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自分史のなかに「市民社会」を読む : 戦後思想の 断層

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自分史のなかに「市民社会」を読む : 戦後思想の 断層

著者名(日) 黒沢 惟昭

雑誌名 山梨学院大学法学論集

巻 55

ページ 1‑22

発行年 2005‑10‑20

URL http://id.nii.ac.jp/1188/00000949/

(2)

論 説

自分史のなかに﹁市民社会﹂

戦後思想の断層 を読む

昭 惟

自分史のなかに「市民社会 J を読む

﹁ 市

民 社

会 ﹂

へ の 関 心 ー そ の 思 想 的 土 壌 ー

﹁市民社会﹂という名辞を自覚的に考えるようになったのは︑ 一橋大学時代に高島善哉先生の﹁社会科学概論﹂

を聴講した時であったと思う︒四 O 数年も昔のことだから記憶も定かでない面も多いが幸い当時のテキスト︑高島

善哉著﹃社会科学入門 l 新しい国民の見方考え方│﹄が手許にある︒

本稿のためにこの岩波新書(巻末に︑昭和三五年三月二九日第一一刷発行¥一

OO

と記されている)を読みかえ

してみた︒なんと本文は旧字体で書かれ︑﹁一祉曾科撃の歩み﹂の章に︑﹁市民枇曾の科撃﹂という一節があり︑ そこ

に﹁市民社曾とは自由で平等な人間が取り結んだ枇曾のことである﹂(九一頁)と述べられている︒この定義を基

(3)

に社会科学との関連で市民社会の様々な面が説明されている︒ ページごとに赤線が引かれ稚拙な書き込みも多い︒

新入生の社会認識のガイドを目的としたこの講義を︑ 一度も欠席せずに大教室の最前列で聴いた記憶が匙える︒

そうであれば︑この講義によって少なくてもその大きな影響をうけて私の市民社会への関心が深められ広まった

こ と

は 確

か だ

ところで高島先生は︑この講義の翌年に共著﹃社会思想史概論﹄を同じ岩波書店から公刊された︒共著者は高弟

の水田洋︑平田清明の両氏である︒先生のご担当の終章には先述の講義で語られた諸テ 1 マが彫琢され︑敷術され

ている︒久し振りにその章を読み返してみたが︑そこには市民社会についての特別な叙述はない︒ただし︑﹁主体

としての階級﹂﹁母体としての民族﹂という懐かしい章句に接すると︑ その自説を︑私は充分に理解できたとはい

えないが︑繰り返し熱ぼく説かれていた在りし日の先生の姿が浮かんでくる︒

また先生は︑当時の時代を﹁資本主義体制から社会主義体制への転換﹂(三三六頁)期と捉えながらも︑当時の

教条には甘んじないでその日本的道を求めて苦闘していたことが伝わってくる︒前出の階級︑民族︑そして体制・

状況という概念の用法にその一端がうかがふれ

o

一方︑疎外とその回復についても多くのぺ l ジを割いているこ

と︑さらに政治・経済と並んで﹁教育﹂も﹁現代社会の肉体﹂(三七九頁) と捉え︑重視する注目すべき発想も確

認できた︒今にして想えば︑その後の私の足跡に先生の影響の大きさを改めて思わざるをえない︒

ところで︑先生の没後に﹃著作集﹄全九巻(こぶし書房)が刊行された︒その記念シンポジウム﹁高島善哉その

学問的世界﹂(一九九九年五月二九日於一橋大学︑因みに私は海外出張中でこのシンポに参加できなかった)にお

げる基調講演で︑水田洋氏は︑高島先生の市民社会論に言及されている︒本稿に関わる限りで要目を記せば次のよ

(4)

う で

あ る

へ l ゲル・マルクスによって市民社会は総じて﹁ネガテイヴ﹂に捉えられたが︑高島先生の把握は﹁全面的にポ

ジティヴ﹂である︒それはスミスの﹁国富論﹂研究に由来するためで︑そこでは階級対立をふくみながらもなお︑

﹁調和的発展が可能な近代社会をさすもの﹂と考えられている︒この市民社会論は内田義彦氏によって継承される

が︑同じスミス研究でも﹃道徳感情論﹄を重視した氏の市民社会論では︑﹁ヒラの市民関係﹂が強調される︒とは

いえ︑﹁高島なしには内田なし﹂といえる市民社会論は︑社会主義社会とは﹁市民社会の満面開花のうえに築かれ

る ﹂

と い

う ︑

そのような社会であった︒(渡辺雅男編﹃高島善哉・その学問的世界﹄こぶし書房︑

一 九

1 二二頁参

照 ) ︒

因みに︑このような社会主義H市民社会の認識は後に平田清明氏が﹃市民社会と社会主義﹄(岩波書庖)

で詳し

自分史のなかに「市民社会」を読む ろ(く

う i展

o

関 さ れ

そのキーワードである﹁個体的所有の再建﹂は一時流行語の感を呈したことを記憶する読者も多いだ

さて︑私が学生・院生として青春時代を送った六 0 年代から七 0 年代初頭にかけては︑日本は高度成長によって

急速に経済大国化を遂げていった時代であった︒

一 方 ︑

ソ連を盟主とする社会主義諸国家も時々の﹁かげり﹂を見

せつつもなお私たちの﹁希望の星この位置を喪っていなかった︒少なくても十余年後のドラスティックな﹁瓦解﹂

を予見した人など殆ど皆無の時代であった︒

そのような状況下で︑内田氏は﹁市民社会なき資本主義﹂として日本社会を厳しく批判し︑次いで平田氏は﹁市

民社会なき社会主義﹂とソ連を鋭く告発したことに私は大きな衝撃を与えられた︒前述のような市民社会観からい

(5)

えば当然の帰結であったと今では思うが︑当時の私にとっては︑ とりわけ平田氏による社会主義批判には驚きを禁

じえなかった︒同時に︑二つの体制の批判原理としての﹁市民社会﹂ への関心は一層深められたのであった︒その

ためもあって︑前出の高島先生︑平田氏の諸著作のほか︑内田義彦氏の

﹃ 資

本 論

の 世

界 ﹄

﹃ 社

会 認

識 の

歩 み

﹄ (

い ず

れも岩波新書)なども繰りかえし読んだことが思い出される︒以上の諸著書のうち︑岩波新書は私が教師になって

から︑担当の講義やゼミで幾度もテキストとして使用したため︑消耗が激しく何回か購入しなおした程である︒な

お︑後者の内田氏の書では︑市民社会なき日本資本主義の諸例がわかりやすく説明されている︒

一 端

を 記

す に

止 め

る が

︑ 以 上

いまの時点で幸いだったと思うことは︑﹁市民社会﹂という言葉に余り光があて

られなかった時代から︑日本の有数なスミス研究者の影響の下で︑社会思想史の蓄積を背景にした﹁市民社会﹂論

に 触

れ ︑

そうした知的土壌のなかで市民社会への関心を引き起こされ育んできたことである︒もちろん︑時代の風

潮もあってマルクスへの関心・魅力は強烈で人並みに勉強したとは思うが︑少なくとも市民社会 H ブルジョア社会

( 5 )  

