近代日中書学交流の一側面 : 山本竟山と楊守敬を 中心に
その他のタイトル An Aspect of Modern Sino‑Japan Calligraphical Interchange : Focusing on Yamamoto Kyo?zan and Yang Shoujing
著者 蘇 浩
雑誌名 關西大學中國文學會紀要
巻 41
ページ 67‑86
発行年 2020‑03‑15
URL http://doi.org/10.32286/00023367
六七
近代日中書学交流の一側面
─山本竟山と楊守敬を中心に─蘇 浩
はじめに
明治十三年(一八八〇)、書家の楊守敬(一八三九〜一九一五)が、清国初代公使である何如璋(一八三八〜一八九
一)の随員として派遣され来日した。楊守敬はこの時、一万数千点にも及ぶ碑板法帖を携えており、これが日本の書
道界に大きな影響を与え、以後、北朝の碑板石刻を尊ぶ、いわゆる碑学派の書風が日本でも盛んになった。近代の書を代表する人物として挙げられる日下部鳴鶴(一八三八〜一九二二)は、頻繁に公使館で楊守敬と交流し、書法理論
などの教示を求め、書物と碑法帖を借り受け、莫大な新資料に開眼した。鳴鶴門の書家の中で四天王の一人と呼ばれた山本竟山(一八六三〜一九三四)は、楊守敬によって持ち込まれた新しい書法の刺激によって、斬新で爽やかな書
風をつくり上げて頭角を現した。また、鳴鶴の紹介で楊守敬と師弟関係を結び、七回(一九〇二、一九〇三、一九〇六、一九一〇、一九一二、一九二一、一九三〇)にわたって中国に遊学し、多くの文人とネットワークを組んで、北
碑の真髄を習得し、夥しい法帖碑版を日本へ持ち帰った。
六八 山本竟山(一八六三〜一九三四)、名は由定、通称は卯兵衛、別号は襲鳳、岐阜県生まれである。一九〇四〜一九一二年の八年間に「総督官房秘書課嘱託」として日本統治期の台湾で勤務し、書学の方面でも大きな貢献を果たした。
一九一二年に京都に移り、多くの子弟を指導して、関西書壇にその名を轟かした )(
(。また、天皇家に上書する代書や、名跡・文化財の碑石の揮毫をしばしば依頼され、金石法帖や書画などを数多く網羅・蒐集する書道教育家でコレクタ
ーでもあった。さらに、書壇において泰東書道院・日本美術協会・東方書道会・関西書道会などの顧問・審査長(員)
を務め、書道グループ平安同好会の発足と複数の書の展覧雅会を主催・協力するという目立った業績が語られている。本文では、一次資料を手がかりとして、竟山と楊守敬の師承関係から近代日中書学交流の一側面を考察したい。
一、楊守敬とその書
楊守敬、清末の学者、湖北出身。字は惺吾、号は鄰蘇老人である。科挙の試験を受けるために字学に力を入れると
同時に、書法に練習に勤しんだ。しかし、一九才の時に秀才、二四才の時に郷試に及第して挙人となったが、その後、北京での会試には、七回全て落第していた。ついに、著述に専念することを決意した。地理学や金石文字の考証など
を詳しく研究し、学問は広く古今に通じ、著述を好み、蔵書も豊富な数に及んでいる。
楊守敬は、何如璋の随員として派遣され来日したが、のちに二代公使の黎庶昌(一八三七〜一八九七)の随員とし
て日本に滞在中、書籍の探訪につとめ、数十万巻の善本を得た。四年後(一八八四)、帰国後、湖北の黄岡県教諭、黄州府儒学教授、両湖書院教習、勤成書院総長などを歴任した。辛亥革命が勃発した後、楊守敬は上海へ避難し、書の
売買と潤例できつい生活を送っていた。代表的な著書に『激素飛清閣平碑記』(一八六七)、『激素飛清閣平帖記』(一
六九 八六八)、『望堂金石文字』(一八七七)、『学書邇言』(一九一二)などが挙げられる。
楊守敬の技法論と用筆論の背景は、潘存(一八一七〜一八九三)の影響を受け、書学の基本となっていた )(
(。唐、宋
の書風を模しており、顔真卿と蘇軾の影響が強い。楊の書法の特徴について、変化に富む点画は、座屈しているように見える。筆遣いについて、側鋒がかなり使われており、勢いに乗って落筆したところを見取ることができる。楷書
ではなく、行書ではなく、強い個性を内包する用筆は、
北魏と晋唐の書風を交えた、落ち着いた力強い雅味が際立っている。竟山は、数多くの楊守敬の作品を収蔵して
いるが、その代表的な一点は図
癸卯五月に、つまり明治三六年(一九〇三)、竟山が第二 (の四聯幅である。光緒
回の中国遊学した時に、竟山のために楊守敬が書した「水
経注・江水」である。蘭亭会に続く大正期日中文化交流の余韻として、大正二年(一九一三)一二月四日に京都
岡崎の府立図書館で、竟山は和漢法書展覧会を主催し、この四聯幅を出展した。のちに、出版された『和漢法書
展覧会記念帖』にも収録している。
楊守敬は、『激素飛清閣評帖記』に書学論に関して、次
のように記している:「原夫鐘鼎遺文、誠為邃古、篆隸草
