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学問の思い出ー中根千枝先生を囲んで

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学問の思い出ー中根千枝先生を囲んで

著者 横山 廣子, 中根 千枝, 関本 照夫, 伊藤 亜人, 清 水  展

雑誌名 東方學

号 118

ページ 151‑190

発行年 2009‑07‑31

URL http://hdl.handle.net/10502/4448

(2)

正 誤 表

・印は訂正箇所

16 10~11 頁

下段 挿入写真2頁目最下段 段

10

写真のキャプション 行

豆腐屋かど、かで ブラン寺院 誤

豆腐屋かどこかで ラブラン寺院 正

(3)

J 忠

島主 問

ー才

4

151 

し 、

一一中根千枝先生を圏んで一一

。 〉

中 根 千 枝 闘 本 照 夫 ( 司 舎 ) 伊 藤

清 横 山

亜 人

虞 子

水 出

関本きょうは中板千枝先生を園む座談舎

ということで︑中根先生の弟子に嘗たる四人

の者が集まりまして︑いろいろお伺いをしよ

うと思っております︒

中根先生は東京にお生まれになり︑小皐校

の高挙年と女事校を北京で過ごされたわけで

す ね

中根小事校に入撃したのは東京の杉並第 ︒

五小事校で︑北京に行く前は母の里の岡崎の

小事校で︑それから北京に行きました︒

関本さらに津田塾専門拳校の外園語科を

卒業されて︑昭和二十二年に東京大挙文血宇部

東洋史事科に入撃された︒私の生まれた年で

あ り

ま す

その後卒業され︑大華院に入り︑東京大息子

東洋文化研究所の助手になられる︒そのころ

から︑インド︑イギリス︑イタリアと︑長期

にわたって外園に留撃されているわけです

ね︒そして︑シカゴ大事︑ロンドン大挙等の

客員助教授︑客員講師を務め︑さらに東京大

撃の助教授(東洋文化研究所)になられ︑四

十五年に教授︑ど定年までずっと東洋文化研

究所に籍を置かれて︑東洋文化研究所の所長

(4)

第百十八輯

方 塾

1 5 2  

も務められた︒

その問︑圏内外の諸大学で併任や客員な

ど︑さまざまなご経歴がおありですが︑

一方

で︑園際人類挙民族拳連合の副舎長を務めら

れ︑現在名酎押宿舎員︒あるいは英図王立人類事

協舎の名春舎員になられ︑米図哲撃協舎の倉

員になられた等々︑とりわけ日本の人類撃と

人女枇曾科目学の海外交流のため先頭に立って

活躍されてこられた方です︒

そして︑一九八七年ご定年によって東京大

撃を退官された︒その後も帝京大祭文事部数

授︑中圏中央民族的学院(現中央民族大祭)の

名血官教授︑農村環境整備センター理事長等々いろいろなお仕事をなさって︑一九九五年(

卒成

七年)には日本間学士院曾員となられま

した︒そして︑二

OO

一年

には

︑日本の亭術

の図際交流に貢鰍した功績等々で文化勲章を

受けられた︒

中根先生は︑東方準舎では︑一九七六年入

舎以来曾員であられて︑一九八五年

1

八九年

まで評議員︑八九年

1

九五年までは理事を三

期務められて︑それからまた二

OO

一年まで

評議員を務め︑それから専門委員として図際

東方撃者曾議の委員を二

O O

一年

1

O

O

年まで︒東方的学舎でもいろいろなど貢献をな

さっています︒

そういうご経歴で︑現在相後わらずお元気

で外図に行かれたり絡を描かれたり︑あと何

をなさっていますか︑先生︒

中根

今のところ日本穆士院の第一部部長

の役目などその他雑事も多いので給もちょっ

と今は休止しているのですけれども︒

関 本 そ

れでは︑きょうはまず先生のごく

若いころから少し時間の流れを追っていろい

ろお話を伺って︑さらにその後そういう時間

の流れに入り切らないような問題についても

いろいろ伺っていきたいと思います︒ まず皮切りなのですが︑私は昭和四十七年( 一

九七二年)に東京大撃大撃院の文化人類

学専攻に入撃しまして︑それ以来中根先生の

指導を受けてまいりました︒中根先生のおら

れた東洋文化研究所に︑ちょうど先生と入れ

遠いなのですが︑先生のご退官のときに︑四

月一日から助教授で参りました︒

中根

ご一緒しなかったわね︒していたっ

関 本 職 場 と し て は ご 一緒しませんでし

た︒方々で御一緒しておりました

けれ

ども

皐校

高皐年から北京ヘ

関本先生が戦前︑戦中の時代に︑北京で

若い時代︑娘時代を過ごされたことはよく伺

うのですが︑さてそこでどんな経験をなさ

れ︑どんな毎日を迭られていたのだろうか︒

それが︑その後の先生にどう及ぼすものがあ

ったのだろうか︑その透からまずお伺いした

いと思います︒

中 板 北

京に行ったのは虚溝橋事件の一年

宇後

一九三九年のはじめだ

った

んで

すね

北京には北京日本小学校というのが

一つ

しか

なくて︑男女合わせて百人ぐらいだったかし

ら︒それからどんどん

日本

人が

抽唱

えだ

して

その年の四月から女撃校と中間学校ができるこ

(5)

153 

﹁拳問の思い出﹂中根千枝先生を圏んで

伊藤亜人、中根千枝、横山氏子、

左より

とになったのね︒そのために前から北京にい

た父に合流したわけ︒

それで北京日本高等女山学校に入り四年生ま

でいたのです︒そして上級亭校に行かなけれ

ばいけないというわけで︑私は北京大撃でも

いいと思っていたのですけれども︑父に北京

大撃に行ったら日本精

紳を忘れ

てしまうか

ら︑日本の上級同学校に行くようにと言われ

て︑それで私たち子供だけ日本に鯖ってきた

の︒だから北京には小撃校の六年から女撃校

の四年生までいたのね︒

私は省時北京がとても好きでして︑勉強よ

りも絡を描いたり遊んでばかりいたのだけれ

ども︑それで軟振だとか言われて︒

内地からはずい分優秀な先生方がいらした

んですけれども︑私のことを﹁何て大陸的な

お 嬢 さ ん だ ろ う

﹂なんて言

われてしまって

ね︒それでもたいてい級長なんかやっていま

した︒修身や園体の本義などの時聞が退屈 で︑あるときつまらない︑つまらないと思っ ていて︑つい撃に出してしまって

﹁つ まら

い﹂と(笑)︒そしたら先生にしかられちゃ

って

級長を罷免されたの︒そんなこともあっ

て︑まじめでない生徒だった︒

そのころの北京で私が思い出すのは︑北京 に行く前から私は大陸の奥地に興味があったの

ね︒

小さいころ﹃少年倶楽部﹄の山中峯太

郎の小説なんか讃んでいたの︒

北京に行

って︑ある日学校から蹄つできた

ら︑うちの前にラクダが二頭座っているの ね︒あっ︑砂漠の方から来たんだなと思

て︒そのころ北京では︑ストーブ用の石炭な どを運ぶのにラクダ使っていたのね︒有名な 老舎の﹃路舵鮮子(ルオト

l

シ ア ン ツ ど と

いう

小説もあるでしょう︒そのとき︑北京か

ら奥地に行けるのだなと思

った のね

日本は戦時にだんだん向か

って いっ

たんだ

けれども︑そういう空気がまだなくて︑北京

は開放的でのんびりしていて︒そして中園人

の枇舎も︑お金持ちで教養のある層と︑それ

から路傍で死んでいくような貧しい入︑そう

いうすごい迷いがあるんで︑それにまず驚い

たわ

ね︒

こういうかわいそうな人をどうすればよい

のかなんて初め思ったんだけれども︑

品陣

り多

いから︑これはどうにもならない︑そういう

気持ちになってね︒こういう枇舎というもの

があるんだなという︑肯定的というか︑左翼

的にはならないでしま

った

のね

(6)

