司馬江漢創製の腐触銅版画技法の原典について 上
著者 菅野 陽
雑誌名 美術研究
号 265
ページ 1‑22
発行年 1970‑05‑15
URL http://id.nii.ac.jp/1440/00006581/
Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by‑nc‑nd/3.0/deed.ja
司馬江漢
創製の腐蝕銅版画技法の 原典について
はじめに
十五世紀半ば頃ヨ
l
ロッパに始まった銅版画を日本が知ったのは一五四九年キリスト教の伝来以後である︒当時の銅版画は美術の一分野とい
うよりむしろ信仰の対象物として受けとられていたと考えられる︒
イ
ニ乙
ズス会の布教業績の進展に伴う日本教会の宗教画に対する需要は増す一
( 一 )
方であり︑遂には日本に画学舎を設立せしむることになる︒その時期は
( 二 )
一五
年七月から間もない頃と見られている︒九
O
その頃ヨーロッパの銅版画は銅版に直接彫刻刀で彫り込む彫刻銅版画
と共に︑十六世紀の始め頃から薬液による腐蝕銅版画が始まっていた︒
しかし日本に費らされた宗教銅版画はすべて彫刻銅版画であった︒
その
彫刻銅版画の教育の細部は判らないが︑画学舎のために来朝した宣教師
( 一
ニ)
が指
導し
︑
ヨーロッパ伝来の宗教銅版画の模刻をさせた︒日本人の学生
(四
)
たちは合宿して(同
宿と して﹀訓練を受けた︒しかしそのような制度は
一六一四年以降の徹底した禁教政策によってあらゆるキリスト教関係の
美術作品は破壊散侠せしめられ︑彫刻銅版画の技法は全く絶滅し︑明治
司 馬 江 漢 創 製 の 腐 蝕 銅 版 画 技 法 の 原 典 に つ い て
上
上
芦古田
野
陽
(五
)
八年キヨソネらの来朝までのこ百六十年間延ることがなかった︒
それに反して︑十八世紀の終り近くに始まった銅版画は︑その制作の
動機︑技法︑それの習得の方法︑作品に対する考え方等すべての点で会
く異なっていたといえる︒すなわち鎖国以後次第に流入されるオランダ
の文物への関心︑ひいてはそれらに対する研究に伴って始められたもの
であった︒殊に画図や書籍の挿画に見られる精妙な具体性︑写実性に大
いに刺戟された︒従って蘭学の初期の勃興にはそれら蘭書の挿画が大き
な影響力を持っていたと考えられる︒
そして蘭書の挿画が銅版であることを最も早い時期に指摘した一人は
︿六
)
野呂元丈である︒しかしそれらの銅版画が腐蝕法によるものであり︑ま
たその製法を何に拠って学ぶべきかを知り得た人が誰であるかは判らな
い︒おそらくは当時の蘭学研究の先覚者たちの誰かが江戸参府の商館長
の一行との対談から得たものとも考えられる︒
とに角天明期に入って創製された日本の腐蝕銅版画はオランダ人の直
接の指導を受けず︑オランダ語の文献の訳読によるのみでその製法のた
めに工夫を凝らし︑さまざまな制約をのり越えて創り出した意義は偉大
81
美
術 研 究
五
号
蔵であり︑その事実は当時
糊の外来文化の受容態度の
美開特徴を示すものである︒
耐この稿では創製当時の状
神況を考察し︑創始のため 一 戸
の技法の準拠となったオ
札ランダ原典について検討
引してみたい︒
目 鏡
一︑腐蝕銅版画
覗の創製
挿 図1
創製者の主張
初 の 日
倉JI 本
作 の 者 腐 は 蝕 司 銅 馬 版 江(画 漢きの で 最 右あり︑彼の第
同一作の完成は
天明三年(一
鏡 七 八 三 )
九月
目と さ れ て い
覗る︒その第一
挿 図2 作
と 見 倣 さ れ
る﹃三園之景
図﹄では画面
の外
︑
(八 )
上部に左から右へ横書きに裏返しの逆文字でコニ園之景﹂︑
