(資料)
カルロ・チェーザレ・マルヴァジーア著
「ドメニキーノ伝」翻訳 †
浦 上 雅 司*
我々は誰も万能ではなく、何か一つでも優れた才能を発揮できれば、それだけでも拾い ものである。多少の欠点があっても大したことはない。幾つもの点で完璧なまでに優れた 画家に育ったカラッチ一家のような存在は希な例で、どの時代にもあるわけではない。自 然は人びとに天分を分ち与えるものだが、グイド〔・レニ〕1について見たように、自然
*福岡大学人文学部教授
†以下に翻訳して掲載するのは C. C. Malvasia(1616-1693)著
Felsina Pittrice Vite de' pittori bolognesi
(1678)[Felsina
はBologna
の古名であり、通例『ボローニャ画家列伝』と訳される
]に含まれる「ドメニキーノ伝 (Vita di Domenico Zampieri detto il
Domenichino)
」である。マルヴァジーアの生涯と『ボローニャ画家列伝』の特徴については、別に論じたい。それまで、この件については、高橋健一氏の論文「小説のように見えるが、す べて真実であるだろう:カルロ・チェーザレ・マルヴァジーアの美術史叙述についての覚え書 き」[西洋美術研究
No.13
「芸術家伝説」特集号2005
年 収録]を参照されたい。翻訳にあたっては、現在、一般に広く用いられている
1841
年版を用いた。「ドメニキー ノ伝」は、同版第二巻219~244
頁に掲載される。ちなみに、現在、『ボローニャ画家列 伝』は1678
年版、1841年版が共にGoogle Books
に収録されており自由に利用できる。日本語表記のつたなさは別として、翻訳には注意を払ったつもりだが、古いイタリア語 であり、ラテン語の引用なども含めて過ちも多いかと危惧する。お気づきの点をご指摘 頂ければ幸いである。([email protected])
1
Guido Reni 1575-1642 cf. S. Pepper, Guido Reni: A complete Catalogue of his works, London 1984; Guido Reni : 1575 - 1642 / [ed. by Susan L. Caroselli.] Pinacoteca Nazionale of Bologna ; Los Angeles County Museum of Art ; Kimbell Art Museum of Fort Worth, Texas, Bologna Nuova Alfa Ed.1988: Guido Reni und Europa : Ruhm und Nachruhm / catalogo a cura di Sybille Ebert-Schifferer, A. Emiliani Frankfurt,
1988;
マルヴァジーアはレニと知り合いで『ボローニャ画家列伝』にもレニ伝がある。C.C. Malvasia Felsina Pittrice 2vols. Bologna 1841 vol.II p.5-66;このレニ伝は英訳も
ある。C. C. MalvasiaThe Life of Guido Reni tr. C. Enggass London 1980;
ベッロー リの『近代美術家列伝』にもレニ伝が予定されていた。G.P. BelloriLe vite de' pittori scultori ed architetti moderni ed. E. Borea Tolino 1976 p.487-532; G. P. Bellori The lives of the Modern Painters, Sculptors and Architects tr. A. Wohl, H. Wohl, T.
Montanari Cambridge U. P. 2005 p.347-372;
パッセリの美術家列伝にもレニ伝がある。J. Hess Die Kuenstlerbiographien von G. B. Passeri Wormus 1995 p.78-101
がその必要を忘れて、一人の人物に多くの才能を与えることもある。だが、グイドには構 想(concetto)と学識(erudizione)が欠けていた。ドメニキーノについても同様で、彼 は優柔不断で不器用だった。しかしながら、しなやかかつ大胆に決心しさえすれば、自分 の欠点や限界をものともしなかった。レニの方が素描に秀で、各部分の表現も洗練され、
はるかに優雅な絵を描いたが、感情表現(affetti)ではドメニキーノの方が表現力に富 み、考案(invenzione)ははるかに豊かで、学識もずっと深いと思われた。それで、一般 にはレニの方が優秀だとされるが、柔らかさと活気を追求するロンバルディア派およびボ ローニャ派に比べて、丹念さ(finitezza)と精確な仕事を好むフィレンツェ派およびロー マ派がザンピエーリに軍配を上げるのも理由がなくはない。ザンピエーリもレニも共に好 む私は故郷〔ボローニャ〕にとってよかれと思うばかりで、無理に言い張ったり依怙贔屓 したりするつもりはない。私の知り合いで交際もあったレニについて多く記述できたが、
会ったこともなければ知人でもなかったドメニコについては十分に論じられないのが悲し いだけである。彼は長いこと故郷を離れて生活した。特にローマに長く住み、ナポリにも 滞在し、われらの故郷よりも、これらの都市でよく知られ、優れた仕事をした。そこで私 はまずバリオーネ2が書き残した彼の伝記に手短にふれる。その上で、彼の未亡人や友人、
親戚の人たち、その他から聞いた、真実確かなことをまとめて付け加えるとする。
さて、ドメニコは、1581年
10
月22
日に、ボローニャ市サラゴッツァ地区で靴屋を営 み比較的裕福な市民ザンピエーロ・デ・ザンピエーリを父親として、この人物が先祖から 受け継いでいた二軒の持ち家の一軒で生まれた。ガブリエッレという名の兄がおり、読み 書きそろばんを一通り終えて父親(楽隠居したいと願ったので)に財産管理と店を任され ていた。ドメニコは長い間文法学校に通わされたが、大学で学位をとるか、あるいは高位 聖職者になれば、いつの日かザンピエーリの家門に箔がつくのではないかという思惑があっ たのである。だが天は、ドメニコが教会で聖なる儀式を執り行うよりも、天国の素晴らし い理念を形象で表現するよう望んでおり、彼は画家となるべく運命づけられていた。すな2Giovanni Baglione 1566ca-1643 cf. Giovanni Baglione,
"Le vite de' pittori, scultori et architetti.Dal Pontificato di Gregorio XIII. del 1572. In fino a' tempi di Papa Urbano Ottavo nel 1642." Roma MDCXLII〔 Ristampa Anastatica: Citt del Vaticano Biblioteca Apostolica Vaticana 1995
〕; M.S. O'NeilGiovanni Baglione. Artistic Reputation in Baroque Rome, Cambridge U. P. 2000;
バリオーネの「ドメニキーノ伝」については、拙論「ジョヴァンニ・バリオーネ著『ドメニコ・ザンピエーリ伝』翻訳と解 説」(『福岡大学人文論叢』第
35
巻第3
号2003 p.1259-1290)も参照のこと。
わちドメニコは素描に天分を発揮し、その才能を壁の落書きに示したばかりか、時には学 校を抜け出し、公共の場にフレスコ画を描いている所があればそこで時間を潰した。これ を知った父親はひどく怒り、帰宅したドメニコを大声で叱って殴りつけた。さらに息子を ラテン語教師の所に連れて行って、息子が言うことを聞かず逃げ出したら人とも思わず鞭 打って叱ってくれるようにと懇願した。
だが最後には全て無駄なことが明らかになった。弟の天分を台無しにせぬよう、弟は無 益どころかやがては家族全員の誇りともなる画家という職業に向いているのだ、とガブリ エッレからも説得された父親は、ドメニコの天分を伸ばすことにした。ガブリエッレは一 時期カルヴェール3の元で素描修行したものの芽が出なかったことがあって、彼自身が、
弟をこの画家の所に連れて行き紹介すると約束し、実際にもそうした。カルヴェールの元 でドメニコは最初グイド〔レニ〕(カルヴェールの元を去ろうとしていた)に初歩の手ほ どきをして貰った。その後もグイドを見習おうとしたのだが、他の弟子たちのように上手 に立ち回って、カルヴェールの怒りを逃れるすべを知らなかったため、怒りっぽいフラン ドル人カルヴェールから激しく責められた。カルヴェールは、ドメニコが手を滑らせ、誤っ て小さな絵を地面に落とし少々傷めたのを口実として彼を叱った。本当は、この弟子が彼 の作品以上にカラッチ一家の作品にこそ、より優れた理解と趣味があると好意的に評価し だしたのが気に入らなかったのである。ドメニコが師匠の素描を脇において、アゴスティー ノ・カラッチ4の版画を熱心に模写していたところにカルヴェールが突然やってきて、先 に述べた出来事にかこつけ激しく殴り、頭に傷を負ったドメニコを部屋から追い出した。
この素直な少年は、こんなに叱られるとはよほどひどい間違いを犯したのだと思いこみ、
父親からも仕置きされるのではないかと恐れて、こっそり家に戻ると、両親が普段過ごす 部屋にある物置に隠れた。そこで食事も取らずに一晩過ごしながら、両親の会話に耳を澄 ませて、怒られずに安心して顔を合わせられるか、この災難がどのような結末を迎えるの か、慎重に見極めた。ドメニコの居所が知れないので両親が心配し、特に母親は息子がと
3Denis Calvaert 1540-1619 cf.
