ウイグルの対唐政策
林俊雄
はじめに
ウ イ グル の対 唐 政 策 111
旬奴以来︑突厭に至るまで︑モンゴル高原に興った遊牧国家は例外なく中国の北辺に侵入し︑掠奪を繰り返してきた︒
旬奴の場合︑前二〇九年から後七五年までの二八四年間に入冠が確実にあった年は約七〇を数え︑推定では一〇〇を優に
越える(林︑一九八三a︑年表)︒鮮卑(後九七〜一八七年)では九一年間に入冠があった年は四一を数え︑柔然(三九八ー五
五五年)では一五八年間に三三を数える(林︑一九八三b︑年表)︒また第一突廠(五四二〜六一二〇年)では八九年間に三三を
数え︑第二突厭(六八二ー七四一年)の六〇年間に一九を数える(=﹀曵︾G︒=H仏08らb.一罐‑一︒︒斜)︒一年に何回も入冠した年も
あり︑従って実際の入冠回数は上記の数字よりもさらに多くなるのである︒
ところが︑突廠を倒してモンゴル高原の覇権を握ったウイグル(七四四〜八四〇)と唐との関係を見てみると︑以前の遊
牧国家に見られたような犯塞入冠というパターンはほとんど見られず︑その代わり朝貢・互市という形の関係ばかりが目
につく(本論文添付の年表参照)︒このような変化の︑よってきたるゆえんは何か︑それを考えてみたい︒
ニウイグルの入冠
ごく少ない回数ではあるが︑ウイグル(﹃旧唐書﹄では廻絋・廻鵤︑﹃新唐書﹄・﹃資治通鑑﹄では回純・回鵤と表記)も入冠な
いし入冠未遂事件を起こしている︒まず最初にそれらの事例を検討して︑実際に何回入冠が行われたのか︑そしてその入
冠にはどのような特徴が見られるのかを明らかにしていきたい︒
①ウイグルの最初の入冠は︑広徳二年(七六四)とその翌年に記録されている︒二回とも︑唐朝に対して反乱を起こ
した僕固懐恩に誘われてのものであった︒僕固氏はもともと鉄勒九姓の一つで︑唐初に唐に帰属した︒その首領であった
僕固懐恩は安史の乱が起こると反乱軍討伐に力を尽くし︑またウイグルからの援助を求めるために使者となり︑自らの娘
を牟羽可汗に嫁がせてもいた︒しかし高位高官にのぼったことから漢人官僚の妬みをかい︑ついに唐朝に対して反乱を起
こすはめにおちいってしまった︒
﹃資治通鑑﹄によれば︑広徳二年八月に僕固懐恩は回紀・吐蕃十万を引き入れて入冠の構えを示し︑九月には吐蕃が那
州に迫った︒十月には回絋・吐蕃を引いて邪州から奉天にまで迫ったが︑結局城をおとすことができずに退却した︑とあ
る︒
︹史料{︺広徳二年⁝⁝八月⁝⁝会浬原奏︑僕固懐恩引回絋・吐蕃十万衆将入冠︒⁝⁝九月⁝⁝︹郭︺子儀聞吐蕃逼
邪州︒⁝⁝己未︑剣南節度使厳武︑破吐蕃七万衆︑抜当狗城︒⁝⁝冬︑十月︑懐恩引回絋・吐蕃至邪州︑白孝徳・郭
晴閉城拒守︒庚午︑厳武抜吐蕃盤川城︒僕固懐恩与回絋・吐蕃進逼奉天︑京師戒厳︒⁝⁝虜至邪州︑丁丑︑攻之︑不
克︒乙酉︑虜渉浬而遁︒(﹃資治通鑑﹄巻二二三)
ll3 ウ イ グルの対唐 政 策
この侵入状況に関する記述は﹃旧唐書﹄﹁郭子儀伝﹂とほぼ同じであり︑ただ後者では吐蕃と廻絋以外に党項が加わ
り︑計数十万となっている点で異なるだけである︹史料二︺︒また郭子儀の息子である郭晴の伝では︑吐蕃と廻統だけで
ある︹史料三︺︒
︹史料二︺(広徳二年)十月︑僕固懐恩誘吐蕃・廻乾・党項数十万南下︒⁝⁝虜冠那州︒(﹃旧唐書﹄巻一二〇﹁郭子儀
伝﹂)
︹史料三︺広徳二年︑僕固懐恩誘吐蕃・廻絋入冠︒(﹃旧唐書﹄巻一二〇﹁郭晴伝﹂)
いずれにしても︑吐蕃と回絋が加わっていたことは共通している︒ところが︑﹃旧唐書﹄﹁代宗本紀﹂によれば︑僕固懐
