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「白痴の使徒」エドワード・セガンの生涯

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(1)

奈良教育大学学術リポジトリNEAR

「白痴の使徒」エドワード・セガンの生涯

著者 津曲 裕次

雑誌名 奈良教育大学紀要. 人文・社会科学

巻 17

号 1

ページ 279‑298

発行年 1969‑02‑28

その他のタイトル A REVIEW OF THE LIFE OF DR. EDOUARD O. SEGUIN 

― THE APOSTLE OF IDIOTS

URL http://hdl.handle.net/10105/3191

(2)

圏fii,

「白痴の使徒」エドワード・セガンの生涯

:! ,'! ' i‑:

(障害児学教室)

I は じ め に

本論は、精神薄弱教育史研究の欠くことのできない「人物研究」のひとつであり、白痴の使徒

(1)

rapotre des idiotsと称せられるエドワード・0・セガン研究の一部である。

私は、ここ数年、精神薄弱教育研究の方法論のひとつとしての歴史的研究法の考察を続けてき

(2〕

た。この一連の研究の中から私自身が納得し得たことは、従来のいわゆる心理学的、病理学知見 もまた歴史的事実であること、したがって、このような知見も含む、 「精神薄弱問題が、どのよ

(3)

うな歴史的状況のもとに成立し、現在に至ったかということの研究」が精神薄弱教育史研究の課 題である、ということであった。その故にこそ、精神薄弱教育研究の研究方法のひとつとして、

歴史的研究法が欠くことのできないアプロ‑チとなるのである。

精神薄弱教育史研究のプロセスでいえば、まだ、具体的な手順が明らかにされないままに残さ れているが、その手順、史料の範囲、史料検討の問題点を明らかにするためにも、これまでの研 究を足場にして、具体的な史料をもとに、実質的な精神薄弱教育史の組み立てに入る時が来たよ

うに考えている。

以上のような段階にある精神薄弱教育史研究の現状において、新たに精神薄弱教育史を構成し ていくには、大きく、次のような二つの窓口があるように思う。ひとつには、従来の精神薄弱教 育史を手がかりにして、あらためて「歴史」を洗いなおす方法であり、ひとつには、史料、方法 の全く新しい観点から「歴史」を書く方法である。前者のアプロ‑チほ、従来の歴史の枠をなか なか打ち破れないという困難があり、後者のそれは、精神薄弱教育史における歴史観、史料への 一接近、検討を含む方法論が確立していなければならないという因難さを持ちつつ、いろいろな試

XI

みがなされている。私自身も、究極的には、この窓口から歴史を書こうとして研究を続けている が一方では、前者の作業も必要であると考えている。

精神薄弱教育史研究の先人達が、非常な努力のもとに積み上げてきた史実をもとに、新しい歴 史を書く仕事こそ、我々の責任でもあろうO本論からつづく一連の研究は、このような意図のもと に、白痴の使徒として、精神薄弱教育の源とも考えられているセガンを取り上げる。これまでも

(5〕

精神薄弱教育史と名のつく研究において、セガンが登場して来ない研究はない。それにもかかわ らず、考察の過程で明らかにするように、いまだに知られていない面や、あやまり伝えられている 面も多い。むしろ、有名でありすぎるが故に、セガンの人間としての全体像がぼやけ、ひいては、

精神薄弱教育におけるセガンの位置づけがしっかりとしたものとなっていないのが現状である。

こうした問題意識のもとに、私は、尊敬する研究仲間である東京教育大学大学院の清水寛、松

(6)

夫勝宏の両君との共同研究として、一連のセガン研究に着手した。この研究は、冒頭に述べたよ

うに、精神薄弱教育研究の一部としての歴史研究である。しかし、研究の力点からいえば、どち

らかといえば、人物研究としての色彩が濃い。したがって、本論を中心とするセガン研究の段階

(3)

280 「白痴の使徒」ェドワード・セガンの生涯(津曲)

では、セガンの人物及びその恩想の基盤を明らかにすることを主たるねらいとしている。

この研究のねらいからして、本研究はかなり長期間にわたることは当然予想しているが、その ステップとしてはおおよそ次のような段階が考えられる。まず、今後の研究の土台ともなり、共 同研究者の共通理解のためにも、セガンの生涯をできるだけ事実にもとずいて忠実に再現するこ とである。彼が生れ、育ち、活躍した時代は、フランス革命の動揺がいまだおさまらず、ナポレ オンの盛衰を眼のあたりにみる波乱のフランスであった。その故もあって、彼の生涯でいまだに 知られていない時期もあるし、彼もまた時代の児として、革命からルイ・ナポレオンの台頭に至

る時期には、どのようにして生きていたかということが明らかにされているとはいえない。白痴 教育もまた、このような時代の産物だったのであり、それを荷うものとしてのセガンのこの時代 の生き方が明らかにされなければ、彼の白痴教育の実践、その思想を正しく評価することはでき ない。また、このことは、彼のアメリカ移住後の生活においても然りである。

つづいての作業は、セガンの実践、恩憩を正しく考察するために、彼の白痴教育の実践を明る みに出し、彼の思想を荷う著作、文献を消化することである。まさに奇妙なことであるが、セガ

ンの白痴教育家の名声にくらべて、彼が具体的にどのような白痴教育の実践をおこなったかとい うことはほとんど知られていない。勿論、革命にひきつづく動乱の時期の彼の白痴教育の有様を 具体的に現在に伝えてくれる史料が現在において、どの程度利用できるかということは、私自身

も疑問に思っているが、彼の数すくない著作、論文のたぐいもほとんど紹介されないままになっ ているのは、なんともうなずけないことである。したがって、今なされねばならぬ作業は、この ような文献、論文をはりおこし、手に入れて、出来れば翻訳を含む、紹介の作業である。

そして、順序としては、上述の二つの作業を基盤として、セガンの教育実践、思想を、精神薄 弱教育史の中で評価し、位置づけるということになるであろう。

勿論、ここでのべた研究のステップは、あくまでも図式的な段階であって、この順序を追って 進められなければならないとは考えていない。すでに文献、論文の発掘、紹介の作業はすすんで いるし、セガンの教育方法を現在の精神薄弱教育史の中におさえる試みもなされている。しかし ながら、私たちは、セガン研究の現代的意義を常に確認しながら、着実に研究の段階をおってい

(7)

こうと考えている。

さて、本論は、上述のセガン研究の構想の中で、その第一段階として、セガンの生涯を明らか にしてみようという試みである。したがって、ここでの究極の目的は、セガンの生涯をできるだ け事実にもとずいて忠実に再現してみようということにあるが、学術研究という観点からみれば、

単に、ある人物の生涯を年代を追って記述するだけというのでは、こうした取り上げ方は問題が

あるということもあらかじめお断りしておかねばならない。私たち、教育史の研究者が、ある人

物を対象とした人物研究をするのは、その人物が、教育の流れのうえに、なんらかの意味をもっ

ているからであると思う。したがって、その人物の教育史上の位置づけの作業において、人物研

究が必要となってくる。その場合、その人物の生涯をたどるという仕事は、そうした研究のため

の基礎的な作業とはなるが、研究そのものとはいえない。しかし、すでに、ある一定の評価がな

されている人物でも、もし、その人の生きてきた事実があいまいなままに、教育史上の評価がな

されているとしたら、その人の研究のためには、あらためて、その生涯から洗いなおしていくこ

とが必要となってくる。常に事実を大切にし、史料相互の内的関連のもとにある法則性をみちび

きだそうとする歴史研究者の立場からすれば、その人物の生活を規定してきた要因、過程を知る

ことなくして、その人物の評価はできないからである。

(4)

