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平戸松浦史料博物館蔵「唐船之圖」について : 江 戸時代に来航した中国商船の資料

その他のタイトル On the Scroll of Chinese Ships in the

possession of the Matsuura Museum : Materials for the study of Chinese trading ships for Japan in Edo Period

著者 大庭 脩

雑誌名 関西大学東西学術研究所紀要

巻 5

ページ 13‑49

発行年 1972‑03‑30

URL http://hdl.handle.net/10112/16106

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江戸時代の我が国にとって︑長崎の唐船貿易は極めて大きな意味

を持っているが︑その研究にはなお多くの未開拓の分野が残されて

いる︒江戸時代には我が国が鎖国していたため︑中国の貨物を日本へ運

ぶのも︑我が国の産物を中国へ輸送するのも︑中国沿岸諸港から長

崎へ渡航する中国の商船l当時の呼称に従えば唐船Iがもっぱ

らその任に当ったが︑この唐船の船そのものに関する研究も未開拓

もちわたりの部類に属するであろう︒もとより当時にあっては︑唐船持渡の品

品は阿藺陀船の持渡る品についで珍貴なものであり︑それを運ぶ唐

船の姿は︑長崎を紹介する書物中の挿絵や︑或いは長崎版画にえが

かれて残っているが︑美術史的な見地からでなく︑海事史の資料と

して考察されたものは稀であり︑また当時の唐船がどのような運航

をしていたものかを研究した論考も少ない︒

平戸松浦史料博物館蔵﹁唐船之圃﹂について︵大庭︶

はじめに 平戸松浦史料博物館蔵﹁唐船之圖﹂について

l江戸時代に来航した中国商船の資料I

ところで︑長崎県平戸市鏡川町にある財団法人松浦史料博物館に

は︑この地を本拠とした松浦家累代藩主が収集した書画︑道具︑書

籍類が保存されていて︑研究者にとっては極めて貴重な宝庫である︒

平戸の地は天文・永禄の頃︑即ち明の嘉靖年間には明人王直が根

拠地とし︑十六世紀にはポルトガル︑続いてオランダ・イギリス等

が日本貿易の根拠地とした海島の港であって︑我が国の歴史上にも

類少ない土地であり︑この博物館にもオランダ船首の飾の木像をは

じめ当時の遺物が︑島内に点々とするオランダ関係の遺跡と共に注

目を集めている︒

一方︑松浦家歴代の藩主の内︑安永四年から文化三年の間藩主と

なった静山松浦壱岐守清︵一七六○一八四一︶は︑極めて博識多聞

の文化人で︑その優れた学識は彼の著甲子夜話によっても窺い知る

ことができるが︑この博物館の収蔵品は︑静山がその長命な一生の

間に集めた書画典籍が中核となっていることも︑今一つの特色と言

わねばなるまい︒

大庭

一一一一

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さて︑この博物館に﹁唐船之圖﹂と題する優れた図巻がある︒こ

の図巻はその写しが長崎図書館にあるので︑必ずしも真本を知らな

くとも︑長崎貿易の研究者の間では常識となっている資料である︒

私は平戸の真本の内︑寧波船・南京船の二図を︑我が国へ多くの典

とうせんもちわたり籍を舶載した唐船であるとして︑旧著﹃江戸時代における唐船持渡

しよ書の研究﹄の口絵に掲げたのであった︒

ところが最近︑○閏画言箆鳴大学の﹈○の①嘗z①&冨日博士は︑

大著の日の目oの陣︒ざ農園皇○口旨○三口画の第四巻勺ご巴︒四且

己ご巴8言の号固○さ電の第三部Q基の信旨①の園長旨包口幽匡菩︑

①に中国の船に関する研究をなされたが︑一九七一年七・八月京都に

滞在されたのを機会に︑私はこの図巻の存在を博士に紹介した︒博

士は強い関心をしめされ︑その紹介記事を書くことを慾通され︑籔

内清博士も関心をしめされた︒私は両博士の示された関心の強さに

よって︑図巻が一般には知られていないこと︑また平戸の土地は必

ずしも万人に便利な場所とはいえないことを考え︑これを広く一般

の利用に供する努力をすることとした︒幸い松浦史料博物館よりも

掲載発表の許可が与えられたので︑日清貿易研究の一環として︑貿

易に従事した唐船の姿を紹介し︑あわせて唐船に関する資料を提示

して象ようと思う︒江戸時代は︑しかしながら︑何といっても二百

数十年の長さがあるから︑それを包括的に述べることは困難である︒

ここに紹介する資料は︑この図巻の作られたと推定する時期に近い︑

ほぼ享保以前のものを対象とした︒この分野の開拓に微力を捧げ︑ 江戸幕府が寛永十二年︵一六三五︶に互市の場を長崎一港に指定したので︑貿易を許された中国とオーフンダの船は︑ここに集ってくることになった︒それ以後︑幕末の開港にいたるまで︑長崎はまことに我が国の門戸となったが︑長崎に来航する唐船の数は︑中国国内の情勢と︑我が国の貿易政策の変化とによって増減する︒ここで