恩が引いてきたのは吐蕃二万だけで︑廻絋の名は見られない︹史料四︺︒また同書﹁僕固懐恩伝﹂︑﹁廻統伝﹂︑﹁吐蕃伝﹂
も︑入数こそ異なるが︑廻絋を含めていないという点では一致している︹史料五〜七︺︒さらに﹃冊府元亀﹄にも吐蕃の
名しか見られない︹史料八︺︒
︹史料四︺(広徳)二年⁝⁝冬十月︑丙寅︑僕固懐恩引吐蕃二万冠邪州︑節度使白孝徳閉城拒守︒丁卯︑冠奉天︑京
師戒厳︒⁝⁝十一月︑乙未︑懐恩与蕃軍自潰︑京師解厳︒(﹃旧唐書﹄巻+一﹁代宗本紀﹂)
︹史料五︺(広徳二年)秋為郷導︑誘吐蕃十万人冠浬・那州(﹃旧唐書﹄巻一二一﹁僕固懐恩伝﹂)
︹史料六︺尋而懐恩叛︑投霊武︒⁝⁝広徳二年秋︑乃引吐蕃之衆数万入至奉天県︒(﹃旧唐書﹄巻一九五﹁廻絋伝﹂)
︹史料七︺(広徳)二年⁝⁝九月︑叛将僕射・大寧郡王僕固懐恩自霊武遣其党萢志誠・任敷等引吐蕃・吐谷渾之衆来
犯王畿︒⁝⁝十一月︑僕固懐恩引吐蕃之衆退︒(﹃旧唐書﹄巻一九六上﹁吐蕃伝﹂)
︹史料八︺広徳二年⁝⁝是月︹十月︺︑吐蕃冠邪州︒朔方兵馬使左散騎嘗侍郭晴遣馬歩三千於邪州西︑夜斬賊営︑殺
千余人・生檎八十三・大俘大将四人・馬四百匹︒(﹃冊府元亀﹄巻九八七)
以上のことから︑後述する翌年の侵入軍のように︑ウイグルは後方に控えていて実戦には参加せず︑唐軍と戦父を交え
たのは吐蕃だけだったと考えられる︒
②翌年︑永泰元年(七六五)の侵入にウイグルが参加していたことは︑諸書ともに一致している︒﹃資治通鑑﹄によれ
ば︑まず九月に僕固懐恩が回統・吐蕃・吐谷渾︹﹃旧唐書﹄巻一二〇﹁郭子儀伝﹂︑同巻一一四﹁周智光伝﹂では莞渾︺・
党項・奴刺数十万を誘って入冠した︹史料九︺︒しかしウイグルと僕固懐恩の朔方の兵は後方に控えており︑この時実際
に唐軍と戦ったのは︑吐蕃と党項だけだったようである︒十月にはいるとウイグルも入冠してきたが︑僕固懐恩の死を知
ると︑吐蕃と指導権を争って別々に営塁を築くほどであった(﹃旧唐書﹄﹁吐蕃伝﹂)︒
このような状況を知ると郭子儀は離間策を講じて摩下の将軍をウイグル軍陣地へ派遣したが信用されず︑結局子儀本人
が単身武具もつけずにウイグルのもとに赴いて誠意を示し︑彼らを味方につけることに成功して︑ついにウイグルととも
に吐蕃を撃退した︒そしてウイグルは︑吐蕃撃退に対する褒賞として繕串十万匹を賜わった︒かくして︑この年のウイグ
ルの入冠は︑唐軍を助けて下賜品を得る結果となって終わったのである︒
︹史料九︺永泰元年⁝⁝九月⁝⁝僕固懐恩誘回絋・吐蕃・吐谷渾・党項・奴刺数十万衆倶入冠︑令吐蕃大将尚結悉賛
摩・馬重英等自北道趣奉天︑党項帥任敷・鄭庭・邨徳等自東道趣同州︑吐谷渾・奴刺之衆自西道趣整屋︑回紘継吐蕃
之後︑懐恩又以朔方兵継之︒⁝⁝懐恩中途遇暴疾而帰︒丁酉︑死於鳴沙︒⁝⁝吐蕃至邪州︑白孝徳嬰城自守︒⁝⁝吐
蕃十万衆至奉天︑京城震恐︒⁝⁝乙巳︑吐蕃進攻之︑虜死傷甚衆︒⁝⁝自丙午至甲寅︑大雨不止︑故虜不能進︒吐蕃
移兵攻醗泉︑党項西掠白水︑東侵蒲津︒丁巳︑吐蕃大掠男女数万而去︒⁝⁝周智光引兵遽撃︑破之於澄城北︒⁝⁝十
月︑己未︑⁝⁝吐蕃退至邪州︒遇回紘︑復相与入冠︒辛酉︑至奉天︒癸亥︑党項焚同州官癬・民居而去︒丙寅︑回
115 ウ イ グルの対唐 政 策
純・吐蕃合兵囲浬陽︑子儀命諸将厳設守備而不戦︒及暮︑二虜退屯北原︒丁卯︑復至城下︒是時回絋与吐蕃聞僕固懐
