近代精神におけるファム・ファタルの新しい形
―
ヴェーデキントの『ルル』と
19世紀末―
日 中 鎮 朗
1.『ルル』に至るまでのファム・ファタルとその諸特性
マリオ・プラーツはその著The Romantic Agonyにおいて、社会的、精神的、ま た生命的次元において男を滅ぼす<宿命(運命)の女>(Fatal Woman、femme fatale)を文学、絵画などの芸術における普遍的なテーマとして捉えている。
There have always existed Fatal Women both in mythology and in literature, since mythology and literature are imaginative reflections of the various aspects of real life, and real life has always provided more or less complete examples of arrogant and cruel female characters. (Praz 199)
プラーツは<宿命の女>に実生活にも見出されるという女性の「傲慢で残酷」と いう性質を付与し、第4章においてスウィンバーン、ゴーティエ、ダヌンツィオ を検証しつつ、ビュブリス、ミュルラ、パーシパエー、デリラ、イゼベル、ホグラ、
コムネーナなどを挙げる。彼女らが男を滅ぼす物語をスウィンバーンのパイドラ やダヌンツィオのトラーバが呪いに満ちた言葉で語っているとし、傲慢、残酷、
暴力、悪魔、娼婦、異エグゾティスム国性、快楽、官能といった性質をプラーツはこれら宿命の 女から導き出す。第5章ではサマン、パスコリの詩やモローの絵画『ヘレネ』(1880 年)などの作品を挙げ、「これが残酷なヘレネ、あの威厳ある宿命の女に(“cruel Helen, the majestic Fatal Woman”)口づけを悶え求める青年たちの大殺戮(massacre)
なのである」(Praz 212)として、サロメやスフィンクスなどと同様にヘレネとい う歴史・神話的形象の女性をその残忍さ、官能性において<宿命の女>に位置づ けている。ここには後述する「男性が女性に滅ぼされたいという欲望を持つ、あ
るいは少なくとも滅ぼされることが分かっていてもそれを避けない」というファ ム・ファタル要件を構成する男性側の心理的性質もすでに明瞭に見て取れる。
プラーツはジョン・キーツの詩、La Belle Dame sans Merci.A Ballad.(1819年、
1820年 改 稿 ) の 詩 の 一 節、I saw pale kings, and prices too, / Pale warriors, death- pale were they all; / Who cry’d―‘La belle Dame sans merci / Hath thee in thrall!’ (Keats 335)を章の標題に掲げているが、この詩の内容を精査しても、騎士の彷徨、美 女(妖精)と騎士の愛、蒼ざめた男たちは描かれているが、傲慢、残酷、暴力、
悪魔的などのファム・ファタルの諸要素は見出せない。こうしたことが起るのは この詩が形式的には3人称形式のバラッドではあるが、内実的には作者の問いに 答える聞き取り形式で展開されているため、「慈悲なき美しき女」(「冷たい美女」)
というタイトルによって読者がイメージ操作、あるいは(ミス)リードされた形 で騎士の落魄の原因を求め、ヴォルフガング・イーザー的、読者受容理論的意味 における空白を埋める作業をしてゆくことに起因する。つまりこれらの要素は ファム・ファタルとされた女性の属性や本質ではなく、男性が宿命の女という位 置づけに読み取るイメージ、あるいは男性が一方的に付与した性質に過ぎないの である。i
プラーツがLa Belle Dame sans Merci. A Ballad.をいわゆるファム・ファタルの 文学(詩)における典型的な始まりとして認識する理由は2点あると考えられる。
一つは絵画を常に視野に入れているプラーツが“Keats is especially noteworthy, because in him are to be found the seeds of various elements which were to be developed later by the Pre-Raphaelites and…”(Praz 211)と指摘するように、ラファエル前派 がキーツのこの詩をモチーフにして様々に絵画化したことであり、もう一つは キーツの(イギリス)ロマン主義というその所属性にある。それゆえプラーツは
「ロマン派の初期の間、つまり19世紀半ばまでに文学上ではいくつかの宿命の女
(Fatal Woman)に我々は出会う」(Praz 201)とし、宿命の女がもつエグゾティス ムに関しても「ロマン派の時代に興隆したエグゾティスムのタイプのみについて」
議論を集中させる(Praz 211f.)。しかしながらイギリス・ロマン主義の作品にエ グゾティックなファム・ファタルが多く現れ、絵画化されることはロマン主義と ファム・ファタルの関わり方の特徴ではあるが、それがファム・ファタルの構成
要件でもメルクマールでもなければ、文学上の始まりを保証するものでもない。
キーツの詩が示唆するのは別のこと、つまり男性が女性に滅ぼされたいという欲 望を持つ、あるいは少なくとも滅ぼされることが分かっていてもそれを避けない ということであり、それがファム・ファタルの物語上の弁別的、定義的な構成要 件となる。男性側のこうした欲望や意志が単なる犯罪的事例・物語をファム・ファ タル物語の範疇から排除するメルクマールとなる。
歴史的、神話的女性ではなく、小説形式で文学上に形成されたファム・ファタ ル像の始源は、一般的にアベ・プレヴォの『騎士デ・グリュとマノン・レスコー の物語』(Histoire du Chevalier des Grieux et de Manon Lescaut. 1731年 以下、『マ ノン・レスコー』と略記)であろう。良家出身・有徳のデ・グリュが、贅沢・快 楽に弱く、浮気(金持ちのパトロンに囲われること)を繰り返すマノンに翻弄さ れ、最後に罪人としてアメリカに流刑されるマノンにデ・グリュが同行し、人生 を棒に振ったことは冒頭の作者の言葉にも明白で(Prévost 3-6)、男性が好んで0 0 0 滅ぼされてゆく
0 0 0 0 0 0 0
というストーリーは、ファム・ファタルの物語上の構成要件を満 たす(この場合、アメリカでマノンは死ぬが、デ・グリュは生き残るので、将来 を嘱望されたデ・グリュの社会性を滅ぼしている)。
Elle pèche sans malice, disois-je en moi-meme. Elle est legere, et imprudente; mais elle est droite, et sincere.(Prévost 141)
「マノンは軽薄で軽率だが、心がまっすぐで誠実なのだ」というデ・グリュの見 方は必ずしも恋する男の盲目として処理できない。告白小説形式では、語りの視 点の恣意性は確かに拭いきれず、読者はそれに従って読むしかないが、それを考 慮に入れても、プラーツがファム・ファタルの特性として挙げる諸要素はここに は見当たらない(傲慢、残酷、暴力、悪魔的、邪淫はマノンには全くなく、罪、
妖婦・娼婦性といった属性も基本的にない)。つまり、それらはファム・ファタ ルの要素たり得るが、必要要件ではない。そもそもデ・グリュは愛人に関するマ ノン自身の告白を聞いていてさえ、彼女の悪意・悪気のなさ、いや誠実さを確信 するのだから、浮気や快楽の追求を本来的なネガティブな面としてマノンに見出
すことは適切ではない。
ファム・ファタルのイメージと必要要件とのこうしたズレはどこから生じるの であろうか?プラーツはカルメンも悪魔的ファム・ファタルとしたが、実際には メリメは恋占い、媚薬、踊り(これらは言外に、あるいは明白に性と結び付けら れている)、不正、不敵さ、狡猾、金儲け、ロマ同士の連帯感、宗教への無関心 などを論じた後、ロマ(ロム/ジターノ/ジプシー)の貧困、嫌悪感をその傲慢 さと狡猾さを介していわば逆説的に印象付ける。
Malgré leur misère et l’espèce d’aversion qu’ils inspirent, les bohémiens jouissent cependant d’une certaine considération parmi les gens peu éclaires, et ils en sont très vains. Ils se sentent une race supérieure pour l’intelligence et méprisent cordialment le peuple qui leur donne l’hospitalité.(Mérimée 92)
ここにはメリメのロマ論がまず存在し、その偏見的結論に基づいて小説を構成す るという構造が読み取れる。それゆえホセがカルメンの前では意気地がなくなり、
服従してしまう状況(Mérimée 60-61)は上記引用部分のメリメのロマ(ジプシー)
観の一例となってしまう。つまりアンダルシア出身のロマ(ジプシー)の女性で あるカルメンに対するホセの怖れは、ブルジョワ市民社会階層のアカデミー会員 であり、言語学者、民俗学者、民族学者、歴史学者としてのメリメのロマ(ジプ シー)への偏見と差別観念を反映している。メリメがロマ(ジプシー)に下す評 価のいわば実証が『カルメン』の第3章であり、カルメンの占いも結婚生活の自 由さも第4章のメリメの見解の実例であり、夫のガルシアの特徴(“C’était bien le plus vilain monstre que la Bohême ait nourri: noir de peau et plus noir d’âme, c’était le plus franc scélérat que j’aie rencontré dans ma vie.” Mérimée 61)もまったく同様な意 図から人物形成される。
ホ セ の“Je ne sais pas si dans sa vie cette fille-là a jamais dit un mot de vérité.”
