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大野城市史 : 第三編『中世』

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九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

大野城市史 : 第三編『中世』

服部, 英雄

九州大学大学院比較社会文化研究院 : 教授 : 日本史

http://hdl.handle.net/2324/17749

出版情報:大野城市史. 上巻, pp.501-598, 2005-07-31. 大野城市史教育委員会 バージョン:

権利関係:

(2)

第一章 歴史はくり返す

i時代を通じて変わらなかった

       のろしやま

 四王寺山の役割・逃げ込みの城と狼煙山i

第一章 歴史はくり返す

 大陸との玄関口  大野城市域は大宰府と那の津.博多との中間にある︒博多は大陸との玄関ロで︑大宰府は 大宰府.博多 律令国家の九州支配の拠点であった︒大宰府は内陸におかれたが︑同時に博多湾に面して

鴻臆館を設置していた︒鎌倉幕府の九州統治機関・鎮西探題は博多におかれた︒アジアとの接点におかれた統治

機関は︑国内外の緊張を︑つねにうけとめ続けた︒その周辺に住む人たち︑この大野城市域に生活を営んでいた

先人たちは︑そうした政治的︑地理的な状況から多くの影響を受けてきた︒

 大宰府・博多は玄関であったから︑その分︑危険もあった︒いったん外国勢力︑軍隊の侵入があった際には︑       こうこいし官人・兵士・周辺住民が逃げ込む城が必要だった︒多くの朝鮮式山城や神籠石に見られるように︑大宰府の防衛

施設・大野城もまた逃げ込み城であった︒文禄の役に日本豊臣軍の急な進撃に︑多くの朝鮮人民が﹁山登り﹂

﹁山上がり﹂をして避難している︵﹃日本戦史・朝鮮役﹄文書五八・六四︑九月七日・十月二十七日加藤清正書状︶︒この      きい       おくらいふくりゅう ひしょうに︑朝鮮半島の城は逃げ込み城である︒大野城も基疑城も天智天皇四年︑百済から亡命した憶礼福留︑四比

ふくふ福夫によって築かれたことが﹃日本書紀﹄に明記されている︒百済人によって百済の城の思想により築かれた︒

博多湾から外国軍隊の侵入があれば︑貴族も庶民も四王寺山に︑あるいは基山に逃げ込むように城が造られた︒

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 歴史はくり返される︒太平洋戦争の終末を迎えた昭和二十年八月十五日︑国道三号線︵現県道二二号線︶は南下する人の波であふれた︒みな米兵︵中国軍とも︶の上陸を恐れて避難したのである︵近代編十章︑現代編一章︑白水昇﹃筑紫の歴史とくらし﹄﹁干あがり﹂昭和五十六年︶︒女︑老人︑子供が多かった︒家に残された飯米すべてを所      みのう持し︑最低限の家財をリヤカーで運んだ︒向かった先は御嵩郡などさまざまで︑耳納言を目指した人もいたが︑

最も多かったのが四王寺山︑またその近隣の山だったという︒荷を山に上げるのは相当な労苦だと思われたが︑

敵軍︵米軍︶への恐怖はそれを遙かにしのいでいた︒自治会組織から指示が出たところもあった︒家族と財産を

守る逃避行だったが︑実際には中途から戻ったり︑一︑二日で山を下りた人が多かった︒無事である︑安全だと

いう噂はすぐに伝わったようだ︒

 四王寺山の  律令の時代︑伝達手段として四王寺山には狼煙台が設けられた︒﹃日本後紀﹄につぎのように

狼煙台 ある・

         ニ      弘仁二年二月庚寅於大宰府鼓琴四天王寺造釈迦仏像

 この﹁鼓琴﹂をうけて       いぬい  右に見ゆる如く大野城鼓琴すなわち四王寺の山を云う︒大野城よりは乾の方にあたりて高き峯なり︒又側に

  火の尾崎といえる峰あり︒これ峰台の趾なり︵大野城市市史編さん室収集資料︑原典不明︶︒

と記されている︒また﹃筑前国忌風土記拾遺﹄巻四十・糟屋郡四王寺村の項には

502

火 尾

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第一章 歴史はくり返す

  村西︒礎業曝︑相対して有︒七穴及ゑり込の溝つけり︒此奴より左に下れば国分村︑右は水城に出る道也︒

   ほうすい  昔峰燧を置し故︑名とせるにや︒

とある︒﹃福岡県地理全誌﹄糟屋郡四王寺村の項にも同様の記述がある︒       の ろし 江戸時代にも︑長崎に軍事的緊張が走るたび︑この狼煙が復活された︒近世の狼煙は寛永十五年︵一六一二八︶︑

島原の乱の終結後に設けられた︒そのあと︑いったん廃絶していたが︑文化五年︵一八○八︶外国軍艦の長崎入

港・滞在を許したフェートン号事件の反省に立って︑再設置された︒このときの記録は多い︒代表的なものが︑

福岡藩の儒学者・亀井昭陽の﹃峰山日記﹄︵﹃亀井南冥・昭陽全集﹄葦書房一九七八年刊︶である︒昭陽は藩内の抗争

に破れて峰火台の勤務に当たっており︑そのときの体験を漢文日記に残している︒ほかにもいくつかの史料があっ

て峰火の所在地や構造︑勤務形態も詳細にわかる︒

 昭陽が四王寺山の聖火番を勤めたのは文化六年十二月二十一日より十二月三十日までである︒二十二日︑この       あまやま山の最高所に上った昭陽は︑天山すなわち隣接する峰火山で︑さきの勤務地でもあった山よりも︑四王寺山には

一歩進めた長所があるとして︑宝満︑古里︑若杉が見えること︑さらに加えて︑海上の大観をあげている︒雲が       注1あって︑壱岐︑対馬すべてを一瞬に見ることはできなかった︒それでも﹁安部︑町尽︑五龍︑大小机諸島﹂がみ

         おろんしまえた︒於呂はむろん小呂島である︒大聖算︑小机島というのは玄素目南西︑音無瀬戸を隔てた小島である︒安部

・五龍も島の名前と思われる︒

 つづいて﹁十里松︑小芙蓉﹂については﹁呼べば答えるかのようだ﹂と記されている︒十里松は漢文調の表現

で︑箱崎松原を指すと考えられる︒

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 ﹁有白帆匙玄解藍島際﹂と﹁相島﹂も登場する︒おだやかな日には冬にも帆船が航海していた︒先の五二が玄

界面なら︑この玄溜は玄界灘を指そう︒安部島は烏帽子島かもしれない︒四王寺山の遠望は広大であった︒

 文政三年︵一八二〇︶に大宰府の旧蹟を描いた地図が数枚作成されている︒その一枚が﹃歴史地理﹄︵二一二一一︶

に藤井野太郎によって紹介された﹁大宰府古図﹂︵﹁観世音寺村之内旧跡礎現之図﹂︶で︑それには国分寺に下る尾根

     ほうか      とぶひの頂部に﹁墨家﹂︑中腹に﹁火ノ尾﹂が記されている︒文化九年︵一八一二︶に峰が縮小されているが︑文政三年

はそのわずか八年後であり︑記憶は鮮明だっただろう︒中山平次郎によると︑ともに︑地名として記憶されてい

た︵﹁九州北辺に於ける文化年間の峰火台﹂﹃考古学雑誌﹄五一七・大正四年︶︒今でも記憶されている︒

 火ノヲ︵尾︶は広目天から下る尾根にあり︑国分村の東の谷とカシハ谷の中間尾根になっている︵本誌・近世編

第五章第三節図44・45・46参照︶︒現在は植林で見晴らしは利かないが︑途中の樹木の切れ目を通じての眺望からも

推測できるように︑当時の展望はすばらしかった︒中山は住民からの聞き取り結果として峰家は文化年間創設の

新峰火で︑火ノヲが大野城時代のものとしている︒おそらく右の史料の記述が念頭にあったのであろう︒記憶伝       こえ承が残っていたのかもしれない︒山頂︵患家︶でなければ︑東に隣接するしょうけ越の見通しはむずかしかった︒

