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ドイツの事物科 −その六つの基本型−

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奈良教育大学学術リポジトリNEAR

ドイツの事物科 −その六つの基本型−

著者 小野 擴男

雑誌名 教育実践研究指導センター研究紀要

巻 4

ページ 105‑112

発行年 1995‑03‑31

その他のタイトル A Study of six fundamental Forms of Sachunterricht in Germany

URL http://hdl.handle.net/10105/4403

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ドイツの事物科−その六つの基本型一

小野摸男

(教育学教室)

A Study of six fundamentalForms of Sachunterrichtin Germany

Hiroo ONO

(Department of Pedagogy)

要旨:本報告はヒラー教授(ドイツ・ロイトリンゲン教育大学)の事物科に関する本学での 講演要旨である。1)すべての事物科は「子どもという媒体」と「事物という媒体」を問題 としている。前者は選択的な視点に基づいた人為的な形成物であるが、授業コミュニケー ションの成立に不可欠なものである。後者は伝統的な言い方をすれば子どもの陶冶・訓 育を目的として現実を描き出し、メディアや諸々の授業演出材として具現化されるもの である。この二つの人為は内容的にさまざまなかたちをとり多様な結びつけが可能とな

るが、ここではそれを六っにタイプ分けし、今日の事物科の特色を描き出すとともに、

それぞれの特色、限界、および問題点を明らかにする。

KeY Words:子どもという媒体、事物という媒体 はじめに

「なぜ、なんのための事物科か。」こうした問いに例えば次のように答えることも可能ではあろ う。

事物科は子どもたちに世界について、また、子どもたちを取りまいている社会生活について適切 なイメージを与えるものである。それは自然と社会の多面的な関わり、生活様式の多様性を知ら せる。それはさまざまな領域における利害対立を目に見えるようにする。それは具体的な生活に おける関係を積極的に作りかえていけるように、また自己自身を啓発できるように刺激を与える。

事物科は子どもの好奇心を満足させ、また常に新しい経験や体験を可能にし、その地平を広げ、

いままで閉じられていた現実の新たなる次元を開示する。事物科は熟慮することを教え、新たな 問いを呼び覚ます。

事物科は従って子どもの学習意欲にも対応するものであり、また、それ自体を生み出すもので ある。学習能力を刺激するだけでなく、それらを永続させ、さらに重要なことは、未来を確かな ものとするために、個々人においてもまた社会全体にとっても望ましいとされる価値をもった知 識や能力や態度の育成をはかる・・・等々。

しかし事物科に関するこうした一見満足のいく説明もその核心を突き本質を明らかにするもの とはなりえていない。

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小野 据男

I.事物科構想の基本視点−「子どもという媒体」と「事物という媒体」−

1.教育における目的論的アプローチの誤り

社会学者でありシステム理論の研究者であるニクラス.ル」マンはその興味深い論文「教育の媒 体としての子ども」(1991)において、非常に説得的に教育の理論したがってまた授業の理論はそ んなには役だってはいないということを教育者に対して言明した。2)というのも多くの場合それら は次のような仮説から出発しているからである。教育的なコミュニケーションは、直接的に、い わば因果律的に、子どもたちを向上さすように意図的に計画され、それが実現され統制し得るも のであると考える。したがって教育理論は一方で目標を提示しそれを子細に検討するということ、

他方で学力試験や検定試験や心理学的診断方法によって期待された行動の変容の程度を測定しよ うとする。しかしそうした教育理論の不備をとくに二つの点において指摘した。

(1)「いかなる教育者も、子どもが教育されているときに、現実に体験し内面化し期待している、

その子どもの内面を知ることはできない。」現実に存在しているすべての青少年そしてまた大人た ちは「例外なく」その構造によって規定され、操作的に閉じられた、自らが活動的で個性的な意 識のシステムであり、自己自身を生み出していく創造的(autopoetisch)な統一体なのである。い かなる場合でもこのシステムは、そのシステム自体でその状態を秩序づけ、その時々の状態に基 づいて操作を行っている。ルーマンは問題の核心を次のようにいう。「・・・教育が直面している 問題はそれが意思する事を成し遂げることができないということである。それ(っまり子ども)

が行おうとすることしか行なわないという、心理的なシステムを教育は相手にしているからであ る。」

(2)「あらゆる目的論の欠陥というのは、努力の典型的な失敗に対してなんの説明もしないとい うことである。」実際、教育的な理論と実践は学習や学力や態度に問題をもっ子どもたちにうまく 対応できていない。そうした場合せいぜい、忍耐強い教師をあてたり、速度をゆるめたり、要求 の程度を弱めたり、方法を修正するぐらいである。その全体は促進授業と名づけられが、基本的