②はその簡単な概観を書いて置くこととする︒

まず中国の国内情勢の上で最も重要なことは清朝の統一であって︑

順治元年︵一六四四︑正保元︶に清軍は満洲から山海関を破って北京

を占領し︑康煕元年︵一六六一︑寛文二︶には一応国内を平定した︒

その前年︑鄭芝龍は殺され︑鄭成功は台湾に拠ったが︑この年台湾

で死し︑子鄭経がついでいる︒しかし康煕十二年︵一六七三︑延宝元︶︑

明の降将呉三桂等の反乱がおこり︑この所謂三藩の乱は康煕二十年

︵一六八一︑天和元︶になってようやく鎮定され︑康煕一三年︵一六八

三︑天和三︶︑台湾の鄭克域が降って清朝の中国支配が完成したので

ある︒

このことは来航する唐船に次のような影響をもった︒まず第一に︑

鄭氏の一門が勢力を持っていた時期と三藩側がなお勢を保って清朝

と対抗していた時期には︑廩門を中心とする福建および台湾島から

来航する船の中に鄭氏の船や︑平南王尚可喜︑その子尚之信︑靖南 z①a盲目︑籔内両博士の期待に応えたいと思う︒

一江戸時代の来航唐船数の概観

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王歌継茂︑その子歌精忠に属する船が多く混じていたのである︒も

っとも我が国側ではその船が清朝側であるか否かは問わず︑相互の

間の争いは日本貿易に関する限り禁止し︑平等な取扱いをした為︑

双方の船が貿易に来航した︒次に清朝側では順治十八年︵寛文元︑一

六六一︶から鄭氏を訣滅する為に遷界令を発し︑一切の船舶の出海

を禁じ︑瀕海五省︑即ち︑山東・江南・漸江・福建・広東の民が鄭

氏に交易することを不可能ならしめた︒その結果︑日本銅を買取る

ために官が黙許した船が非公式に出港してくる以外は次第にその効

果をあげ︑天和元年︵一六八一︶の例のように九艘の入港船のうち

で︑中国本土沿岸から来た船は皆無になることもあった︒清の遷界

令は︑二十四年後の康煕二十三年︑我が貞享元年に︑前年鄭氏が降

伏した結果解除され︑代って展海令が発布されたが︑それまで来航

唐船を制限することになった︒

従って︑翌康煕二十四年︵貞享二︑一六八五︶からは︑来航唐船数

が飛躍的に増加するのである︒例えば︑天和三年に二十四艘︑貞享

元年にも二十四艘の入港であったのが︑貞享二年には八十五艘︑貞

享三年には百二艘というようにふえたのである︒その後は︑阿片戦

争︑太平天国の乱などの影響が多少は見られたにしても︑清朝側の

基本的な態度には大きな変化はなく︑清朝側の原因で入港船数が減

るということはなかった︒

展海令が発布されて後に︑来航唐船数に影響を持つのは日本側の

貿易政策である︒

平戸松浦史料博物館蔵﹁唐舶之岡﹂について︵大庭︶ 幕府は寛文十二年︵一六七二︶以来﹁市法貨物商法﹂を行なって︑

輸入仕入価格の抑制と貿易商の抑制を行なっていたが︑貞享元年十

一一月末にこの﹁市法﹂を廃止し︑貞享令と略称される長崎貿易制限

令を出して︑中国側の展海令にそなえた︒元年の入港二十四艘に対

し︑三倍半にも近い八十五艘が翌二年に入港して来たのであるが︑

ここで来航船の増加にともなって金銀が流出するのを防ぐため︑唐

船の貿易高を一年銀六千貫に限ることとし︑銅を貿易の基礎として

銅の輸出能力に見合って輸入額を定めた︒そして割付仕法という︑

来航船を起帆地別に区分して貿易高に兼別をつけ︑船ごとにその額

を六千貫の範囲内で割りつける方法をとった︒従って︑来航した日

時が割付額が満ちた後であると︑その船は商売が許されず積戻とい

うことになる︒華夷変態の中にある風説書のうちで﹁私船之儀︑旧

冬御当地江入津仕申椰処に︑商売不被為仰付︑荷役も仕不申︑人荷

③物共に丑十一月廿六日に御当地右帰帆仕﹂とか︑﹁私船之儀︑去十

二月六日に入津仕外処に︑商売御赦免無御座汐︑積参昨荷物之分︑

④其儘に而積帰り﹂とかあるのは︑前年の積戻船が翌年早々に再び来

航したときの口書である︒

しかし積戻船が出るにも拘らず来航船数は一向に減らないので︑

一方には当時抜荷と呼んだ密貿易があるのではないかという疑がも

たれ︑唐人と日本人との接触を制限する為に唐人屋敷が作られて元

禄二年から唐人はここに住むことを強制された︒

また元禄二年からは入港する唐船数を春と秋は各二十艘︑夏船は

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三十艘という計七十艘に制限した︒もっとも元禄八年頃から行なわ