(Mérimée 41)という述懐、“S’il y a des sorcières, cette fille-là en était une!” (Mérimée 43)という告白、ホセとカルメンの“Tu es le diable” “Oui”というやり取り(Mérimée 63)において、ホセの与える<嘘つき・虚偽という性質>、<魔女>、<悪魔的
>という名辞は語り手ホセ=メリメのカルメンに対する見方にすぎず、確かにカ ルメンは盗賊ではあるが、悪魔性も魔女性もない。ここでもカルメンにはプラー ツがファム・ファタルに与えた特性がそのまま見出せず、これらがファム・ファ タルの必要要素でないことがわかる(傲慢、残酷、暴力、死、罪はカルメンにで はなく、その夫ガルシアにある)。『マノン・レスコー』同様『カルメン』も語り 手<私>が主人公の告白を聞き取り、途中から主人公が<私>という一人称で語 り始めるという小説の構造であり、聞き取り形式の小説は真実性を保証するよう に見せる読者操作の構造である。
19世紀以前には無頼の徒や犯罪者の綴る「物語」はほぼ存在していなかった が1820年以降大量に現れたとするフーコーはその原因をジャーナリズムの存在 とともに、<告白>という形態に帰す。何よりも告白は「西欧に於ては、根本的に、
自分の罪について語るもの」であり―その罪は多分に性的なものであり、キリス ト教の告解が典型的である―、また「言葉を始動させるものは、本質的なる体験 としての過ち」なのだと言う(フーコー「権力と知」575)。主体の罪や過ちの告 白は「(…)主体の性現象に関する、主体自身の上に効果をもたらすことのでき る真理の言説を産出するよう主体にうながすあらゆる手続きを意味している」の である(フーコー「ミシェル・フーコーのゲーム」435)。つまり告白という形態 は告白者の罪や過ちを赦せるという権力を持った者=告白を聴く者の権力が前提 であり、その権力が「真理の言説」の産出を「うながす」形態なのである。とい うことは促された告白の真偽は、聴く者にとっての都合のよさによって決定され、
告白の「真理の言説」は従って、客観的な真理ではないが、真理の様相を呈さざ るを得ないのであり、それが告白(文学)の様態といえる。その限りにおいて、
プレヴォやメリメは告白(文学)を読者に一番真理に近い形態と信じ込ませたう えで、読者を操作できるのである。
2.啓蒙期以降のファム・ファタルの様態とその時代的な背景
ハンス・マイヤーは啓蒙主義の時代には男女の 平グライヒハイト等 が理念としては一般的で、
普遍的な平等主義は18世紀の終わりには当然のこととなっていたと述べ、その
証左として、モーツァルトの『魔笛』(1787年作曲、初演)のタミーノは、「そ れ(=王子)以上のものだ、彼は人間なのだ」とザラストロが答える場面を引き 合いに出す(Mayer 71括弧内は引用者)。ここにパパゲーノが「自分は何と言っ ても人間だ、人間になりたい」のだとたびたび主張すること、またムーア人であ るモノスタトスが「黒人だからと言ってハートがないわけじゃない、同じ人間な のだ」と歌う場面も付け加えることができるだろう。つまり、『魔笛』は普遍的 平等・人間中心主義に満ちていた。しかし、こうした男女の平等主義はシラーの 1801年の戯曲『オルレアンの乙女』(Jungfrau von Orléans)をその最後のメルクマー ルとする(Mayer 68f.)。王家・貴族政権を駆逐した市民階級では富裕市民階級と 労働者(市民)階級とに分かれることによって、男女の平等についても変化が生 じてきた。これは先進国のフランスにおいてとりわけ明白に見て取れる。産業革 命の影響を受けた大都市パリに人口が集中し、それに伴って格差と犯罪、工場労 働者として雇用される女性の貧困とそれに起因する売春と内縁関係という状況が 現れる。貧困さゆえに工場労働者の女性は内縁関係を結ぶことで生活が可能にな り、それに伴って私生児が増加する。この私生児の増加を行政当局は犯罪の増加 と結びつける。
セーヌ県の高級官僚は、私生児が犯罪者の温床であると警告した。この私生 児の増加の原因である同棲の蔓延が、都市貧困層における市民道徳・秩序観 念の確立と、このための健全な家族の構築に対する大きな障害であるとされ ていた。(赤司道和 『19世紀パリ社会史』108頁)
都市貧困層=下層労働者階級の存在がやがてブルジョワ市民階級においても健全 な家庭の形成を阻害し、道徳・秩序観念の確立を不可能にするという見方が、そ の帰結として平等の観念を放棄させ、ブルジョワ市民階級による都市貧困層の排 除とスケープゴート化を導くのは明白である。当然、この両者の対立も厳しさを 増す。マイヤーはこの状況の説明をユディト(Judith ユーディット)とオルレア ンの乙女(Jeanne d’Arcジャンヌ・ダルク)の受容の差に見出している。ともに国(ユ ディトの場合はベトリアという町。ルターが旧約聖書外典の『ユディト記』に「ベ
トゥーリアの乙女」と注記したことをマイヤーは記している。)を救った二人の 女性だが、オルレアンの乙女、つまりジャンヌ・ダルクは<女性という性を失う
(考慮されない)>ことでアウトサイダー化することなく、国難を救った行為だ けが認知され、フランスの国民的象徴になり、一方、ユディトは恋人の寝首をか いた<女性>として「市民世界において初めて完全なアウトサイダーになった」
(Mayer 70)という。つまり、女性性を失うことによって英雄となり、女性性を 保つことで負(アウトサイダー)になるという変化に男女同権の崩壊と、女性と いう性の封じ込めのプロセスが見てとれるのである。
Hinter dem Unbehagen des bürgerlichen 19. Jahrhunderts am Schicksal und Tun der Judith spürt man Unbehagen am Ernst weiblicher Gleichberechtigung. Das literarische Monument und Dokument regredierender Aufklärung vor der Forderung des Feminismus findet sich in der >Judith< Friedrich Hebbels vom Jahre 1841. […]
Genauer: sie ist zu verstehen als Selbstverständigung einer bürgerlichen Gesellschaft in Deutschland darüber, daß die Gleichberechtigung der Frau, ihre Politisierung gar und Aktivierung, weder möglich sei noch wünschenswert.(Mayer 70-71イタリッ クはMayer)