にそれは通常の授業が目指しているのと同一の態度変容をめざしている。

2.システムとしての授業

では教育に関するそうした目的論および心理学理論に代えて教育(授業)をシステム理論的に みるとそうした問題はどう解決されるか。

授業は一方では特殊な構造によって規定されているコミュニケーションのシステムである。学 校や授業の組織は、いかなる資質をもった人間が、どんな賃金で、いっどのぐらいの期間、どん な子どもたちを、どのぐらいの人数扱うかが決められている。授業ではある年齢のしたがってま たある生育史をもった一定数の子どもを扱っているということ。授業におけるコミュニケーショ ンの特殊な構造としてさらにあげることのできるものは、教科課程や教育の伝統においてまえもっ て決められている教授内容があるということ、受け継がれてきたいくつかの方法やコミュニケー ションの方式ならびに教材産業や自主制作による教授メディアの存在。こうした構造は授業にお けるコミュニケーションシステムの再生産的性格とその特殊性を示している。

他方で、こうした授業システムとは別に現実に目の前にいる子どもたちはそれ自身閉じられた

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ドイツの事物科一その六つの基本型−

器官と心性をもっシステムとして、わかりにくく、統制し難く、不透明なものとして行動する。

この二つのシステムを構造的に「つなぐもの」は、二つのシステムを支え、それらに共通に見 聞きすることを可能にする実体あるものである。授業においてその構造的なっなぎ手として授業 で発せられる言語、書きことばの形式で提示されているているテキスト、挿入された写真や音声、

遊具、教具およびその他の学習手段、また特別の演出や服装での身体表現の諸形式といったもの をあげることができる。

そうした構造的な「つなぎ手」(Koppelung)がシステムの中に存在するある種の永続的な組酷 に刺激を与える。そしてその刺激がある程度永続的に繰り返され、そのシステムに対してある典 型性をもって作用を及ぼすときに、それはシステムの中に構造的な発展を引き起こすと考えられ る。観察者はそれが調整されたものであって決して偶然のものでないことを認識することができ るのである。

3.「子どもという媒体」と「事物という媒体」

ところで授業が固有の教授システムとして立ち上がり、コミュニケーションをとおしてさらに 進展するためには、システムの内に、教育学的な努力によって特色づけることのできる「媒体」

(Medium)を必要とする。子どもについていえば、その媒体は現実の子どもたちと重なっている ものではない。というのも何度も述べてきたが、彼らは見抜き難く、統制し難く、不透明である からである。

一つの有機的システムとして、現実に存在している子どもに関して外から明確な証言をする事 は不可能である。だから教育というコミュニケーションシステムは観察やブラック・ボックスを

もちいての実験に基づいて、教育的働きかけを成立させるために、媒体として、子どもであると いうこと(Kindsein)あるいは子ども性(Kindheit)という見解を、歴史的にも規定されながらつく

り出してきた。

事物科もまた必然的に子ども性について特別の概念を構成している。そうした概念は、事物科 に固有の言語形式、それに合ったテキストや写真やその他のメディア、また授業の演出や展開、

つまり総じて授業手段(Mittel)に反映し貝体化される。構造化されたっなぎ手として、これらす べては現に存在する有機的システムに対して、典型化された「連続的な刺激」となり、そこで

「調整された構造的な発展」を引き起こすことになる。

したがって事物科を検討する第一の視点はそこで問題とされている「媒体としての子ども」

(Medium Kind)である。子ども/児童ということをどのように考えているのか。また次のような ことも論議しなくてはならないであろう。このように構成された概念は、生活を行っていく上で、

将来職業につくという点にかかわって、引き続きどんな力を発揮できるのか。また社会的な実践 を展開していくという点でどのように役にたっのかということである。

さらに授業というコミュニケーションシステムは子どもという媒体だけではなく必然的にもう 一つの人為的なものとともに機能する。つまりそこで取り上げられる内容である。事物科に即し ていえばそこでの「事物」は、まさに一つの構成概念である。それは、教育が社会やそのサブシ ステムに目を向けることにおいて生み出されるものである。クラウス・モーレンハウアーもまた、

その特徴的な書名の著『忘れられた関係』(1983)の中で次のようなことに注目した。3)学校の授業 において現実を浮き彫りにするということは特別な問題を提起するというのである。彼は次のよ

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小野 摸男

うにいう。

「われわれが子どもに世界を示そうとするとき、われわれは彼らに世界を示すのではなくわれ われがそうだと思っていること、われわれが世界だと思っていることを手がかりに、子どもたち に示すに値すると考えられるものを提示する。今日教育学的に浮き彫りにしている基本形式は、