Pittura Bolognese del '500 ed. V. Fortunati Pietrantonio, Bologna 1986 II pp. 683-708 Agostino Carracci 1557-1602
アンニーバ レ・カラッチの兄。 銅版画家としても活躍した。A. Sutherland Harris "AgostinoCarracci" L'idea del bello : viaggio per Roma nel Seicento con Giovan Pietro Bellori E. Borea [ed] Roma 2000 p.212-228
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Agostino Carracci 1557-1602
アンニーバレ・カラッチの兄。銅版画家としても活躍し た。A. Sutherland Harris "Agostino Carracci" L'idea del bello : viaggio per Roma nel
Seicento con Giovan Pietro Bellori E. Borea [ed] Roma 2000 p.212-228
んでもない災難に見舞われたのではないかと恐れ苦しんでいるのを知って、ドメニコはやっ と隠れ場所から出て両親に顔を合わせた。ドメニコは二人に血のこびり付いた顔を見せて 泣いた。それから両親(息子を慰めて傷の手当てをし、何が起こったのか聞いた)は、こ んなひどい仕打ちの原因を話しさせ、山向こうの異国〔フランドル〕人の無礼と不正な仕 打ちに怒り、ドメニコ自身の願いもあって、息子をカラッチ一家に預けようと決めた。カ ラッチ一家はザンピエーロの古くからの知り合いだったので、さっそく出向いて、これま での師匠との間に起こった出来事について語り、息子が彼らの弟子になりたいと願ってい ることを伝えて、ルドヴィーコ・カラッチ5に頼み込んだ。ルドヴィーコは、ドメニコの 素描を見てその出来映えに満足し、いつでも面倒見ると請け合った。アゴスティーノもま た、ドメニコを従兄のルドヴィーコに紹介しようと父親の元にやってきて、ドメニコをと ても善良で才能があり成功する見通しも明るいと、親身になって仲介の労をとった。
だが、カラッチの学校の他の者たちは違っていた。彼らは、ドメニコが小さくて容貌も 冴えず、姿格好も無様で動きも鈍く、歩き方もおかしいのを見て、アゴスティーノのよう には考えず、時が経つにつれてドメニコへの偏見をますます強めた。それで、知恵をつけ るにつれてドメニコの動作はさらに緩慢となり、年齢を重ねるにつれて、彼は大胆さを恥 じるようになった。他の弟子たちは、絵画芸術の精華は、ルドヴィーコの作品に見られる ような当意即妙さと闊達さにあると信じ込み、また、外見の素晴らしさと平易さを尊重し ていたのだが、それは、丹念な仕事を心がけ最後まで手を抜かないドメニコの天分と趣味 にはまったくそぐわなかった。ドメニコは、彼らが見かけの完璧さで満足し、本質に迫ろ うとしない様子に呆れていた。彼らは、この巨匠〔ルドヴィーコ〕の見事な技量が、長期 にわたる、たゆまない努力の成果に他ならぬとは知るよしもなかった。この技量はまた、
腕前だけでなく知性をも、現状に甘んじることなく鍛え続けた成果でもあった。ドメニコ もまた、いつも気ぜわしげで満足せず、できあがった作品を消しては描き直す繰り返しだっ た。彼はしばしば考え込んで空想に浸ることも多く、大事なことどもを絶えず考え、思い 通りにならないと悩み苦しんだ。手本による素描、浮き彫りの模写(これはすでに得意と していた)は、なるほど必要な訓練ではあるけれど、あまりにもありきたりで多過ぎるし、
逆に、もっと力を入れるべきことにはあまり考慮されていないと思われた。つまり、決ま りきった習作用裸体の姿勢や、似たり寄ったりの胴体ト ル ソの格好には決して見られない、偶然
5Ludovico Carracci 1555-1619 cf. Alessandro Borgi,
Ludovico Carracci 2 Vols
Bologna 2001
の動きが持つ自然さ、激しい感情に動かされた人に時たま見られるが虹のようにたちどこ ろに消え失せる精気溢れる活力、生命も言葉もない絵画に息吹を吹き込む登場人物の様々 な感情や内面の情感、そうしたものが考慮されていないとドメニコは考えたのである。そ れで彼はしばしば歴史や物語を読んで過ごした。歴史や物語の感傷的出来事に心を寄せ、
そこから色々な感情が想起され、変化に富んだ出来事によって想像力が刺激されたのであ る。ドメニコはまた、沢山の人々が集まる賑やかな場所に通っては、子供たちの無邪気な 仕草や、老人たちの疲れた様子、おしゃべりに興じる女たち、男たちの仕事ぶりなどを熱 心に観察し、マントの後に隠した鉛筆で走り書きの写生をし、急いで家に帰って素描を仕 上げた。
こうした彼独特の修練は他人の想像を超えており、知られることもなく、彼の普段の観 察も評価されなかった。彼はカラッチの所に通い詰めはせず、他の弟子たちと一緒に練習 するのも希だった。このため彼は、長い間、気まぐれで精進が足りないと思われていた。
だが、程なくドメニコは、まだごく若いのに他の誰にも優る評判を獲得し一躍有名人となっ た。カラッチの画塾では(今ではどこでもやっているが)隔月にルドヴィーコが歴史
(storico)か物語(favoloso)の主題を示し、それを皆が競い合って素描で表現するとい う競技が行われ、最優秀と判定された者はアカデミーの殿様と呼ばれて、それにふさわし い扱いを受けることになっていた。ドメニコは、他の者たちの気づかぬうちに自分の素描 を提出し、一度ならず三度も最優秀に選ばれた。だが彼は名乗り出ず、他の弟子たちは驚 き怪しんだが、素描の作者は分からなかった。アゴスティーノが弟子たちの一人一人に確 認したが無駄で、最後にまさか違うだろうと思っていた少年、つまり他と離れて一人佇ん でいたドメニコに、ひょっとしてこの優れた素描を描いたのではないかと尋ねた。ドメニ コはいきなり問い質されて気圧され、顔を赤くして黙ったまま肯いた。そこでドメニコは 改めて最優秀と宣言され、それまで皆から見下げられていたのに一転して然るべき評価を 受け、一目置かれるようになった。
これをきっかけにドメニコの評価は高まった。ドメニコは画塾の最年少者として他の者 たちをかいがいしく手伝ったし、先に挙げたように予想外に優れた考案(invenzione)の 事件もあって、その後ドメニキーノという愛称で呼ばれるようになった。この愛称も彼の 名声を広める一助となった。こうして彼は自信を持ち、人物の頭部や半身像だけでなく、
ごく小さくて数も少なかったが歴史画の小品も描くようになった。特に歴史画では、苦心 を重ねて他と違った自分らしさ、派手で賑やかな絵を描く者たちもうらやむような分別の
良い表現を模索した。やがてアルバーニ6は、ドメニコの崇高な考えを知った。ドメニコ は意義深く高邁な作品を描いて栄光を勝ち得たいという大志に満たされていたのである。
アルバーニとドメニキーノは固い友情の絆で結ばれた。ドメニコはアルバーニと一緒に実 践や議論を重ね、想像による情景や閃いたアイデア、大胆で新しい誇張表現、異様で詩的 な装飾などを絵で表現しては相互に批評し、それぞれの考えや意見、工夫を交換し合った。