第百十八輯

方 撃

1 5 4  

婦園して大皐ヘ

中 根 そ れ か ら

︑ 北 京 の 女 亭 校 は

︑ 内 地 の 拳校と比べて程度が低いから︑日本の上級皐 校に行けないというわけ︒それで︑最後の事 年に東京に蹄って︑私は叔父の家に世話にな り︑府立第八高等女撃校(今の八潮高校)に

蒋校しました︒

一クラスだけ受験クラスというのがそのこ

ろでもあって︑その受験クラスに入ったら私 は数撃がおくれていて︑はじめは少し苦労し ました︒それから上級皐校はどこにするかと いうこと︒そのころスウェン・へディンの本 なんか讃んでいて︑皐なる冒険よりもち宇ん とした研究をぺ!スにした方がいいというこ とがわかっていたから︑そういうために勉強

をしなければと思うようになって︒

しかし︑大事といっても︑そのころ女の子 には女高師とか女子大とか津田とか女子磐専 とかそれぐらいしかないのね︒だからしょう がないな︑どこも中央アジアをやっていない から︑とにかく英語を勉強しておけば将来の

役に立っと思って︑津田へ行きました︒

津田の二年生のとき︑終戦になって︑東大 が 女 子 も 受 け 入 れ る と い う こ と に な っ た の

ね︒一年あるから準備できると思って︑東大 を受けることにしたわけね︒そしたら︑みん なが︑男の子ってすごく頭がいいから受かる はずないというわけよ︒だからやめた方がい

いと言うの(笑)︒

私たちは小事校のときは男女共撃でも︑そ の後ずっと男の子と一緒に勉強してないわけ でしょう︒だから男の子がどのぐらい頭がい いのか︑だれもわからないわけ︒それでやめ

ようと思って︑それならしょうがないから︑

後で外園へでも行ったらいいと思ったの︒

そのときに堀一郎という先生が︑後で東大 の先生になられるのだけれども︑津田に講師 でいらしたの︒私︑堀先生に︑﹁みんなが男 の 子 は 頭 が い い か ら

︑ だ め だ と 言 っ て い ま す︒だから東大を受けるのはもうやめること にしようと思います﹂と言ったら︑堀先生が

﹁そんなの落ちてもともと︑受かればもうけ

ものじゃないか﹂とおっしゃって︒ぁ︑それ

もそうだと思っ

τ

︑それで思い返して東大受

けることにしたの︒

伊藤そのときは︑堀先生は︑

いらしたのですか︒

中 根 ま だ 東 大 じ ゃ な い の

︒ 伊 藤 東 北 大 ね

もう東大に

四 中 根 そ の 前 で ね

︒ 津 田 に 講 師 で い ら し

て︑日本史の一部分を教えてらしたの︒

伊 藤 堀 一 郎 先 生 の 授 業 は 僕 も と り ま し

横 た ︒

山 宗 教 事 の

︒ 中 根 そ の 先 生 の 講 義 が お も し ろ く て

︑ ょ く聞いていたの︒それで堀先生のおうちに遊

びに行ったこともあったのね︒

関 本 成 城 の お 宅 へ

︒ 中 根 う ん

︒ そ れ で そ の と き に 先 ほ ど の よ うに﹁入ったらもうけものじゃないか﹂とお

っしゃるから︑それじゃあもうけものがある

かもしれないからやヲてみようと思って︒そ して西洋史だとか日本史とか︑津田で教えな

い受験科目がずい分あるわけね︒今よりずっ

とやさしかったんだけれども︒そういう科目

の本を買ってきて自己流で勉強していたの︒

そして試験受けたら︑私がおもしろいなと思 っ て い た こ と が ち ょ う ど 試 験 問 題 に 出 た の 関本それは何の試験問題ですか︒ ね ︒ 中 根 歴 史 だ っ た わ ね

︒ 荘 園 制 に 関 す る 問 題でね︒そして︑多分英語でも鮎稼いだかも しれないわね︒みんな英語していない時代だ から︒工藤(筆)先生も課外授業の講師でい

(7)

らし

て︒

関本津田塾に︒

中根漢文というよりも︑中園語で讃む詩

の講義だったのね︒そしたら工藤先生に教え

ていただいたうちの一つが試験に出たのよ︑

また(笑)︒だから︑ぁ︑この調子なら受か

るに決まっていると思った︒運がよかったの

それで東大の撃科をえらぶとき︑中央アジ ね ︒

アに行きたかったから︑中央アジアをやって

いるのはどこかと探すと︑東洋史だったの

ね︒それで東洋史をえらんだんです︒

東大東洋史撃科に入ってから

チベット研究を目ざす

1 5 5  

中根東洋史に入ったら︑中央アジアやろ

うと思ヲているのに漢文の文献ばっかりなの

ね︒津田では漢文なんてやっていなかったか

ら︑つまらないなと思って︒それでも同僚と

か先輩がとても親切に教えてくれて︑いろい

ろ文献にも少し親しくなった︒

中園語撃の倉石(武四郎)先生の講義にも

出たんです︒そしたら︑ああ︑これならまだ

いいと思ったの︒だって東洋史はもう完全な

漢文なの︒だけど倉石先生は中園語でずっと

﹁事問の思い出﹂中根千枝先生を園んで お讃みになるのね︑(返り船舶で)ひっくり返らない︒それがとてもうれしくて︒それで倉石先生には私とても好感を持ててね︒工藤先生には津田のときに教わっただけでしたけど ︒

