仙房の開拓の情報を得,京都府に入植申請書を提出し た。翌年,家族三人で童仙房に入植。父親の遺言と自らの「形見」を支えに,雑木ばか りの山林を手佁とノコギリだけで切り開いていった。先住農家の冷やかな視線を後目に,
早朝から夜遅くまで星を見ながら「死んだつもり」で働き続けたという。やがて,童仙 房の石屋の娘であるミサさんと結婚,二人の子どもの父親となり,水田 2 アールと茶園 3 アールを持つまでになった。その二人の子どもも童仙房を離れ,潔氏は 2004(平成 16)
年に亡くなり,現在は,ミサさん一人が家を守っている9)。
3.2 杉浦秀雄氏
1949(昭和 24)年,杉浦氏家族を含め 4 戸が北海道斜里町から童仙房に入植した。
杉浦氏の父親は,元々大阪で医療ガラス製品の職人をしていた。しかし,子安氏の場 合と同様,戦争の拡大とともに原材料が入らなくなり仕事が激減,「街でいるより北海道 へ」と 1945(昭和 20)年 10 月,一家 5 人で北海道斜里町に入植した。戦中から入植申 請していた杉浦氏は,全国の入植地の中か
ら近くの関西より,4 町歩の広い開墾地がの ぞめる北海道を選んだ。しかし,異なる気 候と,斜里岳の麓,火山灰の積もった開墾 地には「営農可能面積一戸当り十町歩確保 の必要」があると思われた。入植した 37 戸 のうち 5 戸が早期に離農,さらに残った農 家と行政当局との対立が表面化した。この 中で「内地に戻りたい」との気持ちから,同
写真 3 杉浦氏による再入植を希望する陳情書
(筆者撮影)
じ関西からの移住者とともに再度の入植地を童仙房に求めた。
その際,北海道で開拓にあたった実情と,「内地」への再入植希望にいたった経緯を記 した陳情書が,童仙房への入植決定通知とともに残されている。陳情書には「新日本建 設ノ為又民主化ノ立前ヨリ内地道内ノ差別ナク換地転地ヲ合理的ニ親心ヲ以ッテ御認メ 下サレタ事ヲ信ジテ居リ」との言葉が添えられている。
杉浦氏家族が童仙房に移住した時,息子の忠男氏は 6 歳であった。歳の離れた姉さん が,働きづめの両親に代わって忠男氏の面倒をみたという。家族総出で雑木林を切り開 き畑に変えていった。しかし,自らの畑だけでは生活は立ち行かず,先住農家の開墾や 農業を手伝い現金収入を得ていた。一緒に北海道から入植した 4 戸のうち,2 戸は早期に 離農し,最後まで杉浦家とともに残っていたもう 1 戸も高度成長期に開墾地を手放し童 仙房を離れていった。
忠男氏は,中学までは地元で過ごしたが,高校に行こうとすると下宿が必要であった。
同じ童仙房を離れるならと,親戚のある浜松の農工高校に入学した。兄は既に浜松で左 官職人となっていたので,当初から高校卒業後は童仙房で農業を継ぐつもりであった。卒 業と同時に童仙房に戻ったが,茶畑だけでは生活は苦しく,やがて花を扱うようになり ようやく生活は安定した。
両親の手伝いをしながら,29 歳で結婚した。しかし,嫁ぐ条件は童仙房で生活をしな いことであった。このため 20 年間,大阪から片道 1 時間半をかけて童仙房に通った。そ の後,ようやく再び童仙房で生活するようになった。忠男氏は,苦労を共にした姉さん,
後継者となった息子さんとともに暮らしている。こんな風に家族で童仙房に残ることが できたのは「(入植地の)くじ運が良かった」からだという。戦後入植組には条件のいい 土地は残っていなかったが,それでも,杉浦氏の手に入れた土地は恵まれていたと説明 する10)。
3.3 「開拓」と「移民」
子安氏の背景を考えてみると帝国日本の拡大と崩壊,さらにはその領域をめぐる戦後 の争いと深く関わっていたことがわかる。子安氏家族が活躍したハルピンは元々,1898
