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『トム ・ ジョウンズ』 と 『源氏物語』

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『トム ・ ジョウンズ』 と 『源氏物語』

著者 能口 盾彦

雑誌名 言語文化

巻 6

号 2

ページ 225‑257

発行年 2003‑12‑31

権利 同志社大学言語文化学会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000004615

(2)

『トム・ジョウンズ』と『源氏物語』

能 口 盾 彦

『トム・ジョウンズ』(The History of Tom Jones a Foundling)1と『源氏物語』

を対象とした研究論文は皆無に近いのではないか。論者の不勉強もあって、

これまで余り目にしたことが無い。海外の近代小説と日本文学の古典との比 較は無謀と危惧されるが、ナバコフ(Vladimir  Nabokov)の『ロリータ』

(Lolita)での男女の絆と『源氏物語』の若紫や女三の宮をめぐる光源氏の愛 の形態は比較の範疇に入るのではないか。また光源氏亡き後の世界が描かれ る「宇治十帖」とジイド(André Gide)の『狭き門』の類似性を指摘する識者 もいる。敵対する右大臣家と左大臣家を巻き込む光源氏と朧月夜おぼろづきよ君の逢瀬は、

ロメオとジュリエットの密会を髣髴させる。光源氏の女性遍歴を中心に展開 する『源氏物語』と『トム・ジョウンズ』の快男児トムの活躍に類似性無き にしもあらずだが、好色家の序列に力点を置くものではない。光源氏に日本 を代表するドン・ファン(Don  Juan)、或いはカサノヴァ(Casanova)のイメー ジを見る向きもあろう。ドン・ファンとはスペインの伝説上の放蕩無頼な好 色漢、一方、イタリア人のカサノヴァは18世紀半ばに欧州各国の宮廷でその 名を轟かせ、浮き名を綴った自伝で有名な猟色家として知られる。実在する 恋多き男性として、日本では9世紀の在原業平ありわらのなりひらや18世紀の喜多川歌麿の名が 挙がり、フィクションの世界で輝かしい恋愛劇に縁取られた光源氏を考えれ ば、浮世草子の代表作『好色一代男』が思い浮かぶであろう。主人公の一年 (7歳から60歳まで)に一章を充て、全54章から成る事から、井原西鶴が『源 氏物語』を念頭に入れた事は間違いない。

『源氏物語』と『トム・ジョウンズ』がかけ離れた存在であることは申す

「言語文化」6-2:225−257ページ 2003.

同志社大学言語文化学会©能口盾彦

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までも無い。1740年に英国近代小説の先駆けとされるリチャードソン (Samuel  Richardson)の『パミラ』(Pamela)の発刊が見られ、以後フィールデ ィング(Henry  Fielding)、スターン(Laurence  Sterne)、スモレット(Tobias Smollett)等によって小説の礎が築かれ、代表作の一つと数えられる『トム・

ジョウンズ』がフィールディングによって1749年2月に公表された。一方、

日本近代小説の先駆的作品として二葉亭四迷の『浮雲』(明治20年)や田山 花袋の『蒲団』(明治40年)が挙げられ、森鴎外や夏目漱石、三島由紀夫等 の文豪達によってジャンルとしての小説が確立されたが、わが国の小説の起 源は遥か昔にさかのぼる。古来より漢詩文や和歌を主とした我が国の文学体 系では詩歌が主流を成し、9世紀の『竹取物語』や10世紀の『伊勢物語』は 物語に類する。文学史上では、『伊勢物語』は我が国最初の歌物語に組みこ まれているようだ。平安末期の12世紀に古今内外の説話を集めた『今昔物語』

の存在を忘れてはならない。さらに南北朝から室町朝にかけて生まれた『御 伽草子』は14、5世紀にかけて通俗短編小説の形態をおび、『一寸法師』、

『浦島太郎』、『ものぐさ太郎』等を派生し、庶民文学の萌芽となった。王朝 文化華やかな平安時代にあって、漢詩文を中心とした男性文学に対し、仮名 文字の女流文学作品が生まれ、『蜻蛉日記』に『枕草子』や『源氏物語』等 が日の目をみた。

英文タイトルにある様に、捨て子トム・ジョウンズでは如何にもロマンス に似つかわしくない表題ではないか。一方、王朝貴族文学の最高傑作、『源 氏物語』の描く社会には夕顔の如き庶民派も登場するが、光源氏を核とする 恋物語が織り成す宮廷貴族が中心の物語である。作風や成立経緯、また背後 にある文化や歴史面で大きな差異が在る事は断わるまでもないが、わが国が 誇る至高の物語である『源氏物語』と、英国近代小説の傑作『トム・ジョウ ンズ』を比較対照することは、比較文化の視点から意義深いのではなかろう か。

I.背景

『トム・ジョウンズ』の英文タイトルにあるヒストリーとは 物語 を意

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味する。本来なら『捨て子トム・ジョウンズの物語』と題されるべきだが、

以後は通称『トム・ジョウンズ』を使用する。『トム・ジョウンズ』は全6 巻18シリング、版元はフィールディングの処女小説である『ジョウゼフ・ア ンドリューズ』の場合同様、ミラー(Andrew  Millar)であった。フィールディ ングは『トム・ジョウンズ』の版権料として最初に六百ポンドを、次いで好 評につき更に百ポンドの追加を受けた。同作品は1746年6月から1748年11月 にかけて執筆されたと考えられる。一方、1001年に夫藤原宣孝のぶたかに先立たれ、

失意の日々を過ごす紫式部であったが、『源氏物語』執筆に手を染め、一條 天皇の中宮彰子の女房として召し出された1005、6年正月頃までにはかなり 仕上がっていたものと推定されることから、『トム・ジョウンズ』とは740年 余の隔たりがある。2回覧閲読された事と当時の紙質を考えると、『源氏物語』

の初版本が現存し得ない事は当然であろう。彼女の生涯等をめぐって不明な 点も多いが、父は藤原為時、母は藤原為部の娘で、誕生年に関し諸説ある。

与謝野晶子は978年を主張し、研究者の岡一男は973年説を、今井源衛は970 年説をとる。父の赴任地である越前武生から戻った紫式部は、998年に花山 天皇在位中の父の同僚で、親子ほど年齢差のある宣孝と結婚、長女の賢けん― 後に歌人として活躍する大弐三位―が誕生する。二年足らずの結婚生活の後、

1001年には夫が疫病で頓死する。その後数年にわたる宮仕えの後、1016年前 後に亡くなるが、残念ながら埋葬地は清少納言と同じく不詳である。

宮中に出仕する以前から書き溜められていた『源氏物語』は、宮廷内の更 衣や女御に好評裏に回し読まれ、その後宮中の体験を基にして、紫式部が書 き足すといった経緯を経て同物語は完成をみた。閉鎖社会の中で密かに読み 継がれた『源氏物語』が、一躍耳目を集めて多くの読者を勝ち得るなどとは 考えられない。当代では男性が認める正統派漢詩文の評価が高く、『土佐日 記』の書き出しに見られる如く、かな文字の使用は女子に限られた。物書き は女の余技と見なされ、軽視された。女性が社会進出を果たした例は皆無に 等しく、清少納言や紫式部にしても中宮付きの進講役に甘んじるばかりであ った。作品評価も低く、『源氏物語』さえその対象とすら成り得なかったこ とは驚きである。文学作品として漸くその存在が認められ始めたのは、鎌倉 時代においてである。

