︿論説﹀
近 世 後 期 に お け る 浅 草 寺 寺 中 住 職 の 就 任 過 程
小島信泰
近世後期 における浅草寺寺中住職の就任過程
.162
第 第 は
第 第 二 第 第 一 じ ニ ー 章 ニ ー 章 め 節 節 節 節 に
第三節
結び 浅草寺一山と寺中住職一山住職と寺中住職
住職任免法
寺中住職の就任過程
寺中住職と寺院組合
日音院後住の就任過程
①当住の隠居願
②後住願
③後住修善院の任命
④その後の日音院︑修善院
後住願と後住選任
1
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はじめに
へよ筆者は︑これまでに浅草寺一山の執行機関である別当代および役者の就任過程について論じてきたが︑本稿におい
ハ ては︑これら執行機関によって統理される一山の構成員である寺中住職の就任過程について論じる︒これに関する寺
な 法は︑筆者が構想する浅草寺の寺法体系の(2)﹁寺務執行法﹂を構成する︿寺中住職任免法﹀に該当する︒寺中住職
の任免権は︑結論を先に述べるならば︑寛永寺による浅草寺兼帯以降においては︑浅草寺住職でもある寛永寺住職を
勤めた東叡山門跡が掌握したが︑その権限行使のための具体的な手続きは︑浅草寺の執行機関による一山支配のため
の寺務の一環として進められていた︒
本稿では︑浅草寺の一山住職と寺中住職および住職任免法と寺院組合の実態を本稿との関係から必要な限りで述べ
ゑてから︑浅草寺の寺中日音院の住職就任過程について﹃浅草寺日記﹄(以下﹃日記﹄)を中心に用いて論じる︒さらに︑
住職選任に際して当住の意向がどのように関係していたのかを検討し︑寛永寺による寺中支配の実態を考えるための
一材料としたい︒住職任免は本寺による末寺支配の根幹を成すものであるにもかかわらず︑その具体像については必
ずしも十分に論じられてはいないので︑本稿における試みは︑単に一寺院の内部機構にとどまらず本末関係の解明に
も寄与するものと思われる︒
注 (1 ) ﹁近 世 後 期 に お け る 浅 草 寺 別 当 代 の 就 任 過 程 ﹂ ( ﹃創 価 法 学 ﹄ 第 二 八 巻 第 一 号 ︑ 一 九 九 八 年 ) ︑ ﹁近 世 後 期 に お け る 浅 草 寺 役 者 の 就
任 過 程 ﹂ (同 第 二 八 巻 第 三 号 ︑ 一 九 九 九 年 ) ︒ (2 ) 浅 草 寺 一 山 の 構 成 員 に つ い て は ︑ 拙 稿 ﹁江 戸 時 代 に お け る 金 龍 山 浅 草 寺 の ﹃ 一 山 体 制 ﹄ ー 近 世 寺 院 法 研 究 の 第 一 段 階 と し て ー ﹂
(﹃宗教法﹄第八号︑一九八九年)参照︒
(3 ) 筆 者 が 構 想 す る 浅 草 寺 の 寺 法 体 系 に つ い て は ︑ ﹁近 世 寺 院 法 の 体 系 的 考 察 の た め の 一 試 案 i 近 世 仏 教 の 研 究 史 と 浅 草 寺 の 寺 院 法 ー ﹂
一一Z‑一
近世後期 における浅草寺寺中住職の就任過程
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( 一 ) ・ ( 二 ) ( ﹃ 創 価 法 学 ﹄ 第 二 五 巻 第 一 ・ 二 合 併 号 ︑ 第 二 六 巻 第 一 号 ︑ 一 九 九 六 年 ) 参 照 ︒ こ こ で は ︑ 浅 草 寺 の 寺 法 体 系 を 構 成
す る 五 つ の 部 門 を 記 し て お く ︒ (1 ) コ 山 機 構 法 ﹂ (2 ) ﹁寺 務 執 行 法 ﹂ ︿3 ) ﹁寺 中 寺 院 運 営 法 ﹂ (4 ) ﹁僧 侶 支 配 法 ﹂ (5 ) ﹁世 俗 関 連 法 ﹂
( 4 ) 拙 稿 ・ 前 掲 ﹁近 世 後 期 に お け る 浅 草 寺 別 当 代 の 就 任 過 程 ﹂ 参 照 ︒
