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城戸幡太郎の保育問題研究会における高橋五山の紙 芝居の役割

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城戸幡太郎の保育問題研究会における高橋五山の紙 芝居の役割

著者 ?橋 洋子

出版者 法政大学大学院

雑誌名 大学院紀要 = Bulletin of graduate studies

巻 84

ページ 29‑35

発行年 2020‑03‑31

URL http://doi.org/10.15002/00023130

(2)

城戸 戸幡 幡太 太郎 郎の の保 保育 育問 問題 題研 研究 究会 会に にお おけ ける る 高

高橋 橋五 五山 山の の紙 紙芝 芝居 居の の役 役割 割

人文科学研究科 日本文学専攻 国際日本学インスティテュート 博士後期課程 1 年

髙橋 洋子

は はじじめめにに

高橋五山(1888~1965)は、街頭紙芝居に熱中する子どもたちの様子を見て、視聴覚を用いた紙芝居は幼児教育に最も 適切な教材になると確信し、1935 年 4 月から『赤頭巾ちゃん』を皮切りに幼稚園紙芝居シリーズの刊行を開始した。五 山は当初、前例のない保育向け紙芝居の売り込みに苦労した。そこで、文部省から全国の幼稚園名簿を入手して幼稚園や 保育所に紙芝居の見本を送付したり、自ら紙芝居を実演して回ったりするなどの普及活動に尽力した。そうした地道な努 力が実り、五山の幼稚園紙芝居は昭和戦中期の1938年には全国に普及した1。五山自身も創刊から三年経った頃には、紙 芝居出版が軌道にのったことを手記「ででむし」に「やっと、三つのお正月を迎えるころになりますと、日本中のお子さ まとそれはそれは仲よく遊んでいただくようになりました」と記している2。このようにして、五山は第一期 10 巻の刊行 が終わり、1938 年から第二期の刊行に着手した3

一方、五山が紙芝居を創始した翌 1936 年 10 月頃、法政大学の城戸幡太郎を中心とした保育問題研究会が生まれた。

この研究会は、幼稚園、託児所の域を超えて、研究者と保育者とが一緒になって保育の実践と理論を拓こうという研究ス タイルで発足した。同研究会では「保育の基礎的な問題」、「幼児の保健衛生」、「困った子供の問題」、「自然と社会に関す る観察」、「言語」、「遊戯と作業」などの研究部会が設置され、さらに各部会の中で研究テーマが設定された4。例えば、

「言語」の部会では、言語訓練、言語矯正、童話、紙芝居、人形芝居などが研究されていた。このような保育を多方面か ら研究する共同研究組織は、ここにはじめて設立された。さらに、同研究会では機関紙『保育問題研究』を発行しており、

当時類を見ない最先端の研究が行われていた。幼稚園と託児所とを統一した形での保育案の研究も行われ、この保育案に ついては、会を挙げての共同研究のテーマとなった。そして、保育問題研究会の研究成果の総力をあつめて、名実ともに 実験保育所として位置づけられたのが戸越保育所である5。このような 1937 年 10 月から 1941 年 3 月までの活動内容は、

機関紙『保育問題研究』の中でまとめられている。

本稿では、この『保育問題研究』を分析し、高橋五山の幼稚園紙芝居が先駆的な保育理論の発展の中で、研究され実践 活用されたことを明らかにする6。当時の最新メディアである紙芝居という側面から論じた本研究は、戦中期の保育運動 を担った城戸幡太郎の保育問題研究会に関する実践活動の一端を知る手がかりを提供するものと考える。

1 保保育育問問題題研研究究会会のの発発足足とと紙紙芝芝居居

高橋五山が幼稚園紙芝居を創刊した翌 1936 年には、法政大学の城戸幡太郎による保育問題研究会が生まれた。同研究 会発足の経緯は、会の機関誌『保育問題研究』3 巻 9 号(1939 年 10 月)所収の「保育問題研究会三年史」に記されてい る7。それによると、1936 年 6 月に城戸幡太郎を中心とする法政大学児童研究所8が、東京都下 500 余りの幼稚園や託児所 に質問紙を配布し、保育上の問題の所在を明らかにした9。集まった回答はわずか 20 余りに過ぎなかったが、この中には 保育問題のほとんどすべてが含まれていたので、城戸ら研究者と保育者とが協力して毎月一回、それについての研究会を 開くことに決めた。第一回例会が 1936 年 10 月 20 日に行われ、ここに法政大学児童研究所とは別の保育問題研究会が生 まれた。

