はじめに
■■■■ll l Ju
政権の成立と金銀山‑鉱山間における移動と交流から‑
本稿では慶長期の徳川氏直轄領の鉱山における'鉱山技術者や役人の
移動について考察する。近世鉱山史の研究には小葉田淳氏の﹃日本鉱山(‑)史の研究﹄をはじめ'田中圭一氏や村上直氏らの業績があって'特に鉱(2)山をめぐる交流に関しては'鉱山への物資供給に関する研究や'鉱山町︻r・)を中心に商人や労働者の動きについてみたものがある。しかし鉱山技術
者の移動を取り上げた研究は'技術交流や鉱山開発のために不可欠であ
るにも関わらず少ないと言えよう。
そこで本稿では'特に石見'佐渡'伊豆'生野銀山を取り上げ'鉱山
に関わる人々の移動の様子を検討してその特質を明らかにLtその上で
徳川氏直轄領鉱山の実態として'技術伝播と鉱山内の様子と移動に着目
して考察していく。
一慶長五‑九年における鉱山支配と移動
慶長五(一六〇〇)年九月の関ケ原合戦後'家康は石見'佐渡'生野 土谷紘子
銀山を接収して直轄領とした(地図①参照)。これらは十六世紀から開
発が始まり'莫大な銀産出量を有していた重要な鉱山であった。本項で
は徳川氏による鉱山支配が始まった慶長五年から九年までの'徳川氏の
直轄領鉱山支配とそこで生じた移動について検討し'はじめに直轄領銀
山の支配について見る。まず石見銀山の支配については'
1'銀山支配之儀'慶長玉子年以前は碇と相知れ不申候得共'厳粛山川魂射出り九九楓有風潮銀山劃村謝側軸'延宝三卯年永田作太
夫迄七十五ヶ年の間奉行所にて'同年柘植伝兵衛より御代官に(1・)相成'昔時迄御代官所に御座候'(傍線筆者'以下同)
とある。傍線部のように家康は慶長六年'大久保長安を銀山奉行とし
て石見銀山の支配に当らせた。長安は甲州出身で武田蔵前衆の一員であ
った。蔵前衆とは甲州の代官で'領内蔵人地の年貢諸役の収納'土木治
水'鉱山開発などを行い'蔵人地全般の支配に当った。特に鉱山開発に
おいては'黒川'保など各金山の金山衆とともに鉱山開発と管理を行っ
た。金山衆が金山を直接稼行'開発したのに対し'蔵前衆は金山管理のBJ・凸続括的な掌握を担当した。長安は後に佐渡銀山'伊豆金山も直接支配す
ることになり'徳川氏の鉱山政策の中心となる。また生野銀山の支配に
ついて'﹃生野銀山旧記﹄には次のようにある。(前略)天正十一戊成年まて十七年、伊藤石見守殿御支配、此再剥
柴秀吉公'伏見の城にて募去、東照神君の御奉行として服部権太夫
笥矧刃、二年御支配、笥1(・J,)回力対斜面封封再刊」利鞘御製矧、(後略)
生野銀山奉行には大久保長安ではなく間宮彦次郎、つまり新左衛門直
元が任命された。間宮は北条氏の旧臣である。﹃寛政重修諸家譜﹄には、
間宮が慶長三年に但馬の代官となったとあるが'生野銀山奉行就任は(7)﹃生野銀山旧記﹄にある通り慶長五年である。家康は慶長三年に秀吉が
死ぬと、服部権大夫を生野銀山の奉行とした。こうすることで家康は秀
吉の直轄領であった生野銀山を秀吉から引き継ぐ形で支配したのである。
服部権大夫は政光を指すと考えられ、彼の父は永禄三二五六〇)年に(・I)岡崎で家康に召抱えられた。そして同五年、家康が生野銀山を領有して