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『源氏物語』のコピーが多数出回ることが無かったのは、当時の製本は書 き写し作業に依存する為であった。西洋ではグーテンベルグ(Johannes Gutenberg)による活版本が1454年頃に日の目を見たが、我が国では木版、一 部銅板印刷として770年に刊行された『百万塔陀羅尼』3が最初とされる。『百 万塔陀羅尼』の如き貴重な歴史文献は別として、平安時代の物語の類はもっ ぱら安価な書写作業に委ねられ、藤原定家(1162-1241)の日記『名月記』にも 一家で『源氏物語』の手写しに当たったとある。『源氏物語』の作品中にも 光源氏が夕顔の娘 玉鬘たまかづらを訪ねると、彼女は読書と並行して物語を書き写す とする箇所が見られる。4 さらに『紫式部日記』も当代の印刷事情を伝えて いる。寛弘5年11月に中宮彰子の敦成あつひら親王(後の後一条天皇)ご誕生後、内 裏に還啓される日を前に、中宮の面前で豪華な『源氏物語』の清書本が披露 されたとある。5 権勢を極めた藤原道長による筆や墨、和紙の手配があれば こそ実現したわけだが、この事をもって仮名まじり物語への深い理解あって の支援と解せる筈もなく、道長が縁戚にあたる紫式部の学識を認め、入内さ せた長女の進講係として宮仕えさせたのも、中宮定子に仕えた清少納言並び に『枕草子』の存在を念頭とした処遇であろう。

II.人物と作品構成

両作品を構成面から比べてみよう。いずれも大作で、『トム・ジョウンズ』

は古典形式に則り、全18巻208章、始、中、終の三部から成る。他方、『源氏 物語』は全54帖、「宇治十帖」を含め、原稿用紙換算で約二千枚を数える。

第一部を「桐壷」から「藤裏葉」まで33巻、第二部を「若菜」から「幻」ま で8巻、第三部を「匂宮」から「夢浮橋」まで13巻と定めるのが一般的であ る。所謂、「宇治十帖」の前には、「匂宮」、「紅梅」、「竹河」の三巻があり、

他の編との筆使いの違いが指摘され、作者は別にあるとの説が無くも無いが、

「橋姫」以下の十巻は紫式部の作と定めてよい。両作品が三部に分れるとは いえ、内容が大きく異なることは否めない。『トム・ジョウンズ』の 始 はイングランドのサマセットシャーを故郷とする主人公等の幼年時代が中心 で、 中 は主人公等のロンドンへの道中話からなり、 終 はロンドンを舞 台に大団円に至る。これに対し、『源氏物語』の第一部は光源氏の誕生から

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39歳までの有為転変、即ち恋愛と結婚、宮廷内の抗争等がドラマティックに 盛り込まれている。第二部は光源氏40歳以降の人間関係と人生のアイロニー が織り込まれ、光源氏と紫の上の夫婦関係や光源氏の再婚相手である女三の 宮と柏木の関係から複雑な人間模様を写す。第三部は光源氏亡き後に焦点が 当てられ、光源氏の嫡男夕霧と正室雲居く も いの雁かりとの長男匂宮、即ち光源氏の孫 と女三ノ宮と柏木の子、薫との恋の鞘当てに紙面が割かれている。陽気な匂 宮と影をおびた薫の関係から、『トム・ジョウンズ』のトムとブリフィルを 思う読者もあろうが、薫に人を落としめる陰湿さ、卑屈な性格を見出せない。

むしろお人好しの恋敵、フェロモンふんぷんの匂宮にトムの面影を見るが、

トムより好き者の印象が強い。優柔不断な薫は匂宮に中の君を奪われるばか りか、薫と浮舟の恋路にも匂宮が介在し、浮舟入水の顛末に至る。

『トム・ジョウンズ』及び『源氏物語』はそれぞれ三部構成で、作中人物 の相似性が指摘されるが、『トム・ジョウンズ』に登場する人物相互の関係 はむしろ単純と言えよう。一方、因果は巡る複雑な人間関係に裏打ちされた

『源氏物語』が、千年も前に書かれたことは驚くばかり。恋の遍歴も度重な れば性描写などは露骨な表現に陥りがちだが、光源氏の恋の成就は猥褻な印 象を与えない。「宇治十帖」ではかなり大胆な描写も数えられるが、卑猥と 成りかねない箇所は御簾や衣擦れで巧みに闇に隠され、読者の想像に委ねら れる。これに対し、『トム・ジョウンズ』では如何なる表現となるか。当時 の宗教関係者達から奔放と批判されたトムの行状が、光源氏と比べて随分大 人しく見えるのはどうした事か。森番ブラック・ジョージの娘モリーやウォ ターズ夫人との情事やベラストン夫人との関係は、単に“A reformed husband becomes a good husband.”の実証条件に過ぎないのではないか。トムの濡れ場 は想像し得ても、全く性が感じられないのはどうしたことか。その理由の一 つに、トムの恋人ソファイアは決して凌辱されてはならぬ前提、不文律が伏 されている為であろう。その意味から『クラリッサ』のヒロインが、眠り薬 をもられて無頼漢ラブレスに辱めを受け、彼女の死に終わるプロセスの方が 迫真的である。但しクラリッサ凌辱シーンの ぼかし表現 は、本当にこと は行われたのかとのうがった意見6も出るほど、赤裸々とは程遠い表現に縁 取られる。

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『トム・ジョウンズ』の極めつけの情事は哲人スクウェアとモリーの秘め 事が発覚し(V,v)、帳(the  Rug)の陰に哲人の姿をトムが見出す場面であろ う。踏み込んで現場を押さえた緊張を、爆笑に転じるのは笑劇で鳴らしたフ ィールディングの自家薬籠中とするところ。モリーとトムの奔放さは同巻第 10章で二人が林間に姿を消すことで仄めかされる。その場面を原文と邦訳で 読み比べてみよう。

Here  ensued  a  Parly,  which,  as  I  do  not  think  myself  obliged  to  relate  it,  I shall  omit.    It  is  sufficient  that  it  lasted  a  full  Quarter  of  an  Hour,  at  the Conclusion of which they retired into the thickest Part of the Glove. (257)

そこで談判が始まったが、それを語る義務もあるまいし、省略すると しょう。兎に角物の十五分もそれが続いて、その結末は林の奥深く二 人が姿を消した事さへ言えば足りる。7

フィールディングの結びの言葉は、性描写をめぐる英国近代小説家の姿勢を 言い当てていよう。

紫式部も女性らしき筆致で光源氏のアヴァンチュールを描いている。「花 宴」で朧月夜君と光源氏の出会いは目眩め く るめく事態であり、恋路に緊迫感は付 き物である。

・・・こなたざまに来るものか。いと嬉しくて、ふと、袖をとらへ給 ふ。女、「おそろし」と思える氣色にて、「あな、むくつけ。こは誰そ」

と、のたまへど、源「何か、うとましき」とて、源 深き夜のあはれ を知るも入る月のおぼろげならぬ契りとぞ思ふ とて、やをら、いだ きおろして、戸は押し立てつ。あさましきに、あきれたるさま、いと なつかしう、をかしげなり。わなゝく、「こゝに人の」と、のた まへど、源「まろは、皆人に、ゆるされたれば、めし寄せたりとも、

何條事かあらん。たゞ忍びてこそ」と、のたまふ聾に、「この君なり けり」と、聞き定めて、いさゝか慰めけり。・・・8

(8)

この箇所を谷崎訳では次のようになり、さらに二人は扇を交換し、今宵の逢 瀬の証となす。

・ ・ ・来るではありませんか。嬉しさにはっとして、つとその袖を お控えになります。女は恐ろしいと思う様子で、「まあ、気味の悪い、

これはどなた」とおっしゃるのですけれども、「何もそんなにお疎うとみ にならないでも」と仰せになって、

き夜の哀れを知るも入る月の おぼろげならぬ契とぞおもふ

と、やおら抱き下おろして、戸を締めてしまいました。あまりのことに呆あき れている有様が、世にも可憐で美しいのです。うちふるえながら「こ こに人が」とおっしゃるのですが、「私は誰からも許されているので すから、人をお呼びになりましても、何にもなりません。どうぞお静 かに」と仰せになる声に、源氏の君であったと分って、少しは安心す るのでした。9

因みに、英文では次のようになる。

She came (could he believe it?) to the door. Delighted, he caught at her sleeve. “Who are you?” She was frightened. “There is nothing to be afraid of.” “Late in the night we enjoy a misty moon. There is nothing misty about the bond between us.” Quickly and lightly he lifted her down to the gallery and slid the door closed. Her surprise pleased him enormously. Trembling, she called for help. “It will do you no good. I am always allowed my way.

