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中日対訳小説にみる作者の作中人物への介入度

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(1)

中日対訳小説にみる作者の作中人物への介入度

加藤 晴子

はじめに 1. 先行研究

1.1 张(2007)の言語表現のタイプ 1.2 山岡(1991)の介入度の算定

1.3 顧(2005)の自由間接話法と自由直接話法

2. 本論の考察対象 3. 本論の手法

4. 中国語原文と日本語訳文の介入度の違いとそれをもたらす要素

4.1 日本語訳文のほうが介入度が高いと感じられる例文

4.2 日本語訳文のほうが介入度が低いと感じられる例文

4.3 介入度の高低に関わる要素のまとめ

おわりに

はじめに

小説の「地の文」は,作者1)が読者に向かって語りかけを行なう部分であり,作者に帰属 するものと考えられるが,そこでは,物語のあらすじ(プロット)が進行・展開されるだけで なく,作中人物の感覚や思考などの内面が描写されることもある。さらに,後者において作者 は,例文(1)のように,作者としての立場から客観的に作中人物の感覚・思考を述べることも あれば,例文(1')のように,作中人物になりきり,あたかもその人物が直接述べているように 記述することもある2)

(1) C 他 知道 虎姑娘 还 没 睡 。[309]

彼 知る 虎姉さん まだ していない 寝る 〔彼は虎姉さんがまだ寝ていないことを知った〕

J 虎妞がまだ起きているのだ。

(1') C 虎姑娘 还 没 睡 。 虎姉さん まだ していない 寝る 〔虎姉さんはまだ寝ていない〕

例文(1')のように,地の文に作中人物の知覚や心理を直接吐露するような表現が現れたもの

(2)

を,本論では,山岡(1991,2005),顧(2005)らの先行研究に倣い,作者の作中人物への介入と見,

介入には程度の違いがあることを認めることとする。

先行研究では,人物の指し方,特にその人称および述語部の時制が,作者の介入の有無とそ の程度を測るための重要な指標であるとしている。しかし,日本語ほどではないにしても人物 を指す語が現れないことが多く,また,時制を表すための固定的な表現形式を持たない中国語 にあっては,それらを補うものとして人物指示以外の指示成分およびモダリティ要素が挙げら れることを示すのが本論の目的である。

1.先行研究

1.1 张(2007) の言語表現のタイプ

张(2007)は,すべての言語表現を,まず“对言句”と“叙述句”に分け,さらに“对言句”

を“直言句”と“转言句”に,“叙述句”を“转述句”と“直述句”に分けている。そのうち“转 述句”は,語り手が外部観察者となり,自らの情報を伝達するもので,時間・空間的指示の基 点は指示対象にあるものの価値判断の基準は語り手にあるとする。一方の“直述句”は,語り 手が指示対象に一体化したもので,指示の基点,判断の基準はこの一体化した語り手=指示対 象にあるとする。

ここでの指示の基点と価値判断の基準について3),张(2007)は,指示の基点は,時間・空 間指示の“我、你、他(一,二,三人称代名詞)”,“这、那(近称,遠称指示代名詞)”,“来、去(くる,

いく)”,“今天、已经(今日,すでに)”,“前者、因此(前者,このため)”などの指示成分に よって決まり,価値判断は“可能、应该(だろう,のはずだ)”,“吗、呢、吧(疑問,推測な どの語気助詞)”,“不、没有(否定成分)”,“的确、必定、只好、简直、有点儿(確かに,必ず,

するしかない,まったく,すこしなど何らかの価値観を含む語句)”,“上级、刘四爷(上層部,

劉の旦那など人間関係を表す語句)”などが基準となるとしている。

1.2 山岡 (1991) の介入度の算定

山岡(1991)は,英語の小説について,「誰が見ているのか」と「誰が語っているのか」の両

面から伝達様式の分類を行ない,それぞれについての介入度を算定している。「誰が見ている のか」は人称によって決定され,「誰が語っているのか」は時制によって決定されるとする。

さらに,それらが主格として現れるか否か,主節と従属節のどちらに現れるか,また知覚・思 考動詞と共起するか否かなどの要因により,介入度は漸次的に変化し,連続体を形成している ことが示されている。

(2) The waitress was standing beside his table.[山岡(1991:136),ほかの部分省略]

(3)

