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徳川政権の成立とその崩壊過程に関する研究(下)

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Title

徳川政権の成立とその崩壊過程に関する研究(下)

Author(s)

上里, 安儀

Citation

沖大論叢 = OKIDAI RONSO, 3(1): 33-87

Issue Date

1963-01-10

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/10713

Rights

沖縄大学

(2)

徳川政権の成立とその崩壊過程に関する研究

徳川政権の倒壊

第四章 第 一 節 開 第 一 項 鎖 国 の 困 難

第二項

鎖国の崩壊

第三項薩藩勢力の増大

第二節尊王捜夷論

第三節

第一項 公武合体論

長州の公武合体策

第二項

第四節第一項 薩落の公武合体策幕政の改革薩長の抗争

長州藩の尊王擦夷策

八月十八日の政変 第三項

第二項

第五節幕府実力の哀顔

( 下 )

(3)

第.

一項

第二項第三項

第六節

第一項第二項

第七節

第一項第二項

第三項

第四項

公武合体派の離散

禁門の変第一次長州征伐

薩長連合 第二次長州征伐 薩長連合

戊辰戦争朝廷内の倒幕派

大政奉還王政復古

徳川政権の倒壊

(4)

第 四 章

aEJ 

政 権 の 倒

t 裏

第一節

第一項鎖国の困離

水野忠邦が天保十凶年(一八四一二)に免職させられてから後は︑

は︑天下大変の機危が迫っているのを領得することができなかった︒

何時までも泰平なるべきを信じ流に逆って進もうと欲し︑眼前に見える障害物不・除去して︑日々在過そうとしていた︒然し︑

土井

利位

阿部正弘がその局に当ったのであるが︑彼等

乙の時尊王主義の感情は︑幕府の輯蒼と共に各地に散在する志士の聞に湧出し︑もはや和学者や公郷の専有物ではなかった︒

ζの感情は︑もとより︑それ自身に於て何等積極的な力とはなり得なかった︒然し︑幕府はζの感情を響戒し︑水戸藩主が尊

主忠孝を標傍して︑頻りに武備を張り︑填夷を論ずるに及んだので︑天保十五年五月命を下して斉昭を江戸駒込の邸に塾居せ

しめたのである︒利位︑正弘等がζのように眼前の障害物を除いて︑自己満足におちいっていた時︑突然一片の警報が九州よ

りもたらされた︒

nH

'コ ︑

Hu m+ E 

ζの年の三月ブラシスの軍艦が突如として︑琉球に入り︑その王に説き︑英国は日本が国を鎖して列国と交通しな

いのを怒り特に日木を攻撃せんとして︑策源地として︑先ず琉球を取るの意がある︒疏球が若しこれを避けようとするなら

ば︑よろしくブラシスの保護地たるべしといって︑︑ブラシス人と清国人と各一人を止めて去った︒﹂という報告であった︒

ζれを見た幕史はただ困惑の状態を示すのみでこれに対する策を施すことができなかった︒

そこ

で︑

乙の年の六月に至り︑水野忠邦を促して事に当らしめた︒ζれより幕府の内閣は忠邦党と正弘党とに相分れた︒天

保十五年八月には︑オフシダの軍艦パレシパルグ号が長崎に来航し︑艦長コlプスよりオラシダ国王の書を幕府に提出した︒

一 五

(5)

