奈良教育大学学術リポジトリNEAR
日本語教育としての作文指導の一視点 ― 「である
」をめぐって ―
著者 山内 洋一郎
雑誌名 奈良教育大学教育研究所紀要
巻 22
ページ 1‑8
発行年 1986‑03‑23
その他のタイトル On Japaness Composition for foreigners ― concerning "dearu" ―
URL http://hdl.handle.net/10105/6618
日本語教育としての作文指導の一視点
「である」をめぐって
山 内 洋一郎
(国語学研究室)
i 外国語教育は、基礎的発音から人ワ、簡単な会話から高度複雑なそれに進むのが普通である。
或る程度の年令に達し、知識・経験を持つ者に対しては、習う対象の言語が持っている文字に よる教育、即ち読解を併行し、会話についても、テキスト・参考書を用いることになる。音声・
会話教育に少し遅れて、書写・文章表現教育が併行されることにな〜
日本語教青に関して、会話能力付与の過程における種々の問題点の研究、教青方法の考察、
及びその実践報告は多くなってきているようであるが、文章表現(作文)についての報告は比 較的少ないのではあるまいか。私は日本語教育全般について近時まで関係藩く、その研究や報 告、或いは指議書などに目を通すことは、未だ乏しv、のであって、日本語教育につき、大きく 発言する状態にほない。しかし、昭和60年3月よリ4か月間、中華人民共和国連章省犬違市に ある大蓮外国語学院培訓部で日本語教育に従事してきたので、その実践報告の一つとして、こ こに、主として作文教育について、私見を述べてみようと思う。
対象学生は、中国の大学を卒業し、中国で大学院生成いぼ助手などで勤務している着のうち、
中国政府によリ目本に留学するべく選抜された人々で、大違の場合は99名、一うち山内が授業し た者58名である。年令ほ21歳から28歳、90%は男性、数名を除いて全て理系(理学、震学、医 学等)である。
彼らは59年11月に中国各地よワ大連市に集合し、11・12・1の3か月間、中国人教師によリ 日本語初級を白紙状態から教育せられ、1か月の休暇の後、3月よワ6月末まで我々目本人文 部省派遣教員による集中教青を受けた。筆者山内の体験はこの期間であワ、所持する作文資料 及びそのコピーは、この期間の、それもその後半のものである。
言語教育の入門期にほ、誤用は多種多様に現われ、頻度も高い。それほそれとして重要な材 料を提供するが、中級段階にλりてなおかつ繰ワ返される誤用や、身につき難い用法は、日本 語教育にとって重要なものと思われる。ここに使用する作文資料は、60年5・6月のもので、
多くぼ課題作文である。この時期になると、学生違ほ400字詰原稿用紙に一2〜4枚は常時書く 力を着けてきていた。顕著な誤用は少なくなってきている。
* 0n Japaness Composition for fo祀ig鵬r8−conceming deam 一
** Yoichiro Yamauchi(Depa舳ment of J叩anese,Nam Univ胴ity of Education,
Nam)
1 学生にとって、日本語のどういう点が学習困難であったか、学生自身のことぱにそれを聞こ う。r大連での七カ月の生活をぶワ返って」と題する文章の一部である。
日本語の勉強は、始めほやさしそうであるが、勉強すれば勉強するほど、その難しさがだ んだん分るようになった。rは」とrが」の区別、敬体と簡体の区別、敬語の使い方、そ れにさまざまな外来語、みなとらのように私の行きたい道の真中に座りていた。(異義宏)
ここに挙げられた四項は、日本語学習の困難な点の最たるものとして、しばしば指摘されて きたものである。このうち第二項r敬体と簡体の区別」(普通はr敬体と常体」といラ。以下
ではr常体」を用いる。)は、他三項と異なワ、主として文章表現に関するもので、敬体(rで す」rます」を用いる文体)が会話の文体であるのに対し、常・体(rだ」rである」を用いる 文体)は文章に顕著な文体であるから、この区別の問題は、常体の書き方の学習に重点のある 問題となる。教育の順序として、最初に入る会話文は勿論敬体であワ、その後を追う作文はま ず敬体で、即ち会話の調子のまま書くことになる。そして、一般の日本語教育では、敬体によ る作文能力がつけぱほぽ日的の主要段階に達したことになワ、常体にまで及ぶ必要は必ずしも ない、或いは、その余裕がないということでもあろう。しかし、留学生教育においては、直接 の形態としては、試験の筆記解答、レポート制作から、やがては論文発表にまで至るものであ るから、常体の学習は必須となる。
常体は我々の文章の大部分を占め、文学作品の地の文、論説文、新聞・雑誌の文章など、