例文(2)について山岡(1991)は,進行形に作中人物の意識を感知することができるが,過

去時制(was)が使われていることと,意識の主体が三人称代名詞(his)で対象化されていると

ころに作者の声が聞こえるとしている。

1.3 顧 (2005) の自由間接話法と自由直接話法

顧(2005)は,いわゆる自由間接話法と自由直接話法の日中両語の小説での現れ方を扱った

ものだが,前者は作中人物の内的視点と語り手の外的視点とが入り混じったもので,入り混じ り方の程度により,「作中人物による独白から地の文の語りに近いものまで,作中人物の内面 への介入度という面で両者は一つの連続体を成す[顧2005:39]」としている4)。顧(2005)は,

一人称→「自分」/“自己”→三人称→固有名詞の順で,そして,現在形より過去形のほうが,

より間接化した表現になるとしたうえで,述語形式の人称による制限および時制によって自由 間接話法と自由直接話法とを区別することは,中国語においては有効でないことを確認してい る5)。また,過去時制を表現できる日本語のほうが,できない中国語よりも,より細かな介入 度の違いが表現されるとも指摘している。

(3) たとえ相手が工場長だろうと、俺はひとにからかわれたくない。

たとえ相手が工場長だろうと、自分はひとにからかわれたくない。

たとえ相手が工場長だろうと、かれはひとにからかわれたくない。

たとえ相手が工場長だろうと、印家厚はひとにからかわれたくない。

たとえ相手が工場長だろうと、自分はひとにからかわれたくなかった。

たとえ相手が工場長だろうと、かれはひとにからかわれたくなかった。

たとえ相手が工場長だろうと、印家厚はひとにからかわれたくなかった。[顧2005:47]

(4) 即便是厂长,我也不愿意被他耍弄。

即便是厂长,自己也不愿意被他耍弄。

即便是厂长,他也不愿意被他耍弄。

即便是厂长,印家厚也不愿意被他耍弄。[顧2005:47]

「はじめに」でも述べたように,山岡(1991),顧(2005)ともに,人物の指し方,特にその人 称および述語部の時制が,作者の介入の有無とその程度を測るための重要な指標であるとして いる。しかし,日本語ほどではないにしても人物を指す語が現れないことが多く,また,時制 を表すための固定的な表現形式を持たない中国語にあっては,それらを補うものとして人物指 示以外の指示成分,および,語り手の判断・感情・意志などを表す「モダリティ要素」が挙げ られるのではないかと本論は考える。以下,そのことを見ていく。

(4)

2.本論の考察対象

小説の「地の文」は,あらすじ(プロット)を述べ,物語を展開させる部分と,主に作中人 物の内面を描写する部分とに分けられる。

あらすじを述べる部分とは,作者が作中人物の言動を語ったり,情景を描写したり,背景を 説明したりする叙述部分であり,映像化すれば動きやせりふのある場面となる。

(5) C 他 刚 把 车 拉 到 她的 窗下,虎妞 由 车门 里 出来 了 ;[312]

彼 ばかりを 車 引くまで 彼女の 窓下 虎妞 から 門 中 出てくる 完了 〔彼が車を彼女の窓の下まで引いていったとたん,虎妞が門の中から出てきた〕

J 彼女の部屋の前まできたとき、彼女がひょっこり門からでてきた。

この部分については今回の考察の対象とはしない。

一方の作中人物の内面を描写する部分とは,作中人物の知覚,思考,心理状態が語られる部 分であり,仮にこの小説を映像化すれば,動きがなく,作中人物の独白や回想シーンによって その人物の感情や知覚・思考内容が伝えられる場面となる。

(6) C 他 得 马上 离开 人和厂 ,[339]

彼 しなければならない すぐ 離れる 人和車屋 〔彼はすぐに人和車屋を離れなければならない〕

J そうだ、彼はいまからすぐ人和をはなれなければならない。

この部分に含まれる各文は,作中人物の内的視点と,作者の外的視点との入り混じりにより,

介入度の考察の対象となりうると考えられる。本論の考察対象はこの部分に定める。

3.本論の手法

本論では,1にまとめた先行研究をもとに,中国語の小説から,2に述べたような作者によ る作中人物の内面描写部分を取り出し,中国語原文と日本語訳文を比べて,作者の作中人物へ の介入の程度が変化すると感じられる箇所に注目する。その変化を感じさせる要素が何である か,人物の指し方,過去時制(日本語訳文での)のほかにどのようなものが見られるかを探る のである。