= ハ

その書は親切丁寧なものであった︒即ち日本が安危存亡の地にあるととを論じ︑開国を促すものであった︒しかし︑幕府は祖

宗の禁令を破るべからずとして︑オラシダの開国要求を弘化二年(一八四五)六月に拒絶したのである︒かくの如く︑外国勢

力が我固に迫りつhあるときにも︑幕客内においては︑水野党と阿部党の暗斗が続行せられていた︒そして︑阿部の勢力が強

大となり︑遂に水野党は全く姿を消していった︒かくして︑天保の末より弘化︑嘉永︑安政に至る外交最も多難の時︑幕府の

実権を握ったのは阿部正弘であった︒正弘の人物については︑ζれを賞揚するものは賢明にして職度のある理想の大臣だと云

ぃ ︑

ζれを非難するものは暖隊模稜︑上に据附し︑下に迎合する欲人であると許した︒しかし︑彼の真価は︑ζの褒毘の聞に

あった︒彼はもとより雄才大略の士ではなかったけれど︑それかといって小人でもなかった︒彼は水野忠邦の剛偏政策が国を

救済するものではないというζとを理解し︑外国風の軍艦を作って時勢に応じようとしていた︒

正弘が老中の首座となった時は︑その年令僅に二十五才であったので︑正弘当初の政策は彼のみの方すから出たのではなく︑

彼を取巻く党派の人々の骨折も大であった︒このように︑封建時代においては側近勢力の示す役割は老中にとって不可決のも

のであった︒正弘は初め忠邦と同じく外艦打払主義宇佐奉じたけれど︑老中となってからは︑内は武備の不足なるを見聞し︑外

は列国の状態を聴収するに従って外国軍艦ぞ撃退するζとの容易でないことを感じた︒そ乙で彼は末年の忠邦と同じく熱にも

あらず︑冷にもあらず一個の中和党に変じたのである︒

弘化三年(一八四六)正弘は命令を薩摩藩主に与えて︑琉球を聞きて外国貿易地とするζとを黙認した︒とれと共に︑島津

斉彬に命じ琉球の事を処分せしめた︒弘化三年には英仏船が琉球に相次いで来航したので︑ζの処置を命じた訳である︒しか

し︑正弘は島津氏に与えた命令は公表しなかった︒人心の動指するのを恐れたからである︒嘉永二年(一八四九)四月︑英船

が浦賀に来航し︑その使者が奉行に面会を求めたけれど奉行がζれを拒絶したため︑下回に廻航した︒

そ乙の代官に面会した︒代官が通訳を介して︑上陸と海面の測量は国法に背くから禁ずる旨を先方に告げたので︑英船はこ

れを了承して退去した︒乙ζに壌夷熱は一段とたかまり︑憂国心が勃発するようになった︒正弘はとれに対して何ら為す所が

(6)

なかった︒

嘉永三年(一八五

O)

浦賀奉行浅野長称は︑防備の整はないととを論じ︑一日一国難あれば必ず恥辱を受けるであろうと切言

したが︑当時浦賀の砲台にある大砲は五百刃以上の弾丸を発射し得るものが百二十四円であった︒更にその内口経五寸以上の

もの僅かに八円にして︑此の巨砲一基の有する弾丸は十六発のみであった︒

なお奉行所には銭糧の貯蓄がなく︑事あるごとに士地の商人よりとれ奇借りて急場をしのいでいた︒幕府はζの後︑彦根藩

主伊井直弼をして浦賀警備の任に当らしめたのである︒

第二項鎖国の崩壊嘉

議永六年六月(一八五三一)四隻の﹁黒船﹂ぞ率いて浦賀にやってきたのが︑失閏終合神節ペり

l (

‑ n M M R

)

日ーは到着後︑幕府に向って︑大統領フィルモア(冨

‑ E H E

2 0 )

の開国要求を含む日本国皇帝宛国蓄を手交すべき旨を伝えた であった︒ぺ

のであるが︑幕府はζれに対して︑わが国旧来の慣習により右奇浦賀にいて受領するととを得ない故に︑すべからく長崎ヘ廻

航すべきであり︑同地においてこれを受取るであろうと答えたのである︒しかるにアメDカ側はとの回答に従うζ

とを

峻拒

し︑

日本側が浦賀においてζれを受領するため︑代表者を任命するζとをしない場合には︑艦隊司令長官は充分なる兵力の援護の

下に上陸し直接日本政府当局へ交付すべしと答え︑武装せるボートより成る測量隊を組織して江戸湾内の測量を試みる有様で

あったので︑アメ

ny

カ側のかかる態度に幕府はいたく驚博︑憂慮し︑隊に譲歩︑その要求を容れて浦賀において国書会受領す

ることに同意したのである︒

ζろで︑国書手交を終った後︑ぺ

uy

lは翌年再び来航して右に対する回答をうくべき旨述べて︑艦隊を率いて浦賀を去っ

たのである︒

ペリ

Iの率いるアメリカ艦隊が来航︑開園を迫ったζとが当時のわが国の朝野に与えた衝撃はまζとに甚大なるものであっ

た ︒

﹁奉年のねむりをさますじゃうきせん︑たった四はいで夜も寝られず﹂という当時の俗謡は︑そのときの世を挙げての騒

(7)