Just be quiet, if you will, please.” She recognized his voice and was somewhat reassured. Though of course upset, she evidently did not wish him to think her wanting in good manners. . .10

朧月夜君の微妙な心理状態が“Who are you?”では、その場の息を呑む雰囲気

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が伝わり難い。“She was frightened.”と状況補足が付されても、今一つ彼女の 語調が伝わりにくく、平板な印象は免れない。その後の二人の息遣いに、日 本語には 間 が感じ取れるが、英語にはそれが無い。翻訳問題は別として、

トムと光源氏が関与する、東西の男女の合歓形態に差違は見られるが、描か ずとも読者に空想力を駆らせる手法は違わない。

「空蝉」で軒端荻と光源氏の縁えにしは、 この人の、何心なく、若やかなるけ はひも、あはれなれば、さすがに、情しく契りおかせ給う。11とあり、

契り に示される。約束、契約、前世からの因縁等を意味する 契り は、

ここでは男女の営みを指す。因みに、サイデンステッカーはこの箇所を The girl beside him had a certain young charm of her own, and presently he was deep  in  vows  of  love. 12と訳している。一方、『トム・ジョウンズ』ではソフ ァイアの侍女オナーに、 . . . and would have been very angry, I believe, to have thought  any  of  his  Family  should  have  taken  up  with Molly Seagrim’s dirty Leavings.’ (205-6)であると、トムの身持ちを評させているが、文中の taken up  with は交わるの意で、朱牟田訳ではモリー・シーグリンなんかに 手 をつけた となっている。13 清純なヒロインに淫らな侍女が帯同する事で、

世慣れた者と汚れを知らぬ乙女の対比を際立たせる効果がある。但し、現実 社会でパミラと見まごう女性でも、悪辣な女中頭の監視下に置かれれば、事 の顛末は想像に難くない。『源氏物語』の世界では、乳母や女房の立身は女 主人の栄達と合致し、主人の地位向上が至上命題となる。自分達の地位や実 入りへの執着は彼女達の処世術に他ならず、鼻薬をきかされた召使達が保身 の為、公達の手引きに荷担するのは自明の理であろう。現実と遊離しないフ ィクションの世界が古いにしえの『源氏物語』に再現され、迫真的効果を有す。『シ ャミラ』刊行に当たり、『パミラ』のヒロインの所作を手練手管、姦計と揶 揄するフィールディングとて、辻褄併せと無縁ではなかった。『トム・ジョ ウンズ』でブリフィルを悪の権化と設定するが、彼の肉体の虚弱さに至上の 悪が立脚する設定は、齟をきたして当然だ。つまり狡猾、卑劣な手段にブ リフィルが訴えようにも、体力が伴わず、トムの活力に抗し得ずとは不自然 極まりない。『源氏物語』で石部金吉の如き夕霧や迫力不足の薫等に優柔不 断さが指摘されるが、乳母や女官等が手筈を整えれば、玉鬘と髭黒の右大将

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の関係に示されるように、紫式部のヒロイン達は自らの命運に従わねばなら ない。それが現実であり、平安時代の宮廷内での結婚の実態、事実婚を反映 しているのではなかろうか。一方、近代小説とはいえ、浪漫的憧憬の対象た るヒロインは悪の餌食から免れるとするのが前提で、ソファイアの凌辱など は起こり得ない。

『トム・ジョウンズ』と『源氏物語』の主人公は人生の浮沈を共に経験す る。主人公の順風満帆な人生が感興を呼ぶことは稀で、波瀾万丈の世渡りが 読者の関心を繋ぎ止め、高める事が出来よう。『女の一生』や『アンナ・カ レーニナ』も然り、今なお人気を保つ由縁であろう。トムが故郷のサマセッ トを後にするのも養父の逆鱗に触れて館を追われた事による。対する光源氏 は敵対する右大臣の末娘、朧月夜君と添臥するが、当の姫君は二ヶ月後に東 宮(後の朱雀院)妃として入内を控える身であった。朧月夜君と幾度か逢引を 重ねた後、密会が露見し、右大臣の激しい恨みを買った光源氏は大逆罪の咎 をきせられ、流刑の身となる。都を追われて須磨、明石の地をさすらう光源 氏は傷心の日々を過ごす中、明石の君との縁をなす。やがて二年五ヶ月の流

たく

の末、朱雀帝の許しを得た光源氏は都に帰る。

一方、トムはロンドンへの道中や同地滞在中に様々な試練を経て、捨て子 の身分が一転、オールワージ氏の甥と判明し、物語は大団円を迎える。トム とソファイアには幸せ極まりない後日談が数行書き添えられるが、『源氏物 語』の「宇治十帖」の如き光源氏亡き後の物語の展開は見当たらない。色道 に邁進する光源氏の十代から熟年に至る遍歴がトムに欠けるのは当然で、精 神的また肉体的変化をトムに望むべくも無い。須磨から帰還後の光源氏の隆 盛ぶりは目覚しいものであるが、決して安閑とした晩年とは申せない。本来 なら紫の上との平穏で円熟した夫婦関係が生れる筈だが、女三の宮の突然の 降嫁によって二人の絆に微妙な間隙が生じる。加えて女三の宮の不義と薫の 誕生、紫の上の死と相次ぎ、人生の陰りを光源氏は味わうのである。これに 対し、資産階級に組みされ、家庭人、常識人と化すトムに往時の奔放さは期 待できないのではないか。

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III.因果

『トム・ジョウンズ』と『源氏物語』には近親相姦、背徳のテーマが持ち 込まれている。アプトンでトムが一夜を過ごしたウォターズ夫人が捨て子ト ムの母親との風説があったことから、顔馴染みのパートリッジの誤解を受け る。だが『トム・ジョウンズ』第18巻第7章で彼女の口から、オールワージ 氏の友人の忘れ形見サマーと妹のブリジェットがトムの両親である事が明ら かにされる。トムとウォターズ夫人の関係は仮初の恋と目されるが、『源氏 物語』では事は容易に治まらず、ギリシャ悲劇張りに因果はめぐる。光源氏 は父の桐壷院の女御である藤壷宮と密通し、不義の子冷泉院が誕生する。冷 泉院はやがて自らの出生の秘密を知ることとなるが、光源氏と藤壷宮の背倫 行為を記す箇所は見当たらない。多言を要すと、読者は間接的に二人の秘め 事を漏れ聞く訳である。「帚木ははきぎ」でのいわゆる 雨夜の品定め の翌日、光 源氏が紀伊の守の館で女房達の噂話を耳にする事から、光源氏の不倫が発 覚・露見する。さらに「若紫」での藤壷宮の贈答歌「世がたりに人や傳へん たぐひなく憂き身をさめぬ夢になしても」14 いくら夢の中の人になって消 えても、世間の噂にいつまでも私のような因果者は残るでしょう 15は、光 源氏の献上歌「見てもまた逢う夜まれなる夢のうちにやがてまぎるるわが身 ともがな」16 私はまれまれにこうしてあなたと寝て見る夢の中の人になっ て消えてしまいたい (与謝野晶子訳)とする背徳の罪深さをしのばせる歌 への返答である。二人の二首の歌に加えて、次の一節、「いかがたばかりけ む、いとわりなくて見たてまつるほどさえ、・・・心深う恥ずかしげなる御 もてなしなど・・・」が二人の抜き差しならぬ関係を物語るとされる。17

光源氏の背徳の罪の重さは人生のアイロニーとなって後日彼を襲う。光源 氏の後妻、三の宮と柏木の同衾による薫の誕生がそれである。葵の上の没後、

北の方を置かぬ光源氏であったが、突如として朱雀院と藤壷の女御の娘、女 三の宮の降嫁が成る。幼な妻を迎える光源氏と新妻の溝は埋め難く、その間 隙が悲劇の誘因となる。出生の秘密を抱えながら苦悩する薫等の人物描写は 素晴らしく、トムでは演じきれぬほど荷は重い。未だ内縁関係に止まる紫の 上とも蟠わだかまりが生じ、光源氏は人生の機微にふれる。紫式部が背徳の世界を物

