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東日本大震災と都市/地域社会学の課題

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No.34

明星大学社会学研究紀要

March 2014

《研究ノート》

東日本大震災と都市/地域社会学の課題

一原発被災地/避難者の問題を中心に一 渡 戸 一 郎

原発で古里追われ千余日汚染止まらず帰還当てなし (田村市)荒井正一

      (「朝日歌壇」、2014年1月6日、朝日新聞 朝刊)

1.東日本大震災の特徴と本稿の視点と背景

(1)東日本大震災の特徴と本稿の視点

 2011年3月11日に発生した東日本大震災

(MgD)の特徴は、南北500キロに及ぶ被災地 域の広域性、大都市から過疎化する小規模町村

までの地域的多様性、そして複合災害(地震災 害、津波災害、原子力災害)に伴う被災状況の 深刻さ・多様性・複雑性であろう1)。なかでも、

津波被災地である「三陸の人は場所があるが家 がない。俺たちは家はあるが場所がない。郷里 には戻れないだろう」(外岡、2011)という、

原発災害で避難を余儀なくされた住民の声は、

同じ震災による被災者でもその性格に大きな差 異があることを示唆している。また、今回の大 震災では被災者が広域的に分散避難するととも に家族離散が随伴したが、原発災害はさらに、

避難を強制された人と自発的に避難した人、避 難できる人と避難したくてもできない人、そし て、避難者とその受け入れ地域の住民のあいだ の「見えない分断線」を幾重にも生じさせてい る。加えて、原発災害は広汎な「風評被害」2)

を生み出し、産業・地域・人(避難した子ども などを含む)に対する差別・偏見が多くの被災

者を苦しめてきた。なお、災害は通常、弱者を さらに弱者化させるが、今回の大震災でも高齢 者や障害者により高い死亡率が認められ、ほか

にも子どもをもつ家族、外国人居住者などにも 大きな負担を強いることとなった3)。

 本稿では、上記のような東日本大震災の特徴 を踏まえつつ、この間に発表された社会学関連 の調査研究の成果に拠って、原発被災地/避難 者の避難・被害状況について論じるとともに、

避難者や避難自治体抱える困難と課題、そして 最大の避難者受入れ自治体である福島県いわき 市の対応等について検討する。また、この検討 を踏まえて、最後に、都市/地域社会学研究に とっての課題を考えてみたい。

(2)本稿の背景

 はじめに、この問題に対するこれまでの筆者 のささやかな経験を説明しておきたい。筆者は、

1995年1月に発生した阪神・淡路大震災から1 年後以降、ゼミ学生たちと夏休みを中心に、被 災地のボランティア活動に2年間取り組んだ。

活動拠点は、高齢化が進む大都市インナーシテ ィの典型地区のひとつ、神戸市長田区御蔵地区

(御蔵pa 5・6丁目)であった。ここは町工場

(2)

や木造長屋が密集する下町であったが、震災直 後の火災で地区の8割が焼失し、多くの犠牲者 を出すとともに、約300世帯のうち7割はその 日から住む場所や働く場所を失った場所である

(まち・コミュニケーション、2013)。震災後、

そこに外部からの支援団体と地元企業Hの経営 者T氏が協働で立ち上げたボランティア基地が 開設され、筆者と学生たちはこの支援団体の要 請に沿いながら、市内各地の仮設住宅の見守り 活動やお茶会、復興イベントなどの手伝いなど を行った。そして、この活動(さらにその後の 被災地の活動とのつながり)を通して、大都市 直下型大地震が土地権利関係の複雑なインナー シティ地域にもたらす被害構造の複雑さやそれ ゆえの復興の難しさ(震災10年後の時点でこの 地区には従前の住民の3分の1程度しか戻れな かった)と同時に、市民活動ベースによるまち の再建の可能性と課題も認識するようになっ

た。

 それから16年後の2011年3月11日、東日本大 震災が起き、翌12日には原発事故が生じた。こ の未曽有の大震災とそれに伴う津波災害と原発 災害の被害は、筆者の想像をはるかに超えるも のであった。そこで、筆者が長年関わっている 東京ボランティア・市民活動センターを通じて 情報収集に当たるとともに、支援活動のあり方 について運営委員会で協議し、同月30日の「東 日本大震災支援全国ネットワーク」発足(141 団体)にも立ち会った。

 一方、筆者は明星大学ボランティアセンター 長として、被災地支援に向かう学生への注意喚 起を本学ホームページに掲載するとともに、本 学のきょうだい校であるいわき明星大学

(IMU)との情報連絡会を開催した(以上は3 月下旬)。また、明星学苑関係者被災者支援情 報交換会に参加し、被災学生への支援のあり方

(具体的には学苑内における「絆募金」とそれ

を原資とする被災学生への義援金支給)を詰め ていくとともに、4月下旬にIMUの復旧対策 本部会議といわき市災害ボランティアセンター を訪れ、今後の学生ボランティアの派遣態勢に ついて協議した。IMUでは夏に向けてボラン ティアセンターが立ち上がることになり、2011 年度の夏休みと春休みから毎年2回、IMUと の合同ボランティア研修(被災地見学を含む2 泊3日のプログラム)という形で、学生たちと いわき市におけるボランティア活動に取り組む こととなった。例えば、市内の原発避難者支援 グループの話を聞いたり、仮設住宅の集会所で 足湯の活動を行いながら被災者のつぶやきに耳

を傾けた。この活動は回を追うごとに参加学生 が増加し、本学学生とIMUの学生とのつなが

りも出来ていった(併せて、筆者はIMU現代 社会学科の教員と被災地調査などで協働してい くこととなり、これは翌年、科研プロジェクト の「いわき班」となった)。さらに、本学にお いて、被災地支援活動にボランティアとして従 事した学生等による学内報告会等を随時開催

し、被災地の情報の共有化を図った。

 他方、筆者は2011年6月、日本都市社会学会 の震災問題作業部会長となり、学会活動の一環 として都市社会学の視点から震災問題に取り組 むとともに、日本社会学会の震災問題研究会(7 月)にも参加し、以後、研究者間の情報交換を 図るため、関連学会合同の活動に参加すること になる。具体的には、社会学4学会(日本都市 社会学会、地域社会学会、環境社会学会、日本 社会学会)による被災地視察とシンポジウムが、