子どもたちにこれは世界ではない、ということを語っているということになろう。単なるコピー であり、写し出されたものにすぎない。そして再び当然、コメニウスにおける以上に強調されて 次の問いが生ずる。なにを写し出すのか、意味を捉えさすには、どのように写し出すのか。どの ようにすれば学習の動機づけをしながらそのことを実現させ得るか。」

だから事物科の第二の検討視点はそこで取り扱われている「事物という媒体」(Medium Sach)

である。事物科というのは必然的に現実/世界の特別な構成を問題とする。事物科はそれを言語 形式、教材、演出の様式の助けをもって形づくる。社会および文化はそのサブシステムの固有の 規定にもとづき、また文化全体としてさらに展開するのであるが、そうしたこととは独立に「事 物という媒体」はそのシステム固有なかたちで機能する。したがってさまざまな事物科の構想を 次のような観点から検討する必要がある。それはどのように現実を描き出すのか。そうした構成 が適切なものであるか、どんな効果をもたらすのか、また学習においてタブー視しているものは 何であるのか。

Ⅱ.今日の事物科−その六つの基本型

「子ども」と「事物」をどう捉えているかという視点から事物科を分析してみると、きわめて 雑多に論じられているように見える事物科の構想も以下の六つに分類され、その長所と問題点を 明らかにすることができる。

1.定式化された「発達促進」としての事物科

この「発達促進」(formalisierte Entwicklungsf6rderung)というコンセプトは次のような状況 に応えようとするものである。子どもたちは今日、20−30年前の子どもに比べてますます扱 い難くなっている。落ち着きがなくなり、共通点が兄いだし難く、無反省で、よりいっそうの援 助を必要としている。大童消費とマス・メディアの浸透は子どもの自立と集中力を損ねることに なった。家族のあり様の変化は社会的な基礎経験を失わせ、喧嘆とあわただしさは子どもたちの 人格形成に明らかな痕跡を残している。

こうした状況において人間としての基本的能力をさまざまな活動をとおして刺激し発達さすこ とが課題となる。たとえば身体で感じ表現できるようにリズムのある身体訓練が施され、化粧や マッサージ技術が教えられる。落ち着きの訓練として黙想や自己訓練の形式が教授され、感覚を 育てる教材がっくられ、社会的学習のためにパートナー遊び、グループ遊び、役割遊びが授業の メニューに加えられる。そこでの「事物」は社会が失いっつあるものの補償という視点から選ば れる。そのために独自につくり出されるものも稀ではなく、それは外からの観察者にはときとし て神秘的な行為としてあるいは独特の儀式として映ることがある。

そうした事物科の問題点はその人為性と、ごく僅かしか学校外の生活現実に結びついていない ことである。人為的に順序づけられてトレーニングをおこなうという授業が、補償としてどんな

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ドイツの事物科−その六つの基本型−

ことを成し遂げることができるかをほとんど知りはしない。いったい「楽しむ能力」の開発とい うことは妥当でありまた可能なものであろうか。人間の身体的、知的、精神的な諸力を要素的に 分解して教授できるのであろうか。ダンスや格闘技やアクロバットは常に鋭気を養い得るものと

なるかどうか、チェスや音楽演奏や絵を描くということがいっも安らぎをもたらすものなのか。

置かれている状況によってそれらは異なる意味をもつ。機械的に活動を設定するのではなく、重 要なことは学校が絶えず子どもたちに新たに自己啓発と生気を生み出し、その可能性を喚起して

やるということである。

2.「生活の楽しさ」を与える事物科

子どもたちはいま現代社会のさまざまな矛盾に直接対面している。親の失業や多忙化、貧困や 社会的境界領域での生活、進行する孤立化と環境条件の悪化に大人も子どもも悩んでいる。多く

の者が不健康な食生活を送り、少なからぬ者が運動不足に悩んでいる。大人達の不安はほとんど 直接的に子どもに伝わる。

こうした現実を前にして事物科の課題を次のように考える。子どもたちの生きている世界を美 しいもの、魅惑的なものとして播きだすこと。それは積極的に形づくっていくことができ、生き るに値するものであるということ。改革教育学や戦後の郷土科というコンセプトと結びっいて教 室が刺激に満ちた学習環境へとっくり変えられる。身近に楽しく時を過ごす方法を考え、それを

わかりやすく写真やテキストで発表する。学校園をっくり、森や野原で授業をおこなって自然の 美しさに出会わす。実際にやられているように陶器を焼き、紙を漉き、絹絵を練習し、パンを焼