しろもろがえれはじめた︑定高以外に物室父換の形で取引する代物替という商法

が︑元禄十一年からは追定高二千質と定まり︑定高商売終了後の唐

船の残り荷物を銅と交換する形で買取ることとなって︑この額に見

合わせて十艘分が増えて八十艘となった︒

次いで正徳五年︑正徳新令が出て定高六千賞は据置︑追御定高を

廃止し︑銅貿易は定高口で年三百万斤の銅を売り︑銅が足りなけれ

ば俵物︑諸色を売り︑起帆地ごとに積荷に特色をもたせ︑口船の分

は銀三十貫まで俵物・諸色の代物替を認め︑奥船は三十貫に拘らず︑

すべて代物替で買取るが︑その額が定高に合して九千貫を越えない

こととし︑来航船数は三十艘に限ってそれぞれ信牌を発行し︑信牌

を持つものに限り貿易を許すこととなった︒その後制限船数は享保

二年に四十艘になったがすぐ五年には三十艘︑以後享保十九年より

二十九艘︑元文元年二十五艘︑元文四年二十艘︑寛保二年に十艘と

なり︑延享三年には一度このほかに古い信牌十枚までは入津を許し

た︒寛延元年十三艘︑寛政三年には十艘となって幕末にいたった

が︑弘化元年以後は平均四艘余に減った︒

幕府は銅の不足から貿易品に俵物などを加えて銅の流出を防ぎ︑

次第に船数を制限してゆき︑一方清朝側も正徳新令以後程なく総商

を定めて日本貿易を管理し︑清朝政府の命をうけた官商︑銅の輸入

をうけおった額商による商売となり︑船数が減ってもその取引高は

必ずしも減少したわけではなかった︒ 寛永十二年以後正保四年までの間は日本側にも中国側にも詳細な

記録がなく︑オランダ側の諾記録によって岩生成一氏が調査された

結果では︑寛永十一年から正保元年までの十二年間には︑年平均五

十七艘来ていることがわかる︒来航船数が多かったのは遷界令撤廃

後間もない貞享四年︵康熈二十六︶の百十五艘︵内稚戻二十二艘︶︑元

禄元年︵康熈二十七︶の百九十四艘︵内祇戻二十二艘︶などで︑この状

勢に対して船数制限の処置を必要としたわけである︒その後我が国

の方で行った制限にともなって船数が減少してゆくことは先に述べ

た通りである︒

次に唐船の出航地についてふれておきたい︒長崎に入港した唐船

は︑年ごとに入港順に番号がつけられ︑年の十二支とその番号で呼

んだ︒例えば貞享二年は乙丑の年であるから丑の一番船︑丑の二番

船と数える︒更にその船がどこの港から来航したかによって︑福州

船とか寧波船とかいう呼称を加え︑丑八拾壱番寧波船とか︑丑八拾

弐番棉州船とか呼ぶ︒この個有番号l番立lは︑入港してから

出港までの間は勿論︑その後も変ることなくその呼称で呼ぶことに

なる︒そうすると当然年号をつけないと十二支の区別がつかなくな

るから︑貞享二丑十五番南京船というような呼び方になり︑更には

船頭名をも加えて︑貞享二丑十五番南京出シ呉湛竹船ということに

もなるのであるが︑これ程町障にいうことは余りない︒

出港地は山東︵山東省︶︑南京︵江蘇省︶︑舟山︑普陀山︑寧波︑台

州︑温州︵漸江宿︶︑福州︑泉州︑厘門︑滝州︑台湾︑沙埋︵福建樹︶︑ 一一ハ

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安海︑潮州︑広東︑高州︑海南︵広東省︶など︑所謂瀕海五省からく

る船と︑東京︑安南︑広南︵カチャン︑今日のフェィフォ附近︶︑占城︑

ソフキョラ︵脚汗スソクウラ︶束哺案︑暹羅︑六罠今レー半烏中部東岸の匡唱周︶︑宋居勝︵同上

望侭︒色︑太泥︵同上︑悪国昌︶︑麻六甲︵冨号o8︶︑咬瑠肥︵g言画・

野冨ぐ旨の古名︑オランダ語︶︑万丹︵ジャワの西北岸の野昌g︶などの

東南アジア諾地域からくる船であった︒このうち東南アジア地域か

ら出港してくる船を奥船︑南京︑漸江諸港︑即ち江漸地域からくる

船を口船︑福建・広東の船を中奥船と総称し︑大勢としては初期に

福建省の船が多かったのが次第に江漸出しの口船に変ってゆく傾向

をたどった︒浦廉一氏のあげられた船数によれば︑元禄元年入津の

唐船の発航地を華夷変態十四・十五にふえる百九十三艘の唐船風説

唐船起帆地 略 図

平戸松浦史料博物館蔵﹁唐船之圖﹂について︵大庭︶

長崎

平戸

へ上

南海日一

一盆蕃

寧波陀

(乍浦)−

温州

福州

立早川川

︑色J881J皿クク ︑″叩仙㈹湾

東京

害を根拠に見ると︑

福州船四五艘︑寧波船三二艘︑厘門船二八艘︑南京船二

三艘︑広東船一七艘︑泉州船七艘︑潮州船六艘︑広南船

五艘︑普陀山船五艘︑台湾船四艘︑高州船四艘︑咬噌咄船

四艘︑海南船三艘︑沙埋船二艘︑麻六甲船二艘︑渥羅船

二艘︑温州船一艘︑安海船一艘︑潭州船一艘︑安南船

一艘

となっており︑福建省八六︑漸江省四○︑広東省三○︑江蘇省二三︑

南方地域一四の分布となる︒ついで元禄二年以後の唐船年七十艘の

制限にあたっては

春船二○艘の内︑南京五︑寧波七︑普陀山二︑福州六︒

翁厩伽

‐宋居

/(シ

ペ狼,

勝ン

ゴラ)

)ぞ

二皇

︵マラッカ︶麻六甲

萬丹

︵︵ ︵ジヤ咬溜咽111 カルタ︶

|アン︶

(15)