図 1
七〇
章、並起秦漢、體勢雖異、淵源斯同、各有専長、豈容偏廃?(中略)夫碑碣者、古人之遺骸也。集帖者、影響也、精則為子孫、不精則芻霊耳。見芻霊不如見遺骸、見遺骸不如見子孫。去古已遠、求毫芒於剝蝕之余、其必得耶?故集帖
之與碑碣、合之両美、離之両傷」。楊は、碑碣と集帖をそれぞれ遺骸と芻霊(人形)・子孫に比喩しながら、特徴と優劣を比較した。原書の容貌が失われてしまう不精な集帖より、碑碣の方が余程よく、また最初の精拓した集帖はもっ
とも原書に近いと述べた。さらに、楊守敬は、原書に近い初刻の碑碣にしても、長年風化されているため、本色が失
われてしまうと感じられており、碑と帖を融合し、互いに補充することが大事であると考えていた。
二、竟山との触れ合い
楊守敬と竟山の往来書簡や筆談資料は、十通程度が現存している )(
(。代表的な三通に基づいて説明していく。
領到、謝々。略閱之、似不載貴邦年号、敢請仍購求『和漢年契』一部為荷。即問大安。不荘。楊守敬頓首。 (、竟山先生足下。得示知有小恙、急欲帰国、殊為悵惘。所嘱各件、自当遵命二三日後一併呈繳。『和漢年表』已
五月十五日。
(、竟山先生閣下。昨示有小恙、想尽已愈、所嘱書件已全成、別有守敬贈鳴鶴、振衣諸先生之書、祈為転致之、
拙書墓志拓本亦成、雞豪亦代購拾管、李竹瀬及古金文拓本並題呈繳、又潛石題一紙亦祈転致。行期果於何日、当一送也。即頌大安。不荘。守敬頓首。十八日。
(、石川稻垣、丹羽、若林、近藤、渡邊、比田井、柳川、以上各聯一幅係。竟山嘱書贈給潤金者、一六(中堂一
七一 張、聯一副、扇葉一面、又日本訪書志一部奉贈)、鳴鶴(中堂一張、聯一副、扇葉一面奉贈)、竟山(中堂一張、聯一副、扇葉一面、古金文拓本五紙奉贈)、振衣(聯一副奉贈)、李竹瀬手卷係竟山嘱題奉繳。
(〜
(は、竟山の初回中国に遊学した時、楊守敬に与えられた書簡である。竟山の自著である『竟山学古』の解説
の序 )(
(に、「当時楊先生の居所が判明しませんので、いろいろ調べました所、武昌の両湖書院の教官として居らるゝ事が
判りましたので、武昌に到り、先生を訪ねて教へを請ふ事にしました。毎日夏の午後から書院に通ふので、遂に日射病にかかり、殆んど死にかかりましたが、幸ひ全治して上海に帰り、今度は郷里の母の大病の頼りに接し直ちに帰国」
があり、楊守敬と面会した経過と苦労を記述している。書簡
所蔵あるいは過眼し、それが中国の年号で何年に当たるかを調べるため、病気(恐らく日射病)で一時帰国したがる (では、楊守敬は、日本の南朝の年号のある古典籍でも
竟山に『和漢年契』一部の購入を依頼したのである。楊が日本の古典籍にも関心を持っていたことを知るとともに、
文・書ともに簡潔にして馥郁とした玩賞に値する書簡である
)(
(。書簡
に、雞豪筆や李竹瀬(手卷)、古金文拓本などの代理購買品が用意されることも述べた。それらの詳細は、書簡 (では、竟山が依頼して書作したことを伝えた上
(に記
載されている。
国人、価二百餘元、実不及此本、可校対之。餘清斎帖、此本前日問価、守敬以二百元告、今足下来札欲以一 (、皇甫碑丞然本、擬価一百五十元。小本争座位、擬価一百四十元。此帖実宋拓、守敬三十年前曾以一本售於貴
百三十元得之、重逢尊意、減為一百六十元。從前以一部售於足下者百元、実不及此部、此帖為明代集帖之冠、
七二
足下精鑑、想不以守敬為誓言也。陽暦二月十一日。守敬頓首。
書簡
甫碑」の楊守敬より入手時の様子を記した。竟山は、楊守敬の潤例を購入や代理購買しただけでなく、収蔵家である ((一九〇三年二月一一日)では、竟山の第二回渡清の時、原帖『餘清斎帖』・宋拓『争坐位帖』・丞然本「皇
楊守敬が珍蔵した拓本と法帖を譲ってもらったこともある。その中に、『餘清斎帖』をめぐる値段交渉が書かれてお
り、守敬は二〇〇元の定価を出し、竟山は一三〇元まで値下げすることを交渉し、最後に一六〇元の値段で交易が成立した。楊守敬は、著書や家族を養うため、決して裕福な生活を送ることができず、竟山の購買が楊守敬に対してあ
る程度の支援だと言える。特に『餘清斎帖』は非常に有名な集帖で、その伝来は極めて少ない。日本においては、竟山が楊守敬より譲り受けた書学院本(天来書院)と竟山が再び入手した個人蔵本、それに、中村不折(一八六六〜一
九四三)が入手した書道博物館本という三種類が現存する )(
(。
(、竟山:『安吳論書』、『虚舟題跋』(楊旁註〈下同〉:原板)、『繆篆分韻』(刻不佳)、康南海『広芸舟双楫』、右
欲購四書、於何処発售乎?楊:『分韻』初印本極佳。『安吳全集』中有、別有単刻本、多誤。所見金石不多、妄欲持論。彼作此書時、以
三代金石皆真、及作新学偽経考則謂皆偽。不知三代彝器有真有偽、彼但見他人蔵拓、随口翻変、無真識也。其真者断非後人所能偽造。
(、竟山:在武昌法帖書画、来於此地否?