(11))機機関関誌誌『『保保育育問問題題研研究究』』のの発発行行

保育問題研究会の機関誌『保育問題研究』は、会発足から一年後の 1937 年 10 月に創刊された。創刊号には、88 名の 会員名簿(1937 年 9 月現在)が掲載されている10。そのなかには、五山が幼稚園紙芝居を出版する際に『赤頭巾ちゃん』

(3)

の原画を貸し出した、十文字幼稚園の留岡よし子の名前もみられる11。同研究会では、研究者と幼稚園、託児所の垣根を 超えて保育者が集まって研究活動がはじめられた。「言語」の問題を研究する第五部会では、「言語訓練、言語矯正、童話、

紙芝居、人形芝居等」を研究テーマに掲げた。なかでも紙芝居研究は、第五部会の研究活動であるとともに、会の事業活 動として取り組まれ、同研究会において幼児のための紙芝居の創作と普及を目指した。童話作家の川崎大治や人形劇活動 をしていた松葉重庸も保育問題研究会に参加し、同研究会の事業として幼児紙芝居の頒布を企画した。

一方、五山は、『保育問題研究』が創刊された 1937 年 10 月には『ふしぎの国アリス物語』を刊行し、幼稚園紙芝居シ リーズ第一期 10 巻の出版を完了したところであった。保育問題研究会が発足してまもなくから、保育教材としての幼児 紙芝居の頒布を企画したのは、五山の幼稚園紙芝居にヒントを得た企画であったと推察される12

(22))保保育育問問題題研研究究会会のの紙紙芝芝居居発発行行ににつついいてて

高橋五山の幼稚園紙芝居が創刊されるまで幼児向けの出版紙芝居はなかった。『保育問題研究』創刊号には、紙芝居の ことが、折り込み広告において述べられている13。それによると、「部会活動の実践的研究の一つとして紙芝居の作成と実 演をかなり小部分で実施して来た」とあり、会報の創刊を機として、「この種の実験的材料を徐々に研究会の事業として 具体化して行きたいと思ひます」と書かれている。同折り込み広告には「新しい研究課題としてこの紙芝居を会員の皆様 から手近の幼稚園託児所に御推奨下さい」との見出しが掲載され、幼児紙芝居第一輯『海へ流れて行った靴』(奈街三郎 原作・高澤圭一画)というタイトルが紹介されている。内容の記述はないが、紙芝居については、四ツ切大、アート紙、

石版色刷、20 枚一組、頒布値段は定価一円(送料を含まず)となっている。価格の横には「製作実費は 80 銭なるも 20 銭 を会報発行費に充当する」と、小さく書かれている。そして、1 巻 2 号(1937 年 11 月)には、「未だ申込者の数が非常に 少ないので困って居ります」との呼びかけがあり、色刷は「一枚づゝは異なった色ですが、単色刷り」と記されており、

「経費の点から止むを得なかった」ことも述べられている14

つぎに、半年後に発行された『保育問題研究』2 巻 4 号(1938 年 4 月)には、「紙芝居について」(事業部)と題する文 章がある15。そこには、第一輯『海へ流れて行った靴』は、「種々の点で問題があった」と記されており、第二輯『三輪車』

についての発行は保留することになったことが伝えられている。はじめて出した紙芝居『海へ流れて行った靴』は「定価 をつけ忘れたり、アート紙でへなへなに刷ったので結局失敗した」ため、第 2 回発行予定の川崎大治作『三輪車』は日の 目を見ずに終わったようである16

その後、1938 年 7 月、『タンポポの三つの種子

た ね

』(奈街三郎原作・前島とも画)が発行された。2 巻 6 号(1938 年 6 月)

に掲載された広告をみると、続刊として、『お猿さんの赤い毬』(川崎大治作・宇田川譲治画)、『小蟹の遠足』(岡村民作・

木俣武画)、『金ちゃんと雨蛙』(槙本楠郎作・前島とも画)が予定されていたが、これらは実現しなかったようだ17。 松葉重庸は『紙芝居 教育と創造性』(1972)の中で、当時の様子を振り返っている18。保育問題研究会の紙芝居『三輪 車』については、明るさがない、筋が幼児向きでない、子どもたちの表情が深刻すぎる、あまりに現実的である、もっと 単純化されてよい、などの批判が研究会から出て、発行予定を変更したという。また、『タンポポの三つの種子』につい ては、「第 1 集を失敗したもんだから売れない。やっぱりわれわれの力では 30 部か 50 部くらいしか売れない。いかに売 ることがたいへんだということは当時わからないからね」と述べている。そして、「印刷して販売するということは容易 でなかった」から、「原画紙芝居をつくって貸し出す方法に転換した」という。松葉は、五山について「印刷しても売れ るか売れないか、まるでわからない時代でね、それをわしは本命として紙芝居がすきなんだ、売れるかどうか、そんなこ とわしは知らんとやってのけたのが高橋五山だ」と評している。