封建秩序に対抗する啓蒙主義はまさにその思想と立場ゆえに、女性の同権、政治 参加、活動に寛容で理解的である。『マノン・レスコー』はまさにそうした時代 に書かれた。しかし、啓蒙主義が後退し、19世紀の半ばには女性の同権、政治 参加、活動が市民社会にはもはや可能なものでも望ましいものでもない状況は明 瞭になっていた。“die revolutionären und gleichberechtigten Frauen”(Mayer 72)と されるテロワーニュ・ド・メリクールが活躍する40年前に書かれた『マノン・
レスコー』と、女性の性を悪魔性、官能性に置き換えたメリメの『カルメン』(1845 年)や年代的に近接したヘッベルの『ユーディット』(1841年)とのヒロインの 扱い方の差は啓蒙主義から反啓蒙主義への時代の差を反映しているのである。
1848年のヨーロッパの革命、つまりドイツとオーストリアでの3月革命、イ
タリアでの蜂起(第1次独立戦争は翌年まで)は早い時期に失敗ないしは崩壊し、
フランス2月革命での第2共和政も失敗し、4年後(1852年)に第2帝政に取っ て代られる。これらは―とりわけ選挙権の拡大を巡って―ブルジョワ市民階級の 心に労働者階級に対する恐怖感を残した。「諸国民の春」がマルクスとエンゲル スの『共産党宣言』(Manifest der kommunistischen Partei)発行の年と同じである のは偶然ではない。まさに『共産党宣言』に書かれた階級闘争がブルジョワ市民 階級に恐怖を呼び覚ますプロセスそのものだからだ。
マイヤーは“Mit Beginn des 19. Jahrhunderts ist in der Realität das Gleichheitspostulat der Geschlechter aufgehoben.”(Mayer 72)とするが、シラーの『オルレアンの乙女』
に関するマイヤー自身の言説に従えば、現象としては19世紀の半ばにはブルジョ ワ啓蒙主義、つまり、明示的な反啓蒙主義運動ではなく、偽装された、あるいは カムフラージュされた形で労働者への抑圧思潮となった反啓蒙主義は男女・階級 の差異化と反平等化を推し進めたのである。
3.19 世紀末におけるファム・ファタル像―『ルル』の時代
ではこの反平等化、ブルジョワ階級による反啓蒙主義は、ファム・ファタルと いう視点からは芸術表現においてどのように表出されているだろうか?
バーン・ジョーンズ(『マーリンの欺き』1872-77年)、モロー(『出現』『ヘロ デ王の前で踊るサロメ』1874-76年)、ビアズリー(オスカー・ワイルド『サロメ』
挿絵 1892年)、クリムト(『ユディト』1901年、1909年)、シュトゥック(『サ ロメ』1906年)など19世紀末の芸術的な傾向、とりわけ絵画においては幻想的、
頽廃的、官能的、神秘主義的、審美的といわれる傾向のなかで歴史、神話、伝承(文 学)のヒロインがファム・ファタルとして多く描かれる。では文学ではどうであ ろうか?
やはりファム・ファタルの物語とされるフランク・ヴェーデキントの戯曲『ル ル』2部作(『地霊』+『パンドラの箱』)をここで見ていきたい。ii ルルはファ ム・ファタルの一典型と一般的にはみなされている。Hilmesも「世紀末ドイツ 文学の最も有名なファム・ファタル像はルルである。ルル像でヴェーデキントは
デモーニッシュな誘惑者というモティーフを新しく形成したのである」(Hilmes 155)としている。
ルルがファム・ファタルの一典型とされるのは、ルルは―すべて男性側の嫉 妬がらみであるが―最初の結婚の相手である衛生顧問官ゴルを脳卒中死させ、
二番目の夫である画家のシュヴァルツを自殺させ、三番目の夫、編集長シェーン 博士を射殺し、また性的関係をシゴルヒやアルヴァ、ピアーニ、ロドリーゴとも 持っていると思われ、さらに娼婦として客を引いてきて、最後には切り裂きジャッ クに殺されるからだ。しかもゴルもシュヴァルツもシェーン博士の息子であるア ルヴァ(彼は直接ルルに殺されるわけではないが、ルルの引いてきた客に殺され る)も真面目・純粋な人間に分類される。つまり、ルルは(純粋な)男を滅ぼす 性的に放縦なファム・ファタルというわけである。実際、ハルトムート・ヴィン ソンによれば、「ヴェーデキントの同時代人はルルを1.擬人化された性(性の 権化) 2.女性性の原理 3. 原ウアヴァイプ女性 4.高級娼婦としての女性 5.誘惑者と しての女性 6.色ニ ン フ ォ マ ー ニ ン
情症の女 7.破壊的な力としての女性 8.死に至る生の原 則、として見た」(Vinçon 188)のであるから、そのどれもがルルのファム・ファ タル性を指示しているといえるだろう。また、アルヴァがシェーン博士の息子で あるという点から近親相姦的な禁タ ブ ー忌侵犯とその淫猥さを付け加えることもできる だろう。
いわゆる『ルル』2部作とされる『地霊』と『パンドラの箱』の成立は複雑で ある。ヴェーデキントが5幕の『パンドラの箱』(1894年)を分割あるいは章を 書き加えて発展させ、『地霊』(1895年)と『パンドラの箱』(1902年、ただし初 演は1904年)にしたが、版を変えるたびに献辞やプロローグがつき、異同が生 じている。二部作を合わせ、『ルル』Lulu(1913)とするものもある。マイヤー は「ルルを中心人物とした二部作(Doppeldrama)にヴェーデキントが1892年 から1894年まで取り組んだ」(Mayer 129)とのみ記して『ルル』を論じている。
上演もDrei Masken Verlagを通すなど権利関係も難しい。『ルル』二部作の各種版
の異同や正確な成立年の同定にはこれ以上立ち入らないが、本論において依拠す る版について記しておく必要があると思われる。本論ではWilly Grétorへの「献辞」
がついたErdgeist. Tragödie in vier Aufzügen (1893)と1905年5月29日ウィーンの
トリアノン劇場での上演配役表(演出はAlbert Heine、ルル役は1906年5月1日 にヴェーデキントと結婚したTilly Newes)およびプロローグがついたDie Büchse der Pandoraを収めたミュンヘンのGeorg Müller Verlag出版のFrank Wedekind / Gesammelte Werke. Dritter Band (1920)の版を使用する(戯曲全体を指す場合には 総称的に『ルル』(二部作)と言い、必要があれば『地霊』(引用はEGと省略)、
『パンドラの箱』(引用はBPと省略)と区別する)。Georg Müller(1877-1917)は 1903年にミュンヘンにGeorg Müller Verlagを設立した。ヴェーデキントがマック ス・ラインハルトと契約や金銭で問題を抱えているときに、日記のなかで「マッ クス・ラインハルトが文書で向こう3年間私の出版者の要求に保証を取り決めた 契約を提示した」(Wedekind, Die Tagebücher 324)と記述される彼の出版者となっ た人物である。『ルル』は19世紀末―『ルル』成立を最大限に広く見積もった 場合の1892年から1906年はまさにドイツ語で言う世紀末、Jahrhundertwendeで ある―のファム・ファタルの物語といえるのである。
では前述したようにファム・ファタルとされるサロメやユディトなどが盛んに 絵画のモチーフとなった19世紀末とはそもそもどのような時代なのだろうか?