といって切り捨ててしまう考え方には常に抵抗感があったことは確かだ︒

グラムシ思想との出会い l ヘ l ゲル市民社会論の再審 l

私なりの市民社会論の発酵のために大きな契機となったのはグラムシ思想との出会いである︒大学院を終了し

て︑最初の勤務先・信州の新設まもない大学でイタリア現代史の研究者重岡保郎氏の知遇を得るという幸運に恵ま

れたのである︒会うたびに氏はグラムシの思想︑ とりわけその市民社会論の魅力について語りかげ︑私にその研究

(6)

を熱心に奨められた︒ マルクスもいいけど︑教育研究のためにはグラムシも有益だと思うよ︑ と︒しかも多忙なな

かでイタリア語の手ほどきまでしてくれたのである︒私の在任五年間にわたった通勤の車中︑また宿泊先での氏に

よる﹁学習会﹂が懐しく想い返される︒

しばらくしてからグラムシの市民社会の理解のために︑

といって氏が私に手渡されたのは︑イタリアの政治学 者 ︑

ノルベルト・ボッビオの﹁グラムシにおげる市民社会﹂ の原文コピーであった︒辞書と首ぴきでなんとか読み

解き要点をまとめ︑私なりのコメントを加えて︑﹁︑グラムシの市民社会論ー N ・ボッビオの所論の紹介と批判的検

討ー﹂というタイトルで成稿し︑同氏の仲介で当時安東仁兵衛氏が主宰されていた﹃現代の理論﹂誌(七六年七月

に寄稿したのであった︒その後︑この記念すべき拙稿を私の始めての著作﹃疎外と教育﹂(新評論︑

一 九

八 O

に収録することができた︒

自分史のなかに「市民社会」を読む

このボッピオ論文は一九六七年にイタリアのカリアリで関かれたグラムシ没後三 O 周年を記念する国際会議で発

表され︑同会議の議事録﹃グラムシと現代文化﹄に﹁再論﹂とともに掲載されたのであったがその会議でもまたそ

の後の︑グラムシ研究の歴史においても最も激しい議論を呼んだ論考であったことは後に知った︒

拙著の公刊後ーというのはいささか面映いがー様々な反響があった︒なかでも前出の平田清明氏が市民社会論の

ヴァ l ジョンアップのためにグラムシに着目し︑再三拙稿を好意的に引用されたことはうれしかった︒そのうちか

ら一箇所だけを引用しよう︒

﹁グラムシ市民社会論の特質を N ・ボッビオ論文﹃グラムシの市民社会概念﹄

の 紹

介 と

その批判的検討を通じ

て展開した黒沢惟昭氏は︑ その論稿﹃グラムシの市民社会論﹄:・において︑ボッビオの根拠をあげて︑文献史的裏

(7)

付けの紹介をおこない︑ボッビオの問題関心に内在してそこから積極的な意義を発掘しようと努めつつ︑なおこの

点(﹁グラムシの市民社会論が依拠しているのはマルクスではなくあきらかにヘ l

ゲ ル

で あ

る ﹂

l 黒

沢 )

﹃ い

さ さ

シ ョ

ッ キ

ン グ

な 断

定 ﹄

であると評して︑賛意を控えている︒傾聴すべきであろう﹂(平田清明著︿八木紀一郎・大

町慎浩編集﹀﹃市民社会思想の古典と現代 l

ル ソ

l ︑ ケネ l ︑ マルクスと現代市民社会│﹄有斐閣︑

一 九

九 六

年 ︑

二 八

九 頁

) 口

念のためにいえば︑私が当時衝撃をうけたのはボッピオによるこの﹁断定﹂のほか﹁グラムシの市民社会は上部

構造に属する﹂という章句もあった︒最近︑日本にお抄るグラムシ研究の一人者である松田博︑小原耕一氏︑

ま た

ポッピオの若い研究者岡林信一氏の協力の下にボッピオ論文の全訳を試みたのでご参看願えれば幸いである︒(小

原・松田・黒沢訳﹃グラムシ思想の再検討│市民社会・政治文化・弁証法 l ﹄御茶の水書房︑二

O O

O 年︒因みに

第二章﹁グラムシにおける市民社会﹂が私の担当である)︒

ボッピオ論文については︑内外の研究者からーとくに市民社会の上部構造論をめぐって多くの賛否両論の見解が

公表されてきた︒詳しい検討は省略してわが国の場合についていえば次のようである︒日本のグラムシ研究の草分

けである石堂清倫氏はやや肯定的に紹介しておられる

( ﹁

﹃ 獄

中 ノ

l ト﹄と本書の編集について│﹁グラムシ問題別

選集②﹃ヘゲモニーと党﹂﹂現代の理論社︑

一九七一年所収﹂のに対して竹村英輔氏はレオナルド・バッジの所論

﹃グラムシと現代の君主﹄を援用して︑ボッビオを厳しく批判している

二グラムシの思想﹄青木書底︑

一 九

七 五

年 ︑

第 六

章 )

知上のように︑当時の日本におけるグラムシ研究の二人の泰斗の評価が分かれたためもあって当時の私は﹁賛意

(8)

を 控

え た

のであったが︑ボッピオが強調するへ l ゲル市民社会論の私なりの再審によって次第にボッビオの考え

方に﹁賛意を表する﹂立場に転じた︒

この再審の契機になったのは平田氏の高弟で法哲学者の今井弘道氏のヘ l ゲル研究であった︒周知のように平田

清明氏は惜しくも九五年に急逝されたが︑その直後に今井氏は恩師の追悼を兼ねて﹁﹃市民社会と社会主義﹄から

﹁ 市

民 社

会 主

義 ﹄

へ﹂を公表した(﹃情況﹄九五年五月号)︒さらに同氏は翌年三月に開催された平田氏の追悼集会

で ︑

こ の

論 考

を ア

レ ン

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題 名

は ﹁

ロ 回

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刷 F F ω 出

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吋 ¥

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ω 吋

﹀ ﹀

叶 へ

l ゲ

﹃ 法

哲 学

﹄ と平田﹁市民社会論﹂

の視線の往復の中で﹂というもので︑私もそ

の集会で大変興味深く拝聴したのであった︒この報告は同じ題名で八木紀一郎・山田鋭夫ほか編著﹃復権する市民

社 会

論 ﹄

に収録されている︒本書では私も︑﹁ヘゲモニー・と教育│市民社会と主体形

( 日

本 評

論 社

一 九

九 八

年 )