ぎを端的に表明している︒

幕府の狼狽も亦実に一方ではなかった︒とζろでペplは翌年再び来航して回答暑受くべき乙と経告げて去ったのであるか

ら︑幕府としては︑アメリカの開園の要求に対してその態度や決定せねばならぬ地位に置かれたわけである︒乙乙において︑

老中阿部正弘は当時江戸にあった諸侯全部に努城そ命じ︑アメリカの要求に対する腹蔵なき意見を求めたのである︒

ζに至って︑徳川幕府の国政ぞ専行する制度は崩れたのである︒幕府のみの力ではどうにも解決出来ない難事

即 ち ペ リ l

の来航がそうせしめたのである︒さて︑諸侯は幕府の上記の諮問に対していかなる上申をなしたかというに戦争を暗しでもア

メリカの要求を峻拒すべしとなすものが甚だ多かった︒

当初幕府は諸候が開固に同意するであろうという乙とを期待したのであるが︑ζれが予期に反した答申となったのである︒

そして︑なお注意すべきζ

とは

とのときの諮問ぞ最初として今後幕府は重大案件について諸般の意見守問うことをしばしば

するようになるのである︒従って︑それによつで︑諸候に対する幕府の旧来のごとき権威︑威信は失われ出すことになるので

ある︒幕府はペp!の来航にあたり︑一方以上のごとく諸候に対してその意見ぞ徴するととふなしたのみならず︑的芳︑来航

の事を朝廷へ奏上するζとをもなしたのである︒

乙れより︑朝廷の幕政への発言力が増大するのである︒

さて︑ペリーが去ったの丸︑やがて周年十月︑馬崎ヘプチヤチシ(同・町内

間E .

二円

)村

岡俸

のロ

νア宵熊本率いず入携し︑円露

閣の北部国境の劃定を商議すべきことを申入れるとともに︑同時に開国を要求するにいたった︒これに対し幕府は︑開国の希

望に今直ちに応ずる乙とは不可能なるも︑将来の問題としては考慮すべき旨を伝えたのである︒ζの回答を得たのち︑プチヤ

チシはそのまま長崎を去ったのである︒

さて︑さきに浦賀そ去ったペリ!の艦隊はその後支那へ赴き︑当時長髪賊の乱の下にあっ清国の諸渡におけるアメpカ人の

同情護にあたっていたのであるが︑ロνア艦隊が長崎へ入港してわが国に開国を要求したことを聞くや︑ペリーは急速わが国へ

(8)