から間宮新左衛門を生野銀山奉行として銀山支配、経営を行わせた。以
上のように、徳川氏直轄領鉱山の支配は石見、佐渡'伊豆の銀山は大久
保長安'生野銀山は間宮新左衛門がそれぞれ行うことになった。
直轄領鉱山の支配体制を踏まえて'次に鉱山をめぐる人間の移動の実
態を見る。慶長五年から六年にかけて、大久保長安は石見銀山で地役人
を召抱えた。地役人とは毛利時代から石見銀山の支配、経営に当ってい
た者を言う。毛利時代の書状には、地役人として今井越中守、吉岡隼人、(9)宗岡弥右衛門、熱田平右衛門'惣内吉兵衛、石田喜右衛門の名が見え、
このうち長安の銀山奉行就任後も長安に仕えたのは、今井'吉岡、宗岡
であった。特に吉岡隼人(出雲)'宗岡弥右衛門(佐渡)は長安の手代 となり、銀山支配において重要な役割を果した。彼らの役割には銀山の
支配や経営の他、次のような役目もあった。(前略)此石見守と中は東照神君より六十線州金銀山の奉行たるべ
き旨仰を蒙り居給ひ'諸国金銀山興衰の訴有る時は、公方より富国
に扶持し置給ふ諸亡の内銀山の事に絹るものを11諸岡に馳行しめ給(̲o)刃。其行時は必御朱印を頂戴すO(後略)
このように吉岡ら長安手代は、金銀山興表の情報に基づいて、各地へ
赴き鉱山の調査を行った。そしてその際には、次のような伝馬朱印状を
家康から下賜された。
伝馬二疋、自江戸伊豆ゆか嶋まて上下可出者也、慶長六年十二月≡(‖)日'右宿中
この伝馬朱印状は吉岡隼人にあてたもので'江戸から伊豆の湯ケ嶋ま
で伝馬を出し、家康は彼に伊豆金山の調査を行わせたと見られる。徳川
氏の鉱山政策のもとでは、長安の手代による鉱山調査も行われるように
なったのである。そして慶長八年からは徳川氏直轄領鉱山の間で、技術
者や役人を相互に往来させるようになる。それは同年に大久保長安が佐
渡奉行に任命され'彼が石見、佐渡銀山の支配をはじめたことによる0
この時長安はまず、宗岡佐渡、大久保山城、小宮山民部らを日代として(12)佐渡銀山へ派遣した。この後も佐渡、石見銀山間では様々な交流が生じ
た。続いてこの両銀山間における人間の移動について具体的に検討する。
まず、年未詳(慶長八年か)十一月十五日付の大久保長安書状を次に引
用しよう。
覚
二 其 元 諸 山 不 相 替 錘 出 候 由 ' 尤 二 侯 ' 弥 入 精 可 被 申 候 事 '
二 九 月 分 諸 役 一 紙 披 見 候 ' 今 度 何 も 方 々 へ 指 遣 候 間 ' 定 而 其 元 万
事 可 為 由 断 候 条 ' 口 屋 ' 汲 銀 ' 諸 役 等 入 念 可 被 申 候 '
一 、 銀 吹 ミ 之 や う す 可 中 越 候 、 満 足 申 候 様 無 由 断 吹 可 被 申 侯 事 '
一 ㌧ 増 外 記 同 道 候 て 波 根 筋 へ 被 参 候 由 ' 尤 二 候 事 '
∫一
㌧佐 州 銀 ' 日 を 追 而 盛 候 由 大 慶 二 候 、 定 而 其 元 こ て も 可 為 祝 着 候 '
来 春 二 舟 も 越 候 間 ' 其 元 も 1 か と 入 精 候 舟 之 支 度 可 被 申 付 候 事 t
② T 、 笥 刊
司 刊 ' (̲3 ) 以 上 ' 霜 月 十 五 日 、 大 石 見 (花 押 ) ' 吉 岡 右 近 殿 ' 参 '