        こえ      とおみしょ墨家からしょうけ越に向かうルートは文化年間の新ルートであったと考えられる︒そのほか山上には﹁遠見所﹂

と呼ばれる地点もあった︒       ほうかだい この山からは福岡城外の薬院村丸尾の峰火台に連絡した︒丸尾峰火台の場所は今も峰花台という地名となって      おとがないる︒なお﹃平方覚書﹄峰火場図では表糟屋見性王寺の峰はいったん同︵正しくは御笠︶雪嵐金村之内評金で中

継して那珂郡薬院村山内丸尾に送るようになっている︒乙金山にも峰火台があった︒しかし畑詰村郷原文書︑

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第一章 歴史はくり返す

         ね﹃連年日記﹄︵文化元子年より天保十年亥迄︶文化六年条には

  長崎非常ヲロシや渡来国論大乱︑此年峰火台四王寺山に出来候長崎非常之節出方人馬手当テ筋様々被仰付候

  事とあって︑自身の村に近い乙金村分の記述を欠いている︒あるいはこの後に増設された峰火台であるかもしれな

い︒      からやま 地元乙金や筒井に残る伝承は以下のようなもので︑唐山にも峰火があって︑立花山に連絡したという所伝もあ

る︒      い    が      四王寺山から唐山に火を燃やした︒四王寺山に石が八つか一〇︑並べてあって︑小さな︑く一うかとのあっ

  た︒離間石垣のもっと上︑宇美の管内︑峰火台って言った︒火の尾とは別︒焼米ケ原︑あの近所︒三角山と      にぎりめし  見通しがきく︒唐山は三角山︑握飯山って言った︒三角山のちょっと下に広場がある︒そこで受けた︒そこ

  から立花山︑新宮に連絡が行きよった︒むかし一番高かった所はいま削られていると思う︒四王寺山と立花

  山も見えることは見えるけど︑よほど煙をもやさんと︵乙金・高原美久・大正三年生まれ談︶︒       きやま   ホウカっていう︒煙で合図する︒基山と四王寺山と中村︵唐山︶︑それから立花山を結ぶ︒いまの大文字

  焼きの山がホウカですたい︒千把焚きもそこでした︵筒井・二宮光・大正三年生まれ談︶︒

 峰火台の石囲いや炭は︑近世のものであろう︒ただし連絡先が立花山であれば︑戦国時代にそれぞれの山が︑

峰火として活用されたことも考え得る︒       とぶひ 文字記録としては古代の﹃肥前風土記﹄にみえる峰︑近世のフェートン号事件に関わるものなどしか残されて

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第三編中世

いない︒けれども緊張の発生するつど︑各時代の政治情勢に応じてさまざまな峰火が設定されていた︒おそらく

中心にあった四王寺山の火の尾は各時代を通じて利用されたことであろう︒

 古代・中世の  古代ののろしについては︑史料もなく所在地が確定できないが︑推測はできる︒古代山城で

 の ろ し  ある基難城・北東尾根に火の尾︵日の尾︶という地点があって︑峰火台の伝承がある︒頴田

  かけんま町・鹿毛馬神血石にも火の尾地名がある︒佐賀県神埼町の日の隈山や下関市の火の山はまぎれもなく峰火山であっ

た︒ 以上から古代ののろしは︑火の尾︑火の山︑日の隈等の﹁ヒ﹂のつく地名の山と密接な関連を持つと思われる︒

それらの地名をつないで行くと︑図1に示すように大宰府−小倉間ではちょうど近世の峰火の東側を併行して北

上することがわかる︒古代ののろしに比べて近世ののろしは距離が長かった︒この間︑望遠鏡の利用が可能になつ        かまたからであろう︒竈も時代が下るにつれ大きくなり︑高く大きな煙を上げることができた︒古い時代ののろしは

相互の距離が短く︑数も多かったが︑カマは小規模だったと推測できる︒篭火のような移動可能な施設も考えう

る︒ 中世ののろしに関しては伝承程度にしか史料はないのだろうか︒仁治二年︵一二四一︶六月一日の大宰府検交

替使の報告︵宮内庁書陵部所蔵文書︶によれば︑国司交替にあたって作成される筑後国交替帳︵引継書類︶を点検し       ほうすいた大宰府検交替使は︑筑後算額燧が﹁無実﹂︑つまり実態がなかったことを問題にしている︒ここで大宰府使は

﹁燵燧者︑是機急之備︑非常之墨譜﹂と強調しているから︑本来臨調は常時整備されて︑緊急事態に備えるもの

でなければならなかった︒蒙古襲来の二〇年も前であるから︑緩みが生じていたと考えられるのだが︑それは元

506

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第一章 歴史はくり返す 図1 街道と門火台

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一・一一ロー一一一一 ?閨@古代の蜂

一一一一一 ゚世の蜂

地名に残る京街道 長崎街道

(福岡県教育委員会・福岡県文化財調査報告書第184集『長崎街道』から)

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第三編中世

来あってはならぬことであった︒蒙古襲来時は当然緊張下にあって︑燵燧は再整備されただろう︒弘安の役の後︑

永仁二年︵一二九四︶三月に︑鎌倉幕府は壱岐と九州本土の間に通信が可能かどうかの実験をしている︵来島文書

・永仁二年三月六日肥前守護遵行状﹃鎌倉遺文﹄二四−一八四九九︶︒この三月幕府は大々的な軍事演習を行ったよう

で︑軍勢の注進︑兵船の用意などを各地御家人に命じている︵龍造寺文書︑広瀬文書﹃鎌倉遺文﹄二四一一八五〇八

・一八五一〇︶︒島影はみえても︑煙がみえるかどうか︒わずかでかすかな可能性を頼った︒当然すでに有効性が

確認されている九州本土にはのろしは張りめぐらされて︑九州各地への連絡網が設置・整備されていた︒むろん

四王寺山は博多から各地への連絡の要であった︒

508

注1 ﹃元史﹄中元十八年︵一二八一︶八月にみえる五龍山については︑﹃旧唐書倭国日本伝・︵略︶・元重日本伝﹄岩波文庫

  の注釈は鷹島としており︑これが定説かもしれない︒しかし﹃筑前国続風土記拾遺﹄には小呂嶋あるいは玄界島の項の

  いずれにも︑五龍は当該島である旨の記述があり︑とくに前者の小呂嶋の項には五龍の唐音はヲウロウで︑すなわち小

  呂であるとしている︒しかしながら﹃峰山日記﹄での於呂︑五龍は列記されており︑別の島である︒筑前三内の漢学者

  は玄界島を五龍と呼んでおり︑昭陽も意識して畜犬と表現したようだ︒街学的︵ペダンチック︶な表現で難解である︒      はかたつ はこさき   明書﹃武備志﹄︵明・天啓元年・一六二一︶は︑花旭塔津・法寄殺機︑そして﹁大唐街﹂なることばがみえることで

  知られた史料である︒ここに十里松のことばがみえるが︑長さは百里あるとされている︒日本の里はおよそ四キ︒綴だが︑

  中国の里は○・五キ︒麿であるから︑日本の一〇里は四〇キ︒折︑中国の百里は五〇キ︒層でほぼ同等になる︒この換算差に

  よるものではないか︒明治期には馬出周辺に十里松の小字があった︵﹃福岡県史資料﹄七一六九七頁︶︒

   ︵原文︶

(10)