引帰す乙とそ決意︑プチヤチシの縦隊が長崎会出帆してより数日後の安政元年一月(一八五四)合計七隻より成る艦隊を率い

て江戸湾へ入り浦賀を通過して小柴沖に碇を下したのである︒そして︑その後更に二隻の軍艦が到着して︑乙こに・へuylは九

隻の﹁黒船﹂を江戸湾に浮べ前年に提出した開国の要求符受諾せんとと奈求めたのである︒かくて︑人心はますます動揺する

にいたった︒かかる事態に直面して幕府は戦争の危険を回避せんがためにはアメりカの要求を容れるの外なしと決意

し ︑

ζ 

年三月遂に譲歩︑いわゆる租法ぞ棄てて和親条約に調印をなすにいたった︒

神奈川条約と呼ばれるものが︑すなわち︑乙れである︒乙の条約において︑わが国は薪水︑食糧及び石炭を供給するために下

回及び箱館のニ港をひらくこと︑アメリカ船が難破したる場合には乗組員及載荷を上記二港の何れかへ廻送してアメリカ側へ

引渡すべく︑乗組員を監禁せざること︑アメ

p

カはその代表者を下回に駐剖せしめ得るとと︑その他が約定せられたのである︒

さて幕府としてはアメ

p

カとの聞に一度ζのような条約を結んだときに︑他の国々に対しても同様の条約を結ぶ乙とを拒む

ζとはできなかった︒ζの条約につづいて︑イギPスの要求を容れて同様の和親条約が締結され︑ついで日露和親条約の成立

となった︒なお︑ロ

ν

アとの条約において︑幕府は下回︑箱館の他に長崎をもひらくζととしたが︑日米及び日英和親条約に

は最恵国条款が設けられていた故に長崎はアメリカ︑イギPスに対しても亦ひらかれることになったのである︒

因み

に︑

ζの日露和親条約の際にも懸案の北部国境問題について交渉が行われ︑その結果千島列島に関しては得撫鳥以北を

ロVア領︑択捉島以南をわが領とするζとに取極められたが︑しかし︑樺太については依然交渉がまとまらず︑しばらく現状

のままとして︑その解決を将来にまつζとにされた︒とれより先︑嘉永六年六月二十二日に将軍家康が亡くなったので正弘は

老臣と議して家慶の第三一子家定を立てh将軍とした︒きて︑前述の日米︑日英︑日露の和親条約は何れも安政元年の中に締結

をみたものであるが︑幕府はζれら条約の写を朝廷へ差出すとともに︑とれら条約を結ぶにいたった事情をも亦奏上したので

ある

ζとはいうまでも和親条約の締結は︑幕府が実に︑永年にわたって竪く持してきた鎖国の方針に対する重大なる変更である ︒

(9)

ないが︑しかし︑方針のかかる転換をなすにいたった理由を朝廷に対して奏上するにいたったというζとは弘化三年の勅論以

来幾分ゆらぐにいたった大政御零任の伝統易幕府みづから更に破ったものに外ならず︑朝廷と政治との関係についての重大な

新らしき先例が

ζ ζ

に幕府の手でひらかれたものといわねばならない︒

ζ

ろで

ζの際︑朝廷は幕府のζれらの取計ひに対して御怜汰そ発せられ対幕府のとった対外措置につき満足の意字表明

されるととも児︑今後における外国との交渉は﹁御国体二不拘様御頼被思召候﹂と伝えられたのである︒しかるに︑閉じ安政

元年の一三月に入るや︑朝廷は幕府に対して太政宮符をもつで︑海防のために﹁五畿七道諸国司応以諸国寺院之党鐘鋳造大砲

下 ニ 一 中

小銃事﹂との勅誌を発せられたのである︒上ζの勅誌の発せられたのは︑水戸藩の徳川斉昭の朝廷入説にもづくものであった︒

ζの勅錠が一たび伝えられるや︑流石に幕府内においては︑とれ存もって掛川治に対すぷ朗読の精織的平渉に外投ムずとして

憤潮風の論も生じたのであるが︑しかし︑結局幕府はこの勅誌の趣旨ぞ諸候へ通達する措置そとったのである︒乙乙にいたって︑

朝廷の政治に対する関係は一段と進んだζとは否み得ないのである︒

しかもζの勅誌に対して幕府が別段異議存表明するにいたらなかったζとも注目すべきととである︒ζとにも亦幕府の実力

の減退が象徴されているのである︒

なお︑翌安政二年にいた灼︑幕府はオラシダとの聞にも和親条約会締結した︒ζの条約の成立によって︑オラシダ人に対す

る旧来の長き不名誉なる待遇は改められ︑オラシダは諸国が和親条約によって︑獲ち得たととろに均錯するζ

とと

なっ

た︒

さて

アメリカは前述の如き和親条約の締結をもって満足はしなかった︒

日米和親条約の条項にもとづき安政三年(一八五六)ハリス

( Jづ国 ωB )

が最初の日本駐剖総領事として下回へ到着したが︑

ハリスは就任後幕府に対し︑江戸に上って将軍家定に謁見し大統領ピアス

( 開

MMF冊目︒)の国書を捧呈すべきことを主張して止

まず︑幕府としてはとの要求吾容れるζと森本来甚だしく好まなかったのであるが︑しかし︑ζれ宇佐あくまで拒否しつづける

(10)