右側j
の下の方に﹁芝門司馬江漢製作﹂︑左側に﹁天明突卯九月﹂と双方とも正
常のむきで縦書きに記銘しである(図版I参照)︒それから十一年後の寛
( 九 ﹀
政六年の﹃画室図﹄には﹁日本創製司馬江漢﹂の大きな文字のほか︑そ
の右側に﹁天明笑卯九月初為此工﹂︑左側に製作の年記﹁寛政甲寅八月﹂
の文字が入れてある︒その他の彼の銅版画には﹁日本創製司馬江漢(函)﹂
﹁日
本銅
板
(H
盤)創製(東都芝門﹀司馬江漢(峻﹀写
(H
画)井刻﹂ある
ν
、は﹁
司馬
江漢
創製
﹂
絶えず
などと時代を経ても繰り返し書き入れて︑
創製を大いに謡った︒(灯るL11J配付
ω
計一 一月 一叫 .州 制
. M 持 丸
一 一 尚 一 山 一 川 町 一 れ
お
記入のし方/
が あ る 意
﹂
また弟子が書いた形にしてある﹁司馬江漢覗目鏡引札﹂(天明四年一七
八四)の口上書ハ挿図1﹀のなかに
西洋一一銅版銀刻之法アリ支那及日本此法ヲ不v作
先生此法ヲ工ムコト数年寛一一卯ノ九月己ニ作レリ
画理
ノ妙
一一
不
v至作ルコト
不v能故
其画理西洋
ノ法ノ如シ
可
、ノ
則チ日本一一テハ此法ノ創製也
司馬江漢先生ハ日本銅板ノ創ナリ
後人工者ハ江漢先生ヲ租ト知ル
とあり︑創始者であることを主張している︒
同様の引札でだいぶ後の文化六年(一八O
九)
の蘭画銅版画引札とい
われるものの中でも
ドウハングヲ先生日本‑一て始メて製する者此蘭萱と叉銅板童とてあかかねニ自身ニて彫・刻
して地球の園天球の園を蔵板にしてあり是も世の人能知る者なり
と書
いて
いる
︒
その点は彼の著書でも同じように繰返し主張しているが︑刊年の順に
挙げ
れば
︑ 寛政五年(一七九三﹀に増補版を出した﹁地球全図略説﹂
の
回目
頭に
キタル余絡事の徐暇和蘭舶し来ところの奇器霊園の類を奉製す嘗彼邦銅版の法を考
索し己に諸闘を新製して人に示す
と述べている︒次には寛政十一年(一七九九﹀刊の﹁西洋画談﹂︑文化二
年(一八
O
五)刊の﹁和
蘭通
舶﹂
の両書ではそれぞれに銅版画創製に至 るまでの経緯を述べている︒江漢はそこで始めて蘭書名を出している が︑これは本稿の最も主要なテ
lマであり後に引用詳述するが︑
その蘭 書訳読の協力者と創製の時期に関しては
︿ 一O ) 向我玄津大槻氏と謀りて︒之を謬し︒天明美卯歳寛に此製作を考へ日本始
て草
創す
るも
のな
り(
西洋
画談
﹀
玄禅
大槻
氏ト
謀テ
寛一
一銅
版ノ
製作
ヲ考
フ
是日本始テ草創スル者ナリ
(和 蘭
通舶)
と同様の表現を繰返している︒
さらに文化五年(一八
O
八)刊のの附録﹁霊鷲山図﹂﹁霊
鷲山
図説
﹂
の解説には
原本ハ彼ノ園ノ重園ニシテ皆異ヲ模スノ法ナリ見ル者其士一一遊ピ其物ヲ観ル
ガ如
シ
版は銅ニシテ彫鍵ノ巧ナル事言葉ナシ然ルニ吾ガ日本此ノ銅刻ノ
法ヲ知ル者ナシ議暴ニ天明美卯ノ秋始テ吾園ニ草創ス尤モ自画自刻ニシ
テ天球地球及ピ瀕海ノ固其ノ徐ノ諸園コト人¥グ予ガ家ニ蔵ム
と 以上列挙してきたように主張している︒さらに文化十二年(一八
五)に約三
O
年前の天明八年の日記を書き改めた﹁西灘日記﹂の中でも︑( 一 一 ﹀
八月十八日の条に大阪の木村兼蔑堂を訪ねた時の様子を
吾が法る銅版両閣の園を見せけるに誠に日本創製なりと云て感心する
司 馬 江 漢 創 製 の 腐 蝕 銅 版 画 技 法 の 原 典 に つ い て
上
と死ぬ四年前にも銅版画の日本創製を改めて述べている︒
江漢が銅版画創製のために蘭書の訳読について教えを乞うた人は大槻
玄沢であることは前出の通り自著に述べているが︑