(明治 31)年,ロシアが東清鉄道の敷設に伴い路線の中心地として建設された都市であっ た。1931(昭和 6)年の満州事変と翌年のハルピン占領,満州国設立によって事態が急展 開していった。関東軍は「日本人移民案要綱」を決定し,やがて「満州農業移民計画」と
「満州産業開発五ヵ年計画」の農工両部門の計画が戦線の拡大により変更をうけながらも
進展していった。さらに 1939 年には政府によって「満州開拓政策基本要綱」が決定され,
「開拓移民」が本格化し,子安氏家族が満州に渡った 1941 年には一般開拓団 5052 戸,義 勇軍開拓団 16110 戸と最大規模の入植が行われている。
しかし,基本要綱では「開拓民並びに原住民等ノ調和ヲ図リ日満不可分関係ノ強化」を 謳っているものの,「むきだしの植民」11)策は,試験移民期から反満抗日集団からの攻撃 を受けていた。子安氏の言う敗戦と同時に「(中国人が)暴れだした」のは抑圧の楔が崩 壊したからに他ならない。子安氏のハルピン時代の写真には「大東亜戦争完遂 哈爾濱 大博覧會」と書かれたゲート前で親子が写っているものがある。満州では民族協和の理 念と戦争が不可分な関係にあったことを表している。
子安氏の腕章は「中華民国暦」が記されているが,満州ではソ連の参戦と帝国日本の 崩壊,さらには,共産党と国民党による激しい内戦が始まり,領域支配の主人公がめま ぐるしく入れ替っていった。子安氏家族が「アメリカ軍の船で帰国」した背景には,こ の領域をめぐるアメリカの思惑があった。アメリカは国民党軍支援のため 1946(昭和 21)
年 5 月から,船舶 185 隻で中国中・南部の国民党軍を東北部に運び,その船で日本人を 引き上げ,さらには日本からは中国人・朝鮮人を帰国させていた12)。子安氏家族はこの 時のアメリカ軍船に乗船したことが想定される。
満州移民が本格化する際にとられた入植方式が分村移民13)であった。これは「大量送 出を容易ならしめる目的」のためにとられた方式であったが,既に北海道において「実 績」を上げていた。杉浦氏が入植した斜里町は,斜里岳を基点とし直線状に町が区分さ れている。先住民の言葉からとった地名とこの直線こそ,ここが植民先であることを表 している。杉浦氏たちが行政と衝突したのは,まさに集団移民として規模を確保しよう とした行政の意図とは逆に,彼らが「分村」を試みようとしているとうつったからに他 ならない。斜里町は海岸線から千島列島と樺太をのぞみ,敗戦後,突如国境を目前にす る位置におかれることになったのである。
その杉浦氏の入植希望は戦中に出され,戦後に入植が実現した。先の「緊急開拓事業 実施要項」で掲げられた 155 万町歩の開拓と 100 万戸の入植では,「内地」85 万町歩・80 万戸,北海道 70 万町歩・20 万戸と区分されており,依然として北海道は「内地」と区分 された国内植民地として位置づけられていたことがわかる。既に戦前から「自作農創設」
は政府にとって焦眉の課題であったが,子安氏の入植や,杉浦氏の再入植への陳情書か らは,戦前戦中の「農村の更生発展」が「新農村建設」へ,また「民族協和」が「民主 化」へと置きかけられていったことが伺える。
3.4 もう一つの「移民」−藤田鐘造(田鐘祥)氏
「この分教場には 2 人の訓導と 46 人の生徒が親 と子のような親しさで勉強にいそしんでいた。最 近 3 人の朝鮮人の子供が入って来たが,日本人生 徒とは仲良くしていると先生は話してくれた。机 の上に飾られた ” 山ざくら “ の花が和やかな雰囲 気をかもし出していた。」