具体的には,中国語原文における以下の(7)~(10)が,日本語訳文でどのように訳されて いるかを見る。

(7) 人物の指し方6)として,指さない場合,つまりゼロ形式で現れる場合も考慮し,この 時の介入度は一人称代名詞と同程度であると想定する。以下では右側ほど作者寄りの 視点(=介入度が低い)になる。

 一人称・ゼロ形式→三人称・“自己”→固有名詞・呼称

(5)

(8) 人物以外のものを指す指示成分として,以下を考え,それが作者から見ての指示なのか,

作中人物から見ての指示なのかを見る。

 这、那(近称指示代名詞,遠称指示代名詞)  来、去(くる,いく=接近と遠ざかり)  今天、已经(今日,すでに=時間的指示)  前者、因此(前者,このため=文脈上の遠近) (9) 述語部分に知覚・思考動詞がある場合,

a それらを取り去っても表す事実関係に大きな変化がない時,直接的な心情の吐露で はなく,客観的な心情の説明となる。地の文では作者寄りの視点(=介入度が低い) になる。

觉得非常痛快〔面白いと思う〕≒非常痛快〔面白い〕

不知道为什么〔なぜだかわからない〕≒为什么〔なぜだろう〕

b それらによって「発見」の意味が添えられている時,直接的な発見の表明ではなく,

客観的な発見の説明となる。地の文では作者寄りの視点(=介入度が低い)になる。

知道虎妞还在〔虎妞がまだいるのがわかった〕≠虎妞还在〔虎妞がまだいる〕

c それらを取り去ると意味が完全に変わる時,それらは本来的な知覚・思考動詞では なく,願望を表す助動詞であり,それが作者の願望なのか,作中人物の願望なのか を読み取ることになる。

想买一辆车〔車を1台買いたい〕≠买一辆车〔車を1台買う〕

(10) 価値判断の基準を示す成分として,以下に類するものを考え,それが作者による判断

なのか,作中人物による判断なのかを読み取る。

 可能、应该(だろう,のはずだ=可能性,必然性などを表す助動詞)  吗、呢、吧(疑問,推測などの語気助詞)

 不、没有(否定成分)

 确实、大概、当然、好像(確かに,恐らく,もちろん,のようだ=真実性の判断)  幸亏、果然、只好、真(幸い,果たして,するしかない,本当に=評価判断)  简直、有点儿(まったく,すこし=程度判断)

 上级、刘四爷(上層部,劉の旦那=人間関係)

上のうち,(7)(8)は,张(2007)の挙げる指示の基点を示す成分を含み,山岡(1991)のいう「誰 が見ているか」にあたるものであり,(9)(10)は,広い意味でのモダリティ要素であり,张(2007) の判断の基準を示す成分を含み,山岡(1991)の「誰が語っているか」にあたるものであると 考えられる。

(6)

4.中国語原文と日本語訳文の介入度の違いとそれをもたらす要素

3の方法に基づき,以下,老舍《骆驼祥子》を資料とし,2に示した内面描写の部分について,

中国語の原文と日本語の訳文とで介入度が変化すると感じられるものを選び,(7)~(10)の要 素の有無とその対訳を見ていく。

老舍《骆驼祥子》を資料としたのは,時代背景の解説,物語の進行,主人公「祥子」の心情 などがバランスよく組み合わせられていること,複数の日本語訳があり参照が可能なこと,映 画化されていて必要に応じて画面での動きを確認できることなどによる。

以下,介入度が,日本語訳文のほうが高い例文,中国語原文のほうが高い例文の順に挙げる。

4.1 日本語訳文のほうが介入度が高いと感じられる例文

まず,中国語原文より日本語訳文のほうが介入度が高い,つまり,作者が作中人物により近 づいていると感じられる例文を見る。

(11) C 祥子 看见 了 人和厂 那盏 极明 而 怪孤单的 灯 。[309]

祥子 目にする 完了人和車屋 あの 明るい そして ぽつんとした 明かり 〔祥子は人和車屋のあの明るくぽつんとした明かりを目にした〕

J 人和の例の門燈があかあかと、闇に浮かんでいた。

例文(11C)では,人物が固有名詞“祥子”で示されており,また,“那盏”は少し前に出て

きた明かりについての説明の箇所を指す文脈指示,また,“看见了”が人物による「発見」を 客観的に説明しており,これらは作者寄りの視点を示す。“怪孤单的”に人物の沈んだ心情が 反映されている点にのみ作中人物による価値判断が感じられる。一方,日本語訳文(11J)では,