その玄沢の処女作と 目される﹁和蘭鏡﹂の序︑政文を大槻文書の中から発見された岡村千曳
( 一 一 一
)
氏はその全文を紹介された︒その政文を見ると筆者が司馬江漢であり︑
彼はそこでも﹁今や始めてその法を考へ︑これを本邦に創ることを得た
り﹂と創製を述べている︒
しかも彼が﹁西洋画談﹂などで触れたよりも
より詳しく玄沢が江漢ら(この複数の表現﹁余等﹂あるいは直ぐ後の
﹁ 一 一 一 ニ
同好之土﹂という三ニが誰であるかは知り得ないが)の請いにまかせて蘭書
を講じた状況が判明するので全文を引用する︒
和蘭鏡抜
余有霊園技術之癖︑重則徴漢方以潟生業︒後親和蘭所載来霊闘及器械︑其精
妙不可言︒因欲皐其法︒有所治制︑然其術其法捨蘭書何以哉︒大蝋先生
(H
( 一 一 ニ ﹀
大槻玄津﹀之従事子此皐也国己久失︒余等欽仰不可己︑拘其門就塾而謀駕︒
或輿二三同好之士︑刻日詩先生於茅堂︑講其書︑議其説︑相諏相務者有年子
核︒研精之齢︑略知其一端︒如書中所説銅版鍍刻︑今也始得考其法創諸於本
邦︒其他如此類亦復不少︒難欲得其人倶奥成之人毎若其難入︑於是就先生詰
駕︒先生笑目︑子欲成之速︒見卵而求時夜不亦太早計乎︒昌卒之所姫育固持
有其人︒子姑舎駕︒及其国請也先生途著書二篇︑名目和蘭鏡︒此書也︑難国
惟初串之階梯︑不務甚高論︑寅三千年来所未説也︒量不一盛事哉︒峻等不堪
踊躍
之至
︒因
記其
略云
爾︒
天明美卯秋九月
東都江漢司馬峻識
この欧文の日付は江漢の腐蝕銅版画の第一作コニ園之景図﹂と同じ年
83
語会 与
術
究
五
'
"
?デ
研
月である︒従って江漢は最初の銅版画を完成した時︑はやくもその創製
の状況をこの欧文の中で述べたことになる︒以上江漢自身の創製を主張
する文書を取りあげてきたが︑次にそれらに関係があり︑あるいはまた
裏付けとなる文書を挙げる︒
右の主張に関連のある他の文書
大槻玄沢の著書﹁蘭学楢梯﹂の刊行は天明八年であるが︑成稿したの
は天明三年であり︑その例言には﹁天明美卯季秋(九月﹀﹂の日付があ
り︑その中に
チカゴ
項ロ同臭ノ士来テ此事ノ大法ヲ示サンコトヲ講フテヤマズ︑故一一不才ヲ顧ミ
ズ
︑ 比
一縦一一巻ヲ侍シテ其需一一臆ズ︒
とあり︑前記江漢の欧文と合致する︒
また大槻玄沢は江漢の著書に題言を撰んでいる︒それは江漢の著述の
初期のもので︑前出の﹁地球全国略説﹂の序の﹁題地球全国﹂であり︑
寛政壬子之冬(一七九二年)磐水平茂撰とした漢文である︒それに依れ
ば銅版創製のために蘭書を学ぼうとした江漢が玄沢にその説明を求めた
こ シ ﹂ ︑
またその地球全図の原図は玄沢の所蔵であったことが判る︒
な お
その後段の文章は江漢の銅版画創製に直接の関係はないが︑その全図作
製に対する江漢の考え方が﹁我邦の人は地理に暗いから詳細を書すより
(一
四)
万国の広い事のあらましを知らせれば足りる﹂としていたことが判る︒
原文の前段のみを引用する︒
君山獄江漢氏素普丹青乗好技巧世田慕荷蘭之馨彼之所舶埼器固重之類模倣擬製者
不潟齢蓋荷蘭之閑工手諸技霊園之寓異器械之使用至精至巧令人橘視君獄嘗讃
四
其室田欲停其法就余切瑳之往歳欲考究彼邦銅版鍍刻之法乃間余其説以浩意之創
84 製鋼銭以示諸世観者無不感賞(以下略﹀
なお玄沢は﹁磐水先生随筆﹂巻三でも
江漢が余が諜言一一テ鑓刻ノ事ヲノミコミタル類ナリ
と述べて江漢の蘭書による銅版製作の技法の習得が玄沢の訳によったこ
とを証している︒
そのほか江漢の創製に触れたものとしては︑寛政甲寅(一七九四年)か
(一
五)
ら丙辰(一七九
六年
)の聞に﹁退閑雑記﹂を書いた楽翁松平定信はその巻
之二に銅版画について述べた項があるが︑その始めの部分に
銅版鍍刻蛮製にあれど
我園
にて