保育問題研究会で出版した『タンポポの三つの種子』の奥付をみると、松葉重庸が編集兼発行兼印刷人になっており、

自身の経験から、印刷した紙芝居を販売していくことの大変さを語っていることがうかがわれる。また、松葉重庸は、「人 形芝居と保育」という文章の中で、「紙芝居の絵を描くと云ふことになると実際、特殊な技術を要する。主人公になる人 や動物等も仲々うまく描けるものではないから、自然に出来上ったものを借りたり買ったりすることになる」と述べてい る19。この文章では、紙芝居の絵の技術のことを問題にしている。

以上のように、松葉重庸は、紙芝居における印刷と販売、および絵の技術のことを問題にしているが、この点について、

五山にはそれまでの蓄積があった。五山は京都に生まれ、京都市立美術工芸学校と東京美術学校を卒業し、大正期には児 童雑誌の編集を手がけた。さらに、昭和初期には自ら出版社の全甲社を設立し、絵本や漫画などの児童書の出版を紙芝居

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に先んじて行っていた。このような五山のそれまでの蓄積が、売れるかどうかわからないが、売れるまでやってみよう、

という強い思いにつながった大きな要因であろう。また、五山は共同書籍(取次・小売)との協力関係も築いていた。出 版界を中心として各方面に人脈を確立していたことも、幼稚園紙芝居創刊の後押しとなったことだろう20

なお、『赤頭巾ちゃん』は薄赤を一色刷り加えた五度刷りで、発行部数は 1,000 部、定価一円 20 銭だった。保育教材と して紙芝居の普及を図るには、印刷による大量出版、全国への同時配給出版が必要であることを五山は手記の中で述べて いる21。さらに、このことに加えて、紙芝居の出版を続けていくことが、その定着につながっていくことになるのである。

2 保保育育問問題題研研究究会会ででのの五五山山のの幼幼稚稚園園紙紙芝芝居居のの活活用用

『保育問題研究』5 巻 3 号の「事務局だより」には、「通刊 37 号で遂に休刊だ」とあり、休刊の最大の原因の一つが経 済的な行き詰まりであったこと、会費や誌代等の未納者が多かったことなどが記されている。1937 年 10 月に創刊された

『保育問題研究』は、1941 年 3 月の 5 巻 3 号を最終号としてその発行を停止した22

『保育問題研究』の各号を分析したところ、創刊号が出された頃には、五山の幼稚園紙芝居はすでに刊行開始されてお り、保育問題研究会が五山の紙芝居を活用、研究していたことが判明した。創刊号の 1937 年 10 月から 1941 年 3 月の終 刊に至るまで、五山の紙芝居に関する記述のみえるものは、3 巻 2 号(1939 年 2 月)、3 巻 7 号(1939 年 7 月)、4 巻 3 号

(1940 年 4 月)、4 巻 8 号(1940 年 9 月)である。以下、それぞれ各号ごとにみていく。

(11))33 巻巻 22 号号((11993399 年年 22 月月))山山村村ででのの紙紙芝芝居居のの上上演演

『保育問題研究』3 巻 2 号(1939 年 2 月)には、高澤静子の「紙芝居と村の子」という文章が掲載されている。2 巻 1 号(1938 年 1 月)の新入会員名簿に、その名前と上宮館保育園(足立区梅田町)と掲載があるので、当時、東京で保母 をしていた人であることが確認される。「紙芝居と村の子」の文章は、保育者が五山の紙芝居『三匹の子豚』(1936)を用 いて、山村の子どもたちを対象に実演した貴重な記録でもある。少し長いがそのまま引用する23

一月の休みに私は田舎に帰へり、村の子供達に紙芝居をして見ました。私の田舎は鉄道が敷けてからやっと七・八 年のほんとの山の中です。勿論子供達にとって、紙芝居は初めてなので何を持って行ったらいゝのやら判らない物 ですから託児所で一番喜ばれる「三匹の子豚」を持って行きました。姉の子を利用しまして二十軒ばかりの部落の 子を集めて見ました。集まって来た子は二十人近くで一年生が一番多く、次は三年生、六年生も二人ばかり居り、