彼らは同じ目標に向かって協力し、同じやり方と同じ手段を用い、共に栄光の道を進んだ。
まったく彼ら二人は結束して画家の道を歩み、助け合い、励まし合いながら、他の弟子た ちよりもいっそう精進し、また他の弟子たちに抜きん出て、両者の結束はますます固くなっ た。ボローニャでルドヴィーコに学んだ時もそうだったし、その後ローマに出てアンニー バレ7の指導下に頭角を現した時も同様だった。ローマで彼らは他の誰よりもアンニーバ レに大事にされ推奨されたのだった。
ところでアルバーニは、(この画家の伝記で述べたように)ガッレリーア・ファルネー ゼ8を見ようとローマに行ってしまった。ガッレリーア・ファルネーゼは、まだ全体は完 成していなかったが、押さえきれない評判を呼んで多くの人々が声高に話題としていた。
ローマに赴くにあたって、アルバーニは、親友との別れを嘆いていたドメニコに、ファル ネーゼ家の宮廷で仕事の必要ができ、運が向いてきたら必ずローマに呼んで滞在させる、
と約束していた。ボローニャでも、カラッチの弟子たちは、ごく僅かな仕事でも分け合っ ていたのだった。だが、6ヶ月待っても口約束だけなのにしびれを切らしたドメニコは、
直ちにローマへ赴くと決断し早速実行した。ドメニコが突然姿を現したのにはアルバーニ も驚いたが、仲間たちと一緒に友人を暖かく迎え入れ、自分の住居に住まわせて
18
ヶ月 間世話をした。ドメニコがローマ行きを早めた理由の一つには、アンニーバレの弟子が描 いた素描が送られてきたことがあった。ただしこれらの素描はラファエッロの作品の模写 ではなく(この点でバリオーネは間違っている)、アンニーバレ自身による先にふれた作 品〔ガッレリーア・ファルネーゼ〕の模写だった。アンニーバレの絵を模写した素描があ6Francesco Albani 1578-1660 cf. C. R. Pugliesi,
Francesco Albani Yale U. P. 1999
7
Annibale Carracci 1560-1609 cf. D. Posner, Annibale Carracci, 2. Vols, London; C.
Dempsey "Annibale Carracci" in L'idea del bello: viaggio per Roma nel Seicento con Giovan Pietro Bellori ed. E. Borea Roma 200 p.199-211
8
Posner, op. cit., Vol. 2(Catalogue Raisonne') n.111 ; J. R. Martin, The Farnese
Gallery Princeton U. P. 1965 ; Le Palais Farn se cole Fran aise Rome: cole
Fran aise de Rome 1980; Briganti, Chastel, Zapperi, Gli amori degli dei : nuove
indagini sulla Galleria Farnese Roma 1987;
る日ルドヴィーコの画塾に届き、ドメニコはそれらを見たのだが、たちまち感嘆して喜び に満たされ、翌日にはローマに向けて旅立ったのである。出来るだけ早く目的地に着き、
かくも壮大で崇高な作品を鑑賞して多くを学びたいと思ったのだった。
アンニーバレもまた、ドメニコが来るのを望んでいた。アルバーニから高い評価を聞か されて、自らこの若者をその才能にふさわしく育てたいという気持ちがあっただけでなく、
この若者を子飼いの弟子としてグイド〔・レニ〕に対抗させたいという動機もあった。グ イドの名声にはアンニーバレ自身が多少とも嫉妬を感じていたのである。そこで、ルドヴィー コがボローニャでグェルチーノ9をグイドと対抗させたのと同様に、ローマではザンピエー リを対抗させてはどうかと提案もされていた。つまりレニに対抗してドメニコをローマに 呼び、出来るだけ仕事をさせて引き立て、レニよりずっと優れているという評判を立てよ うとしたのだった。そこでアルバーニがエレーラ礼拝堂10で仕事させられたのと同様にド メニキーノも意図的にガッレリーアで用いられた。 そうした期待から、 自らの考案
(invenzione)で庭の四阿に何か描くよう命ぜられたドメニキーノは、アドニスが猪に殺 される情景を見事に表現し、心の動きや激しい感情を描き出す才能をよく示した。11ドメ ニキーノはこれに続いてガッレリーアでも幾つかの人物の下絵制作を任され、特にファル ネーゼ家の標章である一角獣を胸に抱く乙女を全く一人で描いた。12さらにドメニコは、
サン・グレゴリオ聖堂に付属した祈祷所に描かれる聖アンデレの物語二場面の一つを割り 当ててもらいたいと望み、願いは叶えられた。13この仕事でアンニーバレが毎日現場に足 を運び、ドメニコに注意したり手伝ったりしたことはよく知られている。この絵が完成し た後、レニが描いた《十字架を拝む聖アンデレ》よりドメニコの《鞭打ち》場面が優れて いると判断したというアンニーバレの見解(彼は無学な老女の見解に賛同したと言われて いる)については別の場所で触れた。14
9Guercino( Giovanni Barbieri )1591-1666 cf. N. Grimaldi,
Il Guercino : Gian Francesco Barbieri, 1591-1666, Bologna 1991; Mahon, Pulini, Sgarbi Guercino : poesia e sentimento nella pittura del '600. Novara 2003
10
Posner, op. cit. Catalogue n.154-172 ; Pugliesi, op. cit
(n.6)p.112-119
11
R. E. Spear, Domenichino 2vols. Yale U. P. 1982 Catalogue n. 10
12
ibidem, vol.1 p.135 Catalogue n.12 ;ベッローリは、アンニーバレの下絵に基づいてド
メニキーノが描いたとするが、 こちらの見解が現在では支持されている。Cf. G. P.Bellori Le vite de' pittori, scultori ed architetti moderni ed. E. Borea Torino 197 p.312; Posner op. cit. p63;
13
Spear Domenichino cit. Catalogue n.33
14サン・タンドレア祈祷所における二人の画家の競作と作品の評価について、 マルヴァ
さて、ドメニコがローマで制作し、当然ふさわしい名声を獲得したこれら諸作品につい て、多少とも筋道立てて論じるため、ここでバリオーネの記事に頼ることにする。バリオー ネはドメニコと同時代にローマで暮らし、彼を知っていて交際もあった。バリオーネは全 面的に信頼するに足るが、わたしは、アルバーニその他の人びとに彼のドメニキーノ伝を 読んで聞き出したことを付け加えたい。ボローニャ在住のドメニキーノ未亡人マルシビリ ア夫人と話して知ったこともある。