こ れ は 大 久 保 長 安 が 石 見 銀 山 陣 屋 に い る 吉 岡 右 近 に あ て た 書 状 で あ る 。
長 安 支 配 下 の 銀 山 を 各 陣 屋 で 直 接 支 配 ' 経 営 し て い た の は 長 安 自 身 で は
な く ' 吉 岡 右 近 の よ う な 手 代 で あ っ た 。 長 安 は 陣 屋 か ら 銀 山 の 状 況 に 関
す る 報 告 を 受 け て い た 。 そ れ は 史 料 中 の 「九 月 分 諸 役 一 紙 披 見 侯 」、 「銀
吹 ミ 之 や う す 可 中 越 候 」 な ど の 文 言 か ら も わ か る よ う に ' こ の よ う な 報
告 を う け て ' 長 安 は 銀 山 経 営 に 関 す る 指 示 を 陣 屋 へ 出 し た 。 そ れ が 右 の
よ う な 書 状 で あ る 。 こ の う ち 、 傍 線 ① か ら 佐 渡 銀 山 の 産 銀 が 好 調 で あ る
こ と が 窺 わ れ る 。 そ し て 傍 線 ② で は ' 佐 渡 銀 山 か ら 吉 岡 出 雲 が ' 用 事 の
た め に 今 井 金 右 衛 門 を 石 見 へ 向 わ せ る こ と を 伝 え て い る 。 石 見 銀 山 の 也
役 人 出 身 の 吉 岡 出 雲 は ' 慶 長 八 年 十 一 月 の 時 点 で 佐 渡 銀 山 に 渡 っ て い た 。
そ し て 用 事 の た め に 今 井 金 右 衛 門 を 佐 渡 銀 山 か ら 石 見 銀 山 に 送 っ た 。 こ
れ は 銀 山 支 配 に 関 わ る 用 事 と 考 え ら れ ' 長 安 の 佐 渡 銀 山 直 接 支 配 に よ り ' 石 見 ' 佐 渡 銀 山 間 に お い て 長 安 手 代 の 派 遣 や 連 絡 の 往 来 が 生 じ た の で あ
る 。
慶 長 九 年 四 月 に は 長 安 自 身 が 佐 渡 銀 山 へ 渡 海 L t 銀 山 を 見 分 し た 。 こ
の 時 ' 佐 渡 銀 山 支 配 の 仕 法 が 以 前 と 比 べ て 大 き く 変 わ っ た 。 中 で も 特 徴
的 な 変 化 と し て は 支 配 機 構 の 整 備 ' 銀 山 経 営 法 の 革 新 が あ げ ら れ る 。 ま
ず ' 大 久 保 長 安 は 陣 屋 を 鶴 子 か ら 相 川 へ 移 し ' は じ め て 町 割 を 行 っ た (地 図 ② 参 照 )。 そ れ ま で の 相 川 の 様 子 に つ い て は ﹃ 佐 渡 風 土 記 ﹄ に '
相 川 府 中 と 成 ' 府 中 開 発 之 事 ' 銀 山 次 第 に 盛 出 る よ り ' 間 歩 口 数 袷
個 所 に 及 へ り ' 依 之 他 国 よ り 大 勢 来 り ' 所 縁 を 求 て 麦 に 住 ん 事 を 願
ふ 、 i Z迄 ID L か ‑ \ 家 居 も 下 Jit J、 銀 山 を か せ . \昔 は 、 某 所 .Ll 於 て は .