き、祭を祝うことになる。(Sachunterricht als Kinderheimat und Quelle der Daseinsfreude)

こうした事物科の問題点は意識的に選択しているその楽天主義にある。日常生活によってすで に子どもたちが身につけている能力や興味関心、予備知識や半知、それなりの熟慮はそこでは過 小評価される。子どもたちの問いや問題関心や葛藤は無視される。こうした授業での「事物」は、

子どもに即するということを誤解することで、偽りとまではいわないまでも清められた見せかけ の世界である。社会的テーマに関してそのような授業は遺徳主義を強調し、自然や環境について のテーマでは反科学を煽り、熱狂と素朴さを助長する。

にもかかわらず事物科に対する要求には正当なものがある。つまりそれが子どもたちをただあ きらめへと追いやり無力感しか与えない授業を強く批判するという点である。われわれがさらに 考えなくてはならないことは、どのように子どもたちが矛盾と共生することができるかというこ と。不明瞭な状況に耐え困難な生活状況の中でも、どのように子どもたちが信頼と生きる勇気を 得ることができるかを構想するということである。

3.日常生活に関する知識教授としての事物科

ここでは子どもが一方では好奇心旺盛に知識を求めるものとして、他方で半知や迷信や無知に 駆り立てられる存在として捉えられる。そこで事物科では次のようなテーマで知識教授(Wissens−

vermittlung)がなされる。住まい、市場、自転車、自然界の動物、自治体と市民、新聞、病院、

給水、天候など。それぞれのテーマに対して、テキスト、写真、図表、計算問題、調査課題、実 験といった教材群が準備され、「客観的に確定される知識」として子どもの生活環境や年齢また科

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小野 摸男

学の状況に対応してそれが選択・配列される。

ここでの問題点は、現実の−コマを習得可能な知識に変えてはいるが、多くの場合そうした知 識は明白な関心と特別な方法によってつくり出されているものであることを明確にせず、結局の ところ知識は現状肯定的にしか活用されないということである。学校の知識というものはある視 角から見たものであるということを否定し、いわば百科全書的な中立性を装い批判的な見方はと らない。動機づけの問題は家庭にまかされることになる。他方ではそうした学校の知識は絶えず 古びていく。そのような事物科は知識を伝えている学校外のメディアとの競争に決して勝っこと はできず、予想以上に子どもにとって退屈なものとなっている。

もちろんこのような事物科も子どもが興味を感じている情報や知識を与えることで、もっとそ の日的を果たすことができる。情報の価値を問い、その質を問題とする技術を子どもたちに伝え なくてはならない。

4.科学への方向づけとしての事物科

ここでは「小学生」(Grundshtller)という概念が問題とされる。彼らはなによりも自然科学や 社会科学に規定された中等教育の教科学習に備えなくてはならない(wissenschaftsorientirte Grundbildung)存在である。そこで問題となることは、例えば測定、比較、観察、仮説検証、デー

タ処理技術、さらには理論形成といったものに至るまでの方法を教えるということ。あるいはま た、素材とその属性、全体と部分、相互作用と作用し合うものといった科学的思考の基本概念の 習熟が問題となる。

たしかに、科学の思考や方法を子どもに教えるということは授業の中心機能であり続ける。科 学によって現実をつくり変え維持していくということは現代社会において本質的な意味をもって いるからである。ただこの立場の問題点は「生活を忘れてしまっている」ところにある。科学が 生活を忘れて自己目的化されているのであり、授業単元のアカデッミクなテーマ設定によって科 学的概念を順序立ててわからせていこうとする。そうした授業は科学と日常の関係を問うこと、

従ってまた子どもにとっての科学の意味を問うことを忘れる。

5.生活力の拡大としての事物科

この「生活力の拡大」(Erweiterung der Alltagskompetenz)というコンセプトは次のような現 実に結びついている。日常生活に必要な力と学校で形成される能力との垂離である。たとえば次 のような指摘がなされている。「なにもそうした率離は外国語の学習についていえるだけではない。

たとえば演算方法についてもあてはまる。つまり子どもたちが必要に迫られたとき、学校では見 られなかった能力を発揮する。子ども達は遊びで、路上で、仕事において、学校で習った算数で はとてもできないような計算操作を行うことができるのである。」

「知識や技能は実際的な必要性という分脈から切り離すことができない」という要求に対して、

実際的な学習やプロジェクトを授業に位置づけることでそのことに応えようとする。学習能力と いうのは知識や技能の成立、利用、応用の形式を含み込み、実践のなかでネットワーク化されて 育てられなくてはならない。

