村落寺院と村秩序
‑下野国河内郡高松村を例として‑
斎藤悦正
はじめに
近世社会における寺院の社会的な機能については、入寺慣行や紛争の調停にみられる免罪機能や紛争処理過程への(‑)関与が注目され'多くの成果が出されるに至っている。近年は、また領主法や近世の裁判機構のありかたとの関連で(2)の把握も行われ'寺院の機能の分析もより豊かなものになっている。また社会集団論の視角からの寺院論・寺社論も(3)盛んであり、地域社会における寺院の構造解明が進められている。
筆者は'前稿で寺院が村社会における紛争や事件などの処理過程で政治的な関わり方をみせ、村の「公」的機能の(4)一端を担っていた点などを明らかにしたが、その際、寺院財産や住持の決定などの取り扱いにも言及した。この点(5)については、既に村落寺院の経営や維持管理が村の自治に任されていたとの指摘も出されているが'その関係を明ら
かにするための具体的な検討については未だ深める余地があるといえよう。民衆支配にも関わった寺院、村の自治で
村落寺院と村秩序(軒藤)五七
史料館研究紀要第三四号(二〇〇三年)五八
運営される寺院'いずれにしても村とどのような関係の上に寺院の社会的機能が実現されていたのか、という点を村
社会における具体的な事例に関連させながら、さらに詳しくみていく必要があろう。
その中で例えば'村社会において'寺院は村側からいかにあるべきものとして捉えられていたのか'寺院の管理維リLT<占持に村と寺がどのような関係を作‑上げていたのか'このような点から村と寺院の関係の一側面を検討したいとい
うのが本稿の目的である..その際、‑寺院の社会的機能の問題を考察するものである以上'入寺慣行や出入‑仲裁の事
例が確認されているフィールドで1貫して分析することが必要と思われる。そこで、前稿で分析したフィールドであ
る下野国河内郡高牧村を取り上げて'検討していきたい。
高松村(現栃木県河内郡上河内町高松)は'下野国の中央部河内郡の北部、関東平野の北辺に位置する。村内は宇
都宮藩領と宇都宮大明神領に分かれ、前者は本郷分、後者を神領分(神田分)と称した。村高は、慶安期で五六四石(四九1石・七三石)'天保期では六九一石の田方の村であったO本郷分は'寛延二年(一七四九)より明和期まで佐
倉藩領に'天明三年より寛政一〇年まで幕領に編入されるが'その後は幕末まで宇都宮洋領となる。家政などは'延(‑)宝七年二六七九)の記録によれば'豪放二二・人数三〇七'文化年間で家数五九・人数一七四名であった。近世前
期においては'本郷分庄屋は、九兵衛家(古橋姓)が勤めていたが'中期以降は'他の家との輪番制となり'同家は
組頭として登場することもある。
村内には'洞源寺と慈眼寺の二か寺が存在していた。洞源寺は山号を高徳山といい'曹洞宗の寺院で宇都宮城下の
成高寺の末寺であった。創建の由緒については'不明な点が多いが、近世初頭成高寺の一〇代目住持日州が、高松村
の草堂を寺として開いたことに始まるという。成高専は'戦国大名宇都宮氏1族の開基による寺院であったが'慶長
二二五九七)年'大檀那宇都宮氏の改易を機に廃寺になった。そのため成高寺の什物は洞源寺に移され、後に洞源
(8)寺の二代目住持が成高専を中興すると、両寺の住持を兼帯するなど、成高専とは密接な関係を持っていた。洞源寺は(9)田畑合わせて高五石二斗六升の年貢地を有tt宝暦1四年(1七六四)時でT.境内には七間半・六問の客殿、土間四(10)方の十王堂などがあった。同村の百姓は'金てこの洞源寺の檀家となっている71万'慈眼寺は、天台宗の寺院で宇
都宮小袋町宝蔵寺末で台徳山延命院という。田畑高三石五斗六升の年貢地を持つ祈願寺である。境内には'本堂・庫(‖)裡・客殿五間二間半」観音堂・愛宕権現などがあり、宝暦期では祈願檀方として三九軒あった。二か寺共に朱印地・
除地はなく'本末制からいえば最末端に位置する寺院であった.鎮守としては村内に白山権現があり、隣村中里村の
神主がこれを管理していた。なお現在'洞源寺・慈眼寺は両寺と.T3存在しない。廃寺の時期については未詳で為るが、
史料の状況などから明治期に廃寺となったと考えられる0両寺については'盗みや本郷神領間の境争論などで入寺慣(t2)行や調停など村社会における秩序維持に1定の役割を果たしている事例が幕末に至るまで認めることができる。
一寺院の相続と村
(こ・住持の選定一件
はじめに、高松相で住持選定に端を発して村内での百姓らの対立を表面化させた出入りを素材に検討したい。当一
件に関係する史料からは年代を明確に知り得ないが'後述の寺本堂修復等の史料から寛政期以前と推定される。次の
史料は、庄屋源蔵と組頭藤右衛門が領主へ撞出した訴状である。(前欠)