さて、上記の著述家バリオーネは以下のように述べている。ローマに到着したザンピエー リは「彼の保護を買って出たピエトロ・アルドブランディーニ枢機卿15から、当時その 儀典長を勤めていたフランチェスコ・ポロ殿に預けられた。彼はしばしば自分の素描を携 えて、彼と同様ボローニャ出身だったジョヴァンニ・バッティスタ・アグッキ師16の元 を訪れた。アグッキ師は当時、アルドブランディーニ枢機卿の執事だったが、後にアマジ アの大司教となり、さらにヴェネツィア滞在の教皇大使として生涯を閉じた。同師はドメ ニコの仕事ぶりに才気を認めて感心し、兄にあたるジロラモ・アグッキ枢機卿の住む家に この若者を家に連れ戻った。だが、兄の枢機卿は、ドメニコをあまり高く評価しなかった ため、アグッキ師は画家に命じて密かに、天使によって牢獄から解放される聖ペテロの油 彩画を描かせ、枢機卿が留守の間にこっそり、ある部屋の入り口の上に飾らせた。17枢機 卿は戻ってこの絵を見たが、誰がこんなところに絵をおいたのか分からず、遂に画家たち に見せたところ、一人前の画家にふさわしい優れた作品だと言われた。そして彼は弟のジョ
ジーアは「レニ伝」で語っている。C. C. Malvasia
Felsina pittrice cit. vol.2 p.14;
ここで 触れられる「老女の逸話(この祈祷所に幼子を連れた老女がやって来て、レニの絵を見ても何 も言わなかったが、ドメニキーノの絵をみて子供にあれこれ説明し、これを見たアンニーバレは、ドメニキーノの方が歴史画として優れていると判断した)」はベッローリ(Le vite cit.
p.319)
も触れている。この逸話の解釈については、F. Thuerlemann "Betrachterperspektiven im
Konflikt: Zur Ueberliferungsgeschichte der vecchiarella -Anekdote" in W. Kemp Der Betrachter is im Bild Berlin 1992 p.169-207
を参照のこと。15
Pietro Aldobrandini 1571-1621;
枢機卿。当時の教皇クレメーンス8
世の甥でもある実 力者だった。Dizionario Biografico degli Italianivol.2 p.107-112; T. Magnuson Rome in the age of Bernini 2vols Stockholm 1982 vol.1 p.40-96
16
Giovanni Battista Agucchi 1570-1632;
この時期、アルドブランディーニ枢機卿の秘 書であった。彼はアンニーバレ・カラッチとも親しく、《眠れるヴィーナス》(シャンティー ユ、コンデ美術館蔵)の叙述を残している。また「絵画論」の著述を企てたことでも知ら れる。Dizionario Biografico degli Italiani vol.3 p.504-506; D. Mahon Studies in Seicento Art Theory London 1947 p.109ff.
17
Spear op. cit. catalogue n.11
ヴァンニ・バッティスタに事の次第を聞かされた。そこで枢機卿は、しばらく後でドメニ コに命じ、自分の名義聖堂だったサン・トノーフリオ聖堂外側の列柱廊の半円形壁面3面 にフレスコ技法で聖ヒエロニムスの物語を描かせた。18この作品でザンピエーリは評判を とった。」ここに描かれたのは、聖人の洗礼、文体研究に凝りすぎたため天使に鞭打たれ る聖人、地面に倒れた悪魔の姿で表された誘惑に打ち勝った聖人の三場面である。これら の場面でドメニコはカラッチ一家の描法(maniera)をよく模倣しており、ややこぢんま りしていることさえなければ、カラッチの作と見違えられたことだろう。グイドの甘美な 描法の虜とならず、それをカラッチ風の表現で緩和して独自の新しい描法を作り上げたの だった。
さらに続けて「同枢機卿(この枢機卿の名義聖堂だったサン・ピエトロ・イン・ヴィンコ リ聖堂にその墓碑を設計し、それを飾る雄羊の頭部一体を彫刻し、さらに楕円画面に肖像を 描いた19)が没しても、ドメニコは先に名を挙げたアグッキ師の元で部屋を与えられ、同時に アンニーバレ・カラッチとアゴスティーノ・カラッチの画塾で学ぶ便宜が与えられた。アゴス ティーノは、ドメニコ・ザンピエリーリについて、他のどんな弟子も追随を許さないと述べた」
さらに「サン・ジャコモ・デリ・スパニョーリ聖堂内エレーラ礼拝堂では、アンニーバ レ指導の元に、フレスコ画法で優れた作品を多く描いた。」スカネッリ20も、その著書
『小世界(Microcosmo)』でこのように述べているが、これはバリオーネの間違いに惑わ されたもので、著者から献呈された同著作にアルバーニ自身が書き加えた註からして全く のでたらめである。21 確かにドメニコは、この聖職者の元で《聖母子像》22や《アドニスと ヴィーナス》23それから、ボルゲーゼ邸館にある二点の大変見事な作品24に優るとも劣ら
18
ibidem Catalogue n.15
19
Ibidem Catalogue n.23
20
F. Scannelli, Microcosmo della Pittura, 1657
(Ristampa Anastatica, Bologna 1989)p. 345
21アルバーニが、スカネッリの著書に自注を書き加えたものが残されており、そこでは、
この仕事にドメニキーノの名前が挙がっていない。ごく一部にドメニキーノの参加を認め る説もある。; Puglisi
op. cit. p.112;1660
年、アルバーニが没する直前に、スカネッリ の著作だけでなく、カラッチやドメニキーノ自筆の手紙、ベッローリの「アンニーバレ伝」冒頭部分の写しなど贈られたことをマルヴァジーアは、「アルバーニ伝」に書いている。
Malvasia Felsina 1841 vol.2 p.188
22
Spear, op. cit., Catalogue n.20
23失われたと思われる。cf. Spear, op. cit., p.132
24現在ボルゲーゼ美術館にある《ダイアナの狩》と《クマエの巫女》;Spear,
op. cit.,
Catalogue n.51, 52
ないほど素晴らしい《スザンナ》25を描いたのは確かで、この猊下は、彼の住まいを訪れ る人たちの全てにこれらの作品を見せ、ボローニャにも繰り返しそれらを賞賛しそれらの 素晴らしさを書き送っていた。先に触れた司祭〔アグッキ〕がドゥルチーニ司祭26に書き 送った
600
通に上る手紙の一つには「グイドはドメニコに負け始めている。もっとも運 はまだ彼に味方している」と書かれている。別の手紙には「グェルチーノは全く問題とな らない云々」とある。アグッキはこの司祭に、後にグレゴリウス15
世として教皇の座に 着いたルドヴィージ枢機卿の甥27が彼を訪問し、興味を持っている様々な絵画について四 方山話したことに触れ、さらに、この甥にチェント出身の画家〔グェルチーノ〕の絵を見 せたことに言及して「ボルゲーゼ枢機卿閣下28が所有し、古来の巨匠たちによる百点も の作品と並べて展示されるドメニキーノの二点の絵画29ほど素晴らしい絵は近年見たこ とがないように思われるとのことだった」と付け加えている。この聖職者〔アグッキ〕とアンニーバレは競い合うようにドメニキーノを引き立てた。