七三 楊:古書已来大半、法帖単片也来大半、惟装本未来。「崔敬邕墓誌」在此、又小字「麻姑仙壇記」、又「皇埔碑」、「雁塔聖教」、「多宝塔」、「道因碑」諸旧本、則已帯来。旧拓「停雲館」、「争坐位」明初拓本二通是我旧
蔵、今重装。我之碑帖、今携来此、亦皆可売之。因去年逃難来此、苦中産業尽失、刻下書籍碑帖、惟未大失。而経済困難、不能不売之。且我所著書、未刻成、亦欲刻之、而無多錢、故売之以刻書。君来此、須多佳時、
以有友人甘君蔵宋拓版碑海内孤本、可介紹見之。
(と
(の尺牘は、楊守敬と竟山が交わした筆談である。筆談
(では、竟山は『安吳論書』、『虚舟題跋』、『繆篆分韻』、
『広芸舟双楫』四冊の販売場所を楊に打診している。楊は直接に回答をせず、『繆篆分韻』、『安吳論書』、『広芸舟双楫』を評価し、特に康有為の『広芸舟双楫』を「無真識也」として酷評し、これが竟山にかなりインパクトを与えたであ
ろう。ただし、筆談の年月が不明である。筆談
(では、竟山は武昌にある法帖書画が果たしてここに搬送されてきた
かと聞いている。楊守敬は、古書・法帖単片・装本の存在状況を伝えており、特に携えてきた有名な旧本、旧拓を列挙した。「去年逃難来此」から、辛亥革命の後、楊守敬一家は湖北から上海に逃げ、避難生活を送っていたことがわか
り、ゆえに一九一二年つまり竟山の第五回中国に遊学した時の筆談だと判断できる。さらに、楊は「経済困難」や、著書・刻書事業を果たすために、旧蔵品をたくさん売らなければならない状況であった。筆談の最後に、楊守敬は竟
山に友人の甘作蕃(一八五九〜一九四一
)(
()を紹介し、甘氏が蔵する宋拓版碑の海内孤本を見せることを約束している。当時、竟山を代表する日本文人からの拓本・書跡の代理購買や潤筆料などは、生活費に替えられない収入源だと言え
る。実は、一九一二年の年末、竟山は上海に行った前に、まだ台湾で勤務した時も楊守敬の安否と生活状況を案じて
七四
おり、書の潤例と購買などを通して楊守敬を支援した。以下は、それに関する楊守敬の書簡である。
来札検呈各書寄上(另有単字)。『潘孺初先生臨鄭文公下碑』、足下既酷愛之、自可奉讓、奈我之舊書俱在武昌 (、竟山先生足下、前日得手翰並銀圓五十枚(尚未往取、以郵局不熟之故、俟請得貴邦人通語者同取之)、昨日照
城中、雖経黎副統保護、而我守屋之人、據為己有、聲言非黎公命令、不得揭封條、而黎公軍事旁午、此等事
大半由参議作主、以為国粹既経保護、即不得亟售、故吾屢次著兒子二人到武昌、而不能取書、大約非吾親身回武昌不能得書、如天之福、吾家不毀、他日或能以潘書寄足下、此次所寄新書、是在封條外者、然已不多、
以後能獲印尚未可知。有鄰蘇園帖石多碎、即平定後、亦難補刻、前日所寄之二部、猶是初拓、願足下勿輕視之也、餘容續申、即頌道安、不莊。守敬頓首。二月廿二日。
8、竟山先生足下三月二十五日接到手札並洋銀四十八元、以作書字潤金、其「鄰蘇園帖」二部、「姬氏墓志」、
云未收到。別単尚要『隸篇』五部、『楷法』二部、『望堂初集』二部、『二集』二部、『晦明軒稿』一部、旋由四月初九日分為参包交郵局寄上、並有拙信一函、已於四月十六日得郵局回條。而尊処至今無回信、不知何故、
特再申明、請速賜回音、是為至感。楊守敬頓首。五月廿六日。『潘孺初先生臨鄭文公碑』、尚在武昌、未検出、大約再一月可携来。
書簡
((一九一二年二月二二日)では、楊守敬は、竟山から送られた前回の潤筆料銀圓五十枚が郵便局に到着し、
今回依頼された珍しい初拓を含む書作が、すでに郵送済みになったことを伝えた。また、辛亥革命の際、楊守敬の蔵
七五 書や碑法帖などについて、同郷人の南京臨時政府副総統である黎元洪(一八六四〜一九二八
)8
()に保護されている故、息子たちに書を取らせることがなかなかできないことを竟山に告げた。書簡
8(一九一二年五月三〇日)では、楊守
敬は送られた書字の潤筆料と書簡を拝受したことや、前回依頼された自著と蔵書、碑法帖などを郵送した件をも竟山に伝えた。また、いまだ返信がないため、竟山に返信を促した。さらに、二通の書簡とも、楊守敬は、まだ武昌に残