なす
もの
なし
司馬
江漢
とい
ふも
のは
じめ
て製
すれ
ども
細密
なら
ず
とと
にい
とい
たう
秘し
て
︑わ
れの
みな
すて
ふ事
を
おふ
なり
と江漢の秘密主義や独善性を批判しながらも彼の創製は認めている︒
(一
六﹀
なお寛政八年(一七九六)の蘭学者芝居番附の中に見られる
銅屋
の手
代こ
うま
んう
そ入
司馬
漢右
衛門
を︑彼が銅版の創製者として絶えず自己宣伝を繰り返したことを当時蘭
学者仲間で調したものと岡村千曳氏は見る︒いずれにせよ以上挙げてき
たように︑司馬江漢が蘭書を大槻玄沢に訳読してもらって技法を工夫
し︑腐蝕銅版画を天明三年九月に創製したことは確認できよう︒
二︑銅版画製作技法を述べた当時の文書並びにそれ らに引用された蘭書
司馬江漢は銅版画創製を自ら主張し︑それを繰り返したが︑
オ ラ ン ダ
人からの直伝ではなく︑蘭書の訳読であり︑
そ れ も 大 槻 玄 沢 の カ を 借 り
てできたことであって︑
日 本 語 で 述 べ た 文 献 の 無 か っ た の は 自 明 で あ
る︒
しかし創製者江漢はその創作技法については︑
一七八三年の第一作 後 十 六 年 経 っ た 寛 政 十 一 年
の著書﹁西洋画談﹂では触れて
(一
七
九九﹀
いない︒
そ の 巻 末 に 近 刻 と あ る
﹁ 春 波 楼 画 譜
﹂ の 中 の
﹁ 和 蘭 奇 巧 部
﹂ で
天文測量の道具の治りゃうを闘を以て示す︑及其外︑銅版の彫る法︑押す法︑
水をめくらす法︑国力︑総て彼図にて法る奇
器 ︑ 各々園盆になる︑風車水車
の類︑悉く園を顛して秘停を示す︒(傍点筆者)
と 予 告 し た
︒
し か し そ の 画 譜 は 公 刊 さ れ る 事 も な く
︑ 文 化 二 年 の
﹁ 和 蘭 通 舶
﹂ の 中 の 銅 版 画 の 項 も ま た 殆 ど 同 文 の ま ま で 技 法 に ふ れ ず
︑ さ ら に 十九年の歳月の後に彼は死んでいる︒
紅 毛 雑 話
しかし創製を誇る江漢が技法について公開しない内に︑
(一 七﹀ 彼の最初の銅版画製作から四年後の天明七年(一七八七)に刊行された森
島
中良著の﹁紅毛雑話﹂の中で腐蝕銅版画の製法が取りあげられている︒
こ の 著 述 の 内 容 の 本 来 の 性 格 は オ ラ ン ダ の 文 物 を 主 た る も の と し て
︑ さ ま ざ ま な 面 か ら 叙 述 紹 介 し た 雑 話 集 と い っ た も の で あ る
︒ そ う し た 観 点 か ら 銅 版 画 と い う 新 種 の 美 術 に つ い て 述 べ て い る
︒ 内 容 は 蘭 書 の お そ ら く は 要 訳 か ら
︑ さ ら に 簡 潔 に
︑ 製 版 の 方 法 そ の 順 序 印 刷 イ ン ク の 材 料
(一八)
そして腐蝕に使う腐らし薬日﹁スタルキワ
l
テル
﹂の
つくり方
印 刷 法 強力な作用を当時の薬品会で実見したまま描写している︒
この書は五巻
から成っているが︑
その巻之四の第七番目にある︒﹁附銅版の法﹂のみ引 用 し て お
漢パ叫馬江 く ︒
創 製 の 附 蝕 釧 版 画 技 法 の 原 典 に つ い て
上
附銅板の法和蘭の霊法
拐銅版乞船内むる法は︑銅板に白蝋を引き︑代踏石にて下査を附け︑下に園す る所の具をもって筋を引き︑貼を打つに︑白蝋の上なれば︑
さま
で功を努す
懸 る く に れこも ば九及、'‑"v'I 下 ず 重 の 拐 偉 其 に 彫 腐 り れ た 入 る る 跡 事 へ
という腐らし薬を
﹁ス
タル
キワ
l
テル
﹂