自分史のなかに「市民社会 J を読む

成﹂の章を担当しているが今井氏のへ l ゲル市民社会論の解釈はボッピオ論文の再審のために大変示唆的であっ

た︒詳しくは今井論文の参看を請いたいが︑要するに︑ へ l ゲルの市民社会には︑国家(官僚) によって上から救

済されるべき﹁ブルジョア﹂としての市民だけでなく︑制約されたかたちではあっても︑市民相互の結合によって

自己解放を遂げようとする﹁ツヴィル﹂としての市民も存在するという主張であった︒

繰りかえすがこの今井氏の解(改)釈は当時の私に啓示ともいうべき教示を与えてくれた︒今井氏は言及されて

いないが︑前述のボッビオのいう︑グラムシが依拠するへ l ゲル市民社会論のポイントはまさにこのツヴィルとし

ての市民ではないかということに思い至ったからである︒丁度その頃︑京都大学の大学院で集中講義の機会を与え

へ l

ゲ ル

﹃ 法

哲 学

﹄ ︑

そしてボッピオ論文︑今井論文を読み直し周到な準 られた︒これまでの私のグラムシ研究︑

(9)

備のもとに︑可能な限り﹁自分の言葉で﹂語ることに努めた︒正規の学生︑院生のほかグラムシに関心のある全共

闘世代の定時制高校の教師なども参加され論議は白熱︑私としては有意義な想い出深い集中講義であった︒因み

の現代的意義

l

﹃ブルジョア﹄から﹃シトワイヤン﹄

に︑この講義ノ l トを基に私は﹁へ 1

ゲ ル

﹃ 市

民 社

会 論

J¥ 

の転成

l

﹂を書き上げ︑拙著﹃疎外と教育の思想と哲学﹄(理想社︑二

OO

一年)に収録したのでご参看いただき

たい︒この稿の終りに次のような一文を感慨をこめて記したので引用しておこう︒

﹁ファシズムを体験した世代の日・伊の二人の研究者

l

平田清明と N

・ ボ

ッ ピ

オ l

( 経済学と政治学と専門は異

フ ァ

シ ズ

ム と

闘 い

そのために弊れたグラムシの思想︑ とりわけその﹃市民社会﹄論に関心を抱いた

な る

が )

が ︑

ことは興味深い︒しかも︑グラムシは時代的にはマルクスと︑空間的にはレ 1

ニンと違い一定の﹃市民社会﹂

の 拡

充の時代に生きたのであれば︑

マルクス・レ

1 ニンとは異なった視点から読み解く可能性があったことは容易に推

察 さ

れ る

想いかえせば︑六 0 年代の日本は高度経済成長とともに驚くべき資本主義の発展と都市化が進んだ一 O

年であっ た ︒

一方では︑チェコ事件に象徴されるように社会主義をめぐる問題も顕在化した時代でもあった︒

9

市民社会な

き資本主義

8

4

内田義彦)に対して平田は

(

市民社会なき社会主義 を提唱し当時の知的世界に強烈なインパクト

P

を 与

え た

・ ・

・ ︒

同じ頃︑ボッビオは政治学の立場からグラムシの﹃市民社会論﹄を再審して公表したのが小論冒頭の論文(﹁グ

ラムシにおける市民社会概念﹂) マルクスの原典の再審からやはり﹃市民社会論﹄

の 再 である︒経済学者平田は︑

解釈を志向して﹃市民社会と社会主義﹄を公刊した︒平田は後に︑グラムシに強い関心を抱き︑自らの﹃市民社

(10)

会﹄論の彫琢を試みようとした︒この時期の平田と私は大学の同僚としてグラムシとボッピオを軸とする知的交流

の機会を得ることができたことは私にとって幸いであった﹂︒

上の引用文にもあるように︑平田氏は京大定年後に当時私が在職していた神奈川大学に移って来られた︒存命さ

れていた高島先生にお目にかかってそのととを伝えると︑﹁是非︑平田君に会って教えを仰ぐように﹂という奨め

があった︒そこで就任早々に平田研究室を訪れた︒﹁ああ君か︑高島さんから電話があったよ﹂と初対面の私をま

るでかつてのゼミの教え子のように気さくに語りかけ︑驚いたことにいきなりグラムシとボッビオの話になった︒

その後︑平田氏は副学長になり︑大学改革に精力的に取組まれ︑私もいま流行の言葉でいえば大学の﹁自己点

検﹂のための﹁白書﹄づくりの責任者にされた︒そのためもあって︑ しばしば副学長室によばれ大学改革について

ということであった︒これは︑大学改 論じたが︑話題の中心はつねに市民社会と大学はどういう関係になるのか︑

自分史のなかに「市民社会

jを読む

革とこれまでの私の研究との接合のために大いに有益であった︒前出の平田氏没後のシンポジウムの記念講演で︑

平田氏の﹁最初の弟子﹂を自認する伊東光晴氏は︑﹁平田さんは︑市民社会の虚構に懸ける︑

と述べたがその一端を一同僚として図らずも目のあたりにした次第である︒

という一生であった﹂

話 は

前 後

す る

が ︑

八七年秋には東京九段のイタリア文化会館でグラムシ没後五 O 周年の国際会議が開催され︑私

は石堂清倫︑竹内良知氏らとともに全体会で報告の機会を得たことは望外の幸いであった︒(この時の概要につい

ては︑伊藤成彦・黒沢惟昭ほか編﹃グラムシと現代﹄御茶の水書房︑ 一九八八年︑を参照されたい)︒度重なる準

備会には平田氏も熱心に参加された︒なお私の自分史において特筆すべきはこの会議ではそれまでお名前しか存じ

上げなかった水田洋氏とも交流の機会を得たことである︒その後︑公私にわたってお世話になり︑多々ご教導をい

(11)

1 0  

ただくに至った︒九七年には同じイタリア文化会館で︑グラムシ没後六 O 年の集会が関かれたのであるがすでに平田

55  (山梨学院大学〕

氏は︑鬼籍に入られさびしい限りであった︒ただし︑水田氏はご壮健で私がコ l

ディ

l ネ l トを務め報告も行った

フロアから旺んに意見やコメントを述べられたシ l ンが浮かんでくる︒(この集会の様子につ

一 一

日 目

の 分

科 会

で ︑

いては﹃グラムシは世界でどう読まれているか﹄社会評論社︑ニ

O O O 年

︑ を

ご 覧

い た

だ き

た い

) ︒

主題のグラムシから逸脱して私的交友に筆がすべったが︑学生時代の高島先生の講義でお名前を耳にした時は先

生とともにゼミの先輩とはいえ︒雲上人︒ のように思われた平田氏や水田氏と後年に至って親しく交友の機会を得

ることになるとは夢にも思わなかった︒しかもその要石は市民社会であり︑ その一環としてのグラムシであった︒

こうした成り行きとめぐり合わせになにかの因縁を感じてならないのである︒

なお︑私の最近のグラムシ (市民社会)研究については拙稿﹁市民社会とヘゲモニー・グラムシ

﹃ 獄 中 ノ

1

ト ﹄

の教育学的考察﹂(山梨学院大学﹃法学論集﹄五一号︑二

OO

四年)を是非ともご参看願いたいと思う︒

現代市民社会への模索ー市民政治とデモクラシーの二つの回路ー

残された紙巾で︑現代の市民社会の動向を大急ぎで探ってみたい︒とはいえ︑汗牛充棟の感がある関連書を逐

一︑読破し総括することなどはもとより私の能力をはるかに超える︒そこで最近たまたま興味深く読んだ高名な政

治学者による二つの労作を︑ できるだけこれまでの叙述との関連に的をしぽり︑必要な要点にのみ触れるというこ

とで課題の一端を明らかにしたいと念う︒

(12)

