「七言排律」不
對偶表現の本質から
行の原因
松浦友久
序 「對偶表現の本質」(再確)
「五言排律」 行との比較において 「七言古體詩」 行との比較において 結語序
代までに完
した中國古典詩の十一種「六言
の詩型のうち、 (1)文學史 して位置づけること自體が問題となるほどに、作例も少なく、
句」と「七言排律」の二つだけは、自立した詩型と 影 力も乏しい。このうち、「六言 句」がなかった
行し 因は、「句末休 」(リズムことによってリズムが活性 が存在しない眞空)
しない、という點に在ることは、 すでにほぼ公 された客一方また、「七言排律」不 われる。
な事實であると言えるように思 (2) 行の原因については、筆
かつて、「七言律詩」の詩型
は ・樣式 な完璧性にそのを求めた小論を發表している。その立論の筋 (3)
因 は基本の本質」という 當であると考えられるが、この問題は、さらに、「對偶表現
に正 點から論ずることによって、いっそうに解決されるものと思われる。本稿では、「對偶論」の一
明としてこの懸案に對處することによって、中國古典詩における「對偶性」の極限
偶
が、一方では「七律」という完璧な對 という 詩型を生み出しつつ、また一方では、それゆえに「七排」 剩な對偶を明らかにしてゆきたい。
詩型を淘汰していった、という事實關係 中國詩文論叢第十九集82
對偶表現の本質
(再確 )對偶表現の本質は、「新しいものの生
・ れば、「 出」でもなけ 題の反復による 得・「本質」らはむしろ、から生まれた「現象」の
效果」でもない。それ (4)
換言すれば「文意明確 、「表現としての自己完結機能」てその表現が自己完結する 表現範圍がAとBの共それによっのみに限定され、分部有て、 、、、、 ・同・整合に提示されることによっが同格の形で對比位 、、、、 「表現A」對「表現B」きものである。對偶表現の本質とは、
相と言うべ 一般に、對偶表現が「新しいものの の機能」に他ならない。ていたものが顯在 、、 れるのは、この「自己完結機能」によって、それまで潛在し 、、
出」のように感じら されるからであり、「 題が 得・意が明確 されるように感じるのは、この「自己完結機能」によって文
」 し、讀 をより 力に
對偶表現の本質をこのように
得するからである。が多用されるのか」、「なぜ、對句 「なぜ、中國詩文、とりわけ文語系の古典詩文において對句
定・論定することによって、一 を多用しながら文意が意外に分かりやすいのか」、といった
體の四六駢文では、典故 の興味深い論點が、客 に解決されることになる。こ (6) うした事實は、同時に、對偶表現の本質をこのように私見では、本稿の標題「七言排律の不 ることの正當性を保證することになるのは、言うまでもない。
定す 記の 行」も、實は、上 詩型というべき「七言律詩」が 在する。なぜなら、本稿標題の懸案は、①「七排」と同質の 定の正當性を保證する興味深い事實の一つ、として存 世以後の中國で最も好・耽溺、という事實を考慮に入れるとき、とりわけ無 た詩型であることや、②文語系古典詩文における對句への愛
行しがたい重
し以下、立論の筋
性を帶びてくるからである。 をより明確なものにするために、「相補 、、、詩型としての
・
五言排律・
との 同」、および「型としての
・
七言古體詩・
との 似詩 、、、 同」、という二つの論點に して考察を めたい。「 五言排律」
行との比較において
擴大・充實した詩型である。從って、そこでは、
知のように、「排律」(長律)とは「律詩」の對句部分を(一聯)と末尾の二句(一聯)が散句
頭の二句 べて對句によってj sa ・ n ・
である以外は、すされ、「一韻到底」「 體 仄」という 體詩としての性格が嚴守されている。
「七言排律」不
行の原因―對偶表現の本質から―(松浦)
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このため「排律」は、質
る量
には「律詩」と同質の、たんな 、、 律 という詩型としての表現機能性・整合性・自己完結性」(韻 擴大詩型と言うこともできるのであり、現に、「對偶「七言排律」は極度に冷 それにも關わらず、「七言律詩」は極度に愛好されながら 個性)は、ほとんど「律詩」と同一であると言ってよい。