そして︑中央アジアをやろうと思ったら︑

いろいろな言葉をやらなきゃならないのね︑

ペルシャ語とかアラビア語とか︑ロシア語と

か何か︒それみんなやらなきゃならないとい

うので︑一臆みんな拳内外のレッスンを受け

たのね︒そしたら︑ベルシャ語の先生は栄養

失調で亡くなヲてしまたり︑ロシア語のため

にニコライ堂に行ったら︑いつも官憲がいる

のね︒ちょっと嫌になって︑またむずかしい

のでやめてしまヲた︒

関本三笠宮様とはどのようなど関係だっ

たのですか︒

中根三笠宮様は︑たしか西洋史に籍をお

かれていて︑歴史一概説の講義なんかでよくご

一緒になりました︒初め三笠宮様って知らな

かったの︒そしたら︑その人が入ってくる

と︑先生が最敬穫していらっしゃるのね︒そ

してその方がどこかの席に座ると︑その前や

横の人がぼーっとどくのよ(笑)︒

そのうちに︑私の横にお座りになったの

ね︒私は知らないからそのまま座っていた

の︒それでそのうちに宮様だということがわ

かって︑もうわかるのが遅かったからおかし

いんだけれど︒

よく公務などでお休みになったりするとノ

ートを貸して差し上げたり︑そして私がお寝

坊でおくれると︑宮様がここまでもう務みま

したなんてノ1ト見せてくださったり︒そん

なふうにして︑宮様とはお親しくなりまし 話を戻すと︑東洋史は漢籍が中心でしょ た ︒

う︒そのほかにいろんな語撃も習わなければ

いけないから大祭だとわかってきたと共に中

央アジアをいろいろ研究してみると︑チベッ

トがよくわかっていないとわかったのね︒チ

ベットの方の研究というのは︑中央アジアと

比較してとても少ないわけ︒それに中央アジ

アはそんな具合にたくさんの言葉があるから

ちょっと敬遠して︑チベットをやろうと︒

チベット語の授業は多国等親先生という︑

チベットのセラ寺院に長くいらした方が教え

てくださるんだけれども︑すごい東北滑なの

(笑)︒それで私︑これじゃチベット語も東

北緯になっちゃうと思って︑やはりチベッ

ト・ラサに滞在された青木文教先生の門をた

(8)

塁 手

第百十八輯

1 5 6  

たいて︑教えて頂くことにしたのです︒

関 本 青 木 先 生 は ど こ に お ら れ た の で す

︐ 泊

CIE

という︑アメリカの文化部

( G H Q

幕僚部の民間情報教育局)︒

関本占領軍のですね︒

中根青木先生は後一音はいいんだけれど

も︑多田︑青木爾先生とも大谷光瑞師の関係

で二人ともお坊さんなのね︒だからいわゆる

事術をべlスにしていらっしゃらないわけ︒

大撃院に入ったころにジュゼッぺ・トゥッチ

S E R U U

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と い う 先 生 の す ご い 本

(同

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誌︑

白芯

段︑

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凹 ・

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叩 喝

5 S )

が出たんですよね︒大きな版で厚く

て︑それが三加なの︒チベットの歴史も文化

もすべて含んでいる︒その本は︑ちょうどそ

のころ自動車一蓋と同じ値段だったのね︒東

洋文化(研究所)で購入されていて︑これこ

そ私の勉強するものだと思って︒

それからもうひとつ︑ジョージ・ルl

リツ

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円 問 問

Z

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nF)

というロシア人の

先生で︑インドにいらしてU1F

由凶

営問

弘芯

抽出

向な

という︑チベット語の有名な偽教史の本の翻誇

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口口

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出た

の︒

lリッヒ教授というのは︑有名な画家

のお父様と一緒にチベットを縦断した探検家

でもあったの︒トゥッチ教授もチベットに滞

在して調査されており︑お二人ともチベット

について最高の文献事者である上に︑チベッ

トの貧情を熟知されている理想的なチベット

事者で︑このお二人こそ私の師事すべき先生

だと思ってね︒

ルlリッヒの本は私自身で購入し︑助手に

なった早々出版社気付で︑﹁ぜひ先生にチベ

ット撃を習いたいから︑教えていただけます

でしょうか﹂と手紙を出しましたら︑﹁イン

ドへいらしたらいつでもお教えします﹂と返

事が来たのね︒若いから卒気で紹介もなしに

そんなことやったんだけれども︒とても嬉し

くて

ね︒

そしてちょうどそのころインドと園交が成

立していて︑インド政府はすぐ奨準金制度を

始めたのね︒それで第一同は荒松雄さんがい

らして︑その衣の年(一九五三年)に私︒ル

!リッヒ先生から返事があったから絶針に行

こうと思って︒それに中園からはチベットへ

入れないわけね︒だからヒマラヤ越えて行く

方法があると思って︒とにかくインドへ行こ

うと田ゆって︒政府の試験を受けてインドに行

~ F

くことになったんです︒

人類撃との出合同い

中根最初は中央アジアに興味があって︑

それからチベット研究になったわけ︒人類撃

をしようと思った理由は︑もともとは人類撃

という言葉も知らなかったんだけれども︑東

洋史が中圏中心で︑中閣の専門家はたくさん

いるわけだけれども︑彼らが持っている中閣

のイメージというのが︑私が北京で知ってい

る中園とか中園人とかけ離れているわけね︒

文献だけでやっているから︒日本製の中園に

なっているわけ︒それで私は︑チベットも︑

チベットに行かないで本だけで勉強している

とそれと同じ感じになってしまうんじゃない

かと思って︒これはもう生きた祉曾を知らな

きゃいけない︒

生きた祉舎を知る亭聞は何だろうと調べた

ら︑人類撃というのがあると︒じゃ人類撃を

やらなければいけないと思って︑そしたら人

類撃は理事部で文撃部ではない︒で︑理事部

へ早速謀議に行きましたら︑須田(昭義)先

生という方が鐙質人類撃を教えていらして︑

それから杉浦健一先生という方が土俗撃を教

えていらした︒その二つの講義に出ているう

(9)