村落寺院と村秩序(帝藤)
史料館研究紀要第三四号(二〇〇三年)六〇
右之趣奉願上侯者、喜連川漣光院AQ若キ長老被参後任こ相成皮之趣被申侯こ付、何れ村方江相談仕御挨拶可任侠
間、先御帰り可相成与申'右二付正月廿二日こ村方不残参会相談任侠所、年若之僧与申両者出世好致永住茂無御座
候こ付、寺相続茂次二相成可申之由こ而'先々住弟子徳翁和尚二位侯ハ,、年来之僧こ御座候こ付永住茂有之侯得者
寺相続可仕慎二付'此仁こ仕度趣相談侯'其節九兵衛罷出不申侯'依之小前.AQ私方江相願右相談之趣九兵衛方江
相咽呉侯様こ申侯こ付相咽侯所、九兵衛申様二者徳翁和尚与申両者不得心之趣彼是申侯、又侯漣光院被参侯ハ、、
其節参会ヲ付色々衆知上こ致侯棟申侯こ付、正月廿九日漣光院御出被成侯而後任之儀世話致皮御咽二付'其節小
前迄不残歌集相談仕候処、九兵衛壱人承知不任侠処、善哉与申者不得心之俵を尤こ申、右住持之義為見合可申与
申侯、村方二両者住専こ仕度侯二付、善蔵申事不暴知にて参会之場罷立申侯、其後往還之御用こ村中罷出侯先こ而、
右之僧住職こ仕度趣五人組頭江内職御座供与申'私共方江東共参り其節漣光院私共こ被申侯者、随分右之僧宜仁こ
御座候間世話仕可申侯、併大勢希知仕九兵衛方不承知侯ハ,.、組演藤右衛門相頼九兵衛方江相談為致'双方共こ
納得致侯棟こ申侯こ付'藤右衛門相談仕侯待共'彼是之義申泉知不任侠'依之右之訳合相咽侯所村方内参会仕'
惣代治右衛門参り申侯こ者、右相談仕侯徳翁和尚弥後任こ御願被成下侯様申出侯、又侯九兵衛藤右衛門呼寄'右
之趣及相談こ侯所、九兵衛申侯様l喜、大勢得心之義こ御座候ハ、御頼被成侯与申、・手前義者寺ヲ取替可申与申候'
依之私共相談仕惣代こ申開侯二者、九兵衛申義大勢江申開何れ為見合可申与申侯得共、大勢之者共承知茂無御座申(ママ)出侯こ付、依之致方無御座候問、九兵衛呼寄村方之者右之僧無是悲住持二願呉侯様申出侯、依之本寺成高寺江罷
出侯節'願書印形者如何与相尋侯所、九兵衛申候二者⁚帰依不致寺替致侯存寄之上者印形不仕与申侯、本尊江罷出
侯節右之訳
ケ合
具二相職侯所'本寺二而茂右之 倍 音 洞 源
専任職こ茂相 応 可
有之段被申開候'乍
併二月中成高専江錘光院被参侯
こ付
'相談之上願昏差上可申侯与申 侯 二 付 、
其節私共本寺 江罷
出本寺納得之上願書
寺社御役所江差上侯処'御役人様被仰開侯こ者帰依不致者有之侯而ハ納得被申二者無之趣被仰侯t依之本寺こ而一統納得為致願審差
出侯様被仰付'私共本寺江罷越右之談合相咽侯処'光明寺放浪仕侯得共九兵衛申侯二者御僧之未着御談合被成
侯ハ、暴知可任侠'併村役人二而諸色取極メ侯処、村方ム取極メ押願任侠こ付、村方JJQ無口之証文差出候ハ,承
知可任侠由二九兵衛申侯、村方JQ光明寺江参り侯節'右之趣光明寺こ被申侯'依之村方内参会仕頭百姓惣代九兵
衛方江参り対談致侯所'右之趣相違無御座候こ付'此上組頭こ不相尋供与相断'九兵衛組頭役之義退役之御願被
成下様二申侯'依之私共御支配様江口上二両奉中上侯処t.内済之趣被仰付候こ付罷帰り右之段申開候'然処私
共江無是悲奉厭上県侯様こ申侯、私共右被仰付侯趣御座候待者'其段差押江申侯所承知不仕無是悲以惣代奉申(13)上侯儀二御座候'何卒以御慈悲村方我等相納り侯様t.被為仰付被下置侯ハ、'姓有仕合こ奉存侯'・以上
この記述をもとに、当一件の経緯をまとめてみると以下のようになろう。当一件の前年に洞源寺住持が没したため'
塩谷郡喜連川氏領周にある同宗の漣光院から'若い長老を洞源寺の後任にしたいとの依頼が村方へ持ち込まれた。そ
こで村では検討のための会合がもたれたが'漣光院側の言う若い長老よりも洞源寺の先々代住持の弟子であった徳翁
和尚を住持にするのが相応しいとして、村方の意向を固めたという。ところが、この時外出中で寄合に居合わせてい
なかった組頭の1人九兵衛は、徳翁和尚では「不得心」と異を唱えた'というのである。庄屋らは、当初の会合が「村方不残参会相談」であるとして決定に従わない九兵衛らを糾弾したが'頭首姓の一人善哉も九兵衛に同調'「住持
之義為見合可申」と主張し'庄屋・組頭・小前らと意見を対立させることになったのである。庄屋らの意を受け'組
頭藤右衛門が九兵衛を説得するに及んだが変わらず'九兵衛はついには「寺ヲ取替」えるとまで主張した。そのため'
再び九兵衛と交渉し'村方では徳翁を住持にしたい旨を伝えたが、洞源寺の本寺成高寺への願香への捺印については、
九兵衛は「帰依不致寺替致侯存寄之上着印形不仕」と答え、捺印を拒否したという。この後、成高寺も納得の上で寺
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