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歌 論 史 上 に お け る 藤 原 公 任 の 地 位

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歌論史上における藤原公任の地位

 歌論史に於いて古今集序を襲端として︑首鼠を婆心とする美意識の展開を見てゆくことは︑極めて重要なことである︒こ

の展開の上に於いて四條大納言藤原公任は如何なる歌論史的意義をもつかを考察してゆき陀いと思ふ︒貫之が﹁やまとうた

は人のこ瓦ろをたねとしてようつのことのはとそなれりける﹂ ︵古今集序︶といひ︑ζれは心心秘府論に﹁詩本志也︒心心爲

志嚢言血豆︒情動色盛而三身言瀞然後書細砂紙也︒﹂とある影響とも考へられ︑心底の關係のうち︑心価して言となるといっ

てみる︒かくして生まれる歌は人心本立の性質に基くものであって︑ ﹁世の中にある人事わざ繁きものなれば︑心に思ふ事を

見るもの聞く︐ものにつけて言ひ出せるなり︒花に鳴く鶯︑水に佳む蛙の聲を聞けば︑生きとし生けるもの何れか歌を詠まざり

け葛﹂ ︵同上︶といひ︑この心漫歌に於ける語として祷といふ語と共に︑︐歌の内容としての感情を主とす短信とは蒲思猟や意

志の加はることはあるが︑先づ當然のことであって︑在原の業雫の歌に野して︑﹁在原の艶雫は︑その心あまりてことば夜ら

す﹂︵同上︶と批評を加へてるる中に﹁心あま払て﹂は︑継馬の作風から考へるζ︑−彼の感情が豊富で而も彊烈盗れる程であ

るのを貫之は−﹁心あまりて﹂と訂したものと考へられ︑更に﹁萎める花の色なくて︑匂ひ残れるが如し﹂と心したのも︑ ﹁匂

ぴ淺れる﹂を﹁心あまりて﹂に比し︑ ﹁萎める花﹂を言葉の表現面に抱き切れぬ乙とに比したものと思はれる︒.

かくして貫之に於いては︑豊富な感情内容が言語に表現し切れないもののあるのを﹁心あまりてことば足らす﹂と旨したので−

あると考へられる︒貫之に於いては歌は心詞が重要な要素であることが意識され︑而もその内︑心が主であって心と詞とは二

元の關係にあり︑感情内容である心は如何に豊富であっても︑それに似合はしい表現を件なはないで︑詞の管足によって十分

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意の鑑されないとき︑歌として不完全であることを認め︑その奥に山詞の二元が相調和することを歌の理想として描いてみることが推測出來るのである︒       −

歌に於ける心詞の關係は今は直接考察の墨象とはしないが湘貫之の﹁心あまる﹂の意識が既に前越した通り古今集魚に見られ

るのであるが︑これが未だ歌の理念として規定せられるまでに至ってみない︒これを公任の歌論に於いて如何に能瀬せしめたで

あらうか︒公任は貫之の﹁心あまる﹂の意識を嚢直せしめて﹁あまりの心﹂の語をもつて理念化し︑ ﹁あまりの心﹂に極めて

高い意義が與へられるに至った︒彼の理想とした歌は﹁凡そ歌は心深く甘きよげにて心にをかしきところあるをすぐれたりと

いふべし﹂︵新撰髄臓︶であって︑﹁心深く﹂は秀歌の第︸至仁として提示された︒貫之の﹁心あまりて﹂は詞との比重に於いて︑

業歴の歌が心に勝ってるる黙を指示したのであるが︑公任に於いては﹁心深く﹂は比重の關係ではなく︑秀歌の不可歓の條件で

あった︒帥ち﹁心深く﹂は歌に於ける表現面である詞の表面に表はれぬ言外の五情を言ひ︑用語として貫之に似るところがあ

るとしても︑貫之の未だ十分に其の贋値を認め得なかった鯨韻籐情といふ美的債値を提示したところは公任の磯展であった噂

歌論の術語としての﹁姿﹂は心詞タ踏まへた形態から自から生する応分情調を指すのであって︑公任は姿をそこまで規定した

・ものとは言ひ切ることが出職ないやうであり︑叉事絵姿を︑心が歌の内容であるのに蓋して歌の形式面を特に指してみると解

される︒然し問題は貫之の心の外に姿といふ面に注意を彿ってみる瓢は貫之よめも一歩を進めた進展である︒公任は心の外に

姿を意識したのであるがH乱姿相僻することかたくば先づ心をとるべし︑途に心深からすぱ姿をいたはるべしL ︵新撰蒼蒼︶

といって︑心を主とし姿を從とする馬爪は貫之の襯窯を出でないのである︒︐然し﹁そのかたちといふは打ちぎき清げに故あゆ

て歌ときこえ︑交字はめづらしくそへなどしたる﹂乏打ちぎき賢げななだらかな格調と﹁文字はめづらしくそへ﹂たり︑・﹂﹁心

にをかしきところある﹂やうな清新な用語をもつてする知的な趣向のあるのを秀歌としたところは︑こかがやがて彼の和歌九       へ品に於ける絵情論としての美的債値﹁あまb・の心﹂に展開する泄程とみられるのである︒       ︑