「白痴の使徒」ェドワ‑ド・セガンの生涯(津曲) 281

考察の過程で明らかにするように、セガンもまた後者のような場合にあてはまる。まず、彼の 生涯で不明の点がかなりあるのに加えて、現在知られている事実にも、年代、解釈のうえで異説 が多いこと、精神薄弱教育史の上における彼の高い評価にもかかわらず、彼の具体的な教育実践、

論文、著作の類がほとんど紹介されていないことがこの研究の出発点である。故に、ここでは、

単にセガンの生涯を忠実に再現するという枠をこえて、異説を整理し、空自を埋め、セガン研究 の一環として、後につづく研究の土台にしたいと考えている。

したがって、本論は、セガンの生きた時代に沿って構成されている。しかも、上述の研究のね らいから、かなり註の多い論文となった。異説及び今後の問題点は註にまわし、本文は、できる だけ読みやすいようにと心がけたが、意の通りになったかどうかはうたがわしい。本論が、精神 薄弱教育史に対して、いささかなりとも貢献し、研究者、教師、学生諸兄姉の関心をよぶことが

できれば幸いである。

Ⅱ エドワード・セガンの生涯

1 フランス時代 (1812‑1850) (1)少年時代とセガンの受けた教育

(8)

エドワード・0・セガンEdouard Onesimus Segumは、 1812年1月20日、フランスのニヴユ ェレNiebre州、クラムシーClamecyで、代々医業を業とする家に生れた。時、あたかも、ナポ レオンが大陸封鎖政策を取ってイギリスを屈服させようとやっきになっている時であり、その命 にしたがわないロシアと戦いをかまえようとしていた。セガンが生れたその年の5月、ナポレオ ンはロシアに攻め入り、栄光から破滅への道をたどりはじめていたのである。

セガンの家族、兄弟については知るところはないが、父、 T.O.セガンもまた、当地方の有名な 医師であった。しかも、彼は医学の修業時代には、 「アベロンの野生児」の教育的実験によって、

(9)

白痴教育の先騒者となった、イタール、 Itard. J. M と友人であったという。

彼の少年時代の生活及び教育についても、あまりわかっていないが、高名な医家の子どもとし て、当時の上流階級の子埠がそうであったように、家庭での教育を中心に、当時の進歩的な教育 を受けて、その少年時代を過したもののようである。

(ll)

当時のフランスでの教育事情は、フランス革命の際の「教育の理論期」を経て、ナポレオンが

(12)

組織的、中央集権的な統一学校制度を作りあげようとしていた。しかし、 19世紀のフランスの教

(13)

育制度は,基本的には、 「一種の複線型」であった。下層及び中層階級の子弟は、幼稚園、小学 校、高等小学校を進み、卒業して就職するものと、そこから、商業、工業、農業等の専門学校へ 進んだ。これに対して、上流階級の子弟は、家庭で家庭教師についたり、予備学校に通ったりし

C")

て、少年時代をすごし、伝統的な中等教育機関であるリセ‑ Lyceeを通って大学に進学してい

っ・>‑、

セガンもまた、ブルガンディ Burgundy地方の有名な医師の家庭で、早くから知的雰意気の

(15)

中で育てられたO彼は、後に、幼い頃の生活の一部を次のように回想している。

「私の幼い時の記憶にまちがいがなければ、この本〔Emiie〕の影響はたい‑ん大きく、

両親、特に父親たちは、自分の子どもたちにおとらず、この本の示す、自然の教授法、 this

mode of informol teachingに興味を示した。私たち、 pitts Bourguignousは、父親が、その

(5)

282 「白痴の使徒」ェドワード・セガンの生涯(津

手で、壁の上におおかみやうさぎや、ベンチに腰をかけている大工さんの姿などの影絵を作っ てみせると、それを真似てみようとした。また、私たちは、父のまねをして、ドミノの牌で、

ゆらゆら揺れ動く塔をつくったり、トランプのカードで兵士たちのテント兵舎を作ったりしたO また、折紙を使って、ひよこや家屋やノアの箱舟や空憩的な飛行機の編隊を作ったりもした。

切紙細工では、財布、物差、掛物、フリル、王冠などができた。また、あんずやさくらんぼの しんでバスケットを作ったり、首かざりを作ることをおそわった。どんぐりや西洋とちの木の 実からはグロテスクな怪物をつくったり、メロンの実でカップや花ぴんを作ることも習ったも のである。

幼稚園でも自然に親しむ教育がおこなわれた。私たちは、春になると、柳の木の皮をほいで 弁をつけ、ふたたびはりあわせて笛をつくり、音をだすことを学んだ。夏には、背の高いライ 麦の茎をきって、道端のさんざしの木の下で、茎のあつみに沿って、ライ麦の茎をさき、笛を つくって、帰り道でみんなで合奏して野の小鳥をおどろかしたものだった。

家にかえれば、そこでも、子どもらしい考えをあれこれと、めぐらしてあそんだ。例えば、

桶のたがを締め直すのだといっては、かえって桶をばらばらにしてしまったり、学校で使う教 科書を持ちやすくするのだといって、本のカバーを破ってしまったりしたO このような生活の

(16)

中で、私たちは、いろいろな道具の使い方を学び、ひいては手先きの器用さを増していった。 」 引用が長くなったが、ここに、セガンのこどもの時代の生活の一端をうかがうことができる。

彼もまた、時代の児として、ルソーの強い影響のもとに、 「子どもの自主的能力や自発的活動を

(17〕

基礎として、生活のなかで事物と経験をとおして教育され」たのであった。長ずるにしたがって、

科学にめざめ、社会に関心をもつに至った根源が、この時代の彼の教育にあったようにも思われ

'J.‑

(2)セガンと中等教育

少年時代を親元ですごしたセガンは、青年期に達すると、中等教育をうけるために、都会 に行く。彼は、そこで、オグジェーレとセント・ルイスのリセ‑、 Lycee Auxere et

(18)

Lycee St.Louisに学ぶ。

セガンが、これらの学校で、具体的にどのような教育を受けたかということについては、今の ところなんの資料もない。但し、フランスの中等教育自体が、次に述べるように、制度的にも、

内容的にもひとつのまがり角に来ていた時期であったことはたしかである。

前にものべたように、ナポレオンの教育政策の重点は、高等教育、中等教育へむけられていた。

中等教育に関していえば、ナポレオンが総督Consulat時代の1802年に公布した教育令で、リセ ーを国庫によって支持される中等学校と規定している。これが、 1808年の帝国大学に関する法律 では、リセ‑を官立の中等学校、コレージュを公私立の中学校として位置づけ、 1809年には、リ

セ‑の修業年限を5年ときめた。しかし、 1814年の王政復古によって、リセーの名称は国立コレ

(20)

ージュと改められ、修業年限が7年に延長された。そして、再び、 1847年、七月王国の政府によ

rail

って、リセ‑の名称に復したのである。

(22)