撃を以て静りたるより鮮か也︒此薬気西
洋にて製する物
吾家の薬室にあり︒試に鎖針に糸を施してさし入るる時
やや良
有っ
て引上ぐれば其色紫黒は︑じわじわと泡立つ事湯のたぎるが如し
に変じ︑是を折るに朽木の如し︒銅異織の盆に注ぎ入るれば︑たちどころに
敏み縮む︒その功のするどき事は︑去歳瞬毒舘の薬品曾の時︑ま ( 二 O﹀
のあ
たり見
たる人もあるベし︒﹁スタルキ﹂は強き事︑﹁ワlテル﹂は薬
水の
蛮語な
り ︒
く ろ や き
籾銅版の摺り様は︑象牙か鹿角の霜にしたるを油にて煉り︑彫目へ塗込みて
し め ぎ
其上へ紙をかけて︒卜木にて墜するなり(挿図7
参照
)︒
とくと拭ひくはし
き事は追てしるすべし︒
そ し て 引 用 の 始 め に あ る
﹁ 下 に 図 す る 所 の 具
﹂ と い う の は
︑ 巻 之 四 の 最 後 十 六 帖 の 裏 と 十 七 帖 の 表 の 見 開 き に 鎮板之具﹁シヨ
メ
! ル
﹂ に 載 る所の図式なり
として出した道具のことである︒
その図はシヨ
メル七
冊本のうちの第五冊目(一七七三年刊︑後の一七七八年版の七川本として纏
(二
一)
まって出た版も同じ
) の 二 七 二 二 頁 に あ る 図 版
D
の一部を模写転載したも のである
(挿
図
3
・
4)
︒
したが
ってこの項の叙述はシヨ
メル
七 冊 本 に 基 づいたものである
︒
なお同じ巻之二の﹁鉄砲掠﹂(挿図
5参照﹀の項に
左に写す霊園は謬官樽林重兵衛が﹁テッチ
ンギ
﹂似より
ゆづ
り
受 け た る
此書全部七巻
あり
︑
﹁シ
ヨメ
lル﹂といふ書に載す
る所
也︒
(中
略﹀
賓に古
今の大奇書にして︑漏れたりと云ふ事なし︒樽林九牟(重兵衛が号)家兄の紅
85 五
美
件T
研
五
号
究
毛事を好む事の厚きに
感じて是を属す︒嘗時
日 本 に 只 一 部 の 書 な り
とあ
り︑
これによって も中良が見たショ
l
メルは七冊本であること
が明らかであるロ
退閑雑記
次 に 前
鎖 板 之 具
c r
紅 毛 雑 話J)出 の 松 平 定 信 の こ の 著 述 は
﹁ 紅 毛 雑 話
﹂ よ り
約一
O
年 後 の も の で あ る が
︑ そ の 巻 之 二 の 銅 版 画 に つ い て 述 べ た 項
挿 図3 は 前 書 よ り 一 層 詳 し く 技 法 に つ い て 述 べ て い 続
け て
る︒
その項の始まりは先に江漢の創製を述べた所で引用したが︑
それに
(ニ
ニ)
さるに備中松山の藩中にこのころなすものあり︑殊に細みつ蛮製にたがはず
とぞ︑予もむかしこころみしが︑蛮書などにあるを語させてこtAろみしによ
︿ 二一 ニ
﹀
からず︑人をもてかの士へたづね問たるに
銅版に茨の粉をもてみがき︑その板を火のう
へに
のせ
︑
(二
四﹀
せしめうるしとい
ふをことにうすく銅色のみゆるほどにぬるなり︑さて其板を三日ほどかはか
鍍 板 之 具 ( シ ョ メ ーJレ第五巻図版D) ノ、
86
挿 図4
し︑下繕かきて︑ほそきたがね及は針なんどにて︑其うるしをほりうがち︑
日のあたる所へ出し︑薬を筆にて三四度もつけ︑紙に酢をひきてその紙を
も て
銅板の表にあて︑一夜︑屋の下などへ置き︑あっき湯をもてそのうる
しを去て墨もて摺なり
薬 方
黒は鹿角象牙などを燐たる其粉に︑ゑの油を交︒其銅版に糊うすき紙もてそ
の墨をよくぬぐひ︑猶手にてもよくその墨をとれば︑墨そのくされたる査な
んどの方にのみのこるなり︑
紅毛の紙をよく水にて濡はせ︑またうるほはざる紙と二つかさねあはせて︑
銅板のうへにのせ︑しめ木にてしむるなり︑