前者は教皇クレメーンス8世の甥ピエトロ・アルドブランディーニ枢機卿の執事を務めて おり、フラスカーティにある同猊下の豪奢な別邸の仕事を雇い主からドメニコに獲得して やったし、後者もまたやはり別の教皇の甥だった枢機卿猊下にドメニコを推薦した。とい うのは(バリオーネを引用すれば)「オドアルド・ファルネーゼ枢機卿30は、彼が管理す るグロッタ・フェッラータ修道院の一礼拝堂に絵を描かせようと思い、それにふさわしい 画家を選ぶようアンニーバレ〔・カラッチ〕に依頼したところ、アンニーバレは枢機卿に ドメニコの名前を挙げた。ドメニコはこの提案を受けて見事に完成させた。枢機卿自身も 多くの画家たちの賞賛を耳にした。」アルドブランディーニ家のフラスカーティ別邸にあ る《アポローンの間》に描かれた
10
場面の寓話31は優れたフランス人版画家の手によっ25《スザンナの水浴》Spear, op. cit., Catalogue n.28
26Bartolommeo Dulcini(Dolcini)1568-1638;
Dizionario Biografico degli Italiani vol.16 p.439-440;
ローマで活躍したAgucchi
の遠戚にあたり、頻繁に手紙のやり取りが あった。マルヴァジーアの情報源として貴重。著書にDe Vario Bononiae statu ab ea condita usque ad annum 1625
(1626)がある。27
Ludovico Ludovisi 1595-1632; cf. T. Magnuson op. cit. vol.1 p.193-214
28
Scipione Borghese 1576-1633 ;
教皇Paulus V
(Camillo Borghese)[在位:1605-1621]の甥として権勢を振るった;
Dizionario Biografico degli Italiani vol.12 p.620-624
29《ダイアナの狩》と《クマエの巫女》cf. n.24
30
Odoardo Farnese 1573-1626;
31
Spear, op. cit., Catalogue n.55;
現在、壁から剥がされてロンドンのナショナルギャラ リー蔵である。て見事な腐食銅版画に再現された。グロッタ・フェッラータ修道院の上述の礼拝堂には
(バリオーネによれば)「聖バジリウス修道会の僧であった聖ニルスのさまざまな物語が描 かれているが、どの画面もきわめて生き生きと精気に満ちた表現である。また祭壇上の円 蓋には漆喰を模した装飾が描かれている。この装飾については、眺める人々にたいして修 道僧たちが、それは描かれているのであって本物の漆喰装飾ではないと説明するのが常だっ た。さもなければ、画家の評判全体が台無しになっただろう。この仕事は絵筆によってな されたものだったからである」32
彼の親友アルバーニもドメニキーノがローマで画家として売り出すのに一役買った。わ たしにしばしば語ったところによれば、アルバーニは多くの人々にドメニコの優れている 所以を話し、同時にドメニコには彼の元から離れて独り立ちするように頼んだ。ドメニコ が寄宿している間に一人で描いた幾つかの小品が、ドメニコ自身の手になるものではない とか、同居人〔アルバーノ〕が下絵を描いたり手を貸したりしたのではないかという評判 が立たぬよう願ったからである。ポーリ枢機卿33にドメニコを紹介したのも、アグッキ家 に寄宿するよう手配したのもアルバーノ〔アルバーニ〕だった。アルバーノはさらに、当 時クレメーンス教皇の宮廷で活動していたどの画家と比べてもドメニコは遜色ないと誇張 して喧伝し、ジュデア広場に面したパトリツィオ枢機卿の邸館(現コスタグーティ邸)の 一広間の天井装飾34がドメニコに割り当てられるよう手配した。ジュスティニアーニ侯爵 にもドメニコを推薦し、当時バッサーノの城館に絵画装飾を行っていた侯爵が、彼に一部 屋を任せてダイアナの物語を描かせるようにした。これについてバリオーネは次ぎのよう に述べる。「ドメニコは、他の優れた画家たちとともに、ヴィンチェンツォ・ジュスティ ニアーニ侯爵35によってバッサーノにある侯爵の城館に招かれ、フレスコ技法で幾つか の絵を描いたが、いずれも際立っていた。」
32Abbazzia di Grotta Ferrata Cappella dei Fondatori; Spear,
op. cit., Catalogue n.35
33
Francesco Poli; maestro delle cerimonie del Card. Aldovrandini
(cf. Baglione, Le vite cit. p.382
)34
Spear, op. cit., Catalogue n.81;
このフレスコ画の制作年代については異論が多く、マ ルヴァジーアは、Palazzo Matteiの仕事(Spear, op. cit., Catalogue n.25)と混同した 可能性が高い。35
Vincenzo Giustiniani 1564-1637 cf. F. Haskell Patrons and painters: art and society in Baroque Rome 2nd ed. London 1980 p.94-96;A.A.V.V. Caravaggio e i Giustiniani;
Toccare con mano una collezione del Seicento, Roma 2001; A. Bureca La villa di
Vincenzo Giustiniani a Bassano Romano dalla storia al restauro Roma 2003
さて、バッサーノでの仕事を終えるとローマに戻り、「サン・グレゴリオ聖堂に付属し て使徒聖アンデレに捧げられた小礼拝堂があり、その片壁面にドメニコは見事なブオン・
フレスコ技法で、多くの人物を伴う聖アンデレ鞭打ちの情景を描いたが、これもなかなか 優れた作品である」。この絵がいつ注文されたかについて、バリオーネの記述では制作年 代が錯綜しているようである。先にも触れたが、ドメニコは、もっと以前にこの絵を描い たのだった。36つまりアンニーバレがまだ生きていて時期で、アンニーバレが熱心に働き かけてシピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿(ザンピエーリには、彼が得意としていた建築装飾 だけを描かせる積もりだった) が、 当初グイドに描かせる予定だった二面の歴史画
(storie)の一つをドメニコに与えるよう仕向けたのである。二人の画様が違っているか らいっそう優雅で興味深いものとなる、というのが口実だった。お互いに競いあえば画家 たちはいっそう自分の力を尽くすだろうというのだが、本当は、すでに同郷のアンニーバ レを見下していたグイドに競争相手を差し向け、グイドの評判を邪魔しようとしたのであ る。要するにグイドが、対抗する画家もなく、順風満帆で幸運と名声を謳歌するのを妨げ ようとしたのだった。またドメニコがバッサーノに赴いたのはアンニーバレが没した後で あり、さらにあの驚嘆すべき、絶賛に価する作品、「サン・ジローラモ・デッラ・カリタ 聖堂の主祭壇37にとても見事な油彩画を描いたが、これはとても評判になった。この絵 には聖ヒエロニムスが老年の極みにいたって司祭の元を訪れ、助祭らの手助けを借りて聖 体を拝領する様子が描かれている」とバリオーネが述べる祭壇画を描いた後でもあった。