セガンが、リセー(コレージュ)に進学したのは、 1820年ごろと推定されるから、丁度、上述

の制度上の改革のまっただなかであった。しかも、その改革の方向は、制度上の中央集権化にと

どまらず、フランス革命の影響で、いちどは近代的なよそおいを持った教育の内容、カリキュラ

ムも、古典中心の内容へ運行しつつある時期であった。

(6)

「白痴の使徒」ェドワード・セ の生涯(津曲) 283

「ナポレオン帝政からルイ十八倍の王政復古‑‑・は、反動を強化しながら、ブルジョアジ‑の 成長をより確かなものにした ‑O ただ、ブルジョアジーの教会、貴族、地主に対する政治上、

経済上のなれあいは、教育を含む文化領域に、一層の反動的勢力のくいいる余地をあたえている

・‑‑。これまでも公立中等学校は、宗派的傾向および宗教教授を排除してきたにもかかわらず、

各司教は各管区内の教育上の監督権を獲得しI.・‑、さらに、ラテン語教授の復活がか)キュラム の保守的な動向を端的に表明している1921年の『王政復古の教育憲章』が、当時のカリキュラム

(23)

の大筋を規制したが、そこでは、科学的な教科の軽視がいちじるしい。 」

当時のリセーは、普通は、全寮制で、古典語、文学、論理学、数学、科学とわずかの近代語が おしえられた.ナポレオンは、公、私立をとわず、コレージュやリセ‑の制度の確立に努力、数

(24;

年問に400校以上の開設や再開をもたらしたという。

セガンがうけた中等教育の状態は、まさにこのようであった。憶測をくわえることを許してい ただければ、少年時代に自由な教育を受けたセガンが、反動の傾向を強めていく中等教育の中で、

何をかんがえたであろうか。しかも、当時のパリは、フランス革命後の新旧の思想のるつぼであ った。また、世界の文明の中心として、思想の上でも、科学、芸術、文学の上でも、すべてのも のが動いてやまない時代だったのである。

私たちの手元の資料では十分に解きあかすことはできないけれども、中等教育につづく医学生 の時代を含めて、セガンのパリでの生活が、彼の思想の形成に大いなる影響を与えたことはまち がいはないであろう。

(5)医学の修業と白痴教育への接近

セガンは、上述の中等教育を修了したあと、医学校Medical Sc上IOOiで医学Medicineと外科学 Surgeryを学んだO

フランス革命以前には、医師になろうとする者は、高名な医師に弟子入りしたり、ツ‑ルーズ大 学など伝統ある大学の医学科で学ぶ遠を取った。なお、 ‑流の医師を目指す者は、モンペリエの

(25)

医科大学を目指した。これに対して、革命後は、各種の高等教育機関と並んで、医師養成機関と して、医学校Medical Schoolが設立された。 1794年1月16日から1795年10月22日にかけてのこ

(26)

とであるO最初の医学校School of Healthが構想されたのも、革命直後の1795年12月4日のこ

・こ27)

とである。ナポレオンは、政権につくと、これらの高等教育機関の統一をはかり、リセ一につづく 大学レベルUniversity Levelの各種の学校の新設、整備をはかった。医師養成機関でいえば、す

(28)

でに存在したSchool of Healthにかえて、医学校Medical Schoolが3校新設されたのであるC セガンが学んだ医学校が、これらの学校のいずれであるかばさだかでないけれども、高名な医 師の息子として、医師になるためのオ‑ソドックスなコースを歩んでいたようである。

そして、彼は、医学校での学業をつづけるかたわら、当時の二人の高名な医師、イクールとエ

し2g)

スキロールに私淑していたらしい。

イク‑ルは、すでに、白痴教育には直接関係せず、当時は、耳科学の研究に精進していたOが、

彼は、セガンの父とは医学の修業時代の同輩fellow studentであったことから、セガンと面識が あったもののようである。

ある時、イタールは、彼のアベロンの野生児の教育の実績を知る人から、 1人の白痴の子ども

の教育を依頼された。しかし、すでに、白痴教育から手をひいていたイタ‑ルは、自らその白痴

児の教育にあたることはことわったが、もし、だれかそれをひきうける人があれば、自らの経験

(7)

284 「白痴の使徒」ェドワ‑ド・セガンの生涯(津曲)

を教えるであろうとのべた。そして、彼自身、セガンをその適任者としてすいせんし、二人で共 同して、その白痴児の教育にあたろうと申し出た。その当時、セガンが、白痴の問題にどの程度 の知識があったかは、医学生時代の記録がないので不明であるが、彼は、尊敬すべき医学界の大

蝣(30)

先達、イタ‑ルと一緒に仕事ができる絶好の枚会であるとして、この申し出をうけた。これが、

(31)

おそらく1937年の彼の白痴教育への最初の取り組みであった。セガンは25才、順当にいっていれ ば、医学校を卒業した年であり、彼のはじめての仕事である。

当時のフランスにおいて、白痴はもっぱら精神病者の中であつかわれていた。そして、その取 り扱いは、安田徳太郎氏の表現をかりるならば、次のようであった。

「中世以来、狂人はデモノマニアとして悪魔に加盟した宗教的犯罪人と観ぜられた。 ‑・‑彼等 は監獄にぶちこまれ、鉄の鎖でしぼられて、暗いきたない鑑の中で非人道的な待遇を受けていた。

物見高い世人は域療院におしかけて看守にお金を支払って艦の中の狂人を見物し、彼等に罵倒と 靭笑を浴せかけた。狂人の不幸は世人の気晴しの対象でしかなかったのである。 17世紀から18世 紀にかけていろんな人が時々この悲しい状態に眉をひそめ、その改革を警告したが、彼等の声は 何等の反響もよばなかった。ロンドンのベトラムとバリーのビセ‑トルはその代表的なものであ

C32)

った。」

しかし、自由、平等、博愛を旗印とするフランス革命の政治的、思想的潮流は、いつまでも、

このような悲惨な状態をそのままにしておくことはなかった。 「1785年、狂人待遇の改善に関す るコロンビ工の論文がはじめて現れた。・‑‑『数千の狂人が最少の薬の処方もなしに狂人の家には うりこまれている。 ・‑‑自然が彼等を治すために救いにやって来なければ、結局彼等の病気の終 局は彼等の生命の終局である。不幸にもこの日まで病気はよくなるどころかみんな悪くなるばか りである。 』この論文は‑・‑啓蒙された一般の注意をひきつけ、ルイ十六健は同年、ロテル・デ ューの病院改革案を承認するまでになった。狂人待遇の改革はユーマニテの運動として一つの与 論にまで発展しはじめた。 1788年ミラボ‑ほ『イギリス旅行者のビセートルとよぶ監獄の見聞

(33)

記。 』といふ小冊子を発表して、狂人に対する取扱ひの不名誉を列挙した。 ‑‑・」

憲法修正議会では、ラ・ロシュフーコーが病院改革を要求し、 1793年8月25日、フィリップ、

(34)

ピネルPinel, Pをビセ‑トル精神病院の院長に任命して、その任務をたくしたO

ピネルは、着任後、数日間に53人の狂人を鉄の鎖から解放した。 「狂人はピネルの温い手によ ってはじめて猛獣から人間になった。悪魔つきとして迫害された狂人ははじめて病人として人間 的治療の対象となった。この瞬間に精神病は宗教から解放されて科学としての一歩を踏みはじめ