第一の書は︑高畠通敏編﹃現代市民政治論﹄(世織書房︑二

OO

三 年

) ︑

第 二

の 書

は ︑

篠 原

﹃ 市

民 の

政治学│討

議デモクラシーとは何か 1

﹄ (

岩 波

書 底

︑ ニ

OO

四 年

)

である︒両氏とも市民運動に積極的に関与してきた政治学

者として知られる︒この点は両著のタイトルからも読み取れるだろう︒

第一の書は高畠氏の立教大学・定年を‑記念して刊行された論文集である︒高畠氏の総論(巻頭論文) と幾つかの

各論に大別されるがその聞にとくに密接な関連性はみられないと記されている (それは﹁はしがき﹂で﹁市民政治

の多面性の表れ﹂と説明されている)︒したがって︑ずばり﹁﹁市民社会﹄とはなにか﹂と題する高畠論文に限定し

て私見を述べることにする︒因みに︑これは︑国際シンポジウム﹁グロ 1

パライゼ

l ジョン時代における市民社

会﹂における日本の状況報告を基にしたもので︑ まさに現代の市民社会を考えるにふさわしい総括的論考である︒

自分史のなかに「市民社会 J を読む

この論文においても︑高島善哉︑内田義彦︑平田清明そして︑グラムシの市民社会論が登場する︒ベルリンの壁の

崩壊に伴う﹁東欧革命﹂とともに始まった﹁市民社会﹂ルネサンスの潮流をみるとき︑上記の研究者をはじめとす

る日本の市民社会研究の先駆性が評価されるのはけだし当然であろう︒

しかし︑高度経済成長を転期として︑三井三池闘争に典型的な労働運動も︑体制変革を目ざす社会運動も下火に

なり︑﹁生活から発想する市民政治﹂が次第に顕著になってくる︒五十八年の警転法反対運動に始まり︑六 O 年安

保を経て︑六五年以降のべ平連運動に至ると︑革新政党を超える市民運動が新しい波をつくりだしたのである︒こ

のような﹁拡散した﹂運動の展開にあっては︑国家に対する市民社会の﹁エートス﹂を専らに唱える従来型の﹁市

民社会﹂論では対応できなくなった事情は了解されよう︒新しい状況で求められたのは︑﹁実際に則した具体的な

1 1  

政策や組織などの運動論﹂だったからだ︒

(13)

この期待に応えるべく登場した新しい理論家として︑久野収︑鶴見俊輔そして小田実が挙げられている︒

い ず

れ 1 2   もマルクス主義でなく︑

アメリカのプラグマテイズムの影響をうけた思想家である︒また︑出自はともかく︑

クの市民革命の研究を通じて大衆社会状況下で︑都市の住民自治運動論を追究・展開した松下圭一は﹁市民社会﹂

の再構築│市民政治の理論家として現在も活躍している︒

と こ

ろ で

五 五

年 体

制 ︑

その前提としての冷戦構造が崩壊して久しい現代においても︑﹁閉ざされたエリート的支

配構造﹂(産・官・政権党による﹁鉄の三角形﹂) はマスメディアも加わり︑グロ l

パ リ

l ションの進展のなかで

一 層

強 め

ら れ

て い

る ︒

一方︑労働組合の多くは企業と協力して﹁利益集団﹂化している事態も周知のところだ︒ N

P

O NGO も大きな可能性をはらんではいるとはいえ組織化の確立とともに同様の道を辿る危険もある︒加える ︑

に︑知識人の役割はどうか︒この点について次の批判は的を射ている︒﹁政策形成の基本的前提となるイデオロギ

ー に

つ い

て ︑

その虚構性を明らかにするのは知識人の役割だったはずである︒しかし︑審議会に入ってイデオロギ

ーのお噺子をする知識人はいても︑ イデオロギーに対決する知識人の活動は沈滞したままであった﹂(山口二郎

﹁ 危

機 の

日 本

政 治

﹄ 岩

波 書

底 ︑

一 九

九 九

年 ︑

一 二

四 頁

) ︒

だが︑﹁生活しているふつうの人間としての原点﹂に立ち戻り︑﹁支配の構造﹂が﹁ふつうの生活者市民にとって

の意味を問う﹂精神が存在するかぎり希望はあると高畠氏は説く︒この希望を現実にすることは相当の困難が予想

されるが私もこのように信じたいと思う︒

なお︑この総論の課題を具体的に展開したものとして︑女性の政治参加(五章)︑住民と投票(六章)︑民主主義

の 再

定 義

( 一

O 章)などの各論の諸章が参考になるが紹介は省略する︒

(14)

第二の書は︑主として市民講座の話をまとめた内容なので大変読みやすい︒しかし︑内容は︑近代社会の成立・

展開から現代(本書では﹁第二の近代﹂という)を総覧し︑﹁市民社会﹂についてもその系譜から展開・変質まで

を述べているので要約すらも省かざるをえない︒そこで高畠論と関わる点を一つ抽き出して私見を述べよう︒

高畠氏が生活者の論理を打ち出した点を私は評価したいが︑反面それは﹁ポピュリズム﹂に陥る危険性はないか

という疑問が生ずる︒この点を篠原氏は︑﹁個人の確立と人権の確立﹂ の負の面としての﹁個人の原子化・断片化﹂

という近代化の文脈で論ずる︒少しまえに︑ オーストリアの﹁ハイダ!﹂現象が世界の注目を集めたことは耳新し

A

︑ ︑

A

し カ

わが国でも小泉首相のパフォーマンスによる高い支持率(今夏(二 OO

五 年

) の衆院解散と﹁郵便民営化︑

是か非か﹂という一点を争う衆院総選挙はその集約である)︑石原知事の意表をついた一言動による人気もポピュリ

自分史のなかに「市民社会 J を読む

ズムと無関係ではあるまい︒それを支える有力な集団を篠原氏は﹁サイレント・マジョリティ﹂(﹁沈黙する多数

派 ﹂

)

と呼ぶ︒この保守層について氏は︑詳しい分析を行っているが︑彼・彼女たちに決定的に欠知している一点

を い

え ば

それは﹁相互の討論﹂である︒

そこで結論を急ぐが︑﹁市民社会の討議﹂に裏付けられない限りデモクラシーの安定と発展はないということに

な る

つまり︑代議制デモクラシーに加えて︑参加プラス討議を重要視するもう一つのデモクラシーを確立してい

くことが現代市民社会の課題とされる︒しかし︑以上の提言に止まるならば︑すでにハ l パ l マスの理論の紹介に

よってわが国でもそれ程目新しいこととは思われない︒本書の特色は︑その提言の具体化のために西欧各国の討議

(五章)紹介していることである︒市民社会の現代的展開のために大 デモクラシーの事例を一つの章全体を使って

1 3  

いに示唆的であると同時に︑たとえばいま日本でも日程にのぼっている﹁憲法改正﹂の﹁国民投票﹂について考え

(15)