 花薄塔単為中津︑地方広闊人煙調整中国海商無智聚無地有松林方長十里酩計嬰松︑土名法門当機︑乃廟先也︑有一街名

大唐街︑唐人留彼︑相伝今回為倭也

第一章 歴史はくり返す

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を聞いたことがあるという︒ムクリコクリはムングル・コウライ︵コウクリ︶が託ったものだといわれている︒

すなわち蒙古・高麗が日本を攻めたときの記憶が︑こうしたことばに含められ残されていた︵平田善積﹁泣く子も

黙ることわざ﹂﹃春日風土記﹄平成十二年︑なお頭山統一﹃筑前玄洋社﹄ではコ切合財何もかも﹂という意味でムクリコク

リということばを使うとある︶︒

 文永十﹇年と弘安四年の二度目北九州は蒙古の襲来を受けた︒文永の役は最初の攻撃で︑期間も短かったが︑

初めての外国との戦いだったから︑多くの被害を受けた︒その記憶がムクリコクリなのである︒

 記憶は水城にもつながっている︒水城は天智天皇のときに構築されたことは﹃日本書紀﹄に明白だが︑いつし

か文永・弘安の役に際して築かれたものと考えられるようになっていった︒大仏次郎﹃乞食大将﹄にもぞうした

記述がある︵前掲平田論考︶︒一直線に平野部を遮断する水城はいかにも大宰府防衛のための施設であり︑こうし

た所伝にはふさわしいようにみえる︒蒙古騎馬軍団の侵入を水城際の攻防で阻止する︒あり得なくはなさそうだ

が︑もしそうした合戦が行われたとすれぼ︑今日の大野城市域に住んでいた中世の人々に大きな影響を与えたは

ずだ︒実際にもぞうした戦いはあったのだろうか︒

512

      注1

第二節 文永の役と太宰府

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第二章 蒙古襲来と大野城市域

 文永の役  文永の役で赤坂山︵いまの福岡城跡︶において両軍の激突があったのは﹃竹崎季長絵詞﹄︵﹃蒙古襲

 と冬の嵐  来絵巻﹄︶などによって文永十一年十月二十日だったことが明らかである︒そしてその夜に嵐が吹

いたとされている︒後の史料になるが︑朝鮮の記録である﹃高麗史論要﹄︵朝鮮一文宗二年・一四五二︶には︑﹁会夜

暴風雨﹂と記されている︒そして翌朝︑蒙古の船団の影は博多湾から消えていたという︒蒙古襲来について言及

する︑ありとあらゆる歴史概説書はそう説明している︒だが︑それは本当か︒

 合戦のあった日は︑いま日本で使われているグレゴリウス暦︵西暦︶に換算すると︑一二七四年十一月二十六

日となる︒冬も間近で︑統計上この時期に北九州地域に台風が上陸することはない︒この嵐は台風ではなく︑寒

冷前線通過に伴う嵐であったと考える︒ところで寒冷前線の通過後には︑北西の風が卓越する冬型の気圧配置に

なる︒気象知識の上では常識であろう︒

 こうした冬の嵐はさして珍しくはないが︑一例として平成十六年十二月四日の夜から五日にかけての気象が酷

似していたことを指摘したい︒四日低気圧の接近で暴風警報が発令され︑午後トカラ列島で五トン船が転覆した︒

また前線通過にともない︑和歌山・千葉では風速四七層と台風なみの暴風が吹き︑各地で被害が出た︒前線が通

過したあと︑西高東低の気圧配置になって︑東シナ海海上の強風警報は終日解除されなかった︒嵐の通過であり

文永十一年も類似の気象であったことはまちがいない︒

 博多から北西の方向が壱岐・対馬の方角に当たる︒強風の中を風上に向かって船が進む︒当時の未熟な航海技

術でそのようなことが可能だったのだろうか︒翌朝︑蒙古の船が日本を立ち去ったという情景は︑気象状況から

はまず疑わなければならない︒くわえて蒙古軍が上陸懐わずか一日で退却したということも不思議である︒長い

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第三編中世

年月かけて準備し︑遠征してきた︒やっと敵地に上陸したとたんに引き返す︒本当にそのようなことがあったの

だろうか︒      くん ﹃八幡大菩薩  じつは翌朝︑船が消えたと記す史料は﹃八幡大菩薩愚童訓﹄︵﹃八幡愚童記﹄︶だけである︒      きん 愚童訓﹄の記述  ﹃八幡愚童訓﹄には次のような記述がある︒

       ばかり   既二男力尽果テ︑若干ノ大勢逃失ヌ︑今ハ角ト見ヘシ時︑夜中二白張装束ノ三千︵三十ともあり︶人計︑

      ひき      いわず  筥崎ノ宮ヨリ出テ︑箭鋒ヲ整テ射ケル日本ゐ軍兵一騎ナリ車引ヘタリシカバ︑大菩薩ノ御冠トハ不謂シテ︑      ︵ひか︶       おそれおじ  我レ高名シテ追帰シタリト申シナマシ︒無一人落失テ後︑多ノ異賊怖恐テ逃シカバ︑神軍ノ威勢厳重ニシテ