恩死︑已争長不相睦︑分営而居︹両蕃猜武︑争長別為営塁(﹃旧唐書﹄巻一九六上﹁吐蕃伝﹂)︺︑子儀知之︒回紘在城
西︑子儀使牙将李光遊等往説之︑欲与之共撃吐蕃︑回絋不信︑日︑﹁郭公固在此乎︑汝給我耳︑若果在此︑可得見
乎﹂︒⁝⁝子儀免冑釈甲投槍而進︑回絋諸曾長相顧日︑﹁是也﹂︒⁝⁝子儀寛与定約而還︒吐蕃聞之︑夜︑引兵遁去︒
⁝⁝薬羅葛帥衆追吐蕃︑子儀使白元光帥精騎与之倶︒癸酉︑戦於霊台西原︑大破之︑殺吐蕃万計︑得所掠士女四千
人︒丙子︑又破之於浬州東︒⁝⁝乙酉︑回絋胡禄都督等二百余人入見︑前後贈費繕吊十万匹︑府蔵空端︑税百官俸以
給之︒(﹃資治通鑑﹄巻二二三)
③第三回目のウイグルの入冠は︑大暦十年(七七五)十二月のことである︒
︹資料一〇︺大暦十年⁝⁝十二月︑回絋千騎冠夏州︒︹考異日︑此事出沿陽家伝︑実録新旧紀皆無之︒按実録︑明年
二月︑加朔方戊兵以備回絋︑則是回絋嘗入冠也︒︺州将梁栄宗破之於鳥水︒郭子儀遣兵三千救夏州︑回乾遁去︒⁝⁝
大暦十一年⁝⁝二月⁝⁝辛巳︑増朔方五城戊兵︑以備回絋︒(﹃資治通鑑﹄巻二二五)
ところが︑この事件に関する記述は︑両唐書︑﹃冊府元亀﹄には見られない︒﹃通鑑考異﹄は︑明年二月に回絋に備えて
朔方の戊兵を増加させているからには︑その前に入冠があったのであろうと推測している(﹃考異﹄の引用する﹁扮陽家伝﹂
とは︑沿陽王となった郭子儀の一家に関する伝と思われるが︑両唐書の﹁郭子儀伝﹂には︑この事件に関する記述はまったく見られな
い)︒
しかし︑あとでも述べるように︑実際に入冠はしなくても︑ウイグルが入冠するといううわさが伝えられたり︑あるい
はウイグル軍が北辺で示威行動をとるだけでも︑唐側は北辺の防備を増強しているので︑﹃考異﹄の推測もいささか根拠
が弱いと三口わざるをえない︒
④第四回目の入冠は︑大暦十三年(七七八)正月のことである︒﹃旧唐書﹄﹁廻純伝﹂によれば︑ウイグルはまず太原
に入冠し︑さらに楡次・太谷を過ぎ︑陽曲で唐軍と戦った︒唐軍は敗北し︑死者は千余人であった︹史料=︺︒﹃資治通
鑑﹄によれば︑この時ウイグルは兵をほしいままにして大いに掠した︑とある︹史料一二︺︒しかしこのあとウイグルは
代州都督の張光晟に撃破され︑退却した︒
︹史料一一︺(大暦)十三年正月︑廻乾冠太原︑過楡次・太谷︒河東節度留後・太原サ・兼御史大夫鞄防与廻乾戦子
陽曲︑我師敗績︑死者千余人︒代州都督張光晟与廻紘戦子羊武谷︑破之︑廻絋引退︒(﹃旧唐書﹄巻一九五﹁廻絋伝﹂)
︹史料一二︺癸酉︑遇虜於陽曲︑大敗而還︑死者万余人︑回乾縦兵大掠︒(﹃資治通鑑﹄巻二二五)
この入冠ではかなりの成果が得られたようで︑後述するようにウイグルの宰相頓莫賀は︑﹁羊馬数万を獲得し︑大勝利
と言うべきである﹂と述べている︹史料二八︺︒
⑤この年にはウイグルはまだ入冠の機会をうかがっていたようで︑七月には郭子儀の上奏によって将兵が振武軍に派
遣され︑ようやくウイグルが去った︑とある︒
︹史料=二︺大暦十三年⁝⁝七月⁝⁝戊午︑郭子儀奏以回絋猶在塞上︑辺人恐催︑請遣那州刺史渾城将兵鎮振武軍︑
従之︒回絋始去︒(﹃資治通鑑﹄巻二二五)
⑥それから二年後︑建中元年(七八〇)には︑ソグド人にそそのかされて牟羽可汗が大規模な入冠を企てるが︑宰相
の頓莫賀がクーデタを起こして可汗を倒し︑入冠はさたやみとなる(この事件については第四章でくわしく検討する)︒
タルカン⑦建中四年(七八三)から翌年にかけて︑ウイグルの達干と称するものが率いる回絋千人と雑虜二千人が唐の叛将朱