1 4  

るためにも大変参考になる︒ただし残念ながら紙巾の制約のため詳しい紹介は割愛する︒

55  (山梨学院大学〕

以上で︑小論を閉じるが︑私的体験の叙述に傾きがちであったことを反省している︒しかし︑あえて弁解すれ

ば︑読書とは単に文意を読み取るのではなく︑時代の問題を著者と語り合い︑ともに考えることだという謂をやは

り 四

O 数年まえに﹁社会科学概論﹂で聴いたように思う︒その点を勘案されてご容赦を乞いたい︒なお篠原氏の書

は私のゼミナールのテキストに︑高畠氏の書は参考文献に指定している︒これからも著者たちとの﹁対話﹂を続

け︑私なりの﹁市民社会﹂の内容を一層深め︑広めかつ可能な限りその創造にアンガ l ジュしてゆきたいと念う︒

法学論集

( )

付記

﹁市民社会﹂の包括的理解のために︑それぞれの立場は異なるが次の文献も参考になる︒佐伯啓思﹃﹁市民とは

誰か・戦後民主主義を問いなおす﹄

( P

H P

研 究

所 ︑

一九九七年)︑斉藤日出治﹁市民社会論の現在﹂(吉田雅明

︹ 責

任 編

集 ︺

﹃ 経

済 学

の 現

在 ﹄

一 一

( 日

本 経

済 評

論 者

︑ 二

OO

五年)︒なお︑校正の段階で斉藤氏から近書﹃グロ l パ

ル市民社会論序説・帝国を超えて﹄(大村書底︑ニ

OO

五年)を恵送された︒卒読の限りであるが︑﹁方法としての

市民社会﹂(第一章)︑また︑市民社会のグローバル化とヘゲモニーの視点から︑第三︑ 四︑五章そして終章にとり

わけで教示を与えられた︒誌して御礼申し上げる︒因みに︑私も︑和田春樹﹃東北アジア共同の家﹄(平凡社︑二

00

三年)︑萎尚中﹃東北アジア共同の家をめざして﹄(平凡社︑二

OO

一年)などの提言に触発されて﹁市民社

会﹂の拡大それによるヘゲモニーの現在を追究している︒その成果については近く成稿の予定である︒

(16)

おわりに︑本稿の基になったのは︑

﹁ 自

分 史

の な

か に

﹃ 市

民 社

会 ﹄

を 読

l 最近の読書ノ l

ト の

一 働

│ ﹂

( ﹃

解 放

教 育

﹄ 明

治 図

書 ︑

二 OO

四 年

八 月

号 )

である︒この稿を加筆・修正し二倍近くに敷街し本稿と同じタイトルに変

更した稿を︑近著﹃人間の疎外と市民社会のヘゲモニー・生涯学習原理論の研究﹄

( 大

月 書

店 ︑

二 OO

五 年

)

録 し

た ︒

この稿の更なる展開︑深化を志したが︑若干の加筆と注の追加しかできなかった︒本稿の位置づけのため

にも︑前掲拙著の併読を乞いたい︒

自分史のなかに「市民社会」を読む

(

1 )

高島先生は公式︑教条を振りかざすことを嫌った︒その内実を自分の頭で考え自分の言葉で語ろうとしていた︒当時は余り意

識しなかったが︑後年私が教職についたときこのことを強く意識した︒先生の講義が新しいテ

l

マのわりにわかり易かったのも

そこに原因があるように思われる︒高弟の水田洋氏も先生の学問﹁体系﹂のキーワードとして︑主体性︑市民社会︑経骸的自然

法︑生産力︑イデオロギーの五つをあげているが︑第一の﹁主体性﹂についての説明のなかから関連する章句をアト・ランダム

に抽き出してみよう︒﹁本科三年間にきいた先生の講義は︑日本ではほとんど前人未踏の領域について自分のことばで語ったも

のでした︒﹂﹁研究者の理論家としての主体性︑現実あるいは政治からの独立です︒先生の初期の論文のなかにも︑理論は理論な

のだということばがあったようにおもいます︒﹂﹁先行する研究業績あるいは理論に対する独立性︑主体性のことです︒:::引用

学問にかえて:::典拠を完全に自分のものとしてしまったことです︒﹂﹁いうまでもなくこれは︑戦後流行の引用マルクス主義と

あいいれません︒自分の頭で考え︑自分のことばで書くこと︑これもぽくが先生から教えられたことのひとつですよ(﹁高島善

哉の社会科学﹂︑渡辺雅男編﹁高島善哉その学問的世界﹄こぶし書房︑ニ

O O

O 年)︒今後とも︑恩師の遺訓として心に銘記した

い と

念 う

( 2

)  

1 5  

スミスとの関連では︑﹃著作集﹄(第六巻)で市民社会が詳しく言及されている︒この巻の解説を担当した星野彰男氏も︑﹁ス

ミスの体系を﹃市民社会体系﹄として提起したこと﹂を︑著者の﹁卓見﹂と評価しているので参照されたい(四三五頁以下)︒

なお︑私としては︑水田氏の指摘する﹁ポジティヴ﹂な面を︑先生が社会主義との関連で﹁市民社会﹂を捉えようとした点に注

(17)