( 5 ) 浅 草 寺 日 並 記 研 究 会 編 ︑ 第 一 巻 ・ 第 二 巻 は 金 龍 山 浅 草 寺 出 版 部 ︑ 以 下 の 各 巻 は 吉 川 弘 文 館 ︒ 一 九 七 八 年 に 第 一 巻 が 刊 行 さ れ ︑
全 三 〇 巻 の 刊 行 が 予 定 さ れ て お り ︑ 既 刊 二 四 巻 ︒
第一章浅草寺一山と寺中住職
第一節一山住職と寺中住職
よ江戸時代の浅草寺の歴史についてはすでに論じてあるので︑詳しくはここで繰り返さないが︑本稿で論じる近世後
ハ 期においては︑浅草寺は上野の寛永寺の末寺であり︑浅草寺の住職は寛永寺の住職である東叡山門跡が兼帯するとこ
ろで︑浅草寺にはその代理住職として別当代が寺外から任命されて本坊伝法心院に住した︒浅草寺の住職にはこの一
山全体の住職と︑本稿で論じる各寺中寺院(子院)の住職とがあったが︑寺中寺院は衆徒一ニカ寺・寺僧二ニカ寺の
す 合計三四力寺を数える︒
寺中の住職は︑自らが住する寺中寺院の運営をはじめ︑一山の構成員として一山の様々な寺務を執り行っていた︒
中でも寺中総出の入札により浅草寺一山の役者に選出された二名の住職は︑別当代の指揮下にあって一山全体の寺務
を執ったのである︒もっとも寺僧はこの入札には加わったが︑役者に選出される資格はなかった︒
一3一
ところで︑かつて石井良助氏は西の高野山および東の満願寺を例に挙げて︑寺中によって構成されたいわゆる一山
"(5)‑形態の寺院の法的体制を﹁一山体制﹂と命名されたが︑筆者は石井氏が論じられた﹁一山体制﹂の諸性質が浅草寺に
ハ おいても見られることを別稿で指摘した︒浅草寺一山と寺中との法的な関係については︑詳しくはそちらに譲る︒
注(1)﹁近世後期の寺院と借金銀ー浅草寺を中心としてー﹂(二)(﹃創価法学﹄第三一巻第一・二合併号︑二〇〇一年)
( 2 ) 本 稿 に い う 近 世 後 期 と は ︑ 石 井 良 助 氏 の 時 代 区 分 に よ る ︑ ﹁公 事 方 御 定 書 ﹂ が 制 定 さ れ た 寛 保 二 ( 一 七 四 二 ) 年 以 降 の 江 戸 時 代
を 意 味 す る ( ﹃ 法 制 史 ﹄ ︹体 系 日 本 史 叢 書 四 ︺ 山 川 出 版 社 ︑ 一 九 六 四 年 ) ︒
︿ 3 ) ﹃ 日 記 ﹄ 第 一 巻 ﹁解 題 ﹂ 参 照 ︒
( 4 ) 同 右 ︒
( 5 ) ﹁江 戸 時 代 に お け る 神 社 お よ び 寺 院 の 法 人 格 ﹂ ( ﹃ 国 家 学 会 雑 誌 ﹄ 第 八 九 巻 第 七 ・ 八 合 併 号 ︑ 同 第 九 ・ 一 〇 合 併 号 ︑ 一 九 七 六 年 ︒
﹃ 日 本 団 体 法 史 ﹄ ︹法 制 史 論 集 第 三 巻 ︺ 創 文 社 ︑ 一 九 七 八 年 所 収 ) ︒
( 6 ) 拙 稿 ・ 前 掲 ﹁江 戸 時 代 に お け る 金 龍 山 浅 草 寺 の ﹃ 一 山 体 制 ﹄ ー 近 世 寺 院 法 研 究 の 第 一 段 階 と し て ー ﹂ ︒
一4一
第二節住職任免法
筆者は︑寺院・僧侶に関して︑幕府が定めた法を﹁幕府寺法﹂︑各宗派が定めた法を﹁宗派寺法﹂︑各個別の寺院が
ハユ 定めた法を﹁個別寺法﹂と呼んでいるのであるが︑別稿で論じたように︑事実上幕府は﹁幕府寺法﹂において本寺に
ハ よる末寺住職の任免権について定めている︒浅草寺の場合は︑これに依拠して︑代理住職である別当代は本寺である
ヘヨ 寛永寺が任命するという﹁宗派寺法﹂が確立されていた︒
では︑浅草寺寺中の住職の任免についてはどうであろうか︒﹃日記﹄を見る限りにおいては︑﹁個別寺法﹂としての ユ 浅草寺の寺法に成文化された寺中住職の任免法はないが︑寺中の住職の任免についてはその過程が﹃日記﹄に記され
ているので︑そこから慣習法としての寺中住職の任免法を知ることができるのである︒以下においては︑﹃日記﹄を播
いて寺中住職の就任過程を追い︑この問題にアプローチする︒ 近世後期 における浅草寺寺中住職の就任過程