かの士の言には︑墨は油煙を用ひたるがよしと云
銅板の製す事しるしあれども︑かの蛮書の一
(ニ
五﹀
失にて︑その簡要にする事は︑ことに略して書をけば︑其法による事あたは ホイスシヨメiルなんどにも
ざるなり︑せしめうるしつくるはかの士の考なり
(二 六)
白蝋に松脂を交へてつくるは蛮書にものせ侍るなり
んどにも銅版の製す事しるしあれど﹂ 定信は﹁蛮書などにあるを訳させて﹂とか﹁ホイス
と書 き︑
腐 蝕 銅 版 画 の 製 法 が
シ ヨ メ
l
ル な
﹁ホイス﹂とか﹁シヨメ
l
ル
﹂ と い わ れ た 蘭 書 に あ る こ と を 明 か に 示
(二 七)
している︒なお定信は同書の他の項にも﹁シヨメ
l
ル
﹂ を 引 用 し て い 西洋画談 る ︒
和蘭通舶
江漢の両著がようやく出てくる︒画談は寛
後者の政十一年(一七九九)通舶は文化二年(一八
O
五)の刊行である︒は異
なり
︑
巻之一の中に﹁西洋画法﹂︑.﹁銅版画﹂の項がある︒但し﹁西洋画談﹂と
その﹁銅版画﹂の項の記述は少し短かいが︑内容は殆ど変ら
ない︒それら両書のいずれにおい ても技法に関しては何も触れてい
勘九︑
A vh
︑
4JHしvよ 川
N
創製に至る経緯は僅かに 異なるが書かれている︒先づ﹁西
鉄 砲 掠 ( シ ョ メ ー ル 第7巻 図 版 第75より〉
洋画談﹂からその部分だけを引用
する
話主予 ︒
けシ
H
士る 年Iこ 0)
。 と
往
2
き歳〈。
阿シ j原 蘭 内 人 平 ( 彼 賀 二 園 氏 。 の な 銅 る 版 者
数百枚舶し来り︒日本にて是を驚
がん事を示す︒其頃の人思い浅
く︒敢て之を奇巧とせず︒終に蘭
人に
反す
︒
日本人彼閣にて︒板を
挿 図5
銅にして刻す事を知らざりしに︒
夫よりして始めて知れり︒然るに
銅版に刻するの術を捜考る者なか
司 馬 江 漢 創 製 の 腐 蝕 銅 版 画 技 法 の 原 典 に つ い て
上
りしに︒阿蘭書ボイスと云人の停す書中に︒銅刻を作るの技巧の法式あり︒
出向官玄揮大槻氏と謀りて︒之を謬し︒天明美卯歳︒寛此製作を考へ︒日本始
て草 創す るも のな り︒ (以 下略
﹀ 次に﹁和蘭通舶﹂の﹁銅版画﹂では次のようになっている︒
嘗テ日本銅版ノ法ヲ授考ル者ナキニ郷ノ年蘭人彼園ノ銅版数百枚舶シ来リ日
本ニテ是ヲ営ンコトヲ示ス其頃ノ人思浅グ敢テ之ヲ奇工トセズ
直ニ
返ス
是時ヨリ始テ銅ニ刻シタルコトヲ知レリト予壮年ノ時源内卒賀氏ニ聞ケリ
天明美卯歳蘭書﹁ボイス﹂ト云ル書ヲ閲スル一一技巧ノ部ニコレヲ作ルノ法式
アリ玄樟大槻氏ト謀テ意ニ銅版ノ製作ヲ考フ
是日
本始
一ア
草創
スル
者ナ
リ
(以
下略
) 両書の依拠した蘭書の扱いは﹁画談﹂では︑阿蘭書ボイスと云人の著す 書
﹁通
舶﹂
とし
︑
蘭書﹁ボイス﹂ト云ル書
の方ではと前者ははっ
きりと著者の名とし︑六年後の刊行の後者では書名と見倣している点が
異る
︒
﹁紅
毛雑
話﹂
また前述の
で は
﹁シヨメール﹂︑﹁退関雑記﹂では
﹁ホ
イス
シヨ
メ
l
ル﹂と双方に﹁シヨメl
ル﹂がでてくるが江漢は両
書の中では全く触れていない︒
江漢の銅版画に関して述べた前記二冊の刊行された六 年の聞に︑京都の蘭科医である広川拠の﹁長崎間見録﹂が寛政十二年
長崎間見録
(一
八
O
O )
九月に関西で刊行されている︒五巻本であるが︑その巻之五
の最初に﹁すてれきわあとるの事﹂が載っている︒
そこには蘭書名の引
用はないが︑腐蝕銅版画製作の原則に触れている︒
すてれきは猛なり︒わあとるは水なり︒蛮人持渡る水薬の名なり︒此水薬い
と こ ろ み つ あ
﹁ た ら ま ち え ん