Mit dem zu Ende gehenden 19. Jahrhundert zogen die bürgerlichen Heroinen hinab ins Historische. In den Gründerjahren nach 1870 hatten sie einmal noch eine große Zeit: […] Frauen immer wieder, die nach mehr als menschlichen Maß hassen und lieben, sterben und sterben machen. Medeen, Sophonisben, Fredegrunden, Brunhilden. Keine Jeanne d’Arc.(Mayer 127)
19世紀半ばにおいて、ヘッベルの『ユーディット』がそうであったように男性 に対する女性の同権の喪失や力の剥奪がなされた。つまり武器を持った女性が女 性という性である限りにおいて恐怖の対象とされ、排除対象となった。しかし、
やがて「人間的な程度を超えて憎み、愛し、死に、殺す女性たちが再び」前面に 出てきた、つまり絵画化、作品化され出したのである。そのとき逆にその対比と してある無性化され、英雄化されたジャンヌ・ダルクは絵画に描かれなかった。
つまり、男女の不平等化や女性の権利・力の剥奪はそのままで女性の<性>がク
ローズアップされたのである。だがどんな視点において、またなぜなのか、そし てどんな形においてであろうか?
ここでまず、Gründerzeitは一般に19世紀の半ばから1873年の株式市場の崩壊 までを指すという歴史的な事実を踏まえたうえで、『ルル』にそれを見ていくこ とから始めたい(Gründerjahreは一般的にはドイツ帝国統一の1871年から1873 年のバブル崩壊までを―この時期の会社設立は投機的な性格を持っていたのが 当時でも明白だった―限定的に指すときに用いられるが、マイヤーはここでは
その語をGründerzeitと同義で使っている)。
ブルジョワ階級は自己の階級の貞淑な婦女子像の対立項として排除されるべき ファム・ファタル像を設定する。労働者階級の台頭、とりわけ選挙権を巡るプロ レタリアートの主張によってブルジョワ階級は過度に恐れを抱く。カルメンのよ うに異国、異教の者に負の性質を与え排除してきたし、同様に工場労働者階級に もそれを行ってきた。しかし、Gründerzeit的状況の影響下で資本主義の発展と 帝国主義の拡大により経済の総体的な底上げがあり、労働者階級の自覚と拡大に よってブルジョワ階級が相対的にその地位が脅やかされ、もはやそうした単純な 図式によってファム・ファタルを排除できなくなった。従って、ファム・ファタ ルという排除対象を労働者階級とは別なものに求めたと考えられる。即ち、神話 的人物である。自分を捨てた夫イアソン関係の全員(義父、妻、息子)を殺して 復讐するメディア、ジークフリートを殺害する(実際はハーゲンが手を下す)ブ ルーンヒルトなど歴史的、神話的―サロメやユディトもそうである―ファム・
ファタルがそれゆえ―とりわけ絵画で―世紀末に再び脚光を浴びる。あるいは 労働者階級よりももっと下の例えば踊り子、娼婦、犯罪者層に題材を求めた(ル ルはこの三者すべてに当てはまる)。
バブルが弾ければ、富裕市民層、ブルジョワ階級は歴史の表舞台からは―た とえ一旦であれ―去る。実際、『ルル』においてもGründerzeit的な経済状況は 大きな役割を果たしている。ユングフラウにかかる登山鉄道の株でプントシュー は大儲けし、マゲローネもハイルマンも手を出し、アルヴァも十株もらえ、ルル から金を奪い取ろうとするロドリーゴもユングフラウ・ケーブルカー株を当てに
する。しかしその株式はあっという間に暴落する。<金銭への欲望>を性に結び つけることが『ルル』、とりわけルルが刑務所にいた後(刑務所脱走後)を描く『パ ンドラの箱』の主要なテーマである。つまりこうした経済(の崩壊)が物語の基 盤的背景となり、またストーリーを推進させる力ともなっている。そもそも『パ ンドラの箱』は全編がお金の話に満ち、シゴルヒもロドリーゴもカスティ・ピアー ニも発言の多くは金銭への欲望と直結する。例えばロドリーゴたちは脱走してき たことを密告するという脅しによってルルから(実際には彼女を愛しているアル ヴァから)金を奪い取ることを画策し、結局はルルを街娼にさせて金を作ろうと する。ではルルも金銭への欲望に突き動かされているのだろうか?
確かにルルは街娼として客をとるが、それは―彼女をも含めたシゴルヒやロ ドリーゴなどの男たちの―経済的な貧窮と密告の脅迫によって強制されてのこ とであり、ルル自身は売春に積極的であるどころか、嫌悪すら感じている。つま り、ファム・ファタル的イメージによって想起される性的な放縦への欲望や意志 ではなく、ルルの自立的、自主的な意思の欠落がこうした事態の原因となってい る。彼女の多くの性的関係は後述する<意思の不在>に起因し、その悪意のなさ において実はマノンと変わらない。これはルルの三度の結婚にも妥当し、結婚が 意味することはルルの男性との関係の積極性や結婚による贅沢な生活への憧れや それを得るための策謀ではなく、男たちが結婚を望み、ルルはそれに従っただけ というルルの意志の欠如である。そもそもルルには結婚への欲望、いや異性への 欲望すら見出し難い。それゆえルルのシェーンとの結婚も贅沢な暮らしが目的の 結婚ではなかった。シゴルヒやロドリーゴも含め、ルルとの結婚を望んだ男たち もルル自身を愛していたためではなく、ルルをネリー、イヴ、ミニヨンと様々な 名で呼ぶことが示すように、ルルに投影した自己の理想像を愛しているにすぎな い。それゆえ、ルルは愛の確証を必要とし、ルルにとって重要な〈愛による自己 存在の確立〉を図る。しかしもっとも誠実であるはずのアルヴァですら自己の愛 情意識は重要視するが、ルル自身の意識には注意を払うこともない。彼はルルを 理想化し、マゾヒスティックに自己の破滅美に酔い、己れの愛を述べたてるだけ で、「私を愛しているか」というルルの問いには答えない。
Alwa: Du?―du stehst so himmelhoch über mir wie ―wie die Sonne über dem Abgrund… (Kniend.) Richte mich zugrunde! ―Ich bitte dich, mach’ ein Ende mit mir! ―Mach’ ein Ende mit mir!
Lulu: Liebst du mich denn?
Alwa: Ich bezahle dich mit allem, was mein war!
Lulu: Liebst du mich ?!
Alwa: Liebst du mich―Mignon…?
Lulu: Ich―Keine Seele.