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注 (1 ) 拙 稿 ・ 前 掲 ﹁近 世 後 期 に お け る 浅 草 寺 別 当 代 の 就 任 過 程 ﹂ 参 照 ︒ (2 ) 同 右 ︒ (3 ) 同 右 ︒ 豊 田 武 氏 は ︑ ﹁ こ の 時 代 の 住 職 任 免 権 は ︑ ω 政 府 (朝 廷 ・ 将 軍 ・ 老 中 ・ 寺 社 奉 行 ) ・ ② 本 寺 役 寺 (本 山 ・ 本 寺 ・ 僧 録 ・ 触
頭 ) ・ ③ 僧 侶 (輪 番 ・ 協 定 ・ 先 住 の 指 定 ・ 弟 子 相 続 ・ 血 縁 相 続 ) ∴ ㈲ 檀 家 の 四 つ に 存 在 す る ﹂ ( ﹃宗 教 制 度 史 ﹄ ︹豊 田 武 著 作 集 第 五 巻 ︺
吉 川 弘 文 館 ︑ 一 九 八 二 年 ︑ 三 〇 頁 ) と 整 理 さ れ た が ︑ こ の 点 に つ い て も 同 拙 稿 で 論 じ た ︒ (4 ) ﹁個 別 寺 法 ﹂ と し て の 浅 草 寺 の 寺 法 で 成 文 化 さ れ た も の に は ︑ ﹁浅 草 寺 一 山 借 金 銀 寺 法 ﹂ ( ﹃ 日 記 ﹄ 第 二 巻 ︑ 宝 暦 五 年 二 月 一 六 日
の 条 ︑ 九 〇 頁 ) が あ る が ︑ こ れ に つ い て は 拙 稿 ﹁近 世 寺 院 法 の 研 究 i 金 龍 山 浅 草 寺 の 場 合 ー ﹂ ( ﹃創 価 大 学 大 学 院 紀 要 ﹄ 八 ︑ 一 九
八 六 年 ) 参 照 ︒
第二章寺中住職の就任過程
第一節寺中住職と寺院組合
寺中三四力寺は︑前述したように︑衆徒・寺僧という格式上の差があったが︑こうした差を越えて︑所在する位置
により東谷・南谷・北谷の三谷に分かれて存在した︒また︑寺中は各組合に組織されており︑寺院運営上の様々な点
よにおいて協力し合っていた︒例えぼ︑寺中寺院の借金銀に組合寺院が加印をしたり︑以下に述べるように︑寺中寺院
の後住願を組合寺院が両役者に提出したりしている︒もっとも︑前者の借金銀に関しては︑寛政=一(一八〇〇)年
ハ に寛永寺が︑浅草寺を含む府内の天台宗末寺に対して定めた掟に︑
一5一
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無拠入用筋有之加印相頼候共組合中申合︑其筋得与相糺︑且其寺元来借物高相糺︑寺
録不相応之借金高二相成候ハ・加印有之問敷候︑尤筋合不相立借財者組合連印を以申
出候共︑以来寺附二者被仰付間鋪事
ことあるように︑寛永寺は末寺支配のために組合を利用していたことがわかる︒つまり組合は︑農村における五人組の
ぎように当事者間の扶助という役割を果たすと同時に︑支配者側に対する共同責任を負う組織であったといってよい︒
後者の後住願において組合がどのような役割を果たしていたのかについては︑以下に詳しく述べる︒
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拙 稿 ・ 前 掲 ﹁江 戸 時 代 に お け る 金 龍 山 浅 草 寺 の ﹃ 一 山 体 制 ﹄ ‑ 近 世 寺 院 法 研 究 の 第 一 段 階 と し て ー 己 ︒
﹃ 日 記 ﹄ 第 九 巻 ︑ 寛 政 一 二 年 八 月 三 日 の 条 ︑ 一 四 二 頁 ︒
拙 稿 ・ 前 掲 ﹁近 世 寺 院 法 の 体 系 的 考 察 の た め の 一 試 案 ; 近 世 仏 教 の 研 究 史 と 浅 草 寺 の 寺 院 法 ; ﹂ ( 二 )
長 島 憲 子 ﹃ 近 世 浅 草 寺 の 経 済 構 造 ﹄ (岩 田 書 院 ︑ 一 九 九 八 年 ) 四 一 〜 五 〇 頁 参 照 ︒
参照︒一6一
第二節日音院後住の就任過程