入学前の子が三人でした。何しろ絵本すらも見る事の少い山の中の子供達です。三匹の子豚の顔が大きく出て居る 事で、もう驚いて居るのです。さて、私も子供もはにかんだ様でしたが始めました。一枚一枚繰る毎に子供達は驚 いたり、ニヤニヤしたりして見て居ました。どの子もどの子も素晴らしく大きな目です。が残念な事に言葉がぴっ たりしなかったのです。「豚」を「ブダメ」と言はなきあ駄目なのですし、「お家」は「イヘ」でも無く「エエ」なの です。それでも藁のお家や(其の形までも)木のお家は自分の生活から判る事が出来るので嬉しさうでした。何処 が面白かったかと聞いても始めは「ウガンネ」と言っては人の後にかくれてしまいましたが二度三度となると積極 的な子供達が「たるの中に入って、ころげるとこだ」「狼が火の中へ入ったとこだ」とか言ってくれました。第一に 問題になる事は保母と其の子供との言葉の食ひ違ひだと思ひます。創造力の少い山の子達に此の「三匹の子豚」が 如何に映ったか?と思ってます。失敗だったかも知れませんがあの子供達を一日でも二日でも楽しませたのは私に とって嬉しい事でした。

この文章からは、生き生きとした紙芝居の実演の様子が伝わる。また、脚本どおりの言葉ではなく、目の前にいる子ど もたちに合わせた、その地方独特の方言や訛りに変えて語りかける、という工夫がなされている。二度三度と紙芝居を上 演するに従って、語り手である保育者と観客の子どもたちとのコミュニケーションがとれてきたことも文章から読み取 れる。

(22))33 巻巻 77 号号((11993399 年年 77 月月))・・44 巻巻 33 号号((11994400 年年 44 月月))戸戸越越保保育育所所ででのの紙紙芝芝居居のの活活用用

つぎに、保育問題研究会が準備段階から協力して、東京の荏原区戸越町に実現した、戸越保育所について述べる。戸越

(5)

保育所は設立者の大村英之助、鈴子夫妻が勤労者の立場にたった理想の保育施設として計画したもので、保育問題研究会 のモデル保育所として、1939 年 4 月に開所した24。保母には「塩谷アイ、菅京子という会員保育者が就職し、会の保育研 究に施設ぐるみで取り組み、優れた保育実践を行った」とされる25。保育内容は、保育問題研究会の保育案検討の成果を いかし、「戸越保育所保育案」を作成して実践が行われた26。『保育問題研究』3 巻 7 号(1939 年 7 月)には、4 月に開所 したばかりの戸越保育所における保育案の実施報告がなされている。この保育案の問題は、会の出発の時からの研究課題 であり、保育案形式の月案と日誌の記録活動がいくつかの園で行われたようだが、『保育問題研究』に報告されているの は、戸越保育所とノービル幼稚園のものだけである27

まず、1939 年 4、5 月の戸越保育所の実施報告が 3 巻 7 号に掲載されている。「五月第三週保育予定案」をみると、5 月 17 日の談話の項目に、紙芝居「ピーター兎さん」と書かれている。この 5 月 17 日の「保育日誌」も掲載されており、生 活教材の項目に、紙芝居「ピーター兎」と記述されている。その右横の方法欄には「お八つの後子供達を楽しませて家へ 帰したい為に」と書かれている。さらに、その右横の記録欄には、「静にきく、着物が垣根にひっかかるところ大喜び」

と、上演時の子どもの様子が記録されている28

五山は 1938 年 5 月に紙芝居『ピーター兎』を出版しており、同名の紙芝居は確認されていないため、本紙芝居がここ で使われていたと考えられる。また、子どもたちが大喜びした「着物が垣根にひっかかる」場面は、本紙芝居の第 7 場面 に該当し、「垣根に釘が一本でていました。ピーターの上着の端がその釘にひっかかりました」と展開する。このように、

戸越保育所では、五山の紙芝居が利用されていたことが、『保育問題研究』所載の記事から確認される。一方、ノービル 幼稚園における 4 月と 5 月の保育案実行記録は簡略なもので、談話の項目に「紙芝居」とだけ書かれており、作品名の記 録はない。