(35)

た。 」

このようにして、精神病者の待遇及び、新しい治療法は、ピネルらの献身によって、新しい道 をきりひらきつつあったが、白痴Idioticに関しては、治療も教育も不可能であるという見解が 一般的であった。 18世紀末から、 19世紀初頭にかけてのアベロンの野生児の教育の問題をめぐっ

ての、ピネルやエスキロールとイタールの論争も、この野生児が白痴であるかどうかというポイ ントが問題なのであって、もし、この野生児が白痴であると診断されるならば、教育の対象とは

(36)

ならないということは、お互いの共通の見解であった。

セガンは、このような一般的風潮の中で、どのように考えて白痴教育にとりくむようになった かということは、まだよくわかっていない。ただ、彼は、後に次のようにいっている。

「医学の進歩が、白痴を治療できるようになるのをまつのではなく,すでに聾教育や盲教育

(37)

の教師達がやっているように、白痴児達にも、教育の恩恵をこうむらせてやることなのだ。 」

(8)

「白痴の使徒」ェドワ‑ド・セガン Liや<[い. 285

1837年、イタールと共同して1人の白痴児の教育に着手したセガンは、イタ‑ルのアヴェロン の野生児の教育の実験をくわしく調べた。この実験は、一見して失敗におわったかのように見え

るが、セガンはその中から次のような結論を得た。

(38)

「白痴Idiocyは、脳又は神経組織の欠陥又は異常の結果なのではなくて、いろいろな原因 によって、また、いろいろな形態で、出生の前、または後にひきおこされる精神発達の停止、

an arrest of mental developmentである。したがって、この停止した精神発達は適切な処遇 treatment によって克服することができるし、最高の知的水準にまでというわけにはいかない

(39)

けれども、社会生活や日常生活をおくることはできるようになる。 」

イタ‑ルが、セガンのこのような考え方に賛成したかどうかはわからないけれども、セガンは、

ma

イタールの経験とその感覚訓練の方法を学びながら、白痴児の教育にたずさわり、後に、セガン の生理学的教育法とよばれる方法をあみだしていった。

イタ←ルは、セガンと一緒に、白痴教育にたずさわったのはわずか1年で、 1838年に帰らぬ人 となる。このあと、セガンは、エスキロールを自分の批判者、忠告者、支持者として、 1人で白

〔41)

痴児の教育をつづけていた。

(4)白痴教育者としての名声とビセートルヘの招待

前述のように、当時の医師、教師の問において、白痴に対する治療、教育に対しては、それを 不可能であり、無意味であるとする考え方が一般的であった。しかし、こうしたたてまえのもと ではあったが、白痴を治療し、教育しようという試みは、イタールのアベロンの野生児の教育実 験は別にしても、歴史の巾から散発的におこっていた。この間の事情は、まだ十分には確かめら れてはいないけれども、従来より知られている、特にフランスでの、白痴のも教育、の試みを整 理すると次のようである。

まず、すでにある程度の実績をあげていた、特殊教育の先達である、聾教育や盲教育において 白痴の教育が試みられていた。具体的な内容は何もわかっていないが、バリーやクローニンゲン、

(42)

あるいはボルドーの聾唖学校では、かなり早くから白痴を教育した記録があるという。

ついで、ビセートル、サルペトリエール両精神病院での一連の白痴教育の試みがあった1828

(43一

年、ビセ‑トルでは、フエラス博士、 Dr. A. Ferrusが、白痴達をひとつの病棟にあつめ、そこ

(44)

で、数人の白痴を選んで、読み書き、清潔の習慣、秩序等をおしえた。論者によれば、これが、

(45)

精神薄弱の教育訓練の施設としての最初のものであるという。

(46

フエラス博士は、 1831年には、ヴアザン博士Dr. A. F. Voisin と一緒に仕事をしていた。ヴ

(47)      (48)

アザン博士は、 1834年にイツシイIsayに白痴児の治療教育施設をつくり、そこで、みずから、

医学的、衛生的、生理的指導をおこなった。しかし、その試みも目立った成果はみせず、長つづ

(48)

きせずに中断された。

フエラス博士は、 1835年に政府の精神衛生監督官となってビセ‑トルを離れる。このあとの数

(50)

年のビセートルの状態は不明であるが、 1839年、ヴアザン博士がビセートルに招かれて、フエラ

(51)

ス博士の仕事をひきついだ。その頃には、彼は、白痴教育者として「名声赫々」たるものがあっ たようである。

(52)

一方、当時パリ郊外にあってビセートルと並ぶ精神病院であったサルペトリェ‑ルSalpetriere

(53)

でも、白痴への教育的試みが進行していた1831年3月30日、フアルレ博士、 Dr. Falretが女子

の白痴を集めた病棟を新設し、教育と訓練を試みた。しかしながら、ここでもその成果ははとん

(9)

286 「白痴の使徒」ェドワ‑ド・セガンの生涯(津曲)

C54)

どみられず、見学者達の報告によれば、全く死んだような施設であったという。

セガンが白痴教育にとりくんだのは、まさに、このような時期であった。彼は、白痴教育‑の 考えと方法をはっきりと意識することによって、それまでの試みにみられなかった成果をあげた。

(55)

彼の白痴教育の成果は多くの人々の注目をあつめた。一般の人々には毎奇蹟、とさえうつつたし、

専門家達も大いなる関心を示した。

セガンの白痴教育の試みに対する批判者でもあり、協力者でもあった、エスキロールは、ギエ ルサンGuersantと共に、セガンが教育した白痴の少年を調査したO そして、 1839年8月18日、

次のような宣誓口述書をアカデミーに提出して、セガンが、このも白痴に近い少年、の教育に成 功し、同時に、教育そのものに大きな貢献をしたと称賛している。

「私たちは、ニヴェエレ州クラムシ‑生れのエドワード・セガン氏が、ほとんど聾にちかく、

また、知的、遺徳的働きの発達が遅滞しているという点からいえば、白痴にちかい1人の少年 の教育に完全に成功していることを報告できることを喜ぶ。この18カ月において、セガン氏は、

この少年に、感覚の使用、記憶、言語、書き方、計算等をおしえることができた。

セガン氏によっておこなわれたこの教育は、彼が指導をうけた故イタール博士の教育方法か ら出てはいるが、それに加えて、セガン氏の人柄、広い知識が、従来の知られている教育方法 をあらゆる望ましい方向に発達させることができたのである。

(56)

パリ、 1839.8.18.       署名」

ここでの引用文からもわかるように、セガンの最初の白痴教育においても、白痴の教育可能性 は疑問とされていたO エスキロール自身、この報告書において、この少年を白痴、 idiotとは断定 せずに、 un enfant semblable a un idiotとぼかすことによって、自分の立場を守ったので

(57)

ある。

1839年、セガンは、この実績をもとに、前述のサルペトリエールの精神病院the Hospice des

(サ8)      (59)

Incurableで白痴教育の実験学級を開くことを許されたo 彼は、ここで、エスキロールたちの支 援のもとに、 1841年、 1842年と10人の白痴児を対象に、彼のそれまでの考えをもとにした白痴教

(60)