と竝ぶ最重 律詩」と「五言排律」の關係にあっては、「五律」が「七律」 味しているのか。しかも、ほぼ同じ關係にあるはずの「五言
されているという事實は、何を意 詩型であっただけでなく、「五排」は科「詩帖詩」の最重
の 詩型として「五律」以上に重「四」 えば、對句を必ずしも得意としない李白にさえ「塞下曲、其 るのである。むろん、詩帖詩ならぬ一般の五排にも、例
されてい 夜江行、寄崔員外宗之」「このように見てくると、「七律」が 存在する。 な名作があることに明らかなごとくすぐれた作品が多數
儲之武昌」などのよう がなぜ 愛されながら「七排」「五律」とともに愛好されていた、という非竝行 、
否されたかというこの懸案は、一方の「五排」は な事實に して考えるのが、第一の有效な方う。
であると言えるであろ と七言句の本質 か「七言」か、という明白な字數の差にある。では、五言句 「五排」と「七排」の差は、むろん、その各句が「五言」 な差は何處に在るのか。それは、一 の詩 リズム論を (6) じて疑問の餘地なく明らかなごとく、というように、「五言句=三 、拍」對「七言句=四 、拍」(それぞれ句末に一
ぶんの休
「五律」や「五排」という詩型は、このため、「①對偶性 數拍」の對比性にある。 〔×印〕をもつ)の、「奇數拍」對「偶
↓
②整合性
に
↓
③自己完結性」という律詩自體の表現機能を確實 えながらも、その韻律 根幹をなす「拍對表現機能たる「對偶性」自體が相 、、 「一句三拍」という奇數性を基本としているゆえに、第一の 、、、
リズム」が ぜなら、「對偶」とは、文字 、 されざるをえない。な 、の對比による新鮮さや流動性」數「奇する表現手法であり、 、、
り、と本性の對比」を根數「偶 、、、、 中國詩文論叢第十九集84
春眠 1拍
)
不覺 2拍
)
曉× 3拍
(孟
)
然「春曉」)
上 1拍 山)
2拍)
石徑 3拍
)
斜× 4拍
)(杜牧「山行」
)
感は、明らかにその變相 バリアントとして位置づけるべきものだからである。このように、第一の表現機能たる「對偶性」自體が相對
されるとすれば、「對偶性」から
「整合性」が相對
生する第二の表現機能 三の表現機能「自己完結性」も相對 されるのは當然であり、また從って、第つまり、「五律」や「五排」という詩型は、例えば、「細 、 ない。
されるのは言うまでも風岸」(杜甫「 、
、「白馬夜書懷」) 、
が 時として活用しながらも、やはり一句單位では「對偶」表現 其四」「塞下曲、)のような「句中對」(當句對)の手法さえも
金塞」(李白 、 相 型きな大であるのとは、リズム自體において對偶(句式) 律」や「りにくく、排」が、句七の「」拍「一句=四七 、 が 六句・八句……と對句を このため、「五排」の實作は、たとえ、さらに二句・四句・ められる。句型リズムの
加していったとしても、根本な 元で對偶性が相對 、、 されているため、一首 、體としての自己完結性もおのずから相對
換言すれば、對句のさらなる添加が、必ずしも 、、、、、、
されることになる。覺を感じさせず、從ってまた、一首
剩な對偶感 體としても、自己完結 感のうえにさらに自己完結感を重ねるという蛇足の趣きをけることができるわけである。
これに對して「七律」「七排」の場合は、韻律の根幹をなす「一句ごとの拍
・偶數安定した對偶
リズム」が、「一句=四拍」という最も 、「風 、
となっている。このため、例えば 、
天 、
、猿嘯哀×、
、 、 沙 、白 、鳥飛廻×」(杜甫「登 」。×印は「休」)のように、一句
拍場合のような このため、の「五排」「五律」は、七排」「や「七律」 當然の現象と言えよう。かなごとく この杜甫の例詩にも明らを生むことは、句(對偶表現) 行なわれる。完璧な句中對の上句と下句とが、より完璧な對 きわめて容易にを作ることさえも、表現(句中對・當句對)
部での完璧な對偶 相對 リズムの奇數性に因る「對偶性の抑制・ 」がまったく行なわれず、「對句」の對偶性の
加はそのまま・ 對 中央兩對同士の對偶 そしてこの場合、「七律」という詩型が、①八句、② 」として作用することになる。
對偶
、③中央兩對を軸とした首尾兩散句の 、、、、、 己完結性)を 」という完璧な對偶性(從ってまた完璧な整合性と自 えている以上、そこへ更に排律の 件として「七言排律」不