1 5 7  

ちに人類撃科の亭生であった祖父江孝男さん

と知り合いになったの︒杉浦先生がアメリカ

で今︑ものすごく文化人類撃が務達している

から︑君︑占領中だから︑

cIE

にたくさん

本が来ているから︑そこへ行って少し勉強し

たらいいだろうとおっしゃって︒早速また日

比谷にあった

CIE

の園書館に行ったの︒そ

したらいろいろあるのだけれども︑文化人類

撃といってもみんなイロコイだとか︑アメリ

カインディアンの研究が主なの︒だからちょ

っとチベットとは合わないから︑これは困っ

たなと田ゆって︒とにかく文化人類撃というの

はどういう事問か知ろうと思って︑ある程度

勉強したのね︒

ちょうどそのころ︑日本には民族撃という

事問があヮて︑民族事舎の集まりがあった︒

関本エスノロジーですね︒

中 根 そ う

︑ ェ ス ノ ロ ジ l︒それでその集

まりが時々あったわけね︑民族挙協曾という

のが︒そこへ事生で行ったら︑数人がいつも

集まっていて︑いつも異ん中にボス猿みたい

な人がいるわけ︒須田先生に︑﹁あの人一体

だれですか﹂と聞いたら︑﹁君︑知らない

の︒あれは岡正雄だよ﹂と︒ああ︑あれが岡

先生だと思ってね︒それで民族事舎というの

﹁拳問の思い出﹂中根千枝先生を園んで を知るようになったのね︒

石田(英一郎)先生もいらしたと思うわ ね︒岡先生も石田先生もウィーン事振だか

ら︑文化の停播とか民族誌的な分布などに関

心があって︑これもちょっと私には合わない

なと

思っ

て︒

関本嘗時︑石田先生は︑東大にいらして

はいないのですか︒

中根まだ東大にはいらっしゃらない︒

関本(石田先生とは)どこで最初にお知

り合いになったんですか︒

中根その民族事者の集りで︒

伊 藤 先 生 が 大 事 院 に い ら し た と き で す 中根そうね︑そのころ︒杉浦先生が土俗 ︐ 泊

撃を教えていた︒だから一番最初︑杉浦先生

とか須田先生を知ったわけ︒それから︑その

ほかの民族撃者たちを知ったわけ︒

嘗時︑東洋史の山本(達郎)先生と︑江上

(波夫)先生は民族撃に関心を持っていらし

た︒それでつながったのね︒だけど山本先生

は安南史で︑江上先生は蒙古史でしょう︒だ

からちょうどお二人の異ん中をすることにな

ってしまったのだけれども︑私がしたいとい

うことをよくおわかりになって︒だから東洋

史では︑とてもお二人にお世話になりまし

東洋文化研究所の助手となる

伊藤先生︑卒業論文は︑どういうテ

1 7

です

か︒

中根卒業論文は︑チベットに関心がある

ようになったころで︑漢人地帯とチベット人

地帯の接鰯地帯︑唐代における吐蕃と唐の関

係︑卒論はそういうものだった︒卒業のころ

は︑もうチベットにシフトしていたのね︒

伊藤修士論文は︒

中根そのころ修士論文つてないのよ︒素

敵でしょう(笑)︒旧制は修士号なんて出す

制度じゃないから︒

関本博士号も出なかったわけですね︒

中糠そうそう︒

関本じゃあ大皐院生は論文書かなくてよ

かったのですね︒

中根そうよ︒論文は書いていたけれど︑

とくに修士をとるためというのではなくて︒

関本幸せですね︒

中根だから︑論文は資格をとるためとい

うより︑就職のときに参考になるという具合

で︒そのころ辻直四郎先生というサンスクリ

(10)

第百十八輯

方 事 158 

ットの大家がいらっしゃって︑その先生は文

事部長と東洋文化研究所長を粂ねていらし

た︒私は辻先生のサンスクリットの講義には

出てましたが︑とてもむづかしくて試験は受

けませんでした︒それでも文事部長室にいっ

て辻先生に︑﹁先生︑東洋文化(研究所)

にぜひ入りたいのです︒お願いします﹂って

言ったのね︒そうしたら辻先生は︑﹁承知し

ました﹂とおっしゃったの(笑)︒そして︑

結局入ったのね︒

後で数授舎で反封がずい分あったって︒女

の子なんか入れたら︑訓練してもお嫁に行っ

ちゃうからむだだという意見が︒そしたら辻

先生が︑﹁中根さんに限ってそういうことは

ありません︒私が責任持ちます﹂とおっしゃ

ったという話です︒だから辻先生にはもう感

謝︑感激よ︒東大で初めての女性の助手だか

ら︑抵抗があったらしい︒辻先生がいらっし

ゃらなかったら︑とても危なかったと思う︒

伊藤私が助手になるときも︑偶然先生の

ところに立ち寄ったら︑﹁きょうが締め切り

よ﹂と言われて︒

中根そうそう︒

伊藤﹁書類なんか要らないわよ﹂と︒そ

れで中根先生が荒先生呼んで︑﹁現物がいる のだから間違いないわ︑私が保護しますよ﹂と

言 っ た ら

﹁ わ か り ま し た

﹂ と 言 ヲ て

( 笑 ) ︒

中根そうだっけ︒

伊藤だいたいそのような話です︒

清水僕はちぞんと書類を出して(笑)︒

すごく厳しい面接審査を受けて︑怖かったで

すけれどもね︒

中根時代がだんだん巌しくなるのよ︒

イ ン

ド ヘ

それで東洋文化(研究所)に入っ

て ︒ 中根

関本東文研は昭和四十年に本郷キャンパ

スの現在の場所に移りますが︑その頃は大塚

にあったのですね︒

中根そう︑大塚に︒そして一年後にイン

ド政府の試験受けて︑昭和二十八年の六月に

インドに行ったわけ︒

闘 本 す ぐ イ ン ド に い ら っ し ゃ っ た で す

AM 

中根そう︑一年ゃっただけなの︒そして

インドではどうしてもヒマラヤを越したかっ

たから︑ルiリッヒ先生がカリンポンという

園境の町に住んでいらして︑私もタゴール夫

j

人の別荘の一部を借りて住んで︑山道を停っ

て先生のお宅で個人教授をずっとお願いして

いた

ので

す︒

同時に︑さっきポス猿と言っていた問先生

が親切で︑インドのカルカッタにある政府の

人類事研究所の

B

s ‑

グハ

(回

目門

担]

ω B

向 W

︒吾凹)所長に︑こういうのが行くから頼む

と言ってくださったの︒だから人類撃研究所

に属していながら︑同時にルlリッヒ先生が

いらっしゃるからカリンポンに字分ぐらい住

んで︑そしてチベット文献について勉強して

いた

わけ

です

人類事研究所はたくさん人類撃者がいて︑

日本よりもずっと進んでいたのね︒というの

は︑英園の植民地だったでしょう︒だから英

園やスイス︑ドイツ︑イタリアなどから来て

いる民族事者などもいて︒ペリア・エルピン

百円

・︿

E

R 担

5 当

民俗・民族撃者)など

有名な事者もいたし︑それからインド人の体

質人類撃者たちは︑グハ所長をはじめ大抵ド

イツに留撃していたのね︒だからずい分活滋

だった︒日本の民族事舎のような小さいんじ

ゃなくて︑それも政府の研究所だから︑カル

カッタのメインストリートのチョウリンギI

通りにある博物館の大きな建物の中にあっ

(11)

1 5 9  

て︑とても立汲でした︒

そこから未開民族調査隊が出るのね︒それ

に加わっていったらいいと︑そのグハ所長が

おっしゃるので︑一緒に行ったんです︒それ

は私にとって初めての未開民族調査で︑アッ

サムの南のトリプラ州というところだけれど

も︑とてもおもしろい経験だったんです︒

研究者は数人だけど︑サーバントも数人ぐ

らい︒インド式なのね︒調査に行くのにサー

バントとコック連れていくわけ︒そしてまず

飛行機で行って︑そこからジlプで奥地へ入

って︑ジープが進めなくなると今度は水牛を

雇って︑テントなど荷物を全部それに積ん

で︒そして現地に着いてテントを張ったりす

るのは︑みんなサ1パントがやるの︒人類撃

者はのんびりして︑お茶でも飲んで話してい

るのね︒遠いから大抵夜着いちゃうんですよ

ね︒ずい分たってからサIパントが︑真夜中

ぐらいに︑﹁お食事の用意ができましたから﹂

と来

る︒

この経験をとおして︑そういうところへ行

ヮて︑どういうふうにしたら調査ができるか

ということは知ったのね︒もちろん食料とか

何かは要ることは確かだし︑それから紙が全

然ないということを初めて知ったわ︒トイレ

﹁撃聞の思い出﹂中根千枝先生を園んで ットペーパーはじめ︑書く紙なんか︑全然紙というものがないから︑紙は持っていかなければいけないとかね︒それから折り畳みベッド︒今のようなしゃれたベッドなんてないから︑木製の折り昼み式ベッドとスリlピング