2012年から13年にかけて岩手県、宮城県、福島 県および東京で開催され、それらに可能な限り 参加した。また、2012年9月には本学が立地す る日野市の社会福祉協議会「みんなでつくる災 害ボランティアセンタープロジェクト」委員会 委員として、南三陸町・気仙沼市・陸前高田市

(3)

March 2014

東日本大震災と都市/地域社会学の課題 を視察する機会を得た。さらに、2013年8月に

は、原発避難者自身が立ち上げた「とみおか子 ども未来ネットワーク」の代表者への聞き取り を都内で行うとともに、原発避難者の多くが住 みなれた浜通りのいわき市に集中してきたこと を踏まえて、同年11月にIMU現代社会学科の 高木竜輔氏とともにいわき市の関連所管課のヒ アリングを試みた。

 こうしたプロセスを経て、筆者は、阪神・淡 路大震災と東日本大震災の被害構造や支援活動 のあり方の違い4)を意識しつつ、とりわけ原発 被災地/避難者問題に強い関心を抱くという経 緯を辿ってきた。

2.社会学系の学会による東日本大震災への対

 上記のような未曾有の大災害に対し、震災直 後から各分野の学会による提言が矢継ぎ早にlik された5)。震災後の推移を踏まえて日本都市社 会学会が提言を発表したのは、2011年の年末に なってからであった(本学会HP参照)。また、

前述の社会学系4学会による被災地視察やシン ポジウム等を踏まえつつ、2013年6月27日、日 本学術会議社会学委員会・東日本大震災の被害 構造と日本社会の再建の道を探る分科会の「原 発災害からの回復と復興のために必要な課題と 取り組み態勢についての提言」(委員長・船橋 晴俊)が提出された。そこでは、一般的提言と

して、①心身の健康問題(安全・安心)を適切 に扱う取り組みの構築、②個人、家族レベルで の生活再建支援と損害賠償についての取り組み 態勢の改善、③地域再生のためのコミュニテ ィ・白治体レベルでの取り組み態勢の構築が、

また、具体的政策提言として、①低線量被曝の 長期影響に対する統合的な科学的検討の場の確 立、②健康手帳の機能を有する被災者手帳の配 布、③住民参加型による避難住民への継続的訪

53一 問調査の実施、④長期避難者の生活拠点形成と 避難元自治体住民としての地位の保障、⑤被災 住民間のネットワークの維持が掲げられた6)。

 いずれも重要で緊急性を有する施策だといえ るが、とりわけ原発避難住民に関しては、健康 手帳の配布、避難民が元の自治体住民としての 権利と移住地での権利を二重に保持できるよう な(いわゆる二重住民票の)法制度の提言が注 目される。また、加害者である国と東電のペー スで進む賠償や政策展開に対して、住民主体/

住民参加の重要性が強調されていることも重要 な論点である。さらに、この間、今回の大災害 について社会学関連の多くの調査研究の成果が 刊行されるなか、田中重好・舩橋晴俊・正村俊 之編『東日本大震災と社会学一大震災を生み 出した社会』(ミネルヴァ書房、2013)が、日 本社会学会震災問題研究会の活動をベースに刊 行された。同書「はじめに」では、以下のよう に編者によって、自然と人間社会存立の関わり、

社会やコミュニティの再建の基本的な方向性と 社会学ならではの貢献可能性が強調されてい る。しかし、これらはひとり社会学系に留まら ず、今後の被災地の復興や社会再建の基本的な 認識としてきわめて重要だと考えられる。

 i 自然が人間社会の生態学的条件とし て、人間社会の存立にかかわる一方で、人間 社会の存立を脅かす可能性をはらんでいるこ とが、東日本大震災を通して再認識された。

 ii コミュニティや社会を再建するために は、社会の生態学的条件としての自然を視野 に入れながら、それを社会関係の問題として 捉え直さねばならない。安全な「まちづくり」

をどのように進めるかは、単なる物質的環境 の問題ではなく、そこにどのような共同生活 を築くのかという社会関係の問題でもある。

そうした視点の導入に社会学が貢献する可能

(4)

 性が生まれてくる。

 ①災害の発生にかかわる事柄(disaster)

も、被災後の問題への対処も、個人的な問題 として完結しえない、社会的/共同的問題で

ある。

 ②防災対策は、命を守るための防災(警報 や避難に関する情報、避難行動、緊急救命医 療)、応急対策(水・食料の確保、避難場所 の確保など基本的な人間的欲求の充足)、構 造的な対策(建物の耐震性向上、住宅や産業 施設の再配置、さらに原発推進か廃棄かの選 択など社会構造にかかわる対策)からなるが、

構造的な課題に関する議論においては、社会 学の研究が活躍する余地が大きい。

3.原発被災地における避難行動

 以下では、筆者の収集した情報や既刊文献な どに拠りながら、原発被災地と避難者の問題に 焦点を当てていく。

(1)津波被災地と原発被災地における避難行動  の差異

 はじめに、津波被災地と原発被災地における 避難行動の基本的な違いを確認する。巨大津波

によって多くの死者・行方不明者を生じさせた 津波被災地では、個別判断による避難行動(「津 波てんでんこ」)や日頃からの防災訓練が活か

されて助かった人や子ども、津波に飲まれなが ら辛くも助かった人がいる一方で、一度避難し た後、自宅に戻り津波に飲まれた人、車で避難 中に渋滞に巻き込まれているうちに津波に飲ま れた人、予め決められた避難所に避難して津波 に飲まれた人などが見られた。また、警察、消 防団、役場職員などで避難誘導中に津波に飲ま れた人びとも多かった。津波が収束してからは、