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語に取り込んだのも、華やかで奔放な宮廷貴族生活を垣間見たことによるの だろう。18 対するフィールディングは幼少の頃から、とりわけイートン校時 代(1719-24)にギリシャ、ローマの古典に慣れ親しんできた素地にあると推断 されるが、不倫騒ぎをドタバタ喜劇と化すのが彼の常套手段である。

フィールディングの場合、背徳の世界を描出しようとして、無理な設定、

論理の矛盾をきたしている。ハンサム青年のトムと母に相当する女性との接 点を如何に定めるか、思案を要するところである。若さ溢れるソファイアに 対抗するには、容姿が極めて重要であるのに、ウォターズ夫人が美形でない 事は既に読者に明らかにされている。『トム・ジョウンズ』第1巻第6章に ウォターズ夫人はジェニー・ジョウンズの名で登場済な上、若き彼女がパー トリッジ家で女中奉公を勤め得るのも、焼き餅焼きの夫人が美人を雇わなか った為とある。

This Jenny Jones was no very comely Girl, either in her Face or Person; . . .for she (Nature) had given her a very uncommon Share of Understanding.(48)

美人ではなく頭の良さが取り柄のジェニーであればこそ、ブリジェット・オ ールワージのお眼鏡に適い、捨て子トムの誕生に貢献出来たのである。山の 男の話を切り上げる為には、トムとの別離がはかられねばならず、トムがロ ンドンを目指すためにも、山中に女性の悲鳴を響かせる必要が生じる。踵を 返して夜陰の中、救援に駆けつけるトムの前に肌も露わにした中年女性がジ ェニー本人で、彼と仮初の情を交わす設定に、安直過ぎる印象は免れない。

元来容姿でなく知性が取り柄のジェニーに、女を武器に世渡りさせる前提が 論理の矛盾をはらむ。トムが救出した女性と近親相姦を犯す設定に齟齬が生 まれるのは必定であろう。無理な辻褄合せが生まれ、読者に不自然さが残る。

母と子とする設定から年齢差は当然で、ベラストン夫人との年齢差程でない にしても、青年トムの女性遍歴は年増女で縁取られるといって過言でない。

トムとソファイアの思慕の念は筒井筒の世界ゆえ、幼馴染のハピー・エンド に終わる展開は避けられない。ドンファンが過去に囚われれば、自由喪失は 不可避となり、トムの恋の遍歴には所詮限界があると言わざるを得ない。

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IV.女性遍歴

『源氏物語』第一帖の「桐壷」に次ぐ「帚木」は、光源氏を知る女房達が 取り交わす会話から物語は展開する。「帚木」の前半部は頭中将等三人の友 人達の語りから成り、後半部は空蝉をめぐる話に続く。12歳で元服した光源 氏は16歳の葵の上と結婚するが、若い二人の結婚生活には隙間風が吹く。一 方、『トム・ジョウンズ』第4巻第5章でトムは20歳の青年に成長し、ソファ イアは18歳の乙女、ブリフィルはソファイアより一歳年長の19歳で、三者の 年齢差が明らかとなる。モリーは同物語第4巻第6章で官能的な17歳の乙女 として登場する。若者等の遍歴はというと、『源氏物語』の「帚木」で、17 歳の光源氏は妻の左大臣家には足遠く、宮中の宿直室に篭る。そこへ親友の 頭中将に二人の公達、左馬頭と藤式部丞の3人が集う。光源氏に寄せられた 恋文を吟味するに端を発し、三人の友はおのおの女性論を語り始める。自己 の恋愛談を誇示し、女の品性や才覚を比べ合う、所謂「雨夜の品定め」とい われる件である。公達の体験談から、献身的だが嫉妬心旺盛な女、風流だが 尻軽女、学者の家の出だがよく出来た云々と様々な女の姿が浮かぶ。その間 光源氏はうたた寝を決め込み、ひたすら聞き手に徹する。語り手が交互に物 語る手法は『カンタベリー物語』、『デカメロン』、『千夜一夜物語』等にも踏 襲されているが、『源氏物語』では『トム・ジョウンズ』と同様、本筋から の 脱線話 とも解釈可能である。ただし前書の「雨夜の品定め」は物語巻 頭部に位置するが、後書では物語の中間部を占め、作者の挿入意図も異なる。

上流より中程の女性が素晴らしいとする頭中将等による品定めは光源氏を誘 起する。葵の上との結婚生活、加えて17歳ながらその年の春ないしは前年に 父の女御で先帝の内親王、藤壷宮との不倫を犯した光源氏であったが、高貴 な女性以外と接する機会は無きに等しかった。 夜話は光源氏を大いに刺激 し、読者は光源氏の今後を予感する。事実、17歳の光源氏は直ちに恋の遍歴 に足を踏み入れ、物語の進行と併せて、各巻で空蝉、その継娘軒端荻、次い で夕顔、末摘花、朧月夜君等と次々と枕を交わす。光源氏が手を染めるのは 唯々諾々とする女性にあらず、階級差にとらわれず、得難き女性を掌中のも のとしたい男の願望が彼を駆り立てていく。こうした所業が頭中将等の品定

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めに大いに鼓舞された結果と見て間違いなかろう。言葉を変えれば、「雨夜 の品さだめ」は、高貴な女性一辺倒であった光源氏の女性観変更を促す契機 となっている。

『トム・ジョウンズ』では、 山の男の話 (the  History  of  the  Man  of  the Hill)や フィッツパトリック夫人の話 (the History of Mrs. Fitzpatrick)の二つ の脱線話があり、何れもヒストリーとして挿入されている。前者ではトムが、

後者ではソファイアが聞き手となり、来たるべきロンドン生活、都会悪への イニシエイション、人生の手ほどきと解釈される。『トム・ジョウンズ』第 8巻第11章で学生の身ながら借財で首の回らぬ若き日の山の男は、連れの女 とロンドンで路頭に迷う。女の窮状を目にしながら、どうすることも出来な かったと山の男が嘆じると、トムは言葉を挟む。

. . .‘I believe it from my Soul,’ cries Jones, ‘and I pity you from the Bottom of my Heart.’ He then took two or three disorderly Turns about the Room, and at last begged Pardon, and flung himself into his Chair, crying, ‘I thank Heaven I have escaped that.’ (456-7)

オールワージ氏から何がしかの金品を分与されたとは言え、ソファイアを困 窮生活の道連れにしなくて良かったとするトムの気持ちがこの言葉からも判 読できる。いずれの脱線話も主人公達が迎える未知なる事象への入門を果た す。多情多恨の青春話を吐露した山の男と別れた直後、トムは山中で半裸の ウォターズ夫人を救助し(IX,  ii)、アプトン・インで彼女と一夜を過ごす(IX, v)。こうしたトムの行動経過をたどれば、『源氏物語』の「雨夜の品定め」

の夜話に触発された光源氏と違わぬ効果を認めざるを得ない。単に警鐘、啓 蒙の意とばかり山の男の話を捉えず、青春讃歌の啓発の面も在ることを無視 できないのではないか。それがトムの行状の、また不自然なウォターズ夫人 との出会い、共寝の弁明ともなろう。

トムの女性遍歴を考えると、故郷でモリー、旅先でウォターズ夫人、ロン ドンがベラストン夫人、最期にソファイアと結ばれる。ベラストン夫人との 絆は曖昧で金が縁の若きツバメ如き関係を有する。同夫人に偽りの手紙を送

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付することで関係の清算をはかるトムであったが、恋文を出すのもこれが最 初で最後。ドンファンは文才が無くては勤まらない。光源氏に寄せられた歌 の数の多さは、如何に彼が女性達から愛され、思慕されたかを物語る。一方、