たって猛烈なるものにて︒試に紙などを漬けて引揚るに︒忽に畑策立のぼ
ふ ら ん
る︒銅銭の類に鯨滴するに︒みな腐燭す︒蛮人銅板を彫るに︒まづ蝋面に細
87
七
美
術 研
ノ、
五 号 究
童または文字などを彫りて
︒さ
て此
の
薬を彼彫たる蝋の聞にな
がし
入︒
ホ 町 色 つ む 一
HL
'w
置きて其の蝋を洗い終すに︒何の努もなく︒種々の彫刻なりと︒成就するな
ふ ゃ く
り︒まことに腐薬第
一の
猛水
なり︒稀に持渡れば公儀の御買
上け
とな
る︒
愛
タ
をも っ
て責
繋に はな きも のな り︒ (以 下略
﹀
これより後にはすでれきわあとるの製法を︑その蒸溜のための装置図
︿ 挿
図6)を入れて述べている︒
厚生新編江漢の銅版画創製の時期からは大分離れるが︑森島中
良︑松平定信がそれぞれの著書に引用した﹁シヨメlル﹂といわれた本
の日本語に訳されたものが﹁厚生新編﹂である@
﹁厚
生新
編﹂
は文化八
年(一八二)
から三
O
年もの間にわたって︑初めて幕府によって翻訳された百科辞典であった︒原本の全部ではなく項目を撰んだ訳書で七十
巻に及んだが︑稿本のままで置かれていた︒この中に宇田川玄真の訳で
ロ銅版図蝕鍍法和蘭﹁エッツェンヒという項が雑集第四こにある︒
蒸 溜 装 置 図 (1長崎開見録」巻之五〉
挿 図6
l¥
の内容は今までに引用したような腐蝕銅版画製作の原則的な順序を述べ
た簡単なものと違い︑大変詳細なものである︒銅版画製作の実際から云
えば﹁ヱッツェン﹂の項は製版の技法のみで︑印刷に関したものは同項
の終りに
詳に
﹁ガ ラヘ レ
l
レン
﹄( 彫刻 術) 及び
﹃プ ラ
lト
ドリ ュッ ケン
﹄( 版を 押す
︒ ニ O )
術)
の僚
に説
く
とある通り原著には片仮名で書いたそれらの項にあるのが︑﹁厚生新編﹂
には訳述されていない︒
ほかに雑集第三九に﹁イ
ング
﹂の項があり︑そこにはさまざまな種類
(三
一)
のイングの処方が載っている︒その終りに﹁鉛版に用る墨汁製法﹂
﹁ 又
法﹂という項があり︑凹版イ
ング
を煉るものに必要な﹁焼き油﹂の製法
とそれによるインクの作り方が書かれている︒以上の各項目の訳文に表
そ
われた製法の詳細さは原書の内容の豊富懇切さを察することが
でき る︒
﹁厚生新編﹂は後に﹁シヨメlル﹂について述べる際引用することが多
いので触れておいた︒
( 一一 一
二 )
以上のほかに創製の時期からは離れるが高森観好の﹁西洋画談﹂文化
一一年(一八一四)刊は︑当時の日本人の書いたものとしては最も具体的
に製法を説明しているが︑その記述の構成はシヨメl
ルの
﹁
ヱッツェン﹂
の項の順序に従っており︑その内容は大部簡略された面があるが︑反面
材料や用具に日本国内での可能な方法を工夫し︑さらに
シヨ メ
lルに出
︿三
三﹀
ていない独自の工夫を二︑三項目ほどに加えている︒また挿図も重要な
資料といえる
︒( 挿図
7
・
8参照)観好の﹁西洋画談﹂より後のものになるが︑
プレス図 (1西洋画談J) 挿 図7
プレス図(ボイス第6巻 図 版136) 挿 図8
北斎の﹁絵本彩色通﹂弘化五年(一八四八﹀刊の後篇にも ついでに挙げれば︑葛飾
﹁ステレキワ 司
馬 江 漢 創 製 の 腐 蝕 銅 版 画 技 法 の 原 典 に つ い て
上
ート ル﹂ の製 法( 説明 図入 りて
﹁くさらかしの仕かたをしめす﹂として腐
ハ三
四)
蝕銅版の特殊なやり方を書いている︒なおそれより前︑渡辺華山の﹁客
坐掌記﹂天保丁酉(一八三七年﹀蘭書に依った腐蝕薬や防蝕剤
の条
に︑
の処方の記録があり︑また別項には﹁シヨメ
l