    いよいよ  不思議弥顕レ給ピケリ︒

 日本の兵は戦わなかった︒みな逃げていなかったなかを︑唯一戦ったのは︑夜中に白衣で出現した神仏︑八幡

大菩薩だけである︒異賊は神との戦いに破れたのだ︒

 ﹃八幡愚童訓﹄によれば︑総大将少弐景資をはじめ鎌倉武士︑鎮西御家人は一人残らず︑水城際まで退却した︒

九州の武士は圧倒的な蒙古兵のまえになすすべもなく退却したのである︒しかし神が戦ったので︑翌朝蒙古艦船

の姿は消えていた︒

 読んでみればわかるように︑﹃八幡愚童訓﹄という本は歴史書ではない︒史実を記録し︑歴史叙述を試みよう

とした書物ではない︒八幡信仰の霊験を宣伝する一種の宗教書︑霊験記なのである︒したがって﹃八幡愚童訓﹄

の記述に対しては早くから疑う考え方があった︒もっとも根本的に疑ったのは中山平次郎らのグループである︒

 大正二年︵一九一三︶に福岡日日新聞が聖主史蹟の現地講演会を開催した︒その記録が﹃元憲史蹟の新研究﹄

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第二章 蒙古襲来と大野城市域

︵大正四年・丸善刊︶である︒まず陸軍歩兵少佐であった竹内栄喜は日清・日露の両戦争の経験をふまえつつ︑わ

ずか一日だけで︑敵前において古血の上陸兵全員を船に回収できるはずはないとした︒同じ本のなかで︑考古学

者で九州帝国大学医学部教授・中山平次郎は︑水城や太宰府周辺の記述の矛盾や︑﹁今は礎石ばかりになれり﹂

という記述から︑﹃八幡愚童訓﹄は実録ではなく︑実情を知らない京都周辺の人物が︑数十年後に書いたものだ

とした︒ もともと﹃八幡愚童訓﹄は蒙古襲来の史実を復原する上には要注意な史料︑いってみれば不適切な史料であり︑

それゆえに﹃八幡愚童訓﹂の世界と気象条件・戦法などから想定される歴史状況との間には矛盾が多かったので

ある︒﹃八幡愚童訓﹄によれば敵と戦ったのは︑夜中に白衣に武装した姿で出現した八幡大菩薩だけである︒何

とか戦いらしくなったのは八幡神を信仰していた菊池一族と︑八幡神の化身である鳩が旗印の回りを飛んだ少弐

景資だけで︑あとはまったく戦いにならず武士の率いる日本軍は全滅だった︒

 ﹃勘仲記﹄の  史実を復原するためには右の史料はいったん排除すべきであろう︒これに替わる文永の役復

 異なる記述  原の︑もっとも有力な史料は︑当時︑同時代にリアルタイムで書かれた記録︑﹃勘仲記﹄︵兼

仲卿記︶である︒もっとも現地九州で書かれたものではなく︑九州発の情報を数日後に京都で書き取ったもので

ある︒よってこの距離の差に由来する時間差に応じて︑事件の推移を推察することができる︒

 まず﹃勘仲記﹄十月二十二日条に︑﹁十三日﹂の対馬合戦の様子が伝えられたという記事がある︒この十三日

という日付は﹃高麗史潮要﹄に記された壱岐到着の日十一日よりも遅くてあわない︒﹃鎌倉年代記裏書﹄の﹁十

月五日 蒙古寄来着対馬島﹂にもあわない︒しかし博多にいた少弐氏が︑対馬での詳細を知るまでに数日を要し

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第三編中世

たであろうことからすれば︑博多発十三日の情報と見ることができる︒よって十三日発の早飛脚による情報を京

都では二十二日以前に知ることができた︒﹃蝿取記﹄を記した広橋兼仲︵当時治部少輔︑のちに中納言︶は二十二日

に知ったから︑九ないし一〇日で知り得る立場にあった︒

 博多一京都間は鉄道時刻表によれば六六〇計層強となっている︒山陽道・西海道︵筑紫道︶の京一博多問も六

六〇キ︒にかなり近いと見よう︒人間が書状をもって交代で昼夜歩けば四キ︒層×二四時問U九六キ︒齎である︒単純

計算では徒歩のみで昼夜書状を引き継げば七日である︒人数を増やし︑走り︵飛脚︶︑また馬を使えば︵早馬︶︑      ひえきもっと早くなる︒平安期の飛駅は大宰府−平安京間で六〜一二日を要した︒京への使者は八日程度で到着し︑広

橋兼仲は九ないし一〇日で知り得たとみたい︒

      せめきたりこうせい つづいて十月二十九日条に﹁異国賊徒責来興盛之由風聞﹂とある︒これが九日前︑二十日の赤坂︑鳥飼の合

戦を意味していることはまちがいのないことだ︒日付は﹃竹崎馬長絵詞﹄にもあって確実である︒この場合も一

〇日で情報を得ることができた︒なお別の史料︑当時左中弁で︑のち権大納言となる吉田経長の日記﹃吉経記﹄

にも記述がある︒これをみると︑      ごうごう  文永十一年十月二十七日︵中略︶九国阻滅可憐︑是関東政道之緩怠也︑衆口面々︑半可秘云々

とある︒﹁九州の浬滅﹂とは︑二十日の事件︵赤坂合戦︶そのものを指そう︒﹁阻滅﹂とは︑激しく敵の攻撃を受

け︑ついに上陸を許したことをいうのだろう︒九州は滅亡したとうけとられた︒すなわち弁官として朝廷の中枢

にいた吉田経長は︑はやくも七日後に情報を得ることができた︒﹁軽爆﹂とあるように︑この情報は当面こそは

秘せられたが︑二日後に広橋兼仲レベルまでは広まっていた︒

516

(18)

第二章 蒙古襲来と大野城市域

 つづいて十一月六日条︒

         さるころ      にわかに      ろう   晴︑或人群︑去比凶賊命数万即自海上︑而俄逆風吹来︑早帰本国︑少々船又階上陸上︑傍大饗式部大夫郎

  じゅう      ばかり      めしぐす      か ひ    やんごとなく  蚕下凶賊五十余人軍令虜掠之︑皆搦置雲根等召旦ハ之︑可令参洛云々︑逆風事︑神明之御影十王︑無金事可貴︑

  其愚少者也︑近日内外法御祈︑諸社奉幣連綿無他事云々

 ﹁ある人がいうには︑逆風が吹いて︑船は本国に帰った︒残った少々の船は大駆式部大夫︵大友石馬︶が捉えた﹂

とある︒みたとおり︑いままでは﹃八幡愚童訓﹄の記事と併せて︑二十日合戦の翌朝︑二十一日のできごとと理

解してきた︒しかしこれが京都︵広橋兼仲︶に伝わったのは六日のことである︒兼仲にとっても︑また都人にとっ

ても待望の朗報である︒通常遅くとも一〇日なのに︑この事件のみが一六日もかかって伝わったとすれば遅すぎ

る︒ すなわち六日の記事こそ︑退却が二十一日よりも後だったことを明白に示している︒この年の十月は大で三十

日までだから︑逆算すれば十月二十七日ころのこととなる︒赤坂の戦いから七日ほどが過ぎていた︒

 ﹃勘仲記﹄十月二十日条をみると︑京都の天気は晴れで︑﹁朝霜太﹂とある︒霜が﹁太﹂︵はなはだしく︶降りた︒

高気圧の到来で放射冷却が起きたことを意味しよう︒こうした快晴天は︑一日程度は持続するし︑大きな高気圧

に向かって前線が急に進むことはない︒その夜に寒冷前線が北部九州を通過する確率は低い︒

 風はいつ  これまで﹃高麗史節要﹄の記事によって︑嵐は﹁雪夜﹂︑二十日間夜に吹いたとしてきた︒しか

 吹いたか  し会にはたまたまという意味がある︒﹃高麗史節要﹄の編纂は一四五二年である︒事件が起きて

から一八○年を経過している︒実際には嵐は二十日よりはだいぶ過ぎてから吹き︑その嵐を契機に︑元軍が退却

(19)

第三編中世

の準備をした︒真冬には日本海交通がほぼ遮断される︒そのことは出発のときからわかっていた︒

 ﹃鎌倉年代記裏書﹄という史料がある︒そこには

  ︵十月︶二十四日大宰少弐入道覚恵代藤馬允於太宰府合戦臨地敗死

と記されている︒

 ﹃関東評定伝﹄という別系統の本にも同じと思われる記事がある︒

   文永十一年十月五日蒙古異賊寄口︑書眉馬島︑討少弐入道覚恵代官減量允︑同二十四日二上大宰府︑与官  注2  軍合戦︑異賊敗北

 ﹃鎌倉年代記裏書﹄﹃関東評定伝﹄ともに幕府の吏僚によって記録・編纂された︒成立未詳ながら︑ともに鎌倉

時代には骨格が成立していた︒藤馬允は前者によれば二十四日に太宰府で︑後者によれば五日に対馬で敗死した

ことになる︒のちの史料になるが︑﹃対馬編年略﹄﹃対馬旧記﹄﹃八幡愚童訓﹄は︑いずれも宗助国の官途を﹁右

馬允﹂とする︒助国はこのとき対馬で討死にしている︒後者の﹃関東評定伝﹄の方が正確といえよう︒

 もう﹇つあった  この記事から︑二十四日の戦いも史実とわかる︒従来の解釈からすると︑二十四日には元

 大きな合戦  軍は︑とうに退却して博多湾にいなかったはずである︒だから合戦はあり得ないとされた

ものか︑これまでの研究にこの記述への言及はない︒しかし赤坂合戦の後︑少なくとももう一度︑大きな合戦が

あった︒太宰府における合戦であった︒おそらく︑ここ大野城市域でも︑戦闘が行われたにちがいなく︑それは

水城をめぐる攻防を含むものだっただろう︒蒙古軍は赤坂を攻め︑太宰府を攻めた︒いいかえれば鴻櫨館を攻め︑

太宰府を攻めたともいえる︒太宰府陥落までが当初の戦略計画だったようだ︒

518

(20)