つぎに、『保育問題研究』4 巻 3 号(1940 年 4 月)には、戸越保育所とノービル幼稚園において、保育案を一年間実施 した成果が発表されている。そのうち、戸越保育所の報告には、保育案研究部会で協議して決めた保育案形式を用いて

「基本的訓練」「社会的訓練」「生活教材」について、一年間実施したまとめがなされている。報告のなかには「保育日誌 はむづかしい」、「日誌は唯、その日に何を題材にしたかといふ事、及び一日の経過が分かれば良いのではないか」といっ た記述がみられる29。この 4 巻 3 号には、1939 年 6 月 5 日、9 月 12 日、1940 年 1 月 22 日の保育日誌も掲載されており、

それぞれ記録の仕方が異なっている。この中で、9 月 12 日の保育日誌表には、紙芝居「三匹の子豚」「おむすびころりん」

の記載がみられる30。タイトルだけが記された簡略化された保育日誌で、子どもの反応などは書かれていない。

『三匹の子豚』は 1936 年 1 月に、『おむすびころりん』は 1938 年 5 月に、五山の全甲社から出版されている。これら の紙芝居は、この保育日誌以前に刊行されており、この時点で同様の紙芝居は確認されないことから、この日に使われた 紙芝居は五山が出版した作品と考えられる31

(33))44 巻巻 88 号号((11994400 年年 99 月月))劇劇遊遊びびへへのの発発展展

戸越保育所の菅京子の「劇あそび指導の一経験」という文章が『保育問題研究』4 巻 8 号(1940 年 9 月)に掲載されて いる32。五山の紙芝居『三匹の子豚』と『七匹の小山羊』(1939 年創刊)をもとにして、劇遊びに発展させたことが述べ られている。なお、両作品は、五山が絵と脚本を手がけている。テレビが登場するのは戦後であり、映像に色がつくのは 1960 年代に入ってからのことである。子どもの視聴覚教材が乏しい時期に、紙芝居を通じて外国童話に接することは子 どもたちにとって新鮮な喜びだったに違いない。五山は外国童話を次々と紙芝居に仕立てた。なかでも、『三匹の子豚』

『ピーター兎』は、80 年前の日本においてはほとんど無名の作品だった33。これらの作品は、すぐに版が重ねられている。

菅京子の文章からは、これが何度も上演された作品だったことがうかがえる。以下に引用する。

三匹の子豚

全甲社の紙芝居で子供達におなじみなお話。教育的な価値はいざしらず子供の喜ぶまゝに何回も何回もやって見せ たら、いつの間にか子供達の遊びの中にしみこんで「オホカミゴッコ」と云ふ遊びがはやり出した。その遊びの初 めの形は、主に男の子が狼になって、女の子が上手に遊んでゐるおまゝごとの邪魔をしたり、他の子を追ひかけ廻 したりする位で、秩序も発展もないものであった。私はその遊びに加はり、豚になる子を決め、豚達の家を子供達 と話し合ひ乍らつくり、先づ最初は保母が狼になって子供達を動かし乍ら筋を追って行った。この場合ホールもお

(6)

庭も全部が劇あそびの舞台になり、子供達はホールの大豚の家から、お庭の中豚の家まで思ふ存分走る事が出来る のである。

七匹の小山羊

子供会の時上演したもの、これも紙芝居で子供におなじみなお話。ホールの一隅を舞台にしきり、先づ配役をきめ、

かつこうな舞台装置をする。観客を対象とする為に、登場の順序を決める。せりふは劇あそびと云ふものの性質上、

子供自身から発する言葉でありたいと考へ「山羊のお母さん、何て云ったの」等きいて云はせ様とするのだが、改 まった舞台の上ではなかなかすらすらと云へないらしく、こちらも一応の体裁を整へ様とする心が先になるので、

つい教へ込む様になってしまひ、動作や声の大小にも口やかましく云ふ様になってしまった。

この菅京子による戸越保育所での劇遊びの報告について、宍戸健夫は「戦時下の保育理論」34の中で、当時、劇づくり の保育実践は一般的に行われておらず、保育問題研究会の活動の中で、こうして「実践が展開されたのは注目されてよ い」と述べている。さらに、「城戸理論のもとで、若い保育者が子どもたちの遊びを充実させるために、いかに実践した かを明らかにしている興味のある事例である」と指摘している。