どのような理由からバリオーネがバッサーノの作品を聖アンデレの鞭打ちよりも前とした のか、わたしにはわからない。
この祭壇画(《聖ヒエロニムス最後の聖体拝領》)はかつて描かれた中で最も見事な絵画 の一つであり、ドメニコは、ごく優秀な画家も含め、あらゆる画家を抜き去り、ローマ中 の賞賛を一身に集めたと人々に評価された。また、ニコロ・プッシーノ38とアンドレア・
サッキ39は、この祭壇画がサン・ピエトロ・イン・モントリオ聖堂にあるラファエッロ作
36これは 1608 年に描かれた(アンニーバレは 09 年没)。
37《聖ヒエロニムス最後の聖体拝領》(ヴァチカン美術館)。1614 年の年記があり、この 年に完成されたが、注文は 1611 年だった。Spear
op. cit. catalogue n.41
38
Nicolas Poussin 1594-1665; P. Rosenberg ed. Nicolas Poussin, Paris 1994
39
Andrea Sacchi; A. Sutherland Harris Andrea Sacchi: complete edition of the
paintings with a critical catalogue Oxford 1977; ibid. "Andrea Sacchi" L'idea del
bello: viaggio per Roma nel Seicento con Giovan Pietro Bellori ed. E. Borea Roma
2000 p.442-455
《キリストの変容》40にも匹敵すると度々語ったと伝えられるが、わたしは後者サッキが ボローニャに来たとき、むしろドメニキーノの作品の方が素晴らしいとさえ言い加えたの を知っている。もっともこれは、サッキがカルトジオ修道院にある作品〔アゴスティーノ 作《聖ヒエロニムス》〕-彼はその小さな銅版模写画を所望した-を目にする前のことだっ た。何れにしても、こうした高い評価にもかかわらず、この祭壇画を批判する者もおり、
当時からあった評価の相違は今日でも解消されていない。この祭壇画を非難する者は、そ れが前述したボローニャのカルトジオ修道院にアゴスティーノ・カラッチが見事に描いた
《聖ヒエロニムスの聖体拝領》の考案をそのまま露骨に取り入れていると主張し、特にラ ンフランコは、無遠慮なまでにこうした非難を言い広めた。このために中傷者とか嘘つき とさえ非難されたランフランコは、彼自身の言うところによれば、非難を排し自らの評判 を守るため、ブルゴーニュ人ペリエに上述したアゴスティーノの作品を銅版画に描かせ、
自分の非難が真実に照らして正しく事実無根ではないことをはっきりさせるべく、この版 画を人々に配った。41後にドメニコの祭壇画も銅版画となり、しかも、コリニョン〔フラ ンソワ:1610-78〕の画風に倣ったジョヴァンニ・チェーザレ・テスタの腐食銅版画で ペリエの作品よりずっと詳細かつ見事に表現された時、この版画には傑作にふさわしい下 記の賛辞が添えられた。「大ドメニキーノのローマにおける作品。万全の技量の素晴らし さ、感情の見事な表現において、特別に与えられた天分を遺憾なく発揮し、堂々たる不滅 の地位を獲得した。余人は羨み驚き黙して語らぬばかりである」全く、一度収まった論争 がこのような形で蒸し返されるとは。実際にはドメニコの絵がアゴスティーノのそれと全 く同一だというのは否定できない。もちろん部分的には変更が加えられているが、それに よってむしろずっと弱々しく劣ったものとなっている。アゴスティーノの原作がはるか遠 隔地にあるため、ドメニキーノの作品がかくも持て囃されるのである。聖人の姿も幾分か は弱々しげだが同一だし、顔立ちも一致している。聖体の秘蹟を執り行う司祭も同じ仕草 で同じ視点から眺められているし、違っているところは、顎にひげを生やし、祭服がゆっ たりしたギリシア式となっている程度である。アゴスティーノが描く司祭は、髭をきれい に剃っているカルトジオ会の僧たちに喜ばれるよう無髭なのである。死にかけた老聖人の 周囲に無遠慮に詰めかけた多くの人々の表現も不適切だしわざとらしい。実際、聖体が顕
40現在、ヴァチカン美術館蔵。
41この「事件」については E. Cropper
The Domenichino affair: novelty, imitation, and
theft in seventeenth-century Rome Yale U. P. 2005
を参照のこと。示されているのだから、人々の想いは死につつある聖人よりむしろ至上の主に向けられて いるべきだろう。そうであれば、傍らにいる女(パオリーナを描いたとされるが、これは 全くの時代錯誤で、一体どのような関係があるのか不明である)が、教会では普通「信心 深い女性」とされるのに、天使たちの聖餅を目の当たりにして胸を打つのではなく、まだ 死んでもいない聖人の手に口づけするのは、全くどうして真実味があると言えるのだろう か。それにまた、全くぎこちない、一かけらの優美さもなく天から墜落する小天使たちは どうだろう。これらは天井から吊された人形を思わせる。アゴスティーノの天使は全く違っ て柔軟だし、仕草もわざとらしさがなく素直で自然である。聖杯を捧げ持つ助司祭の服を 着た人物も、最後の聖体を与えるのに崇高な聖歌を唱えておらず、身振りもぎこちなくて 不自然だ。またギリシアでの慣例であるし、聖人も望んだはずなのに、どうして醗酵させ たイースト入りの聖体を描かなかったのだろうか。この作品は、全体としてあまりにも凝 りすぎており、総体として味気なく、堅苦しくて技巧に走っている。一方、アゴスティー ノの作品は素直で適切であり、自然で調和もとれていて、一気呵成に描かれたように見受 けられる。
フランス国民の聖堂である、サン・ルイジ聖堂で見事に描き上げた作品も同様の非難を 免れなかった。「サン・ルイジ・デイ・フランチェージ聖堂にフレスコによる大小様々な 画面で聖女チェチーリアの生涯と死の諸場面を描いた。半円天井の中央には天使たちに伴 われて昇天する聖女があり、その側面には偶像への生贄儀式を強要する暴君の前に立つ聖 女チェチーリアと、聖女と聖ウァレリアーヌスの間に天使が立ち両者に殉教の花冠を与え る様子が向かい合わせに描かれ、さらに、左側壁面には、自分の財産を貧しい人々に配分 する聖処女が描かれる。この場面には多数の人々がいろいろな仕草を見せている。右側壁 には死に臨む聖女が描かれ、ここにも多くの人々がいる中に聖女を慰めるウルバヌス聖教 皇の姿がある。研究を重ねて苦労し情熱を込めて制作された作品である」とバリオーネが 語る作品である。42 全体の中で最も素晴らしいとされた《施しをする聖女》の趣向
(pensiero)が、レッジォに描かれ、現在はモデナのエステ公の蒐集にある《聖ロクスの 施し》〔アンニーバレ作〕43をそのまま取り入れたと非難されたのだった。偉大な巨匠アン
42サン・ルイジ・デイ・フランチェージ聖堂ポレ礼拝堂(Cappella Polet); Spear
op. cit.