にお

いて

は︑

アメリカとの関係がもつれ重大事態が発生するにいたる乙とを恐れ内結局遂に譲歩してζれを容れたのである︒

そして安正五年(一八五八)一月にいたり日米通商条約案を議定するにいたった︒すなわち︑西洋諸国の大いなる箪事力は清

固と英仏両国との戦争を通して幕府首脳者に文も渡刻な印象を与えて︑彼らをしてかかる譲歩をなさしたのである︒

乙の条約案において︑わが国は日米両国人に対しで貿易の自由を認め︑文新たに神奈川︑新潟︑浜庫の諸港をひらくζとを

約し︑更にアメリカ人が江戸及び大阪に取引のため滞在する乙とを承認し︑両国は公使を交換して江戸及びワリVシトシに駐剖

せしめるζとを定め︑文アメpカに治外法権を許容し︑更に種々の輸出入品について関税率を協定したのである︒

既に安政元年の日露和親条約においても治外法纏に関する規定が設けられていたが︑しかし︑同条約においては日露両国は

ζの日米通商条約案ではわが国はアメリカに対して一方的にζれを認容した相互的にζれを認めたのであった︒ζ

れに

反し

のである︒文同条約案では︑前述のどとき関税率の協岐がなされた結果︑わが国としてはかくして定められた税率を条約の有

効期間中は一方的に変更し得ぬととになっていたわけで︑それはいわゆる関税自主権の放棄を意味したのである︒

さて︑幕府は以上のどとき通商条約案を議定するや︑ζとに右条約案を朝廷へ上奏するとともに︑それに対する勅許を賜ら

んととを奏請するにいたった︒幕閣においては︑安政二年頃すでに老中阿部正弘の衆望がおとろえてきたので︑安政二年十月

堀田正睦を正弘句指名で老中とした︒正睦に下総佐倉の藩主にして︑天保十二年︑己に老中となっていたが︑水野忠郎の反動

政策を非とし︑内政外交︑事ごとに相干格したので引退していた︒ここに再び出でて老中となり︑外交に留意したので正睦の

権力は大いに伸び︑正弘の上に位するようになった︒

安政三年六月に正弘が死必だので︑幕府の全権は正睦の手に帰し︑彼は水戸斉昭等の嬢夷論者と手を切り︑

打出すことにじた︒正睦はハ日yスが江戸に入るととを許し︑安政四年十月には将軍にハリスが謁見した︒ 一路開策国政を

同年幕府はキDス+教信者圧迫の方法として用いてきた踏絵の法を廃した︒正睦は安政四年ご・八五七)すでに米国と通商

(11)