バッグとか︑それから寒くなるから薄い布圏

やシ

lツとか︑そういうのが全部要るという

ことが︑みんなと一緒に行ってわかったわけ

です︒それはとてもいい経験だったのね︒

越えられない園墳を前に

中根それから︑同時にカリンポンにいた

ときに︑私と同世代のチベットの貴族のお嬢

さんたちが何人もいらして︑お友達になって

いたのね︒そのころはまだ︑チベット人にと

っては︑図境は自由に往来できたのね︒チベ

ットのお嬢さんたちが︑﹁私たち毎年行き来

するからご一緒にいらっしゃいよ﹂と言うの

ね︒顔も徐り愛わらないし︑チベット地域だ

ったらわからないというわけ︒だからしめし

め︑こうしたら行けるかと思っていたの︒

そしたら︑カルカッタの線領事が︑どうも

私がチベットに行きたいというのを知ったら

しくて︑﹁中根さん︑園‑境は絶封越えないで

ください﹂と言うわけ︒やはり園‑境を越えた

ら問題になるのね︒そう言われちゃったか

ら︑じゃあしょうがないなと思ってあきらめ

て︑圏一境近くのシッキムなんかで調査したり

して

一度調査圏と一緒に行ってからは︑自分の ︒

研究をしたいので一人で行くようになったん

ですね︒そのときは︑簡単にポlタl二

1

人とコックだけ連れて行きましたけれども︒

そしてシッキムのブ

l

ティアやレプチャと か︑アッサムのナガ族などを調査してまし

カルカッタの人類撃研究所では︑天井の高 た ︒

い大きい部屋に四方に机が置かれて︑四人の

人類撃者の研究室一になっていたの︒そこで一

緒になった一人が︑以前にダッカ大事の教授

をしていて︑後でカルカッタ大撃の教授にな

った方だけれども︑インドとパキスタンの分

離でカルカッタに亡命していらしてこの人類

事研究所に入っていらした︒

その方がすごい教養のある︑ベンガルのブ

ラ!?ンで︑何しろ租先から千年もプロフェ

ッサーをしていたという人なの︒そういう意

味でインド的で︑とても魅力的で︑もうイン

ドの文化の粋みたいな人で︑その方がいろい

ろインドのことをときどきお話ししてくださ

(12)

第百十八輯

1 6 0  

って︒あるとき

︑私が

﹁イ

ン ドは歴史記録が 乏しいからちょっと不便じゃない﹂なんてう っかり言うと

︑﹁歴史なんかに拘泥するとい うのはつまらないことじぞないか︒歴史なん かに拘泥しないインドは何とノ

1プルな閣だ ろう﹂と言うのね︒そういう反感の仕方で︑

私が常識的なことを

言 う と︑大紙インド的な 考え方とか文化で答えてくださって︒そのう ちに︑私はとてもインドに興味を持つように

なったのです︒

藤 そ の 方 は 何 と お

っしゃるのですか︒

中 根 パタチャリア(﹀

2 5

各∞

E 2 R E

円M

GS

) と い う の

︒ パ タ チ ャ リ ア と い う の は︑昔プロフェッサ

!

ということなのよ︒パ タというのは食事ということで︑チャ

lリア

というのは輿えるということなの︒インドの

大昔からの習慣は︑偉い同学者が出ると︑みん

なが等敬していろいろお米だの野菜だのを持 ってくるのね︒だからプロフェッサ

lの家と

いうのはいっぱい食

料 が あ る

︒ そ れ か ら

︑ 弟

子たちは遠くから来るから︑骨周替なんかない

ころだから︑先生が弟子たちに食事を輿えな がら数える︒だからパタ

・チ

l

リアという のはプロフェッサ

ーということ︒

そのカl

ストの人でいらっしゃって︑いか

にもプロフェッサ

l

らしくて︑私︑世界であ んなプロフェッサ

lらしい

人を見たことがな いというような方だったのね︒すごくユ

ーモ

アもあって︑先年亡くなられたけど︑とても いい方だった︒その上ぺリア

エルピンと共 に四年間もフィー

ルド

・ワー クを共にしたと いうだけあって︑英園式アプローチにもなれ

ていらして︒

その方を通して︑その方のお知り合いと︑

ヒンドゥl

の村へ行ったり︑ヒンドゥ

l

のコ

ミュニティを

研究したりした︒もう図境を越 えられないから︑インドで本格的に調査をす るようになり︑他方ル

l

リッヒ先生からチベ

ット撃を学ぶのと︑ずい分忙しかったのね︒

スウェーデ

の財

から助成を受ける 中 根 インドのスカラーシップは二年︒二 年た

って

︑いよいよ日本に飾ることになると 思っていたところ︑たまたま

YWCA

の︑私

の隣の部屋に︑スウェーデンの初老の女の方 がいらしたのね

0

私はちょうどナガ

・ヒルか

らカルカッタに飾ったばかりで︑もう泥だら けのものや調査の道具なんかを部屋いっぱい に康げていたんだけれ

ども

︑ そ の 方 が ノ ッ ク していらして︑﹁ちょっとお話を聞きたい﹂

と︒いろいろ私の研究のことを聞かれて︒

その人は人類同学者じぞなくて︑後でわかっ

たんだけれども︑スターリン賞を受賞された

醤皐

博士

(り

円・

﹀ロ

ハ同

門巾

印﹀

ロ門

町巾

巾ロ

)な

の︒

だ から私︑こんな人類字者でもない人に調査の こと 言ったって

しょうがないなと思

って︑ち

ょっと不機嫌な答え方をしていたのね︒そし たらその人が︑﹁ずい分いろいろ研究してい

るんですね︒スウェー

デ ン で も 財 固 か ら の 助 成金というのがありますから︑そういう可能 性があると岡山いますよ﹂なんておっしゃっ そうしたら廊下をへだてて私の部屋の前の て ︒ 部屋にインド人の植物筆者がいて︑﹁あの︑

ち ょ っ と 注 意 し た 方 が い い わ よ

﹂ と 言 う の ね︒﹁あの人は︑人の部屋に来ていろいろ話 をして︑蹄るとパンパンパンとタイプライタ ーを打っているから︑スパイかもしれない︒

注意した方がいい﹂と言うの(笑)︒それで ス パ イ か し ら な ん て 言 っ て い た の だ け れ ど も︑そんな悪い感じもしなかったのね︒それ から半年ぐらいたって︑スウェ