育を試みたO この実験こそ、エスキロールを含めて、当時の多くの人々の考えである白痴教育不 可能論への挑戦であった。

このサルペトリエールでの教育の具体的な内容については、まだよくわかっていないが、とに かく、ここでの教育もこれまでにみられなかった成果をあげ、白痴児もまた、教育の対象となり うることを示した。この成功に対して、パリ市の病院運営審議会 the adminitrative council of hospitalは、セガンの業績を検討する委員会をつくった。この、医学部のオルフイラ学部長、

Dean Orfilaを長とする委員会は、 1842年10月12日の病院運営審議会の席上で、次のような調査 結果を発表した。

(61)

一、セガン氏は、サルペトリエールの不治院で、精神の未発達で、しかも秩序、規律、従順、

朕、働く習慣、読み書き計算の知識のいずれもがほとんどない子どもの教育に成果をあげて

い'.0‑蝣

二、セガン氏は、サルペトリエールで成功裡に継続中の白痴に対する教育的実験を更に発展さ せるために、ビセ‑トルに招かれるべきであることO 但し,その期限は1843年末までにとす

る。

三、サルペトリエールの院長及び医師達は、セガン氏によって発展せられた白痴教育の方法を

(10)

「白痴の使徒」エドワード・セガンの生涯(津曲)

同院において、ひきつづき維持し、発展させていくべきこと

0

̲r.い

287

かくて、セガンは、前述のヴアザン博士の仲介もあって、 1842年、ビセートルの精神病院にま ねかれ、そこでの白痴児の教育をまかされることになる。

彼は、ビセートルで、 90人の児童を対象とする教育のプログラムを実施した。この事実は、セ ガンの教育方法が、基本的には個別教育方法であるといわれることが多いのに対して、ひとつの

(62)

問題点である。彼は、ここで、 1人の助手を相手にとほしい教材と設備を使って、いろいろな特 徴をもつ白痴児の教育にあたった。 1843年、 「白痴児の教育と衛生」 Hygiene et education des idiotsとしてまとめられたのが、この時の教育実践である。

このようなセガンの白痴教育での奮斗に対して、フランス政跡ま、あまり積極的な支援はしな かったようである。セガンに対して、その教育実践の場と、対象児をあてがっただけで、給与に あたるものは支給しなかった。したがって、セガンは、ビセートルの教育実験で生活をたてるこ とはできずに、医師としての仕事をつづける一方、個人教授の形で白痴児を教えたり、また、あ とでのべるような、文筆活動で、自分と彼が世話をみている白痴児達の生計をたてていた。

このようにしててはじまったセガンの教育実験であったが、彼は、ビセートルに長くいること はできなかった。おそらく、 1843年のくれビセ‑トルをやめることになる,その主な理由は、セ ガンが、白痴児の教育に対しても、完全な自由を持てなかっただけでなく、病院の上層部と意見が あわなかったということらしい。セガンが、収容者の白痴に病院外の仕事をさせようとして、そ

(63)

れが病院当局に認められなかったという話も伝えられている。

セガンがビセートルを去ったあとは、ビセ‑トルでのセガンの協力者あったヴアレーM.Vallee によって、その仕事がひきつがれた。セガン自身は、前からつづけていた個人的な白痴教育の実 践と,あとにのべるような文筆活動に入る。

しかし、セガンのビセートルでの白痴教育の成功は更にセガンの名声を高めた。 1843年、彼の 業績をたたえる二つのレポートが出されているO

まず、セガンをビセ‑トルにむかえるのに力があったヴアザン博士は、 1843年、フランス王室 医学アカデミーthe French Royal Academy of Medicine の席上で、次のような報告書を読み

ち‑K‑>‑

(64)

「我々は、現在、ビセ‑トルにおける白痴教育にたずさわっているセガン氏について語らね ばならない。彼は、精力的な性格の持主で、才能があり、観察力に秀れ、そのすべての時間を つぎこんで、この子どもたちの教育にあたり、科学とヒューマニズムの両方に貢献しているO 彼は、これまでの白痴教育の成果について、 1838年に報告書を出しているが、ビセ‑トルの教

(65)

育についても報告している。これらを含めて、セガン氏の研究は、全くユニークなものである。

故に、私は、セガン氏がその生理学的な教育方法をもって、この時代に生きる人々の中で、抜

(66)

んでた存在になる日が、そう遠くはないと信じている。 」

同じく、 1843年12月11日セラスSerres、フローレンスFlourenc、パリセ Parisetからなる、

セガンの業績を調査する委員会が、アカデミーに対して、 「セガン氏は、慈善事業における全く 新しい分野を開拓した。彼は、衛生学、医学、倫理学の分野に見習うべき実践例を示した。我々 はセガン氏によって、当審議会theConncilにあてられた数々の報告に感謝するとともに、彼の

(67)

慈善的業績により一層のはげましをあたえるものである。 」という報告書を出した。

また、フランス科学アカデミーは、翌年の1844年、セガンの要請にこたえて、彼の10人の生徒

(11)

288 「白痴の使徒」ェドワード・セガンの生涯(津曲)

(67)

を調査し、セガンが、白痴教育におけるすべての問題を完全に解決したと宣言した。

こうして、セガンは、その後の彼の、いわゆる生理学的教育法の基礎を確立し、あわせて、白 痴の教育可能性に関する世論をつくりだした。セガン自身、彼に1842年と1844年のそれぞれのア

(67)

カデミーの報告書を「白痴学校の二つの礎石となった」とのべているO (5) ピセートル以後とセガンの影智

(68)

セガンがビセ‑トルを去ってからたずさわったという「私的教育実践」が、具体的にどのよう, なものであったかは、手持ちの資料でははっきりしない。考えられることは、すでにビセートル 時代もそうであったように、個人教授のような形で、白痴児(逮)の教育にたずさわっていたと いうことである。

このように、ビセ‑トル以後、彼自身の白痴教育は、それまでのような順当な発展はみられな くなるが、それからアメリカ亡命にいたる7年間ばかりは、それまでの白痴教育を集大成した著 作を出したり、いろいろな国からおとずれる人々を通して、白痴教育を国の内外にひろめたり、

また、政治的、経済的な分野での文筆活動等、きわめて興味のある時期である。

彼のこの時期の本債は、ビセ‑トルはもとより、彼の私的教育の場を訪れる人々や、彼の著書 を通して、白痴教育の可能性とその方法を国の内外にひろめたことであった。多くの関係者、知 名人、一般の人々がパリを訪れ、セガンの業績を世界中にばらまいた。すでに、その当時、スイ

(69)       (70)

スにおいてはグッケンビj̲‑ル Guggenbuhl、ドイツのベルリンにはゼ‑ゲルト Seagert らが、.