1 6  

55 (山梨学院大学〕

法学論集 ( 3

)   目したい︒この点について︑次のように結論を述べられる︒

﹁社会主義社会は市民社会を資本主義社会から承け継ぎ︑市民社会をより高い│歴史的にも理論的にもより高い

1

次元におい

て発展させる︒公民と市民の分裂がなく︑政治体と経済の背離がなく︑市民が市民としての活動においてそのままコミュニティ

がコミュニティとして発展していくような社会│これが資本主義体制に続くつぎの社会体制の努力目標でなければならない︒も

しそうだとすれば︑市民社会は資本主義体制の崩壊とともに崩壊し去るものではなく︑資本主義体制の崩壊によってふたたび質

的な変化を遂げるようになるものだといわなければなるまい︒:::それは資本主義的市民社会から社会主義的市民社会への転換

の時期なのである︒﹂そして︑﹁社会主義的市民社会﹂とは︑﹁社会主義的市民の社会﹂という意味だと注記されている︒しかも︑

附記のなかで︑先行研究に触れつつ︑如上の問題の解明のために︑市民社会の深い研究が必要なのだとされている(﹃著作集﹄

第八巻三八 l 三九頁)︒このように社会主義における市民社会についても考えていた点は︑先生の﹁ポジティヴ﹂な面であり︑

﹁車見﹂であるのだと私は考えている︒因みに︑この解釈は︑本文中の水田氏の﹁市民社会の満面開花のうえに築かれる﹂社会

が社会主義社会なのだという指摘にもつながっていく︒

多くの研究文献があると思われるが︑次の整理・説明が参考になる︒山田鋭夫﹁市民社会論の現在﹂(平田清明ほか編﹃現代

市民社会の旋回﹄昭和堂︑一九八七年︑九六l一 O 一頁)︒とくに一﹁内田義彦と日本資本主義﹂︒なお︑山田氏が参照を注記し

ておられる内田義彦﹃日本資本主義の思想像﹂(岩波書店︑一九六七年)は必読文献である︒ただし︑水田氏の試みた高島市民

社会論と内田市民社会論の関連についての源泉を私は未だ確かめていない︒

この点についても注

( 3

) 山田氏論考二﹁平田清明と社会主義﹂(一 O 一 l 一 O

六 頁

) を

参 照

さ れ

た い

ただし︑次の和田重司氏の指摘も勘案されるべきであろう︒やや長文であるが私の知的関心の源流ともいうべき︑高島市民社

会論の理解のために重要と思われるので引用しておきたい︒

いずれにしても:::現代社会の批判基準になりうるような社会像は︑﹁経済社会学﹄の出版以後﹁市民社会﹂という独特な社

会像として成長することになります︒その言葉の由来につきましては︑:::高島先生御自身がこの点について述懐なさった文章

を一つだけ引用しておきます︒﹁長いあいだスミス(﹃国富論﹄)を強制的にもたされて︑いやおうなしに勉強しなければならな

い︒それで:::毎年やっているうちに︑だんだんスミスがおもしろくなってきた︒:::スミスをやっているということ自体が一

つの時局批判︑抵抗の意味がありますね︒:::それから﹁市民的﹂とか﹁市民社会﹂というのは大塚(金之助)さんがいいだし

( 4

)  

( 5

)  

(18)

自分史のなかに「市民社会」を読む

たんです︒これは僕に一生の影響をあたえましたね︒それまでは市民的とか市民社会ということは︑夢にも思わなかった︒日本

には市民社会がないということを︑先生が講義のときかなにかで言いましたね︒それがすぐにスミスに結びついたんです J

i‑‑日本の現状を批判しようという意気込みが古典研究と結びついたという特殊な事情がよく分かります︒(高島先生と﹃市民

社会論﹄とスミス﹂注

( 1

) 渡辺編著︑六五 l

六 六

頁 )

ここから︑和田氏は高島市民社会論の特徴を以下のように述べる︒

後年繰り返し主張された先生の﹁市民社会﹂は︑一応政治や国家と区別されたへ l ゲルやマルクスの σ

ロ 括

R ‑ w Z

の 2

0

ω・

与え同とはちがいます︒そのことは﹁経済社会学﹂という本来の構想から明らかです︒それはまたそれが政治的な関係に強く傾

斜してる限りでは g

巳 密

m σ

︒ロ括包括ともニュアンスを異にしているかもしれません︒なぜならそれは経済に即して政治や道徳

を含む社会の諸側面を総体的に把握しようとするものだからです︒それはまたスミスの社会観とはまったく同じというわけでも

ないように思われます︒なぜならスミスには上記のように資本主義の現状を容認するようなところがありますし︑また資本主義

社会が自然的に不変だとする見方がありますが︑高島先生の市民社会にはこれを越えて民主主義と社会主義の問題が直接の問題

になっているからです︒高島先生にとっては︑日本の野蛮な軍国主義や封建遺制を批判しそれに抵抗することが問題であって︑

こうした観点からスミスやその他の近代思想家から学べるものを学ぽうという姿勢が強いように思われます︒そうしなければ先

の述懐にいわれているように︑﹁強制的にもたされて否応無しに勉強﹂などという言葉はでてこないだろうと思われます︒した

がって高島先生の市民社会は g 巳

2 .

8

巳 i r

以来の西欧社会思想を取りまとめたものというよりは︑その発想の仕方が少し違

うように思われます︒それは日本の現状批判のための反対用語︑さらには日本の社会を主体的に作り上げて行くための理念的な

社会像として独自な性格を持たされているのではないかと思われます︒戦後においては先生はこの主体的な国造りの方途を﹁市

民社会化とは民主化のことだ﹂ともいっておられます︒この点を考慮して巳

i ‑

という言葉を OED で見てみますと︑シヴィル

という言葉は普通の資質をもった市民に関する事柄をさすから︑特別な部門を表すさまざまな言葉から区別され︑一つの反対用

( 5 m

a 丘 一 S Z

コロ)としてしばしばこれに対立させられる︑とあります︒それで野蛮(スミスにおいては封建制は野蛮であり

暴力的な統治です)︑刑事的︑軍事的︑社会的︑宗教的等々に対する反対用語だという用例が示されています︒このような語感

もまた先生の市民社会の理念の中に含まれているように思います︒

しかし先ほどの思い出話の中にありますように︑﹁市民的﹂とか﹁市民社会﹂ということは︑先生御自身﹁夢にも思わなかっ

1 7  

(19)

た﹂ようなことであり︑﹁日本には:::ない﹂ような事態だったわりですから︑この言葉は先生が期待されたほどに広範な市民

権を獲得できなかったかも知れません︒しかし封建遺制や軍国主義や言論統制の野蛮に対する批判や反対日シヴィル化 H

シ ヴ

リゼイションという意味では︑なにもことさら﹁市民社会﹂の用語を使わないでも︑実質的には共通の運動が行われているわけ

であります︒先生はこのことを踏まえて戦後の段階では﹁市民社会化とは民主化のことだ﹂といっておられたわけであります︒

そして戦後の日本の民主化の運動のなかで︑高島先生を含むところの市民社会論が大きな役割を果たしたことは言うまでもあり

ま せ

ん ︒

( 同

六 六

ー 六

七 頁

) ︒

遺憾ながら私は未だ先生の著作集全集を読み通してはいない︒水田氏や和田氏ほかの論考を参照しつつ︑全巻通読の作業を経

た上での私なりの高島市民社会論の成稿は他日を期したい︒

( 6 )

今井氏はその後この考えを次の編著のなかで一層詳しく展開されている︒今井弘道編﹁新市民社会論﹄(風行社︑二

OO

一 年

)

とくに同氏執筆の第一︑第一一章を参照されたい︒

( 7 )

因みに私は最近︑ポッピオの死にあたり︑﹁追悼﹂の意をこめて次の一文を公表したのであるが本文の論理を敷術していると

思うのでご参看いただげれば幸いである︒︹研究ノ l

ト︺﹁ノルベルト・ボツピオの﹃提言﹄についての覚え書﹂(﹃週刊読書人﹄

二 OO

四 年

一 二

月 一

O 日

号 )

︒ ( 8 )

その一端については︑平田氏の逝去の際の追悼文﹁グラムシ︑大学改革︑そして市民社会ー故平田清明先生の思い出│﹂ほか

の拙稿を参照されたい︒(拙著﹁増補・市民社会と生涯学習ー自分史のなかに﹁教育﹂を読む﹄明石書底︑二

OO

二年︑二三八

ー 二

五 九

頁 )

( 9 )