る『潘孺初先生臨鄭文公碑』の譲渡を予告した。
一方、京都に滞在した羅振玉宛て一九一四年楊守敬の書簡によると、「因憶前年初到上海、由日本山本竟山中者、即
劝我渡海、我欣欣欲動、及商之甘人古河、即言非有数万金資本不可(東)渡。足下能为朱舜水、是真世外桃源、为渊
明所不能及者矣
)(
(」があり、竟山が楊守敬に日本への避難を勧めたことがわかる。しかし、「数万金資本」が必要となり、楊はどうしても捻出できないため、あきらめた次第である。また、避難中の羅振玉を江戸初期に来日した朱舜水
(一六〇〇〜一六八二)、京都を桃源郷に喩え、羨望の心情を表した。
(、竟山先生足下。前日蒙兌來代售洋銀八十八元、深荷関注、感甚感甚。前嘱欲購『潘孺初先生所臨鄭文公碑』、
現尚在鄂城家中。惟守敬與潘先生雖曰朋友、実守敬之師也。先生雖無帖不臨、而謙不自足、每書就即反紙復書、及紙盡、隨付字蔵。守敬所得先生之字亦無多、足下所知也。守敬本擬留之子孫以作記念、足下両次来索、
有以付石印之挙、転思使先生筆法傳之海外、且傳遍中国、計亦良得。惟先生子孫式微、足下能否以相當之值若干、使守敬得略贍給濟其後人、亦絕不居奇。(後略)守敬頓首。六月廿八日。
七六 書簡
を承諾している。楊守敬は、潘存の書法が海外に伝えられることや、潘存の子孫を経済的に支援できることを考慮し ((一九一二年六月二八日)では、楊守敬は、竟山が長年念願した『潘孺初臨鄭文公下碑』を竟山に譲ること
た結果であった。また、『潘孺初臨鄭文公下碑』折帖の跋と冊首の讖語に、楊守敬が入手したいきさつや、それを竟山に割愛した理由を記している。潘存は引退後、郷人に聘されて海南の瓊州書院の掌教となったが、彼が没すると郷人
たちは氏の品行と学問を敬慕して、書院の旁に祠堂を建て祀った。光緒二八年(一九〇二)に、潘存の親戚の葉佩蘭
が遠路武昌に来て、楊守敬に潘存の祠堂の聯と扁額の題字を依頼した。そこで、守敬はそれを書き、謝礼としてこの臨書冊を贈られたという )(1
(。杉村邦彦氏は、すでに入手の経過と意義について、細かく論及していており )((
(、改めて説く
までもない。一方、これについては、『台湾日々新報』一九一三年一月一日(漢文六一版)に、竟山の同僚である館森袖海の漢文文章の「書潘孺初臨鄭文公碑本後 館森鴻 )(1
(」が掲載され、竟山の『潘存臨坐位帖』と『潘孺初臨鄭文公下
碑』の入手経過と評価を記している。館森袖海(一八六三〜一九四二)、号は鴻で、漢詩人・文章家である。一八九五
年から一九一七年まで台湾総督府で勤務していた。
(前略)
山本竟山頗善書法、嘗從惺翁遊、向走武昌。重訪惺翁。會晤両江総督端方、端方勧遊黄州之鄰蘇園、検出先生所臨『坐位帖』、『鄭文公碑』両本、一見嘆息、夢寐不能忘也、即請惺翁割畀、惺翁割坐位帖、而竟山併求
不已、惺翁遂許之。蓋竟山多年欲獲而未獲者、一朝入手、寶重如拱璧、不亦宜乎。竟山與余遊台北、今將辭職內渡、示鄭碑臨本曰:「詣京欲付石印、以広傳流、惟知此事者、子與端方耳。今端方帰道山、請為書後。」余乃見之、
誠絕作矣。顧清世若劉石庵、鄧完白、鄭板橋、何子貞、張廉卿、則以書法鳴者也。廉卿自言:「吾書勝於唐賢、縱
七七 不勝、然不可無此見識」。而先生書品猶高、可知矣。先生名存、広州文昌縣人、宦燕京、解組後、督瓊州書院、於光緒初物故云。
竟山は、第三回中国に遊学した時(一九〇六年一一月)、両江総督である端方(一八六一〜一九一一)の勧めで、武
昌の鄰蘇園を訪ねた。竟山は、楊守敬が所蔵した潘存臨『坐位帖』と『鄭文公碑』を見て大変傾倒し、購入したがっ
たが、当時『坐位帖』だけを入手した。のちに、一九一二年にようやく『鄭文公碑』の入手を叶えた。竟山は京都に帰り、石印に付したいと館森に伝えたそうである。また、館森は、書の名家である張裕釗(一八二三〜一八九四、字
は廉卿)の言葉「吾書勝於唐賢、縱不勝、然不可無此見識」を引用し、すなわち「書技は前賢に勝らなくても、書の見識がなくしてはいけないこと」と潘存の書品を賞賛している。館森の漢文から、竟山が願っていた書跡を入手した