夏船三○艘の内南京三︑泉州四︑寧波四︑潭州三︑咬唱昭二︑

束哺棄一︑普陀山一︑眞門五︑太泥一︑福州四︑広東二

秋船二○艘の内南京二︑交趾三︑暹羅二︑高州二︑福州三︑寧

波一︑広東四︑東京一︑潮州二︒

となっていて︑これは福建省二五︑湘江省一五︑広東省一○︑江蘇

省一○︑南方方面一○という割合である︒次に正徳五年に船数を三

○艘に限った時の配船の出航地別は

南京船一○寧波船二盧門船二台湾船二広東船二広南

船一暹羅船一咬瑠肥船一

となっていて︑福建省は僅かに厘門船二と台湾船二に減じ︑南京・

寧波の口船が断然優位にたっている︒

浦廉一氏は︑口船が次第に優位になることを︑﹁清朝政府では︑

距離的に最も地の利を持ち︑且つ日本向け物資を豊富に産する江湖

方面の寧波を︑弁銅貿易の中心たらしむる意図を持ち始めた﹂結果

⑤と考えて居られる︒清朝政府が川本産の銅を確保する為︑弁銅官商

と︑額商と呼ばれる十二家よりなる民間辨銅商人を指定し︑日本貿

易を行なわせたことは事実であるが︑それはもっと後︑乾隆八年

︵寛保三︑一七四三︶からで︑正徳新令発令当時の事ではなく︑この

時実蹟のない地方は削除されたが︑福建については正徳新令の信牌

の授与をめぐって江湖商人と福建商人が争った結果︑福建商人が敗

れてその勢力が衰退していったと考えるべきである︒山脇悌二郎氏

の研究がある︒ ところでこれらの出航地が︑その船の船籍港を意味するのかというとそうではない︵但し︑今日でいう船籍のような厳格なものがあったとは考えない︶︒具体的な例をあげて承ると︑元禄四年辛未の四五番普陀山船の口書によれば

私共船︑元は寧波船に而御座岬︑寧波に而黒砂糖之類下荷物積申

外而︑当四月十四日に普陀山江船をかけ置︑糸端物類之上積荷物

は︑皆を普陀山に而積添申岬に付︑普陀山出しと申上儀に御座岬︒

としていて︑寧波船が普陀山に寄港︑荷物を積承足したので普陀山

船と称しているわけなのである︒ところが元禄五年壬申の二八番福

州船は

私共船は︑福州に而仕出し︑則於彼地に唐人数三拾壱人乗り組外

而︑当四月十五日に無類船︑私共船壱艘︑福州出船仕︑同廿八日

に普陀山江船を寄せ︑於普陀山にも少々荷物積添︑用事等相仕廻

申岬而︑当月十六日に普陀山乗出し渡海仕岬︒

とあって︑普陀山で荷物を積んでも本来の福州船を称している︒も

う一例︑元禄四年辛未六八番高州船の例では

私共船は︑元寧波船に而御座胖得共︑去年十一月に広東之内︑高

州江罷渡り︑則於彼地荷物相調︑今度渡海仕椰に付︑高州出し船

と申上儀御座外︒

としていて︑寧波の船が広東の高州へ行ってそこから来ると高州船

と称している例である︒これらの例は華夷変態では数多く見られる

所である︒ただ︑このような例があるから︑何々船と称することは

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﹁唐船之圖﹂は縦五七糎︑全長九八二糎の巻物で︑紺色の表装に

題策があり︑

﹁唐船之圖平戸樂歳堂藏完﹂

と書き︑更に内容を三船ずつ四行に書いて帖付してある︒

この図が︑何時︑誰によってえがかれたかは明らかでない︒松浦

史料博物館では︑一時松浦静山が画かせたものとしていたことがあ

るが︑﹁樂歳堂藏書目﹂と題する平戸藩の所蔵図書画の解説目録に

は次のように記している︒

唐トハ︑吾俗潭ヘテ西土中国ヲ指テ爾云う︒此図︿清商ノ来崎ノ

船ヲ圖スルナリ︒圖其仔細ヲ着ルベシ︒而其中紅毛舶一ヲ載ス︒ 余り重要ではなかったといえば︑それは誤まりであろう︒まず︑船数制限で出航地別に船数を割当てていることは︑十分法的規制の対象となっていることを意味するし︑正徳新令で唐船の積荷に特色を持たせ︑口船には銀三十貫まで︑奥船は三十貫に限らず代物替を認めた措置などは︑その出航地が重要視された証拠で︑他方か船籍がどうあろうと︑何処の出航といえばその地の特色をもった積荷がなければならなかったと思われる︒