この折の講演は﹁平田清明 i 人と学問﹂と題されて︑本文では指摘した八木紀一郎ほか編著﹃復権する市民社会論﹄(日本評

論社︑一九九八年)に収録されている︒

(叩)水田洋氏の市民社会論について触れておきたい︒同氏のスミス研究から勘考して主題的研究があるかと考えるが︑遺憾ながら

いまのところ確かめていない︒しかし︑大枠は本文で引用した講演でも理解できる︒さらに同氏自身の考えをやはり講演という

かたちで展開されている﹁市民社会論﹂も参考になる(講演は一九八一年一二月七日︑於関東学院大学︒後に﹁市民社会論﹂と

題して︑関東学院大学経済学会研究論集﹃経済系﹄第一三四集︑一九八二年一二月に収録︒この﹁抜刷﹂を水田氏から直接恵送

さ れ

た ︒

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礼 申

し 上

げ る

) ︒

(20)

自分史のなかに「市民社会jを読む

ここではいかにも文献主義者の同氏らしく︑ヨーロッパの文献を駆使して市民社会の語義についての文献考証が行われている

ので後進としては大いに参考になる︒もとより私はそれを逐一検証できないが︑そのなかに︑同氏がへ 1 ゲルの﹁市民社会﹂と

の関連でアント l ニオ・デ・ジュリア l ニについて言及していることについて興味を引かれた︒水田氏によれば︑この人はへ l

ゲルより少し年長で一七五五 1 一八三四年まで生きた︑トリエステ出身のウィーンの官僚とのことである︒この人がオーストリ

ア皇帝の命でイタリアの巡察を行い︑そこでフィレンツェその他の当時の大都会の退廃状況を観察したものが﹁市民社会の変遷

に関する政治論考﹂なる論文である︒私はこの文献を一橋大学の関啓子氏のご助力で一橋大学図書館から借り出していただき卒

読した︒水田氏の指摘するように︑当時の大都会(一七九一年にウィーンでイタリア語版が公刊されたとの由)の様子︑それに

対する危機意識の一端は生々しく叙述されているにしても︑それ以上の示唆を受けることはなかった︒これまた︑水田氏が述べ

ているように︑へ l ゲルがその市民社会の悲惨さについてこの文献を参照した(確証はないがドイツ語訳も同じ年(一七九一

年)にライプツ化で出たということであれば)ことは推察される︒しかし︑要するにそれだけのことであるように私には思われ

る︒ただし︑へ l ゲルの市民社会の叙述との比較考証はいずれ機会を改めたい︒

もう一点は︑水田氏がマルクスの市民社会について﹁マルクスの市民社会概念はへ I ゲルの場合と同じような意味で︑ネガテ

ィ l フな概念であると考えていいのではないでしょうか﹂と述べ︑その文脈のなかで︑戦中の日本における訳語(検閲を逃れる

ために﹁資本主義社会﹂あるいは﹁ブルジョア社会﹂を﹁市民社会﹂と言い換えたこと)にも言及されている︒そのような経緯

を経て︑戦後の日本の﹁市民社会﹂は︑ヨーロッパの概念とはニュアンスの異なった様相をおびることになったと言い︑次のよ

うに結論されている︒

﹁市民社会﹂は﹁私有財産とともにふるい市民社会でも︑へ l ゲルリマルクス的な否定されるべきブルジョア社会でもなく︑

日本独特の市民社会なんです︒歴史的用語法からすれば逸脱にちがいないが︑しかし︑日本にそのように定着したというのは︑

やはり︑そういう日本になかった︑日本が経過すべくして経過しなかった民主主義というものを求めるという方向が(日本の)

マルクス主義の中にも潜んでいて︑それが戦後に開花したのではないかと思います﹂(前掲﹁抜刷﹂)

以上の見解は次の発言とも照応するであろう︒

﹁高島なしには内田(義彦)なしといえるふたりの市民社会論には︑もうひとつ見逃すことができない共通点があります︒そ

れは︑コミンテルンの日本にかんするテ!ゼ(二七テ l ぜおよび三二テ l ゼ)の影響︑あるいはそれを展開しようとした﹃日本

1 9  

(21)

資本主義発達史講座﹄の影響です︒封建遺制のもとにある日本社会を︑プルジョワ民主主義革命を経由して社会主義革命へとい

う︑二段革命の第一段に市民社会は位置づけられていました︒しかしそれは︑経過点ではあっても当面の目標であったのです︒

やがてそれが究極目標である社会主義社会をさえ規定することになるのですが︑そのことは当時は意識されていなかったとおも

います︒一九三 0 年代の日本の知識人のおおくをひきつけたマルクス主義は︑高島・内田市民社会論が表現したような市民社会

の満面開花のうえに築かれる社会主義社会を待望するものであったといっていいのではないでしょうか︒﹂(注

( 1 ) 前

掲 書

参 照

) ︒

(日)高畠氏はその中心的論客としてジョン・キ l

ンを挙げ次の書を引用している︒﹄︒甘口問

g 号 ︑

c i ‑

∞ R

佐 々 ー

C E

‑ s m m

g

z o d

﹃ ヨ

位 ︒

ω

E C

∞ ︑ 同 }

︒ 富 山 可

p o

l g ︒ただし︑高畠編著の第二章﹁戦後市民社会論再考﹂を担当した松本礼二氏はこのキ

ン の

書に注で触れて次のように述べている︒﹁日本の市民社会論の原点として戦中のスミス研究を無視しており︑戦後の知的状況の

中で︑﹃市民社会﹄がマルクス主義者と左派リベラルとの共通言語となった事情が汲み取られていない﹂(前掲書︑二九八│二九

九頁)︒肯繋にあたると思う指摘であるが︑キーンの理説の詳しい紹介︑検討については稿を改めたい︒

(ロ)プラグマテイストの市民社会論については主題的に勉強していないがさしあたって私が興味深く呼んだものとしては次のよう

な 著

書 が

あ る

︒ 久野収﹃市民主義の立場から﹄(平凡社︑一九九一年)︑

村上義雄﹁人間久野収﹄(平凡社︑二

OO

二 年

)

小田実の関係書は多いが小論にとってとくに示唆的なものとして﹃われ H われの哲学﹄(岩波書庖︑一九八六年)が参考にな

る︒小田実氏は私にとって魅力的な人物の一人であるのでこれまでも何冊かの書を読み︑エッセイ風の論稿にも多くを学んだ︒

いづれ︑﹁市民﹂概念を視軸にしっかりと読み直したいと念ずる︒近刊の同氏の書から﹁市民﹂の定義を断片的ではあるが引用

しておく︒﹁市民はいつも力弱くて︑それが何であれ︑強い長いものに巻かれる︑しかし︑巻かれながら巻き返す︑うまく行く

かどうか判らないがそう懸命に努力する人間だ﹂︒﹁︽

gR

め ﹃

ロ 包

t 巳 N S ︾というひところはやった英語の言い方がある︒︽巳片山'

NO

ロ ︾

は ﹃

市 民

﹄ だ

が ︑

︽ g

R 0 5 0 5

はどう訳すか︒:::問題解決にたちむかう志をもっ︑実際その志を実行に移す i それがあ

っ て

の ︽

g R o s

五年︑ニ七五頁))︒なお︑最近の同氏の上田耕一郎氏との特別対談も参考になる︒小田実・上田耕一郎﹁戦争と戦後六 O O ︾だ︒まとめて言って﹃憂慮し︑志ある市民﹄﹂(小田実﹃西雷東騒︽思索と発現:::2︾﹄(岩波書店︑ニ O a