ーデンのエリ

ン・

ワグネル財図から突然電報が来て︑あな たに助成金を出すことにしました︒私は何も 書類を出していないのよ︒その女の方が私の

(13)

ご自宅にて

2 0 0 6

5

(14)

偶然お曾いした東洋史の先輩方と

(左から、荒松雄、 三上 衣 男 、 私 、 榎一雄、ニュ ーデリーで、 1954年)

調査した大家族チャクロパティ家の、その四人 兄弟の委主主と(左から2人目が私、カノレカッタ で、 1965年8月)

ヒマラヤ山中、シッキムのチベッ ト俳敬寺院にて(1955年3月)

フアース ・セミナー同門の費孝;m 教授と(北京で、 1979年9月)

チベット六大寺院の一つで、六等部から なる大学の種市IJをもっプラン寺院にて。そ の図書館の蔵書は最も完備し、高名な塁手信 を銃出したことで知られる。 (1984年6月)

(15)

161 

ことを聞いて︑それこそタイプを打って出し

たんでしょうね︑それだけなの︒

それで後でわかったことは︑ストックホル

ムにその方の報告が行って財圏で審査が行わ

れているときに︑たまたま茅(誠司︑東大)

総長がストックホルムにいらしたのね︒その 財圏のメンバーにウプサラ大撃の総長がいら して︑茅先生に東京大事の助手で中根さんと

いう人がいるけれども︑﹁この方は優秀です

か﹂と聞いたのだって︒そうしたら私のこと を 嘗 然 知 ら な い は ず な の に 茅 先 生 は す ご く て

﹁ と て も 優 秀 で す

﹂ っ て お っ し ゃ っ た

(笑)︒それで決定されたというの︒昔って

おかしいわね︒今では考えられないこと︒

その財圏の助成は女性の研究者に出すとい

うもので︑先方からはインドで女権制の枇舎 に つ い て 研 究 し て く だ さ い と 書 い で あ っ た の

︒ だ か ら 私

︑ 女 権 制 は あ り ま せ ん け れ ど も︑母系制ならありますから︑それでいいで すかと書いたのね︒そしたら結構です︑どう ぞと言うの︒たまたまそのとき祉曾撃者のア

ルパ・ミュルダル(﹀宮田宮司仏曲目有名な経

済 事 者 の グ ン ナ

1・ミュルダル(のロ

E R

宮司仏阻むの夫人)がインド大使で︑あなた

のスーパーバイザーになりますから︑と知ら

﹁事問の思い出﹂中根千枝先生を圏んで せて来たのね︒それで︑インドでまた一年︒母系制のカシ族とガロ族︑それから南インドのナヤールと︑調査研究して︑一年︒

横 山 母 系 制 の 調 査 に 行 か れ た 時

︑ そ れ ま で の ア ッ サ ム と か シ ッ キ ム で 調 査 さ れ た 時 と︑ストックホルムからの奨事金である程度

テ!?が限定されてガロヒルに行かれた時と

では︑先生ご自身の調査は大分遣っていたの

です

か︒

中 根 え え

︒ カ シ や ガ ロ は ナ ガ 族 と か テ ィ

プラの民族と基本的に同じですし︑他方ナヤ

ールというのは上流カlストで︑自家用車で

出迎えてくれたり︑おいしいお食事をいただ

いたり︒ナヤールは全然遣いますけれども︑

ガペカシはナガ族と非常に近いですね︒

横 山 調 査 で は 在

E

U

を中心に見ていら

したのでしょうか︒

中 根 そ う で も な い

︒ ま だ よ く わ か ら な い その駐曾構造を明らかにすることですし︑そ

れからナヤールの場合は法律家の報告が多い

けれども︑人類撃的にナヤiルの存在のあり

方というのは明確でないから︑宵吉田

FH

Uもあ

るけれども︑階層とか愛化のプロセスなどい

ろんなものがある︒

(調査が終わって︑)いよいよこれで今度こ

そ蹄れると思っていたら︑財圏からもう一年 出すから研究してくれというの︒それで私イ

ンドに績けて三年もいて︑﹁私はもうずい分

インドにいて調査研究したから︑今度は論文 を書きたいからヨーロッパに行きたい﹂と言

ったの︒そうしたら︑

O

K

と言うわけ︒その

頃(一九五六年八月)ちょうど︑アムステル

ダムで世界一枇曾撃者大舎が催されることにな

っていて︑ミュルダル大使がその一つの責任

者でいらしたの︒この枇曾撃者大舎で研究愛

表をするようにとのことで︑ガロ族の一位曾組

織についてそこで研究後表して︑それからス

トックホルムに行ってどういう研究をしたか

ということを報告したわけ︒そして︑今度は

ヨーロッパで論文書きたいと言ったわけだっ

たの

私としては︑多分ストックホルム大事なん ︒

かで論文書くようになるだろうと思って︒そ

したらウプサラ大事のシlゲル・シュタット

総長が財圏のメンバーにいらして︑スウェー

デンはまだ人類撃がそんなに護達していない

から︑世界で今一番いいのはロンドンで︑レ

イモンド・ファlスのセミナーというのがあ

るから︑そこへいらっしゃいと︒紹介肢を書

いてくださったから︑それでロンドンのフア

(16)

第百十八輯

1 6 2  

‑ス教授のところに行った︒

清 水 ロ ン ド ン に 行 く 前 に

︑ ガ ロ と カ シ の

調査は︑スウェーデンの奨事金で︒

中根インドで一年やっていました︒

清 水 一 年 や っ て い ら し た の で す か

︒ 中 根 後 で フ ァ

lス教授が﹁日本人でイン

ドで研究して︑スウェーデンのお金で来た拳

生って︑一憧どういう人だろう﹂と閏ゆったと

おっしゃったけれどもね︒

ロ ン ド ン の フ ァ

l ス

教 授 の セ ミ ナ ー

中 根 そ れ で ロ ン ド ン 大 事 の

L S E P

8

号ロ

ω n z a

o

g

0 5 ‑ n

印)で十月からはじ

まったファ1

ス教授の大祭院のセミナーに出 た︒十人ぐらいいて︑いろんな閣から来てい る︒いろんなところでフィールドワークを済 ませた人ばかりで︑フィールドワークをして いない人はそのセミナーに入れないのね︒ち

ょうど私はインドで行ったから︑資格があっ

たのでしょうね︒そこへ入れてもらって︑す ごいいいセミナーで︑アメリカでもそのころ レイモンドのセミナーに出たかどうかとみん

な言っているぐらいだったのね︒

関 本 ロ ン ド ン の フ ァ

lス先生のセミナー

に︑一緒に出ていたほかの撃生さんは︑どん

な方がいましたか︒

中 根 あ の と き は

︑ ニ ュ ー ジ ー ラ ン ド と か オーストラリアとかマレーシアとか︑もちろ んアメリカからも二︑三人いましたね︒ベネ ディクトとかランカスタ!とか︑イギリス人 なんでいうのはいろんな園の人たちがいてそ

の一つみたいになってしまうわけ︒イギリス

人はそんなに多くない︒イギリス人って︑オ ーストラリアとか前の英領植民地に就職して

いったり︑必ずしもずっとイギリスにいなか

ったりするけれども︒

関 本 カ リ フ ォ ル ニ ア 大 挙 バ ー ク レ ー 校 に いらしたベネディクトさんもそのときの事生 さんですか︒私があちらにリサーチフエロ!