これは『戦前の童仙房』14)と題されたアルバム の「分教場教室内部」の写真に添えられた説明文 である。これを書いた原田瑩一氏は,1942(昭和 17)年,京都第一中学校を卒業した直後の春休み を利用して童仙房を訪れた。中学校で地歴同好会 に所属し,歴史散策を何よりの楽しみにしていた 原田氏によって戦時中の数少ない童仙房の記録 が残されることになった。
ここに見られるように当時,童仙房には朝鮮から渡ってきた家族が農家の手伝いをし て暮らしていた。彼らは開拓農民とは別の「移民」でもあった。戦中戦後にかけては,山 田(町田)・田中・木下・福田・藤田(潭田)と呼ばれていた 5 家族が童仙房に住んでい たと推定15)される。このうち学齢期の子どもがいたのが,山田・田中・藤田家である。
藤田鐘造氏は,当時 7 歳。1929(昭和 4)年に日本に渡ってきた父二郎(点甫)氏と,
その後に朝鮮から呼び寄せた母親との間に童仙房で生まれた。一家は長野,大阪に移っ たが,再び童仙房に戻り,藤田氏はこの分教場で学ぶことになった。
しかし,原田氏の感じた「和やかな雰囲気」とは異なり,そこにはむき出しの差別が あった。藤田氏には,分教場からの帰り道に生徒達から受けた傷跡が未だに頭部に残っ ており,また 2 歳違いの妹さんは,執拗にいじめられた経験から,現在でも母国語を聞 くだけで激しい拒否反応を示すという。藤田氏自身はこの差別を跳ね除ける気概を養っ てきたが,妹さんは深刻な精神不安に陥った。
童仙房に入った「朝鮮人」は「作男」として特定の農家と契約を結び,住み込みで農 業を手伝い,やがては一軒屋を借りるようにもなった。藤田氏の父親のように最初は単 身で入り,やがて朝鮮から家族を呼び寄せる場合もあったが,童仙房では日本人と結婚 する人はいなかった。
写真 4 童仙房分教所内部
(注:原田瑩一『戦前の童仙房』1942。)
敗戦とともに彼らを取り巻く状況が変わった。平和と同時に価値の転換が山深い童仙 房にももたらされた。やがて「京大を出た満州帰りのインテリ」も入植するようになり,
また「バリバリの共産党員」もオルグに入ってくるようになった。学校を転々とし,さ らに仕事の手伝いで十分に学ぶことができなかった藤田氏は,この「満州帰りのインテ リ」入植者から勉強を教わった。また,杉浦秀雄氏からは人生の教訓をたくさん教えて もらった。杉浦氏は,利発な藤田氏を可愛がり,「移民」の村の中でも後続者として密か に生きる術を教えたという。それほどまでに新旧住民の対立は深刻であった16)。
敗戦を知ると父親は「これで目鼻立ちがつく」といい,母親は「光がさした」といっ た。家族で帰国準備をしていたが,その母親が病気になり,やがて朝鮮戦争によって,帰 国できなくなってしまった。このため藤田氏は,大河原で外国人登録法の少年の第 1 号 になった。父二郎氏は朝鮮人のネットワークの結節点にいた。このため仕事の話をどこ からとなく仕入れてきたので,早くから親の手伝いをしていた藤田氏も大人のネット ワークの中に入っていた。1953(昭和 28)年の南山城水害は,「復興に 5,6 年,元通り になるまで 10 年」17)という被害をもたらしたが,復興は日本に留まった朝鮮人に労働の 場を与えた。童仙房の復興にも朝鮮人ネットワークが活用され,各家単位で遠方からも 働き手を雇い入れた。藤田氏は,1956(昭和 31)年頃に「在日のツテを辿って」童仙房 を降り,木津で暮らすようになる18)。
3.5 朝鮮からの「移民」
藤田氏が童仙房で生まれるようになった背景はどのようなものだったのだろうか。
1910(明治 43)年,朝鮮は帝国日本の一部に編入され,それ以降,海を挟んだ人々の移 動は活発化した。特に 1920 年代から日本に渡る朝鮮人の数は増加し,30 年代末期から急 増していく。