実践的な行為においては、言語的なものや形式論理的構造が主要に考えられるわけではない。

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ドイツの事物科−その六つの基本型

実践は複合的な連続した行為である。教育における実践的活動もまた時間表、作業計画、専門的 記号、流れ図といった複合的な授業計画に基づくものとなる。そうした学習行為の流れは行動の

コメントや図解によって記述され、一連の写真やビデオによって記録される。

ここでの問題関心は伝統的な授業が生活実践とかけ離れているという点である。実践力を育て るような授業を構想実施しそれを観察分析して再構成するという能力は、その発想においてまた 技術としてあるいはメディアを用いるという点でも、ほとんど教育関係者に教育されてきていな

い。だから生産活動や芸術活動や社会活動においては定着している計画ということが、学校に固 有な「能力の転移」という代替物で曖味なものとされていることが少なくない。専門家というの は計画、準備、遂行、評価において自らが責任をもち、教授過程をメディア的にも設計できなく てはならないのである。これまでの教師たちも知識教授と実践とを結びっけることのできる能力 をさらに豊かにすることが要請されている。

6.挑戦と啓蒙としての事物科

このコンセプトは次のような子ども像と結びつく。日常と合理的な距離を保ちっっ、子どもは 日常の行為の意味、有効性、真実性を批判的に論議できるようにならなくてはならない。無自覚 な日常的行為から子どもたちを解放し、見慣れぬ世界に目を閃かす(Provokation und Aufklarung)

ために、この授業は「事物」を意識的に子どもたちが興味をもっ表現をもちいて構成する。興味 を引きつけるテキストと写真の組み合わせ、コラージュやモンタージュや漫画やモデルといった ものによって。それらは決して現実そのものあるいはその単なる模写ではない。

逆にいえばそうした事物が明らかにすることは、現実というのは一義的に存在しているのでは なく、それはまったくさまざまな視点のもとに存在しているということ。現実は関心や期待や偏 見や情動的なものに規定されているのである。

この事物科はまったく日常的な誰もが理解できる活動領域からテーマを選ぶが、そうした日常 場面を多面的視点から浮き彫りにしていく。子どもたちの何気ない日常の中で、矛盾や利害が対

立しあい、科学技術が浸透し、工業化社会の進展と歴史的伝統とが相克し混在していることに気 づかせていくのである。だから多視点的な事物科はテーマとして子供部屋、遊具、娯楽用貝、さ まざまな交通手段、スーパーマーケット、住居、スポーツスタジオ、そして学校そのものを取り 上げた。さらにそれらを遊びの構造を理論的枠組みとして、そうした諸現実を政治・経済・法と いった規則によって定められた事実構造として、あるいは日常的な劇場として、また生活史の総 体として、多視点的に子どもに示したのである。

こうした事物科の限界は、それが「日常現実の解読と批判的な解釈」に自らを限定したという ことである。日常性の解読はテキストの部分や断片を束ねることにおいて、つまり日常のあり方、

意味、関連は実践的にそれを構成する過程をも含むことによって見えてくるのであるから、多視 点的な事物科は上述してきた概念によってなお補完される必要がある。4)

事物科は論述してきた六っのタイプのどれか一つを絶対化するのではなく、子どもの状況やテー マの特質を念頭におき、その適切な選択と組み合わせあるいは相互補完が重要であるというのが ヒラー教授の主張である。生活科の構想だけではなく、この六っは授業の原則を考える視点とし て示唆深いものがある。

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小野 横男

1)この講演は奈良教育大学の教科教育の研究会(1993.9.27)において「ドイツの事物科一子どもを 変え現実を変革する授業の創造」という演題のもとにおこなわれた。原題は以下のとおり。

Hiller,G.G.:Sachunterricht−Uber die unterrichtliche Konstruktion von Kind und Wirklichkeit(Mskr.)1993。なお同論文は原題でドイツの教育誌Grundschule26(1994),Heft6,

.S.27−31において公刊され、奈良教育大学での講演であることを記している。

2)Luhmann,N.:Das Kind als Medium der Erziehung.In:Zeitschrift fiir Padagogik37(1991)

S.19−40

3)Mollenhauer,K.:Vergessene Zusammenhang.UberKultur und Erziehung.Miinchen1983

(今井康雄訳『忘れられた関連』1987みすず書房)

4)この六番目の立場はヒラー教授らが開発した「多視点的事物科」の立場であり、拙論「ドイツ

の事物科の現状と課題」『奈良教育大学教育研究所紀要29号』1993において論述した。

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