catalogue n.42
43現在はドレスデン国立美術館蔵
; Posner Annibale Carracci cit. vol.II p.35 catalogue
n.86
ニーバレが描いた情景は抑制が効いて堂々としているが、それに比べると、ドメニコの絵 は幼稚で卑俗である。アンニーバレの絵には多様な行為が描き込まれている。例えば最前 景には、座り込んだ女が施された硬貨を手のひらで数えているが、その夫は少し離れて石 に座り、嬉しそうな子供を両手であやしている。子供は施しを貰って大喜びの様子で、も らった硬貨を傍らにいる別の子供に見せびらかしている。また背中をはだけた若者が手押 し車で足の不自由な男を運んでいる。この哀れな男が弱り果てた表情はわれわれにもよく 分かる。胸元に子供を抱いた女はすでに施しを得て、大騒ぎする群衆から逃れようと階段 を下りている。また盲人の道案内を努める子供が慌てて先を急ぎ過ぎ、風琴が壊れるのを 恐れる盲人が彼の肩に掴まっている。彼は目が不自由なのを聴覚で補おうと傍らの老女に 耳を傾けている。この老女は自分にも場所を空けてもらいたいと嘆願している。すぐ近く にいる群衆はつま先立ちになって両腕を上げ、子供を肩車して施しを求めているが、何も もらえないのではないかと騒ぎ立てている。聖ロクスの背後では老人が座って大きな袋か ら施しの金を取り出し、慈悲の念から行われる施しを差配している。これらの一切が、富 を配分し貧困を癒すという絵画の内容に適っている。だが、ドメニコの絵では主要な画題 から全くかけ離れた逸話的情景、無関係でおどけた幼稚な情景が描き込まれている。子供 たちは誰も素直で楽しそうであり、敬虔で重々しく真剣な施しの雰囲気を台無しにしてい る。地面に転んだ男の子を引きずる娘を懲らしめようと叩く素振りを見せる女は場違いな 存在ではないか。あるいは、施された布を開いて検討する男の足元に立ち、黄金の飾りを 頭に載せて笑っている女の子(別な子供がこの飾りを欲しがって女の子に手を伸ばしてい る)はどうだろう。大人の着物を被ったものの脱ぐことができず、老女が袖と襟を持って 脱がしている別の女の子はどうだろう。手に持った服地を古着屋(片手の五本の指を立て、
もう片手の指を三本加えて買値を示している)に、熱心に見せている母親に抱かれながら 硬貨で遊んでいる赤ん坊はどうだろう。どの行為も皆ばらばらで、施しの敬虔さ、寛大さ よりむしろ市場や町の広場の情景にふさわしい。これは、言うなれば、下町風俗画バ ン ボ ッ チ ァ ー テ
で、全 く市場の哄笑や下賤な人々の喜びが描かれるのであり、信仰心に裏打ちされた行為の真摯 さが台無しになっている。
(ドメニキーノにとってさらに悪いことに)こうした、あるいはこれに類した批判が言 いがかりだとか悪意による中傷だとは考えられなかった。というのは、アルプス以北の国々 で公平な見方ができる人々、つまりフランスの画家たちの審判や見解でも、不幸なことに、
彼は批判されてしまったのだ。今日、その趣味が極めて洗練され実に知的なフランス人た
ちによって、(場所もあろうに)パリのフランス王立美術アカデミーで
1667
年に開催さ れた講演会でドメニキーノの作品は批判されたのである。同アカデミーの会員たちは、も ちろん一流の専門家たちで、その批判に不満を言ったり、反論したりするにはあたらない。彼らは以下の様に論じ、ドメニキーノの作品で例示した。つまり、「取り上げた主題の構 想(invenzione)に、何か部分的な行為を加えて、変化を持たせたいと思うならば、そう した行為が多すぎぬよう、卑俗でありすぎぬよう注意しなくてはならない。また、そうし た行為が描かれる物語(
istoria
)に関連したものであるよう注意しなくてはならない。」 そして、これに反した例として、我らが同郷人ドメニキーノの不注意さを取り上げ、以下 のように述べているのだが、ここでは原文のまま引用しておく。「ドメニキーノの一作品 つまり聖アンデレの殉教を描いた絵には反論すべきことが見いだされる。一刑吏は綱を引 いて転んでしまい笑い者になっている。そして他の者たちはこの男を見て極めて卑俗に笑 い転げている。この表現は全く真摯な主題にそぐわず、見る者たちの視線と共感を、殉教 に赴く聖人の姿に集中させず、この可笑しい行為に逸らせてしまう。つまり主要な出来事 にたいして付随的でしかない人物の表現は単純で自然で良識的でなくてはならず、作品の 本体にあたる人物像にたいしてその四肢にあたるような役割をはたすものでなくてはなら ないのだ」〔フランス語の引用〕44これ以上、何を付け加えるべきだろうか。ドメニキーノの同郷人であり、彼の親友でも あった才能豊かなボローニャ人アルガルディ45も、同じ見解を表明している。「貴下(こ れは私宛の手紙である)は不満を言う者たちには勝手に言わせて放っておきなさいませ。
(彼は、先述したサン・グレゴリオ聖堂で競作として描かれた聖アンデレの殉教に関する 私の質問に答えている)十字架を礼拝する聖アンデレの頭部、腕、胴体こそが優れている し、その風景の一部でさえも、聖アンデレの鞭打ちの物語絵全体、そこに描き込まれた建 築の数々より遙かに優れています。というのはこうした建築表現は、熱心な研究、たゆま ぬ努力、骨折りが必要ですが、これらは、とどのつまり誰でも追求できることです。困難 なのは決断と柔軟さにあるのですが、それらは誰でも出来るわけでなく、偉大な巨匠のみ
44A. F libien
Conf rences de l'Academie royale de peiture et de sculpture Paris 1569
Pr face p.XX;
ここでフェリビアンは「綱を引っ張って転ぶ刑吏」を問題としているが、これはドメニキーノが後に、サン・タンドレア・デッラ・ヴァッレ聖堂穹窿に描いた《聖 アンデレのむち打ち》に登場する刑吏である。Cf. Spear
op.cit catalogue n.88 vii p.251
45
Alessandro Algardi(彫刻家) 1595-1654 cf. J. Montagne, Alessandro Algardi, 2