第二章 蒙古襲来と大野城市域

 ﹃八幡愚童訓﹄は最初の戦いに筥崎宮が焼かれ︑怒った神により︑その夜︑敵の船が沈んだとする︒しかし

﹃竹崎季長絵詞﹄に描かれた十月二十日︑筥崎宮鳥居前の情景に軍事的緊張はない︒焼かれたのはもっと後であ      注3ろう︒退却前に放火する戦術は常套的なものだ︒もっとも危険な敵前での退却を︑安全容易にするためであろう︒

しかし嵐が吹いたあとに宮が焼かれたのでは︑神威は高揚せず︑下がるばかりだ︒順序が史実とは逆にされたこ

とも考えられる︒

 ﹃八幡愚童訓﹄は作り話ばかりではないが︑事実をおりこむ創作ドラマである︒ドラマは戦いの翌朝にもっと

も劇的に盛り上がる︒その設定こそが︑﹁静まりかえった博多湾︑朝の光景﹂すなわち﹁神々の勝利﹂である︒

これらは実際には別々のときに起こった事件を︑あたかも一連の事件であるかのように︑一日のできごとにまと

めたものだった︒﹃八幡愚童訓﹄は前後する一〇日近くの出来事をわずか一日に圧縮し︑さらに事実の推移・順

序を入れ替えて︑合戦翌朝の静まりかえった海というクライマックスの情景を設定した︒事実を巧みに織り交ぜ

たドラマである︒

 たしかに鎮西御家人は太宰府まで後退して戦うこともあったが︑それは赤坂の戦いに連続するものではなく︑

数日を経過したのちのことだった︒蒙古軍は上陸した夜を過ごして︑翌朝ただちに帰国するような不自然な行動

は取らなかった︒

      と  い 文永の役は刀伊の入籍での展開とよく似ており︑ともに遠征軍は警固所すなわち赤坂山︵古代に怯臆館があり︑

近世には福岡城が築かれる要害地︑警固社旧地︶︑および筥崎宮︵太宰府の貿易拠点で︑宋人街もあった︶を攻撃目標とし︑

最終的には太宰府の掌握をめざした︒もし︑これら防衛︑外交そして政治の中枢を掌握できれば︑九州北部制圧

(21)

は可能となる︒下級兵士も下部官僚も︑そして武器ほか物資も︑みな制圧軍の指揮・管理下に入って︑機能を再

開するからである︒しかし刀伊も蒙古も︑それには失敗した︒これを受けて蒙古軍は冬季の日本海交通遮断を避

けるため︑本国に帰ったのである︒掌握・制圧すべき目標の筥崎宮が焼かれたのは撤退の直前であろう︒

 こうした一連の経緯の中で︑現在の大野城市域に住んでいた中世の村人たちが︑戦乱に巻き込まれることは確

かにあったであろう︒一日ほどの合戦は村人の一生からすれば一瞬のことではあった︒しかしその恐ろしい事件

は︑数百年間も忘れえぬムクリコクリの記憶として語り伝えられた︒

520

注1 ﹁大宰府﹂と﹁太宰府﹂の表記については︑とくに中世史料の中では混用されている︒本稿では︑大宰府を一応律令

  時代の役所名ととらえ︑太宰府を鎌倉幕府が開かれ律令体制が崩壊したあとの地名として使用した︒ただし引用史料は

  そのままとした︒

注2 ﹃関東評定伝﹄には﹁官軍﹂という表現があるが︑弘安七年から八年にかけての﹃関東評定事書﹂︵﹃鎌倉遺文﹄二〇

  i一五三六五・本文五五八頁に引用︶︑にも﹁九州官軍﹂とあって︑幕府評定ではよく使われたことばだった︒

注3 たとえば香椎宮は天正十四年立花山を攻撃した島津義久が︑帰路に放火したという︵﹁香椎宮由来書﹂﹃筑前町村書上

  帳﹄七三三頁︶︒

(22)

      すいこ 第三章 中世の農民生活をさぐる一旱魑と出挙一

 飢謹と  大野城市には﹁井﹂のつく地名が多い︒筒井には福岡県文化財︵民俗︶にも指定された筒井の井戸

 雨乞い  がある・その地の鞍梯をかつては井釜口といった︵﹃筑前国母風土記拾遺﹄﹃大野城市史民俗編﹄︶︒いま

は枯渇に近いが︑かつてはあふれる水が用水溝に落ちて灌概にも利用されていた︒馬入れ川とよばれた水路を挟

んで︑反対側︵西側︶にも︑かつては湧水点があった︒筒井のうち︑御笠川を挟んだ東側︑上筒井にも湧水があっ

た︒﹃大野城市里民俗編﹄にはほかにも牛頸の鶴の井︑地蔵の井戸︑平田の泉︑またイガイ牟田が紹介されてい

る︒こうした湧水は何年も前に降った雨水が地下水として貯蔵され︑湧出するものである︒﹃筑前国続風土記附

録﹄には﹁旱年にも水細ることなし﹂と書かれた湧水が多い︒いかなる日照りにも漁れないとされた︒

 いまは忘れ去られているが︑戦前にはしばしば雨乞いが行われた︒九州北部の各地で聞き取りをすると︑当時

の記憶がよみがえる︒神様の祠や石仏の顔に味噌を塗るというものがある︒のどが渇くから雨を降らせてくれる

というわけだ︒川の深い渕に不浄のものを投げ込めば︑龍神が怒って雨を降らすというものもある︒高い山にた       せんば だきぎを持ち寄って燃やすのが千把焚きだ︒﹁まっくろうなって︑ふってきた﹂︑大人も子どもも大声でくり返す︒

不思議なことに雨が降った︒火事の時に雨が降ってくるように︑急上昇する熱気流に煤のような粒子が接触すれ

ば︑晴れていても空気中の水蒸気が水滴になって雨になる︒人工降雨の原理であるが︑降水量はわずかなもので︑

(23)

しれている︒ 日照り続きで︑水争い︑魚水がつづく︒村人の気持ちはすさみ︑殺伐としている︒現代科学の目からは︑ばかばかしくみえようとも︑雨乞いの実施に向けて気持ちを一つにすること以外に︑むらの秩序を維持することはで

きなかった︒

        えんかんじゅんにわたる      すでに 鎌倉時代には﹁炎心渉旬﹂﹁炎旱山畠旬﹂という表現をみる︒﹁旬﹂とは一〇日である︒﹁日照りがすでに一

〇日に及んでいる﹂と記した︒﹃民経記﹄という貴族の日記によって︑天福元年︵一二三三︶の例を見よう︒はや

くも六月十一日に﹁炎旱已馬弓﹂とある︒日記には天気も書かれる︒記された天気を見ると︑五月二十五日以来︑

たしかに一四日間も晴天が続いている︒和暦五月二十五日はグレゴリゥス暦︵西暦︶七月十一日︑和暦六月十一

日は西暦七月二十六日になる︒梅雨︵五月雨︶時にはそこそこ雨は降っており︑それほどの異常気候にも思われ

ない︒ 十数日︑日照りがつづけば﹁炎旱已渉旬﹂と表現される︒現代人の感覚とはそうとうに異なる︒ただ現代でも

山間部には一五日も日照りが続くと旱魅になるという地域がある︒佐賀県塩田町殿木庭は塩田川の最源流の村だ

が︑二週間雨が降らなければ旱魅になると発言した古老がいた︒こうしたところが中世の水利条件に酷似する︒

 だが梅雨明け後︑一〇日程度の日照りはごく一般的に経験するところで︑現代人の多くには︑三〇日以上の日

照り続きにならなければ︑旱魅という意識はない︒平成十四年︵二〇〇二︶の福岡地方は再興傾向にあって︑三

〇日以上の日照りだったが︑農作物に被害は出なかった︒しかし中世には一〇日の晴天で旱魅の兆候があった︒

一〇日も晴れ続く年には︑危機的な旱魅に至ることが多い︒そういう経験上の知識もあった︒しかしそれだけで

522

(24)