へ 木 を 伐 、 共 を 以 て 堀 立 に 住 居 を 拓 ' 稼 所 変 あ れ は 崩 し ' 又 稼 所 に
山地 .刊 矧 矧 せ り ' 則 是 を 山 小 屋 と 云 、 其 後 人 家 定 り 家 居 と 成 事 は ' 去
年 依 台 命 、 大 久 保 石 見 守 富 国 奉 行 職 を 蒙 れ り ' 夫 迄 は 陣 屋 鶴 子 に 有
つ る 所 ' 同 年 ' 先 達 而 宗 岡 弥 右 衛 門 を 渡 し ' 陣 屋 を 相 川 江 移 す 事 に (; I な れ り ' (後 略 )
と あ る 。 相 川 銀 山 は 慶 長 六 年 に 鶴 子 銀 山 の 山 師 に よ っ て 発 見 さ れ た 。
そ れ 以 後 、 銀 山 開 発 が 進 み ' 各 地 か ら 人 が 大 勢 集 ま っ た 。 他 国 か ら 来 て
銀 山 を 稼 ぐ 者 は ' 傍 線 部 の よ う に 簡 単 な 住 居 を 建 て て 住 み 、 稼 行 場 所 が
変 わ る と 他 へ 移 っ て い っ た 。 鉱 山 労 働 者 は 常 に 移 動 す る 存 在 で あ っ た こ
と が こ こ で も 確 か め ら れ よ う 。 こ の よ う に 長 安 が 支 配 す る 前 は 短 期 間 の
銀 山 請 負 が 主 流 で あ っ た が ' 銀 山 発 見 か ら 三 年 が た ち ' 銀 山 の 規 模 も 大
き く な っ た こ と で ' 稼 行 も あ る 程 度 計 画 的 に 行 う 必 要 が 生 じ た 。 そ こ で
長 安 は ま ず ' 銀 山 支 配 の 拠 点 で あ る 陣 屋 を ' 当 時 の 稼 行 の 中 心 で あ っ た
相 川 に 移 し て 町 割 を 行 っ た の で あ る 。 さ ら に ﹃ 佐 渡 年 代 記 ﹄ に は 次 の よ
う な 記 事 が あ る 。
一 、 石 見 守 言 上 し て 、 浪 人 の 筋 目 を 乱 し 、 佐 州 へ 遺 し 、 夫 々 の 役 に
昔 つ 、 今 年 具 し 来 り し 者 の 内 ' 保 科 喜 右 衛 門 は 鶴 子 銀 山 を 預 り 、
堀 口 弥 右 衛 門 は 河 原 田 城 付 地 方 を 預 り 、 鳥 井 嘉 左 衛 門 は 夷 組 大
野 組 代 官 と な り 、 何 れ も 俸 米 百 俵 以 上 三 百 俵 迄 を 給 る と 云 、
又野 田 監 物 、 川 村 覚 助 と 云 も の を 、 相 川 の 町 奉 行 と す と い ふ (後 (15 ) 略 )
長 安 は 浪 人 を 佐 渡 銀 山 役 人 と し て 登 用 し 、 銀 山 奉 行 、 地 方 支 配 、 代 官
な ど 様 々 な 役 目 を 与 え た の で あ る 。 当 時 は 統 一 政 権 確 立 の 過 程 の 戦 乱 で
主 を 失 っ た 浪 人 が 多 く い て 、 そ の 中 に は 銀 山 の 支 配 、 経 営 に 有 用 な 者 も
含 ま れ て い た 。 延 享 三 ( 一 七 四 六 ) 年 、 佐 渡 銀 山 の 役 人 が 自 ら の 出 自 を
記 し て 奉 行 に 提 出 し た 「諸 役 人 先 祖 書 」 を 見 る と 、 「慶 長 九 辰 年 大 久 保
石 見 守 殿 御 支 配 之 節 被 召 出 」 と 、 慶 長 九 年 に 召 抱 え ら れ て 奉 公 を は じ め (16 ) た と い う 者 が 目 立 つ 。 ま た 佐 渡 銀 山 の 役 人 に は 石 見 や 甲 斐 出 身 の 者 が 多