なお一艘の船が来航する年によって出航地を異にすることもある︒

これは一艘の船を追跡調査してゑると明らかになることで︑後に改

めて述べることとする︒

平戸松浦史料博物館蔵﹁唐船之圖﹂について︵大庭︶

二﹁唐船之圖﹂の形状と作者

又来崎ノ舶ナリ︒其形ヲ詳ニス︒此圖旧庫中二蔵ム︒思う|一長崎

ニメ画工目撃〆所画ク︑差シ松英安靖二公ノ間ノモノナル当シ◎其目

・南京船一・寧波船二・福州・福州造広東出シ船・広南船一・眞門造南京出シ船一・台湾船一・広東船一船一・暹羅船一・咬瑠昭出シ船一・阿蘭陀

船︒﹁樂歳堂藏書目﹂は松浦静山の時に︑静山が中心になって作成し

たものである︒従ってこの記載によって彼以前に作られていたこと

は明らかで︑松英安靖公の間のものであろうと推定をしている︒松

英公とは篤信で静山の先先代の藩主︑正徳三年︵一七一三︶に雲封︑

されのぷ享保十二年︵一七二七︶に致仕︑安靖公は誠信で静山の先代の藩主︑

享保十三年に嗣ぎ︑安永四年︵一七七五︶に静山に封をゆずった︒

従って︑ほぼ十八世紀の作品という漠然とした表現はまず可能であ

る︒

私は更にその年代をもう少し限定できるのではないかと考える︒

それは︑寛政重修諸家譜の松浦家︑篤信の条に

享保三年十月︑仰により先年天草の賊徒楯籠りし肥前国原城をよ

び陣場の木図︑異国船の小形︑天文図式︑朝鮮の鞍︑阿藺陀鎮炮

等を台覧に備ふ︒そののち我国の船と唐船との利害大久保佐渡守

常春してたづねらるるにより︑その得失の論をのべ︑また異国の

船防禦の事をも御尋あるによりその用法を言上す︒

という記事があるのに関連してである︒徳川吉宗が享保元年に将軍

になってから︑彼は多様な問題を︑それぞれ知識を持つ大名以下に

下問し︑自らの知見を増すことに努めた︒殊に外国に関する知識を︑

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吉宗は求めていたと思われる︒例えば︑中国の事情に関する知識の

提供を島津吉貴に求めたのもこの頃で︑享保四年三月付の﹁中華之

儀二付申上候覚﹂という吉貴よりの答申が伝っており︑この答申の

際に同時に差出されたのが後に官板の出た六諭術義のもとになった︑

﹁琉球人板行仕持帰外六諭桁義﹂なのである︒この時期にl寛政

重修諸家譜にいう﹁そののち﹂が︑享保三年十月をどれほど離れた

後か明らかでないが︑余り遠く離れてはいまいと考えるとl︑吉

宗が我が国の船と唐船との利害について質問をし︑或いは異国船防

禦のことをたずねたと考えるのは理由がある︒それは︑吉宗が将軍

となる前年︑即ち正徳五年に︑新井白石による正徳新令が出され︑

長崎の貿易高に制限を加え︑唐船は年間三十艘に限って貿易を許し︑

貿易を許される商人は日本側の発行した貿易許可証l信牌を持っ

ているものに限られることになった︒この結果︑享保二年二月頃か

ら小倉沖︑出雲沖︑伊勢浦︑北国浦などに三艘から十余艘の唐船が

漂流をよそおって滞船し︑密貿易の機をうかがうようになり︑小倉

藩の藍島附近では唐船団の出没が多いため︑小倉藩は幕府の指示の

もとに︑黒田・毛利等の軍船と共に︑享保二年五月十三日砲撃を加

え︑享保三年には幕府は目付渡辺外記を派遣︑その指揮のもとに四

月十五日に唐船を砲撃して損害を与えた︒このような事件は享保五

年頃まで続くのである︒そしてこの享保三年に砲撃された李華夫が

船頭をする一艘は︑乗組五十三人中十人が死に︑鉄砲疵を受けた者

がいたが︑漂流をよそおって平戸領に漂着︑松浦肥前守︑即ち篤信 から長崎へ送り届けたという例もある︒従ってこの時期に︑和船と唐船の利害得失︑異国船防禦の事が問題になることは充分理由があると思うのである︒

﹁唐船之圖﹂は︑後述するように︑極めて詳細に寸法が書き入れ

てあり︑かつ縮尺が正確に行なわれている︒この図の目的は単なる

唐船︑蘭船の姿を見るための︑例えば長崎版画に承られるような図

ではない︒また︑この図に用いられている色彩は甚だリアルで美し

く︑その金色の部分に端的に見られるように絵具も上質である︒そ

れで私は︑﹁唐船之圖﹂の作成の目的は︑篤信が︑将軍吉宗の下問

に答える為ではなかったかと想像する︒そうすればこの図の成立は︑

ほぼ一七二○年頃というように限定できる︒

次に﹁唐船之圖﹂に附随して﹁外國船具圖巻﹂というものがある︒

縦二七・八糎︑全長六五○糎の図巻であるが︑同じく﹁樂歳蛍藏書

目﹂に﹁唐船之圖﹂についであげられ

アーブハコレ前図二附ソ旧蔵一一有り︒皆前図ノ舟中ノ器ヲ見ス也︒

と記している︒本稿にあわせて紹介する︒

﹁唐船之圖﹂には題篭や﹁樂歳堂藏書目﹂に掲げたように十二枚

の図がある︒その順序はまず南京船があり︑次に寧波船の帆を揚げ

た姿︑次に帆を降して停泊中の寧波船︑次に福州造り南京出シ船

︵帆を降して停泊中の姿︶︑台湾船︑広東船︑福州造り広東出シ船︑広

三﹁唐船之圖﹂に画かれた唐船

(18)