トムをめぐる女性で顕著なのは主人公との年齢差で、同年輩はモリーとソフ ァイアの二人に過ぎない。比較的年齢が近いのはロンドンで下宿を営むミラ ー夫人の知人でトムに恋文を認めた若後家、ハント夫人で、 Her  Age  was about  thirty,  for  she  owned  six  and  twenty; (826)とあることから、トムより年 上であることは間違いない。ヒロインの侍女である中年女オナーズも時にト ムに憎からずの気持ちを抱く(IV,  xiv)。同年配の女性よりも年かさの女性に 引かれる理由に、捨て子トムのマザー・コンプレックスが考えられる。片や 光源氏、三歳にして母の桐壷更衣を失い、藤壷宮に母の面影を追うのは自然 な成り行きだが、田辺聖子は光源氏の婆さんキラー振りを指摘している。19

ウォターズ夫人との関係では、近親相姦とトムの出生の秘密を握る役割を 課された事から、少なく見積もっても同夫人は40歳以上で、トムとは親子ほ どの年齢差があると推定される。一方の光源氏と藤壷宮の関係は厳密な意味 では近親相姦に当たらず、背徳に組みし、5才違いの女性への愛慕、母のイ メージ追及の果てである。若き色男トムに助けられたとは言え、中年女性の ウォターズ夫人が肌を露にトムを誘惑するのは不自然な展開ではないか。む しろノーザトン少尉に負傷させられたトムの世話にやきもきする、宿の部屋 付き女中ナンシーとの結びつきのほうが自然の理に適っていよう。

. . .for that poor Girl fell so violently in love with Jones in five Minutes, that her Passion afterwards cost her many a Sigh. This Nancy was extremely pretty, and altogether as coy; for she had refused a Drawer, and one or two young Farmers in the Neighbourhood, but the bright Eyes of our Heroe thawed all her Ice in a Moment. (416)

極めて愛くるしく、身持ちが良い乙女に無関心なトムが、年増女ウォターズ 夫人の色香に迷う設定は不自然で、合点が行かない読者は論者一人であろうか。20 ここで『源氏物語』の作中人物の年齢差をつぶさに考えてみたい。光源氏

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10歳の折に、15歳にして藤壷宮は先帝の忘れ形見として桐壷帝の後宮に入ら れた故、光源氏と5歳違い。葵の上は光源氏より4歳年上の姉さん女房、先 の東宮后の六条御息所は光源氏より7歳年上で、紫の上は源氏より8歳年下 だが、二人には年齢差が実際以上にある様にみえる。庶民に類する夕顔は頭 中将も通った女で、亡くなった時が19歳故に光源氏より2歳年上である。朧 月夜君は光源氏より2、3歳年齢は若く、明石の君が紫の上より1歳年上で あることから光源氏より7歳年下、女三の宮は13、4歳の頃に40歳の光源氏 に輿入れしたとある事から、26、7歳の年齢差を数える。

葵の上、紫の上、藤壷宮、六条御息所、朧月夜君等の高貴な女性達を始め、

空蝉、その継娘軒端荻、夕顔、末摘花等と関係するあたり、光源氏は好き者 の名が相応しい。夜陰に紛れ、言葉巧みに口説き落とす。闇夜の為、相手を 違える際も、たじろぐ事無く身を処し、相手に花を持たせる光源氏の対応は、

まさにドンファンのそれである。まめに文を送る事などはトムには到底真似 が出来ない。トムの情事が自然の成り行きであるのに、光源氏の場合、朧月 夜君や軒端荻に言い寄る様に、凌辱もどきの例が見受けられる。問題となら ないのは彼の手練手管と地位の成せる業であろうか。光源氏の背徳の世界は 絵巻物が紐解かれるが如く、中空から時に視野がさえぎられ、21 読者の想像 力を駆らせる。千年もの昔、光源氏の恋の遍歴と多様な女性を描く紫式部の 筆裁きに、物書きとしての天性の資質を見る思いがする。複雑な人間関係を 構築しつつ、平安時代にあって、性と生殖を紫式部ほど誰が描き尽くすこと が出来たであろうか。『紫式部日記』には藤原道長が紫式部に夜這いをしか けたと記されている。22 その後の進展は同書に記されていないが、丸谷才一 は近著『輝く日の宮』で、藤原道長の役割を指摘している。『蜻蛉日記』を 参考にと紫式部に読ませたり、添臥する紫式部に自らの女性遍歴を寝物語の 如く語る藤原道長の姿を推考する。23 無論、時の権力者との絆を日記に誇ら しげに記載する筈もなかろう。職場と住居が近接する状況下とは言え、当時 の女性達が置かれた立場がこの逸話からも窺えるのではないか。紫式部の如 き才人にしてこの処遇であり、女性の地位の不安定さはぬぐい難き真実であ る。レイプの危険と常に背中合わせの当時の女性として、光源氏の行状を書 き記すのは、また逆に女性だから書き得たとも言えるのではないか。

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V.作者と読者

現代では作者は客観的描写に努め、作品に自分を投影する事を嫌う。但し、

日本の私小説の場合、主人公の生き様には作者自身が投影され、瓜二つと言 って過言ではない。自己を描き尽くせば、休筆を余儀なくされる日本人作家 も少なくないが、欧米の現代小説で作者が姿を表すのは稀である。ところが

『トム・ジョウンズ』と『源氏物語』で作者が時に語り手として、物語に介 在する。作中人物の言葉の端々に作者を忍ばせる例にも事欠かず、作者は読 者に語り掛けようとする。例えば『トム・ジョウンズ』各巻冒頭章で作者は 作家論や人生訓、文学論等を提示する。『トム・ジョウンズ』第1巻第1章 の書き出し部は現在時制で、 An  Author  ought  to  consider  himself,  not  as  a Gentleman who gives a private or eleemosynary Treat, but rather as one who keeps a public Ordinary, at which all Persons are welcome for their Money. . . (31)に始ま り、フィールディングは作家を定食屋の主人と擬え、物書きとしての使命感 を述べる。続く本文の主語は we で我々作家ども云々と語るが、作者 I としても頻繁に登場する。『トム・ジョウンズ』第2巻第5章で、 I  have thought  it  somewhat  strange,  upon  Reflection,  that  the  House-keeper  never acquainted  Mrs. Blifilwith  this  News, . . . (92)とあり、 I とは作者その人に 他ならない。 this  News とはトムの父親がパートリッジに違わぬとの通知 で、侍女がブリフィル夫人と不仲になった為に知らせなかった事が判明する。

次章、即ち同巻第6章で、村中の者がこのニュースで持ちきりの中、預かり 知らぬはオールワージ氏のみである。

To account in some measure for this to the Reader, I think proper to inform him  that  there  was  no  one  in  the  Kingdom  less  interested  in  opposing  that Doctrine concerning the Meaning of the Word Charity, which hath been seen in the preceding Chapter, than our good Man.(97-8)

ここでも語り手役としての I の存在を読者は認識させられる。物語終盤 の第16巻冒頭章では To  say  the  Truth,  I  believe.  .  .(832) と、作者が全面的

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にその存在感を誇示する。 I と we の使用法も巻頭章と文中の例にも見 られるように、確たる原則に基づくものではないが、作者の登場は極めて頻 繁かつ語り手と書き手の境界は分かちがたい。

では『源氏物語』はどうであろうか。同物語は会話文と地の文とから構成 されている。地の文とは作者ないしは語り手が状況設定を説明する文章で、

作中人物の心境を語る場合や、彼もしくは彼女の目に留まる事象を描く。会 話文は作中人物が会話をしている時点・現在だが、地の文は全知的な語り手 の視点から過去の離れた場面の事もよく承知する設定である。更に『源氏物 語』では「草子地」という作者ないしは語り手が自己の意見や観察を差し挟 む。その結果、話の展開を早め、作中人物の表情や動作を地の文では示し得 ない心情を語り手の独り言の如く提示する。24 従ってある時は全知的な視点 から、またある時は女官達の噂話を光源氏と共に読者は耳にする。玉鬘十帖 に属する「蛍」で、物語を手にしていた玉鬘を訪れた光源氏は彼女相手に物 語談義を始めるが、この辺りを原文とサイデンステッカー訳にて以下に引く。