喜びと優れた見識が窺え、また守敬と竟山の師弟情誼も示している。続いて、楊守敬が竟山に与えた影響を考察した
い。
三、竟山に与えた影響
本節では、前節に述べられた交流の史実を踏まえ、書学と人脈の視点から楊守敬が竟山へ与えた影響を考察し、関
連資料について着目する。
七八
図
樣(筆頭図)不可太尖、尖頭要全、(筆頭図)有尾不好。紫毛:屏直如筆 (釈文李鼎和紫毛、羊毛吳吟軒、周虎臣水筆、毛春塘兼毛。羊毛直
好、名ヲ筆装様ト云。進場進士、喜ブ所ニシテ久用スル能ハザルモノ也。兼毛:羊毛ヲシテ不可上頭。水筆:麻寸不可飽(筆頭図:麻寸ト云)。肩
毛:ナルモノアリ、之レハ乳毛ト同シ。進士後、皇上殿試用写策紙大巻
筆。図
(釈文送農局右側、山本先生殿。自強学堂程緘。
山本先生閣下素欽。雅範適奉華箋、信深馳企、謹當於敝暦十四日午後三句鐘、在敝学堂敬候駕臨俟叨、教益可也、手此奉復、順訊道祺、不備、
名另粛。五月十二日。名刺:程頌萬。
図
(の「毛筆雑記」は、竟山の手になる書であり、「紫毛・羊毛・水筆・肩
毛」という四種類の毛筆の特徴と役割が記されている。明治以前の日本では、主に鹿の毛筆が使われたが、楊守敬の使用する羊毛と鶏毛筆に影響を受け、
日下部鳴鶴や竟山などの書家は、羊毛と鶏毛筆も使うようになった。竟山の『竟山学古』の解説の序 )(1
(に、楊守敬から毛筆の教示を得たことが掲載されてお
り、具体的に「用筆を定めよと云はれました時に、楊先生の用筆は、小字は
図 2 図 3
七九 鶏毛筆で、大字は純羊毫の短鋒を使用しておられました。鶏毛は武昌の女で名人の作者がある此筆だと云ふて、一支恵まれたのが今尚保存しております。(中
略)硬筆が関東には盛んに行われておりますが、硬筆を悪いとは申しませんが、羊毛で濃墨を用ひよと魏稼孫も云ふた通りにそれが私は好しいと思ひます。硬
筆でなければ勁い字が書けないとも決まるまいと思ひます」という記述があり、
これが楊守敬に影響された証左になるだろう。
竟山は、明治三十五年(一九〇二)三月初め中国に遊学した。武昌に楊守敬
を訪れ、非常な厚遇を受けたという。図
竟山に書き与えた手本「範書」である。楊守敬が主張している側鋒で筆の開閉 ((左)の捲り書帖は、その時の楊が
によって、一線毎、表情が非常に豊かに現われている。範書の贈与によって、
竟山の視野が広がっていったように思われる。しかし、竟山の書風は楊守敬と似ておらず、その影響もはっきりしていない。さらに、楊守敬については、よ
く使っている蔵鋒・中鋒などの用筆論 )(1
(を竟山に伝えた筆談資料や書簡資料が存在せず、該当の考察がなかなか実現できない状況である。また、楊守敬のよく
使っている側鋒と違い、竟山は、日下部鳴鶴に習い、大体筆を真っ直ぐに立てて正鋒で書く習慣であった )(1
(。竟山の楷書と隷書の書風は、大いに鳴鶴に影響さ
れたが、線の把握ついては、北碑からある程度汲み取った楊守敬の線質に惹か
図 4
八〇
れたところが多かったのである。竟山の代表的な隷書(図
は、楊書の明暗分明な線質に憧れていたのではなかろうか。両氏の書の線質に表れる緊張感や枯れ筆でもたらす明暗 (の右)と楊守敬の「範書」を比較すると、おそらく竟山
感が、師弟間の書法交流を語るようである。
一方、竟山は、楊守敬を訪ねた折に、楊に友人の程頌萬(一八六五〜一九三二)を紹介され、程が勤務する自強学
堂に懇談に招かれた。程頌萬(一八六五〜一九三二)は、字は鹿川、号は石巢、晚号は十発居士、湖南寧郷人で、一
八九九年四月から一九〇二年一〇月まで自強学堂(今武漢大学の前身)の提調を担当していた。竟山は、一九〇二年に初めて湖北に赴いた故、図
(の程頌萬の招待状と名刺が一九〇二年のものだと想定できる。さらに、他に注目され
るのは、竟山が保存していた黄志孚の三通の書簡である。朱色のたて罫を引いた信牋に、暢達流麗な行草で記されている。まず釈文を次に掲げておく。
鳳巣 (1) (0、敬祈。山本由定先生金陵訪交、張鳳巣公兄惠啟。逖先手粛。(年不明)
(学長兄有道:不晤者幾何時矣、同是労人。況瘴難罄、而執事竟以騰達為吾堂光。比維君官咸宜、起居佳