行の原因―對偶表現の本質から―(松浦)
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二句・四句・八句……と對句を加えてゆくことは、「對偶性の
剩 」「整合性の弛」「自己完結性の反復
一
」というで完璧に自己完結している七律
の蛇足を加えることに他ならない。とりわけ、それ自體 心象 自己完結させようということは、詩を、再度・三度と いる。 六句。乾元元年(七五八)季春、杜甫四十七の作とされて ここで、杜甫の「七排」を一首引いておきたい。八韻、十 して、徒勞以外の何物でもないことが明らかになる。 表現機能の活用手法と
題鄭十八
鄭十八(鄭虔) てい
作丈故居臺州地闊
作丈の故居に題す 冥冥臺州地闊くして ひろ雲水長和島嶼
冥冥たり 雲水長 とほく島嶼 しよと和して亂後故人雙別
し 亂後にして故人は雙 ふたすぢの別春深逐客一
萍春深くして逐客は一の ひともと酒酣懶
萍 誰相 酒酣 たけなはにして ふに懶きも誰か相ひ ものう第五の橋東第五橋東流恨水恨を流す水 詩罷能吟不復聽詩罷んで能く吟ずるも復た聽かれず や
かん ひ 賈生對 皇陂岸北結愁亭皇陂の岸北愁を結ぶ亭 ひ 傷王傅賈生はふくろふに對して王傅 ふたるを傷 いたみ蘇武看羊陷
庭蘇武は羊を看て可念此
庭に陷る 懷直念ふ可し此の
直 也霑新國用輕刑也た新國(新 ま を懷き いだ禰衡實 に霑ほふを うる の輕刑を用ふる)
江 禰 でい衡 かうのごとく實に る江
に
(の災)方朔
ふを 傳是 星方朔のごとく はうさく しく傳ふ是れ窮巷悄然車馬 なりと
星窮巷には悄然として車馬は
(『杜詩詳 案頭乾死讀書螢案頭には乾死す讀書の螢
え 』卷六)對句の名手杜甫の「七排」として、ここに詠じられた七言對偶、六聯十二句は、さすがに
蘇武……」以下の三聯・六句には、すでに、上 たわずか六聯・十二句の對句でありながら、第四聯「賈生……、
巧である。しかし、こうし故を含む「七言・體聯」が十聯・十四聯・十八聯……と續 の短處が、傾向としてはっきり窺える。まして、こうした典
の「七排」 中國詩文論叢第十九集86
いた場合の
縟さ(は、感覺剩な對偶感覺)
にも論理にも容易に想像されよう。
ところで、すでに詳論したごとく (7)、一般に「律詩」という詩型は、「駢文」「駢賦」「律賦」「八股文」など對偶志向の
しい中國詩文の
偶性を
文體の中にあっても、とりわけ徹底した對(拍 呼ぶのに相應しい。そして、とりわけ「七言律詩」こそは、
えるものであり、まさに「對偶觀念の純粹形式」と より純粹にその性格をリズムの四拍性に因って)「對偶觀念の純粹形式」とは、詩 るわけである。
えてい 心象抒のの
圖 元で言えば、「詩 イメージの、自己完結式」ということを意味している。
純粹形 に に自己完結性を最も純粹 論理 現している「七律」に、更に何かを加えるということは、「七排」という詩型が自立・定 、 う。
にも自己矛盾以外の何物でもないことは明らかであろした自己矛盾を含むものだったからだと された第一の原因は、「七排」がその詩型自體として、こう
の況を見ないまま淘汰 斷されるのである。「 七言古體詩」
行との比較において
「七排」不
行の な傍證となるのは、「七言古體詩」 * 因をこのように考えた場合、その有力「七言古體詩」(七古)は、「一句七言=四拍」の句が多數 *いわゆる「七言歌行」がその中心をなす。
行との關係である。 續するという點で、まずリズムの基本「琵琶行」恨歌」、「代悲白頭(白居易) 「七言排律」とまったく同一である。かつまた、例えば「長
性格という點では、 」、「春江(劉希夷)夜」(張
は「七排」との という點でも、が一首の表現の中心をなしている、「七古」 )等のように、對句が多用され、名對の效果
い共 性を の えている。もし、「七言句」 續や「七言對偶」のと竝んで古體詩の 生むとすれば、「七言古詩」が「五言古詩」や「雜言古詩」
續がそれ自體で蛇足や自己矛盾を すなわち、第一に、七古の七言句は、たとえ對句であって ない、ということに因っている。 が「七排」のそれのような餘剩な對偶性を付加するものでは これはやはり、「七古」における「七言句」や「七言對偶」 しがたいことになるだろう。詩型の地位を占めていることは、理解
「七言排律」不
行の原因―對偶表現の本質から―(松浦)