第三章 中世の農民生活をさぐる一旱魎と出挙一

      たけそ だはなく︑実際に危機だった︒当時の灌概施設は脆弱で︑わずかな水位の下降などに杭・竹粗朶の井堰は機能しな

くなる︒溜池の数も少なく︑規模は小さかった︒

 さらに進めば﹁炎旱已及三旬﹂﹁天晴已渉旬月﹂となる︒三旬︵三〇日・一か月︶の日照りである︒天福元年に

は実際にそうなった︒それは絶望的な状況の到来だった︒

      てんかいちどうの きかつ   が し のやからたしょにこゆ この年の六月︑備後国大田荘の史料をみると︑当時﹁天下一同国飢渇﹂﹁餓死之輩超他所﹂という悲惨な状況

があった︒実は前々年来の天候不順だった︒そこには以下のように記述されている︒﹁出置が二︑三年つづき︑

命をつなぐことが第一で︑種子の蓄えはない︒ただ無力を嘆くばかりなのに︑あまりに地頭から責められる︒仕      すいこまい方がなく他荘から八把利の出挙米を借りて差し出した﹂︒

 出挙は籾を借りて翌年利息を付けて返すものだ︒利息五割︵五黒土︑一束目一〇把に対し五心︶というものが多

い︒この場合の八把利は高利であった︒藁葺年だったから値上げは当然かもしれない︒高くなれば一〇把利とい

う利率もあった︒      ︑

 一方には種籾さえも食べてしまうものがいた︒目の前にある一戸の米︒たとえ種籾でも命には替えられない︒

飢饅には種籾さえも食べた︒ところがよそには︑貸付けをするほどに余裕のあるものもいた︒

       つくだ     かどた      ようじゃく このような異常気象の年に︑どこで米がとれるのだろうか︒各地に佃とか︑門田とか︑新作という地名がある︒       もんでん     ゆうじゃく       げ す中世の領主である地頭や下司が自分で持ち︑耕作する田の意味である︒家の子郎党とよばれる従者がいて︑合戦

のときは兵士として戦いに参加するが︑平時は農耕に従事した︒そうした田を学術用語では領主直営田という︒

       みしょうさく  お て さく中世にはこれを佃︑門田︑用言︑御正作︑御手作などと呼んでおり︑現在も地名となって残っている︒       みそうさく   おてづくり

(25)

 こうした地名を訪ねてみると︑一等田だというところが多い︒圃場整備前には︑むらで一番よく米が取れる田

だったという︒たいていは乾田である︒しかし乾田ばかりでもなく︑湿田もある︒また湧水に依拠する田である

       しょうず      もんでん場合もまた多い︒春日市の上白水には生水という湧き水があった︒その湧き水によって灌概される門田という字      いりょう名が近くにある︒隣接して井留という字もあった︒湧水に依拠する領主直営田があって︑隣接して灌概施設の維      いりゅう       いりょう持に用いられる井料が設定されていた︒

 湿田の佃・用作は︑一等田ではない︒ふだんの年の収量はそれほどでもないが︑旱魎の年にはよくできる︑と

いう田である︒自然灌概であって︑用水施設は必要としなかった︒大雨で用水が流されるという危険にも無縁だっ

た︒ 湧水利用の佃・用作がもっとも理想的だった︒湧水は地下水が地表に出たものだ︒たとえその年が大旱魅でも︑       こわしみず おおそうず湧出量には無関係である︒弘法水とか強清水︑大生水運とよばれるように︑﹁日照り知らず﹂だった︒再応には       う一しょうず太陽はぎらぎらと輝き続ける︒水さえあれば植物には最高だった︒照れば照るほど︑たとえ周りが枯れていても︑

湧水依拠の水田は青々として︑秋には多くの米ができた︒そういうところを地頭や下司は佃・田作・門田として

掌握していたのである︒

 多くのものは村で餓死するか︑村を離れて︑どこかで行き倒れた︒貧しいものには絶望しかない︒そんな年で

も︑地頭たちはいつもよりも割高に︑出挙米を貸し付けることができた︒飢謹であっても︑富めるものはいよい

よ富んだ︒

 見方を変えれば︑こうした富者がいなければ︑村は再生産できなかったという側面もある︒門田・佃・直作に

524

(26)

第三章 中世の農民生活をさぐる一旱越と出挙一

帳﹂︶もあって︑さらに︵6︶文禄三年六月開

        ︵一⊥ハ自画︶︵日は不明︶︑︵7︶寛永三年七月十一日開︑︵8︶

 ︵一六三四︶

寛永十一年六月二十一日開︑ ︵9︶

 ︵一六四四︶寛永二十一年六月四日開とある︵図2︶︒ほか

の記録によると︑昭和十四年まで行われている︒

 ﹁掘出﹂︑﹁開﹂とあるものが旱毬の年である︒

︵1︶の年に関しては宗像郡鎮国寺にも仏噸銘

文が残されており︑﹁弘長三年癸亥六月十二日

発願 同十四日降雨﹂とある︒原山では四日に

掘り出した︒降雨は十四日だから︑祈祷の結願

となる日︑一〇日目に効果があった︒翌年︑一 は危機管理としての存在意義もあったのである︒      はらやま  みずがめやま 水瓶山  太宰府後方の原山に水瓶山︵岡見山︶という山があって︑ひそかに経筒が埋められている場所があっの経筒た・大旱魅にそれを掘り出し祈祷すれば・必ず雨が降った・その蓋に︵−︶隻 拶山ハ月初四日掘

      ︵=一九五︶       ︵=二二八︶出︑翌年六月初八日奉入新写経︑︵2︶永仁三年七月二日重奉納︑︵3︶嘉暦三年七月十七日重奉納などの紀年銘       ︵一四﹁六︶       ︵一四八九︶がある︒しばらく間隔を置いて︵4︶応永二十三年九月一日開︑︵5︶長享三年七月四日開とつづく︒このことを

記録した史料︵岡見宣沙所蔵﹁華台坊代々亀開之      ︵一五九四︶       m

O 10 20 30 40ce1M1EE1HE11ili11iEi−11ilili

O     5寸    1尺

図2 水瓶山の滑石製外容器蓋置実測図      (「図録太宰府天満宮」)

(27)

第三編中世

年前の掘り出した日に四日ほど遅れて︑あたらしい経文を﹁重奉納﹂した︒このときは仏に感謝する多くの人た

ちからの喜捨を得ることができたから︑奉納の日にちと結縁した人を記した︒

 この経筒は中世においては三〇年に一度しか掘り出されていない︒近世には一〇年前後と掘り出す間隔が縮まっ

た︒記録によれば︑渇水年には福岡藩寺社奉行から天満宮に請雨祈願の命令が出され読経が行われる︒それも効

果がないと︑先に述べた水瓶祈祷が仰せ付けられた︒

 雨乞いの筒の蓋に書かれたそれぞれの日をグレゴリウス暦に換算すれば︑次のようになる︒︵1︶は一二六三

年七月十二日︑︵2︶は︵前年永仁二年六月二十九日として︶一二九四年七月三十日︑︵3︶は︵前年嘉暦二年七月十五

日として︶一三二七年八月十一日目なる︒︵4︶は九月二十九日︑︵5︶は八月九日︑︵6︶は九月一日︑︵7︶は七

月十六日︑︵8︶は七月二十四日となる︒

 明らかな空梅雨︵1︶︵2︶︵7︶︵8︶もあれば︑九月に入っての雨乞い︵4︶︵6︶も行われた︒前者では作付

け︑田植えはほとんど不可能だったのではないか︒おそらくは米に替わって大豆などが作られた︒後者では田は

真っ白となり︑稲は枯れていたのではなかろうか︒このような大旱魅に太宰府周辺の事々ではなにが起きただろ

うか︒残念ながら直接にそれを語ってくれる史料はない︒ただ︵5︶の長享三年︵一四八九︶に関しては︑全国各      は や地の史料が残る︒能登︑美濃︑尾張では﹁天下餓死﹂という状況で︑京都では﹁三日病﹂という疫病が流行った︒