白痴の保護、教育をはじめていたが、その影響力の点では、セガンのそれに及ぶところではなか mm

アメリカにおいて、当時、マサチュセッツ州の牧師として、白痴問題をはじめとして、慈善事 業に深い関心を寄せていたサムヱル・メイ牧師 the Reverand Samuel J. Mayは、パリでの白 痴教育の成功を報じたニj̲‑スを読んで大変感激をした。彼は、後年、ニューヨーク州立白痴学 校の定礎式の祝辞で次のように回想している。 「私は、このニュースを聞くや、私といつも喜び

と悲しみをともにしている妻のもとへ走っていって、 『私の予言があたった。パリではすでに白

(71〕

痴が教育されているんだo』と叫んだo 」

また、オハイオ州のタウンゼント博士Dr. Townshendは、 1840年、パリで開かれた医学会に

(72)

出席する途中、セガンのもとを訪れたという。

(73)

アメリカ教育の父として知られているホレース・マンHorace Mannも、 1843年の欧州旅行の 際ビセートルを訪ねたという。

1846年、セガンは、それまでの白痴教育の実践をもとにして、白痴教育のねらいや方法をまと め、 「白痴及び遅退児の道徳的取扱い、衛生及び教育」 Traitment moral Hygiene et Education des Idiots et des autre Enfants arrieresを世に問うた。この本によって、セガンは、ヴアザン 博士の予言の通り、ますます世人の注目を集めた。

フランス科学アカデミーは、この本に対して賞を授けたし、時のローマ法王ピオ九位 Pope Pius IX は、自筆の手紙をおくってセガンの人類に対する貢献をたたえた。以来、この本は、

(75)

「白痴教育のマグナ・カルタ」とされている。

当時、パリに在住していたジョ‑ジ.サムナーGeorge Sumnerは、セガンの白痴教育にひと しおの関心を寄せていた。彼は、 1846年に、ビセートルをおとずれて見学をし、また、セガン白

(76)

身にも会っている。サムナ‑は、パリの白痴教育を、ハウSamuel G. Howeあての、 1847年2

(12)

「白痴の使徒」ェドワード・セガンの生涯(津曲) 289

月1日付の手紙で、その詳細を次のように書きおくっているO

「私は、この6カ月間、非常に熱心に、パリのセガン氏の学校やヴアザン氏とバレー氏のビセ

‑トルの白痴児たちの進歩を見守っている。私は、今、単なる驚き以上の、このうえもない感 激を味っている。そこでは、ほんのしばらく前までは、入間同志のコミニュケーションもなく、

人々から嫌悪と軽蔑の目でみられるのみであり、着物さえ受けつけず、中には足で立つことも できず、いざって歩いていた子ども達、あわれっぼくうめくだけが生きがいであった子ども、

話し言葉の全くない子ども達、手当り次第に飽くことなくなんでもロに入れるこども達‑こ のようなこども達が、今や、ちゃんとした着物をまとい、しっかりと立って歩き、話し、食卓 では仲間達と礼儀正しく食事をし、静かに大工仕事や農作業に従事し、自らの労働で生活費を 稼ぎ、お互いに本を読合って知識を貯え、教師や友人達への人間としての感情を培い、感謝の

(77)

祈りを合唱している。 」

(78)

サムナ‑は、当時、マサチュセッツ州で白痴学校設立運動を進めていた‑ウのために、セガン が基礎を作ったビセートルの白痴教育の実際をくわしく報告している。それによると、そこでは、

単なる事物の使用、言葉を通しての教育、知識偏重ではなく、運動を通しての訓練、感覚訓練、

関連性と系統性もった教え方がなされており、すべてセガンの方法に由来するものであった。教 師は1‑2人で、授業は朝の5時30分から夜の8時15分まで。毎日の授栄は、種々の特徴をもつ

〔79)

子どもたちの身体的、知的、社会的活動を中心にして組みたてられていた。

かくて、セガンの ヽ学校、やビセ‑トルを訪問する人々はひきもきらなかった1847年には、米 国のロード.アイランド州のレイ、コノリ‑両博士、マサチ.1セッツ州立精神病院のノ、ガード博 士があいついでビセ‑トルを訪れ、帰米後「同様の制度が、アメリカにおいても作られるべきで

(8〔I)

ある」と勧告している。同年、イギリスからも、社会事業家のアンドリュー・リード牧師Andrew

(81‑;

Resdがビセートルを訪ねている。アメリカのマサチュセッツ州では、 1848年、白痴教育の実験 学校を設立する時、その初代の教師として選ばれたリチャード James B. Richardは、パリ

(82)

のセガンのもとに派遣され、その実際を学ぶことからはじめた。

(83〕

後にニューヨーク州立白痴学校の校長となった、ウイルバー博士Dr. H. B. Wilburは、 1847 年、チエンバ‑ス・ジャーナルChambers Journal誌上で、パリにおけるセガンの白痴教育の訪

(84)

問記を読んだ。つづいて、彼は、英国のコノリー博士Dr. Conolly の専門家としてのビセ‑ト ルの訪問記をイギリスの医学誌で読んだ。そこで、ウイルバーは、自ら白痴教育を知ろうとして、

パリに白痴教育の文献を注文した。この時手に入った唯一の著書が、セガンの「白痴及び遅退児

(85)

の道徳的取扱い、衛生及び教育」であった。

(6)パリの政情とセガン

上述のように、白痴教育者としてのセガンの名声は、いまや確固たるものとなり、その限りで は順当な生活であったが、当時のパリの政情の中で、ビセ‑トルを去ったあとのセガンの生活は 波乱に富んでいた。彼は、ビセ‑トル時代も含めて、みずから稼いで、自分の家族と、自分が教え ている白痴達を養わなければならなかった。彼は、 1843年に1人息子のエドワード・コンスタン

(86)

ト・セガンEdouard Constant Seguinもうけている。そこでの彼の職業は、医師であったが、

(87)

一方では、文筆活動にも従事していた。

セガンの文筆活動については、まだわかっていないが、彼は、数年問にわたって、当時のパリ での有数な雑誌の美術評論art criticを担当する一方、政治、経済の問題に関しても熟むな寄稿

(871

家であったという。そして、彼は、この文筆活動を通して、フランス革命後の若きイデオローグ

(13)

290 蝣=tM3p3邑蚤 エドワード 二才ガンの生涯(津塾1

達の仲間となる。

彼が文筆をふるった時期のフランスは、 1830年の七月革命の崩壊につづく時代であった。 19位 紀の前半に進行した産業革命は、労働者階級をつくり出して社会構成の一員とし、人類の新しい 未来を示しつつあった。いわゆる「歴史的ローマン主義」はすでに過去のものとなり、人々は実 験科学の進歩、産業の発展によって、進歩への信念、幸福へ向って人類が絶えず上昇するという 信念をよみがえらせた。 「科学のロ‑マン主義に民族のロ‑マン主義が結合した。ブルジョワの 食欲を忌み嫌って‑・・・労働者たちに新しいフランスを期待した。ローマン派の大詩人たち、ラ・

マルティーヌやユゴーは、保守的な初期をすぎると民主々義的な党派へ向ったO ・‑・・・まさに偉大 な理論と偉大な希望の時代であるO即ち、フーリエ、カベ、サン・シモン、ブルドン‑‑・が、社 会主義と共産主義の様々な形態を提議する。 ・‑・・。サン・シモンは‑・‑産業主義学派を樹立した。

この学派は社会制度は最も貧しい階級の運命の改艮を目的とすべきだが、国家の改革は大いなる 事業の経験があるという理由で、産業人にゆだねらるべきだと主張した。サン・シモンは自由貿 易主義を信じ、流通の技術及び手段の発達による幸福を信じた。第二帝政はこの理論によって生 きるであろう。ローマン派の作家にとってと同様に、サン・シモン学派の産業人の眼には未来の

(88)

革命は行情的な発露のように映ずる。 」

まさに、これが、セガンが生活した時代の精神であった。彼の師イタールは、フランス大革命 期において"Citizen Itard,,を名乗っていたし、エスキロ‑ル、フロ‑レンスFlourens、ヴァザ

(89)

ン等、セガンと共に働いた人々の思想的基盤も、上記のサン・シモン主義の流れをくんでいた。

(90)

したがって、彼の白痴教育及び文筆活動にも、サン・シモン主義の思想が流れていた。

セガンは、文筆活動を通じて、当時の革命家、思想家達の仲間となる。その中には、ルドリュ

‑・ロ‑リンLedru Rollin、ピェ‑ル・レローPierre Leroux、ルイ・プランLouis Blanc、ミ ッシェル・シュバリエMichel Chevalier、フローレンス兄Eelder Flourens、ジャン・レイノー Jean Reynaudなどがおり、ヴィクトル・ユーゴーVictor Hugoも、年こそとっていたが同じ仲 間であったD これらの人々は、その後、政治家、文筆家、思想家として、それぞれに活躍する.