源「その人のうへとて、ありのまゝに言ひ出づることこそなけれ、よ きもあしきも、世に経るひとの有様の、見るにも飽かず、聞くにもあ まることを、後の世にも言ひ傅へまほしきふしを、心にこめがた くて、言ひおきはじめたるなり。よきさまに言うとては、よきことの 限り選り出でて、人に従はむとては、又、悪しきさまの、珍しき事を 取り集めたる、みな、かたにつけたる、この世のほかのことなら ずかし。・・・」25

“We are not told of things that happened to specific people exactly as they happened; but the beginning is when there are good things and bad things, things that happen in this life which one never tires of seeing and hearing about, things which one cannot bear not to tell of and must pass on for all generations. If the storyteller wishes to speak well, then he chooses the good things; and if he wishes to hold the reader’s attention he chooses bad things, extraordinarily bad things. Good things and bad things alike, they are things

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of this world and no other.26

秋山虔は光源氏に代弁される紫式部の物語論を次のように解説する。

・・その中で彼はいう。物語は、神の代以来の歴史や人生を記したも のであろう。・・・物語にこそ、正しい道理に即した委細が語られて いるのであろう。・・・善悪いずれにしても、実人生に生きる人の姿 を見て、深く心動かされたことを後世にまで伝えようと、黙って語り おくというのがそもそものはじまりである。・・・光源氏の物語論は、

いうまでもなく作者紫式部の物語論である。・・・光源氏をしてこれ を語らせたのであるが、それはほかならぬ源氏物語の創作過程におい て作者が自得した物語本質観であった。これが現代にそのまま通用す る小説虚構の原理であることについては多言を要しないであろう。27

実人生に生きる人々の姿が、善悪いずれにしても、後世までその感動を伝え ようとする事から物語は始まり、決してそれは非現実的な事柄ではない。

『トム・ジョウンズ』第8巻第1章でアリストテレスの『詩学』に範を求めた り、ホーマーやホラチウスを引いては理論構築に努めるフィールディングに 対し、系統的、論理的に論証されてはいないが、作者紫式部の物語論がここ に示唆されており、作中人物に代弁させる物語形式自体も現代の小説原理に 通じる事は間違いない。

光源氏に代弁させる形を取った紫式部に対し、フィールディングは主人公 に代弁させようにも、自然児トムは資質に欠け、手紙を書くことさえままな らない。『トム・ジョウンズ』第15巻第9章では同年輩のナイティンゲイル に口述されて、ベラストン夫人宛に手紙を認める体たらく。このトムの口か ら物語論など語られる筈も無い。その為、フィールディングが登用するのは

『トム・ジョウンズ』の各巻序章等で、劇作家が重用するプロローグに類す るものであろう。ここでは作家の使命や批評家への批判、処世訓や教育論に 芸術論が例証される、一方、『源氏物語』全般に言い得る事だが、会話文以 外では、書き手と語り手の存在が作品の内外に存在し、紫式部は『源氏物語』

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で作品の内外区分のつけ難い箇所に、語り手ないしは書き手を介在させてい る。

本章を締めくくるに、『トム・ジョウンズ』と『源氏物語』の当代の読者 層を考えてみたい。『トム・ジョウンズ』の読者として、貴族を中心に上・

中流階層の人々に加え、ブルー・ストッキングに代表されるブルジョワ女性 達を数えるのに対し、『源氏物語』脱稿当時のわが国の社会状況を鑑みれば、

宮廷人以外に読者は見当たらず、大多数が内裏の女官達に限られた。漢詩と 和歌の隆盛下、女性が認めたかな文字物語への評価が低かったのは先に述べ た通りである。執筆に際し、フィールディングは妹セアラ等の極く限られた 近親者のコメントを耳に差し挟む程度だったが、リチャードソンに至っては モア(Hannah  More)等の愛読者を前に草稿を読んでは反応を確かめ、書き改 める場合が度々であったとか。『クラリッサ』のヒロインの末路を巡り、取 り巻きの愛読者の間で意見が戦わされたと言う。28『源氏物語』も女官等の 反応を確かめつつ、好評に意を強くした紫式部が筆を進めたものと推測され る。ジョンソン博士や教会関係者等から、婦女子には相応しからぬと批判を 受けもしたが、1749年に出版された『トム・ジョウンズ』はたちまち版を重 ね、多くの愛読者を獲得したことは言うまでもない。

VI.時代設定

『トム・ジョウンズ』や『源氏物語』の読者は作品の時代背景を類推する が、時代設定が両作品の必要条件とはならない。時代を越えて他を凌駕する 普遍性を誇る事こそ、名作の名に相応しい。だが文章表現とは別に、物語の さらなる迫真性を追求する為に、現実離れした内実、絵空事に終始していて は、読者の共感を勝ち取れないのも真実である。現実世界との接点をはかる 為、『トム・ジョウンズ』では特定の時代設定が設けられている。サマセッ トシャーにあるオールワージ氏の館 パラダイス・ホール を追われたトム が政府軍に志願兵として参加する件から、ジャコバイトの叛乱が示唆される。

スコットランド北辺に上陸した若僣王(the Young Pretender)が兵を募り、イン グランドまで進軍し、このスチュアート叛乱軍鎮圧を目指す政府軍司令官は ハノウヴァー王朝ジョウジ2世の末息子、カンバーランド公爵(Duke  of

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Cumberland)(367)であった。同公爵の名前からトムが参戦するのは1745年の 叛乱と推定される。反スチュアート王朝、反カソリック教を主唱するフィー ルディングが史実を交えるのも、自己の信条たるハノウヴァー王朝支持を読 者に訴えたい一念であろう。29 加えて、トムとソファイアが目指すロンドン への当時のルートが実際に地図上で辿れる事も、物語の迫真性を高めている。

対する『源氏物語』では宮廷内の権力争いが物語られるが、具体的な国家事 変への言及は試みられていない。しかしながら光源氏の生い立ちから、当時 の読者に特定の人物を想わせたに違いない。光源氏は桐壷院と桐壷の更衣の 間に生まれるが、7歳にして臣籍に降下、源氏の姓を賜ることから、醍醐天 皇の皇子ながら臣籍に降下した源高明の記憶が当時の読者に鮮明に呼び覚ま されたことであろう。

『トム・ジョウンズ』第8巻第14章にはフィールディングの事実誤認と見 なされかねない興味深い箇所がある。山の男の話からトムが老人の隔世振り を驚嘆するのも、その時の経過にある。『トム・ジョウンズ』の脱線話の語 り手、 山の男 がモンマス公の叛乱に参加した云々とあるが(VIII,  xiv)、

モンマス公とは1685年にイングランド西南部に上陸して叛乱の狼煙を上げる が、忽ち鎮圧されてロンドン塔で斬首されたチャールズ2世の庶子モンマス (Duke  of  Monmouth)がその人である。敗残兵として九死に一生を得た山の男 は友の裏切りや放蕩生活への慙愧の念から、世捨て人となり、幾十年の隠遁 生活を送ったこととなる。

‘Can it be possible,’ replied Jones, ‘that you have lived so much out of the World as not to know, that during that Time there have been two Rebellions in favour of the Son of King James, one of which is now actually raging in the very Heart of this Kingdom?’ (478)

the  Son  of  King James と本文にあるのはジェイムズ2世の息子ジェイム ズ・スチュアート(James  Stuart)で、一般に老僣王(the  Old  Pretender)として知 られている。老僣王の叛乱は1706年と1715年の二回を数え、1685年のモンマ ス公爵の叛乱後30年とすると1715年の老僣王の叛乱となろう。本文中の

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the  very  Heart  of  this  Kingdom とは、1745年に若僣王(ジェイムズ2世の孫、