集落などにおける助け合い(住民自治組織の活

躍)が取り組まれ、その後、避難所や残された 自宅、さらに親戚や知人宅に移動していった。

また、被災地には外部から自衛隊や警察、そし て国内外の支援団体などが駆けつけた。

 他方、原発被災地、とりわけ後に警戒区域に 指定された地域では、後述のように、十分な広 報と説明もなく、つまり本人の納得の過程もな いまま、「突然の避難」を強いられ7)、住民自 治組織もほとんど機能しなかったことが最大の 特徴であった。また、双葉郡の各町村によって 事情は異なるが、基本的には、避難先がすぐに は決まらず、避難者と役場は迷走することにな った8)。一方、自動車などで個別に避難した人 びとは、親戚や知人を頼って、新潟・山形・福 島の会津、首都圏などへ拡散していったが、さ らに時問の経過とともに、さらなる避難者を生 じさせた。大規模避難所となったビッグパレッ ト(郡山市、3月16日〜8月末)やさいたまア リーナ(さいたま新都心、3月16〜31日)など では、当初大きな混乱状態が生じたが、これら の場所でも、外部からの市民団体等による支援

が取り組まれた9)。

 こうして津波被災地と原発被災地を比較して みると、後者の特徴として、大きな混乱を伴い ながら、きわめて広域の避難を生じさせたこと が指摘できる。そして、広域避難者の多くは、

その後も移動を繰り返すことになった。

 なお、表1に示されるように、原発被災地に おいても津波の犠牲者となった人びとが決して 少なくなかったことに、留意しておきたい。

(2)原発事故と避難指示の過程

 吉田・原田「概説:原発周辺自治体の避難の 経緯」(2012)に拠って、避難に至る原発事故

と避難指示の過程を振り返っておこう。

(5)

March 2014

東日本大震災と都市/地域社会学の課題 55一

表1 相馬郡・双葉郡・いわき市における被害状況

面積(km 2) 人口(2011.5.1) 死 者 行方不明者

相馬郡 相馬市

197.67 36,891

449 10

新地町・飯館村

276.48 14,032

101 10

小 計

474.15 50,923

550 20

双葉郡 南相馬市

398.50 68,745

589 86

浪江町・双葉町・大熊町・葛尾村・

富岡町・楢葉町・広野町・川内村

865.12 70,007

252 74

小 計 1,263.62

138,752

841 160

相双地区合計 1,662.12

207,497

1,391 180

いわき市 1,231.34

337,288

308 42

注:死者・行方不明者数は2011年7月8日現在の福島県まとめによる。

【3月11日】

 14時46分、宮城県沖を震源とする地震が発生 し、巨大津波が続く。

 16時36分、福島第一原発で「応急の対策を実 施する必要がある」事象が発生。

 19時03分、政府は第一原発に関して「原子力 緊急事態宣言」を発令。

 20時50分、福島県知事、第一原発から半径2 キロの住民に避難指示。

 21時23分、政府が3キロ以内(大熊町と双葉 町)の住民等には避難指示を、3キロから10キ ロ(浪江町と富岡町)の住民等には屋内退避を 指示するよう、市町村に指示。以上の対象者は 4万8272人であった。

【3月12日】

 5時44分、政府はベント(原子炉内部の圧力 を放出する措置)を行う必要から、10キロ圏内 の住民等に関する指示を圏外への避難に改める

(これに続いて、第二原発についても「緊急事 態宣言」が出され、第二原発から3キロ以内の 住民等に避難、3キロから10キロ圏内の住民等 には屋内避難を指示するよう、政府は市町村に 指示した)。これによって楢葉町の大部分と広

野町の一部も屋内退避の区域となった。これに より3時間の問に上記の4か町と楢葉町で全町 避難が始まる。

 15時36分、1号機で爆発発生。

 17時39分、第二原発でも10キロ以内の住民等 に関する指示が屋内退避から避難に切り替わ

る。

 18時25分、政府は第一原発からの避難指示の 区域を20キロ以内の全域に拡げる。これにより 南相馬市の一部などが新たに対策区域に含ま れ、対策区域の総人口は約7万8200人となる。

【3月13日】

 政府からの新たな指示はなく、住民の移動や 往復が続けられた。3号機では懸命のベント作 業が続けられた。

【3月14日】

 11時01分、3号機の原子炉建屋で爆発が発生。

だが、政府はすでに20キロ圏外への避難が進行 していたためか、新しい指示を出さなかった。

この時期はのちに、「空白の4日間」と呼ばれ

ることになる。

【3戊ヨ15日】

 6時00分から10分頃、ベント作業が行われて

(6)

いた2号機と4号機でも建屋で爆発音。

 11時00分、政府は20キロから30キロ圏を対策 区域としたが、屋内退避の指示であった。津島 地区に避難していた浪江町のほか、葛尾村、川 内村、広野町、南相馬市では役場が新たにこの 区域に含まれる。また飯館村、いわき市の一部 がこの時はじめて政府の対策区域にかかる。屋 内退避区域だけで住民は約6万2400人となった。

 なお、15日は風と降雨により北西に延びる形 で放射性同位体が分布し、20〜30キロを目安と

した同心円状の避難区域と必ずしも合致してい なかったことが、後日判明した。

【4月11日】

 「計画的避難区域」(概ね1か月程度の間に避 難する区域)が設定される。

【4月22日】

 「警戒区域」と「計画的避難区域」「緊急時避 難準備区域」が設定される。これにより、飯館 村と川俣村の一部が初めて政府の対策区域に入 った。他方、いわき市はこれらの区域のいずれ にもかからなかった。ここまでの対象者は実に 14万6500人に及んだ。

(3)多様化する避難

 以上のような窮迫する状況のなかで、実際の 住民等の避難は多様な方向に展開していった。

こうした多様化する避難を、山下「東日本大震 災と原発避難」(2012)は次のように、3つの 位相に分類している。

①直接避難地域(第一次避難地域)からの避難  警戒区域、計画的避難区域に指定された町村 から避難した約9万人のほか、特定避難勧奨地 点(2011年6月30日以後順次設定)や緊急時避 難準備区域(同年9月解除)から、福島県内、