セガンは、この中で、もっとも若かったが、しかし、決して、他の人々にひけばとらなかった。

彼らの思想の基盤は、サン・シモンの恩想であったが、直接には、サン・シモンの後継者、ペー ル・アンファンティンPとre Enfantin とオリンデ・ロドリゲOlinde Rodrigueの政治、経済、

・911

恩想の影響を受けていた。

セガンは、これらの人々にまじって、かなりの活動もしたらしい。その立場から、 1848年、ル イ・ナポレオンが政権を奪取した時、セガンはフランスの前途に希望を失っていった。この間の 事情はよくわかっていないけれども、ルイが政権の座をめざす時、後に、ユーゴーが、奄大いな る罪GreatCrime、と叫んだ、ルイ.ナポレオンの危険性を、セガンはいち早く見ぬいていたの

C92;

であった。

当時のセガンは、ビセ‑トルをやめて、無官の身であると同時に、不安定な生活をおくってい た。前にのべたように、アメリカから、ウイルバーがセガンの著書を手に入れて、それを熟読し セガンに会いたいと、パリの友人にセガンの居所を問合せた。おそらく、 1847年か1848年のこと である。ところが、パリの友人の返事は、 「彼(セガン)はパリから姿を消した。今のところ彼

(92)

がどこに住んでいるか全くわからない。 」ということであった。この間、彼がどのような生活を

おくっていたかは、今もって不明であるが、民衆に囲まれて、革命の渦の中にいたという報告も

ある。とにかく、その後、セガンが、彼の運命を案ずる人々の前に姿を現すのは、それから数年

(14)

ドワード・セガンの生涯(津曲) 291

後おそらく、 1850年ごろ、海を隔てたアメリカであった。彼は、動乱のパリを逃れて、妻と7才 の息子コンスタンス・セガンを伴って、自由の国,アメリカへ亡命したのである。

2 アメリカ時代 (1850‑1882) (1)アメリカ移住と定住地を求めて

セガンがアメリカに亡命した年については多くの説がある。その代表的な説を紹介すれば次の ようである。

(93)       C94)

1846年とするもの‑・‑‑‑・高橋省己  1848年とするもの‑‑・‑・‑Lincoln. D.F.

(95)

1851年とするもの‑‑=・‑ Monroe.P  1852年らしいとするもの=‑‑‑Talbot.M.

このように、事実はひとつであるべき年代が、論者によっていろいろとなるのは、かかって, セガンの亡命の際の事情がLからしめるようであるO

後にウィルバー博士は、セガンがアメリカの友人達の前にあらわれたころを次のように回想し た。 「彼(セガン)が、我が国の港に上陸した時、だれも、彼を出むかえる人はいなかった。も し、彼がアメリカに来ると知っていたら、パリでの彼の業績を多少とも知っている人々が、あた たかく彼をむかえ、そして、この国でも彼が白痴教育をつづけるようにすすめたであろうもの

(96)

をO 」セガンは、誰にむかえられることもなくアメリカにやって来てー西部をめざし、オ‑イオ 州クリ‑ブランドにおちついた。 1850年か1851年のことである。そして、彼が、アメリカの友人

(96)

達の前に姿をあらわしたのは、彼が姿を消してから「4年後」のことであった。

このように、アメリカ亡命をはさむ数年問のブランクが、彼の移住の年をあいまいにしている。

目下の手がかりは、セガンの息子、コンスタンス・セガン氏の経歴で、彼が「七才の時父に連れ

(97)

られて‑‑‑」とあるのが唯一のものであり、これから逆算すると、 1850年又は1851年となる。

セガンは、こうした亡命時の事情もあって、すぐに白痴教育にはたずさわらなかった。その理 由は、 「自発的な亡命の故に、英語に通じていなかったのと、生計をたてることに忙殺されてい

(98)

たからであった。 」彼は、生活をたてるために、クリ‑ブランドで医師を開業したのである。

しかし、彼は、自らの仕事として、パリで力を注いだヽさち薄いこどもたち、のことを片時も

(98)

忘れることはできなかった。彼は「事情が許し次第、その仕事にかえる」ことを常に念じていた。

時、あたかも、アメリカにおいて白痴教育がはじまったばかりであった。しかも、それを導く 考え方はセガンのそれであり、アメリカの白痴教育を推進している人々は、パリのセガンの実践 を知る人々であった。‑ウ、メイ、リチャ‑ド、サムナ‑、ウィルバ‑等々、いちどならず、パ リのセガンを訪ね、セガンの著書に親しんだ人々が、今や、アメリカの白痴教育を荷っていた?

また、セガンがパリで育て、中断しなければならなかった白痴教育のプログラムも、今やアメリ カで引きつがれていた。マサチュセッツ州バーレでは、ウイルバーが、セガンの著書(1846年) に示された教育を自宅で続けていたし、リチャードは、ボストンの実験学校で、セガン直伝の教育 を実践していた。したがって、セガンの亡命という突発事態は別にしても、すでに、アメリカで はセガンの存在が、白痴教育に大きな意味を持ちはじめていたのである。実際に、マサチュセッ ツ州の実験学校が、 1852年、パーキンス盲学校の一隅から、南ボストンに校舎を新築、移転する 時、ハウ校長は、州議会に対し、セガンが、この学校の経営と教育の責任を取ることをひきうけ

(99)

たと報告した。

しかし、実際に、セガンが、これらのアメリカの友人達の前に姿をあらわしたのは、それから

(15)

9C)0 「白痴の使徒」ェドワード・セガンの生涯(津曲)

しばらくたってからであった。彼は、シラキュースSyracuseのニューヨ‑ク州立白痴学校のこ とを伝えきいてやって来て、同校校長のウイルバーを驚かせたのである。おそらく、 1854年のこ

(loo;

とであるo ここで、セガンはその冬をウイルバーのもとですごし、数々の忠告を与えた。この時 の印象を、ウイルバーは次のようにのべているO

「彼(セガン)は、私に、二つの印象を残した。まず、我々のところにやってくる Qt異常児、

は、ある程度までは(特徴や性質に応じて)クラス分けができ、そのクラスに応じた(集団的) 訓練が可能であるけれども、やはり、個別的な取扱いが必要であり、特別なニ‑ドに応じた特 別な訓練があるということであった。また、二番目には、これらのこども達の異常の原因は、