このことは、言い換えれば、五山の全甲社が出版した紙芝居が何度も上演されて、「演劇にまで発展した事例である」

と言えるだろう。このような事例からも、五山の幼稚園紙芝居は、出版まもなくから、保育所や幼稚園に取り入れられて いたことがうかがえる。

3 高高橋橋五五山山のの紙紙芝芝居居ととそそのの評評価価

高橋五山の紙芝居活動については、戦後は幼児教育史の中で取り上げられ、上笙一郎・山崎朋子著『日本の幼稚園』

(1965)に「幼児紙芝居の開拓者」として紹介された35。しかしながら、最近の紙芝居研究のなかには、幼稚園紙芝居は 普及しなかったように書かれたものがみられる36。それは、五山が創刊時に幼稚園に販売を試みるも、門前払いをされて、

「私の園では、良家のお子さまばかりお預りしていますからねえ」と辛らつに言われたという本人の回想ばかり引用され てきたからであろう37。ここで、あらためて五山の草創期の紙芝居活動に関して、どのような評価がなされているのか、

保育問題研究会に参加した、松葉重庸、上沢謙二、山下俊郎の三人の発言をみていくことにする38

保育問題研究会の発足時からの中心メンバーだった松葉重庸は、五山の幼稚園紙芝居が戦前から戦後にかけて保育現 場に受け入れられ、活用された様子を『幼児の紙芝居と人形芝居』(1949) の中で、次のように述べている39

なんといっても全甲社の「幼稚園紙芝居」がかんたんな小鳩の印のついた舞台といっしょに全国の幼稚園、保育所 に流れていったのが一ばん大きな力ではなかったのでしょうか。今日でも、私たちは幼稚園、保育所でこの「幼稚 園紙芝居」を見受けることがあります。このように幼稚園、保育所では印刷紙芝居の形式で一ばん利用されたよう です。街頭の紙芝居(これは印刷ではなくて原画複製)が特別の売子(今日では業者という)によって演ぜられる のに反して幼稚園、保育所では保育指導者自身の手によって印刷紙芝居が演ぜられたものです。街頭の紙芝居が、

その内容の点より紙芝居を演ずる業者の人格の問題から影響がよくないといわれているとき、幼児教育者という特 定の演者によって演ぜられる印刷紙芝居の活用は幼児教育上大いに歓迎されたものであります。

以上のように、五山の全甲社の幼稚園紙芝居が、全国の幼稚園、保育所に普及し、幼児教育の場で受け入れられたと述 べている。

つぎに、幼児教育学者であり児童文学者であった上沢謙二の発言を紹介する。上沢は、『保育問題研究』2 巻 5 号(1938 年 5 月)の新入会員名簿に名前があり、当時、洗足幼稚園長であった。1941 年には『保育記録園児と遊ぶ』という著書 を出している40。上沢は「幼児のための紙芝居の今昔」(『幼児の教育』65 巻 1966)の中で、五山について次のように述べ ている41

ここで、高橋五山を逸することはできない。彼は早くより「教育紙芝居」を提唱し、その製作出版に努力すると共

(7)

に、或は学者の意見に聴き、実際関係者の声に徴し、専門的な委員会を組織して、この方面の発達を促進した。彼 は飽くまでも教育紙芝居と街頭の商業紙芝居を区別し、単に子どもをよろこばせる娯楽を目的とすることを排する と共に、窮屈な型を押しつける形式的なものに堕することを戒しめ、深い教養性と高い教化性を兼ね備えるもので なければならないことを主張し、これを貫くために、一生を傾けた。その作品は、前記の全甲社から出版したが、

斯界に独自の感化を残したといえよう。

この上沢謙二の文章から、五山の草創期の紙芝居活動の状況がおおよそうかがえる。

つぎに、山下俊郎が、1976 年に「紙芝居のこと」という文章を書いているのをみてみたい。山下俊郎は保育問題研究 会で指導者的な役割を果たし、戦後は日本保育学会会長を務めた。「紙芝居のこと」の一部を引用してみる42

いわゆる教育紙芝居という新しい道を開いたのは、故高橋五山氏であった。今日では、街頭紙芝居がなくなったの で、今さら教育紙芝居という言葉を使う必要がなくなったのであるが、幼児保育の場や小学校低学年の教育の場で、

紙芝居はまことに大きな役割を担っている。

山下俊郎は、簡略ではあるが、高橋五山が新たな紙芝居を創出したことを述べている。

以上、保育問題研究会に参加した三人の発言を紹介した。それぞれの発言からは、彼らが当時の五山の幼稚園紙芝居お よび紙芝居活動について、詳しく知っていたことが伝わる。また共通して、五山の紙芝居活動を新しい道を開いたと評価 していることがわかる。