新潟・山形などの近県や関東などを中心に全国

への避難。

②福島県からの自主避難(第二次避難地域)

 福島市、郡山市など中通り地域からの自主避 難であり、子どもやその母親、妊婦などを中心 に関東、中部、関西などへ避難。

③関東圏等からの自主避難(第三次避難地域)

 ホットスポットをはじめ、放射能汚染に対す る不安から行われた、関西、九州、沖縄などへ

の広域避難。

 加藤(2013)はこうした震災後の福島におけ る被災・避難の特徴として、①避難回数の多さ、

②その長期化(原発震災による晩発性の危険)

を挙げている。また、避難区域・地点の指定が 国家による「基準の政治」によって段階的に拡 張されたことが、自主避難を生み出す条件を作

り出したと指摘している10)。

 こうして原発災害は、「見えない放射能汚染」

をめぐって「情報と責任」が暖昧なまま、不安 にかられた広汎な人びとを多様な避難行動に追 い込んだ。その行動は、個人単位の避難も見ら れるが、多くは家族単位で行われ、その過程で 家族の離合集散を繰り返している(吉田、

2012)。とりわけ直接避難地域(第一次避難地域)

では、突然の避難指示による広域分散避難によ って、各集落や地域社会が一瞬にして崩壊もし くは拡散してしまうという深刻な事態が生まれ ることとなった。

4.避難の過程と避難住民が抱える過酷な状況  避難した人びとはどのように避難し、その後

どのような問題を抱えているだろうか。ここで は、富岡町から強制避難させられた住民有志に よるNPO団体である「とみおか子ども未来ネ ットワーク」代表・市村高志氏の証言(市村、

2013、および筆者によるインタビュー1Dによる)

と、同会によるタウンミーティングで浮上した 避難住民の「声」(とみおか子ども未来ネット ワーク・社会学広域避難研究会富岡班編、

2013)を挙げておきたい。

(7)

Carch 2014

東日本大震災と都市/地域社会学の課題

(1)ある家族の避難過程

 まず、市村高志氏の証言(市村、2013、「私 はどう避難したのか一富岡町民の一人とし て」II」下・市村・佐藤「人間なき復興』所収)

から避難の過程を確認しよう。

 富岡町は人口約1万6千人の町だった。「太 平洋に面し、温暖で雪の少ないとても過ごしや すいところ」だった。市村氏は町内で自営業を 営み、小学校のPTA会長を務め、中学生2人

と小学生1人、実母と自分たち夫婦の6人暮ら しをしていた。3月11日の大地震の後、何とか 家族全員の安否を確認し、自宅近くの空き地に 車を停め、一夜を明かす。翌12日早朝、防災無 線の放送で、福島第一原発が危機的な状況に至 たり、「半径10キロ以内の住民はただちに避難 を」「自力で避難できない人は主だった公共施 設に集合し、隣の川内村に移動せよ」との呼び かけを知る。市村家族は十分なガソリンがなか ったため、とりあえず集合場所まで車で行き、

そこから町が用意したバスで川内村に移動し た。この間、バスに乗り込むまで3時間以上待 ち、さらに川内村の小学校まで渋滞で約3時間 かかったという。午後4時過ぎに避難所に置か れたテレビで第一原発1号機の水素爆発を知 る。その時までは、原発が爆発することなど思 いもよらず、「長くても2〜3日で帰れるだろ う」と思っていたが、この「映像を見たとき、

自分たちがもう家に戻れなくなった」と直感し

た。

 16日朝、川内村に全村避難の指示を知らせる 放送が流れる。この放送を契機にまさに「雪だ るま式」に避難が拡大した。「情報が圧倒的に 不足したなかで、多くの人はそれ以上集団で行 動することもできず、まさに蜘蛛の子を散らす

ように避難していった」という。

 市村家族の場合は、幸いなことに、北茨城に 避難していた知人が車で助けに来てくれたた

57一 め、北茨城の避難所に移動できた。そこで放射 線量の測定検査を受ける。携帯電話が使えるよ

うになったため、東京に住む親戚と連絡がつき、

北茨城まで迎えに来てもらい、東京に移動する。

ここまでの過程で市村氏が強調しているのは、

「避難先を自分で選択したことはなく、限られ た情報や個人的な伝手にすがりながら避難を続 けた」という実態だ。

 東京では3月20日頃から避難者に対する住宅 支援が始まったので、市村氏も東京中を回って 借上げ住宅への入居申請を繰り返す。手持ちの お金もあまりないなか、家族5人を引き連れて 移動したため、電車賃だけでもかなりかかった という。そして好運にも、「たまたま都営住宅 の入居募集で当選し、4月1日から現在の住宅

に移ることになった」。

 次に、市村氏は子どもたちの就学問題に向き 合うことになる。とくに中学を卒業した長女の 進学のため、福島県内の高校に問い合わせたが、

入学金支払いを求められ、県教育委員会に事情 を説明しても「それは学校の裁量」だからと告 げられる。「親としては、現状把握ができず、

避難者に対して理解がない教育機関に自分の子 どもを預けられるはずもなく」、志望校への入 学は断念せざるを得なかった。その後、東京都 教育委員会に諸事情を説明し、避難先に近い都 立高校に入学できることになった。

 「2〜3日で帰れるだろう」という淡い期待 は原発事故であっけなく吹き飛び、その後の家 族単位での避難がいかに迷走し、個人的な伝手

と必死の努力によるものであったかがわかる。

震災後、町民の7割が県外へ避難したが、現在、

県外は約3分の1に減っている。市村(2013)

によれば、富岡町民の原発遡ll{1の全体像は次の ようになる。まず、同町民は全国47都道府県す べてに離散している。福島県内の仮設住宅に全 体の17%、借上げ住宅に45〜50%が住み、残り

(8)

は福島県外への避難者である(福島県外で多い のは東京、埼玉、茨城、千葉、神奈川、新潟な ど)。震災前に比べて人口は1千人ほど減少し たが、世帯数は1千世帯以上増え、家族の分離 と離散が進展していることが確認できる。福島 県内の仮設住宅は高齢者の入居率が高い一方、