人物はゼロ形式となり,“看见了”も訳されないなどの点で介入度が高く感じられるものと考 えられる。

(12) C 在 家里 呢 , 处处又是 那么 清洁 , 永远是 那么 安静 ,使 他 觉得 いる 家 語気 どこも皆 あんなに 清潔 いつも あんなに 静か させる彼感じる 舒服安定 。[388]

心地よい

〔家にいると,どこも皆あんなに清潔で,いつもあんなに静かで,彼に心地よいと感じ させる〕

J また屋敷にいればいるで、すみずみまで掃除がゆきとどき、かつ、いつも静かだっ たので、気持もおのずとくつろいでくるのである。

例文(12C)では,人物が三人称代名詞“他”で示されている点,使役形が使われている点,

さらに“觉得”という知覚動詞がある点などに作者寄りの視点が感じられる。一方で,“那么”

(7)

は,作中人物の回想による指示である。日本語訳文(12J)では,人物はゼロ形式であり,使役 形も使われず,知覚動詞も使われていないので,介入度がより高く感じられる。

(13) C 可是 他 心中 另 有 一些事儿, 使 他 憋闷 得慌 ,[332]

しかし 彼 心中 別に ある 事柄 させる 彼 滅入る ひどく 〔しかし彼の胸中には別にある事があり,彼をひどく滅入らせた〕

J 胸のほうのしこりは、重くなるばかりだった。

例文(13C)では,人物が三人称代名詞“他”で示されている点が作者寄りの視点を示す。ま

た使役形が使われていることで,より客観的な説明であるように感じられる。一方,日本語訳

文(13J)では,人物はゼロ形式となり,使役形でないなどの点で,介入度が高く感じられるも

のと考えられる。

(14) C 他 觉得 他的 一生 就得 窝窝囊囊的 混过去 了 ,[423]

彼 感じる 彼の 一生 だろう ふがいない 過ぎていく 完了 〔彼は彼の一生がふがいなく過ぎていってしまうと感じる〕

J おれの一生はこんなぐあいにうだつのあがらぬままにおわってしまうんだな。

例文(14C)では,人物が三人称代名詞“他”で示されており,“觉得”という知覚動詞も使

われているので作者寄りと感じられる。一方で,日本語訳文(14J)では,人物が一人称代名詞 で示されており,知覚動詞も使われていない上に,文末の「のだな」が個人的述懐であること を示すので,より介入度が高く感じられる。

(15) C 他 想 坐下 痛哭 一场 。[302]

彼 したい 座る 泣く ひとしきり 〔彼は座ってひとしきり泣きたかった〕

J いっそ坐りこんで思いきり泣いてみたかった。

例文(15C)では,人物が三人称代名詞“他”で示されている点が作者寄りの視点を示す。一

方“想”はここでは取り去ると意味が完全に変わり,作中人物の願望を表す。日本語訳文(15J) では,人物がゼロ形式であることに加え,「いっそ」「みる」など,人物による価値判断と思わ れる語句がつけ加えられているために,さらに介入度が高まっているものと考えられる。

4.2 日本語訳文のほうが介入度が低いと感じられる例文

次に,中国語原文より日本語訳文のほうが介入度が低い,つまり,作者が作中人物からより 離れていると感じられる例文を見る。

(16) C 上 哪儿? 自然是 回 人和厂 。[304]

行くどこ 当然 帰る 人和車屋

(8)

〔どこへ行くか。もちろん,人和車屋へ帰るのだ〕

J 行く先といえば人和へ帰るしかないのはわかっていたが、

例文(16C)では,人物はゼロ形式であり,自問自答するそのままの形式なので,作中人物寄

り,つまり介入度が高く感じられる。それに対し,日本語訳文(16J)では,人物はゼロ形式で あるが「わかっている」という知覚動詞があり,介入度が低くなるように感じられる。

(17) C 这样 显着 干脆 ; 交 了 车, 以后 再也 不 住 人和厂。[366]

このよう 見える きっぱり 渡す 完了 車 以後 二度と 否定 泊まる 人和車屋 〔こうすればきっぱりして見える。車を渡したら二度と人和車屋に泊まらないと〕

J こうすれば、もう二度と人和に帰るつもりがないということが、はっきりわかるだ ろうと思った。

例文(17C)では,人物はゼロ形式であり,“这样”は作中人物からの指示,また“干脆”“再

也不”が作中人物による価値判断を表す。日本語訳文(17J)もほぼ同じであるが,最後に「と思っ た」とあるところから介入度が低くなるように感じられる。

(18) C 这件事 是 , 他 开始 明白过来 , 不 能 一刀两断的。[372]