お おわわりりにに

本稿では、戦中期の保育運動を担った城戸幡太郎の保育問題研究会に着目し、高橋五山の紙芝居の活用という側面から 同研究会の活動を示した。『保育問題研究』が創刊された頃、五山の全甲社に競合する他社はなく、同社は幼稚園紙芝居 シリーズの第一期 10 巻の刊行を終えて、第二期の刊行がはじまる 1938 年までには、顧客を獲得し五山の幼稚園紙芝居 は成立していた。一方で、保育研究の先駆けとなった保育問題研究会の中での紙芝居発行が失敗したことで、高橋五山の 幼稚園紙芝居が大切な教育素材として使われ、子どもたちに好評を博し、劇遊びにまで発展するなど、重要な役割を果た したことが明らかになった。このことから、保育問題研究会の人たちの間では、紙芝居の受容の意識が高く、五山の幼稚 園紙芝居を使った実践的な活動は、同研究会の研究を特徴づけるものであったと言える。また、同研究会によって活用さ れて、そのことが機関誌に発表されたことは、五山の幼稚園紙芝居を普及させる一因になったと考えられる。保育問題研 究会の中心メンバーだった山下俊郎を含む三人は、紙芝居を保育現場に導入するという、五山の活動を評価した。五山の 手がけた幼稚園紙芝居は、日本の児童文化史、教育史において、パイオニア的な役割を果たしたと言えるだろう。

1詳しくは、拙稿「保育紙芝居の歴史―高橋五山を中心として」(『教育紙芝居集成 高橋五山と「幼稚園紙芝居」』国書刊行会、2016 年)を参照のこと。

2高橋五山「ででむし」(『せいくらべ』1号 紙芝居作家協会、1959年)序文に記載。

3 1938年には『とんまなとん熊』『三匹の子豚』が再版された。『おむすびころりん』は三版が確認される。『七匹の小山羊』『ハンス

の宝』は再版あり。『ふしぎの国アリス物語』は学芸大学附属幼稚園、『七匹の小山羊』は大阪府女子師範学校附属幼稚園のゴム印の ある紙芝居なども確認される。竹中幼稚園(岡山県倉敷市)にも18点の幼稚園紙芝居が現存。

4『保育問題研究』11号(193710月)の「保育問題研究会研究部会の方針」(8-11頁)と「保育問題研究会会則」(奥付)に掲 載。

5「『保育問題研究』解説」(『保育問題研究』Ⅳ 複製版、白石書店、1978年)6

6「保育問題研究会」に関する研究としては、松本園子『昭和戦中期の保育問題研究会―保育者と研究者の共同の軌跡(1936-1943)』

(新読書社、2003年)などがあるが、全体像の研究は行われているものの、高橋五山の紙芝居を取り上げた詳細な研究はされてい ない。

7『保育問題研究』39号(193910月)10-12

8城戸幡太郎が所長となり、留岡清男、三井透、吉益脩夫、青木誠四郎、石川謙を所員として、児童・青年の知能に関する研究と相談 を事業として 1929 年 9 月に設立された(『法政大学八十年史』1961年、433頁)。法政大学附属児童研究所では、実際の子どもに接 することを重視し、そのひとつとして所員留岡清男が中心になって、学生とともに八王子近くの恩方村の季節託児所の手伝いをし た。城戸によればこれが保育についての研究会をつくるきっかけとなった(松本園子「法政大学児童研究所における保育問題の研究 会の企図」(前掲注 6)67-68頁)。

(8)

9「保育問題研究会三年史」『保育問題研究』39号(193910月)10

10『保育問題研究』11号(193710月)23-24

11高橋五山(前掲注2)。五山は留岡よし子に『赤頭巾ちゃん』を貸し出し、子ども達から好評を得たことを報告されて印刷にとりか かった。(前掲注8)の留岡清男は留岡よし子の義弟。

12上地ちづ子は「保育教材としての幼児紙芝居の頒布を企画したのは、五山の幼稚園紙芝居にヒントを得た企画であったのかもしれな い」と指摘している(『紙芝居の歴史』久山社、1997年、67頁)。