これは日本内地における労働力不足を補完するための移動であったが,その多くは炭 鉱,土木工事現場での就労であった。しかし,この中には農業移民も含まれていた。内 地の産業のあり方だけでなく,朝鮮人ネットワークのあり方から移住先には大きな地域 差が存在した。京都府は多くの朝鮮人の移住先であったが,その中心は都市部からやが て農村部に移行し,農業移民で上位に位置していた19)。中でも表 3 からは童仙房におい て「作男」と呼ばれた「農夫」がその多くを占めていたことがわかる。朝鮮人「農夫」の 導入は日本人よりはるかに安い低水準の賃金に基づいていた。この中で「一視同仁」や
「内鮮一体」のスローガンのもと朝鮮との移動が拡大していっても,差別意識は強められ
ていった。「わけへだてない」開拓 村の童仙房にあって「朝鮮の人だ けは別」との杉浦忠男氏の記憶は このことを表す。
具体的には,童仙房では「昭和 に入って」最初に作男としてやっ てきた朝鮮人は「山田」と名乗り,
日本語の話せた彼は何人もの同郷 者に仕事を斡旋していった。1930 年頃から戦後にかけて「10 名ほど の朝鮮人労働者」が童仙房に住ん でいたという。彼らは「勤勉で地 元の人の 1.5 倍は働いた」ので区長
を務めた馬場家でも,彼の紹介でほとんど日本語が話せなかった「田中」氏,その後に は九州の炭鉱から逃げてきた「木下」氏を作男として雇い入れた。しかし,一旦故郷に 帰った木下氏は再び日本に戻ることができなかった。このため雇主の馬場氏は,警察に 身元引受の書類を提出,再び馬場家で敗戦まで「奉公」するようになった20)。
山田氏とのつながりからか,藤田氏の父二郎氏も福井県から 1933(昭和 8)年頃に童 仙房に移り住むようになった。藤田二郎氏は,息子二人を兵隊に出し労働力不足の農家 の手伝いのため「日本人の三分の一」位の賃金で雇われたという。日本語の堪能だった 藤田氏の父親のもとにはさらに多くの朝鮮人が身を寄せるようになっていった。山田氏 は 1935(昭和 10)年頃に童仙房を離れ,その役割を父二郎さんが担うようになったと考 えられる。このようなネットワークを通じて農業移民が増加してきたことがわかる。
戦後最初に童仙房に入った朝鮮人の「白木」,「秋山」氏は,製炭の盛んだったこの地 域に今までの黒炭とは異なる「白炭」をもたらした。全国を渡り歩いていた彼らは農業 労働の補完者としてだけでなく,このような技術の媒介者ともなった。しかし,敗戦に よる農村への人口還流は,農村労働力の不足を一気に過剰に転じさせた。多くの農業移 民はこの中で新たな対応をせまられることになった。
表 3 「在日朝鮮人農民数上位十道府県の小計および全国合計」
単位:人)
自作農 小作農 「農夫」 合計
北海道 山口 大阪 広島 大分 兵庫 奈良 佐賀 京都 岡山
211 26
5 1 2
2
2
1634 1127 280 452 485 56 46 89 166 76
124 382 659 401 192 422 390 299 185 202
1969 1535 939 858 678 480 436 390 351 280
合計 249 4411 3256 7916
全国合計 359 5460 4492 10311 注:安岡健一(2010)より引用。
4 おわりに−童仙房の記録と記憶
ここでは従来論じられてこなかった童仙房の戦中−戦後にかけての「開拓」と「移民」
について三家族を中心に紹介した。1970 年代の社会調査が一家族ごとの来歴を精査して いるが,現在,童仙房に住む人々,また童仙房を離れた人々にもそれぞれの人生の軌跡 があり,それがこの集落だけでなく近代日本という空間を構成してきたことが伺える。た だ,近代開拓村が重層的に入植者を受け入れた背景には,「移動」自体が「自発性と非自 発性のあわいにあり,その過程にはそれぞれの時代における市場に媒介された国家と民 衆の縦の関係が刻み込まれている」21)現実がある。このため新たな入植者の童仙房での 生活は多くの困難を抱えた。「土」を選んだ「移動」する人々と従来の住民(彼らも移動 者であった)との(特に土地を媒介とした)関係を見ることが今後の課題でもある。