この事 のだ 彼 はじめる わかってくる 否定 できる 一刀両断 〔彼はわかり始めてきた,この事は一刀両断にはできないのだと〕

J すっぱり縁を切るなどということが、どだいむりなことにようやく気がついたのだ。

例文(18C)では,人物が三人称代名詞“他”で示され,“明白”という知覚動詞があるが,

挿入部分にあり,逆に“这件事”という作中人物による指示と“不能”という作中人物による 判断が示され,かなり作中人物寄りであると感じられる。日本語訳文(18J)では,人物はゼロ 形式であり,「どだい」「できない」に作中人物の判断が現れているが,「気がついた」という 知覚動詞が主節を構成している点,また「のだ」に作者の判断が見え,全体として作者の視点 により近づいている(=介入度が低くなる)ように感じられる。

(19) C 虎姑娘 一向 ,他 晓得 , 不 这样 打扮 。[313]

虎姉さん ずっと 彼 知っている 否定 このように 装う

〔彼は知っていた,虎姉さんは今までこんなに装うことはなかったと〕

J 彼女がこんなにめかしこんだのを、祥子は見たおぼえがなかった。

例文(19C)では,人物が三人称代名詞“他”で示され7),“晓得”という知覚動詞があるが,

挿入部分にあり,逆に“这样”という作中人物による指示と“不”という作中人物による判断 が示され,かなり作中人物寄りであると感じられる。日本語訳文(19J)もほぼ同じであるが,

人物が固有名詞「祥子」で指示されている点,「見たおぼえがない」が最後にあるところから,

作者の視点により近づいている(=介入度が低くなる)ように感じられる。

(9)

4.3 介入度の高低に関わる要素のまとめ

以上から,「はじめに」で想定した通り,中国語で人物指示や時制の欠如を補い,介入度の 高低に関わる要素として,次のものを挙げることができる。

(20) 指示成分「誰が見ているのか」

固有名詞,人称代名詞,ゼロ形式などの人物指示

現場指示の“这、那~”,回想の“那~”,文脈指示の“这、那~”など

(21) モダリティ要素「誰が語っているのか」

“觉得”“明白”“晓得”“看见了”などの知覚・思考動詞

“使”を使った使役形

“怪~的”“干脆”“再也不”“不能”“不”などの価値観・判断を含む語句

日本語についても,「こう」「こんなに」などの時間・空間指示,「わかっている」「思った」「気 がついた」などの知覚・思考動詞,「いっそ」「みる」「どだい」「はっきり」などの価値観や,「つ もりがない」「できない」,「のだ」「のだな」などの判断を示す語句などが,介入度を測る要素 であると認めることができる。

おわりに

以上により,先行研究では人物の指し方および時制が,作者による作中人物への介入度を測 る要素とされていたところを,日本語ほどではないにしても人物を指す語が現れないことが多 く,また,時制を表すための固定的な表現形式を持たない中国語にあっては,それらを補うも のとして人物指示以外の指示成分およびモダリティ要素が挙げられることを示すことができ た。

本論において,《骆驼祥子》の第六~九章について大まかな集計を行なったところ,介入度 が中国語原文より日本語訳文で高くなると感じられる例文が約27%,低くなると感じられる 例文が約20%,介入度が変わらないと感じられる例文が約53%であった。作者の作中人物へ の介入度は,中国語原文と日本語訳文の比較に限った場合,中国語と日本語とで変わらない場 合が多く,全体的にはやや日本語のほうが高いが,中国語のほうが高い場合もかなりあること がわかった。ただし,本論で行なったのはひとつの作品についてのみの集計であるので,これ をもって中国語と日本語の全面的な傾向と見ることはできないのは言うまでもない。

本論において,作中人物への作者の介入度の高低に関わる要素を確定できたことから,今後 様々な作品について同様の分析を行なっていくことができるが,本論のように二言語の直接の 対訳を一方向からのみ対照したのでは,それぞれ相手の言語に引きずられた訳となる可能性が 大きい。逆の対照,つまり,日本語原文の小説と中国語対訳とを対照するか,あるいは,中国

(10)