南船︑厘門船︑暹羅船︑咬喝咄出シ船︑阿蘭陀船の順になっている

︵口絵一七参照︶︒

各図はそれぞれ最初に船名を書き︑その下に﹁壱間ニ付壱寸積﹂

というように縮尺を標示している︒この縮尺は暹羅船が壱間につき

八分︑阿蘭陀船が壱間につき七分の割になっているほかは︑壱間壱

寸の割で画いている︒このように︑正確な縮尺で画いてあることが︑

まず第一にあげるべき特色である︒

平戸松浦史料博物館蔵﹁唐船之岡﹂について︵大庭︶ 第1図

1

1本帆 2弥帆 3高帆

56本帆柱

一皿一洲柵船

3鏡板

吃一

花一︵仮称後胴︶1|まぎり瓦

201918

|唐船之図一封舟図一平底船図

勢塁将 柁 卜台

神一頭頭大 条巾 旗龍頂蓬蓬

龍骨 神燈

大蛎 脆旗

頭大 蓬蓬

龍目

水仙門

定風峅 兎耳・托浪板 蛎祖峅杼 次に船の部分の名称を書き入れていることが注目される︒船の部

分の中国名に関しては︑zの&冨日博士が琉球国志略に象える封舟

図と︑マールベルグ図書館にある闘省水師各標鎮協営戦哨船隻図説

の中の平底船図とをあげて解説されたものが恐らく唯一の文献であ

⑦ろう︒これを参照して主な部分の和漢名をあげて比較表示しておこ

う︵表一︶︒なお皿賜陥は表二のために仮称をつけた︒

また︑長崎名所図絵の中に船中の要具に十二支をかたどった名勵I

があるとして︑次のような名前をあげる︒

鼠橋矢倉二上ル梯子︑牛欄矢倉ノ欄干︑虎尾帆扣へヅナ︑

ホパシラ

兎耳椀ノ上ノ爽ミ木︑龍骨船底ノヵワラ︑水蛇水際ノ横

ナハウチグ

木︑馬面帆スソ︑羊頭索打具︑猴袋船傍物置所︑鶏桿船

底ノ板︑狗牙船底ノ索ヲ掛ル木︑楯猪楯根ノ扣へ木

次に船の総長︑表高︑艫高︑帆柱長など主要な部分の寸法を書き

入れてあり︑その寸法を書き入れている部分は︑唐船については全

部共通の場所であるから︑次頁にその寸法を書き出して比較対照す

るようにした︵表二︶︒

この表でまず目につくことは︑遜羅船が大船であることであろう︒

唐船の多くが十六・七間であるのに対し︑飛羅船は二十三間で︑全

長だけでは阿蘭陀船より大きいのである︒事実︑後述するように暹

羅船の乗員は百名を越えるものがあり︑大船であることが裏づけら

れる︒

なお︑江戸時代の後半になると︑貿易を許される船数が制限され

一一一

(19)

I

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慢罵毒︵覗笛丑︶一

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(20)

る一方︑官商・額商など有力な商人が船を出すようになるので︑自

然南京船や寧波船でも大型船がくるようになるのが一般的傾向では

ないかと思われる︒

例えば︑長崎版画に画かれている唐船の図は︵第2図︶︑多くは江

戸後期の作品で︑それらの図の上部には船の寸法や乗組人数などを

書いている︒これらは何かもとずく画ができると無批判にもとの図

柄を踏襲するというようなこともあって︑必ずしも正確なものとは

いえないであろうが︑唐人数三十人余︑船ノ長サニ十三間余︑幅凡

四間余とするものと︑長サ廿五間︑幅七間︑大柱廿五間︑乗組百人

余とするものとがあり︑十数間のものがないことが注目される︒

また文献的に︑正確な資料を求めて承ると︑通航一覧の中に承え

る難船の大きさの記事を見出すことができる︒

まず宝暦三年十二月に八丈島に漂着した高山輝・程劔南の南京船

は︑深三丈︑長十二丈︑幅三丈とあり︑幅は五丈の誤りではないか

③と思うが︑長サニ十間である︒

安永九年五月に安房の千倉浦に漂着した沈敬鱈の南京船は︑長二

十間余︑横十間計とか︑船長三四十間とかよいかげんな見聞談もあ

るが︑長三十間︑中購広十間︑措柱高八丈六尺というのが正確なよ

うである︒

更に文化十二年に伊豆の下田に漂着した楊秋巣の南京船は︑船長

三十八尋︵間︶︑広十八尋︵間︶︑深五丈︑三楯即ち三本の帆柱の大船

である︒

平戸松浦史料博物館蔵﹁唐船之圖﹂について︵大庭︶ このような点を考えると︑本図の唐船がいずれも二十間未満で︑

暹羅船の承二十三間であるのをゑて︑自然江戸時代前期の図と考え

⑩なければなるまい︒

次に目立つことは︑南京船の表高と艫高との差である︒他の船は︑

ほとんど全部が表高と艫高が等しいのに対して︑南京船の象が表高

一間三尺に対して︑艫高三間四尺五寸で︑艫が三倍近く高く︑図に

よって明らかなように︑他の船とは違った形をしている︒この形の

船が元禄の頃に来ていたことは︑後に述べるように増補華夷通商考

で明らかであるが︑文化四・五年の間長崎へ来た田沢春房の作った

﹁長崎観覧図絵﹂︵その写しである﹁長崎紀聞﹂︶の中にも画かれていて︑

俗二豆船ト云本名砂船也

と解説があるから︑後期にも来航していたことがわかるのである︒

さて︑西川如見の増補華夷通商考には︑宝永六年の序があって成

立時期がわかるが︑その中に南京船と福州船との図を掲げており

︵第3図・第4図︶︑南京船は明らかに表高より艫高の方が高い姿に画

かれている︒そして巻一の南京のところに

道規日本より海上三百四十里︒方角日本九州の正西に当る︒南京

より北京迄は陸地凡四十日程之れ有り︒或河船にても往来す︒今

長崎に来る南京船と云は︑此の河舟を直に乗出し来る也︒此の故

に舟の造やう︑底平く長き也︒何方より吹風にも乗安く妨げ無し︒

日本に来る船︑四季共に之れ有り︒

と記している︒この解説によれば︑舟の造り方は﹁底平く長き也﹂

一一一一一

(21)