翌延徳二年︵一四九〇︶も六月までは旱魅︑七月からは長雨であった︒甲斐でも甘薯が記録されている︒この国

ではさらに延徳三年も飢謹で﹁人民及餓死事過タリ﹂と記録された︵﹃日本中世における民衆の平和と戦争﹄二〇〇三︶︒

 飢餓に苦しむ人︑離散する村人︒天候不順のもたらしたものは現在からは想像もできない悲惨なものであった︒

526

(28)

第三章 中世の農民生活をさぐる一旱魅と出挙一

筑前のこの地においても状況はそれほどには変わらなかったように思われる︒しかし全員は救われなくとも︑村

は維持されていったのである︒

 水瓶山の雨乞いには筑紫郡︵旧那珂郡・潮田郡・御笠郡︶一円の村が関係した︒昭和九年の事例を見ると︑七月

七日から始まった雨乞い祈願祭に郡内の各村が参加した︒大野村は五日目の十一日に参加している︵福岡市南区

民俗文化財保存会﹃南区ふるさと﹄︶︒このときは︑さきにみたホウカでの千把焚き︵五〇五頁︶︑四王寺山での龍上げ︑

水瓶参り︑女相撲が記憶されている︒多数の女性たちも女相撲に参加した︵前掲﹃大野城市史民俗編﹄五三一二頁参照︶︒

 中世以来︑大野城市域に住んだ多くの人々が︑旱魅の都度︑雨乞いをし︑効果がないとこの水瓶山に祈願を行っ

た︒中世人の場合︑現代人が考えるよりははるかに切実な緊迫感で雨乞いをした︒

 福岡地方ではおよそ一〇年ごとに大旱魅がある︒一〇か月に及ぶ給水制限となった昭和五十三年︵一九七八︶

や︑平成六年︵一九九四︑94渇水︶の水不足は強く記憶に残る︒平成十四年も空梅雨だった︒中世水瓶山のような

三〇年に一度の雨乞いは︑各地での雨乞いが功を奏さなかったとき︑最後になって行われた︒

注1 水瓶山に関しては以下の文献を参照した︒

  宮小路賀宏﹁福岡県筑紫郡太宰府町水瓶山高塚遺跡発掘調査報告﹂︵﹃考古学雑誌﹄52−1︑一九六六年︶

  太宰府市﹃太宰府市史民俗資料編﹄平成五年

  鏡山猛﹁大宰府地域の経筒について﹂﹃菅原道真と太宰府天満宮﹄下・昭和五十年

  森弘子﹁原山八坊と水瓶山雨乞祈祷﹂﹃太宰府顕彰会二十周年記念論集﹄平成九年

(29)

第四章 中世史料に登場する大野城市域

528

 博多に近接し︑太宰府に近接する大野城市域ではあるが︑中世史料に登場する市域の村々ははなはだ少なく︑

また断片的である︒以下これまでに紹介された史料を順次見ていくこととする︒まず安楽寺領︑天満宮領として

の各村を見ていこう︒

一 天満宮領の村むら一大利下・河原田︵酒田︶村・白木原村

 安楽寺領の  観応三年︵一三五二︶二月 日の安楽寺領注進目録︵太宰府天満宮文書﹃大宰府太宰府天満宮史料﹄

 書き上げ  一一・﹃南北朝遺文﹄九州編三一三一二四〇︶は筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後の安楽寺領を

書き上げたものである︒観応三年は反尊氏であった足利直冬が九州を去った時期である︒直冬派の頭目であった

少弐過密は体制の立て直しを図っていた︒政敵・鎮西管領一色道猷は健在だった︒そうした時期に太宰府安楽寺

は所領を書き上げて少弐氏の安堵︵保証︶を求めたと考えられる︒      すえつぐ 大利村 その安楽寺領のなかに大野城市の大利村が含まれていた︒残念ながら首部が欠けており︑末次

 の安楽寺領  楼即かどういう経緯で安楽寺領になったのかは不明である︒

(30)

第四章 中世史料に登場する大野城市域

  ︵前略︶

      すえつぐみょうびょういん  大利村内末次名席院常灯料所

  同村内灯油田 資時跡

  ︵後略︶

 末次という地名はいまの小字にはないが︑﹃福岡県地理全誌﹄下大利村に村の南二町﹁末次観音堂﹂のように

みえ︑今も地名は残る︒末次名は﹁下院常灯料所﹂だった︒﹃筑前国続風土記﹄に﹁天神の御庸地を安楽寺と云︒

      かんじょうしよう天原山背面と号す︒野畑丞相を葬し所也﹂とあるように︑庸院は天満宮・神詣をいう︒庸は廟に同じで︑その

古字であるが︑天満宮では朝廷の朝の字を含むため︑漁るという趣旨が﹃福岡県地理全誌﹄宰府村の項にみえる︒

その常灯料であるから︑昼も夜も絶やさぬ明かりがともされたが︑それには多くの経費がかかる︒そのために大

利村末次名ほかからの年貢が充てられていた︒常灯料は古くからあっただろうから︑大利村末次名と安楽寺の関

係はそうとうに古いかもしれない︒

 文中﹁含意跡﹂とある︒資時は武藤︵少弐︶氏で︑南朝に与して一族の少弐借着に敵対した人物である︒建武       注1から暦応にかけて頼半側の文書に︑しばしば﹁武藤資時井菊池武重以下凶徒﹂とみえる︒少弐頼尚に敵対する資

時の所領だった経緯があった︒安楽寺は認容からの再安堵を申請した︒引用箇所につづいてコ色入道奉公人左

  はかりて近将監謀押領之﹂ともあって︑一色道猷と対立する少弐荒巻に保護を求める安楽寺の姿勢が鮮明である︒

 大利村については︑法印信快が作成した燈明負担記録がある︒信快は後述するように明応八年︵一四九九︶正

月二十四日の安楽寺政所に別当として登場している︒端裏書︵文書の端に目安として書かれたメモ︶に﹁御燈明方目

(31)

第三編中世

録案文﹂とあって︑本文は

       ぼうぼういえいえよりごんしせしめそうろう  於当社年中従坊々家々令勲仕候御燈明事

で始まり︑以下正月一日以降の︑神事に必要な御燈明を︑どこが負担するのかが明記されている︒

 その一項に       つとめ  一 三二常修善一十二神前一再候燈明料所大利陰野レ之︑従二常温坊一単二取之一︑毎年油十二提二御燈二被レ渡候︑

とあって︑大利からの燈明が室町期の段階には︑常修繕分の管轄であったことがわかる︒常義疏は後述する六度

寺とともに︑天満宮の社家のうち俗に亡八坊とよばれた﹁衆徒﹂のひとつであるが︑八坊としての登場は比較的

遅い︒ 河原田︵瓦田︶村  河原田︵瓦田︶についても一点︑南北朝期の古文書が残されている︵﹁太宰府天満宮文書﹂

 の安楽寺領 ﹃大宰府太宰府天満宮史料﹄一二・﹃南北朝遺文﹄九州編六一五九六四︶︒

  天満宮大鳥居信栄法眼申当宮領筑前国瓦田能町五段事︑於半済扇田料所知行云々︑至相残分者︑不日可被去

  渡信栄法眼代之状如件︑       ︵今川貞世︶    至徳三年卯月十日    沙彌︵花押︶

    齋藤次郎左衛門入道殿

 半済というのは年貢の半分を納入することをいう︒至徳三年︵一三八六︶︑半済が今川貞部長官人である齋藤次

郎左衛門入道の面起料所にあてられた︒半済はほんらい合戦がある場合の臨時措置で︑半強制的な戦争支援・協

力費である︒この場合も天満宮領がしぶしぶ差し出した︒

530

(32)