暢以祝以慰。弟奔走十年、依然故我、時事日非、自慚碌々、乃退而服賈、設肆於漢口溷身市廛間、日与大腹者磨牙、無復鄰蘇園中雅興矣、可恥咲也。啟者、山本由定君、日本高士也。与弟為文字交、頃航海至滬、走
書相告將為呉越之遊、回攬鍾阜、莫愁之勝。執事善八法、而由定君亦精金石学。弟故樂為介紹、結文字縁。想亦執事所樂聞也、近況何如、仰盻飛鴻、臨楮不勝馳情至、即請升安並候潭祉不具。弟黄志孚頓首。二月廿
九日。
八一
山大人□席別数年矣、弟南北奔馳、了無善状、去冬不幸又遭先母之喪、倉黄帰粵東、故郷家貧、親喪羅□ (( 、(封筒)台湾台北石防街一丁目三十六番、山本由定殿。上海黄逖先識上。(一九〇八年一二月二二日)山本竟
矣。(中略)憶往年先生答約同遊神洲三島、籍観上国之光。以筆墨為糊口亦困極、追思不禁神往、頃聞儀晋斉王言、得先生其留意焉、俾得側於緒論以慰数年契濶、喜之急矣。海山遥阻、遠視起居康強。手此並承、福履
海愉、不俱。□小弟黄志孚頓首、中冬二月十四日上海発。
名刺:山本先生閣下。黄逖先(表)。Wang Dick Sin(裏)。
((Shanghai、函復寄上海虹口文路第一號旭旅館內、山本竟山先生台啓。湖北武昌黄寓発。
山本由定先生閣下。不見有如三秋矣、渇望為労以維遭定絶愉、與時逢吉。為正為慰、往此月五月十四日到滬、十九日忽接内子病危之電、蒼猝来帰至今。(中略)蓋聚首之地邸、丈人仍在此、間月来我敝府擬修改両湖院
故、丈人遷廟甚忙碌、昨囑已代転致、文衡山書札詩検出、當與丈人書件同寄滬也、人事促逼。匆匆。希復。
(中略)七月七日武昌発(後略)。
書簡
(江蘇省、浙江省)の地へ遊び、南京の紫金山、莫愁湖の景勝を巡遊したいと言っており、張荊野は書法を善くし、竟 (0は、黄志孚が竟山を書家名家の張荊野に紹介する内容である。主に先ごろ渡航して上海へ来た竟山は、呉越
山も金石学に精しいので、二人の墨縁を結ばせることを望んでいる。一九〇三年、竟山は第二回目に中国へ遊学した時、江蘇、浙江の地に赴いたゆえ、一九〇三年に黄志孚が書いた紹介状だと推測している。人名辞典には黄志孚(生
卒不詳)の記載がなく、一体どのような人物であるか、竟山とどのような関わりがあるのかについて考察していく。
八二 まず『楊守敬年譜 )(1
(』に、黄志孚に関しては次のように述べられている:「庚辰、四十二歲。集帖目錄十六卷成。是年二月、移居東北園東莞進士黄燮雲(家駒)館中。(中略)余乃與燮雲携筆墨到琉璃廠各帖店抄集帖目錄、又訪收藏家補
其缺、両人昕夕商訂、情投契合、遂聯為姻婭、以三女許其子志孚」。また、楊の友人の柯逢時宛の書簡「寄慎庵之一 )(1
(」(年月不明)があり、黄志孚に関して次に記されている:「鄙人復有一女婿黄志孚、広東東莞人、年二六歳、黄家駒之
長子。家駒更名萼、三十未進士、由刑部主事改官洋県知県、現已告罷而未回藉、與閣下郷榜同年、想相識也。其分本
伝吾学、其父欲学西洋文字語言、故於中土書未能博覧。然其文筆亦自條達、留守敬処数年、金石文字頗得通曉、能篆書、又学張廉卿楷書、幾乱真。若以之校『関中金石記』、當能之。未識尊処需用西洋文字語言者否?即無、可用以之為
書記、亦似能勝任」。合わせて考えれば、楊守敬は、北京で第六回会試(一八八〇、明治一三年)の時、東莞進士の黄燮雲に大変世話になり、三女を燮雲の息子黄志孚と結婚させて姻戚になっていた。のちに、楊守敬は、西洋文字語言
と金石書法に精通する黄志孚を同郷の友人柯逢時 )(1
((一八四五〜一九一二)に推薦し、相応しい仕事があるかどうかに
ついて打診している。
書簡
((は、台湾総督府に勤務している竟山に宛てた黄志孚の挨拶である。特に、「憶往年先生答約同遊神洲三島、籍
観上国之光」から、竟山は黄志孚と日本へ同行する旅を約束したことがわかる。すでに湖北から上海に移住した黄志孚は、台湾勤務中の竟山との交流が続き、ネットワークを結んでいた。一方、前節に述べた辛亥革命の後、楊守敬一
家は湖北から上海に逃げ、避難生活を送っていた状況を踏まえて、また書簡
文衡山書札詩検出、當與丈人書件同寄滬也」から、即ち黄志孚は、保護された楊守敬の収蔵品から「文衡山書札詩」 ((の「丈人遷廟甚忙碌、昨囑已代転致、