‐…

鰯識瀞篭

第2図

議繍 灘

婁総! ‐ 零

簿

巌蛾

霊恥

羅蕊蕊

ザ¥肥

要喜一手

霊 雲蕊蕊鶏蕊

第4図 第3図

(22)

と言っているが︑南京船の図は底が平坦で︑かつその全長は︑他の

船に比較すると一間ばかり長く十八間となっていて︑いかにも華夷

通商考のいう河舟である︒この形の舟は︑別の所でも議論になって

⑫いる︒すなわち︑唐通事会所目録一の寛文三年六月五日の条に︑そ

の年の壱番船が明Ⅱ出船というので奉行へ報告に行った大通事陽惣

右衞門が︑奉行に説明をしている中に︑︵奉行が︶

御意被成候者︑はへの風二而者︑ひらきにて帰唐成候様二被存候

と御申被成候︒叉惣右術門申上候︿︑此只今之はへの風にて沖中

殊外なミたかく︑殊二跡船︿小船︑其上︑川舟のことく作りたる

船二而御座候︑其上︑小船二人余多乗申事二御座候間︑我々成か

たく存候段申上候︒叉御意被成候︿︑余船者横右の風二而も︑ひ

らきにて帰唐仕様二御聞被成候︒此船一一かきり︑よこ風二成かた

く候段︑心得かたく被思召候と御意被成候時︑叉惣右術門申上候

者︑右申上候様一一︑余船者︑安海船︑泉州船︿作り様南京船ニハ

ちかひ申候二付︑右之仕合一一而御座候︑惣而南京船者︑大浪はら

二てく︑川船作リニ平た二作りたる船故︑右申上候通一一御座候と

惣右術門申上候︒

とあって︑奉行勘出久太郎に説明しているのは︑南京船が川舟の形

をしており︑柵建の船と構造が違って横波に弱いということである︒

そうするとこの形の舟は︑天工開物の舟車漕肪の条にいう

元朝混一・以燕京為大都︒南方運道︑由蘇州劉家港海門黄連沙開

洋︒直抵天津︒制度用遮洋船︒永楽間因之︒以風涛多険︒後改漕

平戸松浦史料博物館蔵﹁唐船之圖﹂について︵大庭︶ 運︒平江伯陳某︑始造平底浅船︒則今糧船之制也︒

という記述の︑平江伯陳某︵陳殖︶が造ったという平底浅船に該当

するであろう︒従って逆にいえば︑本図の寧波船以下の船は海洋航

行用の遮洋船であるといってよい︒

また︑﹁長崎観覧図絵﹂の注に︑本名は砂船というとしているが︑

これは沙船と書くもので︑z①a言冒博士も引用されているように︑

⑬武備志の沙船図説に出ている図及び記述を参照すべきであろう︒そ

の記述では︑

水戦非郷兵所慣︒乃沙民生長海浜︒習知水性︒出入風濤︒如履平

地︒在直隷太倉崇明嘉定有之︒但沙船僅可於各港協守小洋出哨︒

若欲出赴馬蹟陳銭等山︒必須用福蒼及広東烏尾等船︒沙船能調戟

使闘風︒然惟便於北洋︑而不便於南洋︒北洋浅︑南岸深也︒沙船

底平︒不能破深水之大浪也︒

とある︒沙船が平底で︑福船︑蒼山船︑広東烏尾等船の船底の尖っ

た船︵即ち龍骨のある船︶と対比されること︑北洋の浅海で有利で︑

南洋の深海には不向であることなどが述べられ︑天工開物の平底浅

船と遮洋船の対比と同じである︒武備志の沙船の図に画かれている

船の姿も︑鱸高が表高より高い︒

次に南京船の図で注目されるのは︑船の中央部︑本帆柱の舷側の

左右にある﹁脇板﹂の存在である︒これはいわゆる﹈の①言画aで︑

風下側の板をおろして抵抗力をつけ︑風下に流されないようにする

設備である︒武備志の沙船の図には画かれておらず︑増補華夷通商

(23)