<読む一書く〉という文字言語生活の中心にある。勿論文章は敬体で書いてよく、それで通す 人のいることも知られている。だが、明治期の言文一致連動を怪てrである体」が文章表現の 基本として定着し、既に多年を経た今、これを身につけないではいられないことになっている。
但し、このrである体」がかなワ人為的な性格を持つだ弧その内部にまだ問題を抱えている ように思われる。外国人学習者に意外に困難を覚えさせるのは、その為もあるであろう。r意 外に」と記したのは、ちょっと考えただけでは、会話体からrです」rます」を除けぱできる のでないか、常体は表現性からほ会話体より単純ではないか、と思わせられるからである。
以下この常体の指導過程と、学生の作文とから見た、問題点を考えてみよう。
㎜ <形容詞とrである」〉
「です」を「である」に変えられない場合がある。
1.私は大連が初めてなので、最初は、この海浜城市の何事でも珍らしくて、おもしろいであ 三む
2.21世紀はコンピューターと生物の世紀と言われている。農業はコンピューターと生物と、
とても関係深いである。
この2例は形容詞にrである」を付けたもので、1はrおもしろいのであった」とすれば、
平叙文としては無意味な強調になワ、単にrおもしろかった。」で良く、2は、r関係深い。」乃 至r関係が深い。」が良く、rのである。」も文脈次第では可能になろう。
同様な誤例は「だ」を用いる形としても出現する。
3.登山ときたら、恥じい崖が、青年の私たちも先生に及ばない。
4.この文章で魯迅が悪い人の本性をあぱきだした。犬のrごとは」はおもしろくて、とても 鋭いだ。(『朝花タ捨』所収r犬の反駁、」についての感想文)
3ほ「恥じいが」か「恥じいことだが」かに改められ、4ほr.だ」を除ぐべきである。この 誤りの原因の根本は、会話文のrです」をrである」rだ」に置換したことにあるだろう。名 詞に接するrである」rだ」はそれが可能で、名詞に準ずる語形も同様である。
和ほ学生です。 →○私は学生である。 〈名詞>
私は健康です。 →○私は健康である。 〈形容動詞>
今帰ったばかりです。→○今帰ったばかりである。〈助詞の準ずる形>
しかし、全てに置換できるかといえぱそうでなく、形容詞では用いられない。
中国は広いです。 →X中国は広いである。 X中国は広いだ。
私は若いです。 →X私は若いであ臥 X私は若いだ・
この誤用についての指導ほ、
r… い」の形は、rい」の所にr… だ」という意味を持っているから、「である」
「だ」は用いない。用いると、意味が重なってしまって、おかしい。
となる。国語学でいう陳述作用を外国人に認識させるのほむつかしいが、断定する意味として 説く必要がある。ところが、rです」にも断定の意味が入っているのに、r広いです」となぜ 言えるか・という疑問が起こる。それは、次の違いがあるからである。
私は学生です。・・・・・…断定の意味と丁寧の気持ちを表す。
中国は広いです。・・・…丁寧の気持ちだけを表す・
このような原理的説明は、一般にはむしろしない方が良いものかもしれないが、上記学生違に は有効であった。だが、私自身r形容詞終止形十です」の形になじまないものを感じており、
rバラの花はきれいです。」は形容動詞だから違和感はないが、rバラの花ほ美しいです。」ほ使 いにくい。rです」にプロミネンスを置く、近時の子どものよくする発音は耳障Dである。こ こには、rです」の発達事情がからんでいる。もともとr応うございます。」のように、ウ音便 にrございます」を付ける形が、形容詞の丁寧表現でありた。rございます」がやや使い方が 少なくなワ、丁重1な表現と意識され、音節の長さも影響して、丁寧としてほふさわしくなくな
りたのである。そこでr… いです。」が近年急速に一般化した。それでこれに違和感を感じる 年配の人ほまだまだ多いのでほあるまいか。
5.大学院に入る時、私の専門は水産食品化学にした。今ほ日本語を習。て日本に留学するつ もリである。X X大学の水産学部に人ワたいである。
形容詞と同じ活用の助動詞にもこの現象が見られる。テキストでr何がほしいですか。車が ほしいです。」rどこへ行きたいですか。京都へ行きたいです。」といった文型を学習する。その 例文にr新しく出版された全集がほしい。」r国の両親に電話をして話したい。」というものもあ
ったが、それもやはり会話体の感じがある。元来rたい」「ほしい」ほ主として話手(表現主 体)の個人的願望を表明するものであるから、客観的文体にそぐわない。従。て、デアル体の
中に入ると何だか奇妙な感じを残すのでありて、上記例はr… 入りたい。」と「である」を除 くのを良しとするけれども、なおかつその感じが尾を引く。r水産学部に入学するのが私の希 望である。」と硬い表現にするか、r水産学部に人ワたく思うている。」という形にするか、こう いう方面までは、実際の添削は及ばないだろう。