Alwa: Ich liebe dich. (EG 91)
自身の意思(の発信力)が欠如し、他者からの投影を受け入れ、反映してしまう いわば実体のない容器のようなルルの存在様式を惹起し、より強固にするのは、
ルルの意思を無視し、他者を必要としていない若いアルヴァの自己陶酔と対極的 なルルの生き方であり、これが会話の一方通行的なズレとして表現されている。
同じ問いをルルに投げかけ、ルルの問い=強い要請を再三無視し、ゲーテの『ウィ ルヘルム・マイスターの修業時代』に由来するミニヨンとルルを呼ぶことによっ て、ルルの問いを遮断するアルヴァは、結果的にルルの存在自体を否定すること になる。ミニヨンというアナクロニスティックなアニマ像をアルヴァがルルにか ぶせたときに、ルルが発する「私は―魂のない女よ」という言葉に―これは彼 女の意思の欠落と同時に絶望も表わしている―はじめてアルヴァは反応する。
つまり、アルヴァはルルが魂のない女である限りにおいて、つまりルルが意思も 欲望もない―この限りにおいてルルはいわゆる0 0 0 0ファム・ファタルではもはやない
―、限りにおいて、ルルを「愛している」のである。さらに女性性を剥奪したの ちの承認があるだけであるから、ここにはもはや男女の同権も平等化も存在しえ ない。
しかし、こうしたことが起こりうるのは男性側の意志だけではなく、ルルの特 徴的な存在様式にも起因する。『地霊』第1幕のシュヴァルツとの有名なやり取 りはそれを示す。つまり、神への信仰、誓うことの可能性、信じているもの、ル ルの魂の存在、愛の経験といった問いのすべてにルルは「わからない」(Ich weiß
es nicht.)と答える(EG 33)。マイヤーはここにルルの脱エントフマニジールング
人 間 化(Enthumanisierung)
を見出している。
Diese Nichtrationalität, die Denken und Handeln voneinander getrennt hat, Körper und Geist, so daß Lulus Identität sich immer nur unter Verletzung von Normen eines gesellschaftlichen Zusammenlebens, die ihr nichts bedeuten können, da sie auch davon nichts weiß, verwirklichen kann, bedeutete Enthumanisierung dieser Frau.
(Mayer 130 イタリックはマイヤー)
人間的欲望や意思、自立的・自主的精神、主体性、思想と行動、身体と精神の一 致、アイデンティティを持つことが近代以降の人間の 要ポストゥラート請 、義務、条件である とすれば、19世紀末という時代では逆にそれを欠いたルルは脱人間化されるこ とによって、つまり自分自身の意向や意思にかかわらず、結婚し、性的関係を持 ち、売春することによって、ようやくその生存の権利を得たと考えられる。また 脱人間化は脱女性化をも包含し、その帰結でもある。「思考と行動、肉体と精神 を互いに分離させた非合理性」といえる生存様式はしばしば「社会的共同生活の 規範に違反する」結果を招くが、この違反は意図されたもの、つまり意志的なア イデンティティの顕示などではない。この点で、ファム・ファタルとしてのマノン、
カルメン、あるいはワイルドのサロメのように意思を明確に主張することで男性 を翻弄(あるいは殺害)する生き方とは逆であり、むしろ新約聖書のマルコやマ タイ福音書記述にある母親ヘロディアの言いなりで、自分の意思のないサロメに 近い。もっともルルは母親ではなく男たちの要求に従った結果として共同体規範 からずれていく。父親を知らない浮浪児であり、シゴルヒに育てられ、シェーン に(バーナード・ショーの『ピグマリオン』のように)教育されたルルには学校 教育が代理表象する客観的、体系的知が欠如している。シゴルヒ、シェーンとい う一方的支配者による偏向的教育が主体性の欠落を招き、意識の空白を生み出し たと言える。これはいわばディストピア的状況に近い。つまりオーウェルの『1984 年』において党の統制による偏向的、一方的な知識のみの供与、体系的知の欠落、
学校制度における教育体系の不在が用意した人間の思考・意識の空白化と同じで
ある。自己の意思を放棄した脱人間化を体現した『ルル』は、この点において実 質的に、人間の非人間化を惹起する未来社会に対するオーウェルの不安を先取り していると言える。
この観点からはテレスクリーンは思考・意識の空白化のための監視であり、二 重思考はその強制的訓練であり、思考警察はその違反者処罰といえるが、思考・
意識の空白化を言語の点から完全にするのが「思考を表現する言葉がなくなる」
(Orwell 60)ニュースピークである。ニュースピークではオールドスピークにつ いての実際的な知識、例えばあらゆる文学がそのままの形では消滅し、党がその 理念から帰結する最も正しい姿、その正統性(orthodoxy)は意識の空白性であ ることがウィンストンに語られる。
In fact there will be no thought, as we understand it now. Orthodoxy means not thinking - not needing to think. Orthodoxy is unconsciousness.(Orwell 61)
ルル自身がこうした意識の空白化についてどう捉えているかは、『地霊』の終幕 近くの極限状態のやり取りのなかに見て取れる。嫉妬にかられ、ルルに自殺する よう強制し、銃を突き付けて迫ったシェーン博士をルルは射殺する。
Ich habe nie in der Welt etwas anderes scheinen wollen, als wofür man mich genommen hat, und man hat mich nie in der Welt für etwas anderes genommen, als was ich bin. (EG 95)
ルルは世間の人からそう思われている人間以外のものに見せようとはしなかっ たとし、さらに一見、意外なことに、「世間は私を今ある人間以外の者とは受け 取らなかった」と言う。一見同じ地平に見えるこの二つの文をwollenという語 の有無が決定的に異なるものにしている。問題はこの二つの文を等価だとルルが 思っている、まさにルルのその認識にある。第一の文はルルが他者の視点に合わ せて自分を構成すること、第二の文は他者に合わせた自己以外にルルは自己を想 定できないし、それが偽った姿であると考えられないどころか、それが本来の自
分だとしかルルには思えないことを示す。だからこそ、シュヴァルツがルルに自 分を偽っていると責めると「私が自分を偽る必要など一度たりともなかった」と いうのである(ED 29)。
ラクロの『危険な関係』(1782年)のメルトゥイユ夫人やレッシングの『ミス・サラ・
サンプソン』(1755年)のマーウッド、ユディト、オルトルート(『ローエングリン』)
が計画的に行動する「理性的な妖婦」であり、「意識の欠如」はなかったが、こ れに対してWeibsteufel in Lulus Gefolgeはexistentiellbewußtlosなのである(Mayer 131)。脱人間化、空虚な容器的存在様態は社会共同体から外れるだけではなく、
その共同体の外という立ち位置から発信することもまた、しない存在である。
Sie(:Lulu) ist nicht mehr Partnerin, sondern das Ganzandere, das sich aller Gemeinschaft entzieht. Nicht bewußtseinstrunken, wie Lucinde, sondern wortlos.
(Mayer 131)
では主体性の欠落した女性像が19世紀末に描かれるのはなぜだろうか?意識が 目覚めることは理性的、主体的であることを導くが、しかしそれは主体性の欠落 した女性が「意識を欠き、発言をしない」ということを導くわけではない。つま りここには別の特殊な原因があり、それは時代とは無関係ではない。カール・ク ラウスが感じたように、「ヴェーデキントは市民悲劇の<馬鹿げた悲劇的性格>、
つまり、<処女喪失の悲劇的な出来事>に対して<男性の夢としての高級娼婦>
を対置した」(Vinçon Wedekind 189)という演劇上の挑発的な意図からだろうか?