として滞在していたときはお世話になって︑

おしゃれな方でしたね︒

中 根 そ う な ん で す

︒ そ れ か ら フ ァ

lス先

生が﹁君のようなのは︑リ

lチとディスカッ

ションした方がいい﹂と言って︑それでケン

ブリッジに迭ってくださヲて︒

関 本 ど う い

J

意味ですか︑君のようなの

はと

いう

と・

::

︒ 中 根 ピ ル マ の

﹃ ハ イ ラ ン ド

・ パ 1 7

( E N S

‑ n b

ω兄

器 さ ミ 呂 町 ミ ロ ミ 句 史

︑ さ 白 魚 沼

何色

白ロ

ロ仏

下巾

田口

町・

円由

忠・

円︑

︒ロ

円凶

Oロ)﹄をインドで

讃んでいましたし︒それからピルマと言った らチベットに近いし︑イロコイ族や何かとは 遣うわけよね︒だからとても興味持っていた

1 ν

横 山

﹃ ハ イ ラ ン ド

・ パ 1 7

﹄ は

︑ も う イ ンドの人類撃者たちがやはり注目していたの

でしょうか︒

中 根 注 目 と い う の で は な い

︑ 少 数 で す が

外園人の人類事者が問題にしていましたね︒

そ う い う 本 は カ ル カ ッ タ の オ ッ ク ス フ ォ ー ド

・ ブ ッ ク シ ョ ッ プ に 行 く と 大 抵 あ る わ け

よ︒あれは植民地のよさね︒

横 山 五 四 年 ぐ ら い に 出 た と 思 う の で

︑ も

う出たすぐ後ですよね︒

中 根 出 た ば か り

︒ そ の こ ろ 調 査 す る と き

は︑

﹄﹃

口同

h a

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C

N ミミ

SA

刊込

3H

F3

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hい

宅と

い う の

︑ そ の 六 版 か な

︑ 一 九 五 一 年 に 出 た の が︑それもカルカッタの本屋で買って︑とて

も参考になったわね︒

ロンドンでファlスのすばらしいセミナー

に出席して︑すごく興味がわき︑ああ︑これ が私のしたかったことだということに気がつ

いて

そのセミナーに入った初めのころ︑出席者 ︒ の一人から﹁あなたは文化人類撃をなさるの

(17)

1 6 3  

ですか︑一位曾人類撃をなさるのですか﹂と言

うのね︒そのころまだ私も文化人類撃と枇舎

人類撃の直別がつかないわけ︒それで︑さあ

と思って︒そのセミナーに出たら枇舎人類撃

というのがだんだんわかり︑アメリカのとず

い分注うというのがわかってきて︑ああ︑私

がしたかったのは枇舎人類皐だった︑研究と

いうのは何ておもしろいことだろうと思っ

て︒それまでは私︑事者になるという気持ち

は徐りなかったのね︒

関本何になろうと思ってらっしゃったん

です

か︒

中根初めは特汲員か何かになりたいと息

ヲていたの︒ファl

スのセミナーに出席し

て︑研究ということに本格的に興味をもつよ

うになったの︒日本の枇舎科撃では︑著名な

欧米の事者たちが提示した理論を参考とし

て︑またそれに依擦して︑自分たちの問題を

考察するというアプローチが常だけど︑フア

ースのセミナーでは綴密なフィールドワーク

を前提としたいろいろ異なるデータからどの

ように理論をくみたてていくかというプロセ

スが︑何よりも重要な位置付けになってい る︒一人の殻表者が自分のデ1タにもとづい

て理論化に向う説を出そうとすると︑他の参

﹁事問の思い出﹂中根千枝先生を圏んで 加者がそれは自分のフィールドには一該嘗しない︒なぜなら:::︒といった調子でクロスチェックがさまざま行われ︑先生から厳しい批剣があったり︑より納得できる立場を提示されたりするわけ︒こうした生き生きとした研究のプロセスを事んで︑これは一生研究する封象として素晴らしいと思って︑それで初めて枇舎人類事者になろうと思ったのね︒

そして︑その年の暮に︑今度はさっき言っ

た大きな本を出したイタリアのジュゼッベ・

トゥッチ先生が︑イタリア・ロ

1 7の中極東

研究所

( I S M E O

z

t g o

ロ 曲

目 白

o u

m

E52

何回同町四回OO円百号)の所長で︑お招

きがきたのです︒後で聞いたら山本達郎先生

が私の知らないうちにアレンジしてくださっ

たのね︒今度トゥッチ先生のところにいらし

たらいいでしょうと︒それでロンドンからト

ウツチ先生のところに行って︑ロ

1 7の

トゥ

ツチ先生のご自宅で個人教授を受けて学年︒

そしたら文部省なのか大事なのか忘れてしま

ったんですけど︑もう四年にもなるのに︑弱

るのか︑婦らないのか︒身分が助手でしょ

う︒だからもし婦らなければこれで助手を打

ち切ると通告がきたのです︒これは大慶だと

思っ

て︒

四年目まで待ってくれたらいいです

関本

&

中根それで︑私が四年も外に出たので︑

それからは海外出張は二年までで︑その後は

休職とか何かすることになったの︒それまで

大事は︑こんな療な助手が出るとは想定外だ

った

のね

関本中級先生のせいで(笑)︒

中根そういう通知が来たんで︑これはや はり蹄らなきゃと思って︒それで﹁蹄りま

す﹂と言ってエジプト・︑ギリシャ・インドな

どによって競ってきたのです︒

清水四年間の問︑一度も日本に戻られな

かったのですか︒

中 根 全 然

︒ 清水インドからイギリスに行かれてイタ

リア

まで

︒ 中根そう︒だって暇がなくてね︒その問

論文も書いていたし︑先生や友人に恵まれて

いて︒ロ!?に行く途中︑パリによって︑レ

ヴィ

Hストロースに曾ったとき︑ガロとカシ

について本を出すようにとすすめられ︑これ

が後にパリから英文で出版したのむさ

g h

門吉弘・みむき﹄守白ミ良一巳同匂

HR

令 S

﹄九

日町

三円

札諸

問白

九凶

い官

同た

き的

(司

由江

P S

A

山叶)になったわけ︒次々

(18)