所謂共通語の普通文体には、こなれていないものがいくつもありて、それほ言語感覚の違い もあろうが、r… することができる」式の分析的言いまわしの中には、指導しにくいものが あるようである。願望表現もその一つ。会話の中でもr私はあなたに手伝ってほしい。」などの
rほしい」の使い方は私にほぎこちなくて使えない。
r広いだ。」が不可で、「広いだろう。」が正用であることも、湘かに言えば、混乱を招く一因 であろう。だが、rだろう」の使い方に誤ったものは見出されなかりた。
61現在では、中国が先進な国にはおよぱないが、人々の手によって、新しい中国を作ワ上げ る目はあまワ遠くないだろう。
このrだろう」は現代語では、rだ」の一活用形と見るよりは、rだろう」全体を一語とし て推iを示すとすぺきだろラ(時枝誠記『日本文法口語篇』)。この語に断定の意味は稀薄にな
りているから、r… い」にそのまま付くことができるのである。
w <「である」と「のである」〉
文末の「である」の一用法に「のである」がある。この指導はなかなかむつかしい。
7.私は大学に入った前に、いろいろのことに興味を持っていた。例えば、数学・化学・生物・
コンピュータ などであった。そして、将来はそれらについての研究をしたかったである。
しかし、私は大学に入ると・・…
8.上に述べたのほ表面的現象で、実際の研究内容も違う。それほ一番目の原因である。r造 林」ほ木を植える前、いろいろなしたくを前もってしなけれぱならないである。主な用意 は、木を植えようとしている山に、どんな土・砂の多いか少ない、水分の高いか低い、・・
… ということを明らかにすることである。
rのである」の主な機能は、展開してきた幾文かをまとめ、集約し、確認するところにある。
段落の最初に出ることほ先ずなく、それを連続して用いることも普通でない。しかし、その確 記し、強調するのは、表現者の内部文脈によるところが大きく、外見上、文法上、第三者が必 然性を云々することがむつかしい。上記例7で言えば、このrである」の訂正方向に二種ある。
淡々と叙述を展開してきていると見れば、rそして、・…したかった。」で良いはずである。一 方、将来について強調し、それと大学に入っての現実との差を示すとなれば、rそして、…
したかったのである。」となるであろう。rのである」の多い文は、自己主張の強い文の印象が あリ、なめらかでない。適宜、ふさわしい所に用いることが大事であるが、長文の作文制作の 中で、それを指導することになる。
9.小学生のころ、家のかべにかけてある写真の中で、最も好きなのは一番年上の兄の写真で あった。その兄は四年間黒竜江で働いたことがあって、その時、毎年の正月に家に帰る途
中でいろいろの所で写真をとったのである。その中に大連ρ老虎潔でのもあったのである。
兄に聞いて、大連の美しい海岸が私の幼い心に入ったのである。
有難<、去年の十月の末に私は大連へ日本語の勉強に来た。今度は大連をよく見ること ができるだろうと思りたが、ここに来てから、二日日に厚い日本語の教科書をもらった。
すぐ授業が始まりだ。それで、海岸へ行こうにも行けなかりたのである。
この四個所のrのである」ほ誤りているとはいえない。三例の連続は少々重たく、少し除<
と良い文章になる・それにしても、r老虎業でのもあった」ほ良くできているし、r行こうに も行けねかづた」ほ文型練習の応用として正しい。手許の資料では、冒頭にrのだ」を持った きた1例のほか、数多<のrのである」にほ目立った欠点は見当らない。
V <rである」の有無>
デアル体の文章を書くように勧めると、必要以上に多用する文が出てくる。rです」「ます」
にも同様の問題がしばしば起こる。
10.私は大学の茶葉科学学部に入りてからお茶に関するいろんなことを勉強し始めた。お茶の ことは毎日鉄むお茶のことにすぎないであるから、わざわざ学部を設けて、専門的に研究 する必要があるのであろうかと時々私は聞かれる。それはそうであると始めて私もこのよ うに思り7ヒ。
初例はrすぎないから」、次は「必要があるのか」と「である」rであろう」を除いた形で よく、第三例ほrそれほそうだ」と改め、いずれも簡明な形がよいのではないかと思われる。
rと」で受ける文のうち、会話引用以外では、感倍的・主観的表現をできるだけ簡素にする のが文章語法である。
11.中国は、世界の先進諸国と比べたら、やはリ後進国だと言える。
12.けちは日本人のもっとも悪い点と欧美人たちがよく悪口を言う。これほいたって残念なご とだと思われている。
13相手をほっきワ断わることを避けるのは日本人の代表的国民性であると言える。
上に見る三つの型はそれぞれ文法的にほ難点がないもので、文体的選択の問題であるが、特 に指導しなくても、教材などに出る例.文によって、自然に出現した。述語であることがほ。き ワしている文では一往ほr… だと」の形を勧め、断定のことばのない形までほ、指摘する必