条約案を結びながら︑それを発表せず︑朝廷をして同意せしめようと欲し︑川路左衛門尉等を率いて京都に上った︒

しかし︑公郷等は浪士の説に惑い︑文近衛氏は薩摩と結託L︑三条氏は土佐の山内氏と通謀して︑その力を背景にして︑正

陸が開国のやむを得ぎるととを説いても聞とうとはしなかった︒水戸斉昭はまたひそかに公郷に書を送って開国の非を説き︑

浪士中またはひそかに朝廷より命じて一橋慶喜を将軍の継嗣とすべしと説くものもあった︒ζの時︑米国軍艦品川沖に淀泊し︑

速かに通商条約案に調印せん乙とを促したのである︒朝廷の群議はζのように一定しなかったので幕府は正睦を促して帰東せ

しめた︒しかし︑江戸においては将軍継嗣問題が持ち上っていた︒当時の将軍家定には子がなく何人をその継嗣たらしむべき

かに

つい

て︑

ζ ζ

に紀州藩主徳川慶福を推す紀州派と水戸藩の徳川斉昭の子である一橋慶喜を確立せんとする一橋派が相対立

していたのである︒

乙の二派の争点は︑その推すとζろの継嗣候補が次の将軍たるにふさはしきか否かにあったのみではない︒

となった場合にはその父徳川斉昭の幕政に対する発言権は当然に増大することが予想されたが故に︑そζでかかる事態が望ま

しきか否かも亦争点の一つをなしたのである︒権力の争奪戦である︒

一一

楠慶

喜が

継嗣

一方朝廷へはζれら両派が相次いで朝廷に入説して各自

の立場を有利にしようと運動していたので︑朝廷は益々内外︑共に政治の現実に深く交渉を持つに至った︒朝廷の意向が次第

に一橋派に傾いていく時︑幕府は安政五年四月彦根藩主井伊直弼を大老に任命した︒

かくて︑正睦より井伊へ権力は移行していった︒ζれより先安政五年(一八五八)一月︑幕府首脳者は紀伊より世子を迎え

ζとを内決していた︒さて︑大老とは将軍が幼年又は病気のためみづから政務をとり得ざる場合に設けられる職で︑井伊の

場合は後者のためだった︒井伊は元来保守党にして︑ハpスが江戸にはいることすら反対した人物であるが︑彼を取巻く外交

官たちは日米通商条約案に調印せざるを得ないだらうと考えていた︒井伊が大老に就任する前︑朝廷からは今般の条約案は許

容し得ざるものであるという御沙汰が大老になる当初まで乙うに進捗しなかった︒乙のときにいたるまで幕府に対して条約案

に調印すべきことを繰返し激しく督促して止まなかったハリスは︑

ζ ζ

において︑幕府に対して述べて︑日本としてはζ

の際

(12)

速かに日米通商条約案に調印し︑それによって英仏両国の艦隊が来航して日本に対して通商に関し過当なる要求提提出して

受諾を迫るの来然に防止すべきであるとし︑迅速なる調印を重ねて督促するにいたった︒ζとにいたって井伊直弼は遂にハD

スの

ζの主張に動かされ︑安政五年六月(一八五八)勅許なきままで日米通商条約案に断然調印︑ζれぞ成立せしめるにいたつ

た︒そして︑その上で幕府は開国の止むを得ざるものであったζとを朝廷に陳弁して︑朝廷において諒承せられんζ

とを乞う

た︒しかしながら︑朝廷は︑幕府が荷も勅許を求めながら︑しかも︑調印なきま﹄に調印したζとに対して全く激昂︑孝明天

皇には一旦は譲位の意を表明せられる有様であったのである︒

一旦アメリカとの聞に通商条約を結んだとき︑他の諸国に対しても亦同様の条約を結ばざるを得ず︑かくて︑つ

づいて日露及び日蘭通商条約の締結となったのである︒しかも︑両条約の結ぼれた直後︑果して噂のごとくにイギリス︑ブラ

シス両国の艦隊が清国での勝利を機に我国へ来航してきた︒そ乙で︑幕府は

ζ ζ

ζれら二国との聞にも日米通商条約に倣っ

た条約を結んだのである︒ζのようにして安政五年の中にアメpヵ︑ロVァ︑ォラシダ︑イギPス︑フランスとの聞に通商条

約の締結をみたのであって︑ζれらの条約は通常王国条約の名の下に総称せられている︒以上のどとくにして︑旧来の徳川幕 とζ

ろで

府の鎖国制度は崩壊し︑

ζ ζ

にわが国の開国は遂にその実現をみたのである︒

かくて︑徳川政権の一支柱としての鎖国は崩れ︑その政権は著しく弱化し︑最早や政権倒壊は目前に迫るに至った︒開固に

伴って将軍継嗣問題はいよいよ激烈となり︑幕府と朝廷との聞における意向の対立はますます大きくなって来た︒

勅許なきま与に井伊大老は前述の如く条約案に調印したの?︑一橋派はそのかねての政敵によってなされたζの措置を痛難

すとともに︑朝廷の支持によって継嗣問題の局面安有利に転じようとはかるのである︒

すなわち︑先ず朝廷の御沙汰をもって幕府の内決を覆そうと企てるのであるが︑幕府が安政五年六月の中に徳川慶福(やが

て家茂と改む﹀を将軍の継嗣たらしむべきととを発表し︑ついで八月将軍家茂が徳川宗家を相続することとなったがとのとき

にいたっても︑一橋派は家茂の将軍職相続には朝廷より将軍宣下の御沙汰の下る乙とを必要とするのを頼みとして︑弁伊直弼

四 一 ‑

(13)