を検出し、他の書作と一緒に竟山に郵送した。黄志孚は、楊守敬や竟山との連絡や、物品の調達を分担していたこと
八三 が書簡で読み取れる。楊守敬は、竟山に程、頌萬、甘作蕃、黄志孚などの諸氏を紹介し、また、黄志孚に紹介された張荊野を加えることで、竟山は、文人交流のネットワークをいよいよ強固なものに築き上げていった。文人ネットワークによる物・情報の共有を通して、竟山の視野は大いに広がったのである。 大正五年(一九一五)一月九日、楊守敬が他界し、二月六〜七日、竟山が主唱して楊守敬の追悼会が行われ、京都府立図書館において遺墨展と講演会が催された。資料
(((受信人居所氏名:室町下長者町北、山本由定;発信人居所 氏名:鳴鶴、記事:賛成承知)は、一九一五年一月二九日の楊守敬追悼会に対する鳴鶴の返事電報で、竟山の切迫な気持ちがうかがえる。また、謄写版刷りの趣意書が残されており、そこには「主唱 山本由定」のほか、「賛成」とし
て京都の内藤虎次郎・長尾槇太郎・富岡謙蔵・羅振玉・大阪の西村時彦・岐蘇牧・磯野於菟介、東京の日下部東作・犬養毅の九名が名を列ねている。趣意書 )11
(によると、六〜七日に遺著・遺墨・遺物及び関係の図書が展観され、六日に
竟山は「楊氏の書法」、内藤湖南は「楊星吾ノ地理学ヲ評ス」、富岡桃華は「校勘家トシテノ楊氏ノ功業」という題目
で、それぞれ講演を行ったが、その際、図録はもとより展観目録や講演の筆録などは出版されなかったため、具体的な内容は明らかではない )1(
(。竟山は、最も親炙した弟子の一人であり、師の訃報を聞くと、真っ先に追悼会を主催し、
楊守敬の書の傑作と偉業を偲んだのであろう。これによって、竟山の楊守敬への尊敬と感謝の気持ちと、真摯な師弟愛を示している。
おわりに
本文では、山本竟山と楊守敬と築いた交流ネットワークによる書学活動や葛藤を究明した。楊守敬は、竟山と金石
八四
碑版や書作、拓本をめぐる評価などによって交流し、竟山の視野を一層広げ、とりわけ所蔵した『餘清斎帖』と『潘孺初臨坐位帖』と『潘孺初臨鄭文公碑』を竟山に譲ったことは重要である。一方、竟山は、購入依頼と楊の収蔵品の
買取などで、経済的に困っている楊守敬を支えた。また竟山は、ようやく入手した複数の佳作を選出し、日本でコロタイプなどの印影をつくって普及させ、近代日中の書道文化交流に尽力した。さらに、毛筆の選定や範書の贈与、人
脈の紹介、追悼会・遺墨展という四つの事柄を取り上げ、楊守敬が竟山に大きな影響を与えたことが明らかになった。
ただし、竟山の書風は、楊守敬と異なっていたが、コクがある楊守敬の線質に惹かれたところが多かったといってよい。おそらく竟山は、当時すでに日下部鳴鶴に師事している上に、碑学の考証学的理論を学ぶことで、北碑の拓本に
視覚的に引きつけられたのであろう。また、竟山は楊守敬の功績と人格を慕い、追悼会・遺墨展を主催し、恩師への感謝を表し、師を偲んだのであった。
書の学問や書画に関する竟山の趣味と鑑賞眼の形成は、中国書家の諸先達の卓見と同時代の日中の文人たちの教示
に対する見事な吸収だったと言えるだろう。楊守敬の紹介のもと、竟山は金石碑版・書画を蒐集して持ち帰り、日中の書芸交流に尽力した。明治以降、江戸時代の「漢学」に生まれ変わった「中国学」は、特に中国滞在をもとに膨大
な資料、作品を入手して中国の実像を理解しようとした。竟山を代表とする日本文人たちは、中国書画に関心をもつ新興実業家や収蔵家たちに新知見や収蔵品を示し、蒐集の指南役をつとめたことが推測できる。竟山と楊守敬の師弟
関係は、文墨趣味を伝えただけでなく、近代、特に明治後期及び大正期の日中文化交流の一面を示し、書芸について直接交流する様子と事例をよりいっそう浮き彫りにするものと思われる。
八五 注(
( が集まっていた。 ()門下に佐々木惣一(憲法学者・文化勲章受賞)、湯川秀樹(ノーベル物理学賞受賞)等が挙げられる多彩な方面の人たち
( 〇五年、八九頁。 ()中村史朗「楊守敬の技法論―その性格と日本への影響を巡って―」、『「近代日中書法交流史を担った人々」展』、二〇