要はない。むしろrけちは… 悪い点だと」と添削すべきである㌔
しかし、述格に立ちながら、指定辞の表現されない場合があって、これほよ<理解しにくい ようである。例えば、上記のr必要があるのであろうかと」や次のr人間だか」がそれである。
14.ある国の言葉はその国の歴史、文化、国民の風俗、習慣、考え方、心理などが溶けてある ものだと言えるなら、その国の国民はどんな人間だか、彼らの便りている言葉から少しぼ 分かるだろう。
15.大連に来る前、この都市はどんな様子だか、いろいろ予想した。
和ほ青島にある大学で勉強したので、毎日窓に青い海が見えたが、大連の海がどんなだか
とよく思りた。
また、次のような例もある。内容は誤りだと訂正したが。
16.日本人はみんな長男になリたいらしい。というのは長男は家のあとを継ぐ人だからだかも しれない。
このrどんな人間だか」を「どんな人間だろうか」とすると、文の完結体となり、更に後の 句に係るr… なら」の句がこの「… だろうか」に結びついてしまい・誤りとなる。文中の 成分としてほrどんな人間か」rどんな人間かは」とした方がよい。rどんな様子だか」は予 想の内容であるから、rどんな様子だろうかと」とrと」で引用を明確にした方がよい。
rだ」にも、日本語自体として、欠陥のあることが、このよ1ラな例で分かる。疑問表現で どんな人間か。・・・…であるか。・・・…ですか。・・・…だろうか。・・・…であろうか。・・
… でしょうか。
などとできるのに、「どんな人問だか」はおかしいのである。
17.魯迅は近代の中国の偉大な文学家だけでなく、思想家でもある。
rだけ」が名詞に直接につくと・r労働者だけでなく・学生も家庭婦人も参加した。」のよラ に異種列挙の中の限定になり、主語の持つ属性を限定的に認めて、他の属性のあることを示す のには、「文学家であるだけでなく」のように「である」を加えねばならない。こういう徴差 の文型指導はなかなか高度なものであるから、これ以前の問題に賞してしまうことになる。上 記例についても、特に説明はせず添削したのみであ飢
M <rである」の諸形>
rである」をめぐって、まだまだ問題がある。文中の断続による語形変化の系列は、一往次 のようになる。「である」系列、「だ」系列として対照整理することができる。
彼ほ学生である。
学生であるか。
学生であるが、
学生であるので、
学生であるから、
学生であろう。
学生でありた。
学生であって、
学生であり、
学生であれば 学生で㈲ない。
学生だ。
XX X 学生か。
学生だが、
学生なので、
学生だから、
学生だろう。
学生だった。
XXX 学生で、
X X X
学生なら 学生判詞ない。
しかし、文体として、両者が明確に分れているのではないし、同一系列の中にも使用の多寡、
文体的差違がある。作文指導で画一的方法はむしろ不要であろう。多く用いる語形の指導にと どまワ、体系的指導まで及ぶ必要はないかもしれない。読解の文例の中でその変化形を見出し
て、自然に彦得してゆくようである。
18.日本は地震の多い国であワ、地震の資料が多く、地蟹の研究が先進である。
19大連の人は大昔大体山東から移った人であワ、しかも、日本語の影響が深く、ここの言葉 が分リにくい。
このようにrてあり」を用い、rであって」はむしろ少ない。違月形でrて」を全てと言っ てよいほど用いるのが会話体であるから、rて」の榊 形は文章語法といラベきである。畳み 重ねだり、併列したりする時に、rて」のない形を混ぜると、文章に抑場ができて良いのであ るが、勿論そこに法則性はないので、指導することはできない。これとそれはどう違うか、そ の違いを知っゼことぱを使おうとするのが外国人に対する言語教育であってみれば、単なる傾 向、好みの違いに近い現象は対象外となる㍉この問題を少々試みてみたが・すぐに中止して しまった。
以上、作文教育におけるデアル体指導の問題点をいくつか述べてみた。対象となった中国人学 生は言語取得能力においても極めて優秀であって、短期問に上達した。但し、能力の高さと共に 日々の時間の大部分を日本語に当てる方式と、それに耐え克服した彼らの努力を高く評価せねば ならない。
書きことぱと話しことぱの姜が大きいのほ望ましくなく、その大きい距離を縮めたのが、明治 の言文一致連動であった。しかし、そこから生ま札たデアル体はやばリ文章語体であって、話し ことぱとの差を当初より持りていたし、体系的にも必ずしも養っていなかった。日本語教育にお ける作文指導では、会話体との距難の近い文体を考えるべきであるラが、それには日本語自体に
も整っていないところが残りているように思われる。 (1985,11.30)