Vols Yale U. P. 1985
がよくするものなのです云々」
「アンニーバレ・カラッチは、老婆のお喋りによってどちらの作品が優れているか判断 を教えられたとされますが、これは根拠のない作り話です。私自身が祭日に礼拝堂に行っ て実見したのですが、どの母親も我が子には、グイドが描いた子供を抱いた美しい母親を 見せ、何と美しい母親でしょう、何とかわいい子でしょう、ほらこの子のようすを見てご らん、おまえよりずっと可愛いよ、などと申しており、反対側の絵に注目する者など誰も いませんでしたし、そこに描かれた情景を見て恐れおののいたり悲しんだりする者も見か けませんでした。つまりどれも作り話で根も葉もないたわごとで、こうした悪ふざけは気 にかけることもありません云々。」アルガルディは、さらにザンボーニ博士に、一枚の油 彩画 について書いているが、この絵は(バリオーネが述べた通りの言葉使いによれば)
「同じ時期に、サン・ペトローニオ・デイ・ボロニェージ聖堂の主祭壇のために油彩画を 制作したが、この絵では幼子イエスを抱く聖母が中空に浮かび、その下には洗礼者聖ヨハ ネと大司教聖ペトロニウスが丹念に描き出されている」ものである。この油彩画46(ただ し、聖母は中空に浮かぶのではなく雲上の玉座に座している)についてアルガルディは以 下のように書いている。「この聖母は美しいけれど、御顔も御足も御手も全てが理想の美 しさであるグイドの聖母を念頭におけばどこもグイドには及びません。 確かに構想
(
invenzione
)では優れた人物だと思いますが、その構想は何れもわざととらしくて無理がある。例えば、それぞれヴァイオリンとヴィオラ、フルートとハープを奏でる4人の小 天使の表現は見事だけれど、そもそもなぜ彼らが楽を奏でているかと考えると、天使たち は聖母の被昇天を讃えているのだと見受けられます。これはフランチアやジョヴァンニ・
ベッリーニが用いた古くさく時代遅れの構想で、他に描くべきものが分からなかったので、
聖母の足元に奏楽・合唱の天使たちを配したのです。また、二人で聖ペトロニウスに司教 冠を被せようとしている小天使たちと鷲にまたがる小天使(鷲は背中に乗られて驚いてい る)も、詩的で見事な戯れとは言い難いでしょう。さらに、聖ペトロニウスと聖ヨハネの 姿勢がいかにぎこちないか、胴体に付け足されたような彼らの脚や、同様に付け足された 手がいかに生硬か気づけば驚くだろうし、一見して分かる非常な苦心の跡に同情を禁じ得 ないでしょう云々」
これが、哀れなドメニコの汗と苦労にたいする、結構な褒美、立派な恩賞だった。当時
46Spear
op. cit catalogue n.99
としても極めて厳格に裁かれ、全く劣っていると指摘される一方で、競争相手のグイドが 絶賛されるのを見たドメニコは、どうしたらいいのか途方に暮れることもあった。彼の保 護者だったアグッキとポーリに慰められ励まされなければ、絵画をあきらめて建築あるい はむしろ彫刻に打ち込んでいただろう。彼は彫刻にとりわけ興味を持ち、何度か試みて優 れた成果を上げていたのである。47 運が開けないため、ランフランコ48やアルピーノ49、ク ローチェ〔バルダッサーレ〕50、その他のあまり評判のない画家たちにさえ手伝いとして 紹介されるようになったドメニコは、仕事が速く短期間で完成させるというのでこれらの 画家たちに重要な仕事が割り当てられるのに驚きまた悩み苦しんだ。ボローニャ出身の画 家としてはアンニーバレに続いてタッコーニ〔インノチェンツォ〕51とアルバーニの評判 が高く、グイドは別格扱いで高く評価された。他方ドメニコはほとんど無名で賃金も値切 られ、仕事が与えられず、仕事を拒否されることすらあった。そこでドメニコは仲介者に 頼んで、報酬の条件抜きで仕事を求めるようになった。サン・ピエトロ・イン・ヴィンコ リ聖堂に描いた絵は試し描きで、屋敷においてもらえる感謝の証としてアグッキ枢機卿に 贈与された。サン・トノーフリオ聖堂に描いた3面の半円形壁画も同様だった。グロッタ・
フェッラータの仕事も、出費が少なくて済む若くて腕のいい画家を使おうというだけのこ とで、没する前のアンニーバレが彼に取りなしたものである。ファルネーゼ枢機卿はこの 仕事をランフランコに任せるつもりだった。《聖アンデレの鞭打ち》も同様で、ドメニコ は
150
スクードで描いたが、反対側の《十字架を拝む聖アンデレ》を描いたグイドには400
スクード与えられた。バッサーノでの仕事そして、〔バリオーネに従えば〕「マッテー イ広場に面した旧パトリツィ家(現コスタグーティ家) 邸館には彼がフレスコで異教の 神々を描いた天井画がある。この天井画は優雅に区切られている」(実は《時に暴かれる47ドメニキーノはジロラモ・アグッキ枢機卿の墓碑(サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ 聖堂)や同枢機卿の記念碑(ボローニャ、サン・ジャコモ・マッジォーレ聖堂)を手がけ ている。Spear
op. cit catalogue n.23
48
Giovanni Lanfranco; E. Schleier Giovanni Lanfranco : un pittore barocco tra Parma, Roma e Napoli Milano 2003; Negro/ Pirondini, La Scuola dei Carracci : i seguaci di Annibale e Agostino Modena 1995 p.171-216
49
Cavalier d'Arpino
(Giuseppe Cesari)1568-1640; H. Roettigen Il Cavalier Giuseppe Cesari D'Arpino : un grande pittore nello splendore della fama e nell'inconstanza della fortuna Roma 2002
50
Baldassarre Croce 1558-1621;
51