老僣王の子Charles  Stuart)がダーヴィ郊外にまで攻め込んだ史実と符合する が、老僣王がイングランドを震撼させた事実が無いことを考えると、作者誤 認説が極めて濃厚となる。だが1749年に『トム・ジョウンズ』を公表したフ ィールディングが、記憶に新しい事件を誤記したとするのも信じがたい。モ ンマス公の叛乱に参戦した山の男は二十台後半と考えられ、トムとの対面時 を1745年とすると、 山の男 の年齢は八十台後半と推定され、夜な夜な山 中を徘徊する日常性は不自然と言わざるを得ない。こうした指摘が気に懸か ったのか、フィールディングには珍しく改変を施し、初版のこの箇所が第2、

3版では改訂されている。そこで初版本のウェズリアン版と第3版のペンギ ン版を比較してみよう。叛乱軍上陸の報が駆け巡り、モンマス公の叛乱軍に 大義を見る 山の男 は、義憤に駆られた心境を次の様に語る。

“. . . I had been for some Time very seriously affected with the Danger to which the Protestant Religion was so visibly exposed, under a Popish Prince;

and thought the Apprehension of it alone sufficient to justify that Insurrection: . . . such an Occasion as the Spirit of Patriotism)” (477-8)

ところが第3版のペンギン版では“. . . I had been for some Time very seriously affected with the Danger to which the Protestant Religion was so visibly exposed,”

に続けて、“that nothing but the immediate interposition of Providence seemed capable of preserving it: For King James . . .”30とフィールディングには珍しく大 幅に変更されている。リチャードソンとは対照的に、筆を改める事が希有な フィールディングであったが、モンマス公やジャコバイトの叛乱前後の自己 の歴史認識に不具合を見出した為であろう。フィールディング全集の決定版 としてウェズリアン版『トム・ジョウンズ』は修正前の初版に基づき、R. P.

C.  Mutter編纂のペンギン版及びマクミラン社のEnglish  Classics版は第3版に 基づき、Sheridan  Baker編纂のNorton  Critical  Editionは第4版本を基とし、朱 牟田訳は第3版に則っている。ところが3版の修正箇所は1750年、実際には 1749年12月11日の第4版では元に戻されており、フィールディングの真意が

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何処にあるのか疑問は残る。

日本の作り話の世界では時代設定は問題とならないのではないか。『竹取 物語』では いまはむかし、竹とりのおきなというもの有りけり に始まり、

実年代は確かめ難く、読者も確かめようともしない。富士山が煙をはいた 云々との記述から、地質学的に大概の見当はつく。だが今日と比べて当時の 富士山は活動的であったことから、年号の特定は容易でない。 むかし と か むかしむかし は今の話ではないとする前提で、書き手と読者との暗黙 の了解事項と解される。フィールディングと紫式部は隔世的な史実を想定す ることは無い。『源氏物語』の書き出しは いずれの御時にか で始まる。

これでは確たる時を特定する事は不可能で、今はむかしと大差ない。いずれ の帝の治世かと、読者は帝が特定されるより一層興味が引かれ、読み進むう ちに設定時代を認識しうる。「桐壷」で語られる史実や故事は少なくないが、

その中で時代を確実に特定できるのは3、4項目に過ぎないと阿部秋生は明 示する。その一つは、 このごろ、明け暮れ御覧ずる長恨歌の御絵、亭子院 のかかせたまへて、伊勢・貫之に詠ませたまへる大和言の葉をも、唐の詩を も、ただその筋をぞ枕言せさせたまう、… 31であり、ここで問われる亭子 院とは宇多天皇を指し、同天皇が長恨歌の屏風絵を描かせ、伊勢に長恨歌を 題材として歌を詠ませたとあることから、史実と解釈し得る。さらに宇多天 皇の退位と新帝醍醐天皇への心得をめぐる箇所から、寛平9年(西暦897)と 推断出来、桐壷帝の醍醐天皇説は可能と阿部秋生は結ぶ。32 加えて光源氏の 命名や生い立ちから、実在人物の名が浮上する。光源氏の須磨流謫と、源高 明が反逆の咎で配流された史実が錯綜し、物語に一層の迫真性が加味される。

流罪とされた光源氏の命運は、小野 篁たかむらや在原業平、行平、菅原道真等の左 遷劇に加え、藤原道長によって失脚させられた藤原伊周これちか等を髣髴させる。阿 倍清明に代表される陰陽学が人心を深く支配していた平安時代にあって、

人々は落雷や疫病などの異変を他者の祟りと恐れた。六条御息所の悪霊に取 り付かれた夕顔が悶死する等は現代人の理解を超えるが、左遷された者の怨 念が物の怪と化し、恐れおののく人心模様が光源氏の復権に再現される。光 源氏を遮断した朱雀院の夢枕に故桐壷帝が立ち、帝は目を患う。光源氏追い 落としに荷担した故桐壷帝の正室弘徽殿こ き で んの大后は病み、大后の父右大臣も亡

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くなる事態を受け、赦免された光源氏は都に帰還する。

『トム・ジョウンズ』に捨て子物語という表題を充当する事で、ロマンス 色払底を図ると同時に、叛乱等の比較的近時の時代をフィールディングは想 定し、読者との臨在感共有を目指した。同様に、紫式部も光源氏という仮想 人物を配して仮構の宮廷世界を描出する一方、宇多天皇から醍醐天皇の御世 を示唆することで、虚構と一線を画している。従来の作り物語と異なる時代 物として『源氏物語』を脱稿した事実に、時の男性支配の文学界に挑む女流 物書きとしての紫式部の自負心、大望を窺い知る事が出来よう。

VII.迫真性

物語の現実性、迫真性に関し、『トム・ジョウンズ』で例証される好例は、

ソファイアの転落場面であろう。馬の背に揺られ、疲労困ぱいのヒロインを 迎えた宿屋の亭主は痛風持ちで、案の定、女性客を抱き抱えた弾みに転倒す る。ヒロインは恥ずかしさのあまり赤面し、周りの男性の不謹慎な笑いを誘 うとの描写がそれである。

. . . ; for my Landlord had no sooner received the young Lady in his Arms, than his Feet, which the Gout had lately very severely handled, gave way, and down he tumbled; but at the same Time, with no less Dexterity than Gallantry, contrived to throw himself under his charming Burthen, so that he alone received any Bruise from the Fall; for the greatest Injury which happened to Sophia, was a violent Shock given to her Modesty, by an immoderate Grin which, at her rising from the Ground, she observed in the Countenances of most of the Bye-Standers. (574)

怪我を免れるも、ソファイアの羞恥心が傷つけられたとする表現は、従来の ロマンスに登場する完全無欠なヒロインには似つかわしくない。不首尾、不 都合こそ、小説のヒロインの蓋然性を高める訳で、新しい方向性を象徴する 場面と言えるだろう。

ソファイアの初登場に際し、『トム・ジョウンズ』第4巻第2章でヒロイ

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ンの美が荘重体で余すところなく筆写されているが、写実性を一層高めんと する一節が見られる。“. . .If Envy could find any Part of the Face which demanded less Commendation than the rest, it might possibly think her Forehead might have been higher without Prejudice to her. . .”(156)との文中で、作者は迫 真性を求めて、額がいま少し高ければと陳述するが、いか程を指すのであろ うか。額がいま少し低いと定める筆致に、理想的ヒロインと実態との間に齟 齬が生じかねない。玉に傷の範疇に収まり切れない不具合が生まれはしまい か。フィールディング最後の大作『アミーリア』のヒロインにも同様な矛盾 が指摘される。馬車転覆が為にヒロインの欠陥は唯一鼻にありと定めたこと から、 鼻無しアミーリア として揶揄される不面目さを招いた。33 リアル さを目指すあまりの辻褄あわせは、かえって逆効果の例と申さざるをえない。