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も、古體詩の韻律であるゆえに、韻律
され、相對
元での對偶性が抑制 されている。 體 六對」「粘法」「對法」等の「守るべき條件」から、「孤 に言えば、「二四不同」「二「孤仄」「下三
」 」等の「の韻律を支えるものは「
けるべき條件」まで、「體詩」 、、と「非對偶性」の自在な混在を基 他ならない。これに對して「古體詩」の韻律は、「對偶性」 (8)
仄」對比を基本とする對偶性に
「一句=四拍」從って、の對偶
とする「雜體性」であり、 、、對偶性は韻律配置の「雜體性」によって
リズムでありながら、その對
しく抑制され、相 四句」「四聯八句」と續いても、對偶感覺のみが されている。このため、假りに「七古」の對句が「二聯 々と 第二に、「七古」は、句數に關しては してゆくという感覺は生まれにくい。 幅「準定型」
く自由な、いわば 性格をもっており、また從って、一首對偶「いったと散聯」對聯對聯「散聯 におけるような「律詩」配置も、の散句」「と「對句」ける
體にお ・整合ものとは基本
」な に 對」や「散對對散」の對偶 て韻と詩想が自在に轉換されるため、かりに「對對對 ひびき 第三に、「七古」は「換韻」が自由であり、「換韻」によっ なっている。 ・整合 な 圖が生まれ た場合でも、それは當該個果にとどまることになり、一首
における可變性を帶びた對偶效 體に關わる結性」とは
剩な「自己完 質のものとなる。 **たとえば「長恨歌」第三段には、
梨園弟子白髮新
(
椒阿監 孤燈挑盡未
(
夕殿螢飛思悄然 娥老」耿耿星河欲
(
遲遲鐘鼓初長夜 眠 鴛鴦瓦冷霜 天」翡
(
重衾 誰與共
というように、
容 に共 にわたって 性をもつ七言の對句が、四聯八句 が使い分けられているために、その整合性や自己完結性は 續する。しかし、二回の換韻によって三種の韻字 、、
く抑制されているのである。 し
以上の
點を 因として、「七古」における七言句のは、「七排」における七言句の
續 續とはち、「對偶性・整合性・自己完結性」が抑制された、多樣な
質の性格、すなわ 中國詩文論叢第十九集88
性格、を
えていることが確以外は 二〇句が、「換韻なし」の「律體詩句」によって、「首尾二聯
される。假りに「長恨歌」一 のにそ 白居易の力作であるにせよ、いや力作であればあるほど とすれば、いかに「七言リズム」と「對句表現」の名手たる 部對句」という「七言排律」の形式で作られていた 縟にして均質な對句の 續は、讀 に厭煩と怠の氣分を生ませずにはいないであろう。「春風桃李開夜、秋雨梧桐
時」のさり氣ない名對も、
と切れ味を に配置されていることによって、いっそう對句としての魅力
後の散句と非整合 しているのである。 **この點は、「駢文」中の名對の
印象を相 續が、しばしば相互にその 多數の散句との對比においてしばしは しあうのに對して、「古文」中の少數の對句が
出すのと、共 い對偶效果を生み の現象と言えるであろう。
結語
思えば、「七言排律」という詩型は、「五言排律」との相補性(「排律」
(「七言律體」 の相補性)から見ても、「七言律詩」との相補性 律體リズム」の可能性を から見ても、「排律形式」と「七言の相補性)
幅する詩型として、當然、生み出 鄭十八 されるべき必然性をもっていた。しかし現實には、杜甫「題 作丈故居」(『詳寄事、 』卷六)や、白居易「泛太湖、書 卷詩集』二)など、幾首かの比較
之」、杜牧「東兵長句、十韻」(『後集』卷七)(『樊川「六言は、 とんどまとまった作品をのこしていない。その作例の乏しさ
名な作例以外には、ほ 句」の乏しさと比べても、さらに乏しい水
それだけに、生まれるべくして生まれながらついに定 言うべきであろう。
と いうものの長處と短處を、改めて考察・ 得なかったこの詩型の存在は、われわれに、「對偶表現」と し 題提 識させるだけの問 力を えている。ただし、從來の中國の詩話この問題提
では、 を正面から受けとめた立論は見られない。くは、作詩と讀詩の體驗のなかに、「對偶性の
ら 結機能の再演・再々演」といった蛇足 剩」「自己完素を り、その實感によって自然な 感に感じと しかし、そうした、中以來一千年を超える だと考えられる。 擇・淘汰が行なわれてきたの 擇・淘汰の
!