本節では︑浅草寺寺中日音院の後住就任過程について述べる︒﹃日記﹄には︑寺中住職の就任に関する記事がいくつ
も見られるが︑日音院後住の就任過程については他に例がないほど詳細に記されているので︑これを取り上げること
にした︒ よ 日音院は︑南谷の西側に位置し︑衆徒一ニカ寺の中の一寺である︒ここから多くの役者が輩出され︑一山の重要な
役割を果たした︒﹃浅草寺志﹄(以下﹃寺志﹄)の頭注によると︑日音院は肥後国柳河藩立花家や出羽国鶴岡藩酒井家を
近世後期 におけ る浅草寺寺中住職の就任過程
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大名檀家に持ったことでも知られる︒
①当住の隠居願
す 寛延元(一七四八)年一〇月︑日音院第九世蕎海は近年の病身を理由に︑住職を辞して隠居することを願い出た︒
後住には修善院住職の義道が就任することになるが︑﹃日記﹄によってその間の過程を順を追って見てみよう︒
ハら 日音院の隠居願につき︑はじめに次のように記されている︒
一 ハママ 日音院近年病身罷成候二付此度隠居願書候︑建立功書井借金書付等差出之︑外二組合
6隠居料添願其外後住願等左之通
これによると︑日音院は近年病身であることを理由に隠居を願い出ているが︑それに際して︑﹁隠居願﹂︑﹁借金書付﹂等をはじめ︑組合からの﹁隠居料添願﹂︑﹁後住願﹂等が差し出されたことがわかる︒以下︑
す されている書面を一つひとつ紹介する︒まずは︑日音院自身による﹁隠居願﹂である︒
一 書付を以奉願候
拙僧義近年病身罷成寺役万端難相勤り難義至極仕候︑依之何卒御憐窓を以隠居御免
被成下候様奉願候︑後住之儀者御吟味之上︑寺院相続仕候方江被仰付被下候様奉願候︑
且拙寺儀去卯正月類焼仕候処︑早速小屋掛等取繕罷在︑近年之内不残建立仕度心願
二而御座候得共︑是以病身故不任心底︑当春二至り漸書院其外惣囲者元之通建立仕候︑
然ル処病身二付此節隠居奉願候︑其上老母御座候得者退隠之上者是以路頭二迷候仕合
﹁建 立 功 書 ﹂ ︑ 7
﹃ 日 記 ﹄ に 記 一
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御座候問︑御慈悲思召を以隠居料之義︑先格茂御座候得者︑弐人持井小遣金壱ケ月二
弐両宛後住孟相送り︑其上別紙書付之通他借金不残後住引受返償仕候様二被仰付被下
候様奉願候︑左候得者拙僧井老母共冥加至極難有仕合奉存候︑何分二も右奉願候通宜
御取成奉願候︑己上
寛延元年辰十月日音院
梅園院
自性院
これによると︑日音院は近年の病身により寺役万般を勤めることができなくなったので︑役儀御免のうえ隠居する
ことを申し出ているが︑ここで浅草寺の両役者である梅園院・自性院に﹁何卒御憐患を以隠居御免被成下候様奉願候﹂
と願っているように︑住職を辞するには許可を得なければならなかった︒後に述べるように︑﹁隠居願﹂は両役者が受
理し︑浅草寺の別当代より寛永寺に提出され︑寛永寺がこれに許可を与えるという手続きが取られた︒
また︑この﹁隠居願﹂によると︑後住選任については︑当住である日音院は寺院相続ができる者に仰せ付けられる
ように願うだけで︑自らの具体的な考えを述べてはいない︒そして︑去年の正月に類焼を受けたが︑病身のため残ら
ず建て替えることができず︑ようやくこの春に書院そのほか惣囲は元の通り建立できたこと︑および老母がいること
が述べられたうえで︑前例もあることから︑隠居料として﹁弐人持井小遣金壱ヶ月二弐両宛﹂後住より支給されること
および他借金を後住が残らず引き受け返償するよう仰せ付けられることを願い出ている︒
ところで︑この日音院の﹁隠居願﹂においては︑右に述べたように︑当住が後住として具体的に僧の名を挙げて願
い出ることはなかったが︑﹃日記﹄の他の記事からわかるように︑一般には隠居を願い出た当住は後住に相応しい僧を
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