四回

排斥及び慶喜擁立のために朝廷に入説をつづけ︑遂に朝廷は同じ八月幕府及び水戸藩へ密勅を発せられ︑大老井伊直弼の排斥

︑一橋慶喜をして将軍職を継がしめるととの望ましき旨を腕曲に表明せられたのである︒政治への朝廷の干与はかくて今や会

く積極的となったのである︒他方︑幕府は勅許の発せられなかったのは一橋派の朝廷入説と関聯ありとの見地から︑京都にお

いて一橋慶審擁立の運動に関係したものを続々逮捕し︑宮家及び公家の家臣にして捕えられるものは実に多数に上り︑乙の有

様に朝廷の内外は不安におののくにいたった︒

ζの凄じき弾圧前に朝廷は遂に屈して全く譲歩的となった︒すなわち朝廷は家茂に対して将軍宣下の御沙汰を発せられた︒

朝廷からは文︑孝明天皇の勅答蓄が発せられ︑天皇には幕府が将来において鎖国の旧制に復すべきことを奏上(安政五年九月

老中間部詮勝により)したのを諒とせられ条約調印の事情については氷解あらせられる旨が通達せられたのである︒しかも︑

井伊直弼はその後つづいて朝廷︑幕府︑民聞に亘って一橋派と思われるものを次々に逮捕して投獄︑

掃藩するととをはかるのであって︑との峻烈にして大規模なる弾圧を世に安政の大獄とよぶのである︒

大老井伊直弼によるとの凄じき弾圧政策は︑やがて万延元年三月にいたり︑反撃としていわゆる桜田門の変を生み︑井伊直 一橋派の勢力を徹底的に

弼は旧水戸藩士の手によって暗殺せられたのである︒

井伊直弼の死後︑代って幕府首脳者の・中心となったのは老中安藤信正であったが︑彼は一方︑一橋派弾圧の方針をゆるめて

事態の緩和をはかるとともに︑他方弁伊直弼の遺策特踏襲して孝明天皇の御妹和宮親子内親王の将軍家茂九の御降嫁を実現し

てとかく阻隔の状態を呈して来た朝幕関係をととに改善していわゆる公武合体の実を挙げようと欲するのである︒

そして︑かhる意図の下に御降嫁の勅許を熱心に奏請するにいたった幕府は乙の時も亦︑兵備整うを待って朝旨のごとくわ

が国の旧制へ引戻すべき所存なる旨ぞ繰返し奏上するとともに壊夷実現のためには公武合体の実を挙げ圏内人の一和を樹立す

忍乙とが先ず必要であり︑その見地からも亦御降嫁は望ましき旨を奏上した︒孝明天皇には幕府の御降嫁奏請に対じて容易に 勅許を下されなかったのであるが︑結局万延元年十月にいたり遂に聴許の御沙汰を発せられるにいたった︒そして文久二年

(14)