だがそれは高級娼婦が「意識を欠き、発言をしない」ということにはならない。ヴィ ンソンは時代における女性の地位的な変化に伴う相反する二つの事象を結果・原 因という実在的な関係を示すweilで結び、「また女性は<すべてを破壊する者>
になったという確言に対し、<それは女性があらゆる者によって破壊されるから だ>とヴェーデキントは異議を申し立てた」(Vinçon Wedekind 189)と指摘する。
またマイヤーはマルティン・ケッセルの論文を引きながら、フリードリヒ・シュ レーゲルの『ルツィンデ』(1799年)と『ルル』(1898年2月25日にライプツィ
ヒで初めて上演されたとして、ほぼ100年後の日付をマイヤーは挙げている)を 比較して次のように言う。
Zwischen Lucinde und Lulu spannt sich ein Jahrhundert der gescheiterten bürgerlichen Aufklärung. […] Sie (:Lucinde) war aus dem humanen Geist der Gleichheit konzipiert, [...] Sie (:Lucinde) meint jenen kurzlebigen Augenblick zwischen dem Ende des Ancien Régime und einer noch unerprobten, doch ernstgemeinten Bürgerlichkeit der totalen Egalität. Noch wird darin auch die Frau mit den geistigen Waffen von der Männerwelt anerkannt; […] Das war bald zurückgenommen. Auch Lulu ist eine Zurücknahme.(Mayer 131 イ タ リ ッ ク は Mayer)
『ルツィンデ』と『ルル』の差はブルジョワ市民階級の啓蒙主義が失敗し、啓蒙 主義の啓蒙主義たる理念である自由や平等、権利といった意識がひそかに撤回さ れた1世紀の差である。ルツィンデは女性が活躍することを寛容に認める男性社 会が存在し、「精神的な武器を持った女性も男性世界から認められていた」時期 に「平等という人間的精神から構想され」生まれた女性であるが、ルルは啓蒙主 義が撤回され、取り消されたあとの女性の形象なのである。撤回理由は社会・経 済的には資本主義経済の展開に応じたブルジョワ市民層による労働者階級との差 別化であり、それに伴うブルジョワ啓蒙主義=反啓蒙主義の確立であるが、思想 的には経済あるいは社会、産業、技術が直線的にどこまでも「進歩」してゆくと いう思考にあり、経済・産業・技術に対する絶対的な信頼がその背景にあった。
こうした進歩思想―それが幻想であったとしても―がとりわけ資本主義経済を 軸とした近代国家においていわゆる近代(モデルネ)を形成したことは事実であ るし、それが近代精神というものであった。しかしこれは思想的にはいかなる構 造であったのだろうか?
4.啓蒙主義の衰退と近代の進歩思想
―ルルの意識の空白化・『ルツィンデ』・ベンヤミン―
シュレーゲルの「ポエジーについての会話」から近代的、直線的な「進歩」
(Fortschritt)概念に呼応した、高まり展開してゆくあり方とは根本的に異なるも
のをポエジーの展開にシュレーゲルが見出していることをベンヤミンは指摘す る。
Also nicht um ein Fortschreiten ins Leere, um ein vages Immer-besser-dichten, sondern um stetig umfassendere Entfaltung und Steigerung der poetischen Formen handelt es sich. Die zeitliche Unendlichkeit, in der dieser Prozeß stattfindet, ist ebenfalls eine mediale und qualitative. Daher ist die Progredibilität durchaus nicht das, was unter dem modernen Ausdruck »Fortschritt« verstanden wird, nicht ein gewisses nur relatives Verhältnis der Kulturstufen zu einander. Sie ist, wie das ganze Leben der Menschheit, ein unendlicher Erfüllungs-, kein bloßer Werdeprozeß.
(Benjamin 92)
まず、シュレーゲルの「進歩」(Fortschritt)という概念をポエジーに限らず、人 間の展開・進歩にもベンヤミンは拡張して考えていることに注意したい(この後 にベンヤミンは『ルツィンデ』を引用し、実際にこれを当てはめている)。従っ てポエジーだけではなく、人間や社会に関しての妥当性を考えて読む必要がある。
基本的には、近代的な直線的「進歩」概念を詩に投影すれば、それはただ常に改 善され、良化されるというだけの無定見な<さらに先へ>(fort)の歩み(schreiten)
に過ぎず、それが行き着くところは空虚になってしまうということである。同様 に経済・産業・技術の分野での直線的「進歩」も社会に空虚をもたらすという予 見は20世紀初頭から半ばに多く描かれたディストピア小説の未来社会が十分に 示す。同じ平面を「さらに先へ」行くことと啓蒙主義という「闇から光へ」性質 が変わる道程を歩むこととの間には根本的な差異がある。その限りにおいてモデ ルネは啓蒙主義が持っていた「闇から光へ」という移行する<切り開く倫理的姿
勢>を失っている。ブルジョワ市民社会の諸分野において個別な進歩がありなが ら、啓蒙主義が撤回されるということ自体がそれを表わしている。これと対照的 なあり方とされるのが、時には進歩し、時には立ち止まり、他の存在に対する反 省的な認識(他者認識と自己認識)を必要とし、相互に関係しあいながらなされ る絶えずますます包括的になってゆく展開と上昇である。それによって無限の時 間は「中間態で質的な」時間となる。というのはこうした他の存在に対する反省 的な(reflexiv)プロセスが重要だからであり、この実現過程(Erfüllungsprozeß)
はまさにそうした他の存在を認識し、反省・反映(Reflexion)することでそれを 包含してゆく、つまり自己に満たしてゆく(erfüllen)からこそ本質に到達できる。
それゆえに、ベンヤミンはこれを「単なる生成過程ではなく」「人間の生全体の ように、無限の実現過程」と言うのである。この過程を失えば、啓蒙的な同権といっ た<切り開き>は進歩の中に呑みこまれてゆくと思われる。反省すること、他の 存在を認識することによって自己存在が開かれてゆくということ、つまりは他の 存在への<関わり>が自己の存在の認識をも生むということについてはベンヤミ ンの次のような言説が明確に述べている。
Das Ding strahlt nämlich in dem Maße, als es in sich die Reflexion steigert und in seine Selbsterkenntnis andere Wesen einbegreift, seine ursprüngliche Selbsterkenntnis auf diese aus. Auch auf diese Weise kann der Mensch jener Selbsterkenntnis anderer Wesen teilhaftig werden; dieser Weg wird mit dem erstgenannten in der Erkenntnis zweier Wesen durch einander, die im Grunde die Selbsterkenntnis ihrer reflexiv erzeugten Synthesis ist, koinzidieren. (Benjamin 57)
「自らの中で反省を高め、他の存在を自己認識の中に含めてゆくこと」といった 他者との関与が近代的な直線的な「進歩」(Fortschritt)概念に抜け落ちている。
反省的(reflexiv)な他者との関わりが不能となり、他の存在を自己認識の中に 含めてゆくことができない『ルル』の登場人物たち、その対象となるがゆえに「自 己認識」(Selbsterkenntnis)、自己意識のない空虚な容器となってゆくルルには19 世紀末のこうした「進歩」(Fortschritt)概念の進行がその背景にある。ベンヤミ