語からの翻訳である日本語小説と,初めから日本語で書かれた日本語小説との比較なども考え られるが,そのためには,似たような内容,筆運びの中日の小説を選んで比較する必要があり,

題材の選定が難しい。第三の言語,例えば英語原文の小説の中国語対訳と日本語対訳との比較 なども視野に入れるべきであろう。

1) 本来は現実世界の作者と作中に介入する「語り手」とは区別すべきであるが,ここでは「作者」で統 一する。

2) 例文は特に記載のないものはすべて,北京日本学研究センター「中日対訳コーパス」内の《骆驼祥子》

からであり,[ ]内の数字はコーパス中の段落番号を示す。Cは中国語原文,〔  〕内は筆者による 直訳,Jはコーパスによる対訳である。

3) 张(2007)は,両者をいずれも指示成分としており,前者が時間・空間指示であるのに対し,後者は「価

値指示」であるとしている。

4) 顧(2005)は,介入度を数値化してはいないが,顧(2005)と山岡(1991)とでは,介入度の高低と人物

への一体化の度合いとの関係が逆になっている。山岡(1991)では,作者がより作中人物に移入してい るものを,介入度がより低いとしている。本論は顧(2005)に従い,作者と作中人物の一体化の程度が 高いほう,つまりより作中人物に寄ったほうを介入度がより高いものとする。

5) 顧(2005)がさらに触れている作中人物の身分・地位に合った言葉遣いなどについては,本論では取り

上げることができなかった。

6) 山岡(2005:93)では,「誰が語っているのか」を決定するものとして,日本語では三人称代名詞(ある

いは固有名詞)と過去時制が出現しているかどうかは,英語ほど問題にならない,としているが,初 めから日本語で書かれた物語と異なり,翻訳の場合には「彼」と訳すかゼロ形式で訳すかには何らか の違いがあると見るべきである。

7) “虎姑娘”「彼女」は“他”「祥子」の認識の内容の一部であるので,本論の考察には関わらない。

参考文献

张新华2007《汉语语篇句的指示结构研究》学林出版社

金谷武洋2010『日本語は敬語があって主語がない 「地上の視点」の日本文化論』光文社

顧那2005「自由直接話法と自由間接話法における語り手の視点」『言葉と文化』(6)pp. 35-51

寺倉弘子1995「「描出話法」とは何か」『日本語学』1995年11月号pp.80-90

ハーゲンナール,エリー1996・中里見敬訳2002「中国語における自由間接話法」『言語科学』37pp.85-95 玄宜青1992「現代中国語におけるモダリティを担う副詞的成分」『中国語学』239pp.47-56

山岡實1991「語り手の介入度の定量化と表現形式の連続性―三人称物語の場合―」『大阪府立大学紀要』

人文・社会科学第39巻pp.131-141

山岡實2005『「語り」の記号論 日英比較物語文分析〈増補版〉』松柏社

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在中日对译小说中看作者对作品中人物的介入度

KATO Haruko

 一篇小说可以分成叙述情节的部分和记述作品中人物的感觉以及想法等的部分。在后一种部 分里,作者往往会把自己当作作品中的人物来表述文中人物的感觉、想法等。本文将这种现象称 为作者向作品中人物的“介入”,并假定由低到高递增的“介入度”:介入度越高作者就越接近所 描写的人物,达到最高程度作者就与所描写的人物完全一体化了。这种最高程度的介入是通过文 中人物的独白形式表现出来的。

 本文以中文小说与其日文翻译作为考察材料,对记述作品中人物的感觉、想法等的部分进行 了调查,通过原文与译文的对比,查找句中的哪些成分决定介入度的高低。

 调查结果显示,决定作者对作品中人物介入度高低的成分,除了以往研究所提出的人称不同 和表时形式的不同以外,还与下面的这些成分有关 :

(1) 指示成分。表述“谁在看?”的成分。包括 : 指示人物的形式――专有名词、人称代词、零形式等。

指示代词的各种用法――直接指示 ( 外指 )、间接指示 ( 包括回指等的内指 ) (2) 情态成分。表明“谁在讲?”的成分。包括 :

“觉得”“明白”“晓得”“看见了”等感觉动词、思考动词。

“使”字形式。

“怪~的”“干脆”“再也不”“不能”“不”等表示价值、判断的词语。

 本文还发现,中日对译小说中,汉语原文与日语译文之间介入度不变的最多,大约占53%; 中译日时,介入度变高的为27%;介入度变低的为20%。

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参照

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