18世紀前半の小説のヒロイン全般に指摘される事だが、迫真性欠如の典型 はヒロインの危機での対処法に見られる。危険に遭遇したヒロイン達は押し なべて気を失う。卒倒したヒロインを前に、慌てふためく侍女達は気付け薬 を捜し求めて大騒ぎ、相も変わらぬドタバタ劇が繰り返される。『トム・ジ ョウンズ』でも然り。例えば第6巻第9章で娘のソファイアがトムと恋仲に ある事を知らされたウェスターン氏は怒り心頭、猛り狂って二人の居る部屋 に乱入する。狼狽した娘はトムの腕の中で気絶する。娘の大事、と地主は助 けを求めて右往左往する始末。

. . . Mrs. Western and a great Number of Servants soon came to the Assistance of Sophia, with Water, Cordials, and every Thing necessary on those Occasions. . .(302)

Cordial とは強壮剤、強心剤に相当する。こうした状況下でよく用いられ るのはHartshorn(鹿角精、炭酸アンモニア水)で、雄鹿の角からアンモニアを 採取した事に由来する。類例として、『トム・ジョウンズ』第4巻第13章で ソファイアの馬が暴走し、彼女はトムに救助されるが、その際にトムは腕を 骨折する。帰宅したヒロインは心労で椅子に崩れ落ちるが、気付け薬で気絶 を免れたとある。

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When they arrived in Mr. Western’s Hall, Sophia, who had totter’d along with much Difficulty, sunk down in a Chair; but by the Assistance of Hartshorn and Water, she was prevented from fainting away, . . .(203)

18世紀英国の読者は随分と虚弱、軟弱なヒロインがお好みなようで、パミ ラもアミーリアも危機に瀕すれば、ここぞとばかり失神を繰り返す。これを 逆手に気絶を決め込むのがシャミラといえよう。気を失えば危機は去り、ヒ ロインの可憐さが育まれる前提で、物語の進捗がはかられるが、迫真性を削 ぐきらいが無きにしもあらず。『源氏物語』では情事がリアルに描かれずと も、御簾の背後にしのぶ男女の動静を読者は行間から読み取る。朧月夜君は 悶絶し、気付薬を施されて当然な状況に臨むが、暗闇に公達を識別して身を 処する。彼女の臨機応変な所作こそ、強姦と密通の間隙をうめる心情表現で あり、処世術と釈明できないか。この種の実際は、乙女がふと気付くと傍ら に見知らぬ男が侍り、呼べど叫べど、助けは現れずじまい。召し使い達は買 収されるか、姫君の将来への思惑か、何れにしても事実婚が結婚への道標と なる。『パミラ』で田舎の館に幽閉されたヒロインが、狡猾な女中頭ジュー クスの監視下でさえ身の破滅を免れるが、『源氏物語』で女房や乳母の手引 きで仕組まれた縁組みでは、こうした不始末は起こり得ない。無論、日本文 学にあって不首尾に終わる例も無きにしもあらず。『竹取物語』では、5人 の求婚者はともかく、翁の館を兵で取り囲むくらいなら、帝は館に押し入る 事も可能であろうが、そうはさせないのもロマンス的求婚様式に則った御伽 噺が故であろう。

『源氏物語』では柏木の妹の夫である夕霧が、柏木の未亡人である二の宮 の許に忍ぶが夫人の拒否にあう。やむなく退室する夕霧が僧侶(加持僧の律 師)に見咎められ、二の宮の生母、一条御息所の知るところとなる。世間の 風聞が物語の進行の背後に伏せられる。こうした設定下、夕霧と二の宮の不 義に悩む一条御息所は、夕霧に娘の処遇を文にて問う。父である光源氏の男 振りとは好対照の息子の体たらくは、恋の不首尾にとどまらない。一条御息 所から送付された手紙は読みづらく、判読に苦慮する夕霧は正室の雲居雁に

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背後から手紙を取り上げられてしまう。返せ、戻せと叫ぶが中々手渡さぬ雲 居雁、二人の遣り合いは狂言の如し。育児に追われた雲居雁は手紙のことを 失念し、無頓着に捨て置いた手紙を、漸くにして夕霧が取り返す場面を、和 英双方から眺めてみよう。

・・・鳥の跡のようなれば、とみにも見解き給はで、大殿油ちかう取 り寄せて、見給ふ。女君、もの隔てたるやうなれど、いと疾く、見つ け給うて、はひよりて、御後より、とり給うつ。夕「あさましう。こ は、いかにし給ふぞ。あな、けしからず。・・・」・・・小さき兒、

這いかゝり、ひきしろへば、とりし文のことも、おもい出で給は ず。・・・御座の奥の、すこしあがりたる所を、こころみに引きあげ 給へれば、「これに、さしはさみ給へるなりけり」と、うれしう も・・・34

It was dark when the old lady’s letter arrived. In that strange hand, like the tracks of a bird, it was next to illegible. He brought it close to a lamp.

Kumoinokari came lurching through her curtains and snatched it from over his shoulder. “And why did you do that?. . .”. . .The baby had come crawling up and was tugging at her sleeves. She had no thought for the letter. . . His eyes lighted on a cushion that seemed to bulge along the far edge––and there it was! The obvious places were the ones a person overlooked. . .35

現代人の視点からも、一連の展開と作中人物の所作を迫真的と定めて異論 は無いだろう。一方、フィールディングのヒロインは親許から出奔し、夜盗 が徘徊する街道をロンドンを目指す勇気と気力、体力を保持しながら、難事 に際し、よよと泣き崩れて気を失う二面性を抱えている。そこがソファイア の可憐さ、可愛らしさ足る所以だが、不自然さも付きまとう。一方、『源氏 物語』ではジュリエットの如き朧月夜君、紫の上の苦悩溢れる生き様、情念 のあまり怨霊と化す六条御息所、ひたむきな夕顔、思慮深き空蝉等、恋に生

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きまた亡くなった様々な女性の姿がリアルに描出され、光源氏を中心に有形 無形の因果の世界が再現される。紫式部は多様な男女の作中人物を生み出し、

彼らが織り成す生き様や人間関係、輪廻に、時と空間を超えて現代読者に鋭 く迫りくるものがある。

『トム・ジョウンズ』が出版されるや、『パミラ』のヒロインを貞女の鑑 としてあれ程まで歓迎した宗教関係者達は、一転、婦女子読むべからずと糾 弾する。反フィールディングとして知られるジョンソン博士だが、青踏派の モア女史に、淑女たる貴女が『トム・ジョウンズ』如き読み物を手にすると は、と慨嘆したとか。36 主人公の女性関係をめぐり、非難を浴びせられた

『トム・ジョウンズ』と、近代の道徳基準から判断しても、背徳、不倫とし て排斥されかねない『源氏物語』をめぐり、認知の程に温度差が現出するの はどうしてなのか。近親相姦や凌辱場面に縁取られるも、王朝絵巻の奔放な 恋物語として容認された『源氏物語』と、堕落を戒めるキリスト教的道徳訓 が時と共に意味を失う中、女性の地位保全と宗教倫理を堅持しようとする英 国宗教界との狭間にあって、『トム・ジョウンズ』に少なからぬ抵抗が示さ れたのではあるまいか。

時代も風土も違える中、『源氏物語』と『トム・ジョウンズ』は誕生をみ たが、作家の出自も有形無形に影響を及ぼしているのではないか。光源氏を 取り巻く女性達は凡庸の物書きでは決して描き尽せない。容姿、性格、階層 の異なる様々な女を巧みに描出し得たのも、紫式部が貴族階級に所属してい た為であろう。貴族出身とはいえ受領階級の娘にすぎなかったが、摂政太政 大臣藤原良房の兄弟を祖先とする名門の出で、時の権力者、藤原道長の縁戚 に連なることが才知溢れる彼女に幸いした。宮中に宮仕えする間、公達や女 御、更衣の生活実態や彼、彼女の奔放な私生活を垣間見ることにより、物書 きとしての素養が備わり、物語構想のヒントを得た。対するフィールディン グはthe Earl of Denbighと縁続きとは言え、貴族の末席を占めるばかりであっ たが、代々高位聖職者や軍人を輩出する家系で、法曹界の縁者も少なくなか った。ギリシャ、ローマの古典劇にフィールディングが通じ得たのも、環境

参照

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