ンが引用するシュレーゲルの『ルツィンデ』のなかの言葉「己れを鎮めながら成 長し、自己形成してゆく人間という無限の植物」(Benjamin 93)というのは、ま さにルツィンデ(の時代)は他者との相互的な認識の照射によって自己認識と自 己存在が可能(な時代)であったのであり、またそうした成長が無限に継続する と思われた。それゆえ男女の同権という他者の認識によってその存在を自己認識 に包含してゆく相互行為が成立しうると考えられたが、近代の直線的時間の中で 次第にそうした反省的(reflexiv)な他者との関わりが失われた。こうしてルル を生んでゆく過程が歴史への思想的な探求によって明らかとなった。
産業構造においても社会制度においても国家的な後進性ゆえにドイツは国家統
一を機にGründerzeitを経験し、金銭への欲望が拡大し、やがてそれが潰えた過
程で啓蒙主義が撤回され、男女の同権が取り消されたあとの女性の形として、女 性の主体の無意識的な喪失状況があった。これを背景にルルという意識のない女 性の形象をヴェーデキントは生み出したが、先進国のイギリスではどうだったの だろうか?。
ヴィクトリア朝時代において1880年代までに結婚における男女の関係の平等 性が問い直され(HedgecockとりわけConclusion. The image of the femme fatale and emergence of the new womanの章参照。191-210)、社会的な約束事や慣習から愛 情を抽出したgenuine loveという愛情が男女間の対立を減少させるものとなると 言う(Hedgecock 206)。そうした条件の下で、ルルと全く逆の姿勢への要請、つ まり意識的な自己(実現の)追求や主体性への要請と可能性がヴィクトリア朝イ ギリスには存在した。主体性を得るには意識の保持が必要であり―マイヤーの言 う「精神的な武器」の土台である―、それゆえgenuine loveが存在するには女性 の意識もまた保持され続ける必要がある。従ってそれを放棄しているルルは前述 したように相手に愛の確証を何度も問わねばならないが、金銭の収奪が愛の条件 である男たちとルルの間にはgenuine loveは存在しえない。つまり社会的経済的 状況が個人の愛の状態に影響を及ぼし、条件づけているのである。平等はただ単 に与えられるものではなく、目的、仕事を持ち、社会内での役割での評価を得る という主体的な経験の行為ののちに獲得されうるものであり、また獲得される。
こうした意識が必要とされるのである。Hedgecockの次の文はこのことを述べて
いる。
To be a subject of her own experiences, having her own pursuits, her own work, and to be valued for her role in society gives women equality in relationships with men, and where love exists, she is treated as an equal.(Hedgecock 206)
では『ルル』の時代の男性の意識はどう変化し、それは女性イメージとどう関係 するのだろうか?理想が崩壊すればシニシズムが現れ、崩壊した理想の姿がシニ シズムに付きまとう。第一次大戦時の敗北によって引き起こされた男性のアイデ ンティティの危機をワイマール時代の男性のシニシズムと結びつけたスローター ダイクに言及しつつ、Doaneは直接的にはパブストの映画化した『ルル』を論じ て、「近代のシニカルな意識という限定では」「女性というイメージが決定的な役 割を果たし」、その最も明白な例が『パンドラの箱』のルルだとする。
And historically, within the limitations of a modern cynical consciousness, the image of the woman has played a crucial ―and not always a positive ― role. Nowhere, perhaps, is this more evident than in Pabst’s cinematic construction of the figure of Lulu in Pandora’s Box. (Doane 144)
シニシズムそれ自体は確かに「反省的な意識や知の一形態」(Doane 144)である から理想的な啓蒙主義が崩壊したときに現れたシニシズムを嘲笑うさらにシニカ ルな精神によって、シニシズムであることさえ赦されず意識自体を空虚にするし かない当時の女性の状況をヴェーデキントは先鋭的、挑発的かつ先取り的に反映 したと考えられる。楽天主義的な進歩思想の近代的精神の枠組み内ではいわば予 定調和的に獲得されるはずの女性の権利の言説はそうした予定調和的感覚が失わ れてゆくなかで時代を冷静・客観的に反映する。経済情勢の変動とともに絵画に おける悪魔的、妖婦的女性像の審美的描写がいわば反動的に色濃くなってゆくが、
こうした芸術至上主義というそれ自体がやや楽天的な主義と際立つ対象を示した のが『ルル』の結末である。
5.切り裂きジャック(Jack the Ripper)とクラフト=エビングがも たらしたもの
時代精神・時代感覚は『ルル』二部作の終わり方、つまり切り裂きジャック
(Jack the Ripper)が登場し、ルルを殺害するという形での幕の閉じ方にも反映さ れている。シゴルヒや官憲といったこれまでの筋に登場した人物や内容的に登 場が想定されうる人物によるのではなく、突然外部から現れた第三者(ジャッ ク)がルルにとどめを刺す構成は一見すると唐突で必然性に欠けている印象を 与える。確かにJack the Ripperはロンドンでルルと同じ売春婦を次々と殺した
(1888年ホワイトチャペル事件)のだから、女性の職業が同じという関連はある し、「ヴェーデキンドがロンドン滞在中に切り裂きジャックについての新聞や警 察の記事を聞き知ることができたのだろう」(Vinçon, Lulu 111)というタイムリー な状況も理解できるが、それが作品に取り込まれる理由にはならない。ヴィンソ ンはヴェーデキントが『ルル』を仕上げる際の参考書籍に、ニーチェの『ツァラ ツストラはかく語りき』やショーペンハアウアーの著作と並んでクラフト=エビ ング(Richard von Krafft-Ebing)のPsychopathia sexualis(『性の精神病理』)(1886 年)を挙げている。ヴィクトリア朝時代のある男性の書物『わが生涯の秘密』を スティーブン・マーカスが取り上げたことに言及しつつ、ここに性的経験という
「快楽と、快楽についての真なる言説と、その真理の言表に固有の快楽とを、で きる限り正確なかたちで互いに連結する」意味の重要性をフーコーは見出してい る。つまり、快楽を分析する行為(精神医学など)自体が快楽の表現によって逆 にリードされてゆく状況がこの時代にあったということだ。フーコーはこれにつ いて「(…)時代の医学と精神医学とを、性的実践とそのさまざまな形態そして そのあらゆる不調和に対する関心へと導いた動きがある。クラフト=エビングは 遠い過去の人ではない」(フーコー「西欧と性の真理」134)と言い、クラフト=
エビングの再評価を促している。
ヴェーデキントはこうした状況を利用した、いや利用するために切り裂き ジャック(の事件)を導入したと考えられる。つまり、ルルを殺害するジャック の性的快楽自身にルルに関する言説を語らせたのだ。
エビングはサディズム、マゾヒズム、同性愛など当時、精神疾患とされた異常 性愛、性的倒錯を(擁護的に)研究分析したが、その1892年版ではサイコ・セ クシュアルな怪物としてホワイトチャペルの婦人殺人魔が言及されており、こう した怪物(的)という言葉に「サディスティックという意味を入れている」が「い ずれにせよこのサディスティックという名辞はヴェーデキントに彼の悲劇のキー ワードを与えた」(Vinçon, Lulu 111)とヴィンソンはみている。つまり、切り裂 きジャックは見聞としてタイムリーではあっただけではなく、そこに人間の本質 が秘めるサディスティックな性質をヴェーデキントは見てとったのである(Jack
the Ripperは単に売春婦を狙った連続殺人魔であるだけでなく、その殺害の仕方
は性的、解剖的、人体破壊的であったという意味で猟奇的な殺人である)。だが なぜ、サディスティックという名辞がヴェーデキントに彼の悲劇のキーワードを 与えたのだろうか?言い換えれば、なぜサディスティックな性質(の男)がルル を殺害せねばならなかったのであろうか?
バタイユは意識化されない欲望を意識化することがサドのréflexionであると いう結論に至る過程でクラフト=エビングに言及している。
La célèbre Pathologia sexualis de Krafft-Ebing, ou d’autres ouvrages du même ordre, ont un sens sur le plan d’une conscience objective des conduites humaines, mais en dehors de l’expérience d’une vérité profonde révélée par ces conduites.