( 年)による紹介される。 ()その中の幾通を取り上げ、杉村邦彦氏の「山本竟山と楊守敬」(『山本竟山の書と学問』シンポジウム基調講演、二〇一八
( ()山本竟山『竟山学古』、雄山閣、一九三一年。
( ()徳島県立文学書道館編『「近代日中書法交流史を担った人々」展』、二〇〇五年、一〇二頁。
( に保存されている。 跋文がある一部を鳴鶴二譲ったが、佳品への執着で中国に行った時にまた一部(楊跋無し)を入手し、現在関西大学博物館 ()楊守敬は力をつくして三部を捜して入手し、その一部を竟山に売って、家には二部を残していたという。竟山は楊守敬の
( 富であり、上海の名宅である愚园を所有した人物である。 ()甘作蕃、字屏宗、号翰臣、非園主人、広東中山人である。上海怡和洋行総弁、公和祥埠頭買弁、金石書画の収蔵が大変豊 の略伝」(『書論』第三五号特集・楊守敬「与寺西秀武書」など、七三 守敬の蔵書保護と水野疎梅―年譜・遺稿・書簡を中心として―」、杉村邦彦「楊守敬「与寺西秀武書」の釈文と寺西秀武 政府副総統に就任し、袁世凱の死後大総統になった。黎元洪による保護の経緯について、横田恭三「辛亥革命期における楊 8)日清戦争での活躍で張之洞の信を得、湖北新軍旅団長となった。次いで辛亥革命の時には推されて湖北総督から南京臨時
-九四頁)に詳しい。
(
( ()楊先梅輯、劉信芳校注『楊守敬題跋書信遺稿』、巴蜀書社、一九九六年、一八八頁。
( (0)徳島県立文学書道館編『「近代日中書法交流史を担った人々」展』、二〇〇五年、九九頁。
(()杉村邦彦「潘存臨鄭文公下碑の伝来とその歴史的意義」、『書学書道史研究』、一九九九年、二三
-三六頁。
(
( (()デジタルアーカイブ『台湾日々新報』による掲載。
(()山本竟山『竟山学古』、雄山閣、一九三一年。
八六
(
( 顕然たり」など中鋒と蔵鋒に関する内容である。 謂に非ざるなり。八面出鋒して始めて之を中鋒と謂う」、「古人の墨跡を観るに、鋒鋩畢く露われざる者無し。六朝の碑尤も 〇五年、九一頁)に、楊守敬と巌谷一六と関連の筆談があり、即ち「中鋒は最も宜しく善く体会すべし。鋒の画中に在るの (()中村史朗「楊守敬の技法論―その性格と日本への影響を巡って―」(『「近代日中書法交流史を担った人々」展』、二〇
( れる南北朝時代の北朝碑版であり、その書法はもとより正鋒である」。 書記官まで務めた日下部鳴鶴らの正統希求にはただならぬものがあった。(中略)北碑とは、中国書法の正統が備わるとさ 鎖国状態の中、良い手本も指導者もなく、中国の正統からはかけ離れたものとなっていた。そんな中、唐様の書家として大 (()松村茂樹「日中書法の交流史」(角井博監修『中国書道史』、芸術新聞社、二〇〇九年、一八四頁):「長崎にしか窓がない
(()張荊野(一八六四
( の高い人物で、能書家としても人気を博していた。 た。革命の影響を受けて同盟会に参加し、孫文の知遇を得て、ひそかに革命運動に従事し、「詩鐘会」を創設した。知名度 教習官に任ぜられた。同年、俄文館漢文教習を授けられた。一九〇九年、江蘇候補知県となり、南京厘金局局長に任ぜられ -一九二二)、湖北黄岡人、字は鳳巣、号は石渠である。一八九七年の抜貢で、北京へ上り、八旗子弟
( (()楊守敬著、熊会貞補述『楊守敬年譜』、上海大陸書局、一九三三年、二五頁。
( (8)劉信芳「楊守敬函稿・続」、『東南文化』、一九九二年、二六九頁。
( 路協会名誉総理を歴任した。 林院編修に授けられる。江西按察使、湖南布政使、広西巡撫、兵部侍郎、督辦八省膏捐大臣、兼總理各国事務大臣、湖北鉄 (()柯逢時、著書、刻書、藏書が好きで、字は懋修、号は巽庵、湖北出身である。清光緒九年(一八八三)に進士となり、翰
( 八〜二〇〇頁)に掲載されている。 (0)趣意書の草稿があり、杉村邦彦「楊守敬の来日と日本人書家との交流」(『書苑彷徨』第三集、二玄社、一九九三年、一九
(()杉村邦彦「楊守敬と日下部鳴鶴―近代中日書法交流史の発端―」、『書学書道史研究』、一九九四年、三一頁。