史を"
し得るわれわれのうものが、その本質として、必然
#
點から言えば、「對偶」とい に「整合 」「自己完結 」な表現を生むものであること、そして、その完璧な$
功「七言排律」不
%行の原因―對偶表現の本質から―(松浦)
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例として「七律」の
行が存在し、排」が存在したという事實關係を、ここで客
剩な失敗例として「七・ 史 指摘することができるわけである。 に
最後に、このような事實關係を踏まえつつ、本稿標題の論點に立ち
って言えば、 功例としての「七律」の本質がA對Bの整合 失敗例としての「七排」の淘汰も、ともに、「對偶表現」の
行も、能」に他ならないことの體
對比による「表現としての自己完結機 な事例として、文學史そして、さらに一 置づけることができるであろう。
に位 を 完しあう「 めて言えば、「律詩」と相互に補 句」形式が、「單一性」↓
「 在性」非自己完結性」を一 、
↓
「對他性= の表現機能としてえつつ、文學史に存在することになった必然性も、
う詩型に集 つまり、「對偶表現」の長處と短處が「律詩」「排律」とい いると言えるであろう。
せてここに明示されて されているがゆえに、それと對照處をもつ「
な長處・短 句」という詩型が、相補 に必 のである。「律詩」のもつ「額 とされてきた の名畫」「
な完結の美と、 句」のもつ「短册の點 」 な餘韻・餘 (未完結)の 「七排」鮮かに示している。の形 る詩型としない詩型との相補性を、「對句」を必須とす美は、 、、、、、さに、對偶表現の本質に直結していることが確
と被淘汰の必然性も、ま されよう。
(1)參照:「中國詩歌・形態一覽表」(松浦友久『中國詩歌原論比較詩學の
題に して』二八二頁
收。大修
一九八六年。中國語版『中國詩歌原理』孫昌武・鄭天剛譯、 書店、
育出版
(2)參照: 、一九九〇年)。 (1)
(3) 「中國古典詩のリズム」第章「六言詩」。 『中國詩歌原論』〔五、詩とリズム〕
(1)
型と表現機能」第 書〔七、詩と詩型〕「中國古典詩における詩
(4)參照:松浦「對偶表現の本質先行 !章「律詩各論」。
"
て」(『文 #との比較におい
$論叢』第四十二號、大谷大學文
年三 $學會、一九九四
(5)參照: %)。
(4)
論文第
(6)參照: !章。
&、 (2)
論文「中國古典詩のリズム」第
!
章「五言詩」、
'、松浦「五言詩の基
・言語リズム・と・樂曲リズム・」(『中國文學 (リズムは何拍子か
二十期、一九九四年十二 )究』第 ちなみに、「五言詩」を「四拍子」だとする少數の論 %、早大中國文學會)。
*は、 中國詩文論叢第十九集
90
いずれも、歌唱・詠誦される際の樂 、曲 、
のであり、詩 ムを、詩歌本來の「言語のリズム」と混同して論じているも された五言詩のリズ 、、、、
リズム論としては、單純な手續上の
語自體のリズム」に基づく「詩 「言しかしそれは、にも歌えるからである。「四拍子」にも 」の「三拍子」てっ從に定指調譜らゆる詩句は「樂もしくは曲 、、、、、、、、、、、 あによれば、「樂曲のリズム」なぜなら、ると言ってよい。 りであ リズム」とは、明確に
を 元
にする。例えば、文部省唱歌「ふるさと」(兎
の山)が、「言語リズム」の いしか 元では「三
特に論の誤りについては、拍子」「五言詩四う。 、 「三拍子」その分かりやすいケースと言えよであることは、 リズムとしては明確な(唱歌)樂曲でありながら、拍子」 一四」の「拍 (6)
(7)
參照: 論文を參照。(1)
ける對偶の 書〔六、詩と對句〕「中國古典詩にお
(8)
參照: 相」第(十一)章「結語」。 (7)論文第
章「詩體」。
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行の原因―對偶表現の本質から―(松浦)
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