やがて童仙房は,高度経済成長期を経て「南山城の軽井沢」として避暑地にも位置づ けられ,観光案内書22)に登場するようになり,現在では非農業者である新しい住人も加 わっている23)。第二次入植者として「新参者」であった杉浦忠男氏は,彼らから見ると 自分たちが旧住民に映る不思議さと,ここでは誰もが「よそ者」である来歴からこの集 落の居心地を説明する。このことからも共同体内部の関係性を見る場合,単に旧住民対 新住民の対立構造だけを見るのではなく,「「秩序」を静態的・固定的に捉えるのではな く,移民によって普段に生成されるものと考えた場合,移動は新しい紐帯と統合への可 能性を孕む行為として評価する」24)ことも考える必要があろう。
従来,ときおこされなかった記憶と記録を辿る作業は,『南山城村史』が完成した翌 2006(平成 18)年に地区住民と研究者等によって設けられた「野殿童仙房生涯学習推進 委員会」25)の活動の一つでもあった。しかし,既にこの委員会の生涯学習活動も新たな 来歴となっている。村史完成から現在までの変遷も視野に入れた調査もまた課題となっ ている。
注
1 )黒正厳(1931)「京都府下童仙房の開拓」『経済史研究』14 巻 4 号,織田武雄・谷岡武雄
(1947)「京都府下童仙房の開拓と現状」『日本史研究』5 号。なお,吉川秀造の『士族授産 の研究』(1942)有斐閣においては,開拓に「相当の成果をおさめ」たのみならず,幕臣の 授産としての意味をもったとしている。
2 )京都府立大学過疎問題研究会(1973)「京都府相楽郡南山城村童仙房地区における実態調査」
『社会学研究』二,益田庄三(1973)「過疎に関する一考察−京都府相楽郡南山城村童仙房
を中心に−」『京都の自治』7 京都自治問題研究所。
3 )落合弘樹(1999)『秩禄処分』中央公論社,pp.47, 194。
4 )童仙房は,府の代行開墾事業 18 地区の総開墾面積 2075haのうち 104haを占め,また 2 地 区だけの開拓道路建設を含んでいた。
5 )戦後開拓史編纂委員会編(1967)『戦後開拓史』全国開拓農業共同組合連合会,
pp.32,所収。
6 )道場親信(2002)「戦後開拓と農民闘争−社会運動の中の「難民」体験−」『現代思想』2002 年 11 月号 青土社
, pp.235,所収。
7 )テッサ・モーリス=スズキ(2010)「マイノリティと国民国家の未来」『日本はどこへ行く のか』講談社
, pp.142,所収。
8 )高久嶺之介(2011)『近代日本と地域振興』思文閣出版 では,第 4 章「開拓村の近代−京 都府相楽郡童仙房村の軌跡−」において,開拓村の成立から 1980 年代までの姿を総合的に 描いている。特に「地域振興」の観点から童仙房をとらえ,村の紐帯を歴史的に形成しえ なかった軌跡を辿っている。中でも「小学校の維持」という紐帯形成の要因を提示してい る点が着目される。
9 )『朝日新聞』1976 年 8 月 19 日付「戦傷深く 8・15 に寄せて」,株式会社近畿放送・ラジオ 実施局編『ここにこの人』(株式会社近畿放送・ラジオ実施局編,1979 年),および子安ミ サ氏からの筆者聞き取り(2009 年 1 月 24 日,2 月 2 日,12 月 26 日,2010 年 8 月 29 日,子 安氏自宅にて)より構成した。