(一八六一)御降嫁は実現をみたのである︒乙とにおいても︑徳川政権の弱体化が如実に現れているのであって︑従来の専政

はいまや朝廷との妥協に変り︑幕府のみの力では容易に政治を運営するζとが出来なくなって来

たの

であ

る︒

第三項薩藩勢力の増大

さて︑このように幕府が内外共に多事多難の諸問題と取組んでいた時︑西南の一角においては革命勢力ともいうべき一勢力

が急速に増大し︑強力なものとなりつh

あっ

た︒

それは即ち薩藩勢力であったのである︒

薩落改革の功労者調所笑左衛門広卿が嘉永元年(一八四七﹀十二月密貿易の責を負って自殺してより後薩摩においては藩主

の継嗣問題が表面化するにいたった︒島津家二十七代の主斉興には三人の男の子があった︒嫡子は斉彬︑次は斉敏

(鳥

取城

池田氏を嗣いだ)次は後の三郎久光︑幼名を普之進といった︒斉彬︑斉敏は本腹︑普之進は側室お由良の方の出である︒お由

良の方は︑もと江戸高輪の遊船宿の女であるが︑護藩士岡田小藤太の養女という名義で斉輿の側室となり︑隠然大勢力を奥向

に振

って

いた

斉興の子供の中で世子たる斉彬は不世出の人傑であった︒彼をひとかどの人物に育て上げたのは開祖父重豪であるといえ

る︒何故なら︑祖父斉宣が曲目祖父重豪の激怒に触れ文化六年に三十七歳の若さで蛍居せしめられ父斉興が十九歳で封を襲ぎし

同年九月二十八日江戸芝藩邸で斉彬は生れたので︑曲目祖父童家の鍾愛を受けるζとができたからである︒

斉彬は幼名邦丸︑四歳の時早くも世子となり︑幼にして総明であった︒彼は英才の重豪︑才色双備の母︑そして文化の中心

江戸において生長していったので︑職見抱負は益々高くなっていった︒斉彬は長じて益々賢名の名高く︑既に世子の頃より賢

名なる諸候遥と親交を結んでいた︒

また曽祖父に似て︑海外の文物を好み夙に世界の大勢にも通暁していた︒

幕府の老中にも友達が多く︑帰寵すれば藩士及び百姓︑町人に大評判を得ていた︒斉彬がニ十五才の時(天一

明七

年正

月)

曲目

四五

(15)

回大

祖父重豪が八十九才で死去し︑三十三歳の年ハ年保十二年)祖父斉宣が逝去したので︑薩藩の実権は完全に斉興が握っていた︒

しかし︑斉彬が四十才になっても未だに世子のまhで居られるというζとについて濯の内外にいろいろな取沙汰があった︒

特に藩内においては︑藩主の襲封問題を契機として︑斉彬の支持派と普之進の支持派とが対立抗争ぞ続けていった︒斉州停を

支持する人達は一部の権臣等が側室お由良の方と結んで斉興の心証を動かし︑斉彬を悪しざまに禽訴して非望を遂げようとじ

ておるのだと定めていた︒さらにζの隠謀を信じた藩士の多くは斉彬の子女の夫折をすら彼等好党の所棄と見倣し︑いやが上

にも憤態の気を煽った

島津将曹(豊後)は当時の首席家老であったがその下に吉利︑仲︑伊集院平︑二階堂静馬の諸老がいて権勢を振っていたの

で︑落の有志は︑これ等の諸老を好謀の張本であると考えていた︒

町奉行の近藤隆左衛門も︑その肝謀を信じた一人であった︒諸士の憤りを知って憂慮措かず︑潜に同志を糾合して権臣島津

将曹一派の非違を医そうと決心した︒江戸結家老島津壱岐もこれに賛成した︒物頭赤山籾負︑島津清太夫︑高崎五郎右衛門︑

山田市郎左衛門︑大久保次右衛門等またみな乙れに賛成した︒

中にも高崎五郎布衛門は憤激の余り過激手段に訴えて側室お由良の方︑島津将曹等の好魁を暗撃しようと計画した︒ところ

が事成らざるに看破せられた︒島津将曹等は機先を制して︑事の由を斉輿に告げた︒斉興大に怒り﹁主家を思う心からとは申

せ︑臣子の分を超えたる企てである︒厳重に処分して後来を戒めるように﹂との命令︒嘉永二年十二月三目︑近藤︑高崎︑山

回の三人まず割腹何付けられ︑超えて嘉永三年四月二十八日家老島津官官岐の割腹に至るまで︑割腹︑遠島︑退隠︑謹慎を命ぜ

コ高崎崩れ﹂という︒此度死刑に処せられた人々の何れもが忠誠有られたるもの実に三十七人の多きに及んだ︒乙の事件を︑

能の人物であった︒また遠島を命ぜられた人々の中にも有能の士が多くあった︒例えば大久保次右衛門は大久保甲東(利通﹀の

父であり︑処刑せられた赤山靭負は西郷隆盛に感化を及ぼした人であった︒

ζの頃︑大久保︑西郷等は少壮有為の人物と目せられるようになり始めていた︒

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