公任の和歌九品はその門構を鐘礫の詩書︑或は佛読の九晶揚土の思想などから探ったと言はれてるる︒古塁の短歌を上中下の

三等に分け︑それらをそれん\更に三等して九段階に分けて各署等の簡軍な規定と二首つつの例歌を學げたのであることは周

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知の通りである︒彼の薪饗髄臓に於ける﹁心深レ﹂・の意識が︑こ玉では﹁あまりの心﹂の語をもつて規定され︑ご.﹁あまり

の心﹂或は﹁心深し﹂が上品の部に入るべき歌の翌春評債の尺度とされてみるのである︒上品の上中は﹁あまりσ心﹂が不

可飲の皆野であつで︑特に上品の上は﹁あまりの心さへある﹂歌でなければならないとする︒ ﹁心さへ﹂のさへは上品の王の

規定として﹁言葉たへにしてしの從屡闘係として心さへあるといふ助詞ではないことは︑−無品の中の例歌.﹁かげ見へて﹂と同

様假名造の問題であって︑心さへのさへは冴えでみる︒これは上品の中の親定﹁あまりの心あるなり﹂ノ︑の度合ひから考へても

上品の上は﹁あまりの心あるなり﹂以上の比重をもつて﹁あまわの心しがなければならない筈である︒然し︐てに注意されな

ければならないことは︑歌に於ける鹸情の語及び貯砂の語によって考へられる美意識が公任をもつて最初とするものではない

といふことである︒古今集撰者の一入である壬生忠峯の和歌十盤︐に軸心燈が規定せられ︑−更に年代の下ると思はれる源道濟の       ノ和歌十悪に同じく画工鎧の語が見えてみる︒壬生掌記今め十膿と道濟の+㎜隙とは極めて似通ってみるので︑脇方を論・ずる要ぱな

いと思はれるので︑今は忠峯の蝕情艦についてみると︒彼が和歌十盤の一として鹸椿罷を考へ︑ ﹁是罷詞標一片魚籠直宮しと

読明してみるところをみるど︑貫之と同時代ながら貫之の古今集塵から訟歩を進めて︑鯨情を歌の美的債値として理念的に把

握しでるたことが明かである︒

忠謬の蝕惰艦の内容は彼の和歌十禮に引かれた例歌によってみると︐

 今來むといひしばかりに長月の有明の月を待ち三つるかな       ︑古今集  素.性法師

 思びかね妹がりゆけば冬の夜の川風塞み千鳥液くなり      拾遺集 紀貫之

といふやうに︑.窪め心の頼りなさ︑憐情の切なさを詞には+分表現せすして︑詞の外に匂はせようとしたまぎれもなく飴煮の

歌である︒であるとすると・忠峯ゆ公任よりも遙かに早く鳥距明晦な語をもつて鯨情を規定したわけでみって︑公任の﹁あま

りの心﹂は事醸しく意義を認め難いわけである︒然しながら注意しなければならない瓢は︑忠學の和歌十醒の醒系申に於ける

飴情話の位置は公任の和歌九品の場合のやうに歌⁝鎧の中で最高の位置に置かれでみないといふ鞘で論るり忠峯は和歌十罷の中

で高情聡を最高の位置におき︑.﹁翠霞鯨情器量皆出是流︑玉髄詞難凡流義入幽玄︑謡歌之王科也﹂といひ︑絵幡⁝罷券それ程に

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高く評幸してみないのである︒︑而もそれん\の例歌からすると︑忠琴の除敷盤の内容は入事に絡む雨池が言外の飴韻となって