Cette vérité est celle du désir qui les fonde et que laisse hors du jeu l’énumération raisonnée d’un Krafft-Ebing.(Battaile 256 Pathologia sexualisの表記はバタイユ。
Psychopathia sexualisの誤記と思われる)
客観的意識に対してはともかく、「内奥の真理の経験」―その真理とは欲望の 真実であるが―に対してはクラフト=エビングの科学的分析の有効性はバタイ ユの文学的視点からは括弧にくくられる。というのは、バタイユは「性的充足 は大いなる諸感覚の無秩序(« desordre des sens »)のなかで行われるように思わ れる」として、欲望は「明晰な意識からひどくかけ離れた性質のもの」であり、
「明晰な意識を消滅させる」と考えるからだ(Bataille 256-57 二重山括弧はバタイ
ユ)。倒錯的性であるにせよ、Jack the Ripperは明らかにヴェーデキンドにおいて は「性的な充足」を、つまりは「諸感覚の無秩序」「意識の消滅」を表象している。
Jack the Ripperはルルを襲い、まずゲシュヴィッツを刺し(実際にはゲシュヴィッ
ツはルルの死後に死ぬ)、次にルルをおそらくは性的、解剖的、人体破壊的に殺 害した(科白とナイフがそれを示す)。そこにはJack the Ripperの性的充足と意 識の消滅、諸感覚の無秩序、欲望の真理の瞬間と状態が(向こうの部屋で)あっ た。こうして、ジャックの性的状況がルルに関する言説となっているのである。
一方、ルルもサディスティックな男ジャックに殺害される必然性があった。
Hilmesはフロベールやワイルドのサロメに典型的に見られるようなデカダント
な女性像とルルははっきり区別されることを述べているが(Hilmes 155)、一方 でルルにはマゾヒスティックな面があり、これによってルルはジャックを引き寄 せたとしている。ルルがエスツェルニーに「支配するよりされる方がいい」こと を彼の愛を拒む理由に挙げたときに、マゾヒスティックな愛が愛の最高の形態だ とルルが考えていることを示しているとHilmesは述べ、次のように言う。
Die sadistischen Visionen lassen auf eine masochistische Wunsch- und Bedürfnisstruktur schließen. […] Dieses Bekenntnis zum Masochismus wirft ein neues Licht auf die merkwürdige Passivität Lulus und auf Wedekinds vehemmente Ablehnung der Décadence, der er durch die Doppelbödigkeit der Wünsche eng verbunden bleibt.(Hilmes 172)
ルルの受動性はこのマゾヒスティックな欲望・性質に帰されるのだが、同時に 欲望や性質的にはルルとジャックはいわば相補的に補完し合う関係にあったとい える。欲望、意志、意識の欠落した女性であるルルは、強い意識の持ち主のジャッ クが性的充足により感覚が無秩序に横溢した結果、意識が消滅した男性と化した 彼によって殺害される。『ルル』の結末のドラマツゥルギーはこうした2つの欲 望の補完性から説明しうる。シゴルヒ、シェーン博士、ゴル、アルヴァも自己意 識は通常あるいは通常以上に強かったが、彼らがその職業と倫理性ゆえに、つま りはブルジョワ市民階層という所属ゆえにもっていない〈無意識に至る手段〉=
猟奇的な性の充足の手段をJack the Ripperは持ち、かつ行使しえたという設定に この結末のドラマツゥルギーはよるのである。下層市民階級のシゴルヒはルルの 父親代わりであるという点から近親相姦的であると同時に、抑圧的という矛盾す る側面を同時に持つことにも留意しておきたい。意識の欠落した女性の殺害は性 的充足の果てに意識の消滅した男性によって行われる必要があった。これはクラ フト=エビングが大脳に還元してゆく性的倒錯の病理をヴェーデキンドは意識=
脳という観点から受け止めたためと考えられる。19世紀末絵画に頻繁に表れる 性的倒錯を解剖学的に時代の最先端の科学(クラフト=エビングはウィーン大学 病理学教授として科学的研究の最先端にあった)は精神医学=脳科学に回収して ゆくのであり、一方、芸術学・文学はファム・ファタルというテクスト上に展開 してゆく。19世紀末という時代は芸術学と自然科学が交叉すると同時に分岐し てゆく地点であり、こうした観点からは1910年代の表現主義が―ゴットフリー ト・ベンの『モルグ』のように―その二つを繋ぎとめる最後の試みだったと言 える。
しかしサディズムはマゾヒズムを補完するだけではなく、同時に破壊もする。
ジャックがゲシュヴィッツをも殺害するように、女性に対するそもそもの差別観、
軽蔑心が彼の攻撃性を形成している。ジャックのサディズムはルルだけではなく、
女性という性の存在形式そのものの破壊なのである。それはドイツに帰り、大学 に入り、「女性の権利のために闘わなければいけないわ。法学を勉強するのよ」(BP 192)と決心するゲシュヴィッツを殺害することによく表れている。ではそもそ もゲシュヴィッツとは誰/何なのだろうか?
「女性は本来的に男性よりも両性愛的であり」、「両性具有と両性愛という概念 はもっと自由にかつ容易に女性の表象に関連付けられる」ということの重要性を 強調した上で、Doaneはゲシュヴィッツとの相互作用のなかでルルのfemininity が維持されるとする(Doane 153)。つまり、男性に要求されて行動を定めてい くルルの空虚的容器性にゲシュヴィッツはfemininityという実体を再現出させ、
維持する機能を果たすカウンターパートであったのだ。しかも刑務所では彼女の 身替りともなり、レズビアンである彼女がルルを「私の熱愛する天使よ!私の愛!
私の星!」(死の直前にも「私の天使」と叫ぶ)と呼び(BP 190)、ルルを心から
愛していることを考えれば、アンドロギュヌスとしてのゲシュヴィッツの純粋な 愛情は男性原理で機能している男性社会において―とりわけ、経済的要求がル ルへの性的要求も含めた要求と結びつく『パンドラの箱』では―唯一、ルルを 純粋に求める愛情であり得るし、それゆえ時代に沿っていると同時に時代を超越 したものになりうるのである。Doaneのルルに対する次の批評はそうした観点で 理解される。
Desire for Lulu is desire for a femininity which is outside of time. […] Her temporality is that of the moment […] Its modernity, then, in a somewhat paradoxical manner, is consistuted by its ahistoricity. (Doane 156)
このカウンターパートの死は女性性の死であるばかりではなく、ルルを愛するも の、理解するもの、そうした時ツァイトガイスト代精神の死であり、男女の平等性の精神の完全な 死でもあったといえよう。こうしてヴェーデキントは『ルル』二部作でファム・
ファタルの新しい形式を時代に提示したのである。
註
i 拙論「ファム・ファタルの輪郭と隠された物語」(『英文學誌』第57号、法政大学英 文学会 編集・発行2015年)参照。特に51~60頁。
ii ファム・ファタル物語のオペラ化による変形は一般に受容されやすい。プレヴォの『マ ノン・レスコー』がプッチーニのオペラ『マノン・レスコー』やマスネの『マノン』で、
メリメの『カルメン』はビゼーのオペラ『カルメン』で想起されるのと同様、ヴェー デキントの『ルル』二部作はアルバン・ベルクの全3幕オペラ(台本もベルクによる)『ル ル』(1929年作曲開始。1935年ベルクの死により2幕までで未完。1937年未完のまま 初演。1979年ツェルハ補筆完成版初演)でむしろ想起される。
Works Cited
Bataille, Georges. La littérature et le mal. (Œuvres complètes IX.) Gallimard: Paris, 1979. Print.
Benjamin, Walter. Der Begriff der Kunstkritik in der deutschen Romantik. in: Gesammelte Schriften Band I・1 Abhandlungen (suhrkamp taschenbuch wissenschaft), Frankfurt am Main: Suhrkamp Verlag, 1974. Print.