年 ・

憲 法

九 条

を 守

る た

め に

﹂ (

﹃ 経

済 ﹄

Z ︒

H

出︑新日本出版社︑二

OO

五 年

O

月 ) ︒

(22)

自分史のなかに「市民社会 J を読む

2 1  

(日)戦後日本の市民主義の理論的バックボーンの一人として松下圭一氏を挙げることに異存はないだろう︒その代表的論文は︑

﹁︿市民﹀的人間型の現代的可能性﹂(﹃思想﹄一九六六年六月号︑後に﹃戦後政治の歴史と思想﹄筑摩書房︑に所収)︒最近の同

氏の著書(﹃政治・行政の考え方﹄岩波書庄︑ニ

OO

二年)に関する私見については︑拙稿﹁憲法の﹁民治﹄的脱構築ー松下圭

一さんの近著から学ぶ!﹂(国民教育文化総合研究所編﹃教育と文化﹄二九号︑アドバンテージサーバー︑二

O

O 二

年 ︑

﹀巴H

d 冨

Z )

参照︒松下氏の業績は︑戦後市民社会の具体的展開としていずれ主題的に学び︑論たいと念ずる︒

(比)本文でも記したが要点はデモクラシーの二つの回路の提言である︒第一の回路は︑﹁伝統的な代議制デモクラシー﹂であり︑

第二の回路は︑﹁市民社会を中心とした民衆(デモス)による参加と討議のデモクラシー﹂である(同一八八頁)︒

(日)たとえば次の指摘は重要であろう︒﹁レフェレンダムについていえば︑それが権力的地位にある者の窓意によって左右される

場合は︑極端にいえば︑ナチ体制のように︑デモクラシーと相反するものとなる可能性がある︒ポピュリズムの傾向が発生して

いる今日︑その点十分な注意が必要であろう︒そこで︑こういう直接民主制が行われる場合には︑市民による請求の手続きを簡

素化するとともに︑市民間の討議が重要視され︑またそれを保障するル l ルと制度がつくられなければならないであろう

0

為政者が自分の政策を通すために︑上から︑十分な情報提供なしに行われる住民投票は操作的とされ︑正統性をうる乙とができ

ない︒つまり︑参加の過程に討議の要素を導入することによって︑両デモクラシー(注(日)の二つのデモクラシーー黒沢)を接

合させることが求められるのである﹂(一八六ー一八七頁)︒因みに︑篠原氏の提言と関連して次の小田氏の提言と自らの実践の

説明も大変参考になるのでやや長いが引用する︒

﹁まず︑民主主義政治とは何か︒そこから考えなおしてみよう︒それは﹃主権在民﹄の政治だと︑私は大きくその基本をまと

める︒その基本を支えるのが・自由であり︑平等であり︑人権だ︒そして︑﹁主権在民﹂の政治を実現する手だてのひとつとして︑

議会制民主主義があり︑議会制民主主義の制度に基づいて︑自分の政治参加の﹃代行者﹄として議員を選ぶ選挙を行ない︑市民

の﹃代行者﹄として選ばれた議員が︑その﹁代行﹂をより効果的に実現するために集まって政党をつくり︑政党が集まって政党

政治をかたちづくるーーそのはずだ︒

ここでまず私が指摘しておきたいのは︑ここで書いて来た順序を︑まず政党があって︑次にそのもととなる議員がいて︑その

はるかかなたに市民がいるというぐあいに逆にしてはならないことだ︒そして︑さらにもうひとつ指摘しておきたいのは︑こう

した議会制民主主義は︑重要な手だてではあっても︑それがあくまで﹃主権在民﹄の政治実現の手だてのひとつにしかすぎない

(23)

2 2  

ことだ︒手だては他にいくつもある︒住民投票もそのひとつなら︑市民が抗議集会に集まり︑デモ行進をし︑ストライキをし︑

ついにはみんなが街頭に出て︑政府︑議会を包囲するというのも重要な手だてのひとつだ︒選挙での敗北後も政権の座に居すわ

ろうとしたユーゴスラビアの大統領を退任に追いやった市民の街頭行動は︑もっとも最近のこの手だての実践の実例だった︒

ここで書いておきたいのは︑この二つの私が指摘したことにおいて︑日本の政治がとうてい﹃先進国﹄とは言えないようなひ

どいものとしてあることだ︒まず︑議会制民主主義において︑順序の逆転はあまりにも大きい︒そこでは︑政党政治はのさば

り︑したい放題のことをやってのけるが︑かんじんの市民の姿はまったく見えない︒そして︑後者の市民の﹃主権在民﹄の政治

実現への直接的手だてをこれほど認めていない﹃先進国﹄はないにちがいない︒住民投票の結果は今もって法的に無視していい

ものとしてある︒

( 時 )

ただ︑もう少し根本的に言うと︑政党が政策を決めて︑それを選挙ごとに市民に提示して︑あるいは︑押しつけて政党にぞく

する候補を選ばせるというかたちでの順序の逆転は︑今︑民主主義政治を標梼する国のすべてにみられることだ︒民主主義政治

の基盤となる法律の制定も政策の立案も︑その順序の逆転のなかで行なわれて︑市民はただその可否を問われる存在でしかな

い︒それは決して﹁主権在民﹂の政治ではない︒法律をつくることから︑政策を立案することから︑なぜ︑市民が参加しないの

か︑できないのか︒

私が提案者となって﹃阪神・淡路大震災﹄の被災地で被災した市民たちとともに四年前に始めた︑被災者に﹃公的援助﹄を求

める﹃市民H議員立法﹄運動は︑ささやかながら︑こうした順序逆転のあり方を変えようとする運動だった︒

市民が被災者として自分たちの問題解決のための法律を市民発議の﹃市民立法﹄としてかたちづくり︑その﹃市民立法﹄に賛

同した超党派の議員がさらにそれを﹁議員立法﹄にねり上げて議会に提出して実現をはかるというかたちで運動は展開されたの

だが︑その過程でおのずとでき上がっていたのが︑その法案にかかわっての﹃市民日議員立法﹄党だった︒同じやり方で A

と い

う問題について︑市民・議員共闘の﹃ A 市民H議員立法﹄党︑ B について﹃ B 市民H議員立法﹄党ができれば︑そのあいだを議

員が問題ごとに市民とともに自由に動けば︑これまでの順序逆転の政党政治を乗り越えた﹃主権在民﹄の政治ができ上がる!!

とは︑私のみならず︑議員といっしょに運動をかたちづくった市民が考えたことだ︒﹂(前掲注(ロ)小田書四九!五 O

頁 )

著者と読者との﹁回路﹂を重視し︑この問題を﹁作品としての社会科学﹂として考え︑市民社会形成の一方法として提唱したの

は内田義彦氏であることも記しておきたい︒(前掲注

( 3 )

山田論文︑﹁作品としての社会科学﹂︑九九ー一 O

一 頁

︑ が

参 考

に な

る )

参照

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