子どもをもつ世帯は県外避難率が高いようだと

いう。

(2)「とみおか子ども未来ネットワーク」の立  ち上げと活動

 2012年2月、市村氏は同世代の避難者数人と ともに、「とみおか子ども未来ネットワーク」

という被災当事者の市民団体を立ち上げた(な お、同会の創設には社会学広域避難研究会富岡 班が側面的に関わっている)。そこに至る経緯

を、少し長いが、市村(2013:81)から引用し

ておきたい。

 「避難生活のなかで私たちは、避難者として、

日々闘いを強いられている。それは家族のなか にも、メディアに対しても、国や行政に対して も、そして世論に対しても……。それは私たち にとって、当たり前の生活を取り戻すための闘 いだ。本来であれば、誰も闘いたくなどない。

しかし、被災者や被災地の実情が正しく理解さ れていないために、そうせざるを得ない状況に 追い込まれている。そこに被災者の最大の苦し みがある。だから、被災者一人ひとりが、今抱 えている思いを吐露し、それを共有する場所が 必要だと思った。おそらくは、そこで紡ぎ出さ れる言葉こそが、闘いのためには必要だから。」

 また、市村氏はこうも述べている。「今私た ちが直面している問題は、被災地や被災者だけ の問題ではない気がする。政治や行政、あるい は経済活動、ひいては私たちの生活を取り巻く 社会システムの根源に関わる大きな問題として 問われている気がしてならない。私たちは人と

して、大人として、この国の将来、何よりも子 どもの未来を真剣に考えて、行動を起こすべき ところまで来ているのではないだろうか」(市

村、2013:81)。

 なお、「とみおか子ども未来ネットワーク」

という名称について市村氏は、「(富岡町では)

地域で子どもを育てていた。三世代同居もあっ た。子どもを軸に世代がつながっているという 思いがある。地域の大人と子どもの関係を軸に、

世代を超えて考えていく。そこには時代の問題 も関連している。原発事故に伴う強制避難は、

子どもたちにとてつもない影響をもたらしてい る。子どもたちの未来を見据えて富岡町の新た なかたちを探っていく」と述べていた(2013年 8月のインタビューより)。

 同会は、これまで交流サロン事業、学習支援 事業「子ども未来塾」、むさしの福島ともだち プロジェクトなどの個別事業のほか、富岡町民 のタウンミーティングを行い、2013年6月には NPO法人となった。なかでも、タウンミーテ ィングは同年8月までに8回開催されている。

市村氏によれば、「町民であれば誰でもよい。

テーマは決めないので、多様なテーマが出てく る」。また、「保守的な町で、三世代家族が多い ため、年配者がいると若い人は発言しにくい。

男性がいると女性は話しづらい。そこで、年配 者、女性などのカテゴリー別に話し合う工夫も

している。避難している住民同士で話し合うと きには、こちらに「依存」する形にしたくない。

何かを「告知」するのでなく、むしろ一人ひと りが「気づいて」もらう作業を大切にしている」

という(同上インタビューによる)。

(3)被災者/避難者の思い

  一タウンミーティングの記録から  タウンミーティングの第7回までの記録が、

社会学広域避難研究会富岡班編12)の協力(進

(9)

March 2014

東日本大震災と都市/地域社会学の課題 行・記録)を受けて、『活動記録』voL 1(2013)

としてまとめられている。ここでは、そこで語 られている避難住民各層の思いを集約する「声」

を引用しておく。

【世帯主】

 やっぱり家族一緒というのは、大前提ですよ ね/落ち着いた、安定した環境がほしい/まる で水草の上を歩いているようだ/勝手に区域分 けを決めて、勝手に判断されて/やっぱり自分 で切り開いていくしかない。

【主婦・子育て女性】

 家族がバラバラ。もう〈一生分移動〉した気 持ちです/自分の子どもだけ追う学校行事は悲

しい/おばあちゃんが丹精込めた手作り野菜、

でもやっぱり不安/子どもや孫が里帰りできな い家って何なんだろう/「どうせ帰るでしょう」

と言われて雇ってもらえませんでした/また来 るに決まってるじゃん、ここで生まれたんだし

/声をあげること……あきらめちゃいけない。

【狭間の世代】

 (自分の)選択が本当に正しかったのかな/

口では言うんですよ、「子どものためだったら

般企業でも何でも入る」って/とにかく普通 の生活がしたいだけですね/オヤジとオフクロ は嘘ついたまま死んじゃうのかな/お父ちゃ ん、お母ちゃんはもう生きていないよ/(福島)

民報や(福島)民友(の情報)さえ信じられな かったら直接会って話すしかない。

【高齢者】

 周りには誰もいない、たまらないな/みんな 出かけていってぽつんとテレビだけついている

/本当はどこかに行って声上げて構わず泣きた いんですけれど、泣く場所がないですね/いず れ10年後か20年後であっても「富岡は富岡だな」

/若い人で仕事を持っていた人、子どもがいた 人、その人らが一番の被害者/知らない人であ

59一 ってもどこか心を通わせてね、どこかストンと 入っていける。

【共通した意見や特徴】

 富岡に帰りたいと思うのね。空の色見ると

……いつも青空だもんね/「将来どこに住んだ らいいのか」という不安が一番ですね/商売だ って「やるしかないべ」って〈賭け〉みたいな 話なんです/子どもの将来を考えると、(住民 票を)移しておいた方がいいのかな……/「人 がいるから町にならなければならない」のでは

/声を上げても何も変わらない……だからこ

そ。

 これらの声からは、突然の避難で複雑で過酷 な状況を強いられることになった人びとの、幾 重にも引き裂かれた思い、政府・東電やメディ ア、専門家への不信感13>、そして見通しがきか ない将来への不安が伝わってくる。市村氏によ れば、「全員、元の町に帰りたいと思っているが、

時間軸の問題が大きい。年配者は自分の余命を 考えて、生きている内には帰れないと考えてい る人もいる。親世代は子どもがいるから帰れな い。若い人はある程度自由に考えているが、も しかしたら30年後、50年後に帰れるかもしれな いと数字を読めるようになっている。避難住民 は、被災元の地域と避難先の両方を見ている」