第百十八輯

方 塁 手

1 6 4  

に撃びたいこと︑論文作成のアイディアもあ

ふれるように出てきて︑担問園したいという気

もしなかったの︒

日本の皐生に人類皐を教える

闘本それで先生はまた東大に戻られて︒

中 根 そ う な ん で す

︒ そ し て 半 年 た っ た ら

講師に︒ちょうど文化人類撃ができていたの

ね︑一年前に︒それで石田先生とか泉先生が

いらしたんだわ︒それでちょうどいいのが来

たというんで︑すぐ教えるようにと言って︒

大事院のセミナーで︑私感じたのは︑フア

ースのセミナーはみんな全部それぞれフィー

ルドワークしていた人ばかりでしょう︒とこ

ろがフィールドワークの前の人たちだから︑

同じようなのはできないわけよね︒だからみ

んなフィールドワークなしでよくこの本讃め

るなと思って感心して︒私はフィールドワー

クする前は︑人類撃の本なんか讃んだときに

退屈していたのね︒フィールドワークしてか

らものすごく讃むのに興味が出たし︑パーツ

と讃めるようになったの︒だからみんなフィ

ールドワークなしでよく勉強しているなと思

った︒だけど︑そのころあなたたち教養課程

で一番成績のいいのが来たから︑だから勉強 家で頭はよかったのよ︒

関本まだ大分先でしょう︑我々が授業で

数えを受けるようになるのは・::・︒

中根講師になって︑初めは教養事部で教

えていて︑それから大事院で︒それで紛争が

あって︑貴方たちが来たのはその後だったの

ね︒その頃はもう教授で︑大事院で指導教官

などしてたわけ︒

横山フィールドワークをしていない撃生

に教えるに営たって︑先生がこんなことを特

に工夫しょうかしらと思われたようなことは

あるんですか︒フィールドワークもわからず

に︑ともかく讃まなきゃならない畢生たちに

封して何か︒

中根本嘗大愛だったと思う︑私同情して

いたもの(笑)︒それで本の讃み方が︑例え

ば私がファ1スとかリlチなど︑質物を知っ

ていると譲み違えというのはほとんどないわ

けよね︒だけど︑英語だけで讃んでいくか

ら︑ちょっと想像できないミスを犯したりす

るのね︒そういうの︑難しいわね︒どうして

こういうふうに讃んではいけないかというの

を教えるのは︒だから本を譲んでも人の考え

方を知るというのとはずい分這うわけよね︒

事者とか講義をするなんて嫌いだからで︑数

養でも講義をしなきゃいけないというから一

恵はしたんだけれども︒興味があったのはや

はり大事院だわね︑それぞれの考え方を交流

する

から

︒ 院本大事院の先生のゼミは柴しかったで

すよ

ね︒

中 根 そ う

?

関本はい︒教養且学部の文化人類撃では共

通科目﹁文化人類皐﹂なんでいう授業をなさ

って︑ちょっと退屈でしたが︑大事院に進ん

で先生のゼミは︑賓に楽しかったです︒私が

大事院で先生のゼミに出るようになったとき

も︑もちろん別にどこかでフィールドをして

跨ってきたというわけでなくて︑これから勉

強するところですし︑周りの人間もそうなん

ですけれども︑ゼミというのは不思議に先生

によって話がおもしろくなるかどうかという

のが決まるんですよね︒ゼミではおもに皐生

がしゃべるのに︒あれは感心しました︒

中根優秀でしたよ︑皆さん︒紛争の後だ

から︑人数もちょうどよかったのね︒

関本最近の大事院は︑政府の大事院重貼

化政策で大きくなり過ぎまして︒

中根そうでしょう︒大き過ぎてもいけな

いし︑小さ過ぎてもよくないのね︒

(19)

清水略歴年表を見ますと︑先生の戻って

いらしたのは昭和三十三年で講師になられて

ます

ね︒

中根そうよ︑李生と徐り遣わないの︒教

養の事務室に行って︑来週休講にしてほしい

んですと言ったら︑﹁事生の掲示は向こう﹂

なんて(笑)︒﹁拳生じゃないんですけど﹂と

言って︑そんなふうだつたの︒

清水戻ってらした頃から︑そろそろ世界 の人類撃舎を日本で開こうなどという動き

が︑出始めたころでしょうか︒

中根そうね︒民族撃のグループの人たち

が前から運動してたのよね︒

初め︑東大に文化人類撃ができるとき︑杉

浦先生をと議定していたところ︑亡くなって

しまったのね︒それであのころどこにいらし

たのかわかりませんけれど︑石田先生がいら

して︑それからボウルス(の

o a

o

04吉田四ロ仏

o d i

g )

さんという︑アメリカの人類事者

が来

て︒

関本何大事といいましたっけ︑シラキュ

ース

です

か︒

中根そうそう︒そうやヲて始めていった

関本 の ︒

1 6 5  

ボウルス先生は英語で講義なさった

﹁拳問の思い出﹂中根千枝先生を囲んで

ので

すか

︒ 中根その頃私は外閣にいたので︑よく知

らな

い︒

関本私は︑まだ事生ではありませんでし

たが

伊藤英語でした︒アメリカ科と文化人類 ︒

事の雨方の主任を粂ねていました︒

中根ボウルス先生がいらして︑それで文

化人類撃という講義の名前ができたのね︒民

族事じゃなくてね︒

伊藤戦時中アメリカに蹄られて︑ハーバ

ードで人類撃を終えて再び日本に来られた︒

中 根 と て も 親 切 な い い 先 生 だ っ た で す 伊藤そうすると︑戦後︑先生は日本に来 ね ︒ ていたアメリカの

CIE

関係の人類撃者との

交流は徐りなかったのですね︒

中根それはインドに行く前と蹄園してか

ら少しお曾いしたくらいで︒たまにお食事し

たりなんかしたり︒だけど私がとくに興味持

たなかったのね︒

伊藤それはなぜでしょうね︒

中根だって︑アメリカや日本関係のお話 が多くて︒その頃︑あるアメリカの事者が

﹁中根さんはいL人だけど︑外園人に興味を もたない人だ﹂なんて云っていることをききま

した

︒ 伊藤ちょっと︑ずれているかしら︑イシ

ノ・

イワ

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同者

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ネット(﹄

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とかペルゼル

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沼町

四‑

)先

生と

か︒

中根ペルゼル先生は中園と日本におくわ

しい

伊藤専門が遣いますね︒ちょっと世代も ︒

ずれていましょうか︒

中根そうね︒ベルゼル先生はちょっと上

の方ね︒お話する機舎は少しあっただけです

が︑一番印象に残っています︒

シカゴ大撃とロンドン大撃で教える

伊藤中根先生はその閑にも︑シカゴ大挙

客員数授︑ロンドン大挙客員数授を務められ

中根そう︑ロ!?から蹄って一年聞はい て ︒

たのよ︑おとなしく︒そうしたら︑五九年に

シカゴ大挙から招待があった︒そのとき︑日

本とアメリカの文化の制度の遣いをすごく感

じました︒東洋文化研究所で﹁シカゴ大事か

ら招待が来ましたから︑出張させてくださ

い﹂と言ったの︒そうしたら事務が本部に問

参照

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