ル﹂の名も出ている︒江漢と﹁ボイス﹂
腐蝕銅版画の創製の項で引用前述の通り︑始めて蘭書をその目的のた
それぞれ﹁読其書﹂め‑訳読した大槻玄沢にしても︑江漢自身にしても︑
(題
地球
全図
﹀﹁ 講其 書﹂ (和 蘭鏡
・政
文)
としであって創製に近い時期に書一
かれたものであるのに書名がでていない︒
江漢は自著﹁西洋画談﹂﹁和蘭通舶﹂では重ねて﹁ボイス﹂の名を出
したが﹁シヨメ
l
ル﹂は引用しなかった︒しかし江漢はこの両著より早く︑玄沢が題言を撰した﹁地球全図略説﹂の中で︑地図の銅刻を述べた
箇所ではなく︑
地動説を紹介記述した所に
の名を出してい
﹁ボ
イス
﹂ る ︒
マタチカゴロマ
ン ナ カ メ グ リ ヒ ト ツ
又近来西洋の人の説には日は正中にあり
て地
は天を施月も一の世界にして比
ナ カ ズ ミ メ グ リ ヒ ト ツ
地を中心として施五星も亦皆一の地也と云説有其全象を器に製してヲルレ
( 三 五 ) イ へ
レイ﹂と名づけたり其園説はボイスと云る人の書中にもあらましを載たり
( 三 六 ) ク ヲ ダ
Y余が相識如水松原氏なる人此器を新製せん事を企(挿園9・
m
参照)﹁ボイス﹂を江漢が自著に引用したのはこの箇所が時代的に最も早いも
ので あろ う︒
(三
七)
るが
) ︑
その他に年代は判然としないが(おそらく文化年間と思はれ
﹁聴 音機 引札
﹂
も
ケミ
和蘭人ボイスと云へる書中ニ闘説あり先生閲して之を考へ製す
と書
き︑
﹁常にたもとに入おき図の如く持ち口を耳の穴一一さし入ル﹂
R9 な 九
義 術 研
五 号 究
ど
このほかにも使用上の注意や図を入れたもので︑今日の補聴器の素
朴なもののようである(伸図日﹀︒以上の二例は器具の類であるが︑
れにしても﹁図説﹂を引用したもので︑それらの原図と見られるものは
天 球 全 図 ・ 司 馬 江 漢
挿 図9
オJレ レ レ イ ( ボ イ ス 第8巻 図 版 第193)
挿 図10
いず
。
どちらも﹁ボイス﹂の辞典に見出すことができる(挿図ロ参照﹀︒
江漢は彼の親んだ和漢の典籍については﹁春波楼筆記﹂
﹁天
地理
一諦
﹂
など晩年の著述に数多くそれらの書名をあげている︒しかし江漢は蘭書
も相当数閲覧していると考えられるに拘らず︑彼の著書に書名││正確
なものは期待できなくとも当時の憤しであった撰者や著者名を以て書名
に代えたり︑長い書名の一語をとって呼び名とした云い方にせよ││十
(三
八)
余冊を挙げているに過ぎない︒しかるにボイスだけは以上の例だけでも
少なくとも四回は異った彼の著書に引用していることが判る︒前述のヲ
ルレレイは模刻をしているし︑聴音機は引札の解説だけではなく実際に
(三 九)
製作したようである︒﹁ボイス﹂と親しみ利用したことは明かである︒
江漢と﹁シヨメ
l
ル ﹂
刊本となっている江漢の著述には確かに﹁シヨメ
i
ル﹂を引用したものは一つも見当らない︒
( 四O
)
本﹁和蘭諦﹂ しかし寛政戊午十年二月十八日の日付を持つ写
の中に引用した箇所がある︒﹁和蘭一部﹂は一二項目を持つ
﹁和蘭国談﹂と﹁おらんだ俗話﹂との二段に分かれているが︑後者のし
かも終りの方に近く出てくる︒その項を次に掲げる︒(挿図日参照﹀
和蘭より持渡る細工にハ妙なる者多し何れにて製する哉
彼図より持来る奇器一ツとして妙ならざる者なし
敵同
惟巴
洲の
内﹁
イキ
リ
ス﹂の都﹁ロンドン﹂と云所ヨリ製作する者尤勝る者なり其衣をおらんだの
都﹁アムステルダム﹂とす﹁フランス﹂の﹁ハリス﹂の都皆妙巧となす
何
レぞ日本人とても人に替る事はあるまし古く久グ煉たる故一一や
かか
る妙
工を
なす
者な
り