と話す(2013年8月のインタビュー)。

 「帰りたい/帰れない」の狭間で、そこにど のような問題があるのかという筆者の質問に対

し、市村氏は「無関心ではないが、「不理解」

という問題。これはつまみ食いでは伝わらない。

しかし「めんどくさい」という人が多い。「合 意形成」と各自の「選択」の相反のなかで苦し んでいる」と強調されていた。市村氏がいうと ころの「不理解」には、避難者自身が自ら置か れた状況に対する「不理解」に留まらず、政府 や国民のそれも含まれる。「不理解」というご

(10)

の問題は、山下・市村・佐藤『人間なき復興一 一 原発避難と国民の「不理解」をめぐって』

(2013)で、「本当の理解ではない理解」(同書:

16)として、丹念に掘り下げられていくことに

なる。

(4)重層的なダブルバインドと「不理解」問題  山下たちの同書(2013)は、避難者自身や政 府・国民が抱く「不理解」の背景に、複層的な

ダブルバインドの深刻な状況があると指摘す る。「危険だけど安全、自由にしていいけど帰 る以外の選択は許さない。被災者はかわいそう だけど焼け太りは許さない。こうしたまるっき り矛盾した命令や言説が多重に重ねられてい る。しかもそのなかで、被災者はできない決断 を強要されており、ただ被災者であるだけでな く、論理的にきわめて苦しい立場に立たされて

いる」(同書:26−27)。

 そして、こうした状況について、「避難生活 は3年目に入り、避難が長期化していることの 意味について、避難者自身がもう一度考えてみ なくてはならない時期に入っている」(同書:

59)という。一方、避難者は「避難している限 り、自分は仮のままでいなければならない」。

そこで「避難生活の耐えられない状況を断ち切 りたい」が、「それができるのは、ある程度、

財力もあり、自力で……できる人に限られる」

(同書:60−61)のが現実である。他方、「不理 解のままに」(復興政策や帰還政策が)「事故前

と同じスキームで動いていく」ことが大きな問 題だと強調されている(同書:75)。

 市村氏は2013年11月の前述の講演で次のよう に述べていた。「「被災者」という言葉には沢山 の意味が含まれている。現住地での生活の見通 しや健康問題など、「断ち切れ」と言われても 問題は残る。堂々巡りの状況だ。自分たちは何 者か。「被災者/避難者/被害者」。しかし、中

学生などは「もう被災者と言われたくない」と

いう子もいる」。

 「国は「元の地域に戻ることが解決だ」とい う帰還政策をとり、その前提として除染を進め ている。しかし除染とは、放射能汚染されたも のを別の場所に動かすだけだ。ちょうど第一原 発の汚染水をタンクに貯めているのと同じ。除 染したものを保管する仮置き場は一つもない。

避難者は「分断」され、いざこざも起きる。福 島県いわき市に双葉郡から23,000人が避難し、

精神的賠償として毎月1人10万円支給されてい るが、これは単にお金をもらっているというこ とではない。原子力事故で失ったものの償いを してもらっているのだ。しかし、周囲の人から

は理解されない」。

 「最近では、国は帰還政策を変更しつつあり、

「帰れない地域の人は移住して下さい」といい 始めている。また、帰還困難区域は国有化する という話も出ている。だが、住民に合意を求め られても答えられない。住民が集まれる環境が ない限り、無理だ。「合意できないことを合意

する」しかない」。

5.「原発避難者受け入れ最大拠点」としての いわき市

(1)原発事故直後のいわき市の状況

 筆者が震災後いわき市に初めに入ったのは福 島第一原発から半径20キロ圏内に「警戒区域」

が設定された直後の4月25日(いわき市への屋 内退避の指示は21日に解除)であり、当日から IMUの大学会館に楢葉町役場いわき出張所が 開設されていた。筆者は、IMU復旧対策本部 の会議に陪席させていただき、震災・津波・原 発事故によるいわき市とIMUの被害状況を聴 取するとともに、4月7日に立ちあがった同市 の災害ボランティアセンターを訪れた。まだ余 震が続くなか、同センターでは、市民団体の協

(11)

March 2014

東日本大震災と都市/地域社会学の課題 力も得て平・小名浜の2地区に拠点を設けた

(なお、勿来地区では市民団体が災害Vcを立ち 上げた)。そして放射能の線量に留意しながら、

宿泊・食料等の而で自己完結型のボランティア のみを1日に平均約300人受入れ(4月18日頃 から市外からのボランティアも受入れ開始)、

ニーズとのマッチングを行い、瓦礫の片づけな ど支援と、避難所見守り隊の派遣などに取り組 んでいる段階であった14)。IMUの学生数名もボ ランティアとして同センターを手伝っており、

IMUが浜通り唯一の総合的な高等教育機関と して、各方面からの期待値が大きいのではない かと感じられた。地震・原発災害を受けた大学 として風評被害による遠隔地からの志願者減少 が懸念されるなか、何ができるのかが問われて

61一 いた(なお、IMUは5月16日に前期授業を開

始した)。

(2)「原発避難者受け入れ最大拠点」いわき市  この時点ですでにいわき市に原発周辺地域か

らの避難者が多数流入していたが、その後時間 の経過とともに、他所に一時避難していた富岡 町、大熊町、双葉町、楢葉町、広野町等の避難 者が浜通りのいわきへ戻り、いわき市は「原発 避難者受け入れの最大の拠点」(高木、2012b:

322)となっていく。

 高木によれば、原発事故から半年後の時点

(2011年10月7日)で双葉郡8町村の人口の約 4分の1がいわき市に避難しており、避難者の 移動に合わせて避難自治体を含めた行政全体が

表2 楢葉町・広野町・いわき市の住民居住地(2011年9月末〜10月初旬)