い 。 「先 祖 書 」 に も 記 事 が あ り 、 引 用 し た ﹃ 佐 渡 年 代 記 ﹄ に も 見 え る 鶴
子 銀 山 代 官 と な っ た 保 科 喜 右 衛 門 は 長 安 と 同 様 、 武 田 蔵 前 衆 の 出 身 で あ (17 ) る 。 こ の よ う に 長 安 は 佐 渡 銀 山 の 支 配 機 構 を 新 た に 形 成 し た 。 こ の 時 、
各 地 の 由 緒 あ る 浪 人 を 役 人 と し て 佐 渡 銀 山 に 集 め た 。
次 に 、 銀 山 経 営 に 関 し て ﹃ 佐 渡 年 代 記 ﹄ 慶 長 九 年 条 を 見 る 。
一 、 金 銀 山 の 内 、 山 師 共 を 雇 ひ 、 御 入 用 を 以 穿 出 す 所 を 御 直 山 と 云 、
山 仕 の 入 用 を 以 稼 間 歩 を 自 分 山 と 云 ' 此 時 御 直 山 三 十 六 ヶ 所 有
て 、 右 の 山 仕 三 拾 六 人 へ 俸 米 百 俵 宛 を 輿 へ ' 炭 、 留 木 、 鉄 ' 松 蝋 燭 等 十 分 に 渡 せ L と 也 ' 此 山 仕 共 多 く は 伊 豆 石 見 よ り 来 り し
引 司 、 割 間 歩 を 始 め 数 十 ヶ 所 の 間 歩 々 々 弥 繁 昌 せ し に よ り 、 石
見 守 言 上 せ し に や 味 方 但 馬 ' 原 淡 路 、 西 山 丹 波 な と 云 山 仕 共 御 (E.L T 目 見 を も 被 仰 付 し と い ふ 、 (後 略 )
こ れ は 陣 屋 が 山 師 を 雇 っ て 直 接 経 営 を 行 う 御 直 山 を 制 定 し た 記 事 で あ
る が 、 こ れ に 対 し て 山 師 が 自 分 の 費 用 で 稼 ぐ 山 を 自 分 山 と 言 う 。 御 直 山
を 稼 ぐ 山 師 に は 、 採 鉱 に 必 要 な 道 具 や 俸 米 は 陣 屋 か ら 支 給 さ れ た 。 御 直
山 を 請 負 っ た の は 、 石 見 や 伊 豆 な ど 各 地 の 鉱 山 か ら 集 め ら れ た 優 れ た 山
師 達 で あ っ た 。 後 に 割 間 歩 の 稼 行 に 成 功 す る 味 方 但 馬 も こ の 時 佐 渡 へ 莱 (19 ) た 。 長 安 が 支 配 す る 以 前 の 佐 渡 銀 山 で は ' 前 に 引 用 し た ﹃ 佐 渡 風 土 記 ﹄
の 記 述 か ら も わ か る よ う に 、 短 期 間 の 稼 行 が 主 流 で あ っ た 。 そ れ は 短 期
間 の 内 に で き る だ け 多 く の 運 上 を あ げ る こ と を 条 件 に 稼 行 場 所 を 請 負 う (20 ) 形 態 で あ る 。 こ こ で は 山 師 た ち が 競 争 し て 採 鉱 に 当 た る た め 、 効 率 よ く
産 銀 量 を 増 加 で き た 。 そ の 反 面 、 水 抜 普 請 な ど 坑 道 の 手 入 れ が で き ず 、
ま た 乱 掘 に よ り 坑 道 が 荒 廃 し た 。 そ の た め 湧 水 に よ り 稼 行 で き な い 坑 道
も 出 て き た 。 そ こ で 長 安 は 水 抜 普 請 を 行 い な が ら 採 鉱 を 行 う た め に 御 直
山 を 定 め ' 他 の 鉱 山 か ら 招 い た 有 能 な 山 師 に 請 負 わ せ た の で あ る 。 ま た