生理学的な欠陥か、または病気の故であり、従って、その治療法は、これらの生理学的必要に 応じた方法、いいかえれば、生理学的教育法a physiological educationによらなければなら

(101

ないということであった。 」

セガンは、シラキュースのウイルバーのもとに滞在している時に、ペンシルバニア州のポッタ ー僧正Bishop Potterや、ペンシルバニア州立白痴学校the Pennsylvania School for Idiotsの 理事会のまねきによって、一時、同校の校長をひきうけるO おそらく、 1856年の初頭のことであ る。しかし、セガンは、 「ある理由」によってこの校長はすぐにやめる。そのあと、オ‑イオ州 やコネクティカット州の白痴教育に援助を与えたりしながら、 1857年どろまで、ウイルバーのも とにとどまる。

しかし、彼は、再び、クリーブランドにかえって、医師を開業した。彼の妻が不治の病気にか かっており、そのために転地の必要があったからである。この他にも、 1857年を第一回として、

数回、欧州にかえっており、そのために白痴教育から、一時的にもせよ、遠ざかったのである0 1860年、彼は、ニュ‑ヨーク州のマウント・バーノンMount Vernon に移るO そして、 1861 年、ニューヨ‑ク市立大学から医学博士の称号をおくられたあと、 1863年、ニュ‑ヨーク市に移 り住んだ。そして、そこに、死ぬまで住み、再び白痴教育に貢献するのである。

(2)ニューヨークでの生活と白痴教育

ニューヨーク時代のセガンの業績は、 1866年、 「白痴とその生理学的方法による取扱い」 Idiocy and Its Treatment by the Physiologicalmethodをまとめたことと、白痴学校関係者たちによる 最初の団体、 「アメリカ白痴、精神薄弱施設医学関係職員協会」 the Association of Medical Officers of American Institution for Idiotic and Feeble‑minded Personsを結成し、その会長 をつとめたこと、 1880年、彼の死ぬ前に、念願の自分の学校、のちの「セガンの生理学的教育法 にもとずく精神薄弱児学校」 the Seguin Physiological School for Feeble‑mindld Childrenを つくったことであった1880年10月28日、急性赤痢のため、二度目の妻と息子、友人たちにみと

(102;

られながら永遠の旅路についたのである。

(1)日本教育学会第27回大会(昭和43年度)で、共同研究「セガン研究」 (」として、 1.セガン研究の現代的意 義(清水) 、 2.セガンの生涯及びその業績(津曲) 、 3・セガンの思想及び教育観の背景(松夫)の内容で発 表した。

(2)その主なものは、次のようである。

1.津曲裕次(1960) :精神薄碍者問題の歴史的研究に関する一考察:東京教育大学教育学部特殊教育学科 昭 和35年度卒業論文1960

2,津曲裕次(1964)・蝣精神薄弱教育史研究H、歴史観及び方法論の問題・.精神薄弱問題史研究会「精神薄再開

(16)

「白痴の使徒」ェドワード・セガンの生涯(津曲) 293

題史研究紀要」 No.1.p.7‑14 :精神薄醇問題史研究会1964

31津曲裕次(1965a) :精神薄弱教育史研究肖、 「歴史」の構成に関する考察H: 「精神薄弱問題史研究紀要」

No.2.p.4‑16.1965

4・津曲裕次(1965b) :精神薄弱教育史研究田、 「歴史構成の問題口」 : 「精神薄弱問題史研究紀要」 No.3.p.

3‑15.1965

5・津曲裕次(1968a) :精神薄弱教育史論: 「奈良教育大学紀要人文・社会科学」 Vol.16. No.1.p.223‑238.

1968

伯)津曲裕次(1968b) :精神薄弱教育史の研究:全日本特殊教育研究編盟編「精神薄弱児研究」No.117.p.52‑551 日本文化科学社1968.6.

<4)津曲裕次(1963):アメl)カ精神薄弱教育史に関する一研究‑アメリカにおける「白痴学校」の成立過程と その後の若干の問題一東京教育大学大学院教育学研究科昭和38年度修士論文、 1963.

(5)この文献は枚挙のいとまがないが、例えば、次のようなものがある.

三木安正編(1966):精神精弱児の教育:東大出版会:第4章、与.1.精神薄瑞児教育の発展.

Kirk, (1951) '. Educating the Retarded Child: : Houghton Mifflin Co : Part two. The Development of Educational Programs. 1951.

杉田裕(1955) :精薄児の教育史:東京都立教育研究所編「講座特殊教育」 p.33‑60∴明治図書、 1955.

i6)註(1)参照

<7)勿論、この研究は、私たち三人の手におえるものではないo 同学・先輩の諸兄姉の援助を期待することが 大きいので、できるだけ多くの仲間が参加して下さることをお願いする.連絡先は、奈良市高畑町、奈良教 育大学津曲裕次、または、東洋大学文学部教育学科第三研究室気付、 「精神薄弱問題史研究会」が確実であ る。

<8) Edouard Onesimus Seguin.フランス風に読めば 宜douard. O Seguinであるが、セガン自身も、ア メリカ亡命後ほ、この読み方をあまり好まずに、 〔Seg‑win〕とアメリカ風に発音していた.但し、名前 をつづる場合は、 Edoward とアメリカ流につづらずに、フランス語のように、 Edouard とつづってい m

Kraft, I (1961) : Edouard Seguin and 19th Century Moral Treatment of Idiots: "Bulletin of the History of Medicine", Vol. XXXV. Sept‑Oct. 1961. No.5. p.393‑ note. 1961.

<9) Jean Marc‑Gaspard ltard, 1775 ‑1837‑ (一説に1774‑1838) 。フランスのオレ‑ゾンに生れる。 25才 (1799?)の時、パリの国立聾唖院の医師となり、アベロンの野生児の教育を試みる。また、耳鼻科の医師 としても高名であった.

三木安正(1954):イタール、 J.M.G. :海後他編「教育学事典」 l.p.59‑60.平凡社、 1954.

Talbot. M (1964) :宜douard Seguin : A Study of an Educational Approach to the the Treatment of Mentally Defective Childlen, New York: Teachers College, Columbia University, 1964. p.ll.

<11)佐藤英一郎(1951):フランス近代教育の発展形態:p.155‑157 :海後、広岡編「近代教育史I一市民社会の 成立過程と教育」誠文堂新光社、 1951. p.113‑159.

(12)ナポレオンは、 1806年の「帝国大学設置に関する法律」 、 1808年の「大学組織に関する勅令」によって、

全国を27の大学区に分ち、各大学区にそれぞれ、高等、中等、初等学校を整然と配置、組織的な統一学校制 度たらしめようとしていた。しかし、この制度も、ナポレオンの失助と共に放棄され、その後のフランス政 界の動揺は教育範織の具体的な建設の余裕を与えず、 1830年の七月革命に至るのである。

梅根悟(1959) :西洋教育史一西洋近代学校の成立史‑p.102‑3 :教育大学講座4 「西洋教育史」 、東京:金 子書房、 1959 p.3‑117.

(13) Cole. E (1958): A History of Education‑Socrates to Montessori. : New York : Reinhart Co.

1958. p.599

参照

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