楢葉町 広野町 いわき市

避難居住地 10月7日 10月4日 9月30日

県内

会津美里町 484人 6.0 8人 0.15 2人 0.33 会津若松市 274 3.4 17 0.33 165 2.1

郡山市 133 1.7 46 0.89 1 0.01

福島市 69 0.9 28 0.54

7

0.1

いわき市 4936 61.3 3763

72.50

その他 340 4.2 168 3.24 102 1.3

小計 6236 77.4 4030

77.65

277 3.5

県外 茨城県 277 3.4 107 2.06 272 3.4 東京都 260 3.2 198 3.82 1369 17.2

埼玉県 254 3.2 173 3.33 653 8.2

千葉県 213 2.6 140 2.70 471 5.9

神奈川県 130 1.6 157 3.03 470 5.9

その他 686 8.5 385 7.42 4731 59.4

小計 1820 22.6 1160

22.35

7966 96.4

合計 8056

100.0

5190

100.00

8243

100.0

出所:各自治体からの集計データをもとに作成。高木(2012:320)より引用。但し、一部改変した。

(12)

対応せざるを得ない状況となっていた(高木、

2012b:322)。ちなみにこの時点における楢葉 町と広野町からの避難者の居住地をみると(表 2)、それぞれ約6〜7割がいわき市内にいる ことがわかる。その一方、いわき市から他市町 村へ避難している人も市役所が把握しているだ けでも約8千人となっており、いわき市では避 難者の流入/流出という二重の過程が生じてい た(筆者は翌12年6月に広野町役場を訪問する 機会があったが、その時点でも、当町にはわず かの町民しか帰還しておらず、ほとんどの町民 はいわき市の仮設住宅から日中自宅や職場に通 っているということであった)。

 なお、借上げ住宅制度の特例措置によって、

原発避難者の住宅確保はすみやかに達成された が、他方で避難者の孤立を生じさせやすくした。

また、避難者の居住地が県内外に広域化したこ とも、避難生活の長期化のなかで避難者の顔が みえにくくしていることが留意された(高木、

2013b:324)。

(3)いわき市内の仮設住宅団地等の状況  ここでは、筆者が参加した社会学4学会合同

研究・交流集会(第2回)[福島編]「「原発避難」

を捉える/考える/支える」(日本社会学会・

日本都市社会学会・環境社会学会・地域社会学 会の共催、2012年6月16日)のエクスカーショ ンから、いわき市内の双葉町の応急仮設住宅団 地等の状況を記録しておきたい。

1)仮設住宅団地自治会(いわき市南台)会長  S氏の話

 S氏(男性、60代)の自宅は第一原発から北 に3kmの所にある500年続く農家(16代目)で ある。農協を定年前に辞め、ほうれん草の栽培 農家をやっていたという。また、民生委員や農 業委員も務めたが、後輩に譲ったとのことで、

地域での役職経験をもつ。

 「3月11日は手術のため南相馬市の病院にい て、大津波を見た。東電の原発は事故になって いると確信した。自宅に電話したら炊き出しを やっていたので、家人には家に戻れなくなるこ とを覚悟しろと伝えたが、その後携帯電話がつ ながらなくなった。家人は愛犬を置いて避難し た。病院から自主避難して郡山市に行った。油

(ガソリン)がなかったので、郡山の熱海で軽 油を出してもらい、14日に娘がいる東京に16時 間かけて向かった。松戸市に住む長男夫婦とも 合流できた。16日江戸川の病院に入院し、3月 末に退院した。4月に猪苗代のリステルいなわ しろに移り、そこに5カ月滞在した。10月にこ の避難所も閉鎖となり、南台の仮設住宅に来た。

町役場は埼玉の加須市の旧騎西高校に行ったき りだ。県と国からの支援はなかった。7月以降 何度か自宅に戻ったが、築84年の家の屋根とガ ラスが破れ、衣類はダメになった。しかし放射 能がなければ住めると思う。」

 「この仮設は250世帯、470名だが、現在は244 世帯。1K、2K、3K。集会室は3か所ある。

昨年8月に入居した。自治会は昨年11月末に設 立。自治会長は自分で二人目(初代の自治会長 は庶務が動かなくて辞めた)。今後、広場を使 ってイベントをやっていきたい。」

2)双葉町社会福祉協議会生活支援相談員T氏  の話

 双葉町では200世帯以上に1か所、介護サポ

トセンターを設けており、ここもその1つで ある。以下、T氏の話を要約する。

 「3月11日は社協があった建物にいた。そこ にはデイサービスも付設されたヘルスケァセン ターだったが、避難所となった。翌日、避難命 令が出て川俣町へ移動した。自衛隊の支援でデ イサービスの人も連れて行った。3月19日には さいたまアリーナに行き、4月に入って加須市 の騎西高校に移った。デイサービスの高齢者は

(13)

March 2014

東日本大震災と都市/地域社会学の課題 ガソリン不足で家族がなかなか迎えに来なかっ

たので、あちこちに照会して探した。その後9 月13日までリステルいなわしろを拠点に県内の 避難者の支援に取り組んだが、地元の専門職チ

ムに協力してもらい、大変助かった。現在は 福島市、郡山市、白河市、いわき市の4つのエ リアに分けて支援している。民生委員に協力し てもらい、借り上げ住宅も回っているが、この

3月くらいでやっと皆落ち着いてきた。」

 「中通りに避難した人が寒さに耐えられず、

こちらに来た人が多い。東電に通勤している人 もいる。子どもは小学生を中心に10数名おり、

通学バスで通っている。以前は県外避難者が最 も多かったが、今では県内避難者一番多くなっ た。中でもいわき市が最多。原発で働いていた 人が多かったので、浜通りに集まる。」

 「双葉町の仮設住宅は9か所に分散している が、いわき市内に466世帯、約840人が住む。南 台の仮設団地がもっとも多い。一人暮らしの人 もいる。借り上げ住宅に家族と同居しても、昼 間一人となり、仮設団地の方が皆に会えてよい ので、仮設に高齢者が集まる。」

 「家に帰っても、もう住めない。いろいろな ものをなくし、喪失感が大きい。加えて家族の 絆も弱ってしまった。仮設住宅には3Kまでし かなく、孫たちと三代では住めない。」