第四章 中世史料に登場する大野城市域

 大利村あるいは河原田︵瓦田︶村と太宰府天満宮の関係は︑中世を一貫して継続されたようだ︒

 秀吉へ安堵を  天正十五年目一五八七︶︑島津平定を終えた豊臣秀吉は︑六月二日に太宰府に入り︑三日逗留︑

 申請した所領  四日箱崎に入り︑七月一日まで滞在した︒太宰府安楽寺は六月十六日ころ︑秀吉の重臣であ

る浅野長吉︵のちの長政︶に銭︑すなわち青銅二百疋を贈っている︵長吉書状﹁太宰府天満宮文書﹂︶︒つづいて六月

        しょりょうつぼつけ二十八日の日付で︑所領坪付を作成した︵天正十五年六月二十八日﹁天満宮所領坪付﹂︶︒秀吉の安堵︵認定と保証︶を

求めたのである︒全体は筑前・筑後・肥前五二五町に及んでおり︑いかにも多いが︑天満宮として当知行地︑知

行した経歴のある場所︑すべてを含んで申請したものであろう︒ここに河原田村︵瓦田村︶︑大利村は当然含まれ

ていた︵﹃大宰府太宰府天満宮史料﹄一七︶︒それぞれ九丁︑二四丁と︑かなり広い︒

  □□□□楽寺天満宮領坪付之事

︵中略︶

 六度寺知行分

□□□三笠郡内河原田村

一所九町

 常修坊知行分

筑前国三笠郡内大利村

一所二十四町 毎月 神前御灯油料所

︵後略︶

(33)

第三編中世

 小早川一景  これをうけて天正十五年十月十六日︑小早川雪景は安楽寺.天満

 による安堵  宮料を安堵した︵大鳥居文書ほか︑﹃大宰府太宰府天満宮史料﹄一七︶︒

なおこれに関連すると思われる文書が一点︑大鳥居文書中にある︵図3︶︒

   安楽寺天満宮領筑前国之内一社知行分事

  ︵中略︶

  三笠郡之内       ︵太宰府天満宮執行︶  一所大利三三町 毎日 御仏餉料所 同人

  ︵中略︶

  三笠郡之内

  一所河原田村九町  六度寺

  三笠郡之内

  一所大利村議三町  常修坊知行

  ︵後略︶

 これによると︑さきの秀吉への提出分とも少し違って︑常修藻岩は二四丁ではな

く二三丁で︑ほかに仏餉料所が三丁あるとされている︒現在下大利のうち︑末次の

位置に天神田という地名があり︑太宰府天満宮︵安楽寺︶領であった経緯に関係が

あると思われる︒ただし字天神田の範囲自体は明治八年︵一八七五︶の﹃地所取調

図3 大鳥居文書「安楽寺天満宮領筑前国之内一社知行分注文」(太宰府天満宮蔵)

532

(34)

第四章 中世史料に登場する大野城市域

帳﹄によると田は三筆︑計三反三野九歩にすぎず︑ほか畑が二言で九畝強︑池が一反五畝強である︒合計五反八

専強で︑二四丁もの広さには遠く及ばない︒常事坊らが主張した天満宮領はこれよりは遙かに広大なものである︒

天神田の田の評価も七等・八等であって︑高くはない︒

 大利の鎮守社は上大利も下大利も老松神社である︒中世に天満宮領であった各地の荘園には多く老松神社︵祭

神菅原道真︶が祀られている︒大利の場合も天満宮領であったことに由来する︒

 河原田村は二通の史料に共通して︑六度寺分の所領であったことがわかる︒六度寺の寺号は六度法・六度集経

に由来しよう︒天正十八年十二月十五日六度寺伝法師岡閣梨良祐は常修坊快音に護身法印信を授けている︵世局

注文書﹃大宰府太宰府天満宮史料﹄一七︶︒六度寺も常直坊も原境坊のひとつである︒明治維新の折︑社家の解体に

よって消滅した︒﹃福岡県地理全国﹄宰府村・原山寺の項は原山無量寺の直撃は六度寺にあると記す︒元九州歴

史資料館副館長︑宮小路賀宏は末商で︑原山無量寺古園などを残す︒いま御笠郡吉木︵筑紫野市︶に六度︵﹃福岡

       ろくど県地理全誌﹄では陸土︶という字名がある︒六度寺免田などに関連するかもしれない︒

 白木原村の  つぎに白木原の名がみえる史料に明応八年︵一四九九︶正月二十四日光明民望些々領田畠屋

 光明蔵禅寺領  敷等注文︵﹃大宰府太宰府天満宮史料﹄一四︶がある︵本誌口絵写真︶︒長いが引用しよう︒

  □□  一所三丈

  白木原

  一所八段

(35)

第三編中世

屋敷分

一ケ所一ケ所

一ケ所

一ケ所

一ケ所

一ケ所

一ケ所一ケ所

一ケ所

 一所当寺敷地

右当寺之先証

貫文灯用途︑

之間︑至愛今︑

  明応八己未正月廿四日

別当権別当兼検校法眼和尚位信忠在判 道祖神之辻同前同前出湯同前溝尻同所池畔同所   東限御薪之山 南限小鳥居執行之峯 西限霊社 北限染河  数通之事︑寺山其外之人々兼日之所見明鏡也︑中ニモ當寺内山野通者︑開山鉄牛和尚二百四      ︵劫力︶ 限永年未来際︑為買得画地建立之後︑付与義盗和尚以来︑為成堂派︑永却二相拘之旨︑被定置  無一厳密之相違︑然者寺領田畠屋敷等︑中尾都合︑此度申雪加署︑為後証之旨二面︑      霊皇神護山光明蔵禅寺 知勝在判

534

(36)

第四章 中世史料に登場する大野城市域

  権別当法印和尚位信快在判

  修理権少別当兼修理行事法眼和尚追撃窩連判 権都維那大法師安増自判

  修理権少別当大法師信秀在判

  修理権少別当大法師信輝在判 権寺主大法師重増在判

  修理権少別当大法師僧闇在判

  修理権少別当大法師僧恕在判 権上座大法師快喩在判

  上座権律師僑実在判

  寺主大法師顕増在判 都維那大法師快実在判

   右証文正文童心︑就支雪和尚遷化︑小鳥書信元二以喜多信雅井桂昌院知 両人預ケ置去処明鏡也︑

  天文十九年十一月三日処九判アリ

  永禄二年八月吉日写之 留守大鳥居信渠法印︵花押︶

 光明蔵禅寺とは太宰府天満宮の南に現存する光明寺のことである︒文中︑開山鉄牛とあるように文永十年︑鉄

牛円心により開かれた︒いま開山堂に無準︑鉄牛の両輪が安置されている︒鉄牛の師円石弁円︵聖一国師︶が宋

の準準師範の弟子だった︒鉄牛は聖一国師年譜の編に当たったことでも知られる︒臨済宗東福寺派承天寺末寺で

あるように︑弁円が開基であった承天寺や崇福寺と近かった︒禅宗寺院の典型ではあるが︑天満宮の分身でもあ

る︒まず鉄牛自身が菅原氏の出自であった︵﹁菅神入宋単衣記﹂﹃群書類従﹄所収︶︒天神社家であろう︒光明寺は

﹁血縁寺﹂として太宰府天満宮社家の菩提寺であって︑いまも御三吉大祭は天満宮と光明禅寺の合同法要として

参照

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