考の図も長崎観覧図絵の図も︑水中におろした姿が画かれているた

ヘサキめ︑一見してそれとは気づき難い︒増補華夷通商考の.﹁南京船砿ノ

ナ︑メワキカジ方ヨリ斜二見ダル図﹂︵第3図︶には︑﹁脇揖トテ両方二付ダル板ア

リ軸アリテ上下スル如クニシタルモノナリ﹂という説明がついてい

て︑この脇揖が﹁唐船之圖﹂にいう﹁脇板﹂なのであるが︑とても

全貌を想像することは困難である︒従って本図は甚だ貴重な資料を

提供していると言うべきであろう︒ところが︑この﹁脇板﹂の存在

することを知って承ると︑武備志の記述の中の

沙船能調餓使闘風︒

の句の意味が明らかになってくる・餓は創の古字であるが︑ここでは

餓木︵︒罫四長日巨支柱︶などの現代語と同様の意味に解するべきで︑

散︑即ち支えを調えて風と闘うというのは︑まさしく庁の言画aを

用いることであろう︒そうすると︑武備志に従えば﹁脇板﹂は戯と

呼ばれたと考えてよい︒

次に注目されるのは本帆が綿であることである︒阿蘭陀船は別と

して︑唐船の帆はいずれも本帆︵大窪︶と弥帆︵頭蓬︶とをとわず︑

竹と角材とを用いて網代形に網んだもので︑折り畳んで降ろしてあ

る姿は寧波船及び福州造り南京出シ船に見られる通りである︒﹁唐

船之圖﹂では︑この帆に﹁笹帆﹂という説明をあたえている︒笹帆

は和漢船用集巻十一に次のように書いている︒

笹帆網代帆と云︒武備志に叉帆筈といへり︒眉公雑字風蓬品字

菱日︑多編し竹為し之謂一乏風遥元これ網代帆なり︒とまほと読せ 恥叩ソ︒

この説明がちょうど該当するのである︒ところが︑南京船の本帆が

木綿帆になっているのは︑恐らく松江地方を中心とする綿織物の生

産地域に基地を持つ船だからであろうが︑注目すべき現象である︒

なお︑このことを理解した上で増補華夷通商考の南京船の図を見る

と︑これも本帆が綿帆になっていることがわかる︒

笹帆にしても木綿帆にしても多くの横桟がついており︑寧波船︑

台湾船︑福州造り広東出シ船︑広南船︑暹羅船などの図のように︑

帆の裏側が見えるように画いた図を見ると︑帆の一方の端に引づな

が多数つけてあり︑それを一たぱにして滑車をつげ︑さらにつなを

つけて船上に結んでいる︒そして引づなをつけた側の反対側の端近

くの所が帆柱につけてある︒いわゆる片帆の形になっている︒そし

てこの引づなを引締めたり緩めたりすることによって風圧を加減し

操縦するわけであるが︑所謂ラグセイルである︒

次に寧波船︑広東船︑福州造り広東出シ船︑広南船︑逼羅船︑咬

瑠肥出シ船はいずれも本帆柱の上に木綿の﹁高帆﹂をあげている︒

封舟図では頭巾頂としているもので︑zの①今幽日は博士8冨呈と

訳をつけている︒また暹羅船は船首に﹁屋り出し柱﹂があり︑その

柱の下に木綿の帆をつけている︒封舟図では頭揖といい︑zの&言目

⑭博士は急胃のH︐の塁或いはきぎの冒岸︲の塁と訳をつけている︒この

帆は西洋では十六世紀末になるまでは一般的でなかったとされるが︑

暹羅船は西洋船の影響を受けたのであろう︒増補華夷通商考でも巻 一一一ハ

(24)

平戸松浦史料博物館蔵﹁唐船之圖﹂について︵大庭︶

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第6図唐船を艫から見た姿 第5図唐船を舳から見た姿

(共に神戸市立南蛮美術館蔵品による)

(25)

四の末に外国出シノ舟という見出をあげ︑混羅出ノ船ナリとして図

をかかげるが︑

ヘサキヤリダシ千二遣出トテ短キ橘アリ︒外国ノ海上遠キ一往来スル処ノ唐船︿

皆遣出ノ橦有テ︑帆ヲ掛ル︑叉高帆卜云アリ︑本帆弥帆ノ上一一叉

帆ヲ掛ル也︒高帆モ遣出シ︿皆木綿ナリ︒

と書いている︒従って唐船之圖には何も名称はついていないが︑

﹁やり出し帆﹂と呼ばれたものと設える︒

最後にこの図の色彩について述べて置こう︒これはまことに美事

な色でえがかれており︑南京船が船体が黄色︑暹羅船が吃水上の舷

側の部分が小豆色である以外は︑各船吃水上の舷側の部分は美しい

黒色︑また吃水以下が真白に画かれているのは︑油石灰を塗るから

である︒笹帆は青竹の色がきれいに出ており︑ひるがえる旗の内一

条龍はふちを水色︑中央は白色であるほか︑多くは赤い色の旗で色

どり豊かなものである︒この勝れた色彩と良質の金箔を用いている

ことは︑吉宗に見せる為に作成したという私の仮説を別の面から支

持すると思う︒その美しい姿をカラーで伝え得ぬのを残念に思う︒

次に外国船具の図についてのくよう︒この図は楽歳堂蔵書目にあ

るように﹁唐船之図﹂に附録したもので︑主として甲板上にある船

具を別に一つ一つ写生したものである︒

最初に﹁平戸藩L藏書﹂︑﹁樂歳堂L圖書記﹂の印記があり︑ついで

南京船鉄碇長サ壱間四尺爪三尺七寸南京船揖惣長サ三間

半上幅五尺七寸中幅壱間弐尺壱寸下幅五尺七寸︵図版八1︶

鞍儲

第7図 第8図

暹南 渥 櫓 寧 南

間羅京長八羅三四惣南寸 程厚木南波サ尺州東京

六船船サ寸船寸間長 、 暹尤サ碇 、 、 四程造 、 、

尺 五五 へ六凡咬寧羅寸五 咬台尺 リ広寧

二*ホ尋窓::重職鯛オパ ゞ.※

寸碇切弐 間ロ巴 、 不程壱ロ巴 、尤廻石 、 、

間出眞寸リ 火咬台

:請鬘窯壷 鳶棗偽蕊震曇""門杲實稲湾

五惣四ゞ尺ソ 長 州門五八尋奨漏棗同程壼雲濤

分長間 六弐 四惣造 、尺曾三寸造 、 凡リ 、

弐 寸尺 間長リ 広三、‐/間程リ 広 長弐福広

(26)

篝Ⅷ

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平戸松浦史料博物館蔵﹁唐船之圖﹂について︵大庭︶

霊灘

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第13図

第16図 第15図

参照

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