 「今後の課題は、①時間が経つほど大きくな る「心の問題」にどう取り組むか、②老親と若 い夫婦がどう再結合して一緒に住める環境を作 っていけるか、③一人暮らしの高齢者をどうフ ォローしていき、仮設後のステップを準備でき るか、④サロンで地元住民と交流するなどして、

どう地域の中に溶け込んでいけるようにしてい けるか、⑤喪失したものに代わる生きがいをど うつくるか、⑥役場が離れているため書類づく りが大変なことと、温度差が大きいことだ(県 外にいると大事に扱われるが、県内だと自分た

ちで頑張るしかない)。」

63一

(3)いわき市再訪

 いわき明星大学との合同ボランティア研修で 2013年8月、いわき市を再訪した(参加者は学 生18名と教職員3名)。このたびは市内にある 槍葉町の13か所の仮設のうち、3か所(飯野応        あい 急仮設住宅、内郷白水仮設応急住宅、小名浜相 小島応急仮設住宅)に向かい、学生たちによるこじま

足湯15)などのボランティア活動に付き添った

(なお、槍葉町の仮設は会津美里にも1か所あ

る)。

 この仮設は幹線道路脇のくぼ地の目立たない 場所にあり、2階建て3椋、40戸。現在は33戸 入居で、3戸分は非常用に空けてあるという。

1階は高齢者中心、2階は若い人中心。単身者 用はlDK、家族世帯用は2DK。仮設の自治会 長Y氏(男性、60代後半)によれば、この仮設 への入居開始は2013年3月で、元の居住地に無 関係に行われた。梅雨の頃はアリが発生して対 応に追われたという。

 仮設1棟の1階に談話室が設けられており、

楢葉町から連絡員Sさんが派遣されている。S さんは他の仮設も担当しているという。なお、

Sさんは福島原発で7年働いたが、原発事故後 の対応に参加した(「自分たちがやらずして誰 がやる」という考え方による)が、線量が限界 に達したため、この仕事に転職したという。

 祖母と母親(明星大通信教育部の元学生)と 子ども2人が談話室を訪問し、学生たちはさっ そく足湯のサービスや子どもと遊んだりしてい た。高齢男性も訪れたが、この人もやはり福島 原発で長く働いたという。事故原因も含め、放 射能汚染にも詳しく、政府に対する不信感を強 く抱いている様子だったが、仮設の他の住民と のつきあいがあまりないようだった。

 午前から午後にかけて、この仮設住宅には12

(14)

日に予定される楢葉町町会議員選挙の候補者た ちが車で次々にやって来ては、仮設の周りを遊 説して投票を呼びかけていた。ベテランらしい K候補は、①20キロ圏内は他の町と差別なく一 律に賠償を求める、②中間貯蔵施設(保管庫)

は(楢葉町以外の)高線量の地域に、③国によ る除染のさらなる継続、④高速道路と医療費の 無料化の継続を訴えた。より若いN候補(52歳)

は、①国と喧嘩の出来る議員をめざす、その理 由として②除染は町の3割しかしないで終わ る。これで安心・安全な生活が出来ると思うか、

③われわれは100%被害者であり、国や東電が 100%加害者であることを忘れるな、④今のわ ずかな補償に誤魔化されるな(家族単位の補償 を)、今後起きる放射能による健康被害をどう 考えるか、といった点を訴えていた。もう一人 の候補もやってきたが、演説はせず、名前を連 呼して帰って行った。候補者たちが帰ると、自 治会長のY氏は、「みんな同じようなことを話 している」と述べていたことが印象的だった。

 なお、学生による他の仮設住宅の状況報告は、

以下のとおりであった。

【飯野応急仮設住宅】

 15世帯と小規模な仮設住宅で、談話室も狭か った。座布団もない。足湯には6名(男女各3 人)が来てくれた。狭い個室から出てコミュニ ケーションする機会になるとのこと。皆さん、

元気で、散歩がその秘訣だという人も。足湯を 楽しみにして来てくれる。問題は談話室に来な い人への対応だ。一人暮らしの高齢者はあまり 部屋から出ない。音楽を流すなどの来やすい雰 囲気を工夫することも課題だ。しかし、お年寄

りと一対一で話すのは初めてで、よい経験にな った。家族の話も聞けた(明星大2年、村上翔

太郎)。

【内郷白水仮設応急住宅】

 61世帯が入居する仮設。高齢者から子どもま で13人が足湯に来てくれた。足湯は初めての人 もいた。ラジオ体操を一緒にやった。足湯は、

仮設の水道水を沸かすのではなく、温泉水を持 って行くなどの工夫も必要だ。大道芸は子ども に大いに喜んでもらった。また、子どもに絵本 を読み聞かせ、折り紙、手裏剣づくり、内輪づ くりなどを行った。「また、来てね」と言われ

た(同上、村上)。

(4)いわき市役所の対応

 前述のように、いわき市民も被災したが、市 内には双葉郡を中心に周辺自治体からの避難者 が多く集まり、各町村の仮設住宅等に居住して いる。こうした状況のなかでいわき市役所はど のような対応をとっているのだろうか。ここで は、2013年11月13日にIMUの高木竜輔氏と共 同で行ったいわき市役所(行政経営部行政経営 課復興支援室と同市土木部住宅課)のヒアリン グの記録を要約しておきたい。

1)いわき市における避難者の概況

 避難者の状況は、①いわき市内への避難者は 23,225名(9月1日現在)であり、それ以降も 増加基調が続いている(内訳:双葉郡8町村 22397名、南相馬市764名、田村市41名、川俣 町3名、飯館村20名)。②いわき市民への一時 提供住宅(11月1日現在)の入居者は、応急仮 設住宅189世帯(472名)、賃貸住宅等2,434世帯

(6,687名)である。一方、③いわき市外への避 難者は3,434世帯(7,479名)となっているが、

市に届けずに戻っている人もいるため、正確で

はない。

2)市の対応と国及び避難自治体等との協議 市は、震災により甚大な被害を受けた被災自

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