石 見 銀 山 か ら は 鉱 山 労 働 者 も 招 い た 。 そ れ に 関 し て 慶 長 九 年 四 月 十 三 日
付 の 長 安 書 状 を 掲 げ よ う 。
覚
一 、 二 月 廿 八 日 、 三 月 八 日 之 壱 つ 書 、 何 連 も 披 見 、 本 望 之 事 '
一 、 其 元 五 吹 屋 井 諸 間 歩 、 諸 口 屋 被 入 精 由 ま ん そ く 申 候 事 '
一 、 銀 子 無 由 断 御 吹 候 由 尤 候 事 '
一㌧愛元金銀多わき候間'心安可被存侯事、
二此地様rもくわしく可申越候へ共'てこノ儀二付而tBt飛脚越
侯間'早申侯事'
以上'卯月十三日、大石見(花押)、吉岡右近殿へ'
追而我等安元:'い申侯内くつろけとして出雲近日井元へ可持越
候間、其元くわしく可申越侯'捌封観吋謝刃側パパ封剖竹JJ科u
引射出∪頭割u「判別ロヨ「u可視判例'由断あるましく侯'是計ニ(21)態飛脚をこし申侯'以上'
ここに見える「てこ」は手子を指し、「掘子」つまり掘大工の補助と(22)して坑内の雑用を行う子供である。手子は成長すると掘大工となり'本
格的に採鉱を行うのである。書状の中で長安は'佐渡の様子を詳しく報
告すべきではあるが、手子の件について石見銀山へ早飛脚を送ったので
急いで連絡が欲しいと書いている。長安による銀山経営法の革新'及び
それと並行して銀山の稼行が盛んになったため'佐渡銀山では採鉱労働
者が不足した。そこで長安は石見銀山から労働者を調達しようとしたの
である。このように'慶長八㌧九年の佐渡銀山では'石見銀山をはじめ
各地から銀山巧者や労働者を派遣し、その技術によって採鉱を行おうと
していた。これは長安の支配計画に基づく人材派遣であるが'これとは
別に鉱山労働者の自主的な移動も存在した。次にその様子と意義につい
て「草見立史料」から考えてみたい。
つるしの内遊白ふる間歩者'遊白五貫目山ふるまぶ二口おさらへ可
利腐"d割引習可利上側'我等しんろう分
儀ハ石州銀山かなこなみこ可被下候'若油断仕候ハハ'御山めLは なさるへく侯、以上、(23)たつ卯月八日Lやうないぬいのしゃう印「草見立」とは'鉱石のありそうな場所を見立て'希望の稼行場所を
申請することをいう。引用した史料には「我等しんろう分之儀ハ石州銀
山かなこなみこ可被下侯」とある。「しんろう」とは石見銀山において
鉱石発見までに要した費用に応じた鍵を運上なしで掘り取る制度である。
ここから彼はかつて石見銀山にいたとも考えられる。そして傍線部より、
この者は「つるしの内遊白ふる間歩」を見立て'稼行場所として申請し
た。遊白とは山師の備前遊白をさすと見られる。彼は慶長九年の時点で
相川にいることは'﹃佐渡年代記﹄慶長九年条の記述からわかる。
一㌧相川銀山初りてより'他国もの移敷来り住居す'町々の名多く
は住居の者の名を取て唱ふ'庄右衛門町は山仕大坂庄右衛門任
し'宗徳町は田中宗徳か家あり'諏訪町は信州諏訪の者来りて
任し、大工町四十物町は鶴子銀山に在し大工町四十物町の者莱(24)りて任し(中略)列剖相月Jl風樹仙習矧山コ矧'(後略)
ここでは相川町の町名の由来を記している。その中に備前遊白が住ん
だという夕白町の名があって'ここで慶長九年までに'遊白は鶴子から
相川に移住したと考えられる。そこで「Lやうないぬいのしやう」は'
遊白がかつて稼いでいた鶴子銀山の坑道を再び稼行しようとしている0
つまりここでは山師達に自由に山を見立てさせ'短期間の請負をさせる
ことで'新しい坑道の発見、また古い坑道の再開発を試みたのである0
慶長五年の銀山接収以後'徳川氏は直轄領鉱山の支配を始めた。このと
き鉱山労働者の自由な移動に加え'長安や家康ら鉱山支配者の意図に塞