13『保育問題研究』1巻1号(1937年10月)12頁と13頁の間に挿入されている。

14『保育問題研究』12号(193711月)18

15『保育問題研究』2巻4号(1938年4月)29頁

16堀尾青史「川崎大治さんの人と仕事」(『日本児童文学』2615号(198012月)、97頁)に記述。松永健哉らの日本教育紙芝居 協会が昭和13年に発足すると、川崎大治は紙芝居活動の場を同協会に移した。松永も保育問題研究会の会員だった(1巻2号31 頁)。

17松本園子(前掲注6)245頁。『保育問題研究』2巻631頁に「タンポポの三つの種子」の発行(7月1日)が遅れたとの記載。

18松葉重庸ほか「教育紙芝居運動の歴史」(『紙芝居 教育と創造性』童心社、1972年)297-309

19『保育問題研究』41号(1940年1月)7-11頁

20詳しくは(前掲注1)を参照。

21高橋五山(前掲注2)

22「『保育問題研究』解説」(前掲注51頁。実際には廃刊。

23高澤静子「紙芝居と村の子」『保育問題研究』32号(19392月)23

24戸越保育所については、上笙一郎・山崎朋子「保育問題研究会と戸越保育所/嵐にもまれる保育研究」(『日本の幼稚園』理論社、

1965年)。松本園子「保育施設の条件―戸越保育所設立に際して」(前掲注6369-389頁に詳しい。

25松本園子「戸越保育所の開設」(前掲注6)、126-127頁

26「『保育問題研究』解説」(前掲注56

27松本園子「保育案」(前掲注6)306頁。ノービル幼稚園に関する情報は『保育問題研究』には記されていないが、日本同盟キリス ト教団中野教会付属上ノ原幼稚園のホームページ(http://uenohara-kg.ed.jp/about/index.html 2019112日閲覧)には、

1935年に「福音幼稚園」を開園、1938年に「中野教会付属ノービル幼稚園」と改称」と沿革が掲載されており、この幼稚園の可 能性が考えられる。

28『保育問題研究』3巻7号(1939年7月)14-15頁

29『保育問題研究』43号(19404月)17

30『保育問題研究』(前掲注29)19頁。『三匹の子豚』『ピーター兎』などが実演されていたことは敬愛幼稚園(兵庫県浜坂)の1938 年の日誌にも記されている。

31五山のあとから登場した日本教育紙芝居協会でも、1943年に『三ビキノコブタ』(川崎大治作・西正世志画)が出された。「舞台の 背後にかくれるように」と演じ方が印刷されている。戦後も実演者が舞台の裏に姿を隠すか、現して語るかということで論争があっ たが、五山のやり方「子どもの顔を見ながら語りかける」形に落ち着いた。

32菅京子「劇あそび指導の一経験」『保育問題研究』4巻8号(1940年9月)11-12頁

33川戸道昭「西洋童話の受容史からみた「幼稚園紙芝居」の革新性」(『教育紙芝居集成 高橋五山と「幼稚園紙芝居」』国書刊行会、

2016年)

34宍戸健夫「戦時下日本の保育理論―城戸幡太郎の場合」(『同朋大学論叢』91号、2007年)49-52

35上笙一郎・山崎朋子「幼児紙芝居の開拓者 紙芝居作家高橋五山」(『日本の幼稚園』理論社、1965年)

36阿部明子「紙芝居が育てるもの―幼児教育・保育の中の紙芝居」(『紙芝居―子ども・文化・保育』一声社、2011年、140頁)では

「思うようにはなかなかいきませんでした」と結論づけている。佐々木由美子・相澤京子「幼児紙芝居の普及における二つの研究会 が果たした役割」(『東京未来大学研究紀要』10号(20173月)39-48頁)にも同様の記述。

37高橋五山「ででむし」(『せいくらべ』2号 紙芝居作家協会、1960年)に記載。

385部会の童話研究で指導的役割を果たした川崎大治は「全甲社の高橋五山作の紙芝居がおおぜいの子どもたちの中で、わたしが使 ったはじめての教育紙芝居であった」と述べている(『紙芝居 創造と教育性』童心社、1972年、14頁)。

39松葉重庸『幼児の紙芝居と人形芝居』 巌松堂書店、1949年、45

40上沢謙二『保育記録園児と遊ぶ』厚生閣、1941

41上沢謙二「幼児のための紙芝居の今昔」(『幼児の教育』65巻、日本幼稚園協会、1966年)17-18

42山下俊郎「紙芝居のこと」(『母のひろば』148号、童心社、1976年)

参照

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