纒綿するのを指し︑公任の﹁あまりの心﹂の歌は︑何れも自然を封象とし︑自然の世界を静かに眺めて叉は思ひ浮︐かべて︑観

照に浸るといふ境地のものであるめそれでは七島の最山筒の歌禮とした高情羅がとりもなほさす公任の﹁あまりの心﹂の盤情と

一致するかといふと.必ずしもさうではない︒忠謬は高情罷の例歌に

 冬ながら察より花の散りくるは雲のあなたは春にやあるらむ    古今集  清原深養父︑

 行きやらで山路暮しつ時烏いま一帯の聞かまほしさに      拾遺集  源公爵朝臣

などのやうに︑鯨情盤の入事に絡む感情であるのに慣して︑自然の美に憧憬し︑自然の美にあこがれる心の歌を高情盤と託し

てみる︒帥ちひたむきに自然の美に志向し︑心惹かれる立場である︒ところが公任の﹁あまりの心﹂は人事の感情つまレ忠琴

の煽情タ基盤とし︑内に離して︑更にこれを止揚して自然の形象に向かひ︑自然の景趣と融合して醸し出されて細るかすかな

情調が﹁たへ﹂なる詞﹁ほどうるはしき﹂萎なる表現を通じて感得される美的境地である︒︑帥ち入事から切りはなされた自然

への志向ではなく︑入事を踏まへ人事と融合した情感の上に立つ自然であったのである︒かくし.て公任の﹁あまりの心﹂−は語

として忠琴︐道濟の鯨血膿の提示に逞れるものであるが︑その美的理念に於いて注目すべき展開を途げたのであり︑これは叉

歌論史上に於いてのみいはれることではなく︑公任のこのやうな自然観照の境地は中古丈學の理念︑である﹁もののあはれ﹂

の歌諦的顯現であり︑.﹁もののあはれ﹂美意識の歌論に於ける理念的規定㍉であると見るとき歌論史上に於ける公任の意義を知

ることが出來るのである︒

申古文學の理念である﹁もののあはれ﹂の美意識は源氏物語を中心として︑これが醸成せられ完成し︑分裂してゆく経路を辿

るところに中古文學の文學金面の流れをみることが出為るのである︒今は﹁もののあはれ﹂そのものを考察することは本稿の

目的ではないが︑ ﹁もののあはれ﹂の文學精紳が歌論と如何に交渉を待つかといふことを中心として眺めようと思ふ︒ 

周知の如くもρのあ﹁はれの美意識ぱ入生への諦観を基調とするものであって︑平安朝霊堂期の頽量的傾向や︑訴額的な人生観

或は経雨期生活の苦から遠い︑充ち飽きた貴公子的倦怠といふやうな要素が絡み合って︑これが時代の文學の精岬的地盤を作つ

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ていったのであって︑藤原氏の全盛時代に於ける繁榮︐も健全な在り方ではなく︑榮華に経つた公卿はその蔭に常に憂愁を藏し

生々しい情緒を吐露して自然を凝硯し潮照する島々ではなかった︒業干の歌が示すやうに

 起きもせすねもぜで夜をあかしては春のものとてながめくらしつ        伊勢物語

といふやうな繊細な世紀末的な知識人の生活に倦んだ情緒の表現巡見られる︒かういふ公卿達の豪華な生活が一面憂愁と哀腕.

の騎を負ってみたのであって︑そ︑乙に人生の諦観による感傷的な情趣が人事に絡み︑自然への投影となって表はれたのである︒

薪撰髄腸に公任が﹁よき歌のさまなり﹂として蟹げた

.思びかね妹がりゆけば冬の夜σ川風細み千鳥なくなり       紀貫之

など︑もののあはれの情調とか熱る惜調の投影による自然の景趣との融合の境に見出される歌と思はれる︒

和歌九品の上澄の上に奉げた二首の歌ば︑一忠琴飴情意に於ける人事を封象とするものを止揚して︑もののあはれ至心趣の投影

によって自然を観照する境地であり︑このやうにして人生と自然との渾融の上に自然の形象を把握し︑これを﹁あまりの心﹂      っ       レの理念によって措定したところ忙や時代膏雨美意識の歌論的確立に貢獄レた公任の意義が認められる︒

歌人としての公任は今日的にはさまで高く評債されてるないが︑當時に於いては歌壇の最高の模威と認められ︑拾遺集︑拾溝抄

は公任の撰とするのが有力であり︑叉その内容が公任.のか玉る歌論的見解に成ると思はれる歌帥ち情緒そのま玉の詠よりも情

緒の感傷的な表現による歌が多い︒ことに抄は後々愛好され︑殊に後拾遺賢慮には公任の其の他の撰集を多く列奉ずるなど重

詰せられたことがうかゴはれ︑同時代の紫式部日記︑枕草子に公任を蘇り︑はっかしき人と言ってみるのや︑或は彼の批評に

      ヘ      ノよって時の歌人の死命を制する︵袋草子中の長能の三月誰の歌︶といふ所傳︑遙か後の八雲御難の御記事﹁天下無双の歌人﹂等︑

彼の名器は高く︑殊にその家格の高いのと︑著書の多いのとで歌人としての聲望まで高きを得たのであらうが︑公任の地位は    へその歌人としての意義にあるのではなく︑貫之以降の歌論史に於いて飴情の理念を確立し︑而かもこれを美的理念とレて最高       においたところに︑やがて俊成︑定家と展開する鯨情論の展開の上に一つの頂窯をなすものと認められる鐵にあるのである︒      4      ︵長崎大學助鰍授︶

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