10)杉浦忠男氏からの筆者聞き取り(2009 年 2 月 1 日杉浦氏自宅にて)より構成した。
11)蘭信三(1994)『「満州移民」の歴史社会学』 行路社
, pp.63,所収。
12)大門正克(2009)『日本の歴史 第 15 巻 戦争と戦後を生きる』小学館
, pp.234,所収。
13)満州開拓史刊行会編発行(1966)『満州開拓史』。
14)南山城村史編さん委員会編(2002)『南山城村史 資料編』南山城村,pp.856, 同アルバム は南山城村教育委員会に保存。このアルバムは京都新聞紙上で童仙房の記事を見た原田氏 がかつての童仙房訪問記と写真を教育委員会に送るために 1989(平成元)年 6 月に編集し たものである。原田氏は 1992(平成 4)年 7 月に亡くなるが,同居していた妹さんによる と,このアルバムの原本とノートを確認しているものの,現在は不明という。
15)藤田鐘造氏,石川保男氏からの筆者聞き取り(2010 年 8 月 29 日童仙房馬場氏宅において)
より。
16)読売新聞 1977 年 6 月 20 日京都版には,戦後 20 年間にわたり府の営農指導員として新旧住 民の対立を緩和させようとした古川冨夫氏の苦労談が紹介されている。旧入植者と戦後入 植者の厳しい対立は南山城水害の復旧を通じて解消していき,やがて双方の子どもたちの 縁談がまとまるまでにもなったという。
17)石川保男氏からの筆者聞き取り。石川宅では戦中から戦後にかけて朝鮮人の木下氏を作男 として雇っていたという。1953 年の南山城大水害では復興のために姫路から多くの朝鮮人 労働者を雇い入れた。また童仙房を後に離れる福田氏から木炭を運ぶ朝鮮式の「負いこ」を もらい炭を運ぶ仕事に利用していたという。
18)藤田鐘造氏からの筆者聞き取り(2009 年 11 月 7 日,12 月 27 日,2010 年 8 月 29 日,2011 年 7 月 13 日童仙房において)より構成。
19)安岡健一(2010)「戦前期日本農村における朝鮮人農民と戦後の変容」『農業史研究 第 44 号』。
20)『南山城村史』編集の際の馬場庄樹氏からの聞き取り記録(1999 年 6 月 22 日,9 月 5 日,13 日)より構成。
21)安岡健一(2014)『「他者」たちの農業史』京都大学学術出版会,pp.3,所収。
22)『京都』白川書房 1975 年 8 月号。
23)太田拓紀「Iターン移住者にとっての地域活性化−童仙房地区の事例−」『野殿・童仙房地 域における協働的な「学びの空間」をめぐるフィールドワーク』研究開発コロキアム平成 19 年度研究成果報告書 京都大学大学院教育学研究科。
24)帆刈浩之(2007)「近代広東人移民のビジネスと慈善」『メトロポリタン史学叢書 1 歴史 の中の移動とネットワーク』桜井書店。
25)野殿区・童仙房区と京都大学大学院教育学研究科が,廃校となった野殿童仙房小学校を活 動拠点とし,生涯学習の理論と実践のために設けた委員会。
参考文献
浅田喬二(1978)「満州農業移民政策史」山田昭次編『満州移民』新人物往来社。
蘭信三(1994)『「満州移民」の歴史社会学』行路社。
杉浦明平(1955)『ルポルタージュ 台風十三号始末記』岩波書店。
戦後開拓史編纂委員会編(1967)『戦後開拓史』全国開拓農業共同組合連合会。
テッサ・モーリス・スズキ(2007)『北朝鮮へのエクゾダス』朝日新聞社。
前野雅彦(2006)「伝承される開拓」『日本民俗学』248 日本民俗学会。
道場親信(2008)「「戦後開拓」再考」『歴史学研究』864 号。
南山城村史編さん委員会(2006)『南山城村史』南山城村。
安岡健一(2014)『